いつもは真っ暗で人通りが少なくなった帰り道を、今日は日が沈む前のまだ明るい時間帯に私は歩いていた。
 この道がこんなに賑わっているなんて知らなかった。
 なんだか不思議な気分だ。

 久しぶりにこんな時間に帰った気がする。
 
 山積みの仕事が珍しく業務内に終わったから……ではない。
 「ほぼやけくそで帰った」というのが正しいのかもしれない。


 
 社会人三年目。

 仕事にもある程度慣れ後輩もできた。

 運良く自分が希望していた会社に入社できて喜んでいたのも束の間、希望していた地元の店舗ではなく私は東京の店舗に配属された。

 新しく行く場所はどんなところなんだろう?

 どんな人がいるんだろう?

 同期はたくさんいるかな?

 先輩達と仲良くやっていけるだろうか?

 不安もあったが、それ以上に新しい場所での新生活に期待で胸がいっぱいだった。

 
 ……しかし実際のところは、思い描いていた生活とはかけ離れており、気がつけば心身共に疲弊していた。

 仕事を頑張ろうと意見を出せば新人のくせに生意気だと言われ、大人しくしていれば今度はやる気がないのかと怒られる理不尽な毎日。

 「じゃあどうすればいいんだ」といろいろ考えていた時もあったが、もう考えるのもやめた。

 考えるだけで疲れてしまう……。

 そうこうしているうちに、上司の顔色を伺いながら上手くやるスキルだけが身に付いていった。
 その甲斐あって怒られる頻度はかなり減った。同時にこのままでいいのかと不安に思うようにもなった。

 本当は上司の顔色なんて伺わずにやりたいように仕事をやりたい。
 せっかく希望していた会社に入れたのに、やりたいことが分からなくなった。
 
 気がつけば希望に満ちていた瞳は光を失い、曇る様になっていた。

 
 私って何がしたかったんだっけ?


 そんな思いが私を焦らせ、ミスを誘う。
 普段ならしないような初歩的なミスだった。


 
 他の人に指摘されて初めて自分が起こしたミスに気が付いた。
 早めに気がついたことで幸いにも大きなミスにはならなかった。しかし、自分の確認不足が原因だったため私はかなり落ち込んだ。

 同期が励ましてくれたおかげで何とか持ち堪えていたが、上司からのメールで私の心は折れた。

 そのメールには今後同じミスをしないようにという注意喚起と、私を責めるような内容が書かれていた。
 私個人に直接言えばいい内容を上司は社内メールで全体に発信し、みんなの前に私を吊し上げたのだ。
 
 きっと他の同期が同じミスをしてもこんな風に書くことはないだろう。
 私にだからこんな風に書くのだろう。
 私になら何を言ってもいいと思っているのだろう。

 上司の顔色を伺いながら仕事をしていたツケがまわってきた気がした。

 同期や先輩は「さすがにあれはないわ」と言っていた。
 同期に関しては私よりもメールに怒っていた。

 ありがたいことに私は良い同期と先輩に恵まれていた。

 メールの内容と同期からの励ましの言葉で涙が溢れそうになるのをグッとこらえ、午前中の仕事に励んだ。
 昼休みになりトイレの個室に駆け込むと、誰にも見られないことでこらえていた感情が溢れた。
 両目からゆっくりと涙が流れてくる。
 
