うちのクラスの学級委員長、王弟殿下なんですよ~王弟カズンの冒険前夜

 ドマ伯爵令息ナイサーのその後は、想定外の展開を見せることになった。

 ホーライル侯爵家から盗んだペーパーウェイトを売り飛ばそうとしたナイサーは、さすがに無罪放免とはいかなかった。

 父親のドマ伯爵も、自分の息子がホーライル侯爵家の家宝を盗み、証拠も揃えられては反論できない。

 伯爵はナイサーを学園からも退学させて領地に閉じ込めることを決めた。
 伯爵家からも除籍したがったそうだが、罪人を安易に放逐してはまた犯罪を犯しかねないため、国側からドマ伯爵家で責任を持って監視し続けるよう命令を下した。

 被害者として多大な迷惑をかけたシルドット侯爵家、ホーライル侯爵家、ブルー男爵家には、慰謝料と賠償金を支払うことで手打ちとした。
 ドマ伯爵家は裕福な家として知られていたが、なかなか痛い出費だったのではないか。後日、国内のオークションではドマ伯爵家の収蔵する宝飾品がいくつも出品されていたぐらいだ。

 そのナイサー本人は貴族牢に収監されていたが、本格的な尋問が始まる前に姿を消した。
 牢の中に大量の血痕が残されていたことから、生存は絶望視されている。
 ナイサーの被害者は、今回の三家だけでなく他にも複数いることが確認されている。その被害者や関係者による怨恨の線が疑われた。

 だが、それならなぜ、ナイサー本人の死体まで運び去ったのか?




 グレンのブルー男爵家、ライルのホーライル侯爵家、ロザマリアのシルドット侯爵家。
 この三家が巻き込まれた事件は、多大な謎と多少のしこりを残しつつも解決した。

 ただし、ライルにだけ、不名誉な傷が残ってしまったが。

「ううっ、どうして俺がナイサーにケツ掘られたことになってんだよォ、意味わかんねぇんだけどッ」

 放課後、カフェ代わりの食堂でカズンがヨシュアとお茶をしながら談笑していたところに、ライルがやって来てそう嘆いた。


『傷物なのはロザマリアじゃなくて俺のほうだ!』


 ドマ伯爵令息ナイサーを拘束したとき、相手の勘違いを正そうと叫んだライルの言葉が、誤解を孕んで曲がって伝わってしまったらしい。

 曰く、ホーライル侯爵令息ライルがシルドット侯爵令嬢ロザマリアと婚約破棄することになったのは、ライルがナイサーにその身を汚されたことが原因である、と。

 実際はグレンが化けた女生徒アナ・ペイルに唆されて行った婚約破棄だったはずが、噂からは事実が見事にすっぽり抜け落ちている。

 3年生たちの間ではすっかり誤解が広まっている。
 噂を強く否定したいライルだったが、ライルが噂の矢面に立つことで、もう一人の被害者、シルドット侯爵令嬢のロザマリアの風除けとなっている自覚があるため、あえて言葉を濁すに留めていた。

 で、その鬱憤がカズンたちの顔を見たら一気に吹き出してきた、と。

「汚されたって何なんだ、俺はどこもかしこも新品のピカピカだっての!」
「ははは、踏んだり蹴ったりだな、おまえも」
「笑ってねぇで慰めてくれ、カズン~ッ」

 ロザマリアとの婚約破棄事件といい、すっかり『やらかし令息』と見られているライルだ。

 ちなみに、さすがに今回の件は国王テオドロスの耳まで届いた。
 諸悪の根源こそドマ伯爵令息ナイサーだが、経緯を見ればホーライル侯爵が適切に対応すればいくつかの問題は事前に防げていたはずだ。

 ホーライル侯爵は騎士団副団長の報酬を三ヶ月減俸……となるところを、ナイサーの行方を引き続き追うことで失態を挽回せよと命じられることとなった。



「ブルー男爵家の皆様とは、その後どうなりましたか。ライル様」

 優雅な手付きで食堂のマグカップを持ちながら、ヨシュアが訊ねた。

「ああ、それな。ブルー男爵家側からは、このままホーライル侯爵家の寄り子でいさせてくれって申し出があったぜ。やっぱ、商会持ってるとナイサーみたいなタチの悪い奴らに絡まれることも多いしさ」
「ホーライル侯爵家は武人の家系だものな。護衛などで手を借りたいのだろう」
「そういうこと。見返りで、ブルー商会の取り扱ってる魔石や魔導具を融通してもらうってことで、話がついた。……でさ、そんなことより!」

 テーブルの上に乗り出してきたライルの、茶色の瞳が輝いている。

「あいつ、グレンの母親違いの妹さんってのが、マジでグレンそっくりでさ! 超可憐な美少女で、名前もカレンちゃんだあっ!」

「「………………」」

 カズンはヨシュアと顔を見合わせた。

「おまえ。“アナ・ペイル”であれだけ痛い目を見たのに、懲りてないな?」
「いやいや、グレンとカレンちゃんは別だろ? 性別からして違うし」

 先日の慰労会の後、改めてブルー男爵家が家族揃って謝礼のためホーライル侯爵邸を訪れた際、グレンの妹とも顔を合わせたらしい。
 ブルー男爵令嬢カレンは、異母兄グレンの一つ年下で、グレンより更に小柄で華奢な美少女だったという。

「………………」

 はむ、とブルーベリージャムとクロテッドクリームをのせたお茶請けのスコーンを囓りながら、カズンはライルの垂れ流すブルー男爵令嬢カレンへの讃辞を聞き流していた。

(ううむ、カレン嬢の正体をいつライルにバラせば良いものか)

 ブルー男爵一家はホーライル侯爵家だけでなく、関係者だったカズンのアルトレイ女大公家へも訪問している。
 一通り型どおりの謝辞と謝礼を受けた後、ブルー男爵夫妻が父ヴァシレウスや母セシリアと話が盛り上がっていたので、カズンはグレンとカレンの兄妹を連れて自室で雑談しながら両親たちの話が終わるのを待っていた。

(まさかカレン嬢が転生者だったとはなあ。)

 今年の新入生だったグレンの一つ年下という若年でありながら、ブルー男爵令嬢カレンは既に現役の魔導具師として活躍していた。

 ブルー商会自体が魔導具を取り扱うこともあり、幼い頃から魔導具に親しんでいるうちに、自分が生まれ変わる前の人生を思い出したのだという。

(しかも前世はガチのオタク、やや腐り気味。男の娘系の作品好き。実の兄グレンが女装してライルを誘惑したと聞いて、大喜びだったそうだ………………だなんて言えるかっ)

