人数分のカニ炒飯作りはエルフィンに任せて、カズンはヨシュアと一緒に餃子の焼きに入った。
「あ、オーブンで焼くんじゃないんですね。フライパンでなんだ」
「酵母で発酵した生地を使う、そういう料理もあるぞ。それはそれで美味だから、今度試してみよう」
「このヨシュア、もちろんお供致します!」
カズンが提案する料理はどれも美味しく、調理方法もアケロニア王国では珍しいものが多くて楽しいのだ。
家庭科室なので、コンロもフライパンも幾つも設置され備品も揃っている。
鉄の大鍋を振るうエルフィンの邪魔にならないよう、少し離れたコンロで調理することにした。
「フライパンに油を引いて、加熱。餃子を詰めて並べて……」
大きめのフライパンを使ったので、一度に三十個ほどまとめて焼ける。
隣のコンロで、ヨシュアにも同じように焼いてもらうことにした。
火加減は強火と中火の中間ぐらいだろうか。うっすらと餃子の底面に焦げ目が付き始めたかというところで、コップ半杯弱の水を入れて蓋をする。
「こうして蒸し焼きにする。あとはフライパンから水が蒸発する音がしなくなってきたら中まで火が通っているから完成だ」
小麦粉の皮が焼ける香ばしい匂いに、期待が高まる。
「カズン君、この炒飯、食器はどうすればいいー?」
「丸皿で大丈夫です。盛り付けるとき、椀に一度詰めて形を丸く整えてから皿に置くと見栄えが良くなりますよ」
廊下から聞き覚えのある三人の声が聞こえてくる。
そろそろ全員集まりそうだ。
結論からいえば、カニ炒飯も餃子も最高だった。
最高オブ最高、と誰かが呟いた。まさに至言であった。
「嘘でしょ……絶対餃子、半分は余ると思ってたのに。先生、思春期の男の子の食欲舐めてたわあ……」
10カップ分蒸し上げていた米飯での炒飯はもちろん、二百個以上あった大きめサイズの餃子もすべて消えた。
調理師たちとの試食用と言いながらも、本日の夜のお楽しみに取っておく気満々だったエルフィンが項垂れている。
「いやあ、旨かったですよエルフィン先生。今までカズンが作った料理の中では断トツ一位でした」
「芸術だったよな。さすが炒飯と餃子」
ユーグレンとライルが絶賛している。特にライルは前世で食べたものより上品な味で旨かったとご満悦だ。
その隣では、さすがに食べ過ぎたと、小柄なわりに健啖家なはずのグレンが胃袋の辺りを押さえている。
ちなみにライルは、もう少し食いたいからと言って、追加でカズンにラーメンをリクエストしていた。さすが体育会系の剣士といったところか。胃袋のサイズも段違いだ。
「炒飯もすごいけど、餃子もなかなかね! 小麦の皮がパリッと焼けてて、噛むと中の具からじゅわっと肉汁が滲み出てくるのが堪らなかったわ。一つ一つの材料はシンプルなんだけど、タレにバリエーションがあるから飽きなくていいわね」
ラガーが欲しい、キンキンに冷凍寸前の冷却魔術で冷やしたラガーと合わせたい、としきりにエルフィンが唸っている。
本人、エルフ族特有の幻想的な容貌の持ち主だが、言動はその辺の飲み屋で騒いでいるおっさんと大して変わらない。
なお、タレはオーソドックスな酢醤油が、ユーグレンとグレンは苦手だった。
ならばと、家庭科教師のエルフィンがレモンを保存庫から出して来て絞りレモン醤油にしてくれたのだが、こちらは口に合ったようだ。酢よりレモンのほうが爽やかな酸味で食べやすいらしい。
ライルは辛子を多めに付けて、酢醤油で食べるのが前世から好きだったという。辛子単体だけで食べるのも好きなようだ。
カズン、ヨシュアは準備したすべてのタレを試した。
カズンは特に嫌いだったり苦手だったりする調味料はなかったが、ヨシュアは辣油に似た、赤唐辛子漬けオイルの風味が苦手だと言って避けていた。
「私は酢醤油に多めの新鮮なオリーブオイルを垂らしたやつが気に入ったわ。レモン醤油でやっても美味しいわね」
「……オリーブオイル増し増しとは……僕も初めて知るタレの食べ方です。確かにいける……」
餃子の表面を包み込む、エキストラバージンオリーブオイルのかすかな苦味と、オリーブオイル特有のかすかにピリリと舌を刺激する風味、そして後から遅れて酢醤油の濃い味がやってくる。端的にいって絶妙だった。
さすがの調理スキル上級の持ち主、基本から応用への広げ方には目を瞠るものがある。
ただし、注意点があった。
「エルフィン先生。餃子は、主菜や副菜にもなりますが、小麦粉の皮で包むから主食とすることもあるようなんです。あまりタレに油を入れすぎないほうがいいかもれしません」
「……くっ。美味なものには落とし穴もあるってことね!」
「あと、焼くだけでなく、茹でてタレをかけて食べる食べ方も一般的だったように記憶しています。スープの具にもなるようですし」
カズンがいた前世の日本では焼き餃子のほうが人気だったが、元々の本場である中国などでは水餃子のほうが一般的だったそうだ。
最高の美味を堪能した後で出したい話題ではなかったが、調理に付き合ってくれたエルフィンに、カズンは学園内の問題のことを確認することにした。
こう見えて彼は学園の最高責任者の学園長だ。
ラーフ公爵令息ジオライドの、婚約者に対する暴言や暴力は次第にエスカレートしている。
風紀委員長のカズンにはその情報が随時入ってきていた。
食後、やや脂っこい料理の脂を洗い流すような半発酵茶を楽しんでいた一同の目が、エルフィン学園長に向く。
食事を終えた食器の乗るテーブルに両肘をつき、握り締めた拳で額を押さえてエルフィンは腹の底から絞り出したような声で呻いた。
「ラーフ公爵令息はね……学園側としてはアンタッチャブルなのよ……」
「どういうことです?」
寄付金の額が、王家より多い。これに尽きる。
下手に突っついて寄付金が減額されると、今年度の学園運営に支障をきたすという。
「私のところまで、他の生徒や教師たちからも苦情と報告が入ってるから、さすがにもう静観はできないところね。次に何かあれば、学園側としても厳正な対処を行うと決めてるわ」
今年はまだ一学期も終わっていないのに、悪質なトラブルを起こす生徒が続々出ている。
エルフィンの口調では、彼も既に最悪の事態を想定して覚悟を決めているようだ。
アケロニア王国の王都は、メイン通りである大通りから離れるほど治安は低下する。
だが、庶民にも手を出しやすい価格の賃貸住宅がひしめく地区があることで助かっている者は多いだろう。
そんな庶民の居住区のアパートに下宿していた灰色の髪の青年イマージ・ロットは、早朝、まだかなり早い時刻に部屋のドアを遠慮なく叩く音で目が覚めた。
「ちょいと、坊ちゃん! 今月の家賃、今週末までですからね! 忘れないでお願いしますよ!」
「大家さん……はい、わかっています。わざわざすいません」
「わかってるならいいのよ。朝から悪いわね! でも坊ちゃんどこかボケッとしてるから、忘れてたらと思ってさ!」
寝起きの寝癖の付いたままの寝ぼけた声で、それでもしっかり頷くと、大家の恰幅の良い中年女性は大きく頷いて階下へ戻っていった。
「………………」
部屋に戻る。ワンルームの部屋には小さな机と、背もたれに学生鞄が掛けられた椅子、脇に腰の高さまでの本棚がひとつ。
入り口から入ってすぐの右側には小さいが手洗い場兼シャワールームが。
壁際の窓の近くにベッドが一台。
引き出しが二つ付いたクローゼットには、この王都で一番格式の高い王立学園高等部の男子生徒用の制服がかかっている。
この鮮やかなビリジアングリーンのブレザーに、グレーのチェック柄のズボンで王都を歩くと、人々が羨望の眼差しで見つめてくる。
制服を着ていると学生割引がきく店も多かった。
机の上には、革製の財布がある。
手に取って中身を確認すると、小金貨3枚(約3万円)と大銀貨1枚(約5千円)、銅貨5枚(約5百円)が入っている。
この下宿は、学園在籍中の生徒なら朝食と夕食が付いて月に小金貨3枚(約3万円)の家賃で済む。