 目が腫れていないことを確認して何事もなかったかのように仕事に戻り、本当は顔も見たく無いあのメールを送った上司と仕事の話をする。

 送った本人はあのメールで私がどれだけ嫌な思いをして傷ついたことなんて知りもせず、いつものように話している。

 よく「言った側は覚えていなくても言われた側は覚えている」と聞くが本当の様だ。


 自分を押し殺して、上司の顔色を伺って、やりたい様にできなくて、挙げ句の果てにみんなの前で吊し上げられて……。


 今まで我慢していた不満が今日の出来事で限界に達し、私は逃げるように会社を出たのだ。



 最寄駅につき、あとは二十分も歩けばアパートに帰れる。

 今日はもう早く帰って寝たい。
 自炊もめんどくさい。
 でもお腹空いたなぁ……コンビニでいいや。

 電車に乗っていた時に降っていた雨は上がり、ところどころコンクリートに水たまりができていた。私は水たまりを避けながらコンビニに向かった。


 正面から車が走ってきて道の端に避ける。
 そんな私の横を車は水飛沫を飛ばしながら走っていった。

「うわっ! 最悪……」

 車を避けるために端に寄っていたが、車が飛ばした水飛沫で私の左半身は濡れてしまった。
 
 今日はとことんついていない…。

 もう一台正面から車が来たため、今度こそ濡れない様に電柱の後ろに避ける。


 車が通ったことを確認して電柱の横を通ると、先程まで聞こえていた車の音や人声が聞こえなくなった。

 街中にいるとは思えないくらい静かだ。

 不思議に思い顔を上げると、見えるはずの信号機や住宅街は見当たらず、さっきまでコンクリートだった地面は土になっていた。

「ここどこ……? てか、夜?」

 さっきまで夕陽で赤く染まっていた空は真っ暗になっており、夜空には満月が昇っている。

 私は見知らぬ場所に立っていた。

 後ろを振り向いても当然電柱は見当たらず、先の見えない暗い道が続いているだけだった。

 

 正面には月明かりに照らされた、白い壁に青い屋根の小さな家とその隣に白い看板が建っている。
 看板に何か書いてあり、私は近づいた。


「ツキアカリレストラン〜特別なお客様に特別な料理を〜」


 看板に書いてある文字を読むと、まるで私を呼んでいるかのように家の扉が開いた。
 どうやらここは家ではなくレストランのようだ。怪しさ満点だったが、惹かれる様に私は店の中に入った。


 店内は狭く、カウンター席が四つに二人掛けのテーブル席が二つしか無い。オレンジ色の照明が温かさを感じさせ雰囲気がいい。

 店内を見渡していると店主と思われる若い男性が現れた。

「いらっしゃいませ。お席にどうぞ」

 カウンター席に案内される。

 私と同年代か少し年上の容姿の店主は、金髪に青い瞳をしており神秘的に見えた。
 
 いい意味で人間らしくない。現実味がなかった。

 神話に出てくる天使が実在するならきっとこんな感じなのだろう。


 ぐうとお腹の音が鳴り、自分が腹ペコだということを思い出した。何か注文しようと思ったがメニューが見当たらない。


「メニューってありますか?」
「メニューはございません。ここは特別なお客様に特別な料理を提供しています」
「特別なお客様に特別な料理?」

「はい」と答えて店主は微笑んだ。

「雪さんが食べたい特別な料理を提供します」
「どうして私の名前を?」

 店に入ってからまだ数分しか経っておらず、当然自分のことなんて一言も話していない。しかし、この店主は私の名前を知っていた。

「僕は神の使いなんです。だからいろんなことを知っています。神の使いの神野ツカイです。ツカイさんって呼んでください」

 笑顔で自己紹介されてしまった。本名なのかもしれないが、私の表情は渋くなる。変な店に入ってしまったと今更後悔した。

 自分で神の使いとか言ってる時点で怪しすぎでしょ……。

 何も反応しないのも失礼だと思い、とりあえず愛想笑いをしてみる。

 それよりもメニューがないということはどういうことだろう?
 なんでも作れるということなのだろうか?

 それならばと適当に食べたいものを注文していく。

「オムライスをお願いします」
「お出しできません」

 ツカイさんは微笑んだまま私の注文を断った。
 
 材料がきれてしまったのだろうか?