 自然に露呈するまで何も口出しするまい。
 そう決意して、残りのスコーンを咀嚼するカズンなのだった。

 ドマ伯爵令息ナイサーの事件の後。
 恫喝被害に遭っていたピンクブロンドの髪と水色の瞳を持つ美少年、ブルー男爵令息グレンは、学園でカズンたち世話になった上級生たちと昼食を取る機会が多くなった。

 ちょうど今回は、同じクラスのカズンとヨシュア、それに他クラスの友人ライルが合流し、更にちゃっかりヨシュア目当てのユーグレン王子まで加わってのランチタイムである。

「うわーカズン先輩だけでなく王子様まで一緒とか、豪華なメンバーですね!」

 王族に高位貴族、称号持ち有名人と、現在の学園での有名人勢揃いだった。
 自然と食堂内の視線が集まるが、こういうのは皆慣れっこだ。

 グレン本人は1年生だが、ナイサーのような柄の悪い生徒に絡まれていたせいで、クラスメイトや同学年の生徒たちとは、少し距離ができて遠巻きにされてしまっている。
 変な噂が消えるまでは、学園の有名人でもあるカズンらと一緒にいさせてほしいとのことだ。噂で噂を薄める戦術らしい。

 とはいえグレンは食堂に来てもスープや飲み物を頼むだけで、昼食は持参したランチバスケットのサンドイッチを食べている。

「食堂のランチも美味しいけど、バターとチーズはうちのが一番ですから」

 グレンのブルー男爵家は商会を王都で経営する他、王都郊外にささやかな領地を国から賜っている。
 そこでは主に乳牛の飼育を行っており、名産品はチーズとバターだ。

 小柄で華奢な体格の割にグレンは健啖家だ。その身体のどこに入るのかという量を食べる。

 バスケットの中身はスライスした大量のバゲットとバターの瓶、チーズ類、トマトなど生野菜いくつかとナイフと紙ナプキン、塩とオリーブオイルの小瓶だ。

 シンプル過ぎる昼食だったが、あまりにも旨そうに食べるものだから、カズンたちは誰もが目を奪われた。

「おや、気になります? 少し食べてみますか?」

 と分けてくれることになり、それぞれ少量ずついただくことにした。

 グレンはカウンターから皿を貰って来て、上に1センチほどにスライスしたバゲットを人数分並べた。
 そこに薄く輪切りにしたトマトを一枚ずつ。
 更に上に、これまたスライスした白い生チーズを載せ、小瓶から緑鮮やかなオリーブオイルをひと回し。
 最後に塩をパラリと降って完成だ。

「家ならハーブものせるとこですが、まあどうぞ。召し上がれ」

 まずは物品鑑定スキルを持つヨシュアが料理を鑑定した。
 毒物表記はない。カズンもユーグレン王子も、毒味は不要ということだ。
 頷いて見せたヨシュアを確認してから、一斉にバゲットに手を伸ばす。



 一口囓った瞬間、世界が変わった。

 何てことのない、朝に焼いただろうバゲット、赤く熟れたトマト、真っ白な生チーズ、オリーブオイルに少しの塩。
 すべてが渾然となって口の中で奏でるハーモニーの素晴らしさよ。

「うっま! 何だこれ、無茶苦茶うまッ」

 大きな一口で食べきったライルが叫ぶ。
 彼よりは品の良いカズン、ヨシュア、ユーグレンの三人はまだ半分残していたが、やはり同じように美味に悶えていた。

 口に入れてすぐ感じるのは、新鮮なトマトの甘みと酸味。そして僅かに感じるオリーブオイルの苦み。
 咀嚼していくと、白い生チーズことモッツァレラチーズのミルキーさと、引き締めるような塩が合わさってえもいわれぬ味わいとなって舌を悦ばせた。



 是非、屋敷や王宮まで配達して欲しいと頼む一同に、自領の名産品を気に入って貰えて誇らしげだったグレンは、だがすぐに残念そうな顔になった。

「喜んで! ……と言いたいところなのですが……。実はこの生チーズ、日持ちがしなくて、領地から王都まで運ぶのが困難なんです。今日は、うちの妹の発明品を利用しての輸送テストを兼ねて持ってきただけで」

 グレンの異母妹カレンはまだ十代半ばの転生者の発明家で魔導具師だ。
 ブルー男爵家の商会で受付の手伝いをしながら、生活に密着した魔導具開発に日々勤しんでいる。

 グレンは生チーズが入っていた口の広いガラス瓶をバスケットの中から持ち上げて、一同に見せた。
 白く濁った、チーズ作りのときにできる上澄み液の乳清ホエイが入った瓶は一見普通のガラス瓶だったが、蓋部分にぐるりと金属コイルが巻き付いている。

「触ってみてください。冷たいでしょう?」

 グレンが言うまま、瓶に触れてみる。確かに冷たい。

「これは氷魔術の応用だね。凍らない程度に冷やしてるのか。魔力源は……すごく小さいけど、ちゃんと魔石を組み込んでる。すごいね」

 魔法剣士として魔力使いに一家言あるヨシュアが、すぐに構造を看破した。

「ええ。ただ、魔石と金属コイルの接合部を見てください。ごく微量だけどミスリル銀を使ってて」
「えっ、ミスリル!?」

 ヨシュアだけではない、これにはカズンもライルもユーグレンも全員驚いた。

 ミスリル銀は、この世界において銀の上位物質とされているレア金属だ。
 カズンの前世である日本の価値でいうと、円環大陸共通の大金貨が20万円前後。その大金貨1枚でも1グラム買えないぐらい高価である。

「チーズ入れるだけの瓶にミスリル使うとか馬鹿だろ!」
「ですよねー。ボクもそう思います。でもそのミスリル銀のお陰で、こうして皆さん、美味しく生チーズ食べれたでしょ?」

 論破されてライルが詰まる。この後輩はとにかく口が良く回るのだ。
 あとライルからすると、以前のハニートラップ事件のとき(当時は相手が女生徒アナ・ペイルだと騙されていたとはいえ)少なからず可愛いと思っていた相手だけに、今でもちょっと弱い。いや、かなり弱い。

「なるほど、つまり生チーズ輸送のガラス瓶に使うミスリル銀が高価すぎて、王都での販売まで漕ぎ着けられないというわけか」
「そういうことです、ユーグレン殿下。現地のブルー男爵領でなら子供の握り拳一個分がせいぜい銅貨3枚(約300円)なのに、王都まで持ってくるとガラス瓶込みで大金貨1枚(約20万円)出しても足りないですから。全然採算取れないってやつです」

