うちのクラスの学級委員長、王弟殿下なんですよ~王弟カズンの冒険前夜

 既に昼休みは終わっており、カズンはグレンと3年C組の風紀委員には教室へ戻るよう促した。

 ヨシュアを伴って一度A組へ戻り、以降の授業を欠席することを伝えてから、ユーグレンのB組を訪れる。
 当然、授業中であったが、構わずユーグレンを呼び出して、ともに学長室まで赴いた。

「やはりそうなったのね……」

 C組でのジオライドの件を、既に先んじて学長室まで報告しに来た生徒がいたようだ。

 学園長のライノール伯爵エルフィンは、世も末といった悲愴な表情で白い顔を片手で覆っていた。

 カズンから詳しい話を聞いたユーグレンも難しい顔になった。

「……状況は理解した。もはや話し合いでどうにかなる状態ではない、か」

 イザベラのクラスメイトたちも、ジオライドとその取り巻きたちの暴言や暴力に辟易としている。
 だが、やはり本人が国内有数の公爵家嫡男というのが強い。

 実は最近も一度、C組の生徒たちは風紀委員会を通じて学園側に問題を訴えている。
 しかし、ジオライドのラーフ公爵家は学園に多額の寄付をしていて、令息のジオライドに強く注意できないとは、以前も聞いた学園長のエルフィン談だ。

「それとなく、差し障りない程度にオブラートに包んで、ジオライド君の父君のラーフ公爵閣下に報告はしていたのよ」
「でも、あまり効果はなかったようですね。むしろ悪化してますよ、エルフィン先生」

 ヨシュアの指摘に、本当に頭が痛いと言って、エルフィンは執務机の上で頭を抱えてしまった。

「学園からの報告を受けて、ジオライド君は父君からそれなりにきつく叱責されたみたいね。そのせいで、ますますイザベラさんへの態度を悪化させることになってしまった……」

 さすがにそれを見てしまうと、クラスメイトたちもお手上げ状態だ。自分たちが下手に手出し口出しすると、イザベラへの被害が増える。
 エルフィンも、まさかここまで酷い状況になるとは思っていなかったという。

「ジオライド君は公爵家嫡男よ、王家に次ぐ家柄の出身で、次期公爵。まさか、婚約者の令嬢を襲って弄びたいと公言するだなんて、誰が予想できたというの……?」

 しかも、子爵令嬢とはいえ王家の血筋を引いたイザベラを虐げ、平気で暴力を振るうなど、正気の沙汰とは思えない。

「エルフィン先生。あなたが責任感の強い良い教師であることは、私もよくわかっています。ラーフ公爵令息の件は最早あなたの手に余るでしょう」
「ええ。現時点では、これ以上私の立場から何かすることは難しいわ」
「では、この件はしばらく王家が預かります。ただ、学園内で起きた事件なので、学園長のあなたも何らかの責任を負わされるかもしれない」
「責任逃れをするつもりはなくてよ。監督責任を果たせなかったと言われたら、減俸でも学園長の解任でも甘んじて受けるつもり」

 エルフィンも既に覚悟を決めているようだった。



 その後、カズンはユーグレンの指示でトークス子爵家へ馬車を走らせた。
 トークス子爵に話を通してからイザベラを連れ、一度、自宅のアルトレイ女大公家で保護せよというのが、ユーグレン王子からの指示だった。

 イザベラ本人を交え、父ヴァシレウスと母セシリアにも事情を説明して助力を請うた。

 そしてイザベラの口から語られた、カズンもまだ知らなかった彼女の婚約者、ラーフ公爵令息ジオライドの言動は、あまりにも下劣過ぎた。

「私をどのように汚し、貶めるか。醜い女だから木の棒でも突っ込めば喜ぶだろうなどと、目の前でいつも嬉しそうに話されていました……もう、私はどうすれば良いのかわかりません……」

 イザベラの置かれたあまりの過酷な状況に、カズンも父母も声を失う。

「この国の身分制度の悪いところが出たか」

 ヴァシレウスが痛む頭を押さえている。
 アケロニア王国の身分制度は、“総合評価”だ。
 極端な例でいえば、貴族最高位の公爵家に平民層出身の女性が嫁ぎ、公爵夫人となったとする。
 この場合、公的な身分は公爵夫人だが、残り半分は平民層出身者という出自が本人の経歴として残る。
 他の貴族家が、彼女の実子と自分の家の子息子女の婚姻、あるいは保有する事業の提携などを計画する場合、この残り半分の“平民層出身”の項目がネックになりやすい。
 この経歴は、本人から見て祖父母まで遡って国の戸籍に記載され、社交において考慮される。

 だが、身分制度に執着する貴族の中には、“どこまでも”出自を遡って追求する者がたまにいる。
 恐らくラーフ公爵令息ジオライドはその類いだ。

 ラーフ公爵家は、建国からではないものの古い家柄で、高位貴族中心に婚姻関係を結び続けている家だった。

 婚約者のイザベラのトークス子爵家は、イザベラから見て曾祖母にあたる人物が貧民層出身であることが知られている。
 その血筋の子孫であるイザベラを婚約者とすることが、己の瑕疵であると短絡的に判断したのだろう。



 円環大陸も一年は共通の暦で12ヶ月、四季がある。
 まもなく7月に入り、学期末テストの時期で登校日が少なくなる。その後は夏休みだ。

 このままイザベラも登校日数を減らして、可能な限りジオライドと取り巻きたちとの接触を減らしてもらうことにした。

 また、ヴァシレウスはイザベラには護衛を付けることを提案した。幸い、イザベラとジオライドのクラス3年C組には、卒業後そのまま騎士団に入団する生徒が複数いる。
 たとえば、カズンの友人の侯爵令息など。

「それならライルを」

 イザベラのクラスメイトであるし、剣の腕は騎士団のお墨付きだ。

「いや、男子生徒だとラーフ公爵令息の余計な邪推を招いてしまう。イザベラ嬢、伯爵家以上の家格の令嬢で、騎士団入団が決まっている女生徒が数名いるだろう?」
「はい、ブランディン伯爵令嬢とウォーカー伯爵令嬢がおられます。子爵家と男爵家のご令嬢にも数名」
「ブランディン伯爵令嬢とウォーカー伯爵令嬢のお母様はあたくしのお茶友だわ! あたくしから話を通してあげる、きっと悪いようにはならなくてよ」

 手を叩いて、今すぐ二人の令嬢の家に手紙を書くと言い、セシリアが侍女にレターセットの準備を申し付けた。

 女騎士志望の伯爵令嬢二人も、3年C組でのジオライドの暴挙に不快感を覚えているのは間違いない。
 イザベラも、それとなくジオライドから庇ってもらったことがあるという。
 恐らく、二人の伯爵令嬢もイザベラの護衛を断ることはないだろう。

 イザベラはこのまま自宅に帰りたいと言って場を辞そうとしたが、セシリアが許さなかった。

「イザベラちゃん、今日は泊まっておいきなさいな。明日はちゃんとおうちまで送らせますからね」

 問題が解決するまでずっと居なさいと言いたいところだが、イザベラに正式な護衛が付くならその必要もない。

 ずっと応接間で話をしていて、すっかり茶も冷めてしまっている。
 午後の授業を休んで帰宅していたから、まだ夕方にもなっていない。
 侍女たちが新しく紅茶を入れ直し、軽食や菓子類をケーキスタンドで用意してくれた。

「あたくしたち貴族の女には不自由なことも多いけど、自分の幸せを諦めないで欲しいと思うわ」

 そうして語られたのは、セシリアがアケロニア王国へ来るまでの物語だった。
 まだ三十代半ばの彼女がこの国へ嫁いで来たときのエピソードはドラマチックだ。

 アルトレイ女大公セシリア。

 元は同盟国タイアド王国の貴族令嬢で、この国の先王ヴァシレウスの曾孫でありながら、彼に嫁いできた情熱の女性である。

 タイアド王国の先王である当時の王太子に、ヴァシレウスの第一子であり、テオドロスの姉王女クラウディアが嫁いだ。
 彼女はカズンにとっても姉だが、カズンは王宮内の絵姿でしか見たことがない。アケロニア王族特有の黒髪黒目の端正な顔立ちの少女だった。
 セシリアはアケロニア王国の王女クラウディアと、タイアド王国の先王の孫にあたる。
 アケロニア王国と同盟国両方の王族の血を持ち、身分は公爵令嬢だった。



 その祖国で、セシリアは同い年の、従兄弟の王太子の婚約者だった。
 この王太子はアケロニア王族の血は引いておらず、セシリアの祖父王が別に迎えた側室との間に儲けた王子の息子である。

「でも、母国の学園に在籍してたとき、王太子殿下が下級生の男爵令嬢と恋に落ちてしまわれてねえ。あたくしとの婚約は一方的に破棄されてしまったの」

 ところが男爵令嬢では身分が低すぎて、将来王となる王太子の後ろ盾にもならない。
 そこで王太子は狡猾にも、元々の婚約者であったセシリアの公爵家の権力をキープするべく、側室の打診を申し入れてくる。

「でも、男爵令嬢が正妃で、公爵令嬢のお母様が側室では王侯貴族の序列を乱しますよね」

 母の経歴はカズンも知っている。だが、改めて本人の口から直接当時の話を聞くのは初めてだった。

「そう、あたくしの家から父が抗議すると、ならあたくしを当初の予定通り正妃に、男爵令嬢を側室に修正すると連絡が来たわ」
「えっ。“婚約破棄”された後のことですよね!?」

 話を聞いてイザベラやヨシュアも驚いている。

「そうよ、おかしいでしょ? 笑っちゃう」

 セシリアの上品な薄ピンクの魔術樹脂のネイルの指先が、紅茶のカップの持ち手をつまむ。

「とはいえ、あたくしの父も王家が正式に謝罪してきたから、再婚約の申し出を受け入れたわ。でもね……」

 いざ改めて再婚約の儀を交わそうと婚前契約書を確認すると、セリシアは正妃どころか、公妾として王太子宮に召し上げると書かれていた。
 王太子との間に子供が産まれれば、庶子となり王位継承権は与えられない。
 しかしセシリアの実家の公爵家は王家に支援をするようになど、信じられないような一方的な条件ばかりが書き連ねられていた。

 とんでもないことである。
 当然、父親の公爵もセシリア本人も婚前契約書にサインはせず、その場を退席した。



「セシリアの祖国だったタイアド王国では、“公妾”とは王家公認の愛人という本来の意味のほかに、いくつかの機能を持つ」
「と言うと?」

 途中、ヴァシレウスが補足してきた。

「王家に嫁ぐ自国の令嬢の実家が高位過ぎる場合、権力の集中を防ぐための緩衝材的に取られる措置のひとつだ。実態は公妾という名の側室だな」

 セシリアはアケロニア王国と、出身国タイアド王国両方の王家の血筋の令嬢だった。
 その彼女が王家に嫁ぐことで起こる権力集中を避けるという名目は、一応成立する。

 王族が公妾との間に儲けた子には王位継承権を授けない国が多いが、その子が“王族の血を持つ”ことは変わらない。
 王位継承権がなくとも王族の血には大きな価値があるから、その後の家同士の養子縁組や婚姻で有効に使われることが多かった。



 だが、公妾に関しては、タイアド王国の数代前の王が愚かなことを仕出かしている。

 自分の公妾を、臣下や国に貢献した者への“褒美”として一晩の慰めに下賜したことがあった。
それも相手が高位貴族や王宮の高位の役職持ちならともかく、低位貴族や平民出身の功労者にだ。

 これを侮辱と取った高位貴族出身の公妾本人が自死を選んだケースが数例ある。
 そのうちの一例など、国の英雄に下賜された公妾が相手の英雄を寝台の上で刺し殺して、自分も自害するという甚大な被害を出した。

 以降、王族の公妾制度は暗黙の了解で廃止同然のはずだったのだが、王太子が愚かにも復活させようとしてきたというわけだ。

「私の娘が存命だったら、タイアド王国の王太子の暴挙を許すことはなかっただろう」

 ヴァシレウスの娘、即ちアケロニア王国の第一王女でタイアド王国の王妃、そしてセシリアの祖母だったクラウディアだ。

 彼女はタイアド王国に嫁ぎ、王子二人を儲けている。
 一人目は生まれてすぐに夭折。

 婚姻を結んで年数が経ってから生まれた第二子の王子が、臣籍降下したセシリアの父だ。

 王妃本人は、残念なことにセシリアが生まれるよりずっと前に亡くなっていた。



「さすがにあんまりな対応をされたものだから、あたくし憔悴しちゃって。そんなとき、おばあさまの祖国アケロニア王国で、先王陛下が病に臥されたと聞いてお見舞いに来たのよ」

 と今は夫となった、隣に座る男の逞しい腕に触れる。
 先王陛下、即ちセシリアの曾祖父にあたるヴァシレウスだ。
 当時、七十代後半だったヴァシレウスは大病を患い、高齢だったこともあり臥せりがちだった。

 セシリアも自国の王太子の横暴さに辟易として気力が低下していた。
 祖母の母国アケロニア王国へ向かったのは、先王の見舞いの名目で、実際は王太子から受けた暴挙の心痛を癒やし、冷静に考える時間を得るための療養でもあったのだ。

 また、セシリア自身、アケロニア王族の濃い血を持つ。
 場合によってはアケロニア王国側から王太子の愚かな公妾契約の打診を公式に批判して貰うためでもあった。



「それで、曾孫だったお母様の状況を知ったお父様はどうされたのですか」
「そりゃ、激怒するに決まっておろう。私もだが、うちの王太女の怒り具合は凄まじかったぞ」
「グレイシア様が? そうか、彼女はお母様のまたいとこですもんね」

 嫁した王女の孫セシリアの苦境を知ったアケロニア王国は大いに憤慨した。
 特に曾祖父で先王のヴァシレウス、現王の息女で王太女のグレイシアが揃って激怒した。

「自分たちと同じ血を持つ、由緒正しき姫を愛人に落とすなど言語道断、とタイアド王国へ強く正式に抗議したんだ」

 同盟国タイアド側は、大王の称号持ちのヴァシレウスからの批判に泡を食う。

 また、王太女グレイシアが、「タイアド王国でこの愚かな王太子が即位するなら在位期間中の国交を遮断する」とタイアドや円環大陸の友好国相手に強い声明を出した。

 アケロニア王国は円環大陸でも有数の魔石の開発・輸出国だ。今、魔石が輸入できなくなると、生活が立ち行かなくなる国は多い。

 即座にタイアド王国は問題の王太子を廃し、王位継承権を剥奪した上で男爵令嬢の家に婿入りするよう命じた。

 当時を思い出すように、ヴァシレウスが少しの白髪混じりの顎髭を撫でる。

「ふはは、あれは小気味好かった。結局、元王太子は不貞相手と破局を迎え、相手の男爵家も没落したと聞く」
「“ざまぁ!”ってやつですね、お父様」
「ざまぁ?」
「様を見ろ、の俗語です。それ見たことか、みたいな」
「ふうむ、まあ元王太子の場合は自業自得だがな」



 その後、タイアド王国の王家は新たな婚約者をセシリアに用意したが、セシリアは拒否した。
 元婚約者の六歳年下の実弟だったので、なおさらだ。あまりにもセシリアと家の公爵家を馬鹿にしすぎている。

 アケロニア王国に着いてからは、アケロニア王家側も国内の高位貴族の令息との婚約を勧めてきたが、話はすべて保留してもらっていた。

「あたくしも、祖国の元婚約者から散々罵倒されてたのよ。つまんない女だ、目の色が気に入らない、板切れみたいな貧弱な身体だ、とかもうたーっくさん!」
「あ、相性が悪かったのですね……?」
「酷かったわよ。あの頃はあたくしもまだ十六くらいだったから、身体の発育も子供の域をようやく抜けたかな? ぐらいだったのよね」

 室内の全員の視線がセシリアに向く。
 今のセシリアは、出るところは豊かに出て、ウエストは見事にくびれた魅力的な体型の女性だ。
 まだ三十代半ばほどとはいえ、経産婦の貴族女性としては見事なプロポーションを維持しているといえる。

「『そんな貧相な身体で俺を満足させられるわけがなかろう!』とか怒鳴られたわ。『それに引き換え、俺の最愛は素晴らしい!』などと比べられたっけ。うわーこの人、あたくしという婚約者がいるのに他で関係持ってるのねサイテー! って感じだったわあ」

 セシリアは輝くような明るい金髪と、鮮やかなエメラルド色の瞳を持った、甘くゴージャスな印象の美女である。
 円環大陸の人間なら、百人いたら九十八人は口を揃えて美女だと褒め称えることだろう。

 ヴァシレウスやカズンのような、アケロニア王族特有の黒髪黒目や端正な顔立ちより、タイアド王族の特徴のほうが強く出た容姿をしている。



それ以降のセシリアについては、アケロニア国民なら誰もが知っている。

 アケロニア王国を来訪したセシリアが先王ヴァシレウスに一目惚れをした。

 タイアド王国からやって来て、最初の謁見のとき脇目も振らず大王ヴァシレウスに求婚した高貴な令嬢こそが、今こうして優雅に紅茶を飲んでいるアルトレイ女大公セシリアの少女時代であった。

 当時、セシリアは祖国では成人年齢の16歳。対するヴァシレウスは79歳だった。歳の差、実に63。
 しかもヴァシレウスにとっては、自分の血を引く曾孫でもあった。

「さすがに孫のグレイシアより若い子供を娶る気はなかったのだが……」

 現役時代や、退位しても七十代に入るまでは艶福家として知られ、側室や、愛妾に至っては数知れず、男女問わず泣かせまくったのがヴァシレウスという男だ。

 ところが七十を過ぎてから、寄る年波に勝てぬというやつで、病にかかるようになった。
 セシリアがアケロニア王国にやって来るきっかけも、大病にかかり、いよいよ危ういという情報がもたらされてのことだったぐらいだ。

 今でこそ気力も体力も満ちて若々しく見え健康なヴァシレウスも、当時は年相応に老け込んで髪や髭に白髪も多かった。今のヴァシレウスにも白髪はあるが、黒髪のほうが断然多い。

 ヴァシレウスはその場でセシリアからの求婚を、面白い冗談を聞いたと言って退けた。
 だがセシリアは諦めず、その後もヴァシレウスとの面会許可を得て、求愛し続けた。

 実際、ヴァシレウスもその息子の国王テオドロスも、また周囲の大人たちはほとんど、セシリアの言葉を信じていなかった。
 せいぜい、セシリアが自国に戻ったとき自分の箔付けにするつもりだろうと思った程度だった。



「でもざーんねん! あたくし、とっても本気だったのよ」

 王宮で自分の歓迎パーティーが催され、国内の主だった貴族や有力者たちに紹介される機会があった。
 セシリアのお目当てのヴァシレウスは、会の最初に挨拶だけすると体調不良にすぐ引っ込んでいった。
 しばらく、王太女夫妻の紹介でパーティーの参加者たちと挨拶したり、ダンスを楽しんだりしていたセシリアも、疲れたことを理由に途中で退席することにした。

 護衛の騎士と侍女に護られて王宮の客間に戻る途中、パーティーのため忙しく動き回っているはずの侍女たちの立ち話を耳にする。
 既に退位して久しいヴァシレウスは、王宮ではなく離宮のひとつに居を移している。だが今晩はこのまま王宮の客間に部屋を用意させて休むようだ、という。
 その準備にかかっている侍女たちの立ち話だった。

 自分に宛てがわれた客間に戻り、ドレスから部屋着に着替え、入浴なども済ませた後。
 騎士や侍女も部屋から辞したことを確認したセシリアは、迷うことなく部屋を出て、客間のある棟の一番奥を目指した。

「パーティー会場を出る前にね、王太女様がこっそり教えてくれたの。今晩、この後日付が変わるまでの間だけ、ヴァシレウス様の泊まるお部屋から人払いしてやるぞって」

 その言葉の意味がわからないほど、セシリアも子供ではなかった。

 夜這いのときのセシリアからの口説き文句はこれだ。


『真実の愛に劣ると捨てられたあたくしに、あなたが真実の愛を教えてくださいませ』


「あれで発奮せねば男ではあるまい」

 おおお、と子供たちが感嘆の声をあげる。
 セシリアとヴァシレウスの馴れ初めは、この夜這いの台詞とともに有名だった。
 後にヴァシレウスの伝記の番外編として、本人たちの監修で収録刊行されたエピソードなのだ。

 ちなみに、新たな王族としてカズンが生まれたことを知った国民、特に男性諸氏の感想は「ヴァシレウス様、まだ現役だったんだ!?」だそうである。



 傍から見ればセシリアは初恋を叶えた情熱の女性だが、ヴァシレウスの伴侶として認められるまでは紆余曲折があり、一筋縄ではいかなかった。

 一晩の逢瀬の後、二ヶ月後にセシリアの妊娠が発覚する。相手がヴァシレウスだと言って本人も認めたため、そのままセシリアはアケロニア王国に出産まで留まることになった。

 そうして産まれた子供が父親のヴァシレウスと同じ黒髪黒目、ほとんど瓜二つの容貌だったことで、ヴァシレウスの実子であることに異論を挟む者もいない。

 そこから、セシリア自身の処遇をどうするかで、祖国もアケロニア王国も頭を悩ませることになる。

 既にヴァシレウスは退位して久しいし、正妻や側室、妾などとすべて死別していた。
 新しく伴侶を迎えるにあたって、すべて本人の自由に決められる状態だったのは幸いだった。

 ただ、セシリアにとってヴァシレウスは直系尊属だ。
 倫理道徳的にどうなのか、という批判がまず出てくる。
 それもカズンが生まれていたことで何とか反論を封じることになった。



 セシリア自身がヴァシレウスの曾孫でアケロニア王国の王族の血を引く事実が、まず最初の加点だった。

 カズンを出産してすぐにセシリアがタイアド王国からアケロニア王国に帰化したのが次の加点だ。

 最終的には、国賓として招かれたパーティーの場でセシリアが、長年関係が悪化していた国との国交を回復・樹立に大きく貢献した実績が決め手となる。
 カズンを出産した時点でまだ17歳だったセシリアだが、誰もが舌を巻くほど社交に優れた能力の持ち主だったのだ。

 そうして、セシリアがヴァシレウスの正統な伴侶として認められたのが、二人の子供カズンが4歳となった年のこと。
 そのとき、ようやくカズンもアケロニア王族の一員として正式に認められることになる。

 兄王テオドロスと当時まだ健在だった今は亡き王妃、その娘の王太女夫妻、孫のユーグレンと正式に顔合わせしたのもその年だ。

 そしてカズンが学園に入学する頃には、セシリアは正式にアルトレイ女大公に列せられている。

「うちの可愛いショコラちゃんが4歳の頃といえばね……」

 とケーキスタンドからチョコレート菓子を摘まみながら、セシリアの話が脱線していく。

「お、お母様、僕の話は結構ですから」

 何やらイヤな予感がする。
 しかし母は止まらなかった。
 歩けるようになってからのカズンが、当時住んでいた離宮内を走る走るで大変だったと話し始めるときた。

「はいはいができるようになったときも凄かったのよお。すーぐお部屋から逃げ出そうとするんですもの。それで勢いが強すぎて壁にぶつかっちゃうのよね」

 カズンが生まれる数年前から大病をして体力が落ちていたヴァシレウスでは、カズンの相手が難しかった。
 何せカズンが生まれた時点でヴァシレウスは八十の大台に乗っていたので。
 乳母も足の速い人ではなかったし、侍従や侍女、執事なども追いつけなかった。
 現役の騎士団員なら可能だったが、子守りのためだけに余分な人員を借りるわけにもいかない。
 歩けるようになった時点で乳母車からも自分で這い出してしまうため、人力で捕獲できる者がどうしても必要だったという。

 そこで、母親のセシリアが、身体強化魔術の訓練を受けてカズンを捕まえることになったという。
 彼女は魔力は持っていたが魔力使いの少ないタイアド王国出身だったため、魔法も魔術も使ったことがなかったが。

 このとき、セシリアに身体強化を指導したのが、当時の魔法魔術騎士団の副団長だったリースト伯爵カイル、ヨシュアの亡父だった。
 後にヨシュアがカズンの友人として引き合わされることになった縁がこれである。

「運動用に用意してもらったお靴、何足ダメにしたのだったかしら。底がすり減って穴も空いちゃったわ。そこまでやって、ようやくカズンに追いつけるようになったの」

 それまで、どちらかといえばセシリアはスレンダーで厚みの薄い体型だった。
 しかし体力を付けるため毎食がっつり肉やチーズ、野菜も適度に摂り続けたことで、胸は豊満になり、日夜疾走することで、ヒップと脚がしなやかな筋肉で引き締まったダイナマイツボディを手に入れた。

「カズンを追いかけるのは、本当に大変だったな……」
「ええ。大変でしたね、旦那様。でもとーっても! 楽しかったのよお」

 セシリアの魔力ステータス値は7である。平均値が5だから数値として高めだ。

「自分に魔力があるってこと、アケロニア王国に来てから知ったのよね。というかカズンを産んだ後、正式にステータス鑑定してもらって判明したの」
「うむ。予想はしてたが、セシリアもアケロニア王族の血筋だからな。“人物鑑定”スキルは当然持ってるだろうと思っていた」

 その一族に特有のスキルや能力というものがある。
 例えば、ヨシュアのリースト伯爵家の男子なら、金剛石、即ちダイヤモンドでできた魔法剣を自在に操ることが知られている。
 アケロニア王族の場合は、男女の区別なく、鑑定スキルのうち人物鑑定スキルをほぼ必ず発現させる。

 カズンやユーグレン王子は人物スキルの初級を。
 先王ヴァレウスは上級。現王テオドロス、王太女グレイシアは中級で、彼ら全員、まだ上の等級に進化する余地を残している。

 セシリアは、発現する可能性が高いスキルとして、人物鑑定スキル・特級を持っていた。
 鑑定スキル全般にいえることだが、特級ランクの持ち主は円環大陸全土で各国に一人いるかいないかといったところだ。

 ちなみにアケロニア王国に、人物鑑定スキル・特級ランクの持ち主は二名いる。
 一人がこのカズンの母親アルトレイ女大公セシリア。もう一人は、王立学園の高等部で学園長をしているライノール伯爵エルフィンである。

「あたくし、初めて謁見の間で旦那様を見た瞬間、『これは自分の男だ』って直観したのよ。あれって今から思えば、特級ランクの人物鑑定スキルがたまたま発動したんじゃないかなあって」

 巷の噂では死期や“運命の相手”がわかるとも言われているが、これに関して人物鑑定スキル特級の持ち主は黙して語らない。
 なお、個人間の相性だけなら、中級ランクでも鑑定可能である。



「そのうち、王太女のグレイシア様にカズンを捕まえるコツを教えてもらってねえ。『ワーイ!』って大きな声を出して両腕を上げた直後に飛び出していくから、タイミングを狙って抱っこしちゃえばいいんだぞって」
「う……ププッ、そうですね、確かにカズン様はそうでした。『ワーイ!』とか『ウワーハハハ!』って叫んだ後にものすごいスピードで駆け出してました」

 当時を知るヨシュアが思い出したように笑っている。
 駆け出したカズンに手を引かれて、文字通り一緒になって離宮を駆け回っていた頃がとても懐かしい。

 子供の頃とはいえ、自分の失敗談を人前で話されてカズンは恥ずかしさに顔を背けてしまっている。
 もうやめてと言っても、セシリアもヴァシレウスも、ヨシュアでさえ止まってくれなかった。

 表情を強ばらせていたイザベラも、温かい紅茶と風味の良い焼き菓子片手に語られる昔話に、笑顔を見せるようになった頃。

 ユーグレン王子の指示を受け、王宮から王族や貴族間のトラブルを監視する監察官が、アルトレイ女大公家に到着した。

 これまでのジオライドとイザベラの諍いと、それぞれの家の思惑などに関する調査結果を持ってきたのだ。

 カズンがイザベラたちへの積極的な介入を控えていたのは、この調査結果を待っていたからだった。
 実際は早く動いてしまったが、今はそれで良かったと思う。



 王家が調査すると、どうもラーフ公爵令息ジオライドは、イザベラとの婚約を誤解して認識していることが判明する。

 本人はイザベラとの婚約を低位貴族の女性との貴賤結婚だと勘違いしているが、実態は王家の血を引くイザベラと婚姻を結ぶことで王家の縁戚となることが目的である。

 ところが、ジオライド本人の中では、どうやらイザベラとの婚姻と王家と縁戚になることが結び付いていないらしい。
 すなわち、王家と縁付くことは自分の公爵家が受ける叙勲等によるものだと思い込んでいる。
 にも関わらず、イザベラのような格下の家の女と結婚せねばならない状況ということに、強い憤りを感じている。

 ジオライドのこれまでイザベラに対する言動の数々は、既に二人の間を取り持つことが不可能なほど破滅的だった。
 このままでは学園の卒業後、結婚したとしてもイザベラの身が危険なことに変わりがない。

 仮に誤解が解けたとしても、これまでのジオライドの言動が帳消しになることはないだろう。



 しかし、まだ王家はイザベラの父親トークス子爵に、ラーフ公爵令息ジオライドとの婚約の“破棄”ないし“解消”の許可を出すかどうか、考えあぐねている。
 二人の婚約自体が、トークス子爵家の真実の発表と、ラーフ公爵家の業績とを考慮した上で王家が打診したもののためだ。

「王家の調査官がジオライドの人柄を調査した際は、多少傲慢だが王家の縁戚者となることの妨げになるほどではなかったそうだ」
「……進学してネガティヴ方向に弾けちゃったってことなんでしょうか?」

 幸い、ドマ伯爵令息ナイサーのときのように、実際の犯罪行為にまでは手を染めてないことだけは確認が取れている。まだ。

「“女性経験・男性経験ともに無し”って……ええ!? 童貞なのにあの男、イザベラ嬢を弄ぶだの何だの言ってたってことなのか!?」

 調査官からの報告書をヴァシレウスが目を通した後で受け取ったカズンは、内容を確認した後で文字通り目玉が飛び出そうなほど驚いた。実際、黒縁眼鏡が少しだけずり落ちた。

「ええ、まあ……童貞なのは間違いないと思います。あの性格ですから、高位貴族の女性はまず近づきませんし、下位貴族でも遠慮したくなりますよね? 寄ってくるのは玉の輿目当ての平民の生徒がほとんどで。でもあの通り傲慢な人なので、相手が平民だと知ると穢らわしいと言って暴言吐いて追い払うので」

 イザベラが言いにくそうに補足してくる。
 ちなみに現在のアケロニア王国では、貴族と平民の結婚は合法である。王族と平民の結婚の場合は議会の承認が必要となるが。

「娼館通いなども、してない……みたいですね?」

 カズンの横から報告書を覗いて、ヨシュアも同じ文章を確認する。

「『誰が使ったかわからない女など冗談じゃない』と教室で仰ってました」
「……潔癖症も別に悪いことはない。まだ若いし、青臭いことを言っても許される年頃だ。しかし、何ともまあ……」

 これはもう駄目だろうなと、ヴァシレウスもすっかり呆れ果てていた。

「童貞が妄想を拗らせてるってことなんでしょうねえ」
「しかし、その妄想を現実にするだけの力があるから、タチが悪い」

 まるで分別のつかない幼児が刃物を振り回しているかの如くだ。

「間もなく一学期の学期末テストの時期ですよね。イザベラ嬢を好きに弄びたいというなら、何か具体的アクションを起こすのはテストの後ではないかな。その流れで夏休みはイザベラ嬢を連れ回して好きに嬲ろうという魂胆かと」

 そこで、先ほど話していたように、学園でイザベラにはクラスメイトのうち、腕に覚えのある女生徒たちに周囲を固めてもらうことにした。
 そうしながら、ジオライドと距離を保つよう努めてもらう。



 それから数日経過すると、これまでのように好きにイザベラを虐げることができず、ジオライドの機嫌が低下していると報告が上がってくるようになった。

 学期末テストの期間に入る前ということもあって、カズンたちは学生の関係者一同でアルトレイ女大公家に集まってテスト勉強と作戦会議を続けていた。

 ライルをはじめとした3年C組の生徒たちのうち、三割ほどの生徒がイザベラに同情的で協力してくれている。

 残りは、自分たちに火の粉が降りかかることを厭い関わり合いになりたくないというスタンスのようだ。

 ジオライドや取り巻きたちの言動は、クラスメイトたちが密かに監視して、ライルや、イザベラの護衛を任された伯爵令嬢二人を通じて、カズンたちの元へ報告されている。

 そして、朗報がもたらされた。



「『従順でない女はラーフ公爵家に不要』との名目で婚約破棄を突きつけるそうですわ。ラーフ公爵令息はイザベラ様が縋ってくることを見越して、婚約破棄が嫌なら純潔を差し出せと言ってイザベラ様を翻弄するつもりのようです」
「イザベラ様を嫌って虐げながら、肉体関係だけはおいしくいただこうだなんて。吐き気がしますね」

 快くイザベラの護衛を引き受けてくれた、ブランディン伯爵令嬢とウォーカー伯爵令嬢の報告である。

 この頃には、王家からジオライドの父、ラーフ公爵にも警告が通知されている。
 しかしラーフ公爵は、『我が息子がそのような愚かな行いをするはずがない。我が家を貶めようという他家の謀略でしょう』とまともに取り合わなかったそうだ。

「ラーフ公爵令息は、父親に対しては完璧に取り繕っているようですね。どうやら母親の公爵夫人も息子を溺愛していて庇うので、余計に本人を増長させているようです」

 ラーフ公爵が王家からの警告を真摯に受け止めなかった時点で、王家はイザベラの父トークス子爵に、イザベラとラーフ公爵令息との婚約の“白紙解消”を認めた。

 即ち、最初から婚約の事実がなかったことになる。
 詳しい話し合いは後日、王家仲介のもと当事者間で行われることになる。

 婚約の際、婚前契約書に盛り込まれていた種々の契約も白紙となるだろう。
 婚約するからこそラーフ公爵家から優遇税制を利用して融資を受けていたトークス子爵家だった。だが、優遇税制を受けられる前提条件だったイザベラとジオライドの婚約が無くなるため、正規の税率で計算しなおした支援金への税金を国に支払わねばならない。
 支援金そのものも、婚約中に受けた全額をラーフ公爵家に返金することになるだろう。

 だがこの場合、ラーフ公爵家はトークス子爵家へ、イザベラを侮辱・虐待し追い詰めたことの責任を問われ、慰謝料や賠償金の支払いが発生する。
 相殺とはいかずとも、トークス子爵家側に有利な条件で手打ちとなることが予想された。

 幸い、トークス子爵がラーフ公爵から融資を受けざるを得なかった理由は解決しつつある。
 大災害で甚大な被害を受けていたトークス子爵領は、災害前の八割まで復興を見せている。
 以前と同じようにとは行かないが、領内の税収も着実に回復していた。

 さて、そろそろジオライド本人にも最後通告を行うべきだろう。
 その役目は、完全な第三者としてヨシュアが請け負った。

 学期末テストの最終日、ヨシュアは帰宅しようとしていたラーフ公爵令息ジオライドを馬車留めへ向かう途中の中庭で待ち伏せして、声をかけ引き留めた。

「ラーフ公爵令息ジオライド君。オレはリースト伯爵ヨシュア。少し話があるんだが、いいかな」
「ん? お前はA組の……話とは何だ?」

 ジオライドと取り巻きたち二人が立ち止まる。
 交友関係にない学園の有名人に声をかけられ、訝しそうな様子だ。
 ヨシュアは彼らを中庭の木陰、周囲から見えにくいところへ誘導した。

(うっわ、ヨシュア先輩、敬語なし!)
(そりゃ、いくら爵位が上の家の奴だからって、敬意は持てねえだろ、ジオライドの野郎じゃ)

 彼らの様子を、離れたところからカズン、ライル、グレン、そして生徒会長のユーグレン王子が窺っている。

 ちなみに、ヨシュアの態度は相手によって明確に使い分けられている。
 自分より上位の者や、その者にとっても目上の者には丁重に。カズンやその父母、ユーグレン王子、学園の教師や講師たちへは基本的に敬語で話す。親しければ多少砕けた態度になるが、それでも丁寧語は崩さない。

 ヨシュアの場合、相手の爵位や身分で差別しない方針の持ち主だったが、一度でも品位の劣る者と見なした者への態度はとことん冷たかった。
 あからさまに見下した言動にこそならないが、身近にいる者たちにとってその差は明確だった。



「君に忠告に来た。トークス子爵令嬢イザベラへの態度を改め、関係の修復に努めるよう勧める」
「は?」
「聞こえなかったのか? イザベラ嬢にこれまでの暴挙を謝罪して、関係を修復するんだ」

 ジオライドの青い目が不快そうに歪められる。

「意味がわからん。麗しのリースト伯爵が、何であの女の肩を持つ?」
「忠告を聞く気はなさそうだな」

 ヨシュアの体表を群青色の魔力が覆った次の瞬間。
 ノーモーションで金剛石の魔法剣が無数に宙に創り出されて、ジオライドたちの首や腹など急所に切っ先が向いた。

「なッ、何をするッ」

 恐怖で動けず冷や汗を流すジオライドたち。

 ヨシュアはおもむろにジオライドの顎に指先をかけ、じっとその瞳を覗き込んだ。
 少しだけヨシュアの方が背が低いため、相手を見上げるような姿勢になる。

 ヨシュアの美貌で無表情を作ると、大抵の人間には恐怖を与える。その効果をヨシュアはよく知っていた。

 長い睫毛に彩られた銀色の花の咲いたアースアイは見る者の心を蕩けさせるほど美しいが、今のジオライドにそれを鑑賞するほどの余裕はないだろう。

「君はどこまで貴族の名を穢せば気が済むのかな? ラーフ公爵も愚かな息子を持って気の毒なことだ」
「なッ、伯爵家の分際で、次期公爵の私に何だその口の聞き方は!」

(あ。ヤバくないですか、あれ?)
(……社交の場で同じことを言う者がいたら、国王陛下から叱責されるだろうな)

 ユーグレンが眉間に皺を寄せてコメントしていると、案の定ヨシュア本人も突っ込みを入れていた。

「へえ。そういうこと言うのか。オレはとっくに父の跡を継いで現役の伯爵家当主だけど、君はまだ一貴族の息子に過ぎないだろう? 実際、公爵位を継げるかもわからない。君こそ口の聞き方に気をつけたほうがいい」

(そうなんだよなァ。高位貴族の息子でも、現役のご当代様相手だと立場低くなること多いよな)
(爵位を持った当主の方が、爵位は下でも使える権力や財力が大きいからな。ヨシュアの場合はリースト伯爵家自体が伯爵家の中でも中堅どころだし、魔法の大家の家で、本人は希少な竜殺しの称号持ち。こう言ってはなんだが、王子の私ですら軽視できる存在ではないぞ、ヨシュアは)

 惚れた弱みの分を差し引いても、アケロニア王国内における要人の一人という認識のユーグレンだった。



 外野が軽口叩いている間にも、ヨシュアはジオライドを追い詰めている。

 顎にかかった指先に力が入る。
 少しでも動けば魔法剣が刺さるジオライドたちは動けない。

「君、イザベラ嬢にテストのカンニング協力を強要してたね。今の君は、C組に居続けるだけの実力もないんだろう?」
「なっ、なぜそれを!?」
「……少し前に、中庭で君たちのやりとりを見た。あんな人目につくところで、よくやるものだと思ったよ」

(まったくだ。勉学に励む同級生たちの努力を何だと思っているのか)
(でもカンニングってどうやらせるつもりだったんだ? イザベラとあの野郎、教室じゃ席離れてるぜ?)
(テスト用紙に記入する名前を、互いに交換するよう強要していたらしい)
(うっわ、ほんとクズ野郎)

 それだとイザベラのテスト成績が下がるわけだが、ジオライドにとってはどうでもいいのだろう。

 とカズンたちがひそひそ話をしている間に、ヨシュアはすぐにジオライドたちを解放したようだった。

「忠告はした。賢明に振る舞うことを期待しているよ。ラーフ公爵令息ジオライド君」



 泡を食って逃げ出したジオライドたちを尻目に、悠々と微笑を浮かべてヨシュアがカズンたちの元へ戻ってきた。

「一先ず脅しをかけておきました。傲慢なお貴族様っぽくできてました?」
「バッチリだったぞヨシュア!」

 親指をビシッと立てて笑顔のカズンと、格好良かったと興奮するグレン。

「しっかりゴーマンかましてました、鳥肌モノの名演技でしたよヨシュア先輩!」
「いやあ、照れるなあ」

 普段のヨシュアはマイペースで、自分の親しい者たち以外は基本どうでもいいというスタンスだ。
 だから、自分の身分や称号を笠に着て、他者に圧力をかけることなど滅多にない。



 ヨシュアと対したジオライドの態度から、彼は公爵家の看板の下にいるだけの子供ということがわかる。
 今まで甘やかされて増長していただけに、本物の実力者たるヨシュアの脅しはそれなりに効いたことだろう。

「ヨシュアが……尊い……格好、よかった……っ」

 同じく事態を見守っていたユーグレンは、ヨシュアの珍しい傲慢な姿に腰砕けになっている。
 彼の場合、ヨシュアの言動は全肯定する派なのだろうが。

「うちのカレンが言ってましたよ、ユーグレン殿下みたいになる人を“限界オタク”っていうらしいです」
「意味は?」
「崇拝対象が尊過ぎてもう無理だって自分の限界を超えたとき、語彙が崩壊して痛々しく見える状態だそうです」
「まんまだな」
「ああ」

「そこまで想ってもらえるなんて光栄です。ねえ、ユーグレン殿下?」

 にこ、と麗しの顔に満面の笑みを浮かべてヨシュアはユーグレンにウインクした。

 ああああ、と悶えて崩れ落ちたユーグレン。後ろに控えていた護衛のローレンツはもはや諦めたような顔つきで、助け起こしもしない。

 ヨシュアは次いで反対側に顔を向けた。

「オレにご褒美下さいますか? カズン様」
「おまえが望むなら、喜んで」

(よし。奮発して今度、ガスター菓子店のアフタヌーンティーを奢ってやろう!)

 とりあえず幼馴染みを盛大にハグしておいた。



「……で、これであのジオライドって奴、何とかなるんですか?」

 結末を知りたいからと今回もカズンたちに付き合っていたグレンの疑問に、いいや、とカズンは首を振った。

「無理だろうな。あの男はとっくに詰んでいる」
「ラーフ公爵家、先行き暗いですよね。ははは、気の毒だなあ」

 ラーフ公爵家の本家は、嫡男はジオライド一人のみだ。その一人息子が破滅するなら、その家はどうなるだろうか。

「まあ、落ち目まっしぐらなのは確かだよな」
「……誰か、ジオライドのステータスを知っているか?」

 ふと、カズンが訊ねるが、誰も知らなかった。

「おおよその予想は付くが。知性が低い」
「そうだな、ユーグレン。僕は更に、魔力も低いのではないかと思う」

 恐らくは平均値5以下ではないか。先ほど、ヨシュアの魔法剣にまったく抵抗できていなかったところからして。

「彼に“力”があれば、恐らく既にイザベラ嬢は純潔を散らされ、新たな高位貴族の婚約者とすげ替えて、とっくに学園の支配者として君臨していただろう」
「我儘に振る舞って許されていたところから、幸運値はそこそこ高かったのかも」

 難なくテスト期間も終わり、明日は結果発表と一学期最後の行事として全校生徒参加のお茶会がある。

 翌日の明後日から夏休みに入るから、ジオライドがイザベラに何か仕掛けるとしたら明日中のはずだった。

 一同、明日は早めに登校して一度生徒会室に集まり、情報交換と密な連絡をし合うことを確認して、解散するのだった。

 一学期の期末テスト後には、生徒たちが楽しみにする、全校生徒参加のお茶会が大講堂で開催される。

 今年は最終学年に二人の若き王族がいることもあり、スペシャルゲストとして先王ヴァシレウスが臨席する。

 王族の中で最も高い人気を誇るヴァシレウスを間近で見ることができると知って、生徒たちは皆浮き足立っているようだ。



 お茶会の前にトークス子爵令嬢イザベラは、人気の少ない校舎裏に呼び出された。

 呼び出したのは婚約者のラーフ公爵令息ジオライドだ。
 彼は金髪に青目、背も比較的高く顔立ちも悪くない。
 だが、幼稚な欲望にギラギラと目を輝かせている顔つきは、とてもじゃないが正視に値しなかった。

 イザベラには密かに護衛とカズンたちが付いている。ついに来たかという感じだ。
 護衛たちはイザベラたちの間にすぐ飛び出せるよう、近くの木陰に身を隠し、カズンたちは建物の影から様子を窺う。



「トークス子爵令嬢イザベラ! 貴様のような不細工で卑しい血を引く女は、次期ラーフ公爵たる私に相応しくない! よって婚約破棄させてもらう。だが、お前がどうしてもと言うならば……」
「はい。婚約破棄、承りました」
「なに?」

 思っていた反応と違うらしい。戸惑った声がジオライドの口から漏れた。

「私との婚約を破棄されるのですよね? 異存はございません。承りました」
「なッ、そうじゃない! お前がその身をもって私を慰めるというならこのまま婚約を続行してやろうというんだ。結婚はするのだから構わないだろう?」

(いやホント、こいつ何なんだ? 同じ人間かよ)
(僕もさすがに聞いてるのが辛くなってきた。イザベラ嬢はこれをずっと相手にしてきたのか……心底、尊敬する)

 これまでのジオライドの発言を見る限り、彼はイザベラの出自は気に入らなくとも、本人の身体には執着しているように見える。

 イザベラは一見地味な顔立ちだが、それは暗い茶髪や化粧っ気の無さゆえだろう。
 体型はふくよかだが、よく見ると豊満な胸や腰から尻へのラインには、この年頃に見合わない色気と美しさがある。

 更によくよく見れば、以前ヨシュアが指摘したように、美丈夫の多いことで知られるアケロニア王族の血筋とわかる顔立ちだ。
 これで痩せさえすれば、カズンたちとよく似た容貌の持ち主とすぐわかるのだが。

「私も貴族の女です。婚前交渉など恥ずかしくてできません」
「何を反抗的なことを! 賎民の末裔の分際で貴族の女とは笑わせるな! お前は私の言うことを聞いていればいいんだ!」

 懐から腕輪状の魔道具を取り出し迫ってくる。
 だが、すぐに護衛の伯爵令嬢二人がジオライドの前に出た。
 剣を構える伯爵令嬢たちの姿を見て、すぐにジオライドは慌てて腕輪をまた懐に隠した。



「お前は私の奴隷だろう! そのような生意気な態度が許されると思うのか!」

 ああ、ついに言ったか、と隠れて様子を窺っていたカズンは内心で溜め息をついた。
 奴隷扱いしても構わない相手だと、本人の口で認めてしまった。

 当然ながら、現在のアケロニア王国に奴隷制度などというものはない。円環大陸全体を見ても、採用している国や地域は現在ほとんどないはずだった。
 もし奴隷を売買したり使役していることが判明した場合、人権侵害で相当重い刑罰が待っている。

 何より、イザベラの家トークス子爵家は、数代前の子爵夫人の女傑イザベラが中心となって奴隷売買を摘発し、根絶させた業績を持つ家である。

(そのトークス子爵家のイザベラ嬢に『お前は私の奴隷』と言うか。ジョークにしては笑えないな)
(カズン様、この会話は一応、魔法樹脂で音声を記録してあります。でもちょっと、不味いですね)
(貴族も平民も、数代遡れば奴隷売買の被害に遭った家は多い。この発言を聞いた者がラーフ公爵家を焼き討ちに行ったとしてもおかしくない)

 この世界では、万人が魔力を持って魔法や魔術を使えるわけではない。
 広い円環大陸の中で、アケロニア王国は王族や貴族は大量の、平民でも多少の魔力を持つことが多い。

 実はこのような国は円環大陸全土で見れば、非常に珍しい部類に入る。世界全体から見れば、魔力を持たない人間のほうが多かった。

 過去、この魔力を目当てとして国民全体が狙われた時期があった。
 結果、国内で国民が多数誘拐され、国外で売られるという違法な奴隷売買が横行した時代が続いたことがある。

 この、国を跨いだ犯罪を摘発し、奴隷売買組織を徹底的に壊滅させて、アケロニア国内においても完全な違法行為であると法律を確立させたのが、当時のトークス子爵夫人イザベラなのだ。
 容赦なく行われた奴隷売買組織への粛清はこの上なく苛烈で、水も漏らさぬほどだったと当時の記録が残っている。
 これらの逸話から、彼女は“女傑イザベラ”と畏敬の念を込めて呼ばれることになるのである。

 その女傑イザベラの血を引くことは、現在のトークス子爵一族の誇りだろう。
 もちろん、同じ名前を授けられたイザベラにとっても。

(ジオライドの野郎、気づかねぇのかな。奴隷って言われた瞬間、イザベラ嬢の目つきが変わったぞ)

 さすがに剣士のライルは、よく観察していた。

「……いいえ。私はトークス子爵家のイザベラ。誰の奴隷でもございません」
「この……ッ、お前のような下賤な者と婚約し、トークス子爵家を助けてやった恩を何と心得る!」
「そういった家同士のことは、父がラーフ公爵様と話し合われると思います」



 まだ怒鳴り続け罵倒しているジオライドと、彼を宥めようと必死な取り巻きたちを置いて、イザベラは護衛の伯爵令嬢たちとその場を後にした。

 ジオライドたちから見えない場所まで来た時点で足を早める。走ってすぐ校舎に駆け込み、先ほどまでいた校舎裏に一番近い教室へと身を滑り込ませた。

 すぐに、近くで様子を窺っていたカズンやヨシュア、グレン、イザベラのクラスメイトであるライルも追いかけて合流した。



 教室内には生徒会長のユーグレンと生徒会役員数名。

 学園長のライノール伯爵エルフィンも、顔を押さえ悲しげな表情で俯いている。

 そして、イザベラの父、トークス子爵。
 その隣には青ざめて今にも倒れそうなラーフ公爵もいた。

 子爵と公爵の傍らには、難しい顔をした先王ヴァシレウスが。

 教室の窓側にはカーテンが全面に引かれ、窓が四分の一ほど開いている。
 つまり、先程の校舎裏でのイザベラとジオライドの会話は、教室内にいる者たちには筒抜けだったということだ。

 イザベラは今朝、登校して教室に入ってすぐにジオライドの取り巻きから、学期末テストの結果発表後、放課後のお茶会の前にここに来るように、と場所が書かれたメモを渡された。

 メモの内容は即座にカズンたちに報告が上げられ、この面子が集ったわけだ。

 ヴァシレウスは元々、この後のお茶会のゲストだったから早い時間に学園に到着していた。
 学長室でエルフィンと歓談していたところ、ジオライドがイザベラを呼び出したと聞き、彼の命令で即座に両者の父親に使いを出してそのまま学園まで連れて来させたのだ。

「『我が息子がそのような愚かな行いをするはずがない』だったか、ラーフ公爵。何か物申すことはあるか」
「いいえ……このたびは愚息がとんでもないことを……」

 全身を小刻みに震わせているラーフ公爵を、さすがに誰も支えようとはしなかった。
 学生時代からの友人同士である、トークス子爵もだ。

「茶会の後で、王家を交え話し合いを行う。良いな?」
「……はい」

 お茶会は学期末テストの結果発表後、各教室の担任教師から明日以降の夏休みの宿題などを受け取り、夏休み期間中の諸注意を確認した後からの開催だ。
 ちょうど昼食の時間前、一時間半ほどの開催となる。

 その後は解散して、生徒たちは一学期最後の昼食を食堂で取るなり、仲の良い生徒や派閥の者同士で街に会食に出たりと様々である。

 場所は、全校生徒が入れる学園内の大講堂で、各学年、各教室ごとに長机をお茶会仕様に設えて行われる。



 今回のお茶会には特別ゲストとして先王ヴァシレウスが臨席する。
 学園長のエルフィンの挨拶や紹介の後で、ヴァシレウスが式辞として話し始めて少し経った頃。

 3年C組の生徒たちが座る席の辺りが騒がしくなった。

 後から大講堂に入ってきた生徒たちがいた。ジオライドとその取り巻きたちだ。
 ジオライドは既に着席していた三年C組の席のイザベラの元へ向かう。

 だがイザベラが相手をせず無視し続けると、我慢できなくなったようで顔を真っ赤に怒らせて彼女を怒鳴りつけた。

 周囲の生徒たちが手を上げようとするジオライドを必死で押し留めている。その中には、イザベラの護衛を任されていた伯爵令嬢たち、それにカズンの友人のライルもいた。

「話があるなら後でにしろ! 今は不味いって、おいジオライド!」

 ライルが可能な限り声を潜めてジオライドを席に着くよう促すが、腕を振り払われてしまっている。

「やはり、貴様のような卑しい生まれの女とは婚約破棄だ! いいか、もはや貴様が何を言おうと覆さないからな!」

 大講堂内に一際大きくジオライドの声が響いた。

 しん、と空気が瞬時に凍る。



「彼、すごいね。こんな大勢の前でわざわざ婚約破棄するなんて」

 転校してきたばかりで、学級委員長のカズンの隣の席だったイマージが、興味深そうに感心している。

「この国の貴族って、あんな感じなの?」
「……他国人の君に誤解しないで欲しいのだが、あれは我が国でも例外中の例外だ」

 小さな声で他愛ない会話をしつつも、カズンは冷静に3年C組を見ていた。

「先王陛下のお言葉の最中に騒ぐなんて、不敬の極みですけど。あ、ほらヴァシレウス様があっち見てますね」
「本当だ……くそ、仕方がない」

 ヨシュアが言う通り、ばっちりヴァシレウスの視線が問題の生徒たちに向いている。

 隣の3年B組にいるユーグレンと目が合った。軽く顎で『お前がやれ』と促されて、はあ、と大きな溜め息をつきながら、カズンは黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら立ち上がった。

 大きく息を吸い、

「おい! そこ、3年C組の生徒! 先王陛下のお言葉を阻害するとは何事か! これ以上騒ぐようなら退場せよ!」

 広い大講堂で、カズンの凛とした声は全体によく通った。
 生徒や教師たちの視線が一気に、3年A組のカズンと、3年C組付近で立っているジオライドに向く。

 ジオライドは勢いよく振り返って声の主を見たが、立ち上がっていた生徒が黒髪黒目の持ち主と知り、渋々ではあったが着席した。

 現在、学園で黒目黒髪の生徒はユーグレン王子と王弟カズン、二人しかいない。
 眼鏡をかけている方は王弟だとすぐわかっただろう。分が悪いと判断したようだ。



「………………」

 しばし、何とも具合の悪い空気が大講堂内に流れる。
 少しの間を取った後、再びヴァシレウスが話を再開した。
 既に挨拶は済ませてあったため、話の主題は今年の王家の活動についてだ。

「今年、我がアケロニア王家からは大きな発表を予定している。……うむ、情報の早い者は既に見当が付いているだろう。そう、今年は女傑イザベラ・トークス子爵夫人の没後五十年にあたる節目の年である」

 トークス子爵夫人、と聞いて、着席したばかりのジオライドが顔を上げた。

「おや。彼、気づきますかね」
「気づいてどうなる」

 ヨシュアが耳元に囁いてきたが、カズンにもこの後の展開は止められない。

「彼女の業績は、この国の国民ならば誰もが知る偉大なものだろう。女傑イザベラの活躍によって、我が国に蔓延っていた違法な奴隷売買と、過度に他者を虐げる身分差別は撤廃された。私は彼女の勇気に感銘を受け、やや時間はかかったが在位中に平民の参政権を認め、官僚への門戸を開いた。この学園も以前は貴族しか入学できなかったが、今は半数以上が平民層の生徒となっている」

 拍手が鳴る。平民への参政権付与はヴァシレウスの業績の中でも、一際大きなものの一つだ。

 ジオライドはもちろん、女傑イザベラが、自分の婚約者トークス子爵令嬢イザベラの曾祖母であることを知っている。彼の方を見ると、何とも面白くないと言わんばかりに、整っているはずの顔を歪めていた。



「今年、王家は女傑イザベラの名誉を回復する決定を下した」

 そこで、ヴァシレウスは一度、言葉を切った。
 どういうことなのかと、静かにヴァシレウスの発言を見守る教師や生徒たち。

「女傑イザベラの伝記にもあるように、彼女は貧民層出身とされている。それが苦労の末に成り上がり、最終的に当時のトークス子爵に見初められ子爵夫人となったと。……だが、それは事実に少し足りないものがある」

 生徒も教師も、息を呑んでヴァシレウスの次の言葉を待つ。
 女傑イザベラの生涯が書かれた伝記本は、庶民なら子供の頃から絵本の読み聞かせで親から教えられるし、貴族家の子息子女は教養の一環として学習資料の一部に必ず入っている。
 本来なら、トークス子爵令嬢イザベラと婚約したジオライドも、大雑把にでも目を通しているはずなのだが。

「女傑イザベラは、我、先代国王ヴァシレウスの父である先々代国王と、馬屋番の娘との間に生まれた庶子である。……そう、私の異母姉にあたる」

 以降、淡々と女傑イザベラの真の経歴が語られる。
 馬屋番の娘は、先々王の幼馴染みだったという。
 彼女の父親は当時の騎士爵を持っていた人物で、現役時代は王立騎士団の一隊長の地位にあった人物と判明している。馬の扱いに長けていたため、引退後は自ら望んで馬屋番となっていた。
 更に詳しく出自を確認すると、子爵家の四男で貴族家出身だった。

 馬屋番の娘自身、先々王の馬の手入れを担当しており、その縁で子供の頃から先々王と親しく、やがて年頃になって懇ろになった。

 馬屋番の娘が先々王の子を身籠ったとき、既に父親は亡くなっており、身近に頼れる者もいなかった彼女は出奔し、王都から離れたトークス子爵領の救護院で娘を産んだ。それが後に女傑イザベラとして知られる女性である。

 実母はその後、イザベラの物心付く頃までは存命だったが病死し、イザベラは教会に預けられて少女時代まで育つ。
 その教会もやがて困窮によって閉鎖され、その後数年間、イザベラは商店などで住み込みの下働きをしながら暮らしていたらしい。

「女傑イザベラが最初に知られるようになったのは、スラムなど貧民窟の救済だった。このエピソードが原因で、彼女が貧民層出身という誤解が生まれたものと思われる。彼女の救済策をもとにして、現在では国内各地で衛生向上の恩恵を受けているというのにな」

 生徒たちの幾人もが大きく頷いている。
 女傑イザベラが残した活動記録とそれを元に編纂された伝記には、弱者救済のヒントが溢れている。
 今でも慈善活動を行う貴族婦人の中には愛読書として座右の書にしている者が多いと言われる所以である。



「私は、先々王だった父の晩年に本人から直接、女傑イザベラに関する調査資料とともに本件を託された。当時は私もまだ血気盛んな若造だったので、親の醜聞の後始末に憤ったものだったが……『初恋の女との間の子だ、頼む』と頭を下げられてしまっては、否とも言えぬ」

 イザベラは先々王が正妃と婚姻を結ぶ前の娘である。
 というより、先々王が馬屋番の娘と結ばれたのは互いに十代半ばほどのときで、互いにまだ子供といって許される年齢の頃だったらしい。
 そういう事情もあって、ヴァシレウスは父王の一番最後に産まれた王子だったこともあり、父がまだ成人前に産まれたイザベラとは大きく年が離れている。

 それから数度面会し、イザベラが亡くなるまでの間に交わした手紙は数知れず。
 本人の意向により、イザベラが王家の血を引くことは、ヴァシレウスと女傑イザベラの婚家トークス子爵家以外には秘したままとされた。

「だが、高齢の私の天寿も間もなくであろうし、女傑イザベラ没後50年のこの節目を逃せば真実を知らしめる機会はそうそう無くなる。王家はトークス子爵家と話し合いを重ねた結果、真実を公表することとした」

 彼女の名誉の回復と、それに伴い嫁ぎ先であり彼女を通して王家の血を受け継ぐトークス子爵家を伯爵位に陞爵することとなった。
 この件は後日、国内の新聞各社を通して公式に発表すると言って、ヴァシレウスは話に一区切りつけた。

「さて、現在、この学園には女傑イザベラの直系子孫にあたるご令嬢が学ばれている。同じ名前のイザベラ・トークス子爵令嬢だ。……何やらこの茶会の前に気の毒な出来事に遭ったようだが……」

 ヴァシレウスの視線が、先ほど騒ぎを起こしていた3年C組へ向く。
 カズンたち事情を知る者は皆、ジオライドに注目していた。当の本人は血の気を失って全身を硬直させている。

「ラーフ公爵令息ジオライド」
「は、ハイィッ」

 ヴァシレウスに名指しされたジオライドは、声を上擦らせて返事と同時に勢いよく立ち上がった。

「わあ、ヴァシレウス様直々の断罪かな? 贅沢ですねえ、カズン様」
「うーん……お父様のことだから、直接詰ることはしないと思うが……どうだろう?」



「君には、王家の血を継ぐ、女傑イザベラの子孫との婚約という幸運が与えられていた。だが先ほど見ていたが、トークス子爵令嬢イザベラとは婚約を破棄したいそうだな。残念だが、王家は承認しよう。私も、異母姉の曾孫には幸せになって欲しいからね」
「あ、ああ、あ……せ、先王陛下、私は、その……ッ」

 ジオライドが必死で言い訳を考えていると、ヴァシレウスの隣に、ラーフ公爵が青ざめた顔色をして現れた。
 大講堂でジオライドが何か問題を起こした場合に備えて控えさせていたのだが、まさか本当に登場させることになるとは、とカズンたちは驚いた。

「ち、父上!?」

 ラーフ公爵が息子に問う。

「ジオライド、我が息子よ。お前がイザベラ嬢を嫌っていることは知っていた。だが彼女は先王陛下の申されるように王族の血を引いている。我が公爵家はどうしても王族と縁戚になりたかった。だからお前たちの不仲を見て見ぬ振りをしていた」
「ち、父上……ですが、ならば何故、イザベラが王族の血筋だと教えてくれなかったのですか! 知っていたなら、俺だって!」
「婚約当初から教えていたはずだ。イザベラ嬢には高貴な血が流れている、その血を公爵家に取り入れるための婚姻だ、と」

 しかし、イザベラの祖先の女傑イザベラが貧民層出身者だというインパクトばかり覚えていたジオライドは、父親からの説明を右から左に聞き流していたようだ。

 またジオライドを溺愛する母親が、常にイザベラを『賎民の子孫』と侮蔑して事あるごとに嫌悪する態度を見せていたこともある。

「どうしても性格が合わず、夫婦となることに困難を覚えるというのなら、お前は独断で婚約破棄などせず、まずは父親である私に相談するべきだった。違うか?」
「そ、それは……」
「ましてや、このように大勢の前でイザベラ嬢に恥をかかせる必要はなかったはずだ」
「………………」

 ぐうの音も出ないほどの正論だった。

「彼、お父上は案外まともなんだね。息子の教育は間違っちゃったみたいだけど」
「……それ以上言ってやるな、イマージ」
「はは、皆同じこと思ってるんじゃない?」

 クラスメイトたちも頷いている。



 とそこへイザベラの父、トークス子爵も登場した。
 先ほど紹介された女傑イザベラのトークス子爵家当主だと簡単に自己紹介してから、子爵はジオライドの方向へ向き直った。

「ジオライド君。イザベラとの婚約破棄は承諾しよう。だが、一言だけ言わせてほしい。……イザベラを好きになれなかったことは仕方ない。政略結婚だしね。でも、だからといってどうして我が娘を侮辱していいことになるんだい?」
「そ、それは……」

 公爵家出身のジオライドからしたら、子爵令嬢のイザベラは遙かに格下の取るに足らない存在だった。

 だが、トークス子爵家が陞爵して伯爵家となると、その差は大きく狭まる。
 公爵令息といえど、伯爵令嬢を侮辱し虐げていたとなれば、貴族社会の見る目は非常に厳しいものになってくる。

「娘の純潔を奪い、婚約は破棄しても違法な隷属の魔導具で縛り、取り巻きたちと弄ぶ玩具として飼い殺しにする予定だったそうだね。なぜ、そのようなおぞましいことが許されると思ったんだい? 私に教えてくれないか」

 すべて筒抜けになっている。
 もはやジオライドは弁明もできなかった。

 会場の生徒や教師たちの視線が突き刺さる。繊細な令嬢たちの中にはあまりのことに気を失いかけている者もいる。

 そして傲慢な貴族主義のジオライドは理解していなかったが、ジオライドがイザベラにしようとしていたことは、たとえ平民相手であっても重罪となり、厳罰に処される卑劣で俗悪な行為だった。

(……隷属の魔導具、か。またロットハーナ絡みでないといいのだが)

 カズンの小さな呟きを、隣の席にいたイマージの耳は拾った。
 だが特にそれ以上の反応はせずに、壇上にまた視線を戻した。



「ヴァシレウス大王陛下の異母姉、女傑イザベラの流れを組む我がトークス子爵家は、君とラーフ公爵家とは縁がなかった。婚約破棄は君の有責で処理させてもらう。慰謝料と、娘と我が家への名誉毀損、性的暴行未遂罪への賠償請求は後日」

 終わったな、と会場内で誰かが呟いた。
 ジオライドが? それともラーフ公爵や公爵家が?



「貴族主義も悪くはないが、追求し過ぎると自滅する。だから頭の良い者たちの中に純血主義を掲げる者はいない」
「は?」

 ヴァシレウスの言葉に、意味がわからないとジオライドが間抜けな声をあげた。
 そんなジオライドを憐れむように見つめて、ヴァシレウスは先を続けた。

「王族も貴族もな、家を繋ぐために様々な外部の血を入れて生き残ってきているわけだ。その中に貴族の血しかないなどと、有り得るわけがない」
「し、しかし先王陛下! 我がラーフ公爵家の系図には、私に至るまで本家の直系血族には由緒正しき者しか書かれておりません!」

 必死に言い募るジオライドに、溜め息をつくヴァシレウス。
 そして職員席に座っていた学園長のエルフィンを見た。
 エルフィンは頷いて席を立ち、ヴァシレウスの傍らに立った。

「完璧な“人物鑑定”スキルの持ち主が見れば、その者の血に連なる系譜が判明する。そこまで言うなら、学園長であるライノール伯爵の人物鑑定を受けるが良い」
「お、お待ち下さい先王陛下! それだけはご容赦を!」

 ラーフ公爵が非難の声を挙げるも、愚かな息子ジオライドは胸を張った。

「良いでしょう、受けて立ちます。私には貴き血しか流れていないことが判明するでしょうから!」



 悲しげな表情で、エルフィン学園長は人物鑑定スキルを発動させた。
 彼の人物鑑定スキルのランクは“特級”のスペシャルランクだ。少なくとも父母それぞれ十代は遡って人物と出自の経歴を明らかにできる。
 種族として魔力量の多いエルフ族の血を引く彼らしい、極めて高度な人物鑑定スキルだった。

「父方の男系からいきましょうか。……父親は先代ラーフ公爵と娼婦との庶子を養子縁組した者」
「は?」

 会場の視線が一斉にラーフ公爵に向かう。もちろんジオライドも。
 居た堪れないようで、公爵は唇を噛み締めて屈辱に耐えた。

(えっと……あれ、のっけから終わってる……よね? カズン君)
(いや、まあ……うむ、僕もまさかいきなり終了とは思わなかった)

 思わずずり落ちた眼鏡を、慌てて押し上げる。
 物腰穏やかなイマージも呆気に取られている。

「祖父はラーフ公爵と他国の伯爵令嬢との子。伯爵令嬢の母は奴隷の楽士」
「な、ななな……ッ」
「曾祖父はラーフ公爵と、当時のマイノ子爵夫人との不義の子。四代前は……」

 ひとまず五代前まで見た時点で、次に母方の女系を鑑定する。

「母はフォーセット侯爵と分家伯爵家次女との子」

 筋目正しき貴族令嬢だ。
 だが安堵できたのはそこまでで、祖父母の代まで遡ると、不倫による不義の子、使用人との子、また兄妹間や父娘間の近親相姦の子まで判明し、会場は騒然となった。

「ば、馬鹿な……この私の身体に、娼婦や奴隷、貴族ですらない使用人や近親相姦で産まれた者の血まで入っているというのか……?」

 床に両手両足をついて項垂れるジオライド。
 反面、学園生の半分近くを占める貴族階級の者たちの視線は冷ややかだった。
 何を当然のことを、という目だ。

「この国の王侯貴族は、子孫に魔力を継がせたいから、婚姻関係にはとても気を遣うわ。でもね、そういつもいつも上手くいくわけじゃないでしょ? 王族や貴族以外の血が混ざることなんて、普通にあることよ。ただ外聞が悪いからあまり表立って言わないだけで」

 それに、貴族間だけで婚姻を繰り返すと、近親婚による弊害も出てくる。
 だから適度に当主や夫人が不貞を犯して外部の血を取り入れるのも、貴族社会ではある程度までなら黙認されているところがある。



 ゲストの先王ヴァシレウスだけでなく、全校生徒と全教員たちも事態を見守っていた。
 これだけの衆目の前で醜態をさらしたジオライドは、もはや貴族社会では生きて行けまい。

「い、イザベラ!」

 最後の手とばかりに元婚約者の名を叫んだ。
 だが、呼ばれたイザベラは落ち着いた表情で、静かに告げる。

「もう、何もかも遅いのです。何一つ取り返しがつくものはありません。さようなら、ラーフ公爵令息様」

 ジオライドの名前すら口にしなかった。

 ユーグレン王子が学園の衛兵に、ジオライドを拘束させ大講堂から連れ出すよう指示を出した。

 本人は何の疑問も抱いていなかったようだが、先王ヴァシレウスの式辞を許可なく遮断したことは、王族への重大な不敬となる。

 私的な場では気さくで多少の無礼なら笑って流すヴァシレウスだが、ここには公人として参加しているのだ。貴族の一員として侵してはならない一線を超えてしまっている。

 イザベラに対する問題行動については、また別件で取調べられることになるだろう。



 トークス子爵令嬢イザベラを虐げるラーフ公爵令息ジオライドの悪虐は、こうして幕を閉じた。

 カズンが、父の先王ヴァシレウスも巻き込んでイザベラとジオライドの問題に関わる傍ら。

 その母セシリアは、息子や夫たちを見守りながらも協力は間接的なものに留めて、いつも通り女大公としての社交に精を出していた。

 結果として、昼間の茶会などで「うちの息子から聞いたのだけどね……」とさりげなさを装って、貴族社会へ幼稚なラーフ公爵令息ジオライドの問題行動を広めるのに一役買った。



 後日、夏休みに入ったばかりの頃、護衛のヨシュアと一緒にブルー商会を覗きに行ってみると。

 すぐ建物の上階から、後輩で友人のブルー男爵令息グレンが降りて来た。
 ピンクブロンドの髪の美少女顔美少年グレンは、水色の瞳を輝かせてこんな報告をしてくれた。

「カズン先輩のお母様の紹介で、うちの商会で取り扱ってる口内清浄剤、爆売れです。毎度どうも!」

 息子カズンから、ヨシュアやユーグレンとそれぞれ使っている口内清浄剤をプレゼントし合ったと聞いたセシリアは、しきりに「可愛らしいわ、ロマンチックだわ、今どきの子たちはそういう遊びをするのね!」と繰り返し話題に持ち出しては喜んでいた。
 そのセシリアが、息子たち三人でのやり取りを、どうやら茶会や夜会といった社交の場で暴露してしまったらしい。

「ウフフ。カズン様たち、今日のお口の中は何味だったんです? ミント? 薔薇? アニスー?」

 商会の受付にいた、グレンとよく似た妹カレンにもニヤニヤと笑われて、何とも恥ずかしい思いをしたカズンとヨシュアである。

 何でそういう揶揄い方をするかな!
 ちょっと身内と遊んでいただけなのに。



 当然、帰宅するなりカズンは母親に抗議した。

「お母様? 何をやって下さったので?」
「やだあ、あたくしの可愛いショコラちゃんったら怖い顔!」


『あたくしの可愛い息子がね、こぉんな可愛らしい遊びをしてたのよお』


 と言って、それはもう事細かに息子から聞いたエピソードを披露してくれたらしい。
 当然ながら貴族社会は狭い世界なので、この話題はあっという間に知れ渡ったことだろう。
 カズンたちが三人、とても仲が良くなったという事実とともに。

 ちなみに、国内で生産されている口内清浄剤なら、どこの商会の販売店にも卸されていて店頭で購入できる。
 セシリアは社交の場で、カズンの友人であるブルー男爵家の兄妹がいるブルー商会の話も併せて話していた。
 それを聞いた貴族夫人たちや令嬢たちがこぞって翌日以降、ブルー商会に問い合わせをした結果、爆売れに繋がったということだった。

 カズンが使っているスペアミント、ユーグレン王子愛用のアニス、そしてリースト伯爵ヨシュアの薔薇。
 すべて完売して、次回以降の大量注文の予約まで殺到したそうである。
 一つ一つは廉価なものだが、まとまった数が出るとなかなかの売上になる。

「んっふふふふ、あたくしの可愛いショコラちゃんお気に入りのミントが一番売れたんですって?」
「ええ、単品ではスペアミントが。でもオレたち三人が使ってるもののセットのほうが売れたみたいですね」

 と補足するヨシュア。
 むしろ話を聞いたブルー商会が積極的にセット販売を推奨したらしい。

 カズンの父母はステータスの魔力値が高いので口内清浄剤は使わず、口内の清潔は自分で清浄魔術を使うことで保っていた。
 それでも、カズンたちの話を聞いて興味が出たようで、一通り試してみたくなったということのようだ。



 そんな母親からの暴露が判明した翌日の朝。

 カズンが食後のまだ涼しい時間帯のうちにテラスに出て学園からの宿題に取り掛かっていたところ、セシリアに呼ばれてお使いを頼まれた。

「あのね、グレン君のおうちの商会に口内清浄剤のセットを注文してあるの。受け取りに行ってくれるかしら?」

 ここで、うちは大貴族なのだから商会からこちらへ来させれば良い、などと無粋なことは、カズンはもちろん言わなかった。

「喜んで、お母様。他に何か御入用のものはありますか?」
「今晩はブルー男爵家の生チーズ入りのサラダが食べたいわねえ」
「了解です、では冷却魔導瓶を持参して行って来ますね」

 セシリアの傍らに控えていた執事から、手提げ袋に入った冷却魔導瓶を受け取る。
 それとは別に、布の巾着に入った貨幣も渡される。中身を確認すると、大金貨2枚(約40万円)と小金貨3枚(約3万円)が入っている。

「お釣りはお小遣いでいいわよ。ヨシュアとのデートに使うといいわ」
「デートって。もう、お母様ったら」

 お使い名目で、小遣いを渡すほうがメインなのだろう。
 ヨシュアに連絡を入れると、護衛として当然付いていくと返答が返って来たので、午前中のうちにブルー商会まで向かうことにした。



 ヨシュアと合流したカズンが同じ馬車でブルー男爵家の商会を訪ねると、今日いたのは受付のカレンだけで、グレンは朝からライルと出かけているらしい。

 代わりに、そこに意外な人物の姿があった。
 トークス子爵令嬢イザベラ。
 まもなく伯爵令嬢となる彼女が、商会の受付を手伝っているブルー男爵令嬢カレンと親しげに談笑している。

「イザベラ先輩とはお友達なんです。ロマンス小説の愛好家仲間ですね」
「ねー」

 ちなみに、カレンとは違って特に腐ってはいないらしい。理解はあるらしいが。

「ブルー商会へ、防犯系の魔導具を探しに来たのが縁で親しくなったんです。ほら、例の彼の件もありましたから、身を守るために」

 と言うイザベラは、学園で見ていたような野暮ったさはなく、三つ編みも解かれて豊かに波打つ暗い茶髪はよく練られたビターチョコレートの如く艶やかだった。
 外出着の赤いワンピースがよく似合っている。

 そして、眉を整え丁寧な化粧を施した顔は、なかなか気の強そうな美人だった。
 学園でのときのような地味で大人しい印象が消え、強気な性格がよく表れている。
 ただし、ややぽっちゃり体型なのは変わらなかったが。

「イザベラ先輩、元婚約者が大嫌いだから、彼と会う学園では絶対お洒落しないって決めてたんですって。もう婚約解消されたからこれからはやりたい放題!」
「本当よね、ストレスでやけ食いして太っちゃったし、この夏に頑張って痩せるわ!」

 年頃の女子同士、盛り上がっている。

 対して、カズンとヨシュアはイザベラの変貌ぶりに驚いていた。
 というよりその顔立ちに。

「ぐ、グレイシア様そっくりじゃないか」
「ええ、これは夏休み明け、学園で大騒ぎになりそうですね」

 グレイシアは、ユーグレン王子の母親で次期国王となる王太女にあたる王族女性だ。カズンにとっては年上の姪にあたる。

 これでイザベラの髪色が暗い茶色でなく黒色だったら、実の娘と言われても通るくらいよく似ていた。