一

 稽古場からの帰り道だった。
 浅草橋を渡っているとき、神田川を覗き込んでいる赤い華やかな着物を着た娘が気になって足を止めた。

 ちょっと身を乗り出し過ぎなんじゃないか?

 声をかけるべきか迷っていると、向こうからお花がやって来た。
「あれ、夕ちゃん」
「あ、お花さん。こんにちは」
 そう言って頭を下げたとき、娘の身体が欄干を乗り越えた。
 娘が水面に落ちる前に、夕輝も荷物を放り出すと欄干から飛び降りた。
「夕ちゃん!」
 お花が叫んで欄干から身を乗り出した。

 夕輝は泳いで近付くと、娘を後ろから抱きかかえ、顎を上げさせながら立ち泳ぎで辺りを見回した。
 娘はもがいていて、気を抜くと水に引き込まれそうになる。
 ただでさえ、着物が纏わり付いて泳ぎづらいのだ。前から近付いていたら道連れにされて溺れていただろう。

 水はかなり冷たかった。どんどん体温を奪われていく。
 あまり長く泳いでいるのは無理だ。

 川を行き交っていた船が何艘か近づいてきた。
 夕輝はそのうちの一番近い一艘に娘の身体を差し出した。
 船頭が娘を引き上げる。
 続いて夕輝の身体も引っ張り上げられた。
 船頭は二人を引き上げると川岸の小さな桟橋に送ってくれた。
 桟橋ではお花が夕輝の荷物を持って待っていた。
 その後ろに沢山の野次馬がいた。
 上を見ると、欄干からも大勢が覗き込んでいた。

「船頭さん、有難うございました」
 夕輝が頭を下げると、船頭は頷いて船を出した。
「夕ちゃん、大丈夫かい」
「はい。心配かけてすみません」
「あんたは大丈夫かい?」
 お花が娘に声をかけた。
「死なせてください!」
 そう言って娘が川に身を乗り出そうとする。
「ちょ、ちょっと!」
 夕輝とお花が慌てて娘の身体を押さえる。
「とにかく、着物を乾かさなきゃね。二人ともずぶ濡れだよ。夕ちゃんも髪を何とかしないと」
 夕輝ははっとして頭に手をやった。
「あ! 付け鬢!」
 その言葉に、娘は夕輝に髷がないのに気付いたようだ。夕輝の頭をじっと見ている。
「お花さん、すみません!」
 夕輝は慌てて頭を下げた。

「何とかしてお金を稼いで買って返しますので……」
「何言ってんだい。人助けして無くしたんだよ。甚兵衛さんだって怒りゃしないよ」
「でも……」
「いいからいいから。あたしに任せときな」
「すみません。有難うございます」
 夕輝はますます恐縮して再び頭を下げた。
「とにかく、着替えないと……」
「あなた、無宿者なの?」
「え?」
 娘の言葉に振り返った。
「いや、違うよ……多分」
「何言ってんだい! 多分じゃないだろ! あんたのうちは峰湯じゃないか! ちゃんとそう言わなきゃお峰さんや平助さんが悲しむよ!」
「すみません」
 夕輝は三度頭を下げた。

 お花は夕輝の腕を掴んで娘の方を向くと、
「この人は無宿者なんかじゃないよ! うちの人を助けてくれたし、あんたのことも助けた、立派な人だよ!」
 と、まくし立てた。
「すみません」
 娘は震えながら頭を下げた。

 震えているのは寒いからだろう。唇が青くなっている。
 夕輝も寒くて震えていた。
 まだこの季節は水が冷たい。
 二人が震えてるのに気付いたお花は、
「とにかく早く着物を乾かさなきゃね」
 と言った。
「ここからなら峰湯が近いから……」
 言いかけた夕輝の言葉を、
「峰湯って、馬喰町の親分さんがやってるところですか?」
 娘が遮った。
「そうだけど」
「お上に知られるわけにはいきません。このまま死なせてください!」
「待った待った!」
 夕輝は困り切ってお花と目を見合わせた。
「何か困ってるなら話を聞くから、まずは落ち着いて」
「じゃあ、ちょっと歩くけど、うちの長屋に来るといいよ」
「すみません」
 夕輝は頭を下げた。
 娘は俯いていた。

 長屋に着くと、すでに知らせが来ていたらしく、女達が乾いた着物を持って待ち構えていた。野次馬をしていた誰かが知らせてくれたのだろう。
 夕輝と娘は別々の部屋に連れて行かれ、着替えさせられた。
 付け鬢もちゃんと用意されていた。
「夕輝は大丈夫か!」
 夕輝が付け鬢を付けたとき、外で大きな声がした。

 平助さんだ!

 あの子はお上に知られたくないと言っていた。
 今、平助に会わせるのはまずい。
 夕輝は慌てて飛び出した。

 外に出ると平助と伍助がいた。
「平助さん、伍助さん」
 夕輝は小声で呼びかけた。
「おう、大丈夫だったか」
「はい」
「川に飛び込んだんだって? 泳げたのかい」
「はい」
「すげぇなぁ。剣術は出来るわ、泳げるわ」
 伍助が感心したように言った。
「普通は泳げないものなんですか?」
川並(かわなみ)とかなら水練(すいれん)もするけど、普通はな。水辺で育ったんなら別だろうけどな」

 川並ってなんだろう。

 訊いてみると、深川の木場(きば)にいる筏師(いかだし)のことらしい。
「てこたぁ生国(しょうこく)は海がある国かね」

 海……。

 確かに東京は東京湾に面してはいる。
 東京都に面している東京湾の浅瀬で泳げるかは疑問だが。
「川かもしれねぇじゃねぇか」

 川もあるな。
 現代の隅田川や神田川で泳げるのか知らないけど。

「見事だったんだよ! 娘さんが飛び込んだと思ったらすぐにこの子も飛び込んでさ、近くにいた船の船頭より先に助けちゃって」
 お花が身振り手振りで興奮したように喋った。
「ほう。で、その娘ってなどこだい」
「あ、平助さん、その娘さんなんですけど、お上には知られたくないって言うんで、とりあえず事情を聞くまでは顔を見せない方がいいんじゃないかと」
「話ならお加代さんが聞いてるよ。こっちこっち」
 お花はお加代の部屋の前に連れて行った。

 娘が着替えていることもあってお加代の部屋の腰高障子は閉められていた。
 その障子の前に長屋の連中が集まっていた。
 八つを過ぎているせいか、女性だけではなく働き盛りの男性も混ざっていた。
 棒手振(ぼてふ)りなどは昼過ぎには仕事が終わる場合もあるのだそうだ。ちなみに棒手振りというのは、天秤棒につるした磐台(ばんだい)という木桶(きおけ)に、売り物を入れて売って歩く職業だそうだ。
 売り物は色々あるらしい。魚や野菜などの生物(なまもの)を扱っている棒手振りは帰りが早いとのことだった。

 子供達も大人の真似をして聞き耳を立てているが、お互い突き合ったりしてくすくす笑っている。
 女性達の中には井戸端で夕輝や娘の着物を乾かしている者もいた。
 大人の女性に混ざって可愛い少女が手伝いをしていた。可憐な、と言う言葉がぴったりの少女だった。
 夕輝の視線に気付いたのか、少女は顔を上げた。目が合うと少女は恥ずかしそうな表情を浮かべてすぐに俯いてしまった。
 夕輝も急いで目を逸らした。
 さすがに高校生が小学生くらいの女の子に見とれるのはヤバすぎる。
 お花は野次馬をかき分けて障子の前に屈んだ。平助と伍助がその隣にしゃがみ込む。
 自分も一緒に盗み聞きするべきかどうか迷っていると障子が開いた。

「わっ!」
 しゃがんでいた平助と伍助が後ろに転がった。
「あ、夕ちゃんだっけ? ちょっと入っとくれ」
 お加代と思われる女性に呼ばれ、彼女の後について部屋に入った。お花も当然のような顔をしてついてきた。
 後ろの野次馬達が娘を一目見ようと中を覗き込んだ。
 お加代は夕輝とお花が入ると障子を閉めた。

       二

「悪いね、お茶がなくて」
 お加代が娘に言った。
 相手が長屋の連中だったらそんなことをいちいち断ったりしないが、娘の着ていた着物等でいいところのお嬢さんらしいと判断したのだろう。
 お加代は夕輝、娘、お花、そして自分の前に、白湯の入った欠けた湯飲みを置いた。
「あんた、名前は?」
 お花が訊ねた。
「里です」
「あたしは花、こっちはお加代さんであんたを助けてくれたのが天満夕輝さん」
 娘は頭を下げた。
「で、どうしてあんなことしたんだい?」
 娘は答えなかった。
「黙ってちゃ分からないだろ」
「悪いようにはしないからさ、言うだけ言ってみなよ」
 お加代とお花が優しい声で慰めるように言った。

 長い沈黙の後、「実は」と、ようやく話し始めた。
「昨年、お裁縫を習いに行った帰りに柄の悪い人達に絡まれて……」

 お里はお供の女中お米と二人で歩いていた。
 お里とお米がならず者達に、あわや木の陰に連れ込まれそうになった、というときに、その男が現れて助けてくれた。

「ありがちな話だな」
 夕輝が思わず呟くと、お里はわっと泣き出した。
 お加代とお花が慌てて娘を慰めた。
「あ、ごめん。その……」
 言いかけた夕輝を、お花が黙っていろ、と目顔で言った。
 夕輝は口をつぐんだ。
 お花とお加代が優しく話しかけてようやく泣き止んだお里が再び話し始めた。

 その男は役者だと言っても通るようないい男で吉次と名乗った。お里は礼をしたいからと言って強引に吉次と会う約束を取り付けた。
 お米には止められたがお里は聞かなかった。お米は、お里と吉次が合うのを家の者には黙っていた。
 こんな目に遭ったと知られたら主人に叱られるかもしれないと思ったのだ。まして、吉次と二人で会うのを許したことを知られたら暇を出されてしまうかもしれない。だから言えなかったのだ。
 吉次は最初、自分は堅気(かたぎ)の人間ではないから関わらない方がいい、と言ったがそれでも次に会う約束をするとちゃんとやってきた。
 あるとき、吉次は自分の身の上を、「両親に早くに死なれて、幼い頃から奉公に出ていたけれど、あまりにもきつい仕事でとうとう十五の時に店を飛び出し、その後はいろんな事をした」と言った。
 だから自分のようなものには関わらない方がいい、と言う吉次に対して、お里はそれでもかまわない、と答えた。
 すると、
起請文(きしょうもん)を貰えたら、それを支えに堅気の仕事を頑張れるかもしれねぇ」
 と言った。
 吉次にのぼせ上がっていたお里は一も二もなく承諾し、起請文を書いた。

「それが手だったんです」
 お里は袖で目頭を押さえた。
 一月前、お里に縁談が持ち上がった。
 起請文を書いたと言っても、そこらの庶民と違ってお里はそこそこ大きな見世(みせ)の娘である。もとより吉次と一緒になろうなんて気はなかった。
 吉次も分かってるものだと思い込んでいたが、縁談のことを聞きつけると起請文を手にやってきて金を要求した。
 十両という金を要求されたが、それで手を切れるなら、と親に内緒で着物や簪等をお米にこっそり売りに行ってもらい、何とか工面して渡した。
 ところが、それからしばらくするとまた十両要求してきた。もう親に知られずに売れるようなものは残ってない。
 困っていると、お米が親や親戚から借り回ってお金を作ってくれた。お米としても主人に黙っていたことを知られると困るのだ。
 だが、吉次は更に要求してきて、これ以上は無理だと言うと、縁談相手にその起請文を見せると言って脅してきたのだ。
 親に話して五百両用意しろ、そうすればこの起請文は返してやる、と言ってきたがそんなことを親に言えるわけがない。
 思い余って思わず川に飛び込んでしまったというのだ。

 お里の話を聞くとお花とお加代は黙り込んだ。
 五百両が現代で幾らになるのかは分からなかったが、それでも相当な額だと言うことは想像が付いた。
 貧乏長屋のお花やお加代にとって五百両なんて別世界の話だ。当然、長屋中の金を集めても五百両どころか一両になるかさえ怪しい。
「それはやっぱり親分さんに話した方が……」
「駄目です!」
 お里は激しく首を振った。
「親に知られてしまいます! それだけは困るんです!」
「そうは言っても、五百両なんて用意できないだろ」
「ねぇ」
 お加代が夕輝に同意を求めてきた。
 それまで黙って聞いていた夕輝がおもむろに口を開いた。
「起請文ってなんですか?」

 起請文とは、熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん)という、(からす)の絵が刷られた紙に「誰某様に惚れています」と書き、刷られている烏の目を塗りつぶしたものだそうである。

「それってそんなに大事なものなんですか?」
「大事って言うか……普通は遊女との遊びでやりとりするものだからねぇ」
「親に知られると困るんですか?」
裏店(うらだな)に住んでるような連中ならともかく、お里ちゃんはいいとこのお嬢さんだろ。それが堅気でもない男に起請文を贈ったとなると、ねぇ」
「縁談も破談になるかもしれないね」
 お花はそう言ってお加代と顔を見合わせると頷きあった。
「じゃあ、その起請文って言うのを取り返せばいいんですか?」
「そうなるね」
「でも、吉次さんは腕っ節も強いし、仲間もいるし……」
 お里は俯いて言った。
「それは大丈夫だと思うけど……」
 平助や伍助の助けがあれば問題はないはずだ。
 夕輝は疑問に思っていたことを口にしてみた。
「その吉次ってヤツが堅気になっても一緒になれないものなの?」
「吉次さんはもう二十歳過ぎてるんですよ。今更丁稚から始めても……」
 お里はバカにしたように言った。
「まぁ、無理じゃないかもしれないけど、普通は九つか十くらいから丁稚として奉公して、二十歳なら手代になってるよね」
「そこから更に番頭、暖簾分けだからね。まぁ、お里ちゃんの場合は見世を継ぐから暖簾分けは関係ないけど」
「大体、堅気になってやり直したって許してくれませんよ」
「ご両親が?」
「ご両親もだけど、親戚縁者に、同じ業種の組合の承認もないと」
 お花が説明するように言った。
「そんなところの承認までいるんですか?」
「なんか問題起きたときは親戚縁者だけじゃなくて、組合の仲間も連帯責任を取らされるわけだからね。当然跡継ぎは周りの承認を得ないと」
「跡継ぎって、お兄さんか弟さんはいないの?」
「兄がいますけど、それが何か関係あるんですか?」
 お里は不思議そうな顔をしたが、お花は夕輝の言わんとしてることが分かったようだ。

「お武家さんは男の子が継ぐけど、ある程度以上の大店(おおだな)は女の子が有能な人をお婿に貰って継ぐ場合が多いんだよ」
「へぇ」
 話を聞いている夕輝を、お里は怪訝そうに見た。
「あ、この人んちお武家さんだから、商家(しょうか)のことは知らないんだよ」
 お里の表情に気付いたお花が言い訳するように言った。
「それに吉次さんって字も書けないような人ですよ」
「ホントに?」
「自分は字が書けないからって言って、吉次さんは起請文をくれなかったんですから」

 それだけでは本当に字が書けないのかは分からない。証拠になるものを残さないために()えて書かなかった可能性はある。
 しかし、夕輝はどうもお里に同情する気になれなかった。
 確かに金を強請(ゆす)るのは悪い。
 その点では弁解の余地はない。
 だが、一時的にしろ惚れたはずの吉次を見下したように言うお里もどうかと思った。

 吉次はホントに最初から強請る気だったのだろうか。

 夕輝はつい吉次の方に肩入れしたくなってしまう。
 そのとき、外から、
「お加代さん、着物、乾いたよ」
 と言う声がかかった。
「はいよ! じゃあ、夕ちゃんもお里ちゃんも着替えな。夕ちゃん、その後お里ちゃんを送ってってあげとくれ」
「あの、このこと父には……」
「大丈夫、黙ってるからさ。それと、起請文のことはこっちで何とかするから、もうバカな真似するんじゃないよ」
「よろしくお願いします」

 お里を家の近くまで送ると――家の者に見られると困ると言われたので家までは送らなかった――、来た道を引き返した。

       三

 お花の長屋に戻る途中、人気のない通りを歩いていた。
 江戸は百万都市と聞いたが、庶民が狭いところに密集して住んでるせいか、結構広い空き地――火除け地という火事の延焼を食い止める為の土地――があったり、広大な大名屋敷があってどこまで行っても両側が塀と言うところがあったりする。
 人通りの多い大通りもあるが、昼間でも人気のない道が結構あった。

「やめて下さい!」
 声の方を振り返ると、女の子が三人の男に囲まれていた。
 男の一人が女の子の腕を掴んでいる。
 さっき訊いたお里のような状況だ。

 江戸時代ってこう言うことが多かったのか?

 後で平助に聞いてみると、
「『えど』は女が少ねぇからなぁ」
 と言って話してくれた。

 明暦の大火で大半が燃えてしまった『えど』の街を再建するために日本中から職人達が集められた。
 当然男ばかりだ。女性は男相手の商売女がほとんどで、それ以外では職人や商売女相手に商売をする商人が連れてきた女房子供くらいだった。
 そのため、男女比は二対一くらいの割合で圧倒的に男の方が多い。
 御公儀公認(公許(こうきょ)という)の遊郭である吉原や非公認の遊郭もあるにはあるが値段の差はあるにしてもどちらも金がかかる。
 そのため、こう言うことが起こりやすくなるらしい。
 夕輝は男達に歩み寄った。

「よせよ。嫌がってるだろ」
 男達が振り返った。
「なんだ手前ぇ」
「怪我したくなかったらすっ込んでろ!」
 男達が凄んで言った。
「それは出来ない」
「野郎!」
 男の一人が懐に呑んでいた匕首(あいくち)を抜いた。

 夕輝が眉をひそめると、匕首をかざして突っ込んできた。
 匕首をよけると男の手首を掴んで捻りあげた。
 別の男も匕首を構えてこちらに向かってきた。
 その男に向けて手首を捻りあげていた男を突き飛ばした。
 男達が一塊になって転がった。
「手前ぇ!」
 三人目が匕首を腰だめにして突っ込んできた。
 体を開いてよけると、男に足をかけた。
 男がすっころんで匕首が飛んでいった。
 もがいていた男の一人がようやく立ち上がると、再び落とした匕首を拾って向かってきた。
 もう一人の男も立ち上がると、同じように匕首を構えて突っ込んできた。
 そのまま真っ直ぐ来たら夕輝ではなく、先に向かってきた男が刺されてしまう。

「あ、バカ!」
 夕輝は先に突っ込んできた男の肩を掴んで前に引き倒して匕首をよけさせると、次の男の腕を蹴り上げた。
 匕首が宙を飛んでいく。
「さっさと消えろ」
「覚えてろよ!」
 お約束の捨て台詞を吐くと、男達は逃げていった。
 夕輝が庇った男は転んだ時に足を捻ったらしく、足首を押さえて呻いていた。
「おい」
 夕輝が声をかけると男が顔を上げた。
 男は辺りを見回した。仲間を捜しているらしい。
「他の二人は逃げたぞ。お前も早く消えろ」
 男は顔をしかめて立ち上がった。
「お前を見捨てて逃げるような薄情な奴らとつるんでると今にもっとひどい目に遭うぞ」

 夕輝はそう言うと、男に背を向けて、
「大丈夫だった?」
 と、女の子の方を振り返った。

 すっと通った鼻筋に知的な光をたたえた瞳、きりっとした口元。柔らかみを帯びた頬の線が子供らしさを残している。知性的な印象の、きれいな子だった。夕輝に近い年のようだから、女性と言うよりは少女だ。

 でも、この時代でこの年ならもう大人なんだよな。
 元服……は男だよな。
 女の子は何て言うんだろう。

 後でお峰に訊くと、女性も元服というそうだ。

「有難うございました」
 女の子が頭を下げた。
「良ければ送ろうか? あいつらがまた戻ってくるかもしれないし」
 きれいな子だから、また襲われる危険もあると思ったのだ。
 自分のことも警戒して断るかな、と思ったが、
「よろしくお願いします」
 女の子は頭を下げた。

「ここです」
 女の子の家につくと、夕輝は内心ほっとした。
 話すことがなくて、黙って歩くのが結構つらかったのだ。
 夕輝はそれほどおしゃべりな方ではないが、それでも知らない女の子と黙って歩くのはしんどかった。
「今、父を呼んできますので……」
「いいよ、気にしないで。それじゃぁね」
「あ、あの……」
 女の子は声をかけてきたが、夕輝は逃げるようにしてその場を離れた。吉次みたいに金目的だと思われるのが嫌だったのだ。帰る途中で女の子の名前も聞いてなかったことを思い出した。

 まぁ、もう会うこともないだろう。

 お花の長屋に戻ると、
「お加代さんの部屋でみんな待ってるよ」
 と、同じ長屋の女の人が教えてくれた。

 ノックは西洋の習慣だよなぁ……。

 お加代の部屋の前でどうしようか迷っていると、
「お花さん、夕ちゃんが戻ってきたよ」
 と、女の人が声をかけてくれた。
「夕ちゃん、入っとくれ」
 お花の声に、夕輝は障子を開いた。
「失礼します」
 お加代の部屋に入ると、お加代とお花、平助と伍助、正吾がいた。
「お帰り」
 お花が言った。
 夕輝が、多分下座だろうと思われる、一番戸口に近い場所へ座ると、
「今、親分さん達と話してたんだよ。お里ちゃんのことどうするか」
 お花が言った。

「要は起請文が問題なんだろ」
「起請文さえ取り返せば吉次をお縄にしても問題ねぇよな」
「まぁ、そうなりますね」
「それにしても、そこそこいい見世の娘にしちゃ軽はずみな子だな。起請文なんて堅気の娘が書くもんじゃねぇだろうに」
 確かにその通りだ。
「伍助、吉次って名前に聞き覚えあるか?」
「ねぇなぁ。ただ、源次ってケチな野郎がそういうことしてるらしいって聞いたぜ」
「源次か、俺も聞いたことあるぜ。そう言や年格好やなんかは似てるな」
「ちょっと洗ってみるか」
「そうだな」
「俺は何をすれば……」
 夕輝が訊ねた。
「こういうのは俺達の仕事だ。任せときな」
「片ぁ付けるときに手ぇ借りるから、そのとき頼まぁ」
 そう言うと、
「行ってくるぜ」
 と言って平助と伍助、正吾は出て行った。早速探索に行くらしい。

 翌日も、平助達は朝早くから探索へ出かけた。夕輝は平助達が吉次を見つけ出してくるまで大人しく待つことにして、いつも通り剣術の稽古場に向かった。
 夕輝は午前中に稽古場へ行き、帰ると湯屋を手伝っていた。

 ある日、夕輝は自分が尾けられているのに気付いた。
 この前、女の子を助けたときの男の一人だった。物陰から物陰へ移動しながら尾いてくる。
 あれで気付かない者はいないだろう。

 人通りがあるんだから普通に歩いてればいいのに。

 きっと仕返しをしようと付け狙ってるのだろう。仕返しをする気ならこの前より人数は多いに違いない。大勢を相手にして勝てるとは思えない。
 今度は負けるかもしれないが、庇わなければならない相手がいないなら、負けても殺されなければいいと思うことにした。
 下手にやり返すと、また仕返しに来て、と言う負の連鎖になりそうだと思ったのだ。しかし、無策のまま多勢を相手にするのも芸がない。
 とりあえず、どう対応するか決めるまでは人通りのないところは歩かないようにしよう。

       四

 お峰に頼まれてお花に届け物をしに行く途中、この前お花の長屋で見かけた少女が歩いていた。
 手には野菜を入れた籠を抱えている。

「やあ」
 夕輝が声をかけると少女が振り返った。
「天満さん」
「俺の名前、知ってるの?」
「この前、長屋で……」
 少女が頬を染めて言った。
「俺もそのときに君のこと見かけて覚えてたんだ。荷物、持つよ」
 夕輝は少女の荷物を持った。
「いえ、いいんです」
 少女が慌てて取り返そうとした。
「これからお花さんの長屋に行かなきゃならないんだけど、道、覚えてなくてさ。荷物持つから案内してよ」
「はい」
 少女は恥ずかしそうに俯いた。
 この前ならず者から助けた女の子とはまた違った可愛さだった。
 ただ、まだ十二歳くらいだから夕輝の守備範囲外だが。

「あ、君の名前なんて言うの?」
「唯です」
「お唯ちゃんか、俺のことは夕輝でいいよ。これからもお花さんの長屋に行くことあると思うからよろしくね」
「はい。短い間ですけどよろしくお願いします」
「短い間って?」
「今度……奉公に行くんです。年季が明けるまでは帰ってこられないから……」
 悲しそうな顔だった。
 このときは、親から離れて一人で知らないところへ働きに行く不安からだろうと思っていた。
「そっか。その年で働きに行くなんて偉いね」

 江戸時代はこの年でもう働くんだな。

 それに引き替え自分は峰湯の居候だ。
 なんだか肩身が狭い。

 俺ももっと峰湯の仕事の手伝いしなきゃな。

「ちょうど良かった。今、夕ちゃんを呼びに行こうと思ってたんだよ」
 長屋へ続く木戸を通ったとき、お花がやってきた。

 夕輝はお唯に荷物を返すと、手を振ってからお花についてお加代の部屋へ向かった。
 お唯が恥ずかしそうな顔で小さく手を振り返した。
 お加代の部屋にはお里もいた。
「どうしたんですか?」
 夕輝が訊くと、
「どうしたもこうしたもありませんよ。吉次さんのことはどうなってるんですか」
 お里がきつい声で訊ねてきた。
「今調べてるところだけど……何かあったの?」
「とても柄の悪い人がお店に来たんです。吉次さんの使いって言って、お金は用意出来たかって訊いてきたんです」
「それで?」
「とりあえず、お金を用意しているところだからと言って帰ってもらいました。でも、用意出来るまでは何度でも来るって」
「分かった。もう少し待って」

 その夜、お加代の部屋で、夕輝、平助、伍助、正吾、お花とお加代が顔を揃えた。
「一応、兵蔵に橋本屋――お里の店――を見張らせてたんだけどな。あいつ、気付かれやがったな」
「それで警戒して使いをよこしたんだな」
「どうやら俺達の顔は知られてるようだな」
「他に使えるヤツは……」
「俺がやりましょうか? 俺は素人だけど顔は知られてないと思うし」
「お前ぇみたいにひょろ長いのは目立つからなぁ」
 平助は、腕組みをして考え込んだ。
「でも、他にいないんだろ。この際頼んじゃどうだい」
「仕方ねぇな。よし! 夕輝、頼んだぜ」
 渋い顔をしてた割には決断が早いんだな。

 翌朝、夕輝は平助にどんな格好なら怪しいのかを教わり、橋本屋の斜向かいにある小さなお稲荷さんの所から見張り始めた。
 橋本屋は米問屋だった。
 夕輝一人で一日中見張るのは無理なので、嘉吉という伍助の下っ引きと一緒だった。
 下っ引きというのは御用聞きの手下だそうだ。

 お稲荷さんの小さな祠の周りに生えている木の陰から店を覗いていた。しかし、思ったより骨が折れる仕事だった。
 何となく、すぐにやってくるんじゃないかと甘いことを考えていたのだが、いつまでたっても来ないし、嘉吉との他愛ない会話もすぐにネタが尽きてしまった。
 沈黙の中で見張るのは結構つらかった。

 平助さん達はいつもこんなことしてるのか。

 結局、その日は誰も来ないまま、暮れ六つの鐘が鳴り、橋本屋は店じまいした。
 夕輝と嘉吉は帰途についた。
 途中で嘉吉と別れ、人気のなくなった通りを歩いているとき、後ろから尾けてくる人影に気付いた。
 夕輝は立ち止まると、戸締まりされた近くの店の表戸にもたれかかった。

 一度やられてやれば向こうも気が済むだろう。

 痛い思いをしたいわけではないが、いつまでも金魚の(フン)みたいにくっついて回られても困る。
 急所さえ守れば何とかなるだろう。
 そのとき、人影とは反対の方から誰かがやってきた。
 この前助けた女の子だった。手に風呂敷包みを持っている。どこかからの帰りなのだろう。
 女の子は夕輝に気付いたらしく、会釈をして近付いてきた。

「この前は有難うございました。あのときはお礼も出来ずに失礼しました」
「気にしないで。それより早く帰った方がいいよ」
「こんなところで何をなさっているんですか?」
「この前の連中の一人が俺を尾けてるんだ。多分、仕返しをするつもりなんだと思う。だからここで迎え撃とうかと」
 女の子は息を飲んだ。
「君は巻き込まれる前に逃げた方がいいよ」
 ここで決着をつけようと思ったのは庇わなければならない相手がいなかったからだ。この子がいたらやられるわけにはいかなくなる。

 そこへ、夕輝の後を尾けていた男が走り寄ってきた。
「兄貴! 逃げてくれ!」
「兄貴? お前に兄貴って呼ばれる覚えはないぞ」
「とにかく、囲まれる前に……」
 男がそう言ったとき、
「太一! 手前ぇ、やっぱり裏切りやがったな!」
 数人の男達がばらばらと駆け寄ってきて夕輝達を取り囲んだ。
「るせぇ! 人を置いて逃げたくせに、何言ってやがる!」
 夕輝は女の子を庇うように立って振り返った。
「俺の後ろにいて。君には手を出させないから。何とか突破口を作るから逃げられるようなら逃げて」
「あの、良ければこれを」
 女の子が扇子と思しきものを差し出した。女性用の扇子にしてはかなり大きくてちょっと骨太というか無骨な印象を受ける。
「…………」
 意味が分からなかった。
 扇子を一体どうすればいいのか。

 もしかして、水戸黄門の印籠みたいにこれをかざすとみんなが平伏すとか?