 ガラス瓶のガラス部分は魔術で強化することが可能だ。
 ということは、ガラス瓶のほうは問題なく再利用できるということである。

「ガラス瓶のほうを大きくして、一度に輸送できる量を増やせば、瓶の材料費の回収も早いのではないか?」

 素朴な疑問を口にしたカズンに、グレンは「甘い!」と斬って捨てた。
 鋭い突っ込みに、「あ、ああ……」とカズンはずり落ちそうになる黒縁眼鏡を押さえた。

「ガラス瓶のサイズを大きくすると、その分だけ蓋に使っているコイル部分も増えるの! 増えたコイルの長さ分だけ、魔石との接続部分に使うミスリル銀も増えるんだ!」

 そんなわけで、ミスリル銀をもっと大量に入手しない限り、生チーズを王都で販売することはできないそうだ。

 ちなみに、同じような冷却瓶なら魔法と魔術のあるこの国なら他で実用化されていてもおかしくなさそうなものだが、実はまだない。

 アケロニア王国の食料事情は、基本的に生産地で採れたものを生産地でそのまま消費する、いわゆる地産地消。生鮮食品は特にその傾向がある。
 王都以外で生産されたり獲ったりした食料品で王都まで流通しているものは、ある程度の期間、保存の利くものばかりだった。

「今のボクと妹の小遣いじゃ、ミスリル銀はなかなか購入できないし。この瓶に使ったミスリル銀は、父さんの礼装用のカフスをちょっとだけ削らせて貰ったやつなんだ。……妹が、こっそり」

 魔導具師の妹カレンがまた発明に使いたくて削りまくり、カフスが消失する前に調達したいのだそうだ。
 一同、次にブルー男爵に会ったときは、礼装の袖のカフスに注目してしまいそうだった。

「ブルー男爵領近くのダンジョンには、そこそこミスリル銀出るそうなんですけどね。うち、家の中で冒険者として戦えるの僕だけだから、ちょっと戦力的に心許なくて」

 発明家で魔導具師の妹カレンも魔力持ちではあるものの、才能は発明だけに割り振られてて戦闘力は低いそうだ。

「驚いたな。グレンは冒険者登録しているのか」
「はい。父さんが男爵家に引き取ってくれる前は、母さんが身体を壊してる期間が長かったので。冒険者ギルドには8歳から登録できますし」

 もちろん一番下のFランクからのスタートになるが、子供でも倒せる弱い魔物は多いし、小遣いの稼ぎやすい薬草集めのような低級クエストは常設されている。

「あと、そのミスリル銀の出るダンジョン、未成年だと入場規制があって。Dランクに上がるまでは、保護者役でBランク以上の冒険者の同伴が必要なんです。ボクの知り合い、Cランクまでしかいないから、それも困っちゃって」

 現在のグレンの冒険者ランクはE。一番下のFランクから一段階上がっているが、それからはブルー男爵家に迎えられて、あまり冒険者活動ができていないのだそうだ。

「そういうことなら、一つ案がある」

 しばらく黙って話を聞いていたユーグレンが、一同を見回した。

「この学園の教師の中には、冒険者から転職した方が数名おられたはずだ。教師になるぐらいだから冒険者ランクもそこそこ高いに違いない。どなたかに同伴を頼んでみてはどうだろう?」



「待て。Bランク以上の冒険者なら一人、思い当たる人がいる。僕のほうで話を通しておくから、一緒に連れて行ってくれ!」

 とカズンが張り切った顔になっている。
 黒縁眼鏡のレンズ越しでもわかるぐらい、黒い瞳が輝いていた。

「グレンが冒険者になっているなら、僕も冒険者登録は可能だよな?」
「カズン……冒険者、なりたいのかよ?」
「なりたいとも! うちは両親が過保護で、護身術を習うのも渋ってたぐらいだ。だが男なら冒険者! ダンジョン! 憧れぬわけがない」
「お、おう……なら俺も付き合うぜ。騎士の鍛錬とはまた別の修行ができそうだし」

 何やら想定しない流れになっている。

「ならオレもお供します。ミスリル銀やダンジョン産のドロップ品は魔法や魔術用の素材になりますしね」

 同行を名乗り出たライルとヨシュアに、自分も行きたそうな顔になるユーグレンだったが、さすがに次期王太子の自分には祖父王の許可が下りないだろう。

「皆、怪我をしないようにな。一応、学園側にあらかじめ報告しておくといい。冒険者活動で手持ちのスキル練度の上がり具合によっては、単位として認められるものもあるからな」

 生徒会長らしく優等生なアドバイスをするに留めた。
 ユーグレンの後ろのほうで控えていた護衛を兼ねた補佐官候補の生徒が、ホッと胸を撫で下ろしている。

「やった! じゃあ、カズン先輩の冒険者の当てに話がついたら、連絡くださいね!」

 残りの昼食を腹に詰め込んで、バスケット片手にグレンは1年生の教室へ戻っていった。



「ダンジョンか……皆、装備は万全にして行くのだぞ。特にカズン、お前が怪我をするとお祖父様がお怒りになる。防具はランクの高いもので固めておけ」

 ユーグレンが本気の顔で忠告してきた。
 年の離れた弟カズンを、現国王テオドロスは溺愛している。下手すると孫のユーグレンより甘い。多分、カズンのほうがユーグレンより生まれたのが後だからだろう。
 下手に怪我でもしようものなら、王宮に軟禁するぐらいは平気でやらかす。

「ブルー男爵領近くのダンジョンでミスリル銀が出るところってえと……ミスリルスライムの出るとこか。第4号ダンジョンだっけ」
「ミスリルスライムかあ。硬そうですねえ」

 金剛石の魔法剣の使い手ヨシュアが、のほほんと呟いている。
 自分の創り出す剣でミスリルの皮膚を持つスライムが斬れるかどうか考えているのだろう。

「ふふ……ようやく自分専用の武器や防具を揃えられる! ダンジョン潜りの口実をくれたグレンには感謝せねばな!」

 拳を握り締めて歓喜に震えるカズン。
 そんな彼を見て不思議そうな顔をするライル。
 事情を知るヨシュアとユーグレンは苦笑いしている。

「カズンはヴァシレウス様が80のお歳のときの子供でな。数多の妃妾を娶っても王女と王子ひとりずつしか恵まれなかったヴァシレウス様が、晩年に得た末っ子ということでそれはもう大事に大事に育てられた」

 産まれてからずっと王宮の離宮で、掌中の珠の如く愛でられてきた。
 どのくらい大切にされてきたかというと、同い年の王族であるユーグレンとも赤ん坊の頃は会わせなかったぐらいで、初めて会う4歳まで離宮から一歩も出さなかったのだから徹底している。

「僕は生まれ持った魔力が少なかったからな。剣や護身術も、危ないからといってなかなか訓練させてもらえなかった。母がアルトレイ女大公に叙爵されて離宮を出て今の屋敷に移ってきてから、ようやくバックラーを作る訓練も認めてもらえたぐらいで」
「まあ、お前は王族だもんな。自分を鍛えるより、外出るときは護衛付けたほうが早いもんな」