「じゃあ、ハンバーグをお願いします」
「お出しできません」

 また断られてしまった。

「じゃあ、スパゲッティ」
「お出しできません」

「洋食じゃなくて和食のお店なんですか?それじゃあ肉じゃがとかは?」
「お出しできません」

「カレー!」
「お出しできません」


 一通り思いつくまま洋食、和食、中華料理の名前を言ってみたが、全て「お出しできません」と断られてしまった。

 一体なんなのこの店……。

「何なら出せるんですか?」

 何を注文しても断られてしまうため考えるのも疲れてしまった。

「雪さんにとって特別な料理です」
「私にとって特別な料理?」
「はい」

 ツカイさんの言い方が引っかかる。


 私にとって特別な料理とは……?


「それってどういうーーーー」


 シャランシャランと不思議な鈴の音が店内に響く。

 音のする方を見ると紺色のスーツを着た中年の男性が立っていた。

「いらっしゃいませ。こちらの席にどうぞ」

 私の時と同じようにツカイさんは男性をテーブル席に案内する。

「気がついたらこの店の前に立っていて……。一体何なんだ?」

 どうやらこの男性も私と同じように気がついたら店の前に立っていたらしく、不思議そうな顔をしている。

「ここはツキアカリレストランです。特別なお客様に特別な料理を提供しております。日下部さんにとっての特別な料理をお待ちしますね」
「どうして私の名前を?」
「神の使いですから。神の使いの神野ツカイです」

 ツカイさんは私の時と同じように自己紹介して、日下部さんは私と同じように渋い顔をした。
 ツカイさんが奥の部屋に行き席を外すと、日下部さんは「この店もしかして危ない店?」と私に目で訴えてきたが、私は苦笑いするしかなかった。

 少ししてからツカイさんはお盆に底が深い和食器を乗せて日下部さんの前に立った。

「どうぞ」と言いながらテーブルの上に和食器を置いた。肉じゃがが盛られている。

 ……ん?肉じゃが?

「肉じゃがあるじゃん!」

 さっきないって言ったのにどういうこと?

 私の声に驚いて日下部さんが私の方を見る。

「これはただの肉じゃがありません。日下部さんにとって特別な肉じゃがです」

 どうぞ召し上がってくださいというように、ツカイさんは肉じゃがに手を差し出す。
 そんなツカイさんを見ながら、「変なの入ってないよな?」と少し不安そうな顔をして日下部さんは肉じゃがを一口食べた。一口食べて日下部さんの動きが一瞬止まったがすぐまた動き出し、肉じゃがをかきこんだ。

 目を細めて幸せそうに微笑み、懐かしそうに肉じゃがを味わっている。

「どうしてあんたがこの肉じゃがを作れるんだ? 花ちゃんのお孫さんなのか?」
「いいえ。僕は花さんのお孫さんではなく神の使いの神野ツカイです」

 日下部さんは店内に響き渡るほど大きな声で豪快に笑った。今度はその大きな笑い声に私が驚く。

「またこの肉じゃが食べれると思わなかったよ。花ちゃんの店にはよく食べに行ってたのに、しばらく食べに行けなかったらいつの間にか花ちゃんは亡くなってたから……。まぁ、年も年だったし仕方なかったのかな」

 日下部さんは一口も残さず綺麗に肉じゃがを食べ終えた。その表情は満足そうだった。

「まさかまた食べられると思わなかったよ。ご馳走様。お代は?」
「お代はお気持ちで結構です」

「そんなの悪いよ」と日下部さんは財布からお札を出そうとしたが、首を横に振りツカイさんは受け取らなかった。
 何度かそんなやり取りをしていると日下部さんの方が折れてお礼を言って店から出て行った。