「これは鉄扇(てっせん)です。骨が鉄で出来ています」
 女の子の説明にようやく納得がいった。
「じゃあ、遠慮なく」
 受け取ると、確かに重かった。
 周りを取り囲んだ男の中に日本刀らしき物を持っている者がいた。

 後で平助に訊くと、
「そりゃ、長脇差(ながわきざし)だな」
「町人は刀を持っちゃいけないんですよね? 侍だったんでしょうか」
「町人でも破落戸(ごろつき)の中には長脇差を使うヤツがいるんだよ」
 と教えてくれた。
 まぁ、これは後の話。

 それはともかく、ならず者が峰打ちをしてくれるとは思えないし、さすがに大人しく殺される気はない。
「兄貴! 加勢させていただきやす」
 その兄貴というのはやめろ、と言いたかったが、その前に男の一人が匕首を腰だめにして突っ込んできた。
 体を開いてよけると、男の手首に思い切り鉄扇を叩き付けた。
「ぎゃっ!」
 鈍い音がして匕首が地面に落ちた。
 力を入れすぎたか。
 どうやら男の手首の骨を折ってしまったようだ。
 しかし、その男に構ってる暇はなかった。
 次の男が長脇差を振り上げて斬りかかってきた。
 振り下ろされた刀を鉄扇で弾くと、そのまま鳩尾に叩き込んだ。今度は少し手加減をして。
 男が呻いて転がる。
 地面に落ちた長脇差を足で蹴って後ろに滑らせた。
 三人目の男が突っ込んでこようとしたとき、夕輝を兄貴と呼んだ男とならず者の一人が組み合ったまま転がってきた。
 その二人に躓いた男がすっ転んだ。
 夕輝は転んだ男の手を踏みつけて匕首を手放させると、それを誰もいないところに向かって蹴った。

 他に向かってくる者はいないかと辺りを見回すと、夕輝を兄貴と呼んだ男はまだもつれあったまま互いに殴っていた。
 そして驚いたことに、女の子はならず者が落とした長脇差を持って二人を打ち倒していた。
 血が出てないところを見ると峰打ちだったようだが、あまり手加減しなかったらしく、ならず者達は蹲って呻いていた。

「おい、そこまでにしておけ」
 夕輝はそう言って、転げ回っている男達を引き離した。
 殴り合っていた二人はひどい顔をしていた。
 襲ってきたならず者の方は周囲を見回して、みんな地面に転がっているのを見ると逃げていった。
「とりあえず、俺達もここを離れよう」
 夕輝がそう言って歩き出すと、女の子と太一と呼ばれた男がついてきた。
「兄貴、お怪我はありやせんか?」
「その兄貴って言うのやめろ。俺がいつお前の兄になった」
「この前ぇ助けていただいてからずっと見てやしたんですが、兄貴にならついていってもいいと思いやして」
「勝手に決めるな」
 夕輝はそう言ってから女の子の方に顔を向けた。
「あの、俺、こいつの仲間じゃないから」
 吉次と同じように、女の子に取り入るためのやらせだったと思われたくなかった。
「分かっています」
「これ、有難う」
 女の子に扇子を差し出した。
「良ければお持ち下さい」
「え、でも……」
「助けていただいたお礼です」
「そんなに大したことしてないよ」
「これからも必要でしょう。どうぞお持ち下さい」

 確かに、刃物を持ってくる相手と戦うには素手は向かない。
 鉄扇なら斬る心配も、突き刺す心配もせずに戦える。

「そう。助かるよ。有難う」
 夕輝は女の子に頭を下げると、帯に扇子を差した。
「それにしても、強かったんだね。ひょっとしてこの前は余計なお世話だった?」
「いえ、そんなことはありません。助かりました」
「それならいいけど。とりあえず、君を送っていくよ」
「兄貴、お供しやす」
 男がすかさず言った。
「だから兄貴って言うな。俺はチンピラじゃないし、そもそも年だって同じくらいだろ。お前いくつだよ」
「十五でやす」
「……それ数え年だよな」
「違う数え方あるんでやすかい?」
 夕輝は数え年と満年齢の違いを話した。
「それで、満年齢ってヤツだと兄貴はおいくつで?」
「十五。君は?」
 女の子の方に顔を向けて訊ねた。
「あ、まだ名乗ってなかったね。俺は天満夕輝」
未月(みづき)(もみじ)と申します」
「敬語はよそうよ。君も俺と同い年くらいだろ」
「十五です。数えで」
 夕輝と男とのやりとりを訊いていた椛が言った。
お椛(おもみじ)ちゃんとは言わないよね? おもみちゃん? もみちゃん?」
「椛で結構です」
「それじゃ、椛ちゃん、よろしく。俺のことは夕輝でいいから」
「兄貴! あっしは太一でやす!」
「だから、兄貴って言うな!」

       五

 翌朝、橋本屋に行こうとして玄関を出ると、太一が待っていた。
「太助、何の用だ?」
「太一でやす。あっしも手伝いをさせていただこうと思いやして」
「あのなぁ……」
「なんだ、昨日言ってたのはこいつか?」
 夕輝の後から出てきた平助が言った。

 夕輝は昨日の帰り道のことを平助に話していたので、顔を見てすぐに分かったようだ。
 太一の顔は殴り合いの跡がまだ残っていた。

「橋本屋を探ってるんでやすよね。あっしはこう見えても顔は広い方ですぜ」
 夕輝を尾け回してただけあって、何をしていたか知っているようだった。
「じゃあ、手伝ってもらおうぜ」
 平助が言った。
「でも、平助さん」
 夕輝はまだ太一を信用できなかった。
「いいじゃねぇか。こいつなら誰もお上の御用だとは思わねぇだろうし」
「分かりました」
 平助にそう言われたら従うしかない。夕輝は嘉吉、太一と共にお里の店を見張りに向かった。

 その後、数日間は何事もなかった。
 太一が四六時中喋っているので初日程は退屈しなかった。

 ある日、いつものように見張っていると、腰に刀を差した男が店に入っていった。
 ()ぎの当たった着物によれよれの袴。髪の伸びかけた月代、曲がった髷。米問屋に来る客には見えなかった。うらぶれた様子で懐に手を入れていた。

 その男が出てくると、嘉吉は跡をつけていった。
 夕輝と太一がそのまま見張っていると、お里が出てきた。
 お里が出て行ってしばらくすると、お花がやってきた。夕輝達がどこにいるかお峰に訊いてきたらしい。
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」

 お花と太一――も()いてきた――と共に長屋へ行き、お加代の部屋へ入った。
 そこに、お加代とお里がいた。
 夕輝とお花が座るとお里は早速話し始めた。
「また柄の悪い人が来ましたよ」

 それは見ていたから知っている。

「それで、どうしたんだい?」
「お店に長居されちゃ困りますから、明後日お金を持っていきますって言ってしまいました」
 お里は不機嫌な様子で言った。
「お金、用意出来てないんだよね? どうするつもりなの?」
 夕輝が訊ねた。
「だからここへ来たんじゃないですか。何とかしてくれるって言いましたよね」
 お里が詰め寄った。
 確かに言ったが、長屋の人達に五百両もの金を用意出来ると思ってるんだろうか。
 仮に用意出来たとして、お里のために払わなければならない義理はないではないか。

 全くの赤の他人なのに、なんで助けてもらって当然って顔してるんだ。
 とんでもない子を助けちゃったな。

 こういう子だと知っていたとしても、ああいう場面に行きあわせたらまた助けてしまうだろうが。
「とりあえず、お里ちゃんにその場所に行ってもらって、そこで吉次から起請文を取り返すしかないようだね」
「なんで私が行かなきゃなんないんですか! 助けてくれるって言ったじゃないですか!」
 お里がいきり立って甲高い声を出した。
「あのね、これは君の問題だって分かってる?」
 夕輝がたまりかねて言った。
 お里はふてくされた顔でそっぽを向いた。
「仕方ないねぇ。それじゃあ、着物を貸してくれるかい? 誰かに代わりになってもらうからさ」
 そこまでしなきゃならないのかと思ったが、お花達は助ける気でいるようだった。
 後でお米に届けさせる、と言ってお里は帰っていった。
「代わりをたてる、なんて言っちゃったけど、誰に頼もうかねぇ」

 ふくよかなお花やお加代は体格的に無理だ。お里とは全く違うから遠くからでも一発で分かってしまう。
 お花とお加代が考え込んでいると、障子が開いてお唯が入ってきた。
 障子を開けた時、外に野次馬が聞き耳を立てているのが見えた。お唯も聞いていたようだ。

「あの、私がやります」
「お唯ちゃんが?」
「気持ちは有難いけど、顔に傷でもつけられたら大変だろ」
「でも、皆さんにはお世話になってますし、少しでお手伝いしたいんです」
 お唯が真剣な表情で言った。

 あのお里に、お唯ちゃんの可愛げや殊勝さの半分でもあれば、喜んで助けるんだけどな。

「まぁ、他にやれそうな子もいないしねぇ」
 お花が思案顔で言った。
「どうしてもやるのかい?」
「はい」
 お唯が頷いた。
「それじゃあ、頼もうか」
 お花とお加代は頷きあった。
「お唯ちゃんのことは俺が必ず守るから」
「あっしも手伝いやす」

「お前、五百両って聞いても顔色一つ変えないんだな」
 峰湯に帰る途中、後ろをついてくる太一に言った。
「平次について行ってた賭場(とば)では毎晩何百両も動いてやしたから」
「もう賭場なんか行くなよ」
「へい」

 二日後、夕輝が長屋へ行くと、丁度お唯がお里の着物に着替え終わったところだった。
「お唯ちゃん、よく似合ってるよ」
 お花が褒めた。
 確かに赤地に白い花が散っている着物はお唯によく似合っていた。
 お唯が恥ずかしそうに俯く。頬が赤く染まっていた。

 可愛いなぁ。

「これで(かんざし)があればねぇ」
 長屋の誰も簪を持っていなかったので、お唯の髪には何も刺さっていなかった。
 お唯の準備が出来たのを見届けてから夕輝は先に寺に向かった。

 太一、嘉吉、正吾と共に寺に先回りして物陰に隠れた。
 平助と伍助はお唯の跡を尾けて、他に尾けつけてるヤツがいないか目を光らせていた。
 お唯は頭に頭巾を被っていた。
 地震の避難訓練の時に使う防災頭巾を薄くしたようなものだ。御高僧頭巾(おこそずきん)と言うらしい。

 お里の着物を着ていても、頭にいつもつけている簪をしていなければ怪しまれるとお花が言ったのだ。
 幸い今日は風が強いから頭巾を被っていても怪しまれないだろう、とお花が言っていた。

 江戸の道は舗装されていないので、乾燥して風が強い日は砂埃が舞い上がる。だから、髪が汚れないように女性は頭巾を被ったりするらしい。
 着物を持ってきたお米は、汚したりしないようにとしつこいくらい言って帰っていった。

 着物一枚くらい、五百両に比べれば安いものだろうに。

 遠いところで鐘が三回鳴った後、この寺の鐘が九回鳴った。
 九つになったのだ。

 最初の三回は鳴らすタイミングを合わせるためだそうだ。それでも鐘はズレて鳴った。全ての寺が同時に鳴るわけではないのだ。時を告げる鐘がそんないい加減でいいのかと思うが、『えど』の人達は気にも止めていなかった。

 確か九つって十二時のことだったよな。

 お唯は風呂敷包みを大事そうに抱えていた。
 そのすぐ後ろにお花がやはり御高僧頭巾を被って包みを持って立っていた。
 五百両を女一人で持つのは無理なので、お里の使用人の振りをしたお花も包みを持っているのだ。
 大金に見せる為に石が詰め込まれていた。だから、かなり重そうだった。しかし、重いからと言って足下に置いたら怪しまれてしまう。

 吉次はなかなか現れなかった。
 九つ、と約束した場合、八つになるまでに来ればいいらしい。
 一刻(いっこく)と言えば約二時間だ。大雑把過ぎるような気がしたが、この時代、理不尽なことはいくらでもある。

 例えば時間だ。
 明け六つから五つ四つと来て次が九つだ。そこからまた一つずつ減っていって暮れ六つになる。
 明け方から夕暮れまでを六等分するなら何故一つから六つまでにしないのか。
 これのおかげで時間を覚えるのに随分かかった。

 どれくらい待っただろうか。
「来やした!」
 太一が小声で言った。
 見ると、着物を尻っぱしょりした男が、懐手(ふところで)をして近付いてくるところだった。
 あんまりいい男だと思えないのは、お里がのぼせ上がっていて実際より良く見えたのか、江戸時代のいい男の基準が現代とは違うのか、どちらかだろう。
 吉次は一人ではなかった。
 後ろから三、四人の男がついてくる。
 吉次がいつものお里と違う様子に違和感を覚えて立ち止まったところで、夕輝は隠れていた木陰から出た。

「なんだ手前ぇ! お前ぇも里じゃねぇな!」
 その言葉を合図に、平助達が一斉に出てきて吉次達を取り囲んだ。
「お花さん、お唯ちゃん、もういいですよ。怪我しないように離れてて下さい」
 夕輝はお唯の前に出て言った。
「くそ!」
 吉次の仲間達が匕首で平助達に突っ込んでいった。
 平助達が十手を出して男達と戦い始めた。
 吉次は一番弱そうな太一に向かって走り出した。
 夕輝は素早く吉次の前に立ちふさがった。
「野郎!」
 吉次は懐に呑んでいた匕首を出した。それを腰だめにして突っ込んでくる。
 体を開いてよけると吉次は匕首を横に振り払った。
 それを後ろに跳んでよけた。
 吉次はそのまま夕輝の横を通り過ぎた。
 そこへ太一が脇から飛びついた。

「放せ!」
 太一と吉次が揉み合ってるところに、平助がやってきて素早く縄をかけた。
 夕輝は、後ろ手に縛られた吉次の懐を探った。
 紙のような手応えがあった。
 それを引っ張り出す。
「あ! 返せ!」
 吉次がもがいたが、平助に押さえられていて動けなかった。
 夕輝は畳まれていた紙を広げた。
 紙には黒い鳥が沢山書かれていた。
 そこに字が書いてある。

 …………読めない。

 紙を平助に渡した。
「これですよね?」
 平助は紙に目を落とすと、
「間違ぇねぇな。お里って娘に返してやんな」
 と言って夕輝に渡した。
 夕輝はそれを懐に入れると、吉次に向き直った。
「お前、ホントに最初から金目当てだったのか?」
「たりめぇだろ」
 吉次が夕輝を睨み付けて答えた。

 夕輝はお花とお唯を長屋まで送っていってから、借りた着物と起請文を持ってお里の店に向かった。
 表から行っては迷惑だろうと考え、裏に回った。

 ちょうど裏口のそばにある台所にお米がいたので渡して帰ろうとすると、
「お嬢さまが上がっていただくようにと申してましたので」
 と言って夕輝を中へ案内した。

 中は峰湯とも、お花の長屋とも違っていた。
 通されたのは、どうやら客をあげる部屋らしい。

 まぁ、女の子の部屋に男を案内するわけにはいかないしな。

 お米がお茶を運んできてしばらくするとお里がやってきた。
「これで間違いないかな」
 夕輝が起請文を見せると、お里はひったくるようにして受け取り、中身を改めるとそれを細かく破った。
「有難うございました。お礼は何がいいですか?」
「いいよ、俺は大したことしてないし」
「後で法外な要求をされても困りますから今しておきたいんです」
 お里を助けたのは自分ではない。
 平助や伍助、正吾やお花、お加代、お唯達だ。それと太一。
 自分だけ貰うわけにもいかないし、かといって全員に礼をしろというのも無理だろう。
 少し考えてから、
「……それじゃあ、簪を一つ買ってくれるかな」
 と言った。
「簪……ですか」
「君の身代わりになってくれた子にあげたいんだ」
「ああ」
 お唯を知らないお里は、訳知り顔で頷いた。
 夕輝が恋人にでも渡すと思ったらしい。
 面倒なので説明はしなかった。
「分かりました。後で峰湯に届けさせます」

「これ、私に?」
 お唯は目を見開いて、夕輝から手渡された赤い玉のついた簪を見つめていた。
「代わりをしてくれたお礼だってくれた物だよ」
「ホントに貰っていいんですか?」
「お唯ちゃん、遠慮なく貰っておきなよ」
 お花が言った。
「でも、私だけ貰うなんて……」
「いいからいいから」
「ほら、夕ちゃん、お唯ちゃんにさしてあげなよ」
「え、でも、俺、簪の挿し方なんて知らないから……」
「しょうがないねぇ」
 お花は笑いながらお唯の髪に簪を挿した。
「お唯ちゃん、よく似合ってるよ」
「夕輝さん、有難うございます」
 お唯が頭を下げた。
「いや、俺からじゃないから」
 夕輝は慌てて手を振った。
「それじゃあ、俺、峰湯を手伝わなきゃいけないから」
 夕輝は逃げるようにその場を離れた。
 後ろからお花達の弾けるような笑い声が聞こえた。
       一

「親分! 殺しだ!」
 朝餉を食べ終えたとき、兵蔵が息を切らせて飛び込んできた。
 平助はすぐに立ち上がった。
「場所はどこでぇ!」
「へい、諏訪町の大川端です」
「よし! 行くぞ!」
 平助は兵蔵を連れて飛び出していった。

 夕輝が稽古場へ行くために峰湯を出ると太一が待っていた。
「兄貴! おはようございやす」
「おはよ。兄貴はやめろ」
「親分さんが飛んでいきやしたぜ。兄貴は行かないんですかい?」
「俺は御用聞きでも下っ引きでもないからな」
 夕輝はそう言うと歩き出した。
「稽古場に行くんでやすよね。お供しやす」
 太一がついてくる。
「お前、稽古場に来てもすることないだろ」
「兄貴の稽古が終わるまで待ってやす」
「もっと他に出来ることがあるだろ。そんな暇があるなら真面目に働け」
「それじゃあ、峰湯を手伝いやす」
 太一はそう言って峰湯の方に走っていった。
「あ……」
 今日は風が強いから休みだ、と言う前に行ってしまった。

 風呂は火を使うので風の強い日は火事を起こさないように湯屋は休みになるのだそうだ。
 ちなみに、庶民の家に風呂がないのも火事を起こさない為だそうだ。
 なので、『えど』の町には湯屋が多い……らしい。

 実際、火事はよく起きた。
 夕輝がここへ来てから一月の間に数回は火事があった。
 だから長屋などは三年で元が取れるような安っぽい作りなのだとか。
 この地震大国日本の建築物として耐震構造的な問題はどうなってるのかと心配になったが敢えて聞かなかった。

 初めて半鐘(はんしょう)を聞いたときは、近くだったこともあって本当にびっくりした。
 読売(よみうり)にも火事のことはよく書かれていて、お峰やお花はそれを見て、知り合いが被害に遭っていると見舞いに行ったりしている。
 それはともかく、休みでも雑用くらいはあるだろう。
 夕輝はそのまま稽古場へ向かった。

 稽古場から帰ってくると、お峰に呼ばれた。
「夕ちゃん、あの子、知り合いだろ?」
 お峰がお茶をすすっている太一を指して訊ねた。
「えっと……知り合いっていうか……」
「今朝からうちで仕事してるけど……」
「あ、すみません。ご迷惑でしたか? 俺から言って……」
「いや、逆だよ。助かったからさ。これからもやってくれるなら正式に雇ってもいいんだけど、あの子の方はどうかと思ってさ」
「じゃあ、訊いてきます」
 夕輝がお峰の言葉を太一に告げると、
「兄貴はどう思いやすか?」
 と訊ねてきた。
「俺は関係ないだろ。お前はどうしたいんだよ」
「あっしみてぇなのを雇ってもらえるんなら喜んでやらせていただきやす」
 太一はそう言うと、お峰に向かって、
「よろしくお願いしやす」
 頭を下げた。

「え? 一件じゃなかったんですか?」
 夕輝が聞き返した。
 夕餉の席だった。
 平助が説明したところによると、女は大川端の土手に倒れていた。
 格好からしてどこかの女中らしいがまだ身元が割れてないという。
 身元がすぐに割れなかったのはそれほど珍しいことではないが、問題は殺され方だった。
 腹を切り裂かれ、内臓が残らず引っ張り出された上で食い散らかされていたのだ。
「経験の少ない下っ引きの中には吐いちまったヤツもいるくらいひどかったぜ」

 見に行かなくて良かった。

 これまでにも三回、同じような死体が見つかったそうだ。いずれも十四、五歳くらいの若い女の子だという。
 事件はそれだけではない。
 平助は直接探索に当たってないらしいが、ここのところ神社や仏閣で子供が殺され、その血で神域を穢す事件が多発しているのだという。
「お前さん、同じ目に遭わないように気を付けておくれよ」
 お峰が心配そうに言った。
「今んとこ狙われてんのは女子供ばかりだからな。その心配はねぇよ」
「俺に出来ること、ありますか?」
「捕り物の時ぁは頼むぜ」

 夕餉の後、夕輝が素振りをしようと繊月丸を持って裏庭に出ると、赤い満月が出ていた。
「望だよ」
 繊月丸が少女の姿になって言った。
「え?」
『ぼう』と聞いてもすぐには分からなかった。

 そういえば、繊月丸に連れられていった寺で襲ってきた連中が、望がどうのとか言ってたっけ。

「凶月になった望がやったの」
 繊月丸は辛そうな顔をしていた。
「……さっきの話のこと?」
「そう。止めてあげて。望は泣いてる。助けてあげて」
「助けるってどうやって……」
 そう聞いたときには繊月丸は刀の姿に戻ってしまっていた。

「夕ちゃん、ちょっと待っとくれ」
 稽古場に出かけようとしていた夕輝をお峰が呼び止めた。
「これを持っておいき」
 お峰は小さな巾着を夕輝の手に乗せた。
「これは……?」
「少ないけどお小遣いだよ」
「そんな、いただけません」
 夕輝は巾着を返そうとした。
「いいから、いいから。稽古場の帰りはお腹すくだろ。これでなんか買ってお食べ」
 そう言って強引に夕輝に押しつけると、
「気を付けて行っておいで」
 巾着を返す間を与えずに家の中に戻っていった。
 ただでさえ居候してるのに、この上小遣いまで貰ってしまうなんて申し訳なかった。

 金を稼ぐ方法があればなぁ。

 この時代にアルバイト的なものはあるのだろうか。
 そのとき、向こうから太一がやってきた。

 そうだ! 太一なら知ってるんじゃないか?

 そう思って立ち止まった。
「兄貴、おはようございやす」
「兄貴はやめろ。おはよ。ちょっと訊きたいことがあるんだけどいいか?」
「なんでやすか?」
「なんかこう、短い時間で金を稼げる方法ってないか?」
「短い時間で、でやすか」
「稽古場と峰湯の手伝いの合間に出来るようなのがいいんだけど。小遣い程度でいいんだ」
「兄貴の腕なら賭場(とば)の用心棒とか、喧嘩(でいり)の助っ人とか出来ると思いやすが」
「真っ当な仕事で、だよ」
「それなら宮戸川辺りでウナギを捕るとか」
「川にウナギがいるのか!?」
「兄貴の住んでた所にはいなかったんで?」
 驚いている夕輝を見て、太一の方がびっくりしたようだ。
「で、宮戸川ってどこ?」
「大川でやすよ」
 隅田川は場所によって呼び名が違うそうだ。

 この時代って隅田川でウナギが捕れたのか。

「そのウナギ捕りって俺にも出来るか?」
「出来ると思いやすよ」
「じゃあ、今度教えてくれ」
「分かりやした」

「夕輝さん、長八さんが呼んでますぜ」
 仙吉がそう言って、太一と一緒に薪運びをしていた夕輝を呼びに来た。
「有難う」
 夕輝は礼を言うと湯屋の二階に上がった。
「夕輝さん、すいやせん、前に教わったところ、ご隠居の前で読んだんでやすが、色々質問されたら頭ん中真っ白になって、何が何だか訳が分からなくなっちまって……」
 長八が頭をかきながら謝った。
「謝らないで下さい。俺だってすぐに読めるようになったわけじゃないんですから」

 子曰、学而時習之。

「子曰く……えっと……」
「学びて常に之を習う、です」
「学びて常に之を習う。……はぁ……」
 長八は溜息をつくと、横目で部屋の向こうに集まっている男達を見た。
「ご隠居は気楽でいいよなぁ」
「あそこにいるのがご隠居さんなんですか?」
「へい」
「ご隠居さんはあそこで何してるんですか?」
「何でも今は算術(さんじゅつ)に夢中になってるとかって言ってましたぜ」

 算術?

 夕輝はご隠居と言われた人がいる集団のそばに行くと後ろから覗き込んだ。
 男達は計算に熱中していた。

 なんか線が一杯書いてある……。

 男達の前には将棋盤のような四角く線が引かれた板が置かれ、そこにマッチ棒のようなものが何本も置かれていた。
 男の一人が棒を置いたり取ったりしていた。
「何だ、分かるのかい?」
「いえ、分かりません」
「お侍ぇじゃしょうがねぇな」
 夕輝の頭を見ながら言った。
「え? どういうことですか?」
算盤(そろばん)弾くのぁ商人のやるこったからな」
「そうなんですか。どうして俺のこと侍だと思ったんですか?」
「その髷、侍ぇだろ」
「ああ」
 そういえば、甚兵衛さんのところの付け鬢が侍用のしかなくて、それを付けているんだった。
 甚兵衛は付け鬢を芝居をする人に貸しだしており、夕輝はそのとき余ってるのを借りてるので、町人の髷になったり、侍の髷になったりするのだ。

 あれ? でも、そうなると……。

「お城とかにも帳簿を付ける人とかはいるわけですよね? そういうのは町人がやってるんですか?」
「いや、勘定方(かんじょうがた)の侍ぇは別だよ」
 やっぱり、侍がやるのか。
 夕輝は別の男の帳面を覗いた。
 三一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三二七九五零二八八……。

 三・一四一五って……。

「円周率?」
「これがなんだか分かるのかい?」
「はい。これは何に使うんですか?」
「何に使うと思う?」
「丸太の太さを測るとか?」
「そんなの巻き尺で測った方が早ぇだろ。計算間違ぇもねぇし」
 それはそうだ。
「じゃあ、(おけ)を作るときとか」
「桶なんか(たが)閉めるだけだろ」
「それなら何に使うんですか?」
「何って、こりゃただの趣味よ」
「趣味!? こんな難しい計算を趣味でやるんですか!?」
「趣味だからだろ。仕事でこんなことしてぇか?」

 江戸の町人恐るべし。

 夕輝は長八の元に戻った。
「……長八さん」
「ん?」
「算術教えるのは無理ですからね」

       二

「兄貴! そこです、そこ!」
 太一の言葉に、何とかウナギを捕まえようとするが、つるつる滑ってすぐに逃げられてしまう。
 太一はもう五匹も捕っているが、夕輝は一匹も捕れないままだ。周りには他にもウナギを捕っている子供の姿が見えるが、捕れてないのは夕輝だけだった。
「少し休みやすか?」
「そうだな」
 夕輝と太一は、通りから桟橋へ続く階段に腰掛けた。
「なぁ、これっていくらなんだ?」
 夕輝はお峰からもらった巾着から入っていた銭を出して訊ねた。
「これ一枚が四文でやす」
 てことは五枚あるから二十文か。
「四文って大体どれくらい?」
「一枚物の読売が四文でやすね」

 よく分からない……。

「一両っていうのはこれの何倍くらい?」
「えっと、一文が九百六十枚で千文で一貫文(いっかんもん)で……」
「待て待て。なんで九百六十枚で千文なんだよ」
「百文のうち四文が数える手間賃になるんでやすよ」
「なるほど」
「四貫文で一両になりやす。ちなみに、一両は一分金や一分銀なら四枚。二分金なら二枚。一朱金や一朱銀なら十六枚。二朱金や二朱銀なら八枚でやす」

 四の倍数が基本なのか。

 一休みした夕輝は再び川に入った。
 峰湯の手伝いもあるから、あまりのんびりはしていられないのだ。
 ウナギを掴もうとして川底まで手を突っ込んでしまった。
 硬いざらざらした手触りに、何かと思って掴みあげると黒っぽい二枚貝だった。

 大きい……。

「ハマグリの子供か、これ」
「シジミでやすよ」
「シジミ!? こんなに大きいのが!?」
「兄貴の国では違ったんで?」
「俺んとこじゃ、シジミは親指の爪くらいだぞ」
「へぇ」
「なぁ、シジミは売れないのか?」
「売れやすよ」
「それを早く言え。ウナギより手っ取り早いじゃないか」
「すいやせん」
 夕輝はシジミを捕ることにした。
 太一は夕輝の邪魔になってはいけないと思ったのか、相変わらずウナギを捕っている。
「シジミは業平橋の辺りで捕れるのが、業平蜆(なりひらしじみ)って言って高く売れるんでやすよ」
「じゃあ、今度業平橋の辺りに行くか」
 どこだか分からないが太一なら場所を知ってるだろう。

 夕輝は出来るだけ大きいのを選び、小さいのは川に戻した。シジミ捕りに夢中になっていたとき、膝の裏に何かが触った。
 ウナギかと思ってとっさに掴んだ。
 だが、何か感触が違う。
「兄貴! それ!」
 太一が目をむいて指を指した。
 自分が捕まえたものに目を落とすと、それは着物の裾だった。
 着物には死体がついていた。いや、正確には死体に着物がまとわりついているのだ。
「げ!」
「流しちまいやしょう」
 太一はそう言うと、死体を川の真ん中の方へ押しやろうとした。
「待て待て! そういうわけにはいかないだろ! 死体だぞ!」
「だから、流しちまいやしょうって」
「そうはいくか。お前、ちょっと行って平助さん呼んでこい」
 太一は、流しちまえばいいのにと、ぶつぶつ言いながらも平助を呼びに走り出した。

 夕輝は改めて死体を掴むと、気持ち悪いのをこらえて桟橋に引っ張り上げた。
 死体にまとわりついた着物は、今にも脱げそうだった。髷を結う元結いが切れて、ざんばら髪が海草か何かのように広がっている。驚いているようにも、恐怖におののいているようにも見える表情をしていた。

 すぐに太一は平助と兵蔵を連れてやってきた。
「なんだ、夕輝、土左衛門なんか流しちまえば良かったのに」
「え!? いいんですか!?」
「流れてる死骸(ほとけ)なんざ珍しかねぇからな」

 この時代、行き倒れの死体や、金がなくて葬ってやれない家族の遺体等を川に捨てることは珍しくなかったのだという。それに入水自殺をする者もいる。だから流れている遺体は引き上げなくてもいいことになっているらしい。

 気持ち悪いの我慢して引き上げたのに……。

 夕輝は肩を落とした。
「けど、親分、この死骸、斬り殺されてやすぜ」
 死体の脇にしゃがみ込んでいた兵蔵が言った。
「辻斬りか……ま、引き上げちまったし、斬り殺されてるんじゃ知らん顔もできねぇな」
「すみません」
「いいってことよ! 兵蔵、お前ちょっと行って東様連れてこい」
 兵蔵はいつの間にか集まっていた野次馬をかき分けて走っていった。
 平助は死体の脇にしゃがみ込むと、十手で手首を持ち上げたりし始めた。

 死後硬直を調べてるのか。

 死後硬直という言葉がこの時代にあるかは分からなかったが、経験でそういうものがあることは知っているようだ。
 死体は背中を斜めに斬られていた。
 水に洗われた為か、着物は赤黒く染まっていたが、死体に血はついていなかった。
「それで? お前はこんなとこで太一とウナギ捕りか?」
「ウナギは捕れなかったのでシジミを」
「お峰にもらっただけじゃ足りねぇか」
「いえ、お小遣いまでもらうわけにはいかないので必要な分は自分で稼ごうと」
「おう、いい心掛けじゃねぇか。捕れたか?」
「はい」
 そんな話をしている間に兵蔵が東を連れてきた。
 夕輝と太一は邪魔にならないようにその場を離れた。

「シジミは八文だな」
 夕輝と太一は大川沿いにある小料理屋を見つけて庖丁人(ほうちょうにん)にシジミを買ってくれないかと持ちかけた。
「これはいくらでやすか?」
「ウナギは六匹で十二文だな。ほらよ」
 男はそう言うと夕輝に二十文渡した。
 小料理屋を後にすると、夕輝は二十文の中から八文を取って残りを太一に差し出した。
「ほら、お前の分」
「いや、いいでやすよ。兄貴が取っておいて下せぇ」
「何言ってんだ、お前が捕ったウナギなんだからお前の金だろ。ほら」
「でも……」
「いいから、早く受け取れ」
「じゃ、遠慮無く」
 太一は恐る恐る受け取ると懐から巾着を出してその中に入れた。

「押し込みのあった見世の手代?」
 夕餉の席である。
 夕輝が引き上げた死体の身元が分かったらしい。
「一昨日、伊勢屋って材木問屋に押し込みがあってよ。その見世の手代の茂吉ってヤツだったのよ」
 平助が説明を始めた。

 茂吉の手引きで押し入った七人組の男達は、番頭の一人を脅して内蔵を開けさせ七百数十両を奪って逃げた。
 押し入った連中は騒いだ手代二人と、内蔵を開けさせて用済みになった番頭を殺していた。
 それと、縛られて猿轡(さるぐつわ)を噛まされていた見世の(あるじ)一家の内、主人が戻したものを喉に詰まらせて死んでいた。

「そういうことがあるんですか?」
「猿轡を噛まされると時々戻すことがあんだよ。けど猿轡してると戻したものを吐き出せねぇだろ。それが喉に逆流して詰まると窒息すんのよ」

 猿轡って怖いんだな。

 手引きした茂吉は押し込みと一緒に逃げた。
「茂吉も用済みになったからやられたんだろうな。茂吉の方は分け前にありつけると思ったんだろうけどよ」
 それで茂吉は驚いたような顔をしていたのだろうか。

 悪銭身につかずって言うのはこういう場合使えるのだろうか。

 その日も、夕輝と太一はシジミを捕っていた。
「最近、椛(ねえ)さんに会いやせんね」
「いつから椛ちゃんの弟になったんだよ。お前、同い年だろ」
「いや、兄貴のお知り合いでやすから」
「兄貴はやめろって言ってんだろ。俺は破落戸(ごろつき)じゃないぞ」
「兄貴を見て破落戸だと思うヤツはいねぇと思いやすが」
「当たり前だ」

 破落戸だなんて思われてたまるか。

「そういえば、お前、椛ちゃんを襲ったんだったな」
「すいやせん。あのときは、平次兄……平次が誰かから椛姐さんを(かどわ)かしてきたら十両やるって言われたらしくて……」
「え? 可愛いからよからぬ事をしようとして襲ったんじゃなかったの?」
 意外だった。

 椛ちゃんのうちってそんなにお金持ちそうには見えなかったけどな。

 一戸建てではあったがそんなに大きくはなかった。
「兄貴はお里さんより椛姐さんの方が好みなんで?」

 なんでお里はさん付けなんだ。

「お前はお里ちゃんの方が好きなの?」
「好きって言うか、お里さんの方がきれいでやすよね」
「そうなの?」
「口は小さくて、目は切れ長で瓜実顔(うりざねがお)で……」
 瓜実顔というのはその名の通り、瓜のように細長い顔らしい。
 夕輝は前にTVで観た浮世絵の美人画を思い浮かべた。

 あれ、馬面だろ、どう見ても。

「きっと何とか小町って呼ばれてやすぜ」
「ふぅん」

 そういうもんなのか。
 俺は椛ちゃんの方がきれいだと思うけどな。

「兄貴はどう思いやす?」
「どっちがきれいと思うかは人によって違うんじゃないか?」
「あ、噂をすれば、ほら」
 太一の言葉に顔を上げると、お里がお米を連れてこちらへ歩いてくるところだった。

       三

「天満さん、こんにちは」
 お里は夕輝をじろじろ見ながら言った。
 夕輝は尻っぱしょりしていたことに気付いて慌てて着物の裾を下ろした。
「こんにちは」
「ちょうど良いところで会いましたね。変な男に尾けられてるみたいなんです。送っていってくれませんか?」

 なんで俺が……。

「いいけど」
「じゃあ、行きましょう」
「太一、お前先に帰ってろ。お峰さんに、俺は帰りが少し遅くなるって伝えといてくれ」
「へい」

 太一が行ってしまうと、お里達は歩き出した。見世とは反対方向に向かおうとしている。
「お見世に帰るんじゃないの?」
「これから祖母の家に届け物をしに行くんです。それから帰ります」
 お里は当然のように言った。
 夕輝はげんなりしながらお里達と共に歩き出した。

 すっかり遅くなっちゃったな。
 暮れ六つはとっくに過ぎ、辺りは暗くなっていた。
 夕輝は一人で帰り道を急いでいた。
 そのとき、叫び声が聞こえた。

 近くだ!

 夕輝は駆けだした。

 駆けつけてみると、椛が牢人風の男に腕を掴まれているところだった。
「椛ちゃん!」
「夕輝さん!」
 椛が夕輝の顔を見て叫んだ。
「十六夜」
 いつの間にか繊月丸が隣にいた。
 繊月丸が刀の姿になる。
 夕輝は繊月丸が刃引きになっているのを確認してから、男に刀を向けた。
「小僧、やめとけ」
 男が言った。

 夕輝は構わずに刀を青眼に構えた。
 男は椛を放すと抜刀した。
 白刃(はくじん)が闇の中でかすかな光を放った。
 男は八相(はっそう)に構えた。

 こいつ、出来る!

「椛ちゃん、逃げろ!」
 夕輝は男から目を離さずに言った。
 椛は一瞬逡巡した後、背を向けて駆けだした。
 夕輝と男は睨み合ったまま動かなかった。
 やがて、男が足裏を擦るようにしてじりじりと間を詰めだした。
 夕輝は斬撃の起こりを待っていた。
 男が一足一刀の間境(まざかい)の半歩手前で止まった。
 二人の睨み合いがどれくらい続いたろうか。
 不意に夕輝の剣先がわずかに上がった。
 男の気迫に押されて剣先が浮いてしまったのだ。
 その瞬間、男は八相から袈裟に振り下ろした。
 夕輝は青眼から真っ向へ。
 二人の刀が弾き合った。
 青白い火花が散った。
 刹那、二人は二の太刀を放った。
 夕輝は小手へ、男は胴へ。
 夕輝の放った小手は、男の手の甲をわずかに打ったが、刃引きなので斬れたりはしなかった。
 男の刀は夕輝の着物の腹部を裂いたが身体には届かなかった。
 二人は同時に後ろに跳びさすると再び剣を構えた。
 夕輝は青眼に、男は八相に。
 今度は即座に技を放った。
 夕輝は胴に、男は袈裟に。
 夕輝の剣が胴に届く前に、男の刀が夕輝の左肩を切り裂いた。

 斬られた!

 夕輝はとっさに後ろに跳んだ。
 左肩の焼け付くような痛みに、初めて殺されるかもしれないと思った。
 その瞬間、恐怖が夕輝の身体を貫いた。
 恐怖と痛みで身体が硬くなり、剣先が震えた。
 いや、身体が震えているのだ。

 このままでは本当に殺される!

 初めて斬られる事を恐れた。
 パニックになりそうなのを何とか押さえようとした。

 落ち着け!

 夕輝は何とか冷静になろうとした。
 みんなこんな怖い思いをして戦ってたんだ。
 男がにやりと笑った。
 夕輝は少しずつ後ずさりし始めた。
 男が八相に構えて間合いを詰めてくる。
 夕輝は男の剣を受けようとわずかに剣先を上げた。

 来る!

 剣が振り下ろされそうになった時、
 びしっ!
 石礫(いしつぶて)が男の額に当たった。

 石が当たったところから血が流れた。

 今なら逃げられる!
 でも、椛ちゃんは無事に逃げられたのか?

 男が憤怒の形相で、それでも剣を振り下ろそうとした時、石礫が立て続けに飛来し、顔に当たった。
 逃げろと言うことらしい。
 夕輝は逃げることにした。
 椛のことは気になったが、そちらへ行くことは出来ない。それに、男に背を向ければ斬られる。
 タァッ!
 夕輝は裂帛(れっぱく)の気合いを上げると男に斬り付けた。
 構えも何もない。
 ただ振り下ろしただけだった。
 男が剣先を弾いた。
 夕輝はそのまま男の脇を走り抜けた。
 男が追ってくる。
 夕輝は懸命に走った。
 恐ろしかった。
 ただ、この恐怖から逃れたくて必死に駆けた。
 しかし、肩からの出血が思いの外多いらしく、頭から血が引いて顔が冷たく感じた。

 椛ちゃんは……。

 夕輝が男をまこうと角を曲がった時、何者かが夕輝と併走し始めた。
 右を向くと椛だった。
 いつもより遅いとは言え、男の夕輝と同じ速さで走っていた。
「夕輝さん、こちらへ」
 椛が不意に左に曲がった。
 慌てて夕輝も曲がった。

 狭い路地を何度か曲がり、小さな稲荷の祠の陰に逃げ込んだ。
 二人はしばらく息を潜めていたが男は追ってきていなかった。
 諦めたらしい。
 夕輝は思わず溜息をついた。
 気が抜けた途端、痛みが戻ってきた。
「痛っ……!」
 思わず顔をしかめて肩を押さえた。
「怪我を見せて下さい」
 夕輝は椛に言われるままに着物の上半身を脱いで傷を見せた。
 流れ出した血で肩から下は裾まで真っ赤に染まっていた。
 椛は、夕輝の破けた着物の袖を切り裂いてさらしのようにすると、肩に巻き始めた。

「さっき石投げたのって、椛ちゃん?」
 痛みに顔をしかめながら訊ねた。
「はい」
「足も速かったし、この前の破落戸も倒しちゃったし、ホントに普通の女の子?」
 椛は小首をかしげて考え込むような表情をした後、
「私の一族は忍びの訓練をしています」
 と答えた。
「忍びって、お庭番って言う……」
「お庭番ではありません。お庭番というのは公方様直属の隠密です」
「公方様の部下じゃないって事?」
「そうです」
「でも、忍びの訓練をしたんだよね?」
「そうですが、見世物や芝居でやってるような荒唐無稽な忍術が出来るとは思わないで下さい」
 手際よく夕輝の肩に布を巻き付けながら答えた。

「天井に張り付いたり、水の上を歩いたりは出来ないって事?」
 夕輝が痛みに顔をしかめながらも冗談めかして訊いた。
「そうです」
 椛が微笑んだ。
「私は多少武術の心得がありますが、女の忍びの仕事は主に女中などに化けて情報収集をすることです」
「それだけ?」
「夢を壊しても申し訳ないので言っておきますと、男の忍びは手裏剣を投げたり、天井裏や床下に忍び込むこともあります。うちは忍びの一族ではないのでやりませんが」
「いや、別に忍者に夢を持ってるわけじゃないけど。でも、お話とかに出てくる忍者とは随分違うんだね」
「お話ですから」
 それもそうだ。
「送ります。帰りましょう」

       四

「夕ちゃん! どうしたんだい、その怪我!」
 夕輝の帰りが遅いのを心配して峰湯前に出ていたお峰が、椛に肩を借りて歩いてきた夕輝を見て声を上げた。

 最初こそ自分で歩いていた夕輝は、途中から足下がふらつくようになり、やがて椛に肩を借りないと歩けなくなったのだ。
「申し訳ありません。私を助けようとして夕輝さんが怪我をしてしまいました」
 椛が頭を下げた。
「とにかく、中へ。お前さん! ちょっと来とくれ! お前さん!」
 お峰は椛に変わって夕輝に肩を貸すと、戸口に向かった。

 椛が扉を開ける。
「なんでぇ、騒がし……夕輝! どうした!」
 平助は、
「おい! 小助! 仙吉!」
 家の中に向かって叫んだ。
 小助達が何事かと出てくる。
「小助! 布団ひけ! 仙吉、お前ぇは良庵先生呼んでこい!」
 小助達はすぐに行動に移った。

 その後のことはどたばたとしていて良く覚えてなかった。辛うじて覚えているのは医者が来て、寝かされていた夕輝を診たことだけだった。

 夕輝は数日間寝込んだ。
 何度か椛が見舞いに来たようだが、意識がはっきりしていなかったので何を話したかは覚えてない。

 夢うつつの中、気付くと枕元に少女の姿の繊月丸が座っていた。
「繊月丸……」
「十六夜、痛い?」
「ちょっとね」
 夕輝は安心させるように微笑んだ。
「繊月丸、この前は随分タイミング良く出てきたな。どうしてあそこに来たんだ?」
 椛が襲われた時、繊月丸がいたのは偶然ではないような気がしたのだ。
「あれは望の仕業だから」
「椛ちゃんを襲ったのが?」
「そう」
「あいつが望?」
「あれはただの手先」
「どうして望が椛ちゃんを襲うんだ?」
「未月の一族だから」
「未月……天満の一族って言うのとなんか関わりがあるのか?」
「天満一族が絶えた時、未月一族が跡を継ぐ」
「それって……」
 そこまで言って夕輝は意識を失った。

 ようやく起きられるようになった日の夕餉が終わると、
「平助さん」
 夕輝は平助の前に正座した。
「どうしたい、改まって」
「俺、甘く考えてました。真剣で戦っていても、刃引きの刀を使ってるから、殺してないからって軽く考えてました」
 殺していないから責任はないと思っていたのだ。
「でも、殺してなくても命のやりとりをしてることには変わりなかったんですね」
「怖くなったかい?」
「はい。恥ずかしいですけど、怖いです」
「真剣が怖くない方がおかしいやな」
「じゃあ、もう捕り物には行かないでくれるかい?」
 お峰が訊ねた。
「いえ、これからもお手伝いさせていただきます」
 お峰に答えた後、平助の方を向くと、
「足手まといにならないようにしますので、これからもよろしくお願いします」
 と言って頭を下げた、
「おう、頼りにしてるぜ」

「夕ちゃん、太一知らないかい?」
 お峰が辺りを見回しながら言った。
 稽古場から帰ってきて峰湯を手伝っていた夕輝は、薪の山から顔を上げた。

 あいつ、どっかでサボってんのか?

 お峰は太一を探しながら向こうに行ってしまった。

 しょうがないヤツだな。

 そのとき、夕輝の足下に何かが転がってきた。
 亀の根付けだった。
 それを拾って顔を上げると、誰かが走っていくところだった。
 その紐の部分に紙が結びつけてある。
 この根付け、太一が持ってた……。
 夕輝は急いで紙を開いた。

 えっと……………………読めない。
 人に読ませたかったら楷書で書け!

 夕輝は仙吉の所へ行って読んでもらった。
「正覚寺? それってどう行けばいいんですか?」
 夕輝は道を教わると、
「仙吉さん、すみません、少し休憩させていただきます」
 仙吉に頭を下げると走り出した。

 正覚寺は、寺が立ち並んでいる一角にあった。
 正行寺、本立寺……、正覚寺。

 ここだ!

「太一!」
 夕輝が正覚寺の境内に飛び込むと、大勢の男達がいた。
「来やがったな!」
 兄貴分と思しき男が言った。
 この前、太一と一緒に椛を襲った連中の一人だ。
 辺りを見回すと、男達の向こう側の木の根元の辺りに太一が倒れていた。
「お前ら! 卑怯だぞ!」
「るせぇ! やっちめぇ!」
 男達が一斉にかかってきた。

 夕輝は帯に差してあった鉄扇を手に取った。
 男の一人が匕首を突き出して突っ込んできた。
 体を開いて匕首をかわすと、手首に鉄扇を叩き付けた。
 骨が折れるような鈍い音がして匕首が落ちる。
 次の男が右斜め前方から匕首を振り下ろしてきた。
 匕首を弾くと、男の鳩尾に鉄扇を叩き込んだ。
 左から匕首を腰だめにして突っ込んできた男をよけると、足をかけて転ばせた。
 次の男の匕首をよけながら転ばせた男の手を踏んで匕首を手放させた。
 目の隅に何かが映った。
 振り返りざま、鉄扇を横に払った。
 後ろから切りかかかってきた男の首筋に鉄扇が決まった。
 前から二人が同時に突っ込んできた。
 とっさに右に飛ぶと、片方の男の肩に鉄扇を振り下ろした。男の手から匕首が落ちる。
 匕首を取り落とした男をもう片方の方へ蹴り飛ばした。
 二人がもつれあったまま転がる。
 兄貴分らしい男が匕首を振り上げて向かってきた。
 匕首を弾くと、鉄扇を肩に思い切り叩き落とし、ついでに鳩尾に叩き込んだ。
 男が(うずくま)る。

 夕輝は男の襟首を掴んで顔を上げさせた。
「お前が平次か!」
「そ、それがどうした」
 平次が苦しそうな顔で言った。
「先に裏切ったのはお前の方だ! これ以上、太一に手を出すな! 文句があるなら俺のところに来い!」
 そう言うと、平次を放して太一に駆け寄った。
「太一!」
 夕輝は太一を抱き起こした。
 顔中アザと傷だらけだった。胸や脛など、着物から覗いてる部分も同様だ。
「あ、兄貴、面倒かけて……すいやせん」
「いいから、黙ってろ。今、峰湯に連れてく!」
 頭を打っているとしたら下手に動かさない方がいいと聞くが、ここへ置いていくわけにもいかない。
 太一を歩かせるのは無理そうだった。
 夕輝は何とか太一を背負うと峰湯に向かって歩き出した。

 太一を背負って帰ってきた夕輝を見たお峰が驚いて駆け寄ってきた。
「太一! 夕ちゃん、一体どうしたんだい!」

 夕輝は太一を部屋に寝かせると、医者を呼んで戻ってきたお峰に事情を話した。
「兄貴、女将さん、ご迷惑をおかけしてすいやせん」
「そんなことはいいから早くお休み」
「すいやせん」
「夕ちゃんの次は太一とはねぇ」
「すみません」
 夕輝は恐縮して頭を下げた。
「しばらくは太一はここで預かるとして、太一のご家族に断っとかないといけないね。太一、ご家族はどこにいるんだい」
「……いやせん」
「じゃあ、一人で暮らしてたのかい?」
「へい」
「どこで?」
 夕輝が訊ねた。
「今は正覚寺の先の廃寺に……」
「野宿してたのか!」
 着てる物はお仕着せの単衣(ひとえ)半纏(はんてん)だし、ここは湯屋だから風呂にも入っていたので気付かなかった。
「へい。ずっと平次の所に居候してたんでやすが、ヤツと(たもと)を分かってからは居候するわけにもいかなくなったんで……でも、店請してくれる人がいねぇと長屋は借りられねぇし……」
「なら早くお言いよ。今夜からうちで暮らしな。部屋は……」
「あ、俺と同じ部屋で」
 夕輝が即座に言った。
「いいのかい?」
「俺だけ一人で部屋使ってて申し訳ないと思ってたんです。それに、仙吉さん達の部屋はこれ以上寝られないでしょうし」
「そうかい。それじゃ、そうさせてもらおうかね」

       五

 稽古場の稽古の前後は新入りが雑巾がけをする。
 雑巾がけが終わり、着替えて稽古場を出ると足早に峰湯に急いだ。
 シジミ捕りをする時間を作る為にも、峰湯の手伝いをしっかりしなければならない。
 いつの間にか数人の少年達のすぐ後ろになった。
 横顔を見ると同じ稽古場の門弟だった。

 四、五人が一塊になり、その少し後ろを一人の少年がついていく。
「やあ」
 夕輝は少年に話しかけた。
 よく見ると同い年くらいらしい。
「あ……」
 少年が顔を上げた。
 黒い羽織に青灰色の袴、腰に二刀を帯びているところを見ると侍らしい。
 少年らしさを残した優しげな顔をしていた。
「天満殿もこちらですか」
「うん……あ、君、お侍さんだよね。敬語使わないといけない……です、か?」
「いえ、気遣いは無用です」
「ありがと。確か、桐生君だったよね。俺は天満夕輝」
「拙者は桐生祥三郎と申します」
 二人は並んで歩き出した。
「俺のことは夕輝でいいよ」
「では、拙者のことは祥三郞と」
「分かった」
「夕輝殿は筋がいいと言われてましたが、以前どこかの稽古場に通っておられたのですか?」
「いや、初心者だよ」

 確かに現代では剣道を習っていたが、今の稽古場は木刀での形稽古だけで、防具を使った試合形式の稽古はしていなかった。
 防具が存在してないわけではないようだが一般的ではないらしく、この稽古場では使っていなかった。
 木刀での形稽古には慣れてなかったので、一からやり直す気持ちで始めたのだ。

「夕輝殿は武家ではないのですか?」
「やっぱり分かる?」
「はい」
「祥三郞君が剣術習ってるのはお侍さんだから?」
「拙者は部屋住みなので、父が剣で身を立てられるようにと」

 後で平助に聞くと、部屋住みというのは、跡継ぎではない次男三男等の息子のことなのだという。
 家や御役目を継げるのは跡継ぎだけなので、長男以外はどこかに養子にでも行かない限り、家長に養ってもらうことになるため、部屋住みとか冷や飯食いとか言うらしい。

「剣術が上達すれば仕事に就けるって事?」
 夕輝が訊ねると、祥三郞は苦笑した。
「そう上手くいけばいいのですが……。戦乱の世ならともかく、今は泰平の世故」
 そうそう簡単に仕事に就けるというわけではないという。
「平和なのはいいことだと思ってたけど、仕事がなくて困る人もいるんだね」

 でも、俺は戦乱の世じゃなくて良かったと思うけどな。

「剣術の腕がなくても、顔が良ければどこかの旗本のお嬢さんに見初(みそ)められる事もあるのですが」
「そんなうまい話があるの?」
「拙者の下の兄は役者にしてもいいようないい男で、二千石の旗本のお嬢さんに見初められて婿にいきました。うちは五十石の御家人故、うちよりいい家です」
「へぇ」

 役者にしてもいいかどうかはともかく、祥三郞も顔はいい方だ。この時代の基準ではどうなのか分からないが。
 ちなみに家格や家柄が釣り合っていないと縁組みは認められないので、祥三郞の兄は一旦旗本の家に形式的に養子にしてもらったらしい。

「夕輝殿も午後の稽古に出てないようですが、何か理由でも?」
「居候してる峰湯の手伝いする為に午後の稽古は休ませてもらってるんだ。祥三郞君は?」
「拙者は勉学の為に」
「勉学……じゃあ、論語も習った?」
 ご隠居が侍は算術はやらないと言っていた。となれば、後は古文や漢文、歴史などのはずだ。
「勿論、論語も習いました」
「じゃあさ、時間がある時でいいから教えてくれないかな」
 夕輝の知識で長八に教えるのはそろそろ限界だった。
「夕輝殿も論語をたしなまれるので?」
 祥三郞が顔を輝かせて言った。
「いや、うちのお客さんで論語を教えて欲しいって人がいるんだけどさ、俺もそんなに詳しくないから」
「喜んで。人に教えるのはいい復習になります故」
「ありがと」
 祥三郎が快く引き受けてくれてほっとした。
 この時代は身分の違いがあるので、武士が町人に教えてくれるか心配だったのだ。どうやら祥三郞は身分に拘らない性格のようだ。
 まぁ、身分を気にするなら夕輝が町人と分かった時点で離れていっているだろう。
「いつからですか? 今日からでもいいですが」
 祥三郞は乗り気だった。
「今日、長八さん来てるかな? 来てなくても、うち、湯屋だから汗流していかない? それで長八さんが来てたら教えてよ」
「分かりました」
 祥三郞は笑みを浮かべて快諾してくれた。

 優しい人だなぁ。

「違う! もう一度最初から!」
「ひとはおのれを……」
「そこ! 間違ってる! もう一度!」
「ひ、ひと、おのれを……」
「違う! もう一度!」
「ひ、ひ、ひとのおのれを……」
 祥三郞は勉強を始めるといきなり性格が豹変した。
 長八をびしびしと鍛えていく。

 怖ぇー。
 車を運転すると性格が豹変する人がいるっていうけど、祥三郞君は勉強始めると性格変わるんだな。

「今日はこの辺にしておきましょう」
 祥三郞がそう言った途端、長八は力が抜けたようにその場に突っ伏した。
「祥三郞君、結構厳しいんだね」
 祥三郞を送って峰湯の玄関まで出たところで言った。
「あ、申し訳ない。どうしても学問のこととなると見境がなくなる故……」
 祥三郞は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「学問、好きなの?」
「はい。拙者は剣術より学問の方が好きなんです」
「じゃあ、剣術じゃなくて学問の方で仕事に就くことは出来ないの?」
「拙者も、出来ればそうしたいのですが、うちは番方(ばんかた)故……」