 自分の身を守れる程度の護身術と、防御術としての盾剣バックラーを使いこなせるようになったからこそ、王族であっても比較的カズンは自由に動けている。

 ただ、王都や学園内は比較的安全だが、さすがにそろそろ専属護衛を付けるという話は出ている。

 特に最近はドマ伯爵令息ナイサーのような悪漢も出てきているため、カズンの父母も本格的に考え始めているようだ。

 生チーズことモッツァレラチーズをゲットするべく、冷却瓶用のミスリル銀調達のため、カズンたちはグレンとダンジョンに潜ることになった。
 ダンジョンには冒険者登録しないと入れないので、まずは冒険者ギルドで先に登録することに。
 まずは全員、学園が休みの週末に朝一で現地のギルドに集合することとなった。

 利用するギルドはブルー男爵領支部だ。
 赤レンガ造りの三階建て建物で、冒険者ギルドは本部も支部も概ね同じ建物と設備を持つ。
 一階は受付と依頼掲示板、武器防具や備品など冒険者活動に必要な物品の売店、討伐品の売却・換金所、食堂がある。
 二階は会議室とギルド職員の仕事場と休憩所、三階はギルド長ら支部の責任者の執務室と倉庫だ。

 これから向かう第4号ダンジョンは、未成年が冒険者として活動する場合は、Dランクに上がるまでは冒険者ランクB以上の保護者最低一名が必要と決められている。

 そして現れた保護者がカズンの父ヴァシレウスで、ライルとグレンは顎を外しそうになるほど驚いた。
 ヨシュアは「ちょっと予想はしていました」と苦笑している。



 黒髪と黒目の大男が、白い綿シャツに冒険者らしい焦げ茶色の革ベストとブーツに身を包んで現れた瞬間、ギルド内は騒然とした。

 アケロニア王国の国民で、彼の姿を知らない者はいない。どんな小さな集落にも業績を讃える絵姿があるし、子供たちは学校でその軌跡を一から習う。

 カズンやユーグレン王子とよく似たその人物こそ、偉大なる大王の称号を持つ先王ヴァシレウス・アケロニアその人だった。
 2メートル近い巨躯に、緩い癖のある黒髪と短い顎髭には白髪が混じるが、年を感じさせない黒い瞳は力強く輝いている。

「何で一番の大物連れてきちゃうんですか! おうちの冒険者証持ちの使用人とかで良かったのに!」

 グレンがピンクブロンドの髪を掻きむしって頭を抱えている。
 ヴァシレウス曰く、

「うちの妻に、『旦那様、あたくしも美味しい生チーズ食べたいですわあ』とおねだりされてね。男ならやるしかなかろう」
「アッ、ハイ、愛妻家で有名でしたねヴァシレウス様……」

 ハッと我に返って、グレンは慌ててその場で膝を折った。

「し、失礼しました、偉大なるヴァシレウス大王にご挨拶申し上げます。先日ご自宅に伺った際はありがとうございました。改めまして、ブルー男爵家のグレンと申します。今日はよろしくお願い致します!」

 学園で習う略式の『王侯貴族への挨拶』だ。ぎこちないが、カズンたちの目から見て一応及第点は出せる。

「ははは、そんなに畏まらないでいいぞ、グレン君。王宮で会ったときだけしっかりやってくれれば良いのだ。今日の私はカズンの父親で、君たちの保護者だからね。よろしく頼むよ」
「はいっ。カズン先輩のパパさん、よろしくお願いします!」

 先王陛下だと思うから緊張するのだ。早々にグレンは彼を先輩の親父さんとして対応すると決めた。
 切り替えの早い後輩にヨシュアは感心し、ライルは俺もそれで行く! と追随するのだった。



 ダンジョンに向かう前に、冒険者ギルドの若い女性職員から冒険者証の説明を受けることになった。
 身分の高い者は魔力や攻撃力も高いことが多いので、魔力測定と過去の実績を加味して最初のランクが決定される。

「まず最初に、冒険者に身分は不問なので、私たち冒険者ギルドの職員も皆様をお名前でお呼びすることを、あらかじめご了承ください」

 一同、頷く。ギルド職員は冒険者をすべて、敬称は“さん”付けのみで呼ぶ。

 だがヴァシレウスに対してだけは、やはり大きな躊躇いと葛藤があるようだ。
 すると受付カウンターの奥から様子を窺っていたギルドの上司がやってきて、受付職員嬢に何やら耳打ちした。

「そ、それではヴァシレウス様は先王陛下として偉大な業績に敬意を表し、ヴァシレウス様とお呼び致します! 上の許可が出ましたので!」

 ホッとした表情になっている受付嬢に、グレンがわかる! としきりに頷いている。



 冒険者志望者の初期ランクは、冒険者ギルドが持つステータス判定用の魔導具を用いることで決定される。

 カズンとライルはランクEだった。一番下のFより一段階上なのは、王侯貴族で平民と比べれば魔力が多いからだ。ただし、実戦経験がないためEランクが適切と判断された。

 グレンは間もなくDランクのEランク。彼は以前から冒険者活動しているので、今回は特にステータス判定は行わない。

 ヨシュアはC。これはさすがに魔力量の多いことで知られる現役のリースト伯爵の面目躍如といったところだろう。

 そして、何と王子時代に冒険者登録だけしていたヴァシレウスは、今回改めてステータス判定したところAランクだった。
 定期的に更新していたようで、失効することもなく現在進行形で有効な冒険者証だった。

「お父様が王子だった頃って何年前です?」
「即位したのが十代後半だから、ざっと八十年前だな。私も学園生だったときに同級生たちと冒険者登録したのさ。懐かしいな」

 豊かな魔力の持ち主で外見も六十代ほどで若々しいが、ヴァシレウスは九十代後半の高齢者だ。
 この国の人間の平均寿命は65~70歳前後。
 当時一緒に冒険者登録した仲間たちは、ほとんどが故人となっている。



 冒険者証は魔導具の一種だ。本人の魔力を流せば保有スキルや適性スキルと分野、称号なども表示される。

 ライルは得意な剣の保有スキルがあるし、ヨシュアはスキルに魔法剣士、称号に竜殺しがある。冒険者の初期ランクがCランク評価だったのはこの辺りが理由だろう。

 グレンは探索や短剣術、弓のスキル持ちだ。適正スキルに魅了があったのには一同笑ってしまった。
 どうも以前、ライルがグレン扮する可憐な女生徒アナ・ペイルの罠に嵌まったのは、未発達の魅了スキルの影響もあったらしい。