「肉じゃがあるじゃないですか!」
「これは日下部さんの特別な料理ですから。雪さんにはお出しできませんよ」

 さっきから「特別な料理」とばかり言っているが私には意味が分からない。

 お腹が空いているからもう何でもいい。早く料理を出してほしい。

 ツカイさんに声をかけようとすると、再びシャランシャランと不思議な鈴の音が店内に響いた。


 入口を見ると今度はセーラー服を着た女子高生が不安そうに立っていた。

「気がついたらこの店の前に立っていて……」

 日下部さんの時と同じように女子高生が言った。ツカイさんが声をかけて席に案内すると、女子高生は驚いた顔をしてからすぐに泣きそうな顔をした。

「私の声が聞こえるんですか……? 私のことが見えるんですか…?」
「はい、聞こえるし見えますよ。ここは特別なお客様に特別な料理を提供するレストランですから」

 女子高生が案内された席に座ると、ツカイさんは女子高生の目の前にカレーを置いた。
 そのカレーは野菜の大きさがバラバラで不格好であり、お世辞にも店で出すようなカレーには見えなかった。どちらかと言うと家庭で出るような、しかも普段は料理をしない人が作ったような見た目だった。それでも空腹な私の食欲はそそられる。私とは反対に女子高生はスプーンを手に取るが中々食べようとしない。
 何となく迷っているように見えた。

「大丈夫。このカレーはゆりさんでも召し上がれます。ゆりさんにとって特別なカレーです」

 ツカイさんの言葉に背中を押されたかのようにゆりさんはカレーを一口食べた。
 カレーが辛かったのか両目には薄っすらと涙を浮かべている。

「……お父さんのカレーだ」

 薄っすらと浮かんでいた涙は大粒の涙に変わった。
 大粒の涙を流しながらゆりさんは止まることなくカレーを食べ、あっという間に皿は空っぽになった。

「ご馳走様でした。あの、私お金持ってなくて……」

 ゆりさんが申し訳なさそうにツカイさんに言う。
 ツカイさんは日下部さんの時と同じように「お代はお気持ちで結構です」と答えた。

「それじゃあお言葉に甘えて」
「久しぶりのお食事はどうでした?」
「とっても美味しくて、懐かしくて幸せでした。私、死んでから誰にも声が届かないし、誰も私のことが見えなくてひとりぼっちで辛くて……。食べたくても食べれなくて……。でもお父さんのカレーが食べれて嬉しかった」

 ゆりさんは「ありがとう」と言って、ツカイさんに手を振って店を出て行った。


 日下部さんとゆりさんを見て、私はツカイさんが言う「特別な料理」の意味が分かった。
 
 ツカイさんの言う「特別な料理」とは「二度と食べることができない料理」のことだ。

 日下部さんの場合は、「料理を作る人が亡くなっている」から二度と食べることはできない。
 ゆりさんの場合は、「自分が死んでいる」から二度と食べることができない。

 そこで私は疑問に思う。

 それならば私はなぜこの店にいるのか?

「私は行きつけのお店もなければ両親もまだ生きているし、死んでもない。私にとっての特別な料理って何ですか?」

 ツカイさんは時計をチラリと見ながら「そろそろいらっしゃる頃ですね」と言った。
 そして、私の隣の椅子の横に小さな階段になるように台を積んでから、「どうぞ」と言って私の目の前に茹でた鶏のササミを置いた。一口食べてみるが塩茹ですらされておらず、当然味付けもしていない。

 ただ「茹でただけのササミ」だった。

「これのどこが特別な料理なんですか?」

「特別の定義とは人それぞれ違いますよ」

 どういうことですか? そう聞こうとすると、また誰か来たようでシャランシャランと鈴の音が聞こえた。

 入口の方を見るが誰もいない。

 不思議に思っていると、先程ツカイさんが作った小さな階段を何かが上っている。階段を上りきり、私の隣の席に座ったことで誰が来店したのか分かった。

 真っ白の毛にピンと立った三角形の耳、筋の通った鼻、真っ黒でボタンのようなまん丸な目。
 私がよく知っている顔だった。

 どれだけ願っても二度と会えないーーーー私が会いたい相手だった。
 
「リン……!?」

「久しぶり、雪ちゃん! 元気にしてた?」

 サモエドスマイルでリンが私に笑いかける。
 
 リンは私が実家で飼っていた日本スピッツの女の子だ。平均よりも小柄で吠えることもほとんどなく、他の犬に吠えられることもなかった。愛らしい見た目と人懐っこい穏やかな性格で、人にも犬にも好かれる不思議な魅力を持つ犬だった。

 犬を飼うことに反対だった両親を頑張って説得して家族に迎えた私の大切な家族だった。
 いつも私に元気をくれ、辛い時には近くに寄り添ってくれた。

 私はリンとずっと一緒にいたいと思っていた。
 一緒にいられると思っていた……。

 しかし、それは難しくなった。
 就職を期に私は東京に行くことになり、一緒には過ごせなくなったのだ。それでもお盆と正月には帰るようにしていた。


 リンに会うために仕事を頑張ろうと思っていた社会人二年目の七月ーーーー。

 丁度少し大きな仕事を任されて私には余裕がなかった時だった。
 お母さんから嫌な連絡がきた。

【リンちゃんの調子が悪いの】

 今までリンが体調を崩すことは何度かあり、大体は数日から長くても一週間位で治ることがほとんどだった。だから私はそこまで気にしていなかったし、そもそもこの忙しい時に連絡しないでくれと若干の苛立ちもあった。適当に返事を送って、急に暑くなったから温度差で体調を崩したのだろうなどと、呑気なことを考えていた。

 その時の自分を殴りたいーーーー。

 私がそんな呑気なことを考えている時にリンは病気と闘って苦しい思いをしていたのだ。

 数日後、またお母さんから連絡がきた。
 その内容を見て私は状況の悪さを初めて知る。

【調子が戻らないから病院で検査してもらったの。そしたら、血液検査の結果が悪すぎるって……もう手の施しようがないって……】

 数日前まで元気に散歩をしていたリンは、知らないうちに病気と闘っていた。リン自身も自分の体が病気と闘っているなんて分かっておらず、ただ何となく調子が悪いと思っていただけなのだろう。

 気がついた時にはもう手遅れだった。

 一刻も早くリンに会いたいーーーー。
 会えなくなる前に会いたいーーーー。

 ずっとそんなことを考えていた。
 当然仕事に集中できずミスを連発した。上司に怒られチームにも迷惑をかけていた。

 あと三日でこの仕事は落ち着く。
 そしたらすぐ新幹線に飛び乗って帰ればその日のうちに家に帰れる。

 あと三日だ。きっと大丈夫。

 自分をそう言い聞かせ、あと二日、一日と心の中でカウントダウンしていた。
 
 プレゼン当日の朝。

 このプレゼンが終われば家に帰れる。

 絶対にミスしないように念入りに資料に目を通す。
 これ以上、上司とチームに迷惑をかけるわけにはいかない。その甲斐あってかプレゼンは無事に終わり、上司も上機嫌だった。打ち上げと言う名の飲み会を提案してくれたが、私は断って新幹線に飛び乗った。お母さんに新幹線に乗ったことを連絡したが、いつもはすぐ返ってくる返事が今日は中々返ってこない。

 実家の最寄駅に到着し、タクシーで実家に向かう。

 やっと家に着いた。

 急いで家に入ると、いつも私のことを玄関まで出迎えてくれたリンは布団の上に寝ており、その横で両親が泣いていた。
 泣いているところなんて見たことないお父さんも泣いていた。

 この時私は理解した。

 リンは死んでしまったのだと。

 私は間に合わなかった。最期にリンと会えずちゃんとお別れできなかった……。

 悲しいはずなのに涙が出なかった。
 たぶん、信じたくなかったんだと思う。
 
 一日だけリンと過ごし、私は仕事があるため再び東京に戻る。
 
 次に実家に帰ったのはお盆だった。

 もしかしたらあれは夢で、玄関を開けたらリンが出迎えてくれるんじゃないかなんて期待していたが、当然出迎えてくれることはなかった。

 リンの写真の横に小さな白い箱があり、リンは今、この箱の中にいる。

 その箱を大切に両手の上に乗せる。
 両手で抱かないと抱っこできなかったリンは、こんなに小さく軽くなって両手の上に乗るようになってしまった。小さな白い箱を抱きしめると涙が溢れた。

 私が大好きだったリンはもうこの世にはいないーーーー。
 どれだけ会いたいと願ってももう二度と会うことができないーーーー。

 仕事を投げ出して会いに行けばよかったんだ。
 私は選択を失敗したんだ。

 ずっと後悔していた。

 どうしてあの日、私はリンに会いに行かなかったのだろうとーーーー。


 でも今はリンが目の前にいる。
 一滴の涙がゆっくりと流れたかと思うと、今度は大粒の涙が両目から溢れ出す。

「雪ちゃん泣かないで。いつもみたいにササミちぎって一緒に食べよう」

 器用に前足で私の涙を拭きながらリンが言った。

「茹でただけのササミでも、特別な相手と食べれば二人の思い出が詰まった特別な料理になるんですよ」

 確かに私はよくリンと一緒に茹でたササミを食べていた。一緒に同じものが食べたいと思い、色々考えた結果二人で食べられるのがササミだった。

 なるほど。確かに私にとって特別な料理だ。

「最期に会えなくてごめ……」

 最後まで言い切る前に口が柔らかいもので押し付けられた。
 どこか懐かしい香ばしい香りがする……。
 忘れられないこの匂い。口に押し付けらたのはリンの肉球だった。

「せっかく再会したんだからしおらしい話はやだ」

 リンが口を尖らせたように見えた。拗ねてる時の表情だ。思い出して私の口角が少し上がる。

「今はもう苦しくない?」
「苦しくないよ。それに今はね……あそこは天国でいいのかな? 先に旅立ったダイちゃん達と一緒に毎日楽しく暮らしてるよ」

 病気の苦しみからは解放され、仲が良かった友達の犬と楽しく暮らしていると聞きホッとした。
 
 そこから私たちは思い出話やたわいもない話を楽しんだ。
 久しぶりに触ったリンの体は相変わらずふわふわで、鼻は湿っており肉球からは癖になる香ばしい匂いがした。

 この時間がずっと続けばいいのにーーーー。

 そう願っていると、シャランシャランと鈴の音が鳴った。

 
 入り口には黒い長い髪の赤いワンピースを着た女の子が立っていた。
 瞳が紅色でどことなくツカイさんと雰囲気が似ている。

「しるべさんいらっしゃい。何か召し上がって行きますか?」

 しるべさんと呼ばれた女の子は大きく舌打ちをして、リンの横に座った。

「あたしが来た理由分かってんだろ? 余計なこと言うな」

 しるべさんは見た目とは裏腹に中々口が悪いようだ。思わず私は苦笑いする。

「……もうそろそろタイムリミットですかね」

 ツカイさんが時計を見る。

 時刻は二十三時五十分。

 一体私はどのぐらいこの店にいたのだろう?
 気がつけば日付を跨ぎそうだ。

「リン、そろそろ時間だ」

 しるべさんがリンに向かって言うと、リンは黙って頷いた。

「えーっと……雪か。別れの挨拶するなら早く済ませろ。リンが帰れなくなる」

「帰れなくなる?」

「そう。この世の者とあの世の者は同じ世界では過ごせない。日付が変わるまでに帰らないと、リンはあの世に帰れずこの世を一人で彷徨い続けることになる」

 しるべさんがリンを撫でながら言った。リンは気持ちよさそうな顔をしている。

「またこのお店に来れば会える?」

「……残念ながらこの店は一度しか来店できないんです」

「つまり、もう二度とリンと会えなくなるってこと?」

「はい」とツカイさんは頷いた。

 どうやら私はリンと二回目のお別れをしなければならないらしいーーーー。

「……嫌だ。行かないで」

 リンをギューっと抱きしめる。
 止まった涙がまた溢れてくる。

 さよならしたくない。

「……雪ちゃんごめんね。でも私、戻らなきゃなんだ。短い時間だったけど会えてよかった」

 リンは納得しているようで私を諭すように優しく言った。

 あぁ、本当にお別れなんだ……。

 ずっと一緒にいたいけど、リンがこの世を一人で彷徨い続けるのは嫌だ。涙を拭って私はお別れすることを決心した。

 今度はちゃんとお別れしよう。
 ちゃんと送り出そう。

「……最期に会いに行けなくてごめんね」

「うん」

「苦しい時に一緒にいなくてごめんね」

「うん」

「家を出てごめんね」

「うん」

「言うこと聞かないからってきつく言っちゃってごめんね。リンにだって理由があったんだよね」

「大丈夫。怒ってないよ。心配しないで」


 リンは私の言葉に黙って頷いてくれた。

「雪ちゃんは謝ってばっかだね……」

 リンが悲しそうな顔をして私を見る。

 ……違う。

 最期にこんなことを伝えたかったんじゃない。
 
 私が本当に言いたかったことはーーーー。

「私の家に来てくれてありがとう。家族になってくれてありがとう。楽しい毎日をありがとう」

 再び涙が溢れてくる。
 だめだ、泣くな……。
 ちゃんとリンとお別れするんだ。
 今度こそちゃんと送り出すんだーーーー。

 止まらない涙を精一杯手で拭う。
 きっと今、私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで相当酷いだろう。
 でもいいんだ。

 伝えられなかった思いを今伝えるんだーーーー。

「雪ちゃんは強い子だよ。これから先、辛いことがあっても大丈夫。私が保証する。でも、たまには弱音を吐いていいんだよ? 私はどこにいてもずーっと雪ちゃんの味方!」

 リンが私の涙を舐めると、さっきまで止まらなかった涙がピタリと止まった。
 涙が止まったことを確認するとリンはニカッと笑った。

「雪ちゃん、今までありがとう! 元気でね!」

 最期にぎゅーっとお互い強く抱きしめ合い、リンはしるべさんと共に出口に向かって歩いて行った。

 リンと二回目のお別れをしなければならない。

「リン、ありがとう! バイバイ! 元気でね」

 私は腹の底から声を出しリンに向かって大きく手を振った。
 出口でリンは振り返り「雪ちゃん大好き!」と言ってしるべさんと共に店を出て行った。

 最後にリンの笑顔が見れてよかったーーーー。
 伝えられなかった思いを伝えられてよかったーーーー。


「特別なお客様と特別な料理は満足して頂けましたか?」

 ツカイさんが私に向かって言った。

 答えはもちろんイエスだ。
 
「はい」

「では、お気をつけてお帰りください」

 私の回答に満足したかの様にツカイさんは微笑み、出口まで送ってくれた。

「ツカイさんは何者なんですか?」

「神の使いの神野ツカイです」

「……その自己紹介怪しいからやめた方がいいですよ」

「結構気に入ってるですけどねぇ」

 お互い笑い合い、私は手を振って店を出た。


 気が付くと私はアパートの椅子に座っていた。

 あれは夢だったのだろうか? そう思っていると、私の服に見慣れた白い毛がついていた。
 払おうと立ち上がると、スカートのポッケの中に何か入っていることに気がつく。ポッケには見覚えのない四つ折りにされた紙が入っていた。開いてみると肉球のスタンプが文字のように押されていた。

 文字なんて一文字も書かれていない。でもーーーー。

 【リンいつでも雪ちゃんの味方! 応援してる!】

 そう書いてある気がした。

 自然と笑みが溢れた。

 また明日から頑張れる気がする。


 これは私が訪れたちょっと不思議なレストランのお話ーーーー。

 そのレストランは月明かりに照らされており、特別なお客様に特別な料理を提供します。

 いつかあなたの目の前に現れるかもしれません。


 その時は存分に特別な料理をお楽しみください。
 あなたにとっての「特別」は何ですか?