 そう簡単にはいかないのかな。

「婿に行けなかったら家を出て学問指南所をやるつもりです」
 将来のことを考えている祥三郞にかける言葉が見つからなかった。
 これが現代なら、高校生になったばかりなんだから将来のことはこれから考えていけばいい、と言えただろうが、この時代、祥三郞の年で仕事をしている人は珍しくないのだ。
 自分も仕事を見つけなければいけないのかな、と思う反面、この世界のことはまだよく知らないからどうすれば見つかるのかよく分からない。
 何より、夕輝は現代に帰りたいと思っていた。
 それもそう遠くない未来に。この世界で生きていく覚悟は出来ていないのだ。

 残月ってヤツに勝てたら帰してくれるって言ってたよな。

 今の自分の腕ではまだまだ勝てそうにない。
 もっと修行しなければ。

 引き返して家に入ろうとすると、ちょうど出てきた長八と顔を合わせた。
「長八さん、お疲れ様でした」
「夕輝さん、これからも夕輝さんに教わるわけにはいかねぇんですかい?」
「もう、俺の知識じゃ無理ですよ」
「そうですか……」
 長八は肩を落として帰っていった。

       六

「繊月丸、朔夜と会いたいんだ。出来るか?」
 夕輝は刀の姿の繊月丸に声をかけた。
 繊月丸が少女の姿になる。
「うん。こっち」
 繊月丸はすぐに夕輝の先に立って歩き出した。

 繊月丸の後について歩いているとき、道ばたに数人の人が固まってるのが見えた。
 思わず近付いて覗き込むと、金魚売とそれに集まった人達だった。
「どうだい、安くしとくよ」
 金魚が入れられた桶を覗き込むと、小さな亀が一匹、泳いでいた。

 亀か……。

 夕輝は懐から巾着を取り出した。
「おじさん、この亀いくら?」
「十六文、と言いてぇところだが八文にしといてやるよ」

 良かった。

 お峰にもらった二十文に手を付けずにすんだ。
 夕輝は八文を金魚売に渡すと亀を受け取った。
「待たせちゃってゴメンね、行こうか」
 夕輝は亀を大事に右の手のひらに載せ、左手で上を押さえながら言った。
 手の中の亀がもそもそ動いてくすぐったかった。

 寺に着くと夕輝は辺りを見回して池を見つけると、
「もし玉手箱を貰ったらお前にやるから、なるべく早く迎えに来てくれよ」
 と言いながら放した。

 亀を池に放してしばらく待つと、木立の間から朔夜と残月が出てきた。
「繊月丸」
 夕輝が声をかけると繊月丸が日本刀の姿になった。
 ――刃引きになるの?
 繊月丸が頭の中に話しかけてきた。
「頼む」
 ――残月となら刃引きじゃなくても大丈夫だよ
「頼むよ。刃引きになってくれ」
 夕輝がそう言うと繊月丸が刃引きの日本刀になった。
「それから先っぽのところ、丸くしてくれ」
 繊月丸の先端が丸くなった。
 ――カッコ悪い。恥ずかしいよ、十六夜。
「ゴメン、少しの間だけ我慢してくれ」

「刃引きか。お優しいことだ。だが、俺は刃引きになどしないぞ」
 残月がそう言いながら抜刀して青眼に構えた。
 夕輝も青眼に構える。
 残月が足裏を擦るようにしてじりじりと近付いてくる。
 一足一刀の間境で残月が止まった。
 二人は睨み合ったまま動かなかった。
 どれだけの時間がたったのか。
 数瞬か数刻か。
 不意に夕輝の剣先が下がった。
 誘いだった。
 残月が真っ向へ切り下ろしてきた。
 夕輝も真っ向へ。
 二人の眼前で刀が弾き合った。
 すかさず二の太刀で小手を放った。
 残月の腕から大分離れたところで刀が止まった。
 夕輝の喉元に残月の刀が突きつけられていた。

 一瞬睨み合った後、夕輝と残月は刀を下ろした。
「残念だったな。まぁ、この前より多少は良くなってたぜ」
 そう言うと踵を返して歩き始めた。
 朔夜が残月に併せて踵を返す。
 歩き出そうとして夕輝の方を振り返った。
「十六夜、この『えど』は君の知ってる江戸じゃない」
「どういう意味だ」
「『えど』がどういう字を書くのか誰かに訊いてみるといい」
 朔夜はそう言い残して木立の間に消えていった。

「じゃあ、まだ伊勢屋に入った盗賊は捕まってないのかい?」
 お峰が言った。
 夕餉の席だった。
 平助は連日盗賊の探索に出歩いていた。夕輝が手代の死体を見つけた伊勢屋だけではなく、他にもいくつかの大店が盗賊に入られていた。
「手掛かりもなくてよ。次にどこかが押し込まれる前ぇに捕まえてぇんだがな」
 平助が漬け物をかじりながら答えた。
「平助さん、『えど』ってどういう字を書くんですか?」
 夕輝は平助に訊ねた。
「なんでぇ、知らねぇのか」
「えっと、その……」
 夕輝は言葉を濁した。
「こうだよ」
 お峰がそう言って、畳の上に指を走らせて『江都』と書いた。
「『ど』って都って書くんですか?」
「そうだよ」

 まさか……。

「『えど』は水郷(すいごう)の都だろ。だから江都(こうと)って書いて江都(えど)って言うんだよ」
 お峰が説明してくれた。

 昔は江戸のことを江都って言った……訳ないよなぁ。
 と言うことはここは俺のいた世界とは別の世界だっていうのか?

 となると、何百年待っても自分のいた世界へは帰れないことになる。
 夕輝は池に放した亀を思い出した。

 亀を助けても無駄だったのか……。
 まぁ、いいけど。
 それに、いじめられてるところを助けたわけじゃないしな。
 金で買って恩を売ろうなんて虫が良すぎたか……。

 その夜、夕輝が布団に横になると、
 ――十六夜……。
 頭の中に繊月丸が話しかけてきた。
 どうした?
 ――あの亀……。
 うん、何?
 ――海亀じゃないよ。
 …………。
       一

 夕方、夕輝が峰湯を手伝っていると、知らない男がやってきた。
 風呂に入りに来たのではないようだ。
 渋い灰色の羽織を着た恰幅のいい四十代くらいの男で、目が細く笑っているような顔をしていた。その後ろに、前掛けをつけた痩せぎすの三十代後半くらいの男が風呂敷包みを抱えて従っている。

「ちょっと窺いますが、親分さんはいらっしゃいますかね」
 四十代くらいの男の方が仙吉に声をかけた。
「へい。いやす。どちらさまで」
「橋本屋伊左衛門というものです」
「少々お待ち下せぇ」
 仙吉はそう言うと母屋の方へ行き、すぐに戻ってきた。
「こちらで」
 男達を案内して中へ入っていった。

 夕輝がそのまま手伝っていると、
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
 お峰が出てきた。

 お峰について母屋に入ると、さっきの男達がいた。
「おう、夕輝、こちら橋本屋さんだ」
 夕輝は訳が分からないまま頭を下げた。
「お里ちゃんの親御さんだよ」
 お峰が言い添えた。

 お里の親が怒鳴り込んでくるような事した覚えはないんだけど……。

「娘に訊いたのですが、天満様は剣術の達人だとか」
「いえ、そんな大層なものでは……」

 文句を言いに来たわけじゃないのか。

 でも、なんでお里が自分のことを剣術の達人などと思ってるのか不思議だった。
 お里の前では戦ったことはないはずだが。
「盗賊が捕まるまでの間で構いませんからうちに寝泊まりしていただけないでしょうか」
「え?」
「橋本屋さん、盗賊の中にいる侍ぇは一人だけじゃねぇんだ。夕輝一人泊まったところでどうにもならねぇぜ」
「剣術の達人が寝泊まりしているとなれば盗賊も手を出してこないんじゃないでしょうか」
「けどなぁ。どうする夕輝」
「ただとはもうしません」
 橋本屋はそう言うと、懐から白い紙包みを出した。
「これでいかがでしょう」
 夕輝にはそれがなんなのか見当もつかなかった。
「金のこと言ってんじゃねぇんだよ」

 お金だったのか。

「やられるって分かっててみすみす夕輝を危ねぇところにやるわけにはいかねぇってんだよ」
「天満様はどう思われてるんでしょう」
 橋本屋が夕輝の方を向いた。
「俺で役に立てるんならやってもいいですけど、平助さんの言ってるように侍が一人じゃないなら俺がいてもどうにかなるかどうか……」
「うちには女子供もいます。安心を買いたいんです。どうしても駄目でしょうか」
 そこまで言われると夕輝としても断りづらい。
 平助は腕組みをして考え込んでいる。
 お峰は眉をひそめていた。お峰としては夕輝をそんな危ないところへ行かせたくないようだ。

「本当に、寝泊まりするだけで役には立たないかもしれませんよ。それでもいいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
 橋本屋と後ろの男が畳に手をついて頭を下げた。
「平助さん、お峰さん、いいですか?」
「夕輝が決めたんならしょうがねぇな」
「無理はしないって約束してくれるね」
「はい。気を付けます」
 橋本屋は平助や夕輝と打合せをすると帰っていった。
「じゃあ、夕輝、これはお前のだ」
 平助は橋本屋が置いていった紙包みを「五両ってとこだな」と言いながら夕輝に渡した。
「あ、これはお峰さんに。食費の足しにして下さい」
「夕ちゃん、そんな気を遣わなくてもいいんだよ。これは夕ちゃんが取っておおき」
「これがありゃ、シジミやウナギ捕る必要ねぇんだぜ」
「でも、俺、そんなにお金必要じゃないし、これは俺の食費って事で」
「欲がねぇなぁ」
「そこまで言うなら一応預かっとくよ」
 お峰はそう言うと紙の包みを手にした。
「行くときは太一も連れてけ。戦力にはならなくても、なんかの役には立つだろう」

 その日から夕輝と太一は橋本屋の一階の帳場に寝泊まりすることになった。
 打合せで、橋本屋一家や奉公人達は二階で寝ることにし、盗賊が押し込んできたら夕輝は二階へ上がる階段のところで応戦、太一は盗賊の隙を突いて逃げ出し平助のところへ知らせに行くことになった。
 昼間はいる必要がないので、夕方、暮れ六つの少し前に橋本屋に行くことになった。

 太一と一緒に日本橋大伝馬町の橋本屋へ向かっているときだった。
 往来で牢人と思われる、小豆色のような何とも言えない色の着物を着た男が、土下座をしている女性と、その女性にしがみついて泣いている小さな女の子に向かって怒鳴っていた。女性と女の子は母子のようだ。
 どうやら女の子が牢人の刀にぶつかったらしい。
(かんぬき)差しでこんな人通りの多いとこ歩いてりゃぶつかって当然だろ」
「あいつ、またやってるな」
「ああやって金をせびってるんだよ」
 閂差しというのは地面と平行に刀を差すことらしい。
 確かに普通は地面に垂直に近い形に差す落とし差しにするものだから、閂差しにしてたという事は最初からぶつかった人にいちゃもんを付けるつもりだったに違いない。
 遠巻きにして見ている野次馬がひそひそと話している。
 牢人は刀を持っているので、町人は迂闊に助けに入れないのだ。
「どうしてくれる! え!」
「申し訳ございません」
「謝ってすむものではない!」
「申し訳ございません。これでなんとか……」
 女性が巾着を差し出した。
 牢人は笑みを浮かべてそれを取り上げ、中を見ると、女性に叩き付けた。
「それがしを愚弄するのか!」
 牢人が刀に手をかけた。

 夕輝が母子の前に飛び出した時、羽織袴で二本差しの青年が牢人の後ろに立って刀の鞘の先端を持ち上げた。
 牢人が刀を抜こうとしたが、抜けなかった。
「何やつ!」
 牢人が振り返った。
「女子供相手に抜いたとあっては刀が泣くというもの。ここは引いてもらえまいか」
 青年が穏やかな声で言った。
 牢人は刀の柄を握ったまま青年を睨んでいたが、やがて抜くのを諦めると腹立たしそうな表情で行ってしまった。
 野次馬達が喝采する。
「兄貴、大丈夫でやすかい」
 太一がそばにやってきた。
 青年が親子の方に寄ってきたので夕輝はよけた。
 すっと通った鼻筋に知的な光をたたえた瞳、きりっとした口元。それでいて優しげな顔立ちをしていた。

 どこかで会ったことあったかな。

 見覚えあるような気がするのだが思い出せなかった。
「大丈夫だったかな」
 青年が夕輝に訊ねた。
「俺は何もしてませんから」
 夕輝が答えると青年は親子に向き直った。
「怪我はありませんか」
 優しく声をかけると、
「有難うございました」
 母親が平伏したまま礼を言った。
「あの人は行ってしまいましたから、もう立ち上っても大丈夫ですよ」
 青年の言葉に母親は立ち上がると、何度も礼を言いながら娘を連れて人混みの中に消えていった。

「君、無茶するね。刀の前に飛び出すなんて」
 青年が夕輝に言った。
「すみません。それより、後ろから刀の鞘を持ってましたけど、あれは……?」
(こじり)(がえ)しって言うんだ。あれをやると刀を抜けなくなるんだよ」
「そうだったんですか」
「君もあんまり無茶をしないように……」
 青年がそう言ったとき、
(ひさき)
 椛が人混みをかき分けて出てきた。
「あ! 椛ちゃん」
「夕輝さん」
「椛、知り合いなのか?」
 青年の優しげな表情が一瞬にして険しいものに変わった。
「天満夕輝さんです。夕輝さん、こちら私の兄の未月楸です」
「初めまして」
 夕輝は頭を下げた。

 椛ちゃんに似てたのか。

 楸は名前を聞いて誰か分かったようだ。
「椛を助けてくれたそうだね。有難う」
「いえ、助けてもらったのは俺の方です」
「椛が何度も見舞いに行ったそうだけど」
「はい」
「君と椛はどういう関係?」
「え? 知り合いですけど」
「それだけ?」
 楸が食い下がる。
「はい」
「じゃあ、椛とは何でもないんだな」
「はい」
「君は椛のことをどう……」
「楸」
 椛が顔をしかめて楸の袖を引っ張った。

 椛ちゃん、お兄さんのこと呼び捨てにしてるのか。
 この時代でそれが許されるのか?

 何か事情でもあるんだろうか。
「楸、先に行ってて下さい」
 楸は椛にそう言われて仕方なさそうに歩き出した。
「兄がすみませんでした」
 椛が頭を下げた。
「椛ちゃんのことが可愛くて仕方ないみたいだね」
 夕輝は笑いながら言った。
「はい」
 椛が頬を染めた。
 楸が少し行った先でこちらを睨んでいる。
「お兄さんが待ってるよ。それじゃあね」
 夕輝はそう言うと太一と連れだって歩き出した。

       二

 橋本屋の台所で下働きの人達と一緒に夕食を食べると、帳場に布団を敷いてもらって横になった。
「兄貴、来やすかね」
「兄貴はやめろ。来ないといいな」
 その夜は何事もなかった。

 翌朝、橋本屋の台所で朝餉をごちそうになった。
 店を開けている間はいる必要がないから二人は一旦峰湯に帰って、また暮れ六つ近くなったら来るのだ。
 裏口から出ようとしたとき、
「天満さん、ちょっといいですか?」
 お里が声をかけてきた。
「何?」
「帰るのはしばらく待っていただけませんか?」
「どうして?」
 お里は苦手だ。
 なるべくなら相手をしたくなかった。

「この前、変な男に尾けられてるって言いましたよね」
「ああ」
 あのときは散々な目に遭ったから覚えてる。
 まぁ、あれはお里のせいではないのだが。
「その男が時々この店を窺ってるんです」
「え! そうなの!?」
「はい。父は盗賊の下見だと思っているようですが、あれは私を見張っているんだと思います」
「それお父さんに言った?」
「言いましたが、信じてくれないんです。それで天満さんにその男を見てもらいたいんです」
「俺が見てもしょうがないんじゃない? そう言うのは平助さんに言った方が……」
「言えばどうにかしてもらえますか?」
「う~ん」
 夕輝は考え込んだ。

 これが警察だったら何もしてもらえそうにないが、御用聞きなら事件ではなくても動けるのではないだろうか。
 平助が出てこなくても下っ引きの誰かに探索させることは出来そうだが。

 お里にそう言うと、
「それでは天満さんがその男を見て親分さんに伝えて下さい」
 と答えた。

 結局見なきゃなんないのか。

 夕輝はうんざりしたが、放っておく訳にもいかない。
 見ていくとして太一はどうするか。
 迷った末、前に太一が言っていた「顔が広い」というのを信じて一緒に見せることにした。お峰が心配するといけないので、お里に頼んで丁稚の一人を使いを出してもらった。

 こう言うとき電話があれば……。

 店の入り口近くにある小部屋で太一とお茶を飲んでいると、お里が呼びに来た。
「天満さん、こちらです」
 お里について二階へ上がり、障子の隙間から覗いた。
 確かに通りを挟んだ向かいにある天水桶の陰からこちらを見ている男がいる。
 多分灰色だと思われる、よれよれの小袖を着流している。
 腰には刀を落とし差しにしていた。頬骨の張った目つきの悪い男だった。
 盗賊の下見なのか、お里のストーカーなのかは判断がつきかねた。
「どうだ、太一。見覚えは?」
「すいやせん、ないでやす」
「そうか」

 まぁ、それほど都合よくいくわけないしな。

「じゃ、お里ちゃん。俺達帰るから」
 夕輝はそう言うと、太一を連れて橋本屋を出た。
「兄貴」
「兄貴って言うな。何だ」
「あっしがあいつを尾けてみやしょうか?」
「あいつ、侍だろ。危ないんじゃないのか?」
「見つからなければ平気でやすよ」
「じゃあ、俺も一緒に行こうか?」
「いえ、一人の方が目立たねぇと思いやす。十分離れたところから尾けて、見つかりそうになったらすぐに逃げやす」
「まぁ、そう言うなら……。気を付けろよ」
「へい」
 太一はそう言うと人混みに隠れるようにして、男を見張れるところへ向かっていった。

 峰湯に帰ると平助は盗賊の探索に出ていた。

 そうか、盗賊の探索があったな。

 盗賊が捕まらない限り、お里のストーカーに人員を割くのは無理そうだ。
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
 夕輝が峰湯を手伝っているとお峰に呼ばれた。
「これ、ちょっとお花さんのところに届けてくれるかい?」
 お峰が風呂敷包みを差し出した。
「はい」
 夕輝は包みを受け取ると、峰湯を出た。

 下駄屋と酒屋の間にある路地木戸をくぐるとそこに裏店(うらだな)がある。
 時代劇でよく見る長屋というのは裏店のことで、通りに面した表店(おもてだな)表長屋(おもてながや))は店になっていて、その後ろに裏店が何棟かある。
 一口に裏店といっても大きさは色々あるのだが、お花の住んでいる長屋は土間に木製の流しと竈、そして四畳半くらいの板敷きの間があるだけだった。
 押し入れなどはない。荷物は「長持(ながもち)」と言う衣装箱のような物の中に入れるのだ。

「お花さん、夕輝です」
「入っとくれ」
 その言葉に夕輝は腰高障子を開けた。
「お峰さんから頼まれたもの持ってきました」
「夕ちゃん、丁度良かった。頼みたいことがあるんだよ」
「なんですか?」
「お唯ちゃんが届け物しに行くんだけど、今から行って帰ってくると遅くなるだろ。だから一緒に行って欲しいんだよ」
「いいですよ」
「あ、私なら大丈夫です」
 お唯が手を振った。
「何言ってんだい! ほら、例の辻斬りのことがあるだろ。女の子ばかり狙ってるって」
「ああ」
 そういえば、連続猟奇殺人があったんだった。
 犯人はまだ捕まっていないんだったっけ。
 お唯は可愛いから変質者に目をつけられてもおかしくない。
「いいです。夕輝さんに悪いですから」
「気にしなくていいよ、お唯ちゃん。俺だって付き添いくらいは出来るよ」
「でも……」
「いいからいいから。ほら、遅くなるよ。行こう」
「……すみません」
 お唯は頭を下げた。

       三

 夕輝と並んで歩き出したお唯は手には風呂敷包みを持っていた。
「どこへ行くの?」
「縫い物を届けに、大伝馬町(おおでんまちょう)太物屋(ふとものや)さんまで。おっかさんは仕立物の内職をしているんです」
「そうなんだ」
「いつもはもっと早く行くんですけど、おっかさんの具合が悪かったから、なかなか仕上がらなくて。だからどうしても今日届けないといけないんです」
「お母さん、病気なの?」
「ただの風邪なんですけど、身体が弱いから……」
「具合が悪いのに内職してるの?」
「おとっつぁんも働いてるけど、おっかさんの薬にお金がかかるから……」
 この時代は健康保険なんてないもんなぁ。
「奉公に行くのもお金が必要だから?」
「働いても足りなくて、お金も借りてるんです。そのお金を返さないといけないから……」
「そっか」
 恵まれた環境にいる夕輝には、お唯にかける言葉が見つからなかった。

 二人はしばらく黙って歩いていた。
「……あれなんだろ」
 ふと見ると、道ばたに数人の子供が集まっていた。
 みんな何か食べていた。
「お唯ちゃん、行ってみよう」
「はい」

 心太(ところてん)売りか。

 片側に網を張った四角い箱に心太を入れて、反対側から棒で突いて押し出している。
「おじさん、それ二つ」
「夕輝さん、私は……」
「俺一人じゃ恥ずかしいからさ、一緒に食べてよ」
「すみません」
「二つで四文だよ」
 夕輝は金を渡して心太を二つ受け取った。
「はい、お唯ちゃん」
 片方をお唯に渡す。
「有難うございます」
 お唯が礼を言いながら受け取った。
 夕輝は早速心太を食べ始めた。
「美味しいですね」
 お唯が嬉しそうに言った。
「そうだね」
 思ったより美味しかった。

 江戸時代は現代より遅れてるから、食べるものも美味しくないのではないかと何となく思っていたのだが、とんでもない思い違いだった。
 食べ物は新鮮だし、ご飯は普通に白米だし、アサリなんて大きくて現代とは比べものにならないくらい美味しかった。
 夕輝の家は江戸時代から東京――昔は江戸だが――に住んでるので江都の味付けも食べ慣れたものだった。
 ただ、江都では生野菜を食べない。
 サラダが食べられないのだけが残念だった。
 有機肥料だし農薬を使ってないし、きっと美味しいと思うのだが。
 しかし、野菜を葛西から運んでくる舟は、帰りに江都市中から集めた糞尿を乗せて帰るのだという。だから、寄生虫が心配なのだそうだ。

 肥料も肥やしだしなぁ。

 薬がないこの時代で、寄生虫に寄生されると分かっていて尚、生野菜を食べられる勇者はいないだろう。
 大伝馬町の太物問屋に着くと、お唯は中へ入っていった。
 夕輝は店の出入り口の脇の壁にもたれながら通りを行く人を見ていた。
 長い棒を担いで樽のような丸いものを転がしながら男が歩いていった。風車を手にした継ぎの当たった着物を着た男の子が母親らしき女性に手を引かれて歩いている。
 この辺は太物問屋が多いせいか小綺麗な女性や女の子が沢山通る。
 商家の人間らしき羽織姿の男達も通っていく。
 共通しているのは着物を着て髷を結っていると言うことだ。

 同じ東京なのに現代とは全く違う光景に、夕輝は世界から切り離されて一人迷子になったような心細さを覚えて、いつしか、現代の歌を口ずさんでいた。

「夕輝さん、お待たせしました」
 不意にお唯に声をかけられて我に返った。
「じゃあ、帰ろうか」
 夕輝はお唯と並んで歩き始めた。
「夕輝さん、今の……唄? ですか?」
「ああ、うん。ゲームの主題歌……」
「げえむ?」
「あ、つまり、遊びの時の歌って言うのかな?」
「かごめかごめみたいな?」
「まぁ、そんな感じ」
 そんなに大きく外れてもいないだろう……多分。
「聞き慣れない言葉でしたけど、夕輝さんの国の言葉ですか?」
「いや、あれは英語。……海の向こうにイギリスって言う国があるんだ。その国の言葉だよ」
 正確にはアメリカ英語なのだが、この時代にアメリカが独立しているか分からないし、元はイギリスの言葉なのだからいいだろう。

「いぎりすっていう国の歌なんですか?」
「言葉は英語だけど作ったのは日本じ……この国の人だよ」
「どうしてこの国の人なのに異国の言葉で歌を作ったんですか?」
「その方がゲームのイメージ……遊びの雰囲気に合ってたからじゃないかな」
「そうなんですか。なんていう歌なんですか?」
「この国の言葉に訳すと、もしかしたら明日(あした)は……かな」
「もしかしたら明日は?」
「毎日つらいことや悲しいことがあるけど、一所懸命生きていれば明日は今日より良くなるかもしれない、みたいな感じかな」
「それ、私にも教えてもらえますか?」
「いいよ。あ、ただ、この国ってさ鎖国中だよね?」
「鎖国?」
 お唯が小首をかしげた。
「つまり……中国……じゃなくて、清とオランダ以外の国とは貿易しちゃいけないことになってるよね?」
「そう……なんですか」
 お唯はよく分からないようだ。
「とにかくさ、英語って言うのがバレると捕まっちゃうかもしれないから、他の人には内緒にしてね」
「はい」
 お唯は真面目な顔で頷いた。

 歌を教えているうちに長屋に着いた。
「夕輝さん、有難うございました」
 お唯が頭を下げた。
「俺で良かったらいつでも声かけてよ。お供くらいいくらでもするからさ」
 夕輝はお唯に見送られてお花の長屋を後にした。

 峰湯に帰ると太一が帰ってきていた。
 二人で橋本屋へ向かう道すがら、首尾を聞いたが、途中で見失ってしまったそうだ。

 まぁ、元々そんなに期待してなかったしな。

 翌日、
「おい、天満、今帰りか」
 同じ稽古場の門弟が声をかけてきた。
 夕輝より年上で二十歳くらい。羽織袴姿に二刀を帯びている。侍らしい。後ろに数人の若い門弟を率いている。

 確か、谷垣って言ったっけ。
「はい。そうですけど」
「一緒に帰るぞ。おい、桐生、荷物を持て」
「はい」
 祥三郞が谷垣の荷物に手を伸ばしたのを夕輝は肩を掴んで止めた。
「すみません。俺、祥三郞君と一緒に帰りますから。行こう、祥三郞君」
 夕輝はそう言って祥三郞を促した。
 谷垣がものすごい顔で睨んでいたが、気にしないで歩き出した。
 祥三郞は後ろにいる谷垣を気にしながら夕輝の後をついてきた。

「夕輝殿、いいのですか?」
「え? もしかして、俺、規則か何か破っちゃった?」
「いえ、規則は破ってませんが……夕輝殿はすごいですね。拙者だったら怖くて谷垣殿には逆らえません」
 確かに、取り巻きもいたし、威張ってる感じだった。
「祥三郞君を荷物持ちにさせようとしただろ。ああいうの嫌だから」
「夕輝殿はお強い」
「そんなことないよ。俺なんかまだまだ初心者だし」
「そうではなく……今日も夕輝殿のところへ行ってよろしいですか?」
「いいよ」
「長八殿はおられるでしょうか」
「来てると思うよ」
 祥三郞は教えるのが楽しくて仕方ないらしい。
 厳しい教えに音を上げそうになりながらも、長八はちゃんと来ていた。
 それも夕輝達が稽古を終える時間を見計らって来ている。
 何だかんだ言いつつ勉強する気満々なのだ。
 ただ、祥三郞の厳しさは峰湯の常連の中では有名なので、長八以外に教わりたいというものは現れなかった。

 勉強が出来て嬉しいなんて、現代では思ったこともなかったなぁ。

 祥三郞が帰り、橋本屋へ行くまでの間、峰湯を手伝っていると平助が来た。
「おう、太一、お前ぇ、良三と一緒に客の背中流してこい」
「へい」
 すぐに湯屋の方へ向かおうとした太一を、
「ちょっと待て」
 と言って止めた。
「ただ客の背中流してこいってんじゃねぇんだ。三助なら良三がいるからな」
「へい」
「客が葛西の草太って男の話をしていたら注意して良く訊いておけ。いいな」
「へい」
 太一は今度こそ湯屋の方へと走っていった。

「平助さん、葛西の草太っていうのは……」
「強盗の一人みてぇなんだ」
「どうやって突き止めたんですか?」
「何、金を手にした悪党がやるこたぁ、飲む打つ買うのどれかだからな」

 海辺大工町にある賭場を探っていた嘉吉が最近羽振りのいい男を探り出してきたのだという。それが葛西の草太だ。
 葛西の草太の(ねぐら)を探しているのだが、なかなか見つからないらしい。
 さすがに草太が平助がやってる湯屋に入り来るようなことはないだろうが、彼を知っている者の話に出るかもしれないので、客の話を聞き逃さないように太一にも三助をさせるらしい。

 もともと平助がここで峰湯をやっているのも、情報を集める為、彼に手札を渡している東が金を出して始めさせたのだ。
 湯屋の男湯は朝早くから始めるが女湯は少し遅い。女性は食事の支度などがあるかららしい。
 女湯を始める前の時間、御番所の与力や同心が女湯に入りに来る。男湯で交わされる話から事件の参考になる噂を聞く為もあるのだそうだ。
 峰湯は与力や同心が入りに来るから女湯があるが、湯屋は混浴のところが圧倒的に多いらしい。

 混浴じゃなくて良かった。

 混浴だったら夕輝は恥ずかしくて入れなかっただろう。
 もっとも混浴のところは素っ裸ではないらしいが。
 そろそろ七つ半を過ぎたかな、と言う頃、太一が夕輝のところへやってきた。二人はお峰に断って峰湯を後にした。

「どうだ、なんか聞けたか?」
「それがさっぱりで……力が弱いとか散々(ののし)られちまいやした」
「三助ってのも簡単じゃないんだな」
「草太ってヤツが見つかって盗賊が捕まったらもう橋本屋へは行けなくなるんでやすね」
「何、お前、橋本屋に行くの楽しいの?」
「そりゃ、お里さんがいやすし」
 そんなにお里がいいかね。
「お里ちゃんには縁談の話が来てるんだから変な気起こすなよ」
「そこまで世間知らずじゃありやせんや」

       四

 夕輝が稽古場から戻ってきたとき、
「天満様はいらっしゃいますか!」
 青い半纏を着た男が駆け込んできた。
「俺ですけど、どなたですか?」
「わたくしは柳橋にある篠野(ささの)という料理茶屋の手代です。天満様、わたくしといらして下さい」
「どうしたんですか?」
「橋本屋さんが大至急天満様に来ていただきたいと。何でも胡乱(うろん)な牢人に尾けられたとかで」
「分かった。ちょっと待ってて下さい。太一、お前、お峰さんに出かけるって言ってきてくれ」
「へい」

 夕輝は部屋へ戻ると繊月丸を掴んで飛び出した。玄関へ出たところでお峰が駆け寄ってきた。
「夕ちゃん、夕ちゃん、町人が刀なんか持って歩いちゃ駄目だよ。これでくるんでいきな」
 そう言って(むしろ)に繊月丸をくるんでくれた。
 それを小脇に抱えると、手代と一緒に走り出した。後ろから太一もついてくる。

 篠野は柳橋の一角にあった。
 中へ入ると大声で罵り合っているのが聞こえた。
 男が乗り込んできたのか!?
「橋本屋さんはどこですか!」
「こちらです!」
 手代が階段を上っていく。夕輝と太一は急いでその後に続いた。

 二階の座敷の一部屋に入ると、橋本屋とお里、それに五十代くらいの羽織を着た男と、手代と同じ半纏を着た五十代半ばくらいの男がいた。
 半纏を着た五十代の男は篠野の主人のようだ。
 お里の父親と篠野の主人が怒鳴り合っている。
 そして、床に二十代くらいの若い男が首に手をやったまま目を剥いて倒れていた。
「あんたが毒を盛ったんだろ!」
 橋本屋が半纏を着た男を怒鳴りつけていた。

 毒?

「なんでうちが近江屋さんの息子さんを殺さなきゃなんないんです。やったのはそちらでしょう!」
「なんであたしが見合いの相手を殺すんですか!」
「会ってみたら、ヒラメみたいな顔してるのが気に入らなかったんでしょうよ」

 ぶっ!

 太一が吹き出した。
 今にも笑い出しそうな太一を肘で突いた。
 太一は後ろを向いた。その背中が震えている。
 お里も顔を背けて袖で口を押さえていた。
 夕輝は敢えて遺体の方を見なかった。見たら笑ってしまうことは容易に想像がついたからだ。

「商売に顔は関係ないのはあんたも商売人なら分かってるでしょう! 宗佑さんはヒラメみたいな顔でも伊勢屋ではやり手の番頭だったんですよ!」
「しかし、お里さんはそれだけの器量だ。ヒラメよりもっといい男の方がいいと思っても不思議じゃないでしょうが!」
「さっきから聞いてれば何ですか! 人の息子をヒラメヒラメって!」
「皆さん、落ち着いて下さい」
 夕輝は口論している大人達の中に割って入った。
「おい、太一、平助さん呼んでこい」
「へい」
 夕輝が大人達を(なだ)め、別の部屋に集めたとき、太一が平助と嘉吉を連れてやってきた。

「それで、どうしたって?」
「この人が毒を盛ったんですよ!」
 橋本屋が篠野の主人を指して怒鳴った。
「だからなんでうちがそんなことしなきゃなんないんですか! うちは料理を出しただけですよ! やったとしたらそちらでしょう!」
 また怒鳴りだした二人を、
「るせぃ!」
 平助が一喝した。
 男達が黙る。

「順序よく話してみな」
「最初は和やかに話してたんですよ。宗佑さんは無口でしたけど。そこへ料理が運ばれてきて、そのとき突然苦しみだして……」
「料理に手はつけたのかい?」
「そう言えば……まだ食べてませんでした」
「その前ぇに口にしたのは?」
 平助が近江屋に訊ねた。
「お茶を……」
「なら茶に毒が入ってたって事かい。死骸はどこでぇ」
「こちらです」
 半纏を着た男が廊下を挟んだ向かいの部屋に案内した。
 男がさっきと同じ格好で倒れてる。
 顔を見ないように下半身に目を向けた。苦しんだらしく、裾が乱れて足が着物からはみ出していた。
「おい、嘉吉。東様呼んでこい」
「へい」
 嘉吉が飛び出していく。
 平助は倒れている男の手首を十手で持ち上げたりしていた。

 しばらくすると平助が東を連れて戻ってきた。
 東も平助と同じように検屍(けんし)をした。
「平助、どう見る」
「へい。首を絞められたみてぇな殺され方してやすが、そんな痕はありやせんね」
「当然ですよ。誰も首なんか絞めてないんですからね」
「こんな死に方する毒なんかあったか?」
「訊いたことありやせんね」
「橋本屋と近江屋、それに篠野の人間に話を聞くとして、おい、平助、誰か良庵先生のところに使いを出せ」
「おい、嘉吉、良庵先生を連れてこい」
「へい」
 嘉吉は飛び出していった。
「夕輝、太一、お前ぇ達はもう帰っていいぜ」
「はい」
 夕輝が出て行こうとしたとき、
「ちょっと待って下さい!」
 橋本屋が引き留めた。
「天満様には帰り道、手前どもを守っていただこうと思って来ていただいたんです。帰られては困ります」
「そうか。じゃあ、仕方ねぇな。二人とも、その辺で待ってろ」

 夕輝と太一は玄関脇の小さな部屋に案内され、お茶を一杯出された後は放っておかれた。
「兄貴、今日のお里さん、きれいに着飾ってツボかったでやすね」
「壺!?」
 夕輝は辺りを見回して、部屋の一角に花を生けてある茶色い壺を見つけると指さした。
「壺ってあれ?」
「兄貴にはお里さんがああ見えるんで?」
 太一が呆れ顔で言った。
「見えないから聞いてるんだろ。何だよ、ツボいって」
「花の蕾のように可愛らしいって事でやすよ」

 同じ日本なのに江戸時代の言葉は分からない。
 現代って江戸時代から百年くらいしかたってないのに、なんでこんなに言葉が違うんだ。

 そんな話をしているとき、廊下が騒がしくなった。
 覗いてみると年配で羽織を羽織り、変わった髷の男が三人程、玄関に向かってくるところだった。
「なんで医者があんなに……」
 太一が呟いた。
 どうやら髷の形で医者と判断したらしい。

 医者ってああいう髷をしてるのか。

 後ろから篠野の主人がついてくる。
 医者達は口々に「無駄足だった」とか「人騒がせな」などと言い合っていた。
 玄関ではその三人の供らしい男が三人、静かに待っていた。
 医者達が出て行くと、東が平助達を伴ってきた。
「おう、夕輝、太一、待たせたな」
「平助さん、何があったんですか? 今出てきた人達は……」
「珍しい毒だって聞きつけて蘭学の学者先生達が見に来たのよ」
「それで? 何の毒か分かったんですか?」
「毒じゃなかったんだよ」
「じゃあ、なんだったんですか?」
「寄生虫だとよ」
「寄生虫? いきなり死ぬような寄生虫がいるんですか!?」

 江都の寄生虫は化け物か!?

「いやいや、そうじゃねぇよ。寄生虫が喉に詰まったんだと」
「喉に詰まったって……」
「どうもな、げっぷか何かした拍子に胃の腑にいた寄生虫が喉をあがってきて、口から飛び出しそうになったんじゃねぇかって言うんだよ。でも、大伝馬小町の前ぇで寄生虫を吐き出せねぇと思ったんだろ。それで飲み下そうとして喉に詰まったんじゃねぇかって」

 怖ぇー。
 寄生虫恐るべし。
 肥やしで作った野菜のサラダを食べたいなんて二度と考えないぞ。

 ていうか、太一の言う通りお里って小町って呼ばれてたんだな。
「ま、誰のせいでもねぇから橋本屋も篠野も無罪放免になったぜ」
 平助がそう言っているところへ橋本屋がお里を連れてやってきた。
「近江屋さん、それではまた近いうちにご挨拶にあがりますよ」
 橋本屋がそう言い、お里も近江屋に頭を下げた。
「天満様、お待たせしました。帰り道、よろしくお願いしますよ」
 その言葉に、夕輝は筵に巻いた繊月丸を掴んで立ち上がった。
 夕輝の後から太一がついてくる。
 外に出るとすっかり暗くなっていた。

       五

 暮れ六つを過ぎ、通りの商店はどこも閉まっていた。夕輝の後から太一、橋本屋、お里、手代がついてくる。
 大川端を歩いていたとき、
「兄貴! 前に誰かいやす!」
 太一が言った。
「天満様! 後ろにも……!」
 橋本屋が後ろを振り返りながら言った。
「待ち伏せか」
 夕輝は立ち止まった。
「みんな固まって俺の後ろへ」
 前後の男達が近付いてくる。

 どちらの男もよれよれの小袖を着流しにし、太刀を落とし差しにしていた。
 夕輝は筵の中から繊月丸を取り出した。
 男達は何も言わずに抜刀した。
 背の高い男が右手に、お里のストーカーが左手に。
 夕輝も刀を抜いた。
 右手の男が青眼に構え、左手の男が八相に構えた。
 夕輝は右手だけで青眼に構えた。左手には鞘を持っていた。
 男達がじりじりと近付いてくる。
 夕輝はゆったりと構え、斬撃の起こりを待っていた。
 右手の男が先に動いた。
 真っ向へ振り下ろされた刀を弾くと同時に左手の男が袈裟に。
 右手の男の二の太刀を避ける為に後ろに跳びながら左手の男の刀を鞘で跳ね上げて、そのまま鳩尾に叩き込んだ。
 鳩尾を突かれた男が蹲る。
 右手の男が再度青眼に構えた。
 夕輝も鞘から手を放すと青眼に構えた。
 二人はほぼ同時に仕掛けた。
 夕輝は小手を、男は袈裟に振り下ろした。
 二人の太刀が弾き合う。
 一歩踏み込んで二の太刀を胴へ。

 入った!

 男が太刀を落として蹲る。
「太一、平助さんにこいつらのこと知らせてくれ」
「へい」
 太一は今来た道を走って引き返していった。
「俺達も早くここを離れましょう」
 夕輝はそう言うと橋本屋達を連れて歩き出した。

 胡乱な牢人が狙っているのはお里だと言うことで、今度はお里の護衛をすることになった。
 別の人を雇った方がいいと言ったのだが、どうしても、と頼み込まれ、他にもっと腕の立つ人が見つかるまで、と言う条件で引き受けてしまった。
 橋本屋は再び紙にくるまれた金をよこしてきた。夕輝はそれもお峰に渡した。
 剣術の稽古は休みたくなかったので、護衛は午後だけ、出掛けるときに店の者が呼びに来ると言うことになった。

「夕輝、ちょっといいかい」
 峰湯を手伝っていた夕輝に平助が声をかけた。
 八つの鐘が鳴っているところだった。
「何ですか?」
 汗を手ぬぐいで拭きながら訊ねた。
「草太を今川町で見かけたってぇヤツがいたんでよ、塒を探りに行くんだよ。一緒に来るかい?」
「はい」
 夕輝はお峰に断ってくると、平助について歩き出した。
 太一は薪の調達に行っていていなかった。

 両国橋を渡り、南下して一之橋を渡り、更に南下して万年橋と上之橋を渡って今川町に入った。

 今でも、街角を曲がる度に、現代の町並みが現れるのではないかと期待してしまう。
 その希望を打ち砕くのは、木造の家屋でも、着物を着て髷を結っている人達でもなく、青い空だった。
 現代では絶対見られない青い色をしている透明な空。
 現代の空は汚れていたのだと気付かされる、秋でもないのに抜けるように高い空。
 その高さはいくら手を伸ばしても届かない程遥か遠くにあって、同じように現代はどんなに頑張っても行かれない場所にあると言われているようだった。
 晴天が続くと黄色っぽい砂埃で煙ることもあるが、青空はどこまでも澄んで青く、夜は信じられないくらい明るく輝く満天の星空。
 空を見る度に、ここは江都なのだと思い知らされた。

「お前ぇ、酒は飲めるかい?」
 平助が歩きながら訊いた。
「いえ、飲めません。水は駄目ですか?」
「この辺じゃ水は買ってるからな。出してもらえねぇと思うぜ」
「どうして水を買うんですか?」
 八百屋と米屋の間にあった路地木戸から裏店の井戸が見えた。
 つまり水が出ないわけではない。
「この辺は海に近ぇからよ。井戸水はしょっぱくて飲めねぇのよ」

 大川より西は神田上水など、水道が引かれているので飲めるのだが、大川を挟んだ東側までは水道が引かれていないのだそうだ。
 夕輝は写真で見たローマの水道橋を思い出したが、この辺は平地だからああいうのを造るのは無理なのかもしれない。

 どちらにしろ日本は木造建築の国だしな。

「じゃあ、水を売りに来る人がいるんですか?」
「そう言うこった」

 何でも舟に大きな水槽を載せ、それに江戸城のお堀から落ちる水を汲んできて、後は水を入れた桶を天秤棒で担いで売って回るのだそうだ。

 江戸時代には水売りなんて商売もあったのか。

 そんな話をしながら平助は縄暖簾の店を見つけるとそこへ入っていった。
「いらっしゃい」
 中は大して広くなかった。まだ時間が早いせいか他に客はいなかった。
 二人は空いている席に着くと女将らしい女性がやってきた。平助は女将に魚の煮付けと酒と、夕輝の為にお茶を頼んでくれた。女将はすぐに酒肴の膳を運んできた。
「女将さんかい?」
「そうだよ」
「酌をしてくれるかい? 男二人で飲んでもつまんねぇからよ」
 平助は素早く一朱銀を女将の手に握らせた。
「少しならいいよ」
 女将は愛想良く言って平助の隣に腰を下ろした。袖の下が効いたのと、他に客がいないからいいと思ったようだ。
「俺は平吉、こいつは有三ってんだ。女将さんはなんてんだい?」
「おふくよ」
 女将の酌で二、三杯飲んだ後、平助は、
「おふく姐さん、草太って男知ってるかい? この前この辺で見かけたんだが」
「草太? どんな男だい?」
「猫背で細目が吊り上がってて狐みたいな顔した男だよ。右目の下にでけぇ黒子があるんだ」
「あたしは見たことないけど、この先にある小料理屋の女将の情夫(いろ)がそんな男だって訊いたことはあるよ」
「その店の名は?」
蓑屋(みのや)だよ。でも、なんでそんなこと訊くんだい?」
 おふくが訝しげに訊ねた。
「いや、折角きれいな姐さんに酌をしてもらうんだ。あがっちまって話が出来なくなっちまったら勿体ねぇだろ。だから話のネタを予め作っとくのよ。そうすりゃ話が出来るだろ」
「ま、きれいだなんて」
 おたふくに似た女将は嬉しそうにしなを作った。

 きれい……。
 まぁ、でも、この時代ではこういう顔が美人なのかもしれないし。

 夕輝は敢えて何も言わなかった。
 少なくとも平安美人の条件は満たしている。
 古文の先生が、平安時代の美人は下ぶくれの顔におちょぼ口、細い目だと言っていた。
 この時代は平安時代よりは現代に近いはずだが、平安時代から美人の条件は変わってないのかもしれないし、もしかしたら平助好みの顔なのかもしれない。

「こちらのお兄さんは無口なのね」
「あ、へい……平吉さんとお姐さんの話を遮っちゃいけないと思いまして」
 夕輝がそう言うと、平助が蓑屋のことを訊ねた。
 蓑屋自体はそこらにあるような飲み屋だが、女将の情夫はあまりいい噂を聞かない、とおふくは言った。
「その草太って人とどういう知り合いなんだい?」
「前に同じ長屋だったのよ。そのときよく米や酒を貸してやったんだが、ある日突然消えちまったからよ。どうしたのかと思ってな」
「折角縁が切れたんだから近寄らない方がいいんじゃないかい?」
 おふくがそう言ったとき、調理場から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「行かなきゃ」
 おふくが立ち上がった。
「姐さんと話が出来て楽しかったぜ」
 平助がそう言うとおふくは調理場の方へ戻っていった。それから小半時程してから夕輝と平助は店を後にした。
「これからどうするんですか?」
「後は明日だな。嘉吉辺りに蓑屋を探らせるか。今日は帰ろう」

       六

「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
 峰湯の手伝いをしていた夕輝にお峰が声をかけた。
「どうしたんですか?」
「お花さんを送っていってやって欲しいんだよ。荷物が重くてさ、夕ちゃん、ちょっと持ってやってってくれないかい」
「いいですよ」
「夕ちゃん、悪いねぇ」
 お花がすまなそうに言った。
「これくらい、何でもないですよ」
 夕輝はそう言ってお花の荷物を持ち上げた。

 重っ……。

 お峰達に手伝ってもらって何とか背負うと歩き出した。

 お花の長屋について荷物を下ろしたときは、思わず溜息をついてしまった。
「夕ちゃん、助かったよ。有難うよ」
「いいんですよ。俺に出来ることがあったらいつでも言って下さい」
「ほら、水飲むといいよ」
 お花は水を汲んできて夕輝に出してくれた。
 夕輝は有難くそれを飲んだ。
「いつもお峰さんから頼まれて持ってきてる荷物って、何が入ってるんですか?」
「人形の材料だよ」
「人形?」

 ほら、これだよ、とお花が人形を長持ちから出して見せてくれた。
 端切れなどを上手くつなぎ合わせた可愛い人形だった。
「これ、どうするんですか?」
 人形を返しながら訊ねた。
「縁日のときに売るんだよ。って言ってもあたしが売るわけじゃないけどね」
 要するに内職らしい。
「そうなんですか」
 結構売れるのだそうだ。
 こう言うのも貴重な収入源なのだろう。
 お花の部屋から出るとお唯がちょうど井戸端で洗濯を始めたところだった。
「お唯ちゃん」
「夕輝さん。こんにちは」
「こんにちは。家事はお唯ちゃんがやるの?」
「はい。おっかさんは具合が悪いし、おとっぁんは働いてますから」
「そうか。偉いね。頑張って」
 お唯に手を振ると長屋を出た。

 人気のない道を歩いているときだった。
「―――――!」
 声にならない悲鳴が聞こえた。

 前方の神社の中からだ!

 夕輝は走り出した。
 神社に駆け込むと奇妙なものが女の子を引きずっていた。
 それは人形(ひとがた)をしていたが、手足が異様に長く、黄色かった。まるで粘土で作ったように見えた。着ている物も、布きれが辛うじて巻き付いているだけだった。
 女の子が悲鳴を上げながらもがいていた。
 夕輝が駆け出そうとしたとき、
「十六夜」
 いつの間にか横に繊月丸が立っていた。
 繊月丸が刀の形になる。
 ――あれは人じゃないから刃引きにはならないよ。
 繊月丸が頭の中に話しかけてきた。
「人じゃない?」
 ――あれは望の手先。異形(いぎょう)のもの。
「異形のもの?」
 ――頭を切り落とさないと死なないよ。
「殺しちゃって大丈夫なんだろうな。殺しの罪で捕まったらシャレになんないぞ」
 ――頭を切断すれば消えて跡は残らないから大丈夫。
 ――手足を切り落とすと数が増えるから気を付けて。
「…………」
 よくは分からないが要するに化け物と言うことらしい。
 繊月丸を掴むと異形のものに走り寄った。

「その子を放せ!」
 異形のものが夕輝の方を振り返った。
 それには顔がなかった。
 目らしき細長い穴のようなものが二つ付いているだけだった。
「助けて!」
 女の子が叫んだ!
「今助ける! 動かないで!」
 夕輝はそう叫ぶと異形のものの腕を切り落とした。
 女の子が自由になる。
「逃げて!」
 しかし、女の子は恐怖で(すく)んでいた。

 その間に切断された異形のものの腕が盛り上がって人形になった。
 腕を切られた異形のものも両手が伸びた。
 夕輝は女の子と異形のもの達の間に入ると繊月丸を構えた。
 一体が腕を伸ばしてきた。
 切り落とさないように峰で叩くと、懐に飛び込んで首を横に払った。
 首が飛んだ。
 と思うと異形のものは粉になって崩れ去った。
 なるほど。これなら跡は残らない。
 殺人犯として捕まる心配はなさそうだ。
 残りの二体が同時に躍りかかってきた。
 意外に素早い。
 伸ばされた腕をくぐって鳩尾に繊月丸を突き刺した。
 しかし、異形のものは構わず腕を振り下ろした。
 異形のものを蹴って繊月丸を抜くと、もう一体の方に振り向きざま刀を払った。
 首より少し上だったが、粉になって消えた。

「―――――!」
 悲鳴に振り返ると、残り一体の異形のものが女の子に掴み掛かったところだった。
 振り上げた右手が刀のようになっていた。
「頭下げて!」
 夕輝はそう叫ぶと、後ろから異形のものの首を払った。
 首が飛びながら粉になって消えていく。
 夕輝は繊月丸を構えたまま、辺りを見回した。
 異形のものが消えているのを確認して刀を下ろした。
「大丈夫?」
 女の子に近付くと、屈んで目線の高さを同じにして訊ねた。
 女の子は泣きじゃくっていた。
「もう大丈夫だよ。ね」
 優しく言うとようやく泣き止んできた。
「家はどこ? 送ってあげるよ」
 女の子が指を差した。と言っても、その家が見えていたわけではない。大体の方向を指しただけだ。
 夕輝は女の子と手をつなぐと、その方向に歩き出した。
       一

 板塀に囲まれた小さな一軒家が並んでいる一角に夕輝は立っていた。
 椛の家の前である。
 夕輝は枝折(しお)り戸の前で迷っていた。
 聞きたいことがあってがあって訊ねてはきたものの、そんなに親しい仲でもないのに、と思うと図々しい気がするのだ。

 しかし、このままでは……。

「夕輝さん? どうしたんですか?」
 不意に後ろから声をかけられて、振り返ると風呂敷包みを手にした椛が立っていた。
 どこかからの帰りのようだ。
「私に御用ですか?」
「うん、その……」
「中に入りますか?」
 椛が家の方に手を振った。
「ご家族がいるんだよね?」
 椛の家族に聞かれたくないのだとすぐに察してくれ、
「では、歩きながら話しましょう」
 そう言って歩き出した。
 夕輝が隣に並んだ。

「それで? どうされたんですか?」
 椛が促した。
「今、頼まれて用心棒をやってるんだけど……」
「橋本屋ですね」
「知ってるの? もしかして、俺のこと調べた?」
 ならず者に取り囲まれてやり返した後、太一が夕輝を「兄貴」と言ったにもかかわらず、仲間じゃないと言ったときすぐに信じてくれたことを思い出した。
 あれは自分を探って知っていたからではないのか。
「初めて助けていただいたとき、狂言ではないかと思って念のため後を尾けました。その結果、天満の一族の方だと分かったので、改めて……」
 やはり、と言う思いがあったので腹は立たなかった。夕輝には後ろ暗いところはないので、むしろ探って潔白を確かめてくれて良かった。

「じゃあさ、お里ちゃんを狙ってる奴にも心当たりある?」
「私を狙っているのと同じ相手です」
「え、でも……」
 椛を狙ってるのは望のはずだ。
「もしかして、未月の一族って言うのと関係あるの?」
「残月……は説明という柄ではないですね。朔夜ですか」
 やっぱり、天満の一族について何か知っているのだ。
「繊月丸」
 椛は納得したように頷いた。
「どうして、未月の一族は狙われてるの?」
「一つは天満の一族が滅んでも未月の一族がいる限り凶月の望みは達成されないから」
「もう一つは?」
(にえ)として最も適しているから」
「贄!? 贄って、生贄のこと!?」
 椛は頷いた。

 生贄なんて何に使うんだろう……。

「でも、お里さんは未月の一族ではありません」
「え?」
「似ているんです。お里さんと……あのお唯って言う子」
「お唯ちゃんも!?……って、何が?」
「匂いが」
「なんの?」
「血の匂いです」

 それも贄って言うのと関係があるのだろうか。

「でも、そもそも天満の一族って何? 凶月って言うのは何をしたいの?」
「それを話す権限は私にはありません。朔夜か繊月丸に訊いて下さい」

 朔夜には聞いても無駄だろう。
 繊月丸なら話してくれるかな。

「じゃあ、お里ちゃんのことはどうすればいいの?」
「似てはいても、二人は未月の一族ではありません。向こうがそれに気付けば狙われなくなるはずです」
「どうすれば分かってもらえるの?」
「一番簡単なのは血を舐めさせることなんですが……」
「それは無理」
「でしょうね」
 二人は一時、黙り込んだ。
「私にもどうすればいいか分かりません。父と兄に相談してみます。何か分かればお知らせします」
「面倒かけてごめんね」
「夕輝さんには助けていただきましたから」
「助けられたのは俺の方だよ」
「最初に助けていただいたのは私です」
「でも、結局俺の方が……」
 そう言いかけた夕輝に椛が微笑んだ。
「よしましょう。どちらが助けたとか、助けられたとか言うのは」
「そうだね」
 椛の笑みにつられて夕輝も笑った。
「有難う」
 夕輝はそう言うと椛と別れた。

 やっぱり、当分はお里の護衛を続けなければいけないのか。
 お里が未月の一族と間違われて狙われてるからと言って、狙ってくるヤツに「違う」と言っても無駄だろう。
 繊月丸は雇われてるヤツだと言っていたし、そう言うのは違うと言われても引き下がるわけにはいかないはずだ。
 夕輝はうんざりした。

「兄貴、お里さんの使いが待ってやすぜ」
「兄貴って言うな。分かった」
「女将さんにはもう言ってありやすので」
「そうか、サンキュ」
「さんきゅ?」
「ああ、いや、ありがとって事だよ」
「兄貴の国では有難うのことをさんきゅって言うんで?」
「う~ん、俺の国って言っていいのかなぁ」

 thank you.は英語だが、サンキュだと、和製英語だし……。

 説明したいが、日本は鎖国中のはずだ。イギリスとは国交がなかったはずだから、英語はまずいだろう。だからお唯にも口止めをしたわけだし。
 どう説明すればいいのか考え込みながら歩き出した。
 太一が後からついてくる。

「夕輝さん、遅かったですね」
 お里が非難がましく言った。
「ちょっと行くところがあってね」
「私だって出掛けるところがあるんです。出掛けるのが遅くなったら、帰りも遅くなるじゃないですか」
 君の為に行ったんだよ、と言いたかったが黙っていた。どうせ言い訳にしか聞こえないだろう。
 やっぱりお里は苦手だ。
 夕輝は、腹立たしげなお里の後について歩き出した。

 帰り道、あと少しで橋本屋に着く、と言うとき、
「すみません、この辺で女の子を見ませんでしたか!」
 二十代半ばくらいの女性が必死の形相で訊ねてきた。
「子供がいなくなったんですか?」
 夕輝の脳裏にこの前の異形のものがよぎった。
「この辺に神社かお寺はありませんか?」
「神社ならそこに……」
「太一、お里ちゃんを送って行ってくれ。俺は神社に行ってくる」
「ちょっと待って下さい。ちゃんと送ってもらわなければ困ります」
「もう見世は見えてるだろ」
「でも、ちゃんと送り迎えしてくれる約束じゃないですか!」
「じゃあ、ついてくれば? 行きましょう」
 夕輝は女性を促して走り出した。
 お里は少し迷った後、ついてきた。

 そこは小さな神社だった。鳥居をくぐるとすぐに祠があった。その祠が血に染まっていた。
「おまさ!」
 女性が祠の前に倒れている女の子に走り寄った。
 女の子は首から血を流して倒れていた。
 女性が抱き起こすと、女の子の首が変な方向にねじ曲がった。
「―――――!」
 お里が少女の遺体を見て悲鳴を上げた。
 女の子の遺体の近くにあの異形のものが立っていた。
「な、なんだ!? 兄貴! 化け物でやす!」
 異形のものが振り返った。
「十六夜」
 いつの間にか繊月丸が横にいた。

 夕輝は刀の姿になった繊月丸を掴んだ。
 異形のものの腕は血で染まっていた。
 夕輝は刀を鞘から抜いた。
 左手に鞘を持ったまま、右手で青眼に構えた。
 異形のものが右手を振りかぶった。
 振り下ろされた右手を鞘で弾くと、左腕を払ってきた。
 屈んで左腕をかいくぐると、踏み込んで刀を横に払った。
 頭が胴体から離れると同時に粉になって消えた。
「き、消えた……、兄貴、今のは一体……」
「おまさ! 起きておくれ、おまさ!」
 太一の問いを母親の悲痛な叫びが遮った。
 夕輝達三人は女性の方を見た。女性は子供にすがって泣き叫んでいた。
 夕輝達は言葉もなく女性と女の子を見つめていた。

 やがて我に返った太一が、
「平助親分を呼んできやす!」
 と言って駆け出していった。

 しばらく待つと平助が兵蔵を連れてやってきた。
 それと前後して嘉吉と共に、供を連れた東も臨場した。
「ひでぇことしやがる」
 平助は怒りに声を震わせた。
「一体ぇ誰がこんな……」
「化け物よ!」
 お里が裏返った声で言った。
「化け物?」
「のっぺらぼうみたいなヤツでやした!」
 太一も言った。
 平助はお里と太一に目を向けた後、夕輝の方を見た。
「化け物ってな、なんだい」

       二

 平助の問いに、太一とお里が代わる代わる説明した。
 この前女の子を助けたとき、夕輝は異形のもののことを平助には言わなかった。
 信じてもらえないと思ったからだ。しかし、今回は太一とお里も見ている。
 二人の説明が終わると、平助は確認するように夕輝を見た。
 夕輝は黙って頷いた。
「化け物ねぇ。しかも、消えちまったんじゃお縄にするわけにもいかねぇな」
 平助は、どうしやす? と言うように東に目を向けた。
「念のためだ。他に見たもんがいねぇか、辺りを聞き込んでこい」
 平助にそう指示した東は、女性に話を聞き始めた。
 平助は夕輝達の方を見た。
「お前ぇ達はもう帰ぇっていいぜ」
 その言葉に、夕輝と太一はお里を橋本屋に送っていくと、峰湯に帰った。

 翌日、稽古場の稽古から峰湯に戻った夕輝は、お里の使いが来ていなかったのでお花の長屋へ向かった。
 太一が当たり前のような顔をしてついてきた。
 椛が、お里だけではなく、お唯も未月の一族に似ていると言っていたことが気になっていた。
 お唯まで狙われないか心配で長屋に様子を見に行くと、何やら騒がしかった。

 長屋の一室の前に住人達が集まっていた。
「お花さん、どうしたんですか?」
 夕輝はお花を見つけて話しかけた。
「あ、夕ちゃん、お唯ちゃんの迎えがきたんだよ」
「迎え?」
「吉原から……」
「吉原!? 吉原って遊郭の!?」
「そうだよ」
 それではお唯は遊女になるのか!?
「だって、お唯ちゃんは奉公だって……」
「吉原の遊女は年季奉公だよ」
 お花が当たり前のように言った。
「そんな……」
 夕輝は絶句した。
 だからお唯は奉公に行くと言ったとき悲しそうな顔をしていたのか。
 人垣の後ろから部屋を覗くと、お唯と目が合った。
「夕輝さん……」
 お唯がすがるような目で夕輝を見つめた。
 手には夕輝が贈った簪が握られている。
 夕輝は声も出せなかった。
 お唯の手を取って助けたい。

 でもどうやって?

 お唯の両親の借金を返せるだけの金は持っていない。今から働いたって稼げるとは思えない。稼げるくらいなら借金したりするはずがないのだ。
 ただお唯を見つめるしかなかった。
 夕輝とお唯の視線が絡み合い、二人は見つめ合った。
 やがて、お唯は俯くと男に続いて歩き出した。
 夕輝は拳を握りしめた。

 自分が情けなかった。
 なんで助けるって言えないんだろう。
 一生かかっても働いて返すからって……。
 言えるわけがない。
 言ったら帰れなくなる。
 だから、言えなかった。
 ごめん、お唯ちゃん。
 夕輝はうなだれた。

「兄貴……」
 太一が同情するような目で夕輝を見上げた。
「無理でやすよ。お唯ちゃんの借金はちょっと働いたくらいで返せる額じゃないでやすよ」
 太一が夕輝の考えを見抜いたように言った。
「……どうしてそんなことが分かるんだよ」
「どうしてって……そうじゃなきゃ、吉原に売られたりはしないでやすし……」
「…………」
「お花さんも言ってたように、年季奉公でやすし、お唯ちゃんも年季が明ければ帰って来やすよ。お唯ちゃんならきっとすぐに稼いで……」
「稼ぐって身体を売るって事だろ」
 夕輝は太一の言葉を遮った。
「そうでやすけど……でも、見世に出るのは十七になってからでやすし……禿(かむろ)になるって言ってやしたから……」
 太一が慰めるように言った。
「禿って雑用か何かか?」
「あんなに可愛い子を雑用に使うと思いやすか? 禿って言うのは花魁見習いでやす。教養を磨く為に教育されるんでやすよ。きっと売れっ子になりやすよ」
「だからそれ身体売ってだろ」
「でも、花魁になれば大店に身請けされて、そこのお内儀にもなれるかもしれないでやすし。裏店にいたら絶対無理でやすよ」

 お内儀というのは嫁のことらしい。
 いくら高級とは言え娼婦には違いないのではないか。
 現代なら高級でも娼婦だった女性は、普通の家でだっていい顔をされないはずだ。

「花魁ともなれば、教養もありやすし、客あしらいも上手いでやすからね」
 夕輝は身体を売ることに拘ってしまうが、江戸時代はそれほど気にはしなかったのだろうか。
 お花やお加代をはじめとした長屋の人達も仕方なさそうな顔をしている。
 夕輝は無力感に打ちのめされて長屋を後にした。太一の言葉も慰めにはならなかった。

 峰湯に戻ると、お里の使いが来ていた。
 狙われてるって分かってるんだから家で大人しくしてようとは思わないのかな。
 まぁ、太一は嬉しそうだからいいけど。

 お里の送り迎えをした帰り道。
 暮れ六つの鐘も鳴り終わり、東の空から広がり始めた夜が西の空へと広がっていく。
「すっかり遅くなったな」
「腹減りやしたね」
 そんな話をしながら前を歩く女性を追い抜いたとき、不意に血の臭いがした。

 え?

 夕輝が振り返るのと女性が倒れるのは同時だった。
「大丈夫ですか!」
 夕輝は慌てて駆け寄った。
 女性を抱き起こすと血の臭いが一層強くなった。
 女性の身体は恐ろしく軽かった。
 辺りが薄暗いからだろうか。青い顔をしているように見えた。肌は真っ白で、透き通るようというのはこう言うのを言うのだろうか。
 着物越しに触れた身体は骨張っていて、ものすごく痩せていた。
 ふと、女性の顔に見覚えがあるような気がした。
 女性の方も夕輝を見てはっと息を飲んだような表情をした。
「す、すみません……」
 女性が身を起こそうとする。
「無理しないで休んだ方が……」
「いえ、大丈夫です」
 女性が立とうとするので、夕輝と太一は立ち上がるのに手を貸した。
「送りますよ。どこへ行けばいいですか?」
「そこの橋のたもとへ……」
 女性が橋を指した。
 二人は女性を支えながら橋へ向かった。
「ここで結構です。連れが来ますので」
「一緒に待ちましょうか?」
「いえ、もう大丈夫です。有難うございました」
 それでも一緒に待つと言ったのだが、女性が強硬に行ってくれと言うので、夕輝と太一は女性を置いて歩き出した。

 しばらく行って振り返ると、武士と思われる二本差しの人影が橋を渡ってくるところだった。
 見ていると、女性は男性に抱えられるようにして、夕輝達とは反対の方へ歩き出した。
「なぁ、今の女の人さ……」
「きれいでやしたね」
「そうじゃなくて。血の臭いがしなかったか?」
「気が付きやせんでしたが」
 太一が振り返った。つられて夕輝も後ろを見たが、もう二人の姿は見えなかった。

       三

「化け物?」
 夕餉の席だった。
 今朝の殺しを目撃した者がいて、その話によると殺したのは化け物だというのだ。
「もしかして、のっぺらぼうでやすか?」
 太一が訊ねた。
 夕輝と同じく、この前の異形のものを思い浮かべたらしい。
「いや、女の化け物だそうだ」

 目撃者の話によると、倒れている女のはらわたを、髪を振り乱した女が四つん這いになって犬のように喰らっていたというのだ。
 夕輝は顔をしかめた。
 食事時に聞きたくはなかった。
 太一はわずかに眉をひそめながらも、箸を止めなかった。

 案外図太いんだな。

 夕輝は感心して太一を見た。
 ふと、さっきの女性のことを思い出した。

 まさかね。

 血の臭いだけであの女性だと決めるのは早計だ。あの細さからすると労咳(ろうがい)で大量の喀血(かっけつ)でもしたのかもしれないし、どこかに大怪我でもしていたのかもしれない。それに、太一は気付かなかったと言っていた。
 きっと、気のせいに違いない。

 夕餉が終わると、繊月丸を持って裏庭に出た。
「繊月丸」
 夕輝が呼びかけると、繊月丸は少女の姿になった。
「何?」
「天満の一族って何? 何やってるんだ?」
「天満の一族はこの地上を支配してる」
「支配? じゃあ、偉いのか? 何でも出来るのか?」
 夕輝は思わず大きな声で訊ねた。

 支配しているならお唯を助けられるのではないのか?

 それを訊いてみた。
身請(みう)けって事?」
「よく分からないけど、それでお唯ちゃんは助かるのか?」
「助けられるけど、十六夜は帰れなくなるよ」
「どっちかなのか?」
「うん」
「支配者なんだろ。お唯ちゃんを助けられないなら何をしてるんだ?」
「何もしないよ。天満は天の一族だから地上のことには干渉しない」
「じゃあ、なんの為に支配してるんだ?」
 何もしないのなら支配していると言えるのか?
地下蜘蛛(じげぐも)から地上を守ってる」
「地下蜘蛛? それ何? そいつが何をするの?」
「地下蜘蛛は地下に住んでる。人の血を糧にして生きてる」

 人の血……。

「もしかして、人のはらわたを喰らっていたって言う……」
「それは地下蜘蛛に取り憑かれた人間」
 繊月丸は、地下蜘蛛は地上を狙っている、と言った。
 地下蜘蛛の糧は人の血だから、地上へ出て人間達を喰らいたいと思っているが、天満の一族が押さえているから出てこられないのだと言う。
「取り憑かれた人間? 地下蜘蛛そのものじゃなくて?」

 繊月丸によると地下蜘蛛は炎の姿で人を喰らうのだという。喰われた人間は黒焦げになる。
 天満の一族が地下蜘蛛を押さえきれなくなったとき、地上で大火が起き、何万人もの人が地下蜘蛛に食われるのだという。
 明暦の大火などは天満の一族が押さえきれなかった地下蜘蛛が大量に地上に出てきたものだそうだ。

「人を()らってる人間って言うのはなんなんだ?」
「それは亜弓(あゆみ)
「亜弓?」
「亜弓は望月(もちづき)を打ち落とす為に地下蜘蛛の手先にされた人間」
 そのため、望が凶月になったと繊月丸が悲しそうに言った。
「亜弓は元は未月(かえで)だったもの」
「未月? もしかして椛ちゃんの……」
「お姉さんだった」
「だったって今は違うの?」
「今は亜弓」
 よく分からないが、もう未月楓とは違うと言うことらしい。
「十六夜。望を助けてあげて」
「凶月になったのに?」
「望は悪くない。望のせいじゃないの」
 繊月丸は大粒の涙を流しながら言った。
「……望が好きだった?」
「望はいつも優しかった。十六夜みたいに」
「俺は優しくないよ」
 自分は唯を助けなかった。
「望を止めてくれる?」
「望が死ぬことになるかもしれない。それでも?」
「それで望が泣かなずにすむようになるなら」
「そうか」
 夕輝に望を助けることが出来るかは分からない。ただ、繊月丸の悲しそうな顔は見たくないと思った。
 もう誰かが悲しむのを見るのは嫌だ。
 夕輝は刀の姿になった繊月丸を掴むと、嫌なことを振り払うように一心に素振りを始めた。
 東の空から昇ってきた月が西の空に傾くまでひたすら振り続けた。

 翌朝、稽古場で拭き掃除を終え、雑巾を片付けていると、
「夕輝殿!」
 祥三郞がやってきた。
「祥三郞君、おはよう」
 夕輝がそう声をかけると、祥三郞は顔を寄せてきた。
「夕輝殿、お気を付けて」
 祥三郞が小声で囁く。
「何が?」
「谷垣殿です」
「谷垣? ああ」
 以前、夕輝に一緒に帰るように言って祥三郞に荷物持ちをさせようとした門弟だ。
「この前のことを根に持っています。きっと仕返しをする気故、隙を見せぬように」
「有難う」
 夕輝がそう答えたとき、
「天満!」
 当の谷垣に呼ばれた。
 その後ろに、見知らぬ青年が三人立っていた。
 この稽古場の門弟ではない。
「なんですか?」
 夕輝は谷垣に歩み寄った。
 谷垣はにやにや笑いながら後ろの三人を振り返った。
「この三人は高田稽古場の門弟だ。お前と試合をしたいそうだから受けてやれ」

 なるほどね。

 自分が夕輝を叩きのめすと師匠に叱られるから、他の稽古場の者にやらせようという魂胆らしい。
「他流試合は禁じられてます」
「他流ではない。高田稽古場の高田先生は、我が大久保稽古場の大久保師匠と同じ中野稽古場で学んだ兄弟弟子だ」
「……そう言うことなら」
 仕方なくそう答えたとき、祥三郞が後ろから袖を引いた。
「駄目です、夕輝殿。谷垣殿のいつもの手です。あの三人は高田稽古場の高弟で、必ずうちの師匠の留守の時を見計らって連れてくるんです」
 祥三郞が小声で言った。
 さり気なく周りを見ると、皆こちらの様子を窺っていた。祥三郞の言う通り、良くあることのようだ。
「大丈夫。適当に負けてやれば気が済むよ」
 夕輝は祥三郞に囁き返した。
「しかし……」
 まだ何か言いたそうな祥三郞を残して、夕輝は壁に掛かった木刀を手に取った。
 高田稽古場の高弟三人は、背が高く――夕輝よりは低いが――がっしりしている肌の浅黒い男が石川、中肉中背の狐みたいな顔をしているのが奥野、眠そうな目をしている少し小太りの男が麻生と言った。
 夕輝が木刀を持って稽古場の中程に立つと、他の門弟達が壁際に退いた。

       四

 最初の相手は石川だった。
 礼をして木刀を構えた瞬間、夕輝の頭から雑念が一切消えた。
 夕輝が青眼に、石川が八相に構えた。
 石川が足裏をするようにしてじりじりと間を詰めだした。
 一足一刀の間境の手前で石川が止まった。
 夕輝と石川は睨み合った。
 どれくらいの時間がたったのだろうか。
 不意に夕輝の剣先が沈んだ。
 誘いだった。
 石川が八相から振り下ろした。
 夕輝はそれを弾くと同時に二の太刀で小手を放った。
 石川はそれを弾くと鋭く突いてきた。
 夕輝は体を開いてよけると石川の胴の直前で木刀を止めた。
 二人の動きが止まった。

 次の瞬間、見ていた門弟達の間からわっと言う歓声が上がった。
「浅い!」
「まだだ!」
 谷垣と石川が声を上げるのが同時だった。
 門弟達が静まる。
「天満! 今のは浅い! 一本取ったうちに入らん! もう一回だ!」
「谷が……!」
 祥三郞が声を上げかけたのを夕輝が手を上げて遮った。

 あれじゃ駄目か。

 確かに椛を襲った相手には通用しなかった。

 それなら……。

 夕輝の頭からは谷垣のことも試合のことも消えていた。
 どうすればあのときの敵を倒せるかだけで頭の中は一杯だった。
 夕輝は再び稽古場の中程に立ち、石川と礼を交わすと木刀を下段に構えた。
 石川が上段に構える。
 今度は夕輝から距離を詰めていく。
 一足一刀の間境の半歩手前で止まると、石川の斬撃の起こりを待った。
 二人はそのまま睨み合った。
 石川の額から頬にかけて汗が伝った。
 その汗が落ちたとき、二人は同時に技を放った。
 夕輝は下段から逆袈裟に、石川は上段から真っ向へ。
 二人の木刀が弾き合う。
 夕輝は更に一歩踏み込んで突きを放った。石川の喉の寸前で止める。
 石川の木刀は夕輝の胴を払おうとしたところで止まっていた。

「浅い! もう一度!」
 谷垣が悔しそうに叫んだ!
 夕輝は再び木刀を構えた。
 夕輝は脇構えに、石川は上段に。
 タァッ!
 一足一刀の間境を越えると同時に石川が裂帛の気合いを発して真っ向に振り下ろしてきた。
 夕輝はそれを弾くと、そのまま石川の懐に飛び込んで小手の寸前で止めた。
 石川の動きも止まる。

 谷垣は悔しそうに夕輝を睨むと、
「お前達もいけ!」
 後ろを振り返って残りの二人に命じた。
「谷垣殿!」
 祥三郞が叫んだが、頭に血が上っている石川達は構わず夕輝に向かってきた。
 石川が脇構えから胴へ。
 奥野が上段から真っ向へ。
 麻生が青眼から突きを。
 夕輝は胴に来た木刀を払って小手を打つと、石川は木刀を取り落とした。
 そのまま身体を回し、頭を下げて突きをかわしながら一歩踏み込んで胴を打った。
 奥野が腹を抱えて蹲る。
 反転して麻生が二の太刀を繰り出す前に面を放った。
 頭を殴るのはまずいので右肩を叩く。
 麻生が右肩を押さえて膝を突いた。

「くっ! 天満!」
 谷垣が木刀を振りかぶって突っ込んできたとき、
「何をしておる!」
 師匠の声が響き渡った。
 外出先から帰ってきたのだ。
 谷垣が慌てて木刀を下ろした。
 稽古場へ入ってくると、
「当稽古場では他流試合は禁じてるはず」
 夕輝や谷垣達を睨みながら言った。
「師匠、これは……」
「申し訳ありません。俺が稽古をつけてくれるように頼みました」
 夕輝は祥三郞の言葉を遮って頭を下げた。
「お前達、ちょっとこっちに来なさい」
 夕輝と谷垣達は母屋に連れて行かれた。

 五人は母屋で師匠の前に座らされた。
「当稽古場では他流試合は禁じている事は知っているな?」
 師匠の大久保源斎が夕輝達を睨んだ。
 夕輝が畳に手をついて頭を下げた。
「申し訳ありません。高田稽古場の先生は師匠と同じ中野稽古場で修行をされた方と聞き、それなら他流試合にはならないかと思い、稽古をつけて欲しいとお願いしました」
「試合ではなく稽古だったと?」
「はい」
 大久保はしばらく黙って夕輝達を見ていた。
「勝負でなかったのなら勝敗もないと言うことだな」
「は、はい」
 谷垣が答えた。
「石川殿、うちの弟子に稽古をつけてくれたことには礼を言おう。しかし、二度とそれがしに無断でこんな事はしないでいただきたい」
「はっ」
 石川達が頭を下げた。
「もう行きなさい」
 大久保の言葉に夕輝達が礼をして立ち上がりかけたとき、
「天満は残りなさい」
 大久保が声をかけてきた。
 谷垣は一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 夕輝が再び大久保の前に座る。

 四人が行ってしまうと、
「何か得るものはあったか」
 と訊ねられた。
「はい」
「これからも精進しなさい」
「はい」
「行きなさい」
 夕輝は手をついて師匠に頭を下げた。

 夕輝が稽古場へ戻ると祥三郞が駆け寄ってきた。
「夕輝殿だけ叱られたのですか? 拙者が師匠に申し上げて……」
「師匠は言わなくてもお見通しだったよ」
「では、叱られなかったのですか?」
「これからも精進しなさいって言われた」
「では、破門にはならないのですね」
 祥三郞が安心したように言った。
「うん。心配してくれて有難う」

「祥三郞君、今日うちに来る?」
 稽古場の雑巾がけが終わると祥三郞に声をかけた。
「あ、申し訳ありません。今日は……」
 祥三郞が申し訳なさそうに謝った。
「そう、じゃ、また今度ね」
 夕輝はそう言うと稽古場を後にした。

 最近、祥三郞君来ないな。

 夕輝は稽古場の方を振り返りながら思った。
 学問指南所を開きたいと言っていた程の祥三郞が教えるのに飽きたとは考えづらかった。

 何か事情があるのかな。

 それ以上深く考えずに峰湯に戻った。

「兄貴、最近桐生様、来やせんね」
 太一が薪を抱えながら言った。
「忙しいんだろ」
 夕輝も薪を持って立ち上がった。
「なんに忙しいんでやしょうかねぇ」
 太一が意味深に笑った。
「なんだよ」
「この前見たんでやすよ」
「見たって祥三郞君を?」
「女将さんの使いに行ったときに、桐生様が可愛いお嬢さんと一緒に歩いてたんでやすよ」
「祥三郞君が?」
「女と遊ぶ方がこんなところでむさ苦しい男に学問教えるよりよっぽど楽しいでやすからね」
「下世話なこと言うなよ」
 夕輝は呆れたように言った。
「ほんとでやすよ」
「いいから仕事しろ」
 夕輝はそう言うと薪運びを始めた。

 祥三郞君が女の子と?

 太一にはああ言ったものの気にならないと言えば嘘になる。
 確かに、祥三郞の年なら勉強より女の子の方に興味を持って当然だろう。

 太一が嘘をつくわけないし。

 しかし、祥三郞が学問を放り出して女の子と遊び歩くとも考えづらかった。

 ま、気にしてもしょうがないか。

 夕輝は薪運びを始めた。

       五

「帰ぇれ!」
 夕輝が稽古場から帰ってくると、太一が十歳くらいの女の子に怒鳴っていた。
「太一」
「あ、兄貴。お帰りなさいやし」
「なに子供に怒鳴ってるんだよ」
「すいやせん」
 太一は夕輝に頭を下げると、
「とにかく帰ぇれ」
 と言って女の子を追い返した。
「今の誰?」
「なんでもありやせん」
 太一はそう言うと湯屋の手伝いに戻っていった。

 数日後、お峰の使いでお花の長屋に向かう途中だった。
 向こうから祥三郞が歩いてきた。同い年くらいの女の子を連れている。
「祥三郞君」
 夕輝は立ち止まって声をかけた。
「あ、夕輝殿」
 祥三郞も夕輝に気付いて止まった。
「葵殿。こちら同じ稽古場に通っている天満夕輝殿です。夕輝殿、こちら立花葵様です」
 祥三郞はばつの悪そうな顔で二人を紹介した。
「桐生様、天満様というと……」
「はい、拙者が学問を教えに行っている湯屋の方です」
「天満様、桐生様をお借りしてしまっていて申し訳ありません」
 葵が頭を下げた。
「え、いえ、その……」
 夕輝は訳が分からず祥三郞の方を見た。
 話した感じだと恋人同士ではないようだがどういう知り合いなんだろう。
「桐生様には暴漢に襲われているところを助けていただき、それ以来、警護をしていただいています」
「あ、そうなん……ですか」
「そういう訳故、夕輝殿、申し訳ありませんが長八殿にも詫びておいてください」
 祥三郞は頭を下げた。
「分かった。そう言うことなら気を付けて」
 暴漢に付け狙われてるのならあまり引き留めるのも悪いだろうと思い、夕輝は早々に会話を切り上げて二人と別れた。
 恋人という感じではなかったが、祥三郞は葵が好きなようだ。

 祥三郞君が葵さんと上手くいくといいな。

 峰湯に戻って小助に仕事があるか聞くと、ないというので太一とシジミ捕りに行くことにした。
 太一がどこにいるか聞こうと台所へ行くと、お峰の前で土下座していた。
「お願いしやす!」
「太一、どうしたんだ?」
 夕輝が驚いて声をかけると、太一とお峰が振り返った。
「あ、夕ちゃん」
 お峰が困った顔で夕輝の方を見た。
「太一がね、お金貸してくれって言うんだよ」
「お袋を医者に診せる為に金が必要なんです。お願いしやす!」
「お母さんの病気、重いのか?」
 て言うか、お母さんいたのか。
 以前、太一は家族はいないと言っていたが。
「へい」
 太一はうなだれた。
「そうか。お峰さん、前に橋本屋さんから貰ったお金……」
「いいのかい?」
「はい。食費にと言っておいてすみません」
「それはいいんだけど……」
 お峰はそう言うと部屋の隅にある小さな箪笥の引き出しを開けた。
 白い紙に包まれたものを取り出すと、太一に差し出した。
「これは夕ちゃんからだよ」
「兄貴、女将さん、すいやせん! 必ず返しやすので……」
「返さなくていいよ。それより早くお母さんのところへ持っていってやれ」
「しばらく休んでいいから、おっかさんについてておやり」
「すいやせん!」
 太一は何度も頭を下げると駆け出していった。
 夕輝が一人でシジミを捕りに行こうとしたとき、橋本屋から使いの者が来た。

 お里の送り迎えをして帰ってくると太一がいた。
「太一、何してるんだよ」
「峰湯の手伝いを……」
「お母さんについててやらなくていいのかよ。お峰さんだってしばらく休んでいいって言ってただろ」
「いえ、金を借りた上に仕事まで休むわけにはいきやせん」
 妙なところで律儀なヤツだな。
「この前来てた女の子、お前の妹?」
「へい」
 太一が働いてるなら夕輝も休んでいるわけにはいかない。
 夕輝は太一と一緒に働き始めた。

「夕輝、明日の夜いいか?」
 夕餉の席で平助が訊ねてきた。
「また捕り物かい?」
 お峰が顔をしかめた。
「東様のご指名なんだよ。夕輝は頼りになるからな」
「俺ならいいですよ」
 夕輝がそう答えると、
「親分、あっしにも手伝わせてくだせぇ」
 太一も名乗りを上げた。
「じゃあ、二人とも頼むぜ」

 翌日、稽古場から帰ってくると、お峰に呼ばれた。
「すまないけど、これ、お花さんに届けてくれるかい?」
「はい」
「太一も一緒に連れてってやっておくれ」
「太一、どうかしたんですか?」
「元気がないんだよ。夕ちゃんなら年も近いから話も合うだろ。励ましてやっとくれよ」
「分かりました」

 夕輝は太一を誘うと、お花の長屋に向かった。
 確かに太一は元気がなかった。
 きっとお母さんが心配なんだろうな。
 お峰には「分かった」等と言ってしまったが、どうすれば励ませるのか分からなかった。
 自分の親が重病だったら、何を言われても元気になどなれない。
 しかも、江戸時代の医療なんて、どう考えても当てにならない。

 聞くところによると、江戸時代は医師になるのに資格は必要なく、誰でもなれるのだそうだ。
 江戸時代の医学では勉強していたとしても心許ないのに、ましてや碌に学びもしないまま医師の看板を掲げているような人間が信用できる訳がない。
 まぁ、太一の母親がかかっているのが藪医者なのかどうかは分からないが。

「なぁ」
 せめて気を紛らわせようと、太一に話しかけた。
「へい」
「あれ、泥鰌(どじょう)って読むんだろ」
 夕輝は『どぜう』と書かれた看板を指した。
「そうでやすよ」
「あれも泥鰌だよな」
 今度は『どぢやう』と書かれている看板を指した。
「へい」
「なんで字が違うんだ?」
「あっち――どぜう――は泥鰌鍋で、あれ――どぢやう――は泥鰌汁なんでやすよ」
「なるほど」
「『どぢやう』だとどっちなのか区別がつかないから書き分けてるんでやす」
「ふぅん」

 どぢやうの後に『鍋』とか『汁』とか書けば、わざわざ書き分ける必要もないと思うのだが、それは野暮なんだろうか。
 夕輝は『ふなぎ』と書かれた看板を見た。あれは『うなぎ』なのだとこの前教わった。
 平仮名は必ずしも一字だけではなく、『う』一つとっても色々な字がある。どうやら明治維新後に一つに統一されたようだ。

 そうだよな。一つの方が分かり易いもんな。

 長屋に着くと、お花がお唯の両親の部屋から出てきた。
「お花さん、どうしたんですか?」
「お唯ちゃんのおっかさんがね、風邪引いてんだよ」
「大丈夫なんですか?」
「ただの風邪なんだけど、身体の弱い人だから……。お唯ちゃんがいなくなって気落ちしてるし」
「お医者さんには……」
「診てもらったよ。お唯ちゃんが売られたときのお金が少し残ってるからね」
 お唯が売られたときと聞いて、夕輝の胸が痛んだ。

 この時代に健康保険と生活保護制度があれば、お唯ちゃんが遊郭に売られるようなことはなかったのに……。

「そうですか……。あ、これ、お峰さんからです」
「いつも悪いね。助かるよ」
 夕輝はお峰から預かった物をお花に渡すと、長屋を後にした。

       六

「お峰さん、ただいま戻りました」
 台所でお峰に声をかけると、
「夕ちゃん、ありがとね。太一は?」
「あ、湯屋の仕事に戻りました。俺も湯屋を手伝ってきます」
 夕輝はそう言ったものの、お峰の前でもじもじしていた。
「どうしたんだい?」
「……あの……橋本屋さんから二度目に貰ったお金……」
 お峰は夕輝の言わんとしていることがすぐに分かったらしく、箪笥の前に行くと引き出しから白い紙に包まれたものを取り出した。
「太一のおっかさん、そんなに悪いのかい?」
「多分……」
「それじゃ、渡しておやり」
「すみません!」
 夕輝は深々と頭を下げた。
「何言ってんだい。元々夕ちゃんのお金じゃないか。夕ちゃんのしたいようにするといいよ」
「有難うございます」
 夕輝はもう一度深く頭を下げると太一の元へ向かった。

「太一」
「あ、兄貴」
「今日はもう仕事はいいよ」
「シジミ捕りに行くんでやすか?」
「そうじゃなくて……」
 夕輝は紙に包まれた金を差し出した。
「これ、お前に……」
「そんな! 二度も借りられやせん!」
 太一は頭を振った。
「これはお里ちゃんの護衛をした謝礼だ。お前も一緒にやっただろ。だから遠慮なく受け取れ」
「でも……」
「いいから早くお母さんのところに持っていってやれ」
「すいやせん!」
 太一は金を押し頂いて頭を深く下げた。

 しばらく母親に付いていろと言ったにもかかわらず、太一は暮れ六つ前に戻ってきた。
 夕餉を食べると、夕輝達は捕り物の支度をした。
 と言っても、夕輝が(むしろ)にくるんだ繊月丸を持っただけなのだが。
 生け捕りにしないといけないから太一も匕首は持っていなかった。

 深川の外れの寂しい場所に小さな仕舞屋があった。
「今日捕まえるのは誰なんですか?」
 夕輝は平助に訊ねた。
「葛西の草太の尻尾をやっと掴んだのよ。今夜ここに例の盗賊達が集まるみてぇなんだ」
 だとしたら割と大掛かりな捕り物になる。
 そう思って見回してみると、かなり沢山の人間が集まっているようだ。
「武士がいるみてぇだから、そいつぁは頼んだぜ」
「はい」
「太一、お前ぇは外に逃げてくるヤツを捕まえろ」
「へい」
「お前ぇは素手なんだから無理すんじゃねぇぞ」
「へい」

 そんなやりとりをしているうちに、与力から合図があった。
 御用提灯に火が入り、一斉に掲げられた。
「行け!」
 その言葉と共に、仕舞屋を囲んだ捕り物人足達が仕舞屋に近付いていった。
 一人が戸口に手をかけるとすぐに開いた。
 人足達が仕舞屋に入っていく。
 夕輝も後に続いた。
 仕舞屋の中には男達が円坐になって酒を飲んでいた。
「なんだ、手前ぇら!」

 男達は湯飲みを蹴飛ばして立ち上がった。
 陶器がぶつかる音が響く。
 男は七人いた。
 立ち上がるときに刀を握ったのは三人だった。

 夕輝には太刀と長脇差の区別は付かないので、武士は多くて三人、と言うことしか分からなかった。
 男の一人が行灯を消したが、すぐに龕灯を持っている捕り方が部屋の中を照らし、打込燭台が打ち込まれてそこに蝋燭が立てられ、部屋は元の明るさを取り戻す。
 男達は雨戸を蹴破って外に逃げ出した。

 だが、すぐに足を止めた。
 外には御用提灯を持った捕り方達が取り囲んでいる。
 刀を持っている男達は鞘から抜き、それ以外の男は懐から匕首を出して構えた。
 周りを取り囲んでいた捕り方達も十手や刺又などを取り出して盗賊達に向けた。
「一人も逃すな! 行け!」
 与力が大声を上げると、盗賊を取り囲んでいた捕り方達が輪を縮めた。
「御用!」「御用!」とは言っているが、刀を持っている男が三人もいるせいか、捕り方達は腰が引けていた
「返り討ちにしてくれるわ!」
 刀を持った男の一人が叫ぶと、御用提灯を持った捕り方達に斬り込んだ。
 それにつられるようにして残りの男達も刀や匕首を構えて突っ込んでいった。
「待て!」
 夕輝は捕り方に斬りかかった刀の男の肩に、後ろから繊月丸を振り下ろした。
 男が振り返って繊月丸を受け止めた。
 夕輝と男は刀を押し合って同時に後ろに飛び退いた。
 夕輝が青眼に構えると、男も青眼に構えた。

 武士なのだろうか。
 剣術が出来るようだ。それも素人ではない。構えに隙がなかった。
 御用提灯で明かりは十分あった。
 男は貧相なひげをはやした、やせた男だった。はだけた着物の間からは肋骨の浮いた血色の悪い腹が覗いていた。
「御用!」
 十手を持った捕り方が男に飛びかかりそうな素振りを見せた。
 一瞬、男の視線が捕り方に流れた。
 その隙を逃さず、面を打った。
 男は繊月丸を弾こうとしたが間に合わず、夕輝の刀は男の右腕を打った。
 骨の折れる鈍い音がして、男が刀を取り落とした。
 すかさず捕り方がよってたかって男を押さえつけると縄をかけた。

 他の二人の武士(多分)がどこにいるのかと周りを見回した。
 町人(多分)は同心や捕り方達で何とかなるだろう。
 そのとき、向こうの方で刀を持った男の一人が太一に斬りかかろうとしているのが見えた。
「太一!」
 この距離では走っても間に合わない!
 とっさに、走り寄りながら繊月丸を投げつけた。
 繊月丸が男の背中に当たった。
 男がのけぞる。
 すぐに体勢を立て直した男はこちらを振り返ると、素手の太一に背を向けて夕輝の方に向かってきた。

 刀を振りかざした男がすぐそこに迫った。
「兄貴!」
 太一は夕輝の間近に迫った男を見ると、辺りを見回した。
「繊月丸!」
 夕輝が叫ぶと、繊月丸が手の中に戻った。
 振り下ろされた刀を繊月丸で弾く。
 男は素手のはずの夕輝が刀を持っていることに気付くと目を剥いた。

 夕輝は下段に構えると、素早い寄り身で男に近付いた。
 男がはっとして刀を構えようとしたが、その隙を与えずに逆袈裟に切り上げた。
 繊月丸が男の胴に決まった。
 男は腹を押さえて蹲った。

 あと一人!

 周りを見回すと、捕り物はほぼ終わっていた。
 町人三人と、夕輝が倒した武士二人は縄をかけられていた。
 残り一人は東が打ち倒したところだった。
 夕輝は繊月丸を下ろすと息をついた。
       一

 捕り物が終わり、深川からの帰り道。
 夕輝と太一は大川端を二人で歩いていた。
 与力の佐々木と同心の東達――東の他にも同心が来ていた――と、捕り物人足(とりものにんそく)のうち、平助達御用聞きは八丁堀の大番屋へ盗賊一味を連行する為に船に乗っていった。

 それ以外の、夕輝達を含めた捕り方(とりかた)達はそれぞれ徒歩で帰途についた。
 大川の土手には草が生い茂り、夜風にそよいでいた。
 欠けた月と無数の星が輝く夜空の下で、夕輝は草と大川の(みぎわ)に寄せる水音を聞きながら、花粉症じゃなくて良かった、等と思っていた。
 花粉症と言えばスギが有名だが、ブタクサやカモガヤなどもアレルギー症状を引き起こす、とインフルエンザの予防接種に行った病院のポスターに書いてあった。
 辺りは真っ暗なので草むらはよく見えなかったが、風にそよぐ音を聞けば土手が大量の草に覆われているのは分かる。
 しばらく大川の流れる音と、さわさわという草の音を聞いていたが、ふと、水音や草のそよぐ音が聞こえるなんて珍しいな、と思い、そういえばいつもは太一が絶え間なく喋っているから聞こえないのだと気付いた。
 その太一が黙っているから水や草の音が聞こえるのだ。

「太一、どうした?」
「……え? 何がでやすか?」
「元気ないな。お母さんの具合、悪いのか?」
「いえ、そうじゃねぇんで」
「なら、どうした? さっきの捕り物で怪我でもしたのか?」
「そうじゃなくて……」
 夕輝は訝しげに太一を振り返った。
「どうしたんだよ」
「…………あっしは足手まといだと思いやして」
「誰の?」
「兄貴の」
 その言葉に夕輝は足を止めて太一の方に向き直った。
「俺はお前の兄じゃないけど、足手まといだなんて思ったことないぞ」
「でも、あっしはいつも兄貴に助けられてばかりで……」
「だから兄貴はやめろ。それはともかく、俺だってお前にはいつも助けてもらってるじゃないか」
「あっしが?」
 太一が顔を上げた。意外そうな顔をしている……ようだ。暗くてよく見えないけど。

「俺が分からないこと聞いても、バカにしないでちゃんと教えてくれるだろ」
「兄貴をバカにするなんて、そんなこと……」
「それにシジミを捕って金を稼ぐことだって教えてくれただろ」
「そんなこと、兄貴にしていただいてることに比べたら大したこと……」
「俺には大したことだよ」
 夕輝は語気を強めて言った。
「俺、江都のことは何にも知らないから、ホントに助かってるんだぜ」
「でも、あっしは命を助けていただいてやす。あっしだけじゃなく、お袋まで……だから、あっしの方が……」
「よそうぜ、そう言うの」
 夕輝はそう言って笑った。
「え?」
「椛ちゃんに言われたんだ。助けたとか、助けられたとか言うのはよそうって。俺達、友達だろ。友達が助け合うのは当然じゃないか」
「ダチ? 兄貴はダチじゃなくても助けてやすけど」
 太一の突っ込みに、夕輝は苦笑した。
「それはこっちにおいといて……。俺は太一のこと友達だと思ってるよ」
「兄貴……」
「だから兄貴はやめろ。俺は一人っ子だ。これからも頼りにしてるからさ、よろしくな」
 夕輝は太一の肩を叩いた。
「へい! 兄貴! こちらこそよろしくお願いしやす!」
「だから兄貴はやめろ」

「兄貴、椛姐さんが来てやすぜ」
 太一が薪運びをしている夕輝に声をかけた。
「ありがと」
 夕輝は尻っぱしょりしていた着物の裾を下ろすと、表へ回った。
「夕輝さん、今お時間いただけますか?」
 多分、橋本屋のことだろう。
「いいよ。太一、椛ちゃん送っていくから、ちょっと休憩するって仙吉さんに伝えておいてくれ」
 太一にそう頼むと、椛と並んで歩き出した。

 お里を狙っていた牢人は、この前篠野からの帰りに夕輝が倒し、太一が呼んできた平助がお縄にした。
 椛を狙った平次達もこの前平助に捕まえてもらったが、凶月はまた別の男を雇うだろう。
 だから送っていきがてら話を聞くことにしたのだ。

「橋本屋さんの件なんですが……」
 椛は早速切り出した。
「やはり直接凶月に掛け合うしかないのではないかと父が申しておりました」
「それに異論はないけど、居場所分かるの?」
「今兄達が探してます」

『兄達』って、楸さんの他にもお兄さんいるんだろうか。
 お父さんとお兄さんなら『父達』って言いそうなものだけど。

「本来、凶月のことは天満の一族がけりをつけるべきで、未月が乗り出すことではないのですが、私が狙われているのに座視しているわけにもいかないと……」
(ひさき)さんが言ったんだね」
「分かりますか?」
「うん、何となく」
 夕輝が笑うと椛も微笑んだ。
 それから他愛のない話をしているうちに椛の家に着いた。
「見つかったらまたご連絡します」
「有難う」

 椛の家からの帰り道、人気のない道の角を曲がったとき、祥三郞が葵を庇って立っているのが見えた。
 こちらに背を向けているが、黒っぽい着物を着ている侍が立ちはだかってるようだ。

 葵さんを狙っている暴漢だ!

「祥三郞君!」
 夕輝が駆け寄った。
「夕輝殿!」
 祥三郞が一瞬ほっとした表情を見せた。
「大丈夫?」
 祥三郞と並んで葵を庇うように立ってから刺客を見たとき、思わず「あっ!」と言う声が出た。
「お前はこの間の!」
 以前、椛を襲った男だった。
 男は口を歪めた。笑ったようだ。
「ほう、生きていたか」

 繊月丸、呼べば来てくれるかな。

 この男は鉄扇でどうにか出来る相手ではない。
 来てくれなければ祥三郞の脇差を借りるしかないだろう。

 ――繊月丸、来てくれ。

 夕輝は心の中で繊月丸を呼んだ。
 刀の姿をした繊月丸が夕輝の手の中に現れる。

 良かった……。
 遠くても呼べば来てくれるんだ。

 いきなり現れた繊月丸を見て、男はぎょっとした顔をしたが、祥三郞と葵は男に気を取られていて気付かなかったようだ。
「また邪魔をする気か」
 男はバカにしたような顔で夕輝を見た。
 夕輝は一度負けているのだから侮られても仕方がない。
「この人を捕まえに来たのか!」
「いえ、夕輝殿、違います。この男は葵殿の伯母上に雇われた刺客(しかく)です」
「今回は殺せという命令だからな。捕まえようとして手加減する必要はない。邪魔するヤツも殺す」
「金で雇われて人を殺すのか!」
「それがどうした」
 男は鼻で笑った。
 今日こそ、この前の決着を付けてやる。

「ここは俺が相手をするから祥三郞君は逃げて」
「夕輝殿! 拙者も一緒に戦います!」
 その言葉に、夕輝は祥三郞の方に顔を向けた。
「そうだね、ここは二人がかりで戦った方が確実に倒せるよね。でも、ゴメン。俺、こいつと決着つけたいんだ」
 祥三郞は夕輝の真剣な顔を見ると、すぐに頷いた。
「承知(つかまつ)った」
「俺がやられたら、すぐにこいつが追っていくと思うからなるべく遠くに逃げて」
「はい。参りましょう、葵殿」
 祥三郞達が走っていく足音を聞きながら、繊月丸を抜いた。
「いいのか。今度は死ぬぞ」
 男は笑いながら抜刀した。

 夕輝は青眼に構えた。
 その瞬間から、祥三郞のことは頭から消えた。
 目の前にいる男だけに意識が集中した。
 男が八相に構える。
 夕輝はゆったりと構えながら、男を見ていた。
 男がゆっくりと近付いてくる。
 一足一刀の間境の手前で立ち止まった。
 二人の間に緊迫した空気が流れる。
 カサッ
 枯れ葉の落ちる音がした。
 その瞬間、男が袈裟斬りを放った。
 夕輝はそれを弾きながら一歩踏み込むと、突きを見舞った。
 夕輝の突きが男の右肩を強く突いた。
 男の右手が刀から離れる。
「くっ! 貴様ぁ!」
 逆上した男が左手に持った刀を振り上げた。
 夕輝はそのまま胴を見舞った。
 男が腹を抱えて蹲った。
 夕輝は残心の構えのまま、男を見下ろした。
 不意に男が刀で夕輝の足を払おうとしてきた。
 夕輝は繊月丸を地面に刺して刀を止めると、男の手を踏んで刀を放させ、それを蹴って遠くにやった。
「夕輝殿!」
「夕輝!」
「兄貴!」
 男に注意を払いながら声の方を見ると、祥三郞や平助、太一達が駆けてくるところだった。

       二

「葵さんの警護はもういいの?」
 夕輝は祥三郞に訊ねた。
 稽古場からの帰りだった。祥三郞は久々に長八に論語を教えに峰湯に来るのだ。
「あの男が大番屋の吟味(ぎんみ)で葵殿の伯母上に頼まれたと喋ったそうです」
「そもそも、どうして葵さんは伯母さんに狙われたわけ? もし話しちゃいけないなら聞かないけど」
「夕輝殿は命の恩人故、お話し致します」

 祥三郞がそう言って話したところによると、本家の一人息子である葵の従兄が風邪で急逝したため、跡取りをどうするかで揉めたらしい。
 葵の伯母の息子を養子にするか、葵を養女にして優秀な男子を婿養子にするかで二つに分かれ、自分の息子を養子にしたい伯母が葵の命を狙ったのだという。

「伯母さんが狙ったってバレたわけだよね? てことは、葵さんが婿養子を取ることになったって事?」
「いえ、それが……」

 祥三郞の話によると、大番屋で刺客が伯母の名前を出したことから、お家騒動が目付に知られてしまい、伯母の家は改易(かいえき)になってしまったというのだ。
 改易というのは武士の身分を剥奪されることだそうだ。
 しかも、連座制で伯母の家だけではなく、本家と葵の家も改易されてしまったらしい。

「え、じゃ、葵さん、武家じゃなくなったの?」
「はい」
「そうすると、葵さんはどうなるの?」
「元々葵様の家は微禄(びろく)の御家人だった故、内職で食べていたので、今も同じように裏店で内職をしています」
「そうなんだ」

 祥三郞君が葵さんをお嫁にするわけにはいかないの?

 とは訊ねられなかった。
 武家の婚姻がそんなに簡単なわけがないのは容易に想像が付く。商家のお里でさえ、結婚するのに親戚縁者やら組合やらの承諾を貰わなければならないのだ。
 ましてや武家はもっと厳しいだろう。

「長八さんがさ、祥三郞君のこと待ってるよ」
 慰めの言葉が見つからなかった夕輝は話を変えた。
「本当ですか?」
「うん、首を長くして待ってる」
「そうですか」
 祥三郞が嬉しそうな笑顔を見せた。

「子曰く、人は己の……」
「違う! もう一度!」
「し、子曰く、人のおれの……」
「違う! もう一度!」

 やっぱ勉強教えてる祥三郞君て怖ぇー。

 とはいえ、確かに厳しいのだが、決してバカにしたりはしなかった。
 大真面目に、長八が理解できるまで粘り強く教えている。
 しかし、自分だったら長八の立場にはなりたくない。
 とばっちりが来ないように、夕輝はそっと後ろに下がった。

「夕ちゃん、ちょっといいかい? また、お花さんのところに届け物をして欲しいんだよ」
「いいですよ」
 夕輝はお峰から荷物を受け取った。
「兄貴、お出かけですかい」
 峰湯を出ると太一が声をかけてきた。
「お花さんのところにな」
「ならあっしもご一緒しやす。荷物持ちやしょうか?」
「いや、いいよ。それより、湯屋の仕事はいいのか?」
「丁度手が空いてるんでやすよ」
 太一はそう言うと、夕輝についてきた。
「なぁ、前から不思議に思ってたんだけどさ」
「なんでやしょう」
「あれ、何?」

 棒を担いで樽のようなものを転がして歩いている男を見た。
「転がしてるのは(うす)で、持っているのが(きね)でやすよ」
「時々見かけるけど、何してる人? 杵と臼って事は餅つき?」
「あれは大道搗(だいどうつ)きでやす」
「大道搗きって? 餅つきじゃないの?」

 太一の説明によると、米というのは搗き米屋(つきまいや)で玄米を白米に精米するのだが、わざわざ搗き米屋まで持っていくほど量が多くない場合、大道搗きに()いてもらうのだという。
 大道搗きというのは臼を転がしながら町を流して、呼ばれた家で米を搗くのだそうだ。

「へぇ」
 夕輝は改めて臼を転がしてる大道搗きを見た。

 その向こうを斧を担いだ(そま)が歩いて行く。杣というのは(きこり)のことだそうだ。
 江都に杣が必要なのは東京育ちだから理解出来る。都心には広い公園が多い。そのほとんどは昔の大名屋敷の庭である。
 三百藩近くある大名全部ではないようだが、多くが江都に上屋敷、中屋敷、下屋敷を持っていて、その広大な屋敷には広い庭園があり、そこには大木が沢山ある。当然、杣も必要となる。

 江都の町は他にも色んな職業の人が家々を回ってくる。
 鍋釜の修理や刃物研ぎ、桶や樽の修理、魚や野菜、総菜、豆腐、植木、金魚等色々なものを売る棒手振り、蕎麦屋や心太売り、飴売り、その他、沢山の商売がある。
 長屋など町人のところには来ないが、賄屋(まかないや)という、一人暮らしの武士などに弁当を届ける商売もあるそうだ。

 家に弁当を届けるサービスって現代に始まったんじゃなかったんだな。

 太一に教わって、川へシジミ捕りに行けないときの小遣い稼ぎに釘などの金属や紙を拾うことも覚えた。
 落ちてる釘等の金属や紙、抜け毛なども、引き取りに回ってくる古金屋や古手屋に売れる。
 だから夕輝はとりあえず落ちてるゴミは拾っておくことにした。
 江都では紙屑から糞尿まであらゆるものがリサイクルされる。
 江都では、普通に食べて行く分にはどんな仕事でもやっていけるような気がした。

 長屋に着き、部屋を覗いたがお花はいなかった。

 もしかして……。

 お唯の両親の部屋に行ってみると、お花やお加代がいた。お唯の母親は寝込んでいるようだ。咳が聞こえてくるが、それもかなり弱々しい。
 葵の本家の跡取りは風邪で急逝したと言っていた。
 本家の跡取りならいい医者に診てもらったはずである。
 それでも死んだというのだ。
 まして碌に医者にも診せてないお唯の母親はもっと危ないだろう。
 お花が夕輝に気付いた。

「あ、夕ちゃん」
「こんにちは。お峰さんに頼まれたもの届けに来たんですけど……」
 そう言うと、お花は突っかけを履いて部屋から出てきた。
「ありがとよ」
「お唯ちゃんのお母さん、悪いんですか?」
 お花に荷物を渡しながら訊ねた。
「あの様子だと長くないかもねぇ」
 お花は溜息をつきながら答えた。
「お唯ちゃんには……」
「お唯ちゃんに言っても無駄だよ。帰ってこられないのに心配させても可哀相だろ」

 お唯の母親の具合が悪いのは、お唯がいなくなったせいもある。
 あのとき、自分がお唯を助けていたら、お母さんは気落ちして風邪などひかなかったかもしれない。
 喧嘩の助っ人でも賭場の用心棒でもなんでもいいから金を稼げば良かったのだ。
 それなのにお唯を助けなかった。
 もしお唯の母親が長くないのなら、最後に一目会わせてあげたい。

「お唯ちゃんがいるのって何て言うお見世ですか? 俺、お唯ちゃんがお母さんに会いに帰ってこられるように頼んできます!」
「無理だよ」
「頼むだけでも……。お願いします! 教えてください!」
 夕輝が頭を下げると、お花は渋々「つる野だよ」と置屋の名前を教えてくれた。
「太一! 吉原に案内してくれ!」
「兄貴……」
「頼む!」
 夕輝は太一にも頭を下げた。
 太一は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「分かりやした!」
 夕輝と太一は長屋を飛び出した。

       三

 浅草の田んぼの中を通る日本堤は、両側に簡単な作りの見世が並んでいて、人通りが多かった。
 そこを通り抜け、衣紋坂を下りると右手に高札場、左手に柳の木があった。
 そこから両側に茶屋の並ぶ、曲がりくねった五十軒道を抜けて大門を入ると、そこは新吉原だった。

 吉原に着くと、
「つる野って見世知りませんか?」
 夕輝は通りがかった男に訊ねた。
 男が知らないというと別の男に訊いた。
 何人かに訊ねてようやく、つる野を見つけた。
「あそこか!」
「兄貴!」
 太一が慌てて止めようとするのも聞かずに店に飛び込んだ。

「なんだい、あんた。ここは置屋だよ。遊びたかったら……」
 店の中年女性がそう言いながら夕輝をじろじろと見た。
 夕輝は構わずに、
「お唯ちゃんいますか!」
 と訊ねた。
「なんだって?」
 中年女性が訝しげに夕輝を見た。
「お唯ちゃんのお母さんが病気で……、一目お唯ちゃんに会わせてあげたいんです!」
「帰っとくれ」
 中年女性はそう言うと、屈強な男衆達に目で合図した。
 男衆達が夕輝の腕を掴んだ。
「お願いします! 一目会うだけでいいんです!」
 夕輝は引きずられながら必死で叫んだ。
「お願いします!」
 夕輝はそのまま吉原の大門の外に追い出された。
「待ってください! 一目でいいんです! お願いします!」
 なおも食い下がったが、夕輝は突き飛ばされて道に倒れた。
 夕輝をよけて歩いて行く遊客達が哀れむような目や蔑むような目をしていた。
「兄貴、あっしに知り合いがいるんでやす。そいつに頼んでみやすから、一旦帰りやしょう」
「いや、もう一度頼みに……」
「兄貴は顔を覚えられたから行かない方が話がしやすいんでやすよ。ですから、今日は帰りやしょう」
 太一が諭すように言った。

 夕輝は俯いた。
 確かにお唯に対する負い目から熱くなっていたようだ。
 ここは頭を冷やした方がいいだろう。
「……分かった」
 夕輝は太一の手を借りて立ち上がった。
 吉原に背を向けてから、一度振り返ると歩き出した。
「面倒かけて悪いな」
「何言ってんでやすか。助け合おうって言ったのは兄貴じゃねぇでやすか」
「そうだったな」
 夕輝は無理して笑顔を見せた。

 夕輝は太一の言葉を信じていつも通りに生活することにした。
 平助に訊くと、吉原は独自のしきたりがあるらしい。
 しかし、夕輝は太一を信じて待つことにした。
 夕輝は心配を振り払うように稽古場の稽古に打ち込んだ。
 稽古場の拭き掃除を終え、雑巾を片付けていると、祥三郞が近付いてきた。
「夕輝殿。今日は祖母のご機嫌伺いに行かねばならぬ故、峰湯にはよれないのですが……」
「分かった。気にしないでいいよ。長八さんも気にしないと思うから」
「かたじけない」
 祥三郞は軽く頭を下げると、稽古場から出て言った。

 祥三郞君が来ないんじゃ、早く帰ってもしょうがないな。

 夕輝は居残り稽古をすることにした。
 一人残って素振りをしていると、師匠が稽古場に入ってきた。
「天満。居残りか」
「はい。……あ、了解も取らずに申し訳ありません」
「構わん。納得がいくまで稽古をしなさい。それがしが相手になってやろう」
「師匠」
 師匠は木刀を持って夕輝の前に立った。
「お願いします」
 夕輝が礼をすると、師匠と夕輝は青眼に構えた。
「打ち込んできなさい」
 師匠が静かに言った。
「はい」
 師匠はゆったりと構えているだけだったが、隙がなかった。
 夕輝は師匠を見つめたまま、青眼に構えていた。
 しかし、徐々に師匠の静かな佇まいに気圧されていった。
 夕輝の額を汗が伝う。
 夕輝は我慢できなくなり、じりじりと間を詰め始めた。
 師匠は相変わらず悠然と構えている。
 斬撃の間境の半歩手前で止まると、
 イヤァ!
 師匠の構えを崩そうと裂帛の気合いを発したが、師匠は全く動じなかった。
 夕輝は思いきって踏み込むと、真っ向へ木刀を振り下ろした。
 夕輝の木刀が弾かれたと思った次の瞬間には喉元に師匠の木刀が突きつけられていた。

「次はそれがしから行くぞ」
 夕輝はすぐに最初の位置に戻ると、
「お願いします!」
 師匠に頭を下げて青眼に構えた。
 師匠は木刀を青眼に構えると、すぐにするすると近付いてきて、一足一刀の間境まで来た。
 師匠はゆったりと構えているだけのはずなのに、すごい威圧を感じた。
 師匠の身体が一回り以上大きくなったように見えた。
 タァ!
 師匠を止めようと、裂帛の気合いを発したが、師匠はそのまま間境を越えてきた。
 とっさに夕輝は、師匠の小手を狙って打ち込んだ。
 次の瞬間、夕輝の木刀は弾かれ、師匠の木刀は喉元に突きつけられていた。
「次は天満から仕掛けてきなさい」
「はい。よろしくお願いします」
 夕輝は礼をすると木刀を構えた。
 二回とも木刀が弾かれた瞬間には喉元に決まっていた。
 なら、すぐに左右のどちらかによれば突きはかわせる……か?
 もう夕輝の頭から、他のことは消えていた。
 夕輝は三度木刀を構えた。
 師匠は相変わらずゆったりと構えていた。
 深呼吸をして息を整えると、足裏を擦るようにしてじりじりと間を詰め始めた。
 一足一刀の間境の半歩手前までくると足を止めた。
 師匠は静かに構えているだけなのに、踏み込める隙がなかった。
 辺りは静まりかえり、針の落ちる音でも響きそうだった。
 夕輝は斬撃の気配を見せたが、師匠は動かなかった。
 かさっ
 外に枯れ葉が落ちる音が聞こえた。
 刹那、夕輝は大きく踏み込むと、突きを放った。

 弾かれた!

 と思った瞬間には師匠の突きが喉元に決まっていた。
 横によける間などなかった。
 二人は再び離れると、木刀を構えた。
 師匠はすっと近付いてくると、一足一刀の間境の半歩手前で止まった。
 師匠の身体が大きく膨らんだように見えた。
 気圧されているのだ。
 夕輝は必死に耐えた。
 先に攻め込んでダメなら後の先を取るしかない。
 しかし、師匠の威圧に、夕輝の剣先がふっと浮いた。
 師匠が斬撃の気配を見せた。
 夕輝の身体が躍った。
 木刀を真っ向に、力一杯振り下ろした。
 師匠の木刀と弾き合った。
 とっさに左に跳びながら二の太刀を小手に。
 しかし、小手に届く前に師匠の面が決まっていた。
 踏み込みが甘いのだろうか。

 なら今度はもう少し深く……。

 夕輝は肩の力を抜くと、ゆっくりと間を詰め始めた。
 一足一刀の間境までくると、素早い寄り身で師匠の懐に飛び込んで面を放った。
 その瞬間、夕輝の木刀は跳ね上げられ、師匠の胴が決まった。
 夕輝は息を吐くと木刀を下ろした。

 やっぱり、考えが甘かったか。

 どうすれば良かったか、考えながら額の汗をぬぐった。
 道着も汗でびっしょりになっている。
 しかし、師匠の方は息も乱していなかった。
「次で最後にしよう」
「はい」
「天満は実戦を経験しているようじゃな」
 師匠はそう言うと、木刀を床に置いた。
「天満、そのまま打ち込んできなさい」

 何故木刀を置いたのか分からなかったが、きっと何か考えがあるのだろう。
 師匠は素手のまま空手のように構えている。
 夕輝は素直に青眼に構えた。
 大きく深呼吸をして息を整えると、真っ向から振り下ろした。
 師匠は体を開いてそれを交わすと、夕輝の木刀の峰の部分を右の手のひらで押さえ、下に押しながら左手で木刀の柄を取った。

 あっと思ったときには夕輝は木刀を奪われ、左脇腹の寸前で止まっていた。
 師匠が間合いに入ってから木刀を取られるまで、ほんの一瞬だった。
 これが実戦なら逆袈裟に斬り上げられていたところだ。
「これは……」
「無刀取りじゃ。稽古場の稽古では無用のものじゃが実戦では何かの役に立つこともあろう」
「有難うございました」
 夕輝は師匠に礼をした。
「石川達に勝ったことで慢心しているかと思ったが、そうではないようで安心したぞ」
「はっ!」
「これからも精進しなさい」
「はい!」
 夕輝が師匠に礼をすると、師匠は頷いて母屋へ戻っていった。

       四

 その日、夕輝は峰湯の手伝いをしていた。祥三郞が来ていたが、長八がしごかれるのを見ていてもしょうがないので、手伝いに戻ったのだ。
 夕輝は袖で額の汗をぬぐった。
 風が気持ちいいな、と思い、ふと、さっきより強くなっていることに気付いた。

 風か……。

 何か引っかかるが、それが何だったか思い出せなかった。
 仙吉が割った薪を抱えていると、太一とお花が前後して駆け込んできた。
「兄貴! 大変でやす!」
「夕ちゃん! お唯ちゃん知らないかい!」
「お唯ちゃんがどうしたんですか!」
 夕輝は太一とお花を交互に見た。
「お唯ちゃんがつる野からいなくなったんでやす!」
「つる野の若いもんがお唯はどこだって、長屋に怒鳴り込んできたんだよ」

 まさか……!
 望が(かどわ)かしたんじゃ……。

「夕輝殿、どうされたのですか?」
「あ、祥三郞君」
 夕輝が答えようとしたとき、橋本屋の手代が駆けてきた。
「天満様! すぐにいらして下さい! お嬢さまが……!」
「お里ちゃんもいなくなったんですか!?」
「はい! とにかく、一緒に……」
「夕ちゃん、何の騒ぎだい?」
 騒ぎを聞きつけてお峰も出てきた。
「お峰さん」
「十六夜」
 繊月丸までやってきた。
「未月の娘が望に攫われたよ。朔夜が呼んでる。行こう」
 繊月丸が夕輝の手を引いた。
「何を言ってるんです! うちのお嬢様を捜すのが先ですよ!」
 橋本屋の手代が怒鳴った。
「夕ちゃん、お唯ちゃんのこと、捜してくれるよね?」
 お花が心配そうに手を揉みながら訊ねた。
「未月の娘って、椛ちゃんのこと……だよな。お唯ちゃんとお里ちゃんも……」
 夕輝はそう言いながら繊月丸を見た。
「望のところにいる。江都の神域は穢れきった。すぐにも地下蜘蛛が湧き出してくるよ」

 確か、地下蜘蛛が湧き出すと大火になるって……。
 そうか!
 さっき風に大して感じた引っかかりはこれだ!

「お花さん、それから橋本屋の……えっと……」
「祐二です」
「お花さん、祐二さん。お唯ちゃんとお里ちゃんは俺が助け出してきます。家で待ってて下さい」
「夕輝殿、拙者も同行します」
「有難いけど、危ないから……」
「夕輝殿には葵殿の時に助けていただいた故、今度は拙者が力になります」
「祥三郞君……」
 祥三郞の真剣な顔を見ていると断りづらかった。
「兄貴! あっしも行きやすぜ! 戦力にはならないでやすが、手伝いやす!」
「有難う、二人とも」
 連れていっていいのか分からなかったが、一緒に行ってもらえれば心強いのは確かだ。
「それなら手前も一緒に連れてって下さい」
 祐二が言った。
「いえ、祐二さんは橋本屋さんに、俺がお里ちゃんを助けに行ったことを伝えて下さい」
 夕輝はそう言ってから、
「お峰さん、お花さん、祐二さん、風が強くなってきたので火事には十分に気を付けて下さい」
 その言葉に祐二は、こんな時に何言ってるんだという顔をしたが、お峰は、
「そうだね。今日はもう湯屋はおしまいにした方がいいね」
 と言った。
「それじゃ、行ってきます。繊月丸、案内してくれ」

 繊月丸に案内されて着いたのは、峰湯のすぐ近くにある稲荷神社の(ほこら)の前だった。
 祠の入り口が開いている。
「ここ」
 繊月丸が入り口を指した。
「こんな小さな祠?」
「ここはただの入り口。中は地下世界に通じてる」
 夕輝は太一と祥三郞の方に向き直った。
「本当にいいの? きっとかなり危ないよ」
「兄貴の行くところならどこにだって付いてきやす」
「危ないなら尚のこと、戦力は多い方がいいでしょう」
「有難う」

 お唯ちゃんや椛ちゃん、お里ちゃんを助け出すだけではなく、この二人も無事に帰らせないと……。

 繊月丸が先頭に立って狭い入り口に入っていった。

 入り口はすぐに下り階段になっていて、かなり長かった。
 確かにこれだけ長ければ地下の世界に繋がっていそうだ。
 照明はないのに何故かほのかに明るかった。
 階段は狭く、周りは濁った青とオレンジがかった黒っぽいものが混ざり合った色をしていた。

「気味の悪いところでやすね」
 太一が辺りを見回しながら言った。
「太一、よそ見して足踏み外すなよ」
「へい」
 と言った瞬間、太一は足を踏み外した。
「わ!」
 太一はよろけて壁にぶつかった。
「うおっ!」
 太一がいきなり飛び退いた。
「どうした!?」
「壁に触ったらぶよぶよねばねばしてて気持ち悪かったんでやす」
 それを聞いた祥三郞が壁に触った。
「本当ですね」
 等と言いながらぺたぺたと触っている。

 祥三郞君ってチャレンジャーだな。
 気持ち悪いって言われたのに、わざわざ触るなんて。

「早くここを出やしょう」
 そう言って太一が階段を下りだしたので、夕輝達も再び下りはじめた。
 それにしても、かなり下りたはずなのに、未だに終わりが見えない。
「長い階段ですね」
「そうだね。どこまで続いてるんだろう」

 もしかして、階段がループしていて永遠に出口に辿り着けないんじゃ……。

 そう思ったとき、出口が見えてきた。

       五

 ようやく階段を下りきると、今度は通路がどこまでも続いていた。
 ここの天井や壁も階段と同じく、濁った青とオレンジがかった黒い色のまだらで、灯りもないのにほのかに明るかった。
 高さも幅も、刀を振り回せるだけはあるな、と見て取った。
「十六夜」
 繊月丸が夕輝を見上げて言った。
「結界が張ってある。刀になれない」
「え!?」
 鉄扇で何とかなるかな。
 と思ったとき、
「夕輝殿!」
 祥三郞が声を上げた。
「向こうから……」

 指された方を見て絶句した。
 顔は一つで、両手両足がある、と言う点だけを見れば人間のようだが、頭の部分は蜘蛛のそれだった。
 それが次々に通路の脇道から出てくる。
 どれも刀を持っていた。
「兄貴! あっちからも!」
 通路の反対側からも同じ化け物達が刀を手に出てくる。
「繊月丸、あれが地下蜘蛛ってヤツか?」
「うん」
「念のために聞いておくけど、あれを殺しても人殺しで捕まったりしないな」
「人間じゃないから大丈夫」
「夕輝殿、ここは拙者が……」
 祥三郞が抜刀した。
「数が多い。俺も戦うよ。太一、繊月丸、階段へ」
 夕輝は祥三郞と並んで階段への入り口の前に立った。
 これで夕輝と祥三郞が倒されない限り、太一と繊月丸は大丈夫だろう。
 まぁ、繊月丸は心配するまでもないかもしれないが。
「祥三郞くん、脇差貸してくれる?」
 夕輝は祥三郞から脇差を借りた。
「脇差は太刀より短い故、太刀の間合いでは届かないですよ」
「分かった。有難う」
 そう言っている間にも地下蜘蛛が近付いてきた。

「ーーーーー!」
 人には出せないような甲高い声を上げて地下蜘蛛の一匹が斬りかかってきた。
 夕輝は地下蜘蛛の太刀を脇差で受け止めた。その瞬間、脇差が折れた。
「うおっ! 祥三郞くん、ごめん!」
 夕輝は脇差を投げつけながら後ろへ飛んだ。
 次の地下蜘蛛が刀を振り下ろしてきた。
 夕輝は体を開いて刀をかわすと、右手で柄を掴み、左手で峰を押した。刀が地下蜘蛛の手を離れる。
 刀を奪いそのまま逆袈裟に斬り上げた。
 地下蜘蛛の緑がかった白っぽい体液が飛び散った。
「げ!」
 夕輝はとっさに後ろに飛び退いた。

 祥三郞も地下蜘蛛を切り倒していた。
 地下蜘蛛が斬りかかってきた。
 真っ向に振り下ろされた刀を上に弾き、胴を払った。体液と内臓らしきものが地下蜘蛛の胴から溢れた。
 そのまま斜め後ろから斬りかかってきた地下蜘蛛を逆袈裟に斬り上げる。
 更に横に払うと地下蜘蛛の頭が飛んだ。
 首から体液を飛び散らせながら地下蜘蛛が倒れる。
 次の地下蜘蛛の小手を打った。
「ーーー!」
 地下蜘蛛が悲鳴を上げながら刀を取り落とした。腕が変な方向に曲がっていたが、切れてはいなかった。

 体液を浴びすぎて斬れなくなったのだ。
 そういえば、繊月丸は刃こぼれもしなかったし、いくら斬っても切れ味は落ちなかった。勿論、折れたりもしなかった。
 それが普通なのかと思っていたが、どうやら繊月丸は特別なようだ。
 夕輝はその地下蜘蛛の心臓があるかもしれない場所を貫いた。
 地下蜘蛛の胴を蹴りながら後ろに刀をひいた。地下蜘蛛が倒れる。
 刀を抜いた勢いのまま、後ろにいた地下蜘蛛の頭を柄頭(つかがしら)で殴った。
 ぼこっ!
 と言う音がして地下蜘蛛の側頭部が陥没した。
 返す刀で正面から来た地下蜘蛛を袈裟に斬り下ろそうとした。
 が、硬いものが砕ける音がしただけで斬れなかった。
「ーーー!」
 地下蜘蛛が刀を取り落とす。
 夕輝はその地下蜘蛛に真っ向から刀を斬り下ろした。
 地下蜘蛛の頭が潰れた。
 あと三匹か。
 祥三郞も既に何匹か倒していた。
 夕輝は大きく息を吐いて呼吸を整えると、刀を構えた。
 地下蜘蛛が真っ向に斬り下ろしてくる。
 それに刀を逆袈裟に振るって脇腹に叩き付け、よろめいたところで胸を貫いた。
 刀を抜くと、思い切り横に払った。
 斬りかかってきた地下蜘蛛の側頭部に決まった。
 地下蜘蛛の頭が潰れた。地下蜘蛛は悲鳴も上げずに倒れた。
 残りの一体は祥三郞が倒していた。
 夕輝も祥三郞の肩で息をしていた。

「兄貴! 大丈夫でやすかい」
「うん。祥三郞君は?」
「拙者も大事ありません。急いだ方がよさそうですね」
「あ、祥三郞くん、脇差折れちゃった。ごめん」
「お気にめさるな。それより先を急ぎましょう」
「うん。あ、ちょっと待って」
 夕輝は持っていた刀を捨てて、地下蜘蛛の持っていた刀を拾った。
「あ、拙者も」
 祥三郞も自分の刀を捨てて、落ちていた刀を拾った。
「捨てちゃっていいの?」
 夕輝のは地下蜘蛛から奪ったものだが、祥三郞のは自分の刀だ。
「あれだけ斬り合ったら、もう鞘にも入らぬ故」
 祥三郞がそう言うと、繊月丸が先に立って歩き出した。
 夕輝と祥三郞のやりとりを聞いてた太一は、刀を何本か拾って抱えた。
「太一、それ、どうすんだ?」
「この先もあの化け物と戦うなら予備があった方がいいかと思いやして」
「ありがと。抜き身だから気を付けろよ」
「へい」

 その後、何度か地下蜘蛛が襲ってきたが、何とか退けて先に進んだ。
「もうすぐだよ」
 繊月丸がそう言ったとき、また地下蜘蛛が現れた。
 どの地下蜘蛛も青眼に構えていた。
 ただ刀を振り回していた今までの地下蜘蛛とは明らかに違った。
「祥三郞君、気を付けて」
「夕輝殿も」
 夕輝と祥三郞も刀を構えた。
 太一と繊月丸は邪魔にならないように後ろに下がった。

 地下蜘蛛がじりじりと近付いてくる。
 夕輝もゆっくりと間を詰めた。
 斬撃の間境で夕輝は止まった。
 地下蜘蛛は間境に入ると、突きを放ってきた。
 夕輝はそれを刀で受けると、そのまま喉を突いた。
 刀を引き抜くと、地下蜘蛛は後ろに倒れた。
 すぐに次の地下蜘蛛が、真っ向から斬り下ろしてきた。
 それを弾き、抜き胴を放った。
 地下蜘蛛が内臓と体液をぶちまけながら倒れた。
「夕輝殿! 後ろ!」
 斜め後ろから地下蜘蛛が斬りかかってきた。
 夕輝が振り返って応戦しようとしたとき、地下蜘蛛が倒れた。
 そこに朔夜が立っていた。
「気を抜くんじゃねぇ!」
 残月がそう言いながら祥三郞に斬りかかろうとしていた地下蜘蛛を倒した。
「十六夜、ここは我らが引き受ける。先に行け」
「分かった。行こう」
 夕輝は太一達に声をかけて走り出した。
 朔夜の強さは知らないが、残月は夕輝より強い。任せても大丈夫だろう。

 前方が明るくなっている。
 どうやら目的地らしい。
 夕輝は入り口の手前で立ち止まった。
「夕輝殿、どうされたのでござるか?」
 祥三郞が背後から声をかけてきた。
「繊月丸、罠はないか?」
「ない」
 その返事を聞いて、夕輝はゆっくり入り口に足を踏み入れた。

       六

 そこは広い部屋だった。
 がらんとしていて何もなかった。
 目の前には四人の男がいた。
 そのうち二人が倒れており、もう二人が倒れている男の前に膝を突いていた。
 膝を突いている男の一人は楸だった。
「楸さん」
「君か……」
「その二人は……」
(えのき)椿(つばき)だ。この二人はもうダメだ」
「地下蜘蛛に……」
「そうだ。そっちが(ひいらぎ)
 楸はもう一人の男に視線を向けた。

 そのとき、
「夕輝さん!」
「天満さん!」
 夕輝を呼ぶ声が聞こえた。
 お唯と椛、お里が部屋の奥にいた。縄で縛られているようだ。
 部屋の中央には朔夜に似た男が立っていた。
「望」
 繊月丸が悲しそうに名を呼ぶと、凶月は優しい眼差しを向けた。
 お唯達と凶月の間に、この前の血の臭いがした女性がいた。

 誰かに似てると思ったら、椛ちゃんだったのか。

 多分、彼女が楓なのだろう。
 凶月が夕輝に目を向けた。
「お前が次の望か」
「違う!」
 夕輝が即答すると、微妙な空気が流れた。
「兄貴、そこは『そうだ』って答えるところじゃ……」
「え、でも、俺、自分のうちに帰りたいし」

 夕輝のいた現代と江都は違う世界だから、時間の流れは関係ないとしても、やはり支配者が違う世界にいるというわけにはいかないだろう。
 それに朔夜や残月がいるのだから何も自分が望にならなくてもいいではないか。

「お唯ちゃん達を返してもらうぞ」
「そうはいかない。この娘達は最後の贄だ」
「凶月、この中で未月の一族は私だけです。他の二人は解放してください」
 椛が凶月に懇願した。
「江都の神域は穢れきっている。未月の娘でなくとも結界は消える」
「そんなことをして何になる!」
「地下蜘蛛の支配する世界になれば、好きなだけ人が喰える」
「お前、人を喰うのか!?」
 凶月は答えなかったが、楓が俯いたところを見ると彼女が喰うのだろう。
 やはり人の(はらわた)を喰らっていたのは彼女だったのか。
「そんなことはさせない」
「邪魔をするものは全て殺す」
「望……」
 繊月丸が悲しそうに呟いた。
「夕輝殿。拙者も助太刀いたします」
 そう言ったとき、後ろから剣戟の音が聞こえてきた。
 楸と柊が地下蜘蛛と戦っていた。

 夕輝達の後ろにも地下蜘蛛の集団が迫ってきた。
「夕輝殿、ここは拙者が」
「気を付けて」
「夕輝殿もご武運を」
 祥三郞が地下蜘蛛の一段と向き合った。

 それを見てから刀を青眼に構えた。
 凶月も青眼に構えた。
 二人は既に一足一刀の間境の半歩手前にいる。
 どちらも刀を構えたまま動かなかった。
 あたかも、世界に存在するのが夕輝と凶月だけになったように、互いのことしか見えていなかった。
 音も聞こえなくなった。
 夕輝は呼吸を静めて、凶月の斬撃の起こりを待った。
 不意に凶月に斬撃の気が走った。
 次の瞬間、二人の身体が躍り、互いに真っ向へと斬り下ろした。
 刀と刀が弾き合う。
 上へと弾かれた凶月の刀が袈裟に振り下ろされた。
 夕輝は体を開いてよけると、踏み込んで小手を見舞った。
 それを凶月が払う。
 夕輝は素早く峰に返して、上段から振り下ろした。
 凶月はそれを弾きながら突きを繰り出した。
 刀が夕輝の右肩をかすめる。
 夕輝の肩からわずかに血が流れた。

 二人が再び構えたとき、
「望!」
 繊月丸が凶月を呼んだ。
「繊月丸」
「もうよそう、望。朔夜達と一緒に帰ろう。前みたいに一緒に」
「それは出来ないんだ、繊月丸。俺はもう地上を照らす望月(もちづき)じゃない。地上に災いを招く凶月に堕ちた」
「望……」
 凶月は繊月丸の言葉を撥ね付けるように夕輝に斬りかかってきた。
 上段から振り下ろされた刀を弾くと、二の太刀で小手を打った。
 凶月がそれを撥ねのけ胴を払ってきた。
 夕輝は後ろに飛び退きながら刀を払った。
 凶月は素早い寄り身で身体を寄せてくると、袈裟に振り下ろした。

 避けられない!

 そのとき、
光夜(こうや)!」
 楓の声に一瞬凶月の刀が揺れた。
 夕輝は咄嗟に突きを繰り出していた。
 刀が凶月の肩を貫く。
「光夜!」
 楓が叫んだ。
 凶月が膝を突く。
 夕輝は残心の構えを崩さず、二、三歩下がった。
「十六夜。とどめを」
 いつの間にか(そば)に来ていた朔夜が言った。
「え? でも……」
「凶月を止めるのが天満の使命だ」
「そんな、俺は……」
 いつの間にか、周囲は静かになっていた。
 他の人達と地下蜘蛛との戦いは終わったようだ。
「まだだ。まだ……」
 凶月が苦しそうな顔で立ち上がろうとしていた。
「江都の神域さえ消えれば……」
 凶月は最後の力を振り絞って立ち上がると、お唯に駆け寄って刀を振り上げた。
「やめろ!」
 夕輝は咄嗟に走り寄ると凶月の背に刀を突き刺した。
 凶月が膝を折った。
「光夜」
 楓が凶月の前に膝をつき、肩に手をかけた。
「か、楓……」
「もうよしましょう。私はこれ以上浅ましい姿で生きていたくはありません」
 その言葉に、凶月は唇を噛みしめた。
 楓は夕輝を見て頷いた。
 夕輝は一瞬逡巡した後、凶月の背後に回った。

 繊月丸は凶月を止めてくれと言った。「望は泣いてるから」と。
 さっき、繊月丸に向けた優しい視線。
 きっとあれが本来の望だ。
 人を傷付けることで自分も傷付き、心の中で泣きながらも楓のためにやらざるを得なかったのだ。
 望になるかどうかはともかく、凶月を止めなければ大勢の人が死ぬ。
 そして、他の誰より、人の死を望んでいないのが凶月だ。

 目を閉じて覚悟を決める。

 そして、目を開けると一思(ひとおも)いに凶月の心臓を突き刺した。
 凶月が楓の腕の中に倒れた。
 初めて人を殺してしまった。
 その事実に手が震えた。
 楓が愛おしそうに凶月を抱きしめた。
 それから、脇に置いてあった二振りの刀を夕輝に差しだした。

「これは本来、望の持つべき刀、弦月(げんげつ)です。太刀が上弦、脇差が下弦です。光夜が持っていましたが、凶月になった光夜には使えませんでした」
「俺には繊月丸がいるから……」
「弦月の使い道は刀としてだけではありません。あなたなら使いこなせるでしょう」
 自分は望になる気はない、と思ったが受け取った。
 そうしなければいけないような気がしたのだ。
 太一や祥三郞、楸がお唯達の縄をといた。
「次は私です」
 楓が言った。
「え? でも、あなたは何もしてない……」
「私は今まで何人もの人を(あや)めてきました。生きている限り、それをやめることは出来ません」
「けど、椛ちゃんのお姉さんを……」
「私はもう未月楓ではありません。亜弓です。望を凶月にし、人々を殺めた罪は償わなければなりません」
 夕輝は助けを求めるように椛を見た。
「夕輝さん。未月楓はもういません。そこにいるのは亜弓です」
「光夜が待っています。あまり待たせると置いていかれてしまうわ」
 楓がそう言って微笑んだ。
「あなたを置いていったりしないよ」
 夕輝はかろうじて笑みを浮かべた。
 凶月が何万人もの命と引き替えにしてでも助けたかった人だ。
「さ、早く」
 その言葉に、夕輝は楓の背後に回った。
「あの……、俺も償います。あなたと、凶月――望を殺したこと。……どうすれば償えるのかは分からないけど……償いますから……」
 声が震えた。

 いつしか、夕輝の頬に涙が伝っていた。
「ごめんなさい!」
 夕輝はそう言うと楓の心臓を貫いた。
 楓が凶月に被さるようにして倒れた。
「夕輝さん!」
 お唯が駆け寄ってくると、抱きついてきた。
「私も一緒に償います! だから、だから……」
 お唯も泣いていた。
「お唯ちゃん……」

 自分はお唯が連れて行かれる時、何もしてあげられなかったのに……。

「有難う。お唯ちゃん」
 夕輝はそう言うと朔夜の方を向いた。
「お唯ちゃんの記憶を消すことは出来るか?」
「夕輝さん!」
「勿論、この娘とそちらの娘には忘れてもらう」
 朔夜が手を振るとお唯とお里は意識を失った。
 夕輝は倒れそうになったお唯を抱き留めた。
「今回のことで、俺はあんた達に貸しを作ったよな」
「帰して欲しいのか?」
 夕輝はお唯を見下ろした。
「……お唯ちゃんを助けて欲しい」
「身請けして欲しいと言うことか」
「出来るか?」
「お前は帰れなくなるぞ。それでもいいのか?」
 残月が問うた。
「お唯ちゃんを助けるのは今じゃないとダメだから」
「後悔しないか?」
「するかもしれない。いや、きっとする。俺はそんなに出来た人間じゃないから」
「それでもその娘を助けたいか」
 朔夜が穏やかな声で訊ねた。

「お唯ちゃんを見捨てて帰ったら一生後悔する。同じ後悔するならお唯ちゃんを助けて後悔した方がいい」
 それから凶月と楓の方を見た。
「それに、俺は人を二人も殺してしまった。もう現代に帰って普通に生活するなんて出来ないよ」
「その娘一人助けたところで何も変わらないぞ。売られる娘は他にいくらでもいる」
 残月が言った。
「俺は人助けがしたいんじゃない。お唯ちゃんを助けたいんだ」
「分かった」
 朔夜はそう答えると、太一達の方を向いた。
「その二人の記憶は……」
「あっしは人に言ったりしやせんぜ」
「拙者も秘密は守ります」
 夕輝は二人を見てから朔夜の方を向いた。
「いいかな」
「いいだろう。どうせ喋ったところで誰も信じないだろうしな」
 残月が答えた。
「では、帰ろう」
 朔夜はお唯を抱き上げると出口に向かった。
 夕輝もお里を背負うと太一達を促して歩き出した。

       七

 地上ではあちこちで小火が起きたらしいが、どれもたいした被害は出なかったらしい。
 お里を橋本屋に送っていくと、何度も礼を言われた。

 お里が(さら)われたことで用心棒はお役御免になるかと思ったが、残念ながらそう上手くはいかなかった。
 太一も祥三郞も約束通り、今までと同じように接してくれていた。
 太一は毎日忙しく峰湯で働いており、あまり一緒にシジミ捕りには行けなくなった。
 とはいえ、夕輝もそれほど金が必要ではないので、時間があるときだけ一人で行っていた。
 祥三郞もいつも通り、長八に論語を教えに来ている。
 祥三郞の教えのお陰か、長八はようやくご隠居に仕事を紹介してもらえたそうだ。
 もうご隠居に仕事を紹介してもらったのだから論語を習うのをやめてもいいのだが、勉強するのが楽しくなってきたらしい。
 祥三郞は葵とも時々会ってるようだ。

 お唯が身請けされる日、夕輝が新吉原の大門の前で待っていると、
「夕輝さん!」
 お唯が嬉しそうな顔で夕輝に駆け寄ってきた。
「お唯ちゃん。出してもらえたんだね」
「はい。どなたかが身請けしてくれたんです」
「良かったね」
 夕輝は微笑んだ。
「はい。……でも、見世に出てなかった私を一体誰が……」
「きっとお唯ちゃんがいい子にしてたから、神様が助けてくれたんだよ」
「まさか……」
 お唯が微笑った。
「じゃ、帰ろうか。ご両親が待ってるよ」
「はい」
 夕輝とお唯は並んで歩き出した。

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