 カズンは王族の血が持つ各種の基本スキルの他、適性スキルに『徒手空拳』があった。刃物の武器を持たず、素手で戦うスキルだ。
 防具では盾剣バックラーを左手に出せるが、基本は手甲を拳に嵌めての肉弾戦向きらしい。
 一応剣は持って来ていたが、ギルド内の売店で鉄の板が入った手甲を買い求めて装備することにした。

 パーティーのリーダーは、ヴァシレウスは保護者枠のため遠慮した。
 経験を考慮して、学生組の中の中で最も冒険者キャリアのあるグレンに決まった。



「では行こうか」
「えっ、ちょっとお父様!?」

 ダンジョンに入るなり、カズンを子供のように抱き上げるヴァシレウスに一同は呆気に取られた。
 だが、すぐに気を取り直したヨシュアに指を指されて爆笑される。

「あはは、よくそうやって抱っこされてましたよね、カズン様。懐かしいなあ」

 思春期に入る頃まで、ずっとヴァシレウスに抱かれて持ち運ばれていたカズン。
 幼馴染みのヨシュアには慣れっこの光景だ。

「お父様! 僕はもう子供じゃありません、降ろしてください!」
「ははは、何だもう親離れかカズン? もう少し可愛い僕ちゃんでいてほしいのだが」
「もう! いつまでも甘やかさないで!」

 賑やかに騒いでいるパーティーメンバーたちを遠巻きにして、他の冒険者たちはどんどんダンジョン内部へ入場している。

「お二人とも、早く行きましょう。……うわあっ!?」

 軽くたしなめようとしたヨシュアも、気づいたらヴァシレウスのもう片方の腕で抱き上げられた。

「えっ、ちょっとヴァシレウス様!? まさかこのままダンジョン進むつもりですか!?」
「それでも構わんぞ、ヨシュア。相変わらず細っこいな、きちんと毎食食べているのかい?」
「細くないです、オレは平均的な体格です! まだまだ身長も伸びてるし体重も筋肉も増えてます! あと食事だって取ってます! 

 ひとしきり騒いだ後で、ようやくカズンもヨシュアも解放された。

「ダンジョン進む前にがくっと疲れました……」
「うちの父が……すまない……」

 子供たちの引率で張り切っているヴァシレウスが止まらない。

 ちなみに、グレンとライルは盛り上がってる三人を置いて、早々に先に進んでしまっている。
 まだ低層階で危険な魔物も出ないため、先行して様子を探ってくれているようだ。

 また抱え上げられては堪らないと、ヨシュアは先行していたグレンやライルたちの元へ逃げるように行ってしまった。

 後から付いていっているカズンは、後方を守りながら歩いているヴァシレウスの横で、戦略的な指導を受けていた。

「ヨシュアのリースト伯爵家は能力的に偏りの強い一族だ。特に当主となる者はな。個性的な特性をできるだけ生かしてやると良い」

 確かに、魔法剣士だから魔法剣を創り攻撃することは得意だが、魔力による身体強化がないと守りが弱くなる。
 できるだけ本人が適切な魔力を使えるシチュエーションを作ってやるといいのだろう。

「ホーライル侯爵家の男子はとにかく剣が強い。一度ある段階まで達するとそこから退化することはないから、ひたすら鍛えさせるのが良い」

 ヴァシレウスはライルの父や祖父、曾祖父とは面識がある。皆、剣の強さにおいては他者を圧倒する力量の持ち主だったという。

「まあ、色気に弱いのは血かな。あまり言うことを聞かぬ場合は、拳で黙らせることだ」

 ライルの亡き曾祖父は当時の騎士団長だったそうだが、ヴァシレウスの知る範囲でも幾度かハニートラップにかかって痛い目を見たことがあるらしい。
 ライルの場合、親しく付き合うようになってみると、三枚目な外見や言動からは想像できないほど好青年なのだが、たまに油断したときに限ってトラブルに巻き込まれる体質だった。

「グレン君みたいなタイプは臨機応変に動けるから、自由に任せるのがいいだろうな。だが無法の振る舞いになりがちだから、上手く軌道修正してやるべきだ」

 ドマ伯爵令息ナイサーの事件での彼の立ち回りを見ていれば、それはよくわかる。
 特に、自分の罪を認めながらもホーライル侯爵を逆に脅した件などに、彼の気質がよく表れているといえた。



 そんな助言を聞きながら、カズンはといえば嬉しさと幸福感いっぱいで大柄な父の隣を歩いていた。

 子供の頃から、剣を習いたいといえば危ないから駄目だと速攻却下され、武術を習いたいと訴えれば痣でも作ったらどうする! と叱られた。
 万事そんな感じだったので、やらせてくれないなら家出する! と王宮の兄王やヨシュアの叔父様の元に避難してやっと許可が降りた。

(僕だって男なんだから身を守る術ぐらい身につけたい! と訴え続けて数年、ようやく身体強化と盾剣バックラーの作り方を教えてもらえたのだよなあ)

 その過保護な父親と同じ、白い綿シャツと焦げ茶の革ベスト、ブーツといったお揃いの冒険者ルックで一緒にダンジョン攻略できる日が来ようとは。
 王都の武具屋をアルトレイ女大公家まで呼び寄せて、アケロニア王家とアルトレイ女大公家、二つの家紋を入れたお揃いなのだった。



 この第4号ダンジョンはミスリルスライムが出ることで知られている。

 ミスリルスライムは粘度のある水滴が落ちたような、かすかに潰れた球形の魔物だ。大きさはちょうど遊具に使うボール、平均的な成人男性の頭くらいのサイズだ。これはスライム属の魔物に共通する形状・大きさだった。
 そして表皮にミスリル銀を含み、倒した後のドロップ品としてミスリル銀が出る。
 ちなみにミスリルスライムの遭遇率は0.8%前後と言われている。

 そして、何とこのミスリルスライム、ヨシュアの魔法剣でも歯が立たなかった。

「おのれ、ダイヤモンドがミスリルに負ける道理はない!」

 全力で金剛石の魔法剣を無数に創り出しスライムに投げつけていくが、カンカンッと甲高い音をたてて弾かれてしまう。

「うっわ、さすがミスリル……かってぇなあ」
「うむ。全然歯が立たない。これ無理ゲー」
「ちょっと先輩たち! なに早々に諦めてんですか、気合い入れてくださいようっ!」

 ライルが持参した鉄剣はもちろん、カズンの手甲やグレンの短剣や弓矢もまるで歯が立たなかった。

 ちなみに今回の保護者ヴァシレウスは、子供たちの後ろで見守り役に徹していた。
 その大きな手の中には、今回潜っている第4号ダンジョンの簡易説明書の冊子がある。

「ふーむ。ミスリルスライムはミスリル銀を含む表皮に魔力が通っていて、外界からの物理攻撃に強い、か。狙うなら一撃必殺であるな」

 ぱたんと冊子を閉じて、懐に仕舞い込む。

 そこでヴァシレウスが自分の盾剣バックラーを魔力で作り出す。
 バックラーとは、通常は短剣に小型の盾が装着された、攻守両方に対応させた武具だ。
 ところがヴァシレウスの作り出したバックラーは、剣部分は槍のように長く持ち手があり、盾部分は盾の形を留めながらも、側面がトンカチのような平たい木殺し形態になっている。