今日すぐ支払える分はあったが、それをしてしまうと月末までに学園に登校後、昼食を買う分が足りなくなるのは目に見えていた。
それに今月は良くても、来月分の家賃をどう調達したものか。
クローゼットの横には、冒険者仕様の革の丈夫なブーツが置いてある。
以前は王都から一番近い第4号ダンジョンに潜って素材などを調達し、それを生活費に当てていた。
だが先日から、危険な魔物が出没するからといって一時閉鎖されてしまい、潜ることができなくなってしまった。
他のダンジョンはこの王都からは遠く、学園が休みの週末に日帰りできそうなところが見当たらない。
移動に使う馬車だってタダではないのだ。無駄遣いはできなかった。
王族のカズンやユーグレン王子が睨みを利かせている3年A組やB組には少ないのだが、他のクラスでは生徒間の身分差によるトラブルが不定期に発生している。
学園内の校則では、身分差別を禁じる項目がある。
学園の生徒であるうちは王族や貴族と、平民は平等であると定められている。
身分の高い者が、低い者を不当に虐げ貶めないよう設けられた決まりだが、残念ながら、やはり徹底されているとは言い難かった。
風紀委員長でもあるカズンの元には、毎週、各学年各クラスの風紀委員たちからの報告書が上がってくる。
これをまとめて生徒会に提出するのが仕事なのだが、内容には毎回頭が痛くなる。
そして、ここ最近とみに増えているのが、例のラーフ公爵令息ジオライドとその婚約者のトークス子爵令嬢イザベラの揉めごとに関する報告だった。
実名で報告書に記入されているから、嫌でも目立つ。
昼休み、食堂から戻ってきてまだクラスメイトたちが少ない教室で、カズンは風紀委員会の報告書に目を通していた。
隣の机にはヨシュアがいて、彼もざっと報告書の内容を把握している。
今のヨシュアはカズンの正式な護衛のため、カズンが関わる可能性の高い問題を把握しておく必要があるためだ。
(彼らとは相性が悪いのだな……。あの二人のことを考えるとやはり調子が悪い)
相変わらず、胸や喉の辺りが押さえつけられているかのように痛む。
「カズン様。魔力ポーション、どうぞ」
先日から、この手の不調が出ると魔力が乱れる。
ただでさえ魔力値が10段階で2しかないというのに、乱れると限りなく最低数値まで落ちるようだった。
一番近くにいるヨシュアが心配してくれているのだが、何がどうなっているか自分でもよくわかっていない。
ハッキリ説明するための、状況把握も覚束ない状況だった。
ヨシュアもそんなカズンの戸惑いを感じているようで、側にいてカズンの魔力が不安定に乱れるときは、こうして自作の魔力ポーションを差し出してくるようになった。
「ヨシュア。ポーションは高いだろう。後で代金を請求してほしい」
「ふふ。無粋なことは言いっこ無しですよ、カズン様」
「でも」
魔力回復用のポーションは、初級でも小金貨1枚(約一万円)以上する。金貨を飲むような代物と言われていた。
「ユーグレン殿下の推しはオレ。そのオレの推しはカズン様です。わかっていただけますね?」
「強引だなあ」
銀の花咲く湖面の水色の瞳で、有無を言わさず麗しく微笑まれた。圧が強い。
何とも不思議な一方通行の三角関係なわけだ。
好かれてるなあとは昔から思っていたが、ついに“推し”呼びまでされてしまった。
ともあれ、背に腹はかえられない。
「助かる。ありがとう」
その場で開栓し、一気に飲み干す。
清涼感ある、かすかに柑橘系の風味が付けられた、リースト伯爵領産に特有のポーションの味だ。少しだけ、前世で疲れたとき飲んでいたエナジードリンクに似た味をしている。
物心付くか付かないかの頃、大量に飲まされた記憶があるような気がするのだが、いまひとつ思い出せない。
もう少し安ければ常備するのだがなあと思うが、それを言うとヨシュアに大量に貢がれそうなので辛うじて口に出さずに堪えている。
「カズン君。今日は早退するね、先生によろしく言っておいてくれる?」
とそこへ後ろから、先日転校してきたばかりのイマージ・ロットから声をかけられた。
振り向くと、灰色の髪にペールブルーの瞳の、物腰の品の良い青年が帰り支度を済ませて立っていた。
彼はあまりクラスメイトたちとは馴染まなかったが、浮かない程度に挨拶ぐらいはしている。
日常的に会話するのは、学級委員長のカズンぐらいだろう。実際、今もカズンの隣にいるヨシュアとは少し目を合わせただけですぐ視線を外している。
「早退? 何かあるのか?」
「ちょっと言いにくいんだけど、仕事があって。学園の学費は特待生だから奨学金が出てるけど、生活費が心もとなくなってきててね……」
しばらくの間、生活費を稼ぐため短期労働に出ているのだという。
王族や貴族には無縁の悩みだが、平民も通うこの学園では、彼のように在学中に労働する生徒は少なくなかった。
「あ、ちゃんと学園側に許可は貰ってるよ。授業を休む代わりに指定されたレポート提出もしてるから、安心して」
「そうか。授業のノートは取っておこう。気をつけてな」
まだ昼休みは時間が残っている。
風紀委員会の報告書も最後まで目を通せそうだなと考えて、紙面にまた視線を落としたとき。
イマージが去ったのと入れ違いに、3年C組の風紀委員が慌ててA組の教室に駆け込んできた。
「アルトレイ風紀委員長! お助け下さい、うちの組のトークス子爵令嬢が!」
カズンがA組に戻って来たのとほぼ同じ頃、C組ではラーフ公爵令息ジオライドが取り巻きたち二人とこんな話をしていた。
「思うんだが、やはりイザベラなぞとの婚約は破棄して、もっと美しく筋目正しい家の令嬢と婚約し直したいな!」
教室内がざわめいた。まだ昼休みで全員戻ってきていないとはいえ、半数近くは自分たちの席にいるのだ。
「だがイザベラは容姿は劣るが成績は優秀だ。生意気なことにな。我がラーフ公爵家の仕事をさせるのにキープしておくのは悪くない」
「ならば第二夫人とするってことですか? ジオライド様」
と取り巻きたち。
「あんな不細工女を第二夫人とはいえ、妻にするなどとんでもない。せいぜい愛人だろ」
「まあ顔はともかく、身体はそこそこですからね」
会話の対象者であるイザベラ本人は、同じ教室にいる。
席はジオライドと離れていたが、本人のいる教室で、本人の耳に届く声量で堂々と話していた。
「ああ。婚約破棄はするが、処女は貰ってやるさ。不細工な顔でも暗い場所でなら見えないからな。純潔でなければ婚約破棄後も、貴族の娘は嫁入りできないのだ。愛人として貰ってやる代わりに家の仕事をやらせる。完璧だろ?」
他国には奴隷を使役するための隷属の魔法や魔術がある。イザベラが抵抗するようならそれで彼女を縛り、公爵家のために働かせればいいと考えている。
「飼い殺しにするわけですね。すごいなあ」
そんな話を、何と教室で声をひそめることもなく貴族家の子息たちが話し続けている。
クラスメイトたちの視線が、離れた席からジオライドたちを見ているイザベラへ向く。
彼女は教室内での非道な会話に青ざめて、今にも倒れそうなほど震えていた。
だが何とか気を取り直し、ふらつきながら、教室を出ていった。
教室にいる他のクラスメイトたちも、あまりのことに呆然としたり呆れかえったり、怒りを露わにしたりと、厳しい目で公爵令息とその取り巻きたちを睨みつけている。
だが、ジオライドたち本人はまるで気がついていない。
なぜ、彼らのような暴挙が許されているのか。
クラスメイトたちは全員理解している。それは、現在の学園に在籍する生徒のうち、王族を除けば最も高位貴族の家出身なのが、ラーフ公爵家のジオライドだからだ。
盛り上がっている彼らは、更に卑劣なことで盛り上がっている。
どうせ愛人にするなら、今から好きに遊んだっていいだろうと。
即ち、レイプして楽しもう、と。
しん、と教室内が静まりかえる。ジオライドとその取り巻きたちだけが会話を続けている。
「いつやります?」
「早いほうがいいな。早くあの女の具合を試してみたい。どこか使えそうな空き教室はあるか?」
「いくつか手配できそうな教室があります」
「準備でき次第、あいつを呼び出すように」
笑いながら3年C組の教室を出ていくジオライドたち。午後の授業はサボるつもりのようだ。
教室に残った生徒たちは皆一様に血の気を失っている。
「や、ヤバい、あいつらあれ本気だぞ!?」
「風紀委員! 早く委員長のとこ行って来て! トークス子爵令嬢を保護しないとマズい!」
「はいいっ、王弟殿下のとこ速攻行きます!」
心ある生徒たちが動き出す。
ターゲットにされたイザベラと同じ、子爵家や男爵家といった下位貴族の女生徒たちの幾人かが泣き出している。自分たちもジオライドたちの被害に遭うのではないかと考えたら恐怖が襲って来たのだ。
そんな彼女たちを友人たちが宥めている。
「ライル君は!?」
「あいつまだ武道場だろ、クソッこんなときに教室にいないとか!」
公爵家のジオライドに対抗できるとしたら、一つ下の爵位とはいえホーライル侯爵家嫡男のライルなのだが。
剣馬鹿の彼が、休み時間には剣を振りに教室を出てしまうことは、これまたクラスメイトたちは皆知っていた。
校舎裏で、イザベラは独りで泣いていた。
3年C組の風紀委員から連絡を受けて、風紀委員長でもあるカズンは彼とヨシュアと一緒にイザベラを探していた。
ちょうど途中の廊下で同級生たちと駄弁っていたグレンも、事情を聞いて合流してくれた。
「イザベラ嬢、無事か!?」
「カズン様……」
校舎裏の日陰に目的の人物を見つけて駆け寄ってくるカズンに、だがイザベラは青い顔をしながらも「大丈夫です」と何度も繰り返す。
「……そうか。だが、助けが必要になったらいつでも声をかけてほしい」
ちょうど昼休み終了のチャイムも鳴った。
これ以上強引に確認を迫るのは愚策かと思い、引くことにする。
「トークス子爵令嬢、まさかこのまま教室に戻るつもりかい?」
彼女のクラスメイトでもあるC組の風紀委員が慌てている。
「……いえ。さすがにそんな気分じゃなくなりました。職員室に寄ってから帰宅しようと思います」
「そ、そうだね、それがいい! 次の授業の先生にはオレから伝えておくから!」
まさか、婚約者がレイプ計画を嬉々として話していたから戻ってはならないなどと、本人に言えるわけがなかった。
「なぜ、イザベラ嬢は助けを求めて来ないのだろうか」
去って行くイザベラを見送って、思わずカズンは呟いた。
既にジオライドの言動は洒落にならないところまで来ている。
イザベラの状況が最悪なことは周囲も知っている。
それなのに、イザベラは一切誰にも助けを求めず、独りで耐えている。
彼女を見ていると胸が痛む。それに喉も詰まって苦しくなる。
カズンはもうずっとこの苦しさに付き纏われていて、辟易としていた。
だがグレンや、カズンを呼びに来た3年C組の風紀委員は呆れていた。
「カズン先輩さあ。鈍いのも大概にしたほうがいいよ」
「……何だと?」
ヨシュアは近くに控えて、口を挟んでは来なかった。ただ話がどう転ぶかには興味があるようだ。
すると3年C組の風紀委員が、意を決したように声をかけてきた。
「アルトレイ様、不敬を承知で言わせてください。……あんた、自分がどれだけ残酷なことやってるか、わかっているんですか」
そもそも、下級貴族の子爵令嬢が、困窮する実家に支援してくれている高位貴族の婚約者の公爵令息に逆らうなど、できるわけがない。
そのような状況で、他人に助けを求めるなど、もっと難しい。
イザベラが苦境に立たされながらも、あれほど頑なにカズンの介入を固辞するには理由があるのだ。
「彼女を救う力があるのに、なぜ使って下さらないのですか」
その瞬間。
パシャリ、とカズンの脳内で弾ける映像があった。
転生する前の世界、日本と呼ばれる国で。同じように高校生だった自分が見かけた、クラスでのいじめの現場だ。
自分も周囲の生徒たちもそれを遠巻きにして見ているだけだった。
確かに前世の自分“カズアキ”は他者からいじめられるようなことはなかった。
たとえ、クリスマスパーティーや学校行事の打ち上げのファミレスやカラオケに誘われることがなかったとしても。
クラスメイトたちから無視されることもなければ、カツアゲなどあからさまないじめを受けることもなかったけれども。
だが、自分以外に目を向ければ、虐げられていた同級生たちはそこかしこにいた。
自分があの立場でなくて良かった、と思ったことは何度もある。
(でも、本当は)
(不条理さに泣く人を、助けられる自分でいたいと思ったんだ)
その自覚を掴んだ途端、ドン、と強い衝撃が身体の中を突き抜けていった。
全身を清涼な魔力が通り抜けていき、意識も身体も爽快感で満たされた。
(? 苦しいのが消えた?)
もう夏も近いというのに、冷えて強張りがちだった指先にも血が通ってくる。
「カズン様? どうされましたか」
自分の肉体や意識に訪れた変化に驚きながら、指先や腕、首などを動かして変化を確認せずにはいられなかった。
が、怪訝そうにヨシュアに声をかけられて、ハッと我に変える。
(今はまず、やるべきことがある)
「そうだな。今ここで何かできるのは、僕しかいないな」
気合いを入れるべく、黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
生徒会室へ行き、ユーグレンに改めて事態を説明して指示を仰ぐ、とカズンは言った。
「えっ、何で王子殿下に?」
「……イザベラ嬢を助けること自体は容易なんだ。だが、それをするとジオライドはともかく、彼のラーフ公爵家が甚大な被害を受ける。だから二の足を踏んでいた」
問題自体は既にユーグレン王子も把握して、王宮で調査を進めさせているはずだった。
既に昼休みは終わっており、カズンはグレンと3年C組の風紀委員には教室へ戻るよう促した。
ヨシュアを伴って一度A組へ戻り、以降の授業を欠席することを伝えてから、ユーグレンのB組を訪れる。
当然、授業中であったが、構わずユーグレンを呼び出して、ともに学長室まで赴いた。
「やはりそうなったのね……」
C組でのジオライドの件を、既に先んじて学長室まで報告しに来た生徒がいたようだ。
学園長のライノール伯爵エルフィンは、世も末といった悲愴な表情で白い顔を片手で覆っていた。
カズンから詳しい話を聞いたユーグレンも難しい顔になった。
「……状況は理解した。もはや話し合いでどうにかなる状態ではない、か」
イザベラのクラスメイトたちも、ジオライドとその取り巻きたちの暴言や暴力に辟易としている。
だが、やはり本人が国内有数の公爵家嫡男というのが強い。
実は最近も一度、C組の生徒たちは風紀委員会を通じて学園側に問題を訴えている。
しかし、ジオライドのラーフ公爵家は学園に多額の寄付をしていて、令息のジオライドに強く注意できないとは、以前も聞いた学園長のエルフィン談だ。
「それとなく、差し障りない程度にオブラートに包んで、ジオライド君の父君のラーフ公爵閣下に報告はしていたのよ」
「でも、あまり効果はなかったようですね。むしろ悪化してますよ、エルフィン先生」
ヨシュアの指摘に、本当に頭が痛いと言って、エルフィンは執務机の上で頭を抱えてしまった。
「学園からの報告を受けて、ジオライド君は父君からそれなりにきつく叱責されたみたいね。そのせいで、ますますイザベラさんへの態度を悪化させることになってしまった……」
さすがにそれを見てしまうと、クラスメイトたちもお手上げ状態だ。自分たちが下手に手出し口出しすると、イザベラへの被害が増える。
エルフィンも、まさかここまで酷い状況になるとは思っていなかったという。
「ジオライド君は公爵家嫡男よ、王家に次ぐ家柄の出身で、次期公爵。まさか、婚約者の令嬢を襲って弄びたいと公言するだなんて、誰が予想できたというの……?」
しかも、子爵令嬢とはいえ王家の血筋を引いたイザベラを虐げ、平気で暴力を振るうなど、正気の沙汰とは思えない。
「エルフィン先生。あなたが責任感の強い良い教師であることは、私もよくわかっています。ラーフ公爵令息の件は最早あなたの手に余るでしょう」
「ええ。現時点では、これ以上私の立場から何かすることは難しいわ」
「では、この件はしばらく王家が預かります。ただ、学園内で起きた事件なので、学園長のあなたも何らかの責任を負わされるかもしれない」
「責任逃れをするつもりはなくてよ。監督責任を果たせなかったと言われたら、減俸でも学園長の解任でも甘んじて受けるつもり」
エルフィンも既に覚悟を決めているようだった。
その後、カズンはユーグレンの指示でトークス子爵家へ馬車を走らせた。
トークス子爵に話を通してからイザベラを連れ、一度、自宅のアルトレイ女大公家で保護せよというのが、ユーグレン王子からの指示だった。
イザベラ本人を交え、父ヴァシレウスと母セシリアにも事情を説明して助力を請うた。
そしてイザベラの口から語られた、カズンもまだ知らなかった彼女の婚約者、ラーフ公爵令息ジオライドの言動は、あまりにも下劣過ぎた。
「私をどのように汚し、貶めるか。醜い女だから木の棒でも突っ込めば喜ぶだろうなどと、目の前でいつも嬉しそうに話されていました……もう、私はどうすれば良いのかわかりません……」
イザベラの置かれたあまりの過酷な状況に、カズンも父母も声を失う。
「この国の身分制度の悪いところが出たか」
ヴァシレウスが痛む頭を押さえている。
アケロニア王国の身分制度は、“総合評価”だ。
極端な例でいえば、貴族最高位の公爵家に平民層出身の女性が嫁ぎ、公爵夫人となったとする。
この場合、公的な身分は公爵夫人だが、残り半分は平民層出身者という出自が本人の経歴として残る。
他の貴族家が、彼女の実子と自分の家の子息子女の婚姻、あるいは保有する事業の提携などを計画する場合、この残り半分の“平民層出身”の項目がネックになりやすい。
この経歴は、本人から見て祖父母まで遡って国の戸籍に記載され、社交において考慮される。
だが、身分制度に執着する貴族の中には、“どこまでも”出自を遡って追求する者がたまにいる。
恐らくラーフ公爵令息ジオライドはその類いだ。
ラーフ公爵家は、建国からではないものの古い家柄で、高位貴族中心に婚姻関係を結び続けている家だった。
婚約者のイザベラのトークス子爵家は、イザベラから見て曾祖母にあたる人物が貧民層出身であることが知られている。
その血筋の子孫であるイザベラを婚約者とすることが、己の瑕疵であると短絡的に判断したのだろう。
円環大陸も一年は共通の暦で12ヶ月、四季がある。
まもなく7月に入り、学期末テストの時期で登校日が少なくなる。その後は夏休みだ。
このままイザベラも登校日数を減らして、可能な限りジオライドと取り巻きたちとの接触を減らしてもらうことにした。
また、ヴァシレウスはイザベラには護衛を付けることを提案した。幸い、イザベラとジオライドのクラス3年C組には、卒業後そのまま騎士団に入団する生徒が複数いる。
たとえば、カズンの友人の侯爵令息など。
「それならライルを」
イザベラのクラスメイトであるし、剣の腕は騎士団のお墨付きだ。
「いや、男子生徒だとラーフ公爵令息の余計な邪推を招いてしまう。イザベラ嬢、伯爵家以上の家格の令嬢で、騎士団入団が決まっている女生徒が数名いるだろう?」
「はい、ブランディン伯爵令嬢とウォーカー伯爵令嬢がおられます。子爵家と男爵家のご令嬢にも数名」
「ブランディン伯爵令嬢とウォーカー伯爵令嬢のお母様はあたくしのお茶友だわ! あたくしから話を通してあげる、きっと悪いようにはならなくてよ」
手を叩いて、今すぐ二人の令嬢の家に手紙を書くと言い、セシリアが侍女にレターセットの準備を申し付けた。
女騎士志望の伯爵令嬢二人も、3年C組でのジオライドの暴挙に不快感を覚えているのは間違いない。
イザベラも、それとなくジオライドから庇ってもらったことがあるという。
恐らく、二人の伯爵令嬢もイザベラの護衛を断ることはないだろう。
イザベラはこのまま自宅に帰りたいと言って場を辞そうとしたが、セシリアが許さなかった。
「イザベラちゃん、今日は泊まっておいきなさいな。明日はちゃんとおうちまで送らせますからね」
問題が解決するまでずっと居なさいと言いたいところだが、イザベラに正式な護衛が付くならその必要もない。
ずっと応接間で話をしていて、すっかり茶も冷めてしまっている。
午後の授業を休んで帰宅していたから、まだ夕方にもなっていない。
侍女たちが新しく紅茶を入れ直し、軽食や菓子類をケーキスタンドで用意してくれた。
「あたくしたち貴族の女には不自由なことも多いけど、自分の幸せを諦めないで欲しいと思うわ」
そうして語られたのは、セシリアがアケロニア王国へ来るまでの物語だった。
まだ三十代半ばの彼女がこの国へ嫁いで来たときのエピソードはドラマチックだ。
アルトレイ女大公セシリア。
元は同盟国タイアド王国の貴族令嬢で、この国の先王ヴァシレウスの曾孫でありながら、彼に嫁いできた情熱の女性である。
タイアド王国の先王である当時の王太子に、ヴァシレウスの第一子であり、テオドロスの姉王女クラウディアが嫁いだ。
彼女はカズンにとっても姉だが、カズンは王宮内の絵姿でしか見たことがない。アケロニア王族特有の黒髪黒目の端正な顔立ちの少女だった。
セシリアはアケロニア王国の王女クラウディアと、タイアド王国の先王の孫にあたる。
アケロニア王国と同盟国両方の王族の血を持ち、身分は公爵令嬢だった。
その祖国で、セシリアは同い年の、従兄弟の王太子の婚約者だった。
この王太子はアケロニア王族の血は引いておらず、セシリアの祖父王が別に迎えた側室との間に儲けた王子の息子である。
「でも、母国の学園に在籍してたとき、王太子殿下が下級生の男爵令嬢と恋に落ちてしまわれてねえ。あたくしとの婚約は一方的に破棄されてしまったの」
ところが男爵令嬢では身分が低すぎて、将来王となる王太子の後ろ盾にもならない。
そこで王太子は狡猾にも、元々の婚約者であったセシリアの公爵家の権力をキープするべく、側室の打診を申し入れてくる。
「でも、男爵令嬢が正妃で、公爵令嬢のお母様が側室では王侯貴族の序列を乱しますよね」
母の経歴はカズンも知っている。だが、改めて本人の口から直接当時の話を聞くのは初めてだった。
「そう、あたくしの家から父が抗議すると、ならあたくしを当初の予定通り正妃に、男爵令嬢を側室に修正すると連絡が来たわ」
「えっ。“婚約破棄”された後のことですよね!?」
話を聞いてイザベラやヨシュアも驚いている。
「そうよ、おかしいでしょ? 笑っちゃう」
セシリアの上品な薄ピンクの魔術樹脂のネイルの指先が、紅茶のカップの持ち手をつまむ。
「とはいえ、あたくしの父も王家が正式に謝罪してきたから、再婚約の申し出を受け入れたわ。でもね……」
いざ改めて再婚約の儀を交わそうと婚前契約書を確認すると、セリシアは正妃どころか、公妾として王太子宮に召し上げると書かれていた。
王太子との間に子供が産まれれば、庶子となり王位継承権は与えられない。
しかしセシリアの実家の公爵家は王家に支援をするようになど、信じられないような一方的な条件ばかりが書き連ねられていた。
とんでもないことである。
当然、父親の公爵もセシリア本人も婚前契約書にサインはせず、その場を退席した。
「セシリアの祖国だったタイアド王国では、“公妾”とは王家公認の愛人という本来の意味のほかに、いくつかの機能を持つ」
「と言うと?」
途中、ヴァシレウスが補足してきた。
「王家に嫁ぐ自国の令嬢の実家が高位過ぎる場合、権力の集中を防ぐための緩衝材的に取られる措置のひとつだ。実態は公妾という名の側室だな」
セシリアはアケロニア王国と、出身国タイアド王国両方の王家の血筋の令嬢だった。
その彼女が王家に嫁ぐことで起こる権力集中を避けるという名目は、一応成立する。
王族が公妾との間に儲けた子には王位継承権を授けない国が多いが、その子が“王族の血を持つ”ことは変わらない。
王位継承権がなくとも王族の血には大きな価値があるから、その後の家同士の養子縁組や婚姻で有効に使われることが多かった。
だが、公妾に関しては、タイアド王国の数代前の王が愚かなことを仕出かしている。
自分の公妾を、臣下や国に貢献した者への“褒美”として一晩の慰めに下賜したことがあった。
それも相手が高位貴族や王宮の高位の役職持ちならともかく、低位貴族や平民出身の功労者にだ。
これを侮辱と取った高位貴族出身の公妾本人が自死を選んだケースが数例ある。
そのうちの一例など、国の英雄に下賜された公妾が相手の英雄を寝台の上で刺し殺して、自分も自害するという甚大な被害を出した。
以降、王族の公妾制度は暗黙の了解で廃止同然のはずだったのだが、王太子が愚かにも復活させようとしてきたというわけだ。
「私の娘が存命だったら、タイアド王国の王太子の暴挙を許すことはなかっただろう」
ヴァシレウスの娘、即ちアケロニア王国の第一王女でタイアド王国の王妃、そしてセシリアの祖母だったクラウディアだ。
彼女はタイアド王国に嫁ぎ、王子二人を儲けている。
一人目は生まれてすぐに夭折。
婚姻を結んで年数が経ってから生まれた第二子の王子が、臣籍降下したセシリアの父だ。
王妃本人は、残念なことにセシリアが生まれるよりずっと前に亡くなっていた。
「さすがにあんまりな対応をされたものだから、あたくし憔悴しちゃって。そんなとき、おばあさまの祖国アケロニア王国で、先王陛下が病に臥されたと聞いてお見舞いに来たのよ」
と今は夫となった、隣に座る男の逞しい腕に触れる。
先王陛下、即ちセシリアの曾祖父にあたるヴァシレウスだ。
当時、七十代後半だったヴァシレウスは大病を患い、高齢だったこともあり臥せりがちだった。
セシリアも自国の王太子の横暴さに辟易として気力が低下していた。
祖母の母国アケロニア王国へ向かったのは、先王の見舞いの名目で、実際は王太子から受けた暴挙の心痛を癒やし、冷静に考える時間を得るための療養でもあったのだ。
また、セシリア自身、アケロニア王族の濃い血を持つ。
場合によってはアケロニア王国側から王太子の愚かな公妾契約の打診を公式に批判して貰うためでもあった。
「それで、曾孫だったお母様の状況を知ったお父様はどうされたのですか」
「そりゃ、激怒するに決まっておろう。私もだが、うちの王太女の怒り具合は凄まじかったぞ」
「グレイシア様が? そうか、彼女はお母様のまたいとこですもんね」
嫁した王女の孫セシリアの苦境を知ったアケロニア王国は大いに憤慨した。
特に曾祖父で先王のヴァシレウス、現王の息女で王太女のグレイシアが揃って激怒した。
「自分たちと同じ血を持つ、由緒正しき姫を愛人に落とすなど言語道断、とタイアド王国へ強く正式に抗議したんだ」
同盟国タイアド側は、大王の称号持ちのヴァシレウスからの批判に泡を食う。
また、王太女グレイシアが、「タイアド王国でこの愚かな王太子が即位するなら在位期間中の国交を遮断する」とタイアドや円環大陸の友好国相手に強い声明を出した。
アケロニア王国は円環大陸でも有数の魔石の開発・輸出国だ。今、魔石が輸入できなくなると、生活が立ち行かなくなる国は多い。
即座にタイアド王国は問題の王太子を廃し、王位継承権を剥奪した上で男爵令嬢の家に婿入りするよう命じた。
当時を思い出すように、ヴァシレウスが少しの白髪混じりの顎髭を撫でる。
「ふはは、あれは小気味好かった。結局、元王太子は不貞相手と破局を迎え、相手の男爵家も没落したと聞く」
「“ざまぁ!”ってやつですね、お父様」
「ざまぁ?」
「様を見ろ、の俗語です。それ見たことか、みたいな」
「ふうむ、まあ元王太子の場合は自業自得だがな」
その後、タイアド王国の王家は新たな婚約者をセシリアに用意したが、セシリアは拒否した。
元婚約者の六歳年下の実弟だったので、なおさらだ。あまりにもセシリアと家の公爵家を馬鹿にしすぎている。
アケロニア王国に着いてからは、アケロニア王家側も国内の高位貴族の令息との婚約を勧めてきたが、話はすべて保留してもらっていた。
「あたくしも、祖国の元婚約者から散々罵倒されてたのよ。つまんない女だ、目の色が気に入らない、板切れみたいな貧弱な身体だ、とかもうたーっくさん!」
「あ、相性が悪かったのですね……?」
「酷かったわよ。あの頃はあたくしもまだ十六くらいだったから、身体の発育も子供の域をようやく抜けたかな? ぐらいだったのよね」
室内の全員の視線がセシリアに向く。
今のセシリアは、出るところは豊かに出て、ウエストは見事にくびれた魅力的な体型の女性だ。
まだ三十代半ばほどとはいえ、経産婦の貴族女性としては見事なプロポーションを維持しているといえる。
「『そんな貧相な身体で俺を満足させられるわけがなかろう!』とか怒鳴られたわ。『それに引き換え、俺の最愛は素晴らしい!』などと比べられたっけ。うわーこの人、あたくしという婚約者がいるのに他で関係持ってるのねサイテー! って感じだったわあ」
セシリアは輝くような明るい金髪と、鮮やかなエメラルド色の瞳を持った、甘くゴージャスな印象の美女である。
円環大陸の人間なら、百人いたら九十八人は口を揃えて美女だと褒め称えることだろう。
ヴァシレウスやカズンのような、アケロニア王族特有の黒髪黒目や端正な顔立ちより、タイアド王族の特徴のほうが強く出た容姿をしている。
それ以降のセシリアについては、アケロニア国民なら誰もが知っている。
アケロニア王国を来訪したセシリアが先王ヴァシレウスに一目惚れをした。
タイアド王国からやって来て、最初の謁見のとき脇目も振らず大王ヴァシレウスに求婚した高貴な令嬢こそが、今こうして優雅に紅茶を飲んでいるアルトレイ女大公セシリアの少女時代であった。
当時、セシリアは祖国では成人年齢の16歳。対するヴァシレウスは79歳だった。歳の差、実に63。
しかもヴァシレウスにとっては、自分の血を引く曾孫でもあった。
「さすがに孫のグレイシアより若い子供を娶る気はなかったのだが……」
現役時代や、退位しても七十代に入るまでは艶福家として知られ、側室や、愛妾に至っては数知れず、男女問わず泣かせまくったのがヴァシレウスという男だ。
ところが七十を過ぎてから、寄る年波に勝てぬというやつで、病にかかるようになった。
セシリアがアケロニア王国にやって来るきっかけも、大病にかかり、いよいよ危ういという情報がもたらされてのことだったぐらいだ。
今でこそ気力も体力も満ちて若々しく見え健康なヴァシレウスも、当時は年相応に老け込んで髪や髭に白髪も多かった。今のヴァシレウスにも白髪はあるが、黒髪のほうが断然多い。
ヴァシレウスはその場でセシリアからの求婚を、面白い冗談を聞いたと言って退けた。
だがセシリアは諦めず、その後もヴァシレウスとの面会許可を得て、求愛し続けた。
実際、ヴァシレウスもその息子の国王テオドロスも、また周囲の大人たちはほとんど、セシリアの言葉を信じていなかった。
せいぜい、セシリアが自国に戻ったとき自分の箔付けにするつもりだろうと思った程度だった。
「でもざーんねん! あたくし、とっても本気だったのよ」
王宮で自分の歓迎パーティーが催され、国内の主だった貴族や有力者たちに紹介される機会があった。
セシリアのお目当てのヴァシレウスは、会の最初に挨拶だけすると体調不良にすぐ引っ込んでいった。
しばらく、王太女夫妻の紹介でパーティーの参加者たちと挨拶したり、ダンスを楽しんだりしていたセシリアも、疲れたことを理由に途中で退席することにした。
護衛の騎士と侍女に護られて王宮の客間に戻る途中、パーティーのため忙しく動き回っているはずの侍女たちの立ち話を耳にする。
既に退位して久しいヴァシレウスは、王宮ではなく離宮のひとつに居を移している。だが今晩はこのまま王宮の客間に部屋を用意させて休むようだ、という。
その準備にかかっている侍女たちの立ち話だった。
自分に宛てがわれた客間に戻り、ドレスから部屋着に着替え、入浴なども済ませた後。
騎士や侍女も部屋から辞したことを確認したセシリアは、迷うことなく部屋を出て、客間のある棟の一番奥を目指した。
「パーティー会場を出る前にね、王太女様がこっそり教えてくれたの。今晩、この後日付が変わるまでの間だけ、ヴァシレウス様の泊まるお部屋から人払いしてやるぞって」
その言葉の意味がわからないほど、セシリアも子供ではなかった。
夜這いのときのセシリアからの口説き文句はこれだ。
『真実の愛に劣ると捨てられたあたくしに、あなたが真実の愛を教えてくださいませ』
「あれで発奮せねば男ではあるまい」
おおお、と子供たちが感嘆の声をあげる。
セシリアとヴァシレウスの馴れ初めは、この夜這いの台詞とともに有名だった。
後にヴァシレウスの伝記の番外編として、本人たちの監修で収録刊行されたエピソードなのだ。
ちなみに、新たな王族としてカズンが生まれたことを知った国民、特に男性諸氏の感想は「ヴァシレウス様、まだ現役だったんだ!?」だそうである。
傍から見ればセシリアは初恋を叶えた情熱の女性だが、ヴァシレウスの伴侶として認められるまでは紆余曲折があり、一筋縄ではいかなかった。
一晩の逢瀬の後、二ヶ月後にセシリアの妊娠が発覚する。相手がヴァシレウスだと言って本人も認めたため、そのままセシリアはアケロニア王国に出産まで留まることになった。
そうして産まれた子供が父親のヴァシレウスと同じ黒髪黒目、ほとんど瓜二つの容貌だったことで、ヴァシレウスの実子であることに異論を挟む者もいない。
そこから、セシリア自身の処遇をどうするかで、祖国もアケロニア王国も頭を悩ませることになる。
既にヴァシレウスは退位して久しいし、正妻や側室、妾などとすべて死別していた。
新しく伴侶を迎えるにあたって、すべて本人の自由に決められる状態だったのは幸いだった。
ただ、セシリアにとってヴァシレウスは直系尊属だ。
倫理道徳的にどうなのか、という批判がまず出てくる。
それもカズンが生まれていたことで何とか反論を封じることになった。
セシリア自身がヴァシレウスの曾孫でアケロニア王国の王族の血を引く事実が、まず最初の加点だった。
カズンを出産してすぐにセシリアがタイアド王国からアケロニア王国に帰化したのが次の加点だ。
最終的には、国賓として招かれたパーティーの場でセシリアが、長年関係が悪化していた国との国交を回復・樹立に大きく貢献した実績が決め手となる。
カズンを出産した時点でまだ17歳だったセシリアだが、誰もが舌を巻くほど社交に優れた能力の持ち主だったのだ。
そうして、セシリアがヴァシレウスの正統な伴侶として認められたのが、二人の子供カズンが4歳となった年のこと。
そのとき、ようやくカズンもアケロニア王族の一員として正式に認められることになる。
兄王テオドロスと当時まだ健在だった今は亡き王妃、その娘の王太女夫妻、孫のユーグレンと正式に顔合わせしたのもその年だ。
そしてカズンが学園に入学する頃には、セシリアは正式にアルトレイ女大公に列せられている。
「うちの可愛いショコラちゃんが4歳の頃といえばね……」
とケーキスタンドからチョコレート菓子を摘まみながら、セシリアの話が脱線していく。
「お、お母様、僕の話は結構ですから」
何やらイヤな予感がする。
しかし母は止まらなかった。
歩けるようになってからのカズンが、当時住んでいた離宮内を走る走るで大変だったと話し始めるときた。
「はいはいができるようになったときも凄かったのよお。すーぐお部屋から逃げ出そうとするんですもの。それで勢いが強すぎて壁にぶつかっちゃうのよね」
カズンが生まれる数年前から大病をして体力が落ちていたヴァシレウスでは、カズンの相手が難しかった。
何せカズンが生まれた時点でヴァシレウスは八十の大台に乗っていたので。
乳母も足の速い人ではなかったし、侍従や侍女、執事なども追いつけなかった。
現役の騎士団員なら可能だったが、子守りのためだけに余分な人員を借りるわけにもいかない。
歩けるようになった時点で乳母車からも自分で這い出してしまうため、人力で捕獲できる者がどうしても必要だったという。
そこで、母親のセシリアが、身体強化魔術の訓練を受けてカズンを捕まえることになったという。
彼女は魔力は持っていたが魔力使いの少ないタイアド王国出身だったため、魔法も魔術も使ったことがなかったが。
このとき、セシリアに身体強化を指導したのが、当時の魔法魔術騎士団の副団長だったリースト伯爵カイル、ヨシュアの亡父だった。
後にヨシュアがカズンの友人として引き合わされることになった縁がこれである。
「運動用に用意してもらったお靴、何足ダメにしたのだったかしら。底がすり減って穴も空いちゃったわ。そこまでやって、ようやくカズンに追いつけるようになったの」
それまで、どちらかといえばセシリアはスレンダーで厚みの薄い体型だった。
しかし体力を付けるため毎食がっつり肉やチーズ、野菜も適度に摂り続けたことで、胸は豊満になり、日夜疾走することで、ヒップと脚がしなやかな筋肉で引き締まったダイナマイツボディを手に入れた。
「カズンを追いかけるのは、本当に大変だったな……」
「ええ。大変でしたね、旦那様。でもとーっても! 楽しかったのよお」
セシリアの魔力ステータス値は7である。平均値が5だから数値として高めだ。
「自分に魔力があるってこと、アケロニア王国に来てから知ったのよね。というかカズンを産んだ後、正式にステータス鑑定してもらって判明したの」
「うむ。予想はしてたが、セシリアもアケロニア王族の血筋だからな。“人物鑑定”スキルは当然持ってるだろうと思っていた」
その一族に特有のスキルや能力というものがある。
例えば、ヨシュアのリースト伯爵家の男子なら、金剛石、即ちダイヤモンドでできた魔法剣を自在に操ることが知られている。
アケロニア王族の場合は、男女の区別なく、鑑定スキルのうち人物鑑定スキルをほぼ必ず発現させる。
カズンやユーグレン王子は人物スキルの初級を。
先王ヴァレウスは上級。現王テオドロス、王太女グレイシアは中級で、彼ら全員、まだ上の等級に進化する余地を残している。
セシリアは、発現する可能性が高いスキルとして、人物鑑定スキル・特級を持っていた。
鑑定スキル全般にいえることだが、特級ランクの持ち主は円環大陸全土で各国に一人いるかいないかといったところだ。
ちなみにアケロニア王国に、人物鑑定スキル・特級ランクの持ち主は二名いる。
一人がこのカズンの母親アルトレイ女大公セシリア。もう一人は、王立学園の高等部で学園長をしているライノール伯爵エルフィンである。
「あたくし、初めて謁見の間で旦那様を見た瞬間、『これは自分の男だ』って直観したのよ。あれって今から思えば、特級ランクの人物鑑定スキルがたまたま発動したんじゃないかなあって」
巷の噂では死期や“運命の相手”がわかるとも言われているが、これに関して人物鑑定スキル特級の持ち主は黙して語らない。
なお、個人間の相性だけなら、中級ランクでも鑑定可能である。
「そのうち、王太女のグレイシア様にカズンを捕まえるコツを教えてもらってねえ。『ワーイ!』って大きな声を出して両腕を上げた直後に飛び出していくから、タイミングを狙って抱っこしちゃえばいいんだぞって」
「う……ププッ、そうですね、確かにカズン様はそうでした。『ワーイ!』とか『ウワーハハハ!』って叫んだ後にものすごいスピードで駆け出してました」
当時を知るヨシュアが思い出したように笑っている。
駆け出したカズンに手を引かれて、文字通り一緒になって離宮を駆け回っていた頃がとても懐かしい。
子供の頃とはいえ、自分の失敗談を人前で話されてカズンは恥ずかしさに顔を背けてしまっている。
もうやめてと言っても、セシリアもヴァシレウスも、ヨシュアでさえ止まってくれなかった。
表情を強ばらせていたイザベラも、温かい紅茶と風味の良い焼き菓子片手に語られる昔話に、笑顔を見せるようになった頃。
ユーグレン王子の指示を受け、王宮から王族や貴族間のトラブルを監視する監察官が、アルトレイ女大公家に到着した。
これまでのジオライドとイザベラの諍いと、それぞれの家の思惑などに関する調査結果を持ってきたのだ。
カズンがイザベラたちへの積極的な介入を控えていたのは、この調査結果を待っていたからだった。
実際は早く動いてしまったが、今はそれで良かったと思う。
王家が調査すると、どうもラーフ公爵令息ジオライドは、イザベラとの婚約を誤解して認識していることが判明する。
本人はイザベラとの婚約を低位貴族の女性との貴賤結婚だと勘違いしているが、実態は王家の血を引くイザベラと婚姻を結ぶことで王家の縁戚となることが目的である。
ところが、ジオライド本人の中では、どうやらイザベラとの婚姻と王家と縁戚になることが結び付いていないらしい。
すなわち、王家と縁付くことは自分の公爵家が受ける叙勲等によるものだと思い込んでいる。
にも関わらず、イザベラのような格下の家の女と結婚せねばならない状況ということに、強い憤りを感じている。
ジオライドのこれまでイザベラに対する言動の数々は、既に二人の間を取り持つことが不可能なほど破滅的だった。
このままでは学園の卒業後、結婚したとしてもイザベラの身が危険なことに変わりがない。
仮に誤解が解けたとしても、これまでのジオライドの言動が帳消しになることはないだろう。
しかし、まだ王家はイザベラの父親トークス子爵に、ラーフ公爵令息ジオライドとの婚約の“破棄”ないし“解消”の許可を出すかどうか、考えあぐねている。
二人の婚約自体が、トークス子爵家の真実の発表と、ラーフ公爵家の業績とを考慮した上で王家が打診したもののためだ。
「王家の調査官がジオライドの人柄を調査した際は、多少傲慢だが王家の縁戚者となることの妨げになるほどではなかったそうだ」
「……進学してネガティヴ方向に弾けちゃったってことなんでしょうか?」
幸い、ドマ伯爵令息ナイサーのときのように、実際の犯罪行為にまでは手を染めてないことだけは確認が取れている。まだ。
「“女性経験・男性経験ともに無し”って……ええ!? 童貞なのにあの男、イザベラ嬢を弄ぶだの何だの言ってたってことなのか!?」
調査官からの報告書をヴァシレウスが目を通した後で受け取ったカズンは、内容を確認した後で文字通り目玉が飛び出そうなほど驚いた。実際、黒縁眼鏡が少しだけずり落ちた。
「ええ、まあ……童貞なのは間違いないと思います。あの性格ですから、高位貴族の女性はまず近づきませんし、下位貴族でも遠慮したくなりますよね? 寄ってくるのは玉の輿目当ての平民の生徒がほとんどで。でもあの通り傲慢な人なので、相手が平民だと知ると穢らわしいと言って暴言吐いて追い払うので」
イザベラが言いにくそうに補足してくる。
ちなみに現在のアケロニア王国では、貴族と平民の結婚は合法である。王族と平民の結婚の場合は議会の承認が必要となるが。
「娼館通いなども、してない……みたいですね?」
カズンの横から報告書を覗いて、ヨシュアも同じ文章を確認する。
「『誰が使ったかわからない女など冗談じゃない』と教室で仰ってました」
「……潔癖症も別に悪いことはない。まだ若いし、青臭いことを言っても許される年頃だ。しかし、何ともまあ……」
これはもう駄目だろうなと、ヴァシレウスもすっかり呆れ果てていた。
「童貞が妄想を拗らせてるってことなんでしょうねえ」
「しかし、その妄想を現実にするだけの力があるから、タチが悪い」
まるで分別のつかない幼児が刃物を振り回しているかの如くだ。
「間もなく一学期の学期末テストの時期ですよね。イザベラ嬢を好きに弄びたいというなら、何か具体的アクションを起こすのはテストの後ではないかな。その流れで夏休みはイザベラ嬢を連れ回して好きに嬲ろうという魂胆かと」
そこで、先ほど話していたように、学園でイザベラにはクラスメイトのうち、腕に覚えのある女生徒たちに周囲を固めてもらうことにした。
そうしながら、ジオライドと距離を保つよう努めてもらう。
それから数日経過すると、これまでのように好きにイザベラを虐げることができず、ジオライドの機嫌が低下していると報告が上がってくるようになった。
学期末テストの期間に入る前ということもあって、カズンたちは学生の関係者一同でアルトレイ女大公家に集まってテスト勉強と作戦会議を続けていた。
ライルをはじめとした3年C組の生徒たちのうち、三割ほどの生徒がイザベラに同情的で協力してくれている。
残りは、自分たちに火の粉が降りかかることを厭い関わり合いになりたくないというスタンスのようだ。
ジオライドや取り巻きたちの言動は、クラスメイトたちが密かに監視して、ライルや、イザベラの護衛を任された伯爵令嬢二人を通じて、カズンたちの元へ報告されている。
そして、朗報がもたらされた。
「『従順でない女はラーフ公爵家に不要』との名目で婚約破棄を突きつけるそうですわ。ラーフ公爵令息はイザベラ様が縋ってくることを見越して、婚約破棄が嫌なら純潔を差し出せと言ってイザベラ様を翻弄するつもりのようです」
「イザベラ様を嫌って虐げながら、肉体関係だけはおいしくいただこうだなんて。吐き気がしますね」
快くイザベラの護衛を引き受けてくれた、ブランディン伯爵令嬢とウォーカー伯爵令嬢の報告である。
この頃には、王家からジオライドの父、ラーフ公爵にも警告が通知されている。
しかしラーフ公爵は、『我が息子がそのような愚かな行いをするはずがない。我が家を貶めようという他家の謀略でしょう』とまともに取り合わなかったそうだ。
「ラーフ公爵令息は、父親に対しては完璧に取り繕っているようですね。どうやら母親の公爵夫人も息子を溺愛していて庇うので、余計に本人を増長させているようです」
ラーフ公爵が王家からの警告を真摯に受け止めなかった時点で、王家はイザベラの父トークス子爵に、イザベラとラーフ公爵令息との婚約の“白紙解消”を認めた。
即ち、最初から婚約の事実がなかったことになる。
詳しい話し合いは後日、王家仲介のもと当事者間で行われることになる。
婚約の際、婚前契約書に盛り込まれていた種々の契約も白紙となるだろう。
婚約するからこそラーフ公爵家から優遇税制を利用して融資を受けていたトークス子爵家だった。だが、優遇税制を受けられる前提条件だったイザベラとジオライドの婚約が無くなるため、正規の税率で計算しなおした支援金への税金を国に支払わねばならない。
支援金そのものも、婚約中に受けた全額をラーフ公爵家に返金することになるだろう。
だがこの場合、ラーフ公爵家はトークス子爵家へ、イザベラを侮辱・虐待し追い詰めたことの責任を問われ、慰謝料や賠償金の支払いが発生する。
相殺とはいかずとも、トークス子爵家側に有利な条件で手打ちとなることが予想された。
幸い、トークス子爵がラーフ公爵から融資を受けざるを得なかった理由は解決しつつある。
大災害で甚大な被害を受けていたトークス子爵領は、災害前の八割まで復興を見せている。
以前と同じようにとは行かないが、領内の税収も着実に回復していた。
さて、そろそろジオライド本人にも最後通告を行うべきだろう。
その役目は、完全な第三者としてヨシュアが請け負った。
学期末テストの最終日、ヨシュアは帰宅しようとしていたラーフ公爵令息ジオライドを馬車留めへ向かう途中の中庭で待ち伏せして、声をかけ引き留めた。
「ラーフ公爵令息ジオライド君。オレはリースト伯爵ヨシュア。少し話があるんだが、いいかな」
「ん? お前はA組の……話とは何だ?」
ジオライドと取り巻きたち二人が立ち止まる。
交友関係にない学園の有名人に声をかけられ、訝しそうな様子だ。
ヨシュアは彼らを中庭の木陰、周囲から見えにくいところへ誘導した。
(うっわ、ヨシュア先輩、敬語なし!)
(そりゃ、いくら爵位が上の家の奴だからって、敬意は持てねえだろ、ジオライドの野郎じゃ)
彼らの様子を、離れたところからカズン、ライル、グレン、そして生徒会長のユーグレン王子が窺っている。
ちなみに、ヨシュアの態度は相手によって明確に使い分けられている。
自分より上位の者や、その者にとっても目上の者には丁重に。カズンやその父母、ユーグレン王子、学園の教師や講師たちへは基本的に敬語で話す。親しければ多少砕けた態度になるが、それでも丁寧語は崩さない。
ヨシュアの場合、相手の爵位や身分で差別しない方針の持ち主だったが、一度でも品位の劣る者と見なした者への態度はとことん冷たかった。
あからさまに見下した言動にこそならないが、身近にいる者たちにとってその差は明確だった。
「君に忠告に来た。トークス子爵令嬢イザベラへの態度を改め、関係の修復に努めるよう勧める」
「は?」
「聞こえなかったのか? イザベラ嬢にこれまでの暴挙を謝罪して、関係を修復するんだ」
ジオライドの青い目が不快そうに歪められる。
「意味がわからん。麗しのリースト伯爵が、何であの女の肩を持つ?」
「忠告を聞く気はなさそうだな」
ヨシュアの体表を群青色の魔力が覆った次の瞬間。
ノーモーションで金剛石の魔法剣が無数に宙に創り出されて、ジオライドたちの首や腹など急所に切っ先が向いた。
「なッ、何をするッ」
恐怖で動けず冷や汗を流すジオライドたち。
ヨシュアはおもむろにジオライドの顎に指先をかけ、じっとその瞳を覗き込んだ。
少しだけヨシュアの方が背が低いため、相手を見上げるような姿勢になる。
ヨシュアの美貌で無表情を作ると、大抵の人間には恐怖を与える。その効果をヨシュアはよく知っていた。
長い睫毛に彩られた銀色の花の咲いたアースアイは見る者の心を蕩けさせるほど美しいが、今のジオライドにそれを鑑賞するほどの余裕はないだろう。
「君はどこまで貴族の名を穢せば気が済むのかな? ラーフ公爵も愚かな息子を持って気の毒なことだ」
「なッ、伯爵家の分際で、次期公爵の私に何だその口の聞き方は!」
(あ。ヤバくないですか、あれ?)
(……社交の場で同じことを言う者がいたら、国王陛下から叱責されるだろうな)
ユーグレンが眉間に皺を寄せてコメントしていると、案の定ヨシュア本人も突っ込みを入れていた。
「へえ。そういうこと言うのか。オレはとっくに父の跡を継いで現役の伯爵家当主だけど、君はまだ一貴族の息子に過ぎないだろう? 実際、公爵位を継げるかもわからない。君こそ口の聞き方に気をつけたほうがいい」
(そうなんだよなァ。高位貴族の息子でも、現役のご当代様相手だと立場低くなること多いよな)
(爵位を持った当主の方が、爵位は下でも使える権力や財力が大きいからな。ヨシュアの場合はリースト伯爵家自体が伯爵家の中でも中堅どころだし、魔法の大家の家で、本人は希少な竜殺しの称号持ち。こう言ってはなんだが、王子の私ですら軽視できる存在ではないぞ、ヨシュアは)
惚れた弱みの分を差し引いても、アケロニア王国内における要人の一人という認識のユーグレンだった。
外野が軽口叩いている間にも、ヨシュアはジオライドを追い詰めている。
顎にかかった指先に力が入る。
少しでも動けば魔法剣が刺さるジオライドたちは動けない。
「君、イザベラ嬢にテストのカンニング協力を強要してたね。今の君は、C組に居続けるだけの実力もないんだろう?」
「なっ、なぜそれを!?」
「……少し前に、中庭で君たちのやりとりを見た。あんな人目につくところで、よくやるものだと思ったよ」
(まったくだ。勉学に励む同級生たちの努力を何だと思っているのか)
(でもカンニングってどうやらせるつもりだったんだ? イザベラとあの野郎、教室じゃ席離れてるぜ?)
(テスト用紙に記入する名前を、互いに交換するよう強要していたらしい)
(うっわ、ほんとクズ野郎)
それだとイザベラのテスト成績が下がるわけだが、ジオライドにとってはどうでもいいのだろう。
とカズンたちがひそひそ話をしている間に、ヨシュアはすぐにジオライドたちを解放したようだった。
「忠告はした。賢明に振る舞うことを期待しているよ。ラーフ公爵令息ジオライド君」
泡を食って逃げ出したジオライドたちを尻目に、悠々と微笑を浮かべてヨシュアがカズンたちの元へ戻ってきた。
「一先ず脅しをかけておきました。傲慢なお貴族様っぽくできてました?」
「バッチリだったぞヨシュア!」
親指をビシッと立てて笑顔のカズンと、格好良かったと興奮するグレン。
「しっかりゴーマンかましてました、鳥肌モノの名演技でしたよヨシュア先輩!」
「いやあ、照れるなあ」
普段のヨシュアはマイペースで、自分の親しい者たち以外は基本どうでもいいというスタンスだ。
だから、自分の身分や称号を笠に着て、他者に圧力をかけることなど滅多にない。
ヨシュアと対したジオライドの態度から、彼は公爵家の看板の下にいるだけの子供ということがわかる。
今まで甘やかされて増長していただけに、本物の実力者たるヨシュアの脅しはそれなりに効いたことだろう。
「ヨシュアが……尊い……格好、よかった……っ」
同じく事態を見守っていたユーグレンは、ヨシュアの珍しい傲慢な姿に腰砕けになっている。
彼の場合、ヨシュアの言動は全肯定する派なのだろうが。
「うちのカレンが言ってましたよ、ユーグレン殿下みたいになる人を“限界オタク”っていうらしいです」
「意味は?」
「崇拝対象が尊過ぎてもう無理だって自分の限界を超えたとき、語彙が崩壊して痛々しく見える状態だそうです」
「まんまだな」
「ああ」
「そこまで想ってもらえるなんて光栄です。ねえ、ユーグレン殿下?」
にこ、と麗しの顔に満面の笑みを浮かべてヨシュアはユーグレンにウインクした。
ああああ、と悶えて崩れ落ちたユーグレン。後ろに控えていた護衛のローレンツはもはや諦めたような顔つきで、助け起こしもしない。
ヨシュアは次いで反対側に顔を向けた。
「オレにご褒美下さいますか? カズン様」
「おまえが望むなら、喜んで」
(よし。奮発して今度、ガスター菓子店のアフタヌーンティーを奢ってやろう!)
とりあえず幼馴染みを盛大にハグしておいた。
「……で、これであのジオライドって奴、何とかなるんですか?」
結末を知りたいからと今回もカズンたちに付き合っていたグレンの疑問に、いいや、とカズンは首を振った。
「無理だろうな。あの男はとっくに詰んでいる」
「ラーフ公爵家、先行き暗いですよね。ははは、気の毒だなあ」
ラーフ公爵家の本家は、嫡男はジオライド一人のみだ。その一人息子が破滅するなら、その家はどうなるだろうか。
「まあ、落ち目まっしぐらなのは確かだよな」
「……誰か、ジオライドのステータスを知っているか?」
ふと、カズンが訊ねるが、誰も知らなかった。
「おおよその予想は付くが。知性が低い」
「そうだな、ユーグレン。僕は更に、魔力も低いのではないかと思う」
恐らくは平均値5以下ではないか。先ほど、ヨシュアの魔法剣にまったく抵抗できていなかったところからして。
「彼に“力”があれば、恐らく既にイザベラ嬢は純潔を散らされ、新たな高位貴族の婚約者とすげ替えて、とっくに学園の支配者として君臨していただろう」
「我儘に振る舞って許されていたところから、幸運値はそこそこ高かったのかも」
難なくテスト期間も終わり、明日は結果発表と一学期最後の行事として全校生徒参加のお茶会がある。
翌日の明後日から夏休みに入るから、ジオライドがイザベラに何か仕掛けるとしたら明日中のはずだった。
一同、明日は早めに登校して一度生徒会室に集まり、情報交換と密な連絡をし合うことを確認して、解散するのだった。