「え、あれってバックラーかよ!?」

 そう、バックラーとは名ばかりのメイスの亜種だ。そのままヴァシレウスはバックラーを大きく振りかぶって、ミスリルスライムの急所をぶっ叩く。
 金属と金属がぶつかる轟音の後で、プシュッと破裂音を出してミスリルスライムが消滅する。後には砂粒ほどのミスリル銀の粒が残った。

「えっ、これしか出ねえのかよミスリル!?」

 ライルが地面に落ちた光る銀色の砂粒を摘まんだ。
 ミスリルスライムは全身がミスリル銀の色をしている。てっきり、討伐すれば見た目通りの大きさや重量のミスリルが得られると思っていたライルは拍子抜けだった。

「全身ミスリルの塊に見えるけど、あくまでも表皮の一部にミスリルを含むってだけらしいぞ」

 父から受け取ったダンジョン説明書を確認するカズン。
 ミスリルのドロップ品は砂粒サイズで小さいため、見逃さないよう注意と書いてある。

 第4号ダンジョンは10層の比較的小規模のダンジョンだ。
 ギルドが認定する冒険者ランクCまで上がると、実力的に最後まで踏破できるレベルのダンジョンだった。
 ダンジョンの成り立ちは諸説あるが、内部構造や魔物の発生や外部からの引き寄せ、また特殊金属や鉱物などが採れることから、その土地における魔力の吹き溜まりの上に立てられた古代遺跡と言われている。
 8層まで行くと、ギルドが設置した休憩所がある。
 ここまででミスリルスライムは20匹以上討伐している。既に五時間以上、探索を続けている。ここで引き返すか、最後の10層まで向かって魔物のボスを倒すか。

「さて、どうするね?」
「まだ装備もほとんど傷ついてないですし、ポーション類も残ってます。余力があるので、せっかくだから下まで行ってみませんか」

 学生組の中で冒険者としてキャリアのあるグレンの意見を採用することにした。

 そして9層に入った途端、ダンジョン内部の雰囲気がガラリと変わった。
 明かりはあるが全体的に薄暗く、空気もどこか淀んでいる。
 何より8層までとの一番大きな違いは、通路に時折人骨が転がっているところだろうか。

「わわ……骨……」

 比較的弱く、カズンたち初心者でも容易に討伐できた魔物が多かった8層までと違い、9層からは強力な魔物が出始めるようだ。
 角持ちのウサギや猿など、力も強く身体も大きい個体が出る。
 だが注意していれば、冒険者初心者のカズンたちでも充分倒せる相手だった。

「……待て、止まれ!」

 回廊の曲がり角を曲がったところで、後ろからヴァシレウスが鋭く一同を制止した。
 何事かと咄嗟に立ち止まる。
 慌てて駆け寄ってきたヴァシレウスが、壁際にあった凹み側から離れるよう、子供たちを反対側に促した。
 そうして自分は凹みの内部を慎重に確認する。

 凹みの内部入口は大人が中腰で入れる程度の高さで、奥は意外と広く、高さは入口よりも上に広がっている。
 地面には焚き火の跡が炭になって残っている。
 だがヴァシレウスが反応したのは、そういった人間が利用した痕跡ではない。

「衣服だけが二人分……いや三人分か」

 凹み内部、中央にある焚き火の跡を囲むようにして、冒険者の衣装が散らばっている。
 余分な装備を捨てていった感じではない。まるで、衣装を着る中の人間だけが消えてしまったかのように衣装が落ちている。

「っ、探索はここまでだ! 外に出るぞ!」

 凹みの中から飛び出し、子供たちと一緒にできるだけ凹み部分から離れた。
 ひとまず辺りに魔物の気配がないことを確認してから、今回のパーティーリーダーのグレンを振り向く。

「グレン君。緊急事態だ。“戻り玉”を使ってくれるか」
「えっ。こんなとこで使っちゃうんですか? もったいない!」

 戻り玉は、簡易の転移魔術陣の一種だ。設定した特定の場所まで、瞬時に転移することができる。
 ただし、グレンも言うように非常に高価で、大金貨1枚(約20万円)と少しする。それだけ高価にも関わらず、一回限りの使い捨てというコストパフォーマンスの悪い魔導具だ。
 戻り玉を使ってしまうと、今回の討伐ドロップ品のミスリル銀と相殺したら利益が残らなくなるかもしれない。

 だがこのヴァシレウスの剣幕はただごとではない。グレンは自分の防具のポケットから戻り玉を取り出す。
 戻り玉はピンポン玉ぐらいの大きさの透明な魔石だ。内部に転移用の術式が組み込まれていて、術式の模様の上を魔力がかすかに光りながら巡っている。
 使用方法は簡単で、戻り玉本体を床にぶつけて破壊するか、単純にヒビを入れればそれで起動する。
 短剣の柄でヒビを入れようとして、グレンは躊躇った。

「や、やっぱり、歩いて戻りません?」

 大金貨1枚はやはり痛い。
 が、言い終わるか終わらないかのうちに、横から戻り玉に鉄剣の先が突き刺さった。

「緊急ってときにまごついてんじゃねえ! 死ぬぞ!」

 ライルが怒鳴り終わる前に、ダンジョン最寄りの冒険者ギルドまで転移で戻ってきた。



 冒険者ギルド、ブルー男爵領支部の受付横の転移陣の中に全員戻ってきた。

 無事転移を確認すると、ヴァシレウスはすぐに階段を駆け上がってギルドの支部長のもとへ向かった。
 何も説明されないまま残されたカズンたちは呆気に取られている。

「と、とりあえず、討伐の報告をしないとですね」

 すぐに我を取り戻したグレンが、パーティーリーダーとして受付で討伐報酬を報告し、メンバーの冒険者証に成果ポイントを反映してもらった。

 一応、第4号ダンジョンに関する簡単なクエストをいくつか受注していたので、討伐品を提出したことの報酬と冒険者ポイントの付与がある。
 今回はすべての討伐ポイントをパーティー全員で等分設定にしてある。

 それでもミスリルスライム十数匹はかなりの高ポイントとなり、グレンは見事Dランクに、カズンとライルはあと数回同じ実績を積めばEからDに上がるところまでポイントが溜まった。

 なお、初期ランクの高かったヨシュアとヴァシレウスはCとAのまま据え置きである。



 一段落ついて、ギルド内の食堂で飲み物を注文し休んでいると、ようやくヴァシレウスが戻ってきた。

「皆、済まないな。待たせた」
「お父様、いったい何があったのですか?」

 ダンジョン内での様子といい、ただごとではない。

「危険な……魔物みたいなものが出る可能性があったのだ。衣服だけが落ちていて、中身の人間がいなかっただろう?」
「ま、まさか、人間だけ食べちゃうような魔物が出るとかですか!?」

 この世界には、そのような危険極まりない魔物も、もちろん存在する。
 だが、今回潜ったアケロニア王国の第4号ダンジョンはそこまでランクの高い魔物は出ないはずだった。

「まだ確たることは言えないが、念のため第4号ダンジョンは調査が済むまで閉鎖されることになる。今回、多少でもミスリル銀を得られて良かったな」

 レア金属が出るダンジョンはそう多くはない。冒険者活動するだけならともかく、しばらくはミスリルスライム目的の探索はお預けになりそうだった。



 さて、お目当てのミスリル銀の成果はといえば。

「3.28g! 冷却ガラス瓶に使うミスリル銀は一個につき0.1g前後だから……よっし! ひとまず先輩たちのお家の分とカレンの研究材料の予備分ゲットできました!」

 おおー! と歓声が上がる。

「ついでに戻り玉の費用も充填できました……良かったあああ……っ」

 ギルド一階の換金所のレートを確認すると、ミスリル銀は1gあたり手数料込みで大金貨1枚(約20万円)と小金貨6枚(約6万円)だった。
 3.28gなら大金貨4枚と小銀貨2枚、銅貨8枚になる。
 とはいえ、今回の目的はダンジョンの討伐品やドロップ品を換金することではなく、獲得したミスリル銀そのものが目的だ。
 ひとまず、ミスリル銀以外の討伐報酬やドロップ品を換金すると、ちょうどそれが戻り玉の代金である大金貨1枚ほどになった。その金で新たに戻り玉を売店で買って補充し、残ったミスリル銀はすべて魔導具用の素材とすることにした。

「戻り玉の代金なら、使わせた私が支払おうか? グレン君」
「アッ、そうですか!? ……って、いえ……必要だから使ったんです。カズン先輩のパパさんが負担する必要はないですよー。ちゃんと今回の成果で補充できたからOKです!」

 戻り玉分の費用負担を申し出たヴァシレウスに、一瞬だけグレンはその少女のように愛らしい顔をニヤリとした、何か企んでいそうな笑顔になった。
 だがすぐにハッとしたように我に返ると、冒険者パーティーの利益配分に関する掟を思い出したようで、慌てて断りを入れた。

 それから一同はギルドを後にして、ブルー男爵家の本邸で一休みすることに。

 朝からダンジョンに潜っていて、ブルー男爵家に辿り着いたのは午後のお茶の時刻だった。
 着くなり、ヴァシレウスは出迎えてくれたブルー男爵に話があるからと、二人で別室へ行ってしまった。

 残ったカズンたちをお茶でもてなしてくれたのは、ブルー男爵と一緒に出迎えに出てくれていたグレンの妹カレンだ。

「カレン・ブルーです。今回は兄がお世話になりました。でもってミスリル銀ありがとーっ!!!」

 グレンと同じ甘い色合いのピンクブロンドの髪で、軽い癖のあるグレンと違って真っ直ぐの直毛のオカッパヘアー。瞳は鮮やかな水色。

 動きやすそうなカーキ色の上下繋ぎの作業服姿で何憚ることなく登場したこの小柄で華奢な少女こそ、グレンの異母妹、ブルー男爵令嬢カレンだ。

 繋ぎの作業着は、魔導具師としての開発スタイルなのだという。
 そして、何ともテンションが高い。

「本当なら父と母揃ってお出迎えしなきゃなんですけど、商会のほう留守にできないから母が残って、父とあたしが来たんです。よろしくね」

 異母兄のグレンとよく似た容姿だ。ピンクブロンドの髪色も同じなら、水色の瞳も同じ。
 可憐で愛らしい人形のような容姿だが、騙されてはいけない。
 彼女はカズンやライルと同じ異世界からの転生者で、人前で口に出せないディープなオタク趣味の持ち主なのだ。

 ブルー男爵家の本邸は、カズンの前世の日本人の感覚でいうと洋風建築の二階建ての洋館で、部屋数は客間などを入れて十数部屋あるかないかというところだろう。
 小規模とはいえ、活気のある商会を経営するブルー男爵家の領地にある本邸にしてはこぢんまりとした屋敷だ。
 だがグレンに言わせれば、その分、王都の商会本部とタウンハウスに力を入れているからだという。
 一同はその洋館の客間に通され、紅茶と菓子で休息を取らせてもらった。



 カレンはグレンから小瓶に入ったミスリル銀を受け取ると、あらかじめ客間に持ち込んであったガラス瓶が十数瓶入った木箱と魔導具の加工部品をカズンたちに見せた。

「さっそく魔導式冷却瓶を作ります。皆さん、今日このまま生チーズ持って帰るでしょ?」

 確認すると、カズンを筆頭に、皆大きく頷いて肯定を示した。
 先日、学園の食堂でグレンから生チーズを一切れ頂戴して以来、待ちに待ったのだ。手ぶらでは帰れない。

「うん、じゃあ一回につき何個ぐらい欲しい? 生チーズ一個のサイズはね、あたしの拳より一回り小さいぐらいかな。トマトと一緒に食べるなら、前菜として一個で二人分ぐらい。好きな人は一個でも全然余裕ですよ」
「何個入りの瓶まで作れるのだ? カレン嬢」
「理論上はいくつでも。でも、生チーズは保存液代わりのホエイを一緒に入れるから、大きな瓶にすると重くなっちゃうの。チーズもあまり詰めすぎると崩れちゃうから、一瓶あたり五個ぐらいがいいかな?」

 とカレンが言うので、いくつかサイズのあったガラス瓶のうち、1リットル容量のものを魔導具化してもらうことにした。

 カレンはその場で、テーブルの上の茶器を横に寄せ、瓶に魔力を通していく。
 魔導具作成に特化した彼女の魔力は細い線状だ。光る針金のように魔力を加工して、あらかじめ瓶の蓋に巻いておいた螺旋状の金属コイル内部に魔力を通す。

「そこで氷の魔石と、皆さんが獲ってきてくれたミスリル銀を、ちょちょいのちょいっと繋ぐわけですよー」

 小瓶から取り出したミスリル銀の粒に、魔力の針金でビーズ細工のように通していく。
 最後に、金属コイルと氷の魔石、ミスリル銀、カレンの魔力とすべてを連結し終わると、客室内の空気がキンッと引き締まるような変化を見せた。

「はい、出来上がり! 瓶に名前入れておきましょ、カズン様からどうぞ!」
「カズン・アルトレイ。生チーズ五個でよろしく」
「アルトレイ様、五個入りで承りましたー!」

 今度は魔力でレーザー刻印のように、配達先の家の名前を指先で刻んでいく。

「ヨシュア・リーストです。オレも五個でお願いできる?」
「はーい、リースト様も五個ね! 毎度あり!」

 最後はライルだが、何やら考え込んでいる。

「ライル・ホーライルだ。うううん……五個……いや、これっていくつまで入る? カレンちゃん」
「余裕を持たせるなら、やっぱり五個ですね。形が崩れないギリギリは七個までいけますよー」
「なら七個でよろしく! これ絶対うちの親父も好きなやつだと思うんだよなー」
「ははは、うちのチーズ美味しいですからね! 喜んでー!」

 この後は、ブルー男爵の好意で打ち上げの食事会を開いてくれるそうだ。王都に戻るのは、夕食をご馳走になってからになる。

 それまでは、カレンを交えてダンジョンでの探索エピソードや、魔導具の話などで盛り上がった。



 ブルー男爵令嬢カレンといえば、彼女も異世界からの転生者の一人だという。

「いやーこないだカズン様のおうちにお邪魔したときビックリですよ! この世界に転生者なんてあたしぐらいだと思ってたから、まさかの王弟様までお仲間とは思わなかったー!」
「カレンちゃん、俺、俺もだから、日本からの転生者!」
「ライル様もなの!? うっそ、いきなり転生者率高くない!?」

 カレンの前世もカズン、ライルと同じ日本にいた人物だったようだ。
 彼女の場合は、令和生まれの日本人で、沖縄の石垣島出身だったという。

「地元の公立小学校の教師だった母と、酪農家だった父と祖父母の元で育ちました。大家族で四人兄弟の一番上の長女でね。大家族だったので家計は苦しかったけど、特に不満のない生活だったかな」

 子供の頃から船ですぐ行ける台湾に遠足に行ったりしていたことから、学生時代は海外留学して、アルバイトしては世界中さまざまなところを回っていたという。

「あたしの前世、俗にリケ女ってやつでねー」
「リケ女って何だ?」
「理系女子。色々な科学法則を勉強してたの。こういう魔導具作るようになったのも、その影響かなって。

 カレンとして生まれ変わってから前世を思い出したのは、三歳くらいのときだという。
 まだ物心がついたぐらいの頃で、その頃は前世と今世の自分とがごっちゃになって随分混乱したようだ。
 特に、前世の世界では当たり前のようにあったものがなくて、よく癇癪を起こしていたらしい。

「ほら、テレビとかスマホとかないじゃないですか。好きなアニメも見れなければ、ゲームも遊べないわけで」
「わかる。わかりすぎて辛い」

 カズン的には、テレビはともかくスマホがないのはものすごく辛かった。
 この世界にも音声や画像を記録する魔道具はあるのだが、テレビやラジオのような放送技術までには発展していなかった。

 ちなみに同じ転生者のライルは、カズンより二世代ほど前の時代の人物で、スマホ自体がまだない時代に生きていた人物だった。なのでカズンのスマホ中毒感覚は理解できないと言われて落ち込んだ、なんてこともあった。

「あたしは特に、パソコンないのがきつくって。大学じゃ自分でOSのプログラム組まされてましたしね、パソコンやスマホもプログラムや筐体の設計やればできそうな気はしたんですけど……」

 そもそも、この世界では前世で当たり前のように使っていた電気に相当するものはすべて“魔力”だ。
 人間や動物、自然界などエネルギーと呼ばれるものの総称が魔力と呼ばれている。
 この世界では電気も魔力の一種になるだろう。

 そして、魔力を術式に導いて起動させる道具を魔導具と呼んでいる。

「この世界は、仕組み自体が前世とまったく違うんですよ。意図や目的が明確なら、大抵は魔法か魔術で何とかできちゃいますもんね。機械類も魔力で動かしますし」

 ガンガン機関銃のように喋っていくカレンに、魔力の少ないライルはあまりついていけていないようだが、カレンの可愛らしい容姿にデレデレになってうんうん頷いている。
 ヨシュアは魔導具師としてのカレンの所見が面白いようで、アースアイの瞳を輝かせて話に聞き入っている。

 カズンはといえば、彼女ならドマ伯爵令息ナイサーから襲われても案外自分で身を守れたのでは? と感じた。
 無骨なカーキの作業着姿だが、その上下繋ぎのファスナー金具部分には様々な魔石が埋め込まれている。
 耳元のコイル状の華奢な金色のピアスも、何らかの魔導具なのは間違いない。
 それに、冷却ガラス瓶にミスリル銀を組み込み、各人の名前を刻み込んだときの魔力の使い方といったら。

(あれだけ繊細で自由自在に魔力を使えるなら、身体強化したナイサーに押し倒されても腕の一本や二本、簡単に切り落とせる……よな?)

 だが、そうはいってもこの愛らしい容貌だ。母親が違う妹とはいえ、兄のグレンが心配して過保護になるのもわかる気がする。


 ともあれ、前世記憶と経験を駆使してカレンが発明品を生み出すようになってから、ブルー男爵家の業績が上向き始めた。
 いわゆる“生産チート”や“開発チート”だ。

 最初のヒット商品は花の香りの化粧水だ。
 王都近くとはいえ、郊外のブルー男爵領の冬は乾燥する。
 伝統的に保湿に使っていた精製バターの臭さに耐えかねたカレンが作ったのは、手作り化粧水だった。たまたま、家の薬箱の中に座薬用のグリセリンが入っていたのを見て閃いたものだ。
 グリセリンは多用途に使われる、多くは植物から作られた甘味のあるアルコールの一種で、座薬の他、心臓病の薬などにも使われている。
 グリセリンといえば保湿剤としても有名だ。

 領内の清水にグリセリンと、母親が大切に油と混ぜて使っていたヘアオイル用の薔薇の香油少々。
 もちろん、この世界にも化粧水はあるし、配合も似たり寄ったりだ。

 カレンの工夫はここからだ。化粧水の保存瓶に、今回作ったような冷却機能を付与して、季節を問わず長期保存を可能にした。
 暑い夏はもちろん、冬でも化粧水は冷たい方が肌への浸透が良い。
 冷却機能は氷の魔石を使う。その頃はまだミスリル銀を使わない、魔石中心の構造だった。
 中身の化粧水より保存瓶のほうが高価になったが、中身だけ別売りにして、無くなったら保存瓶持参で来店すれば良い。

「保存瓶のサイズを小さめにして、月に何度も商会の店舗に足を運んでもらうようにしたんですよねえ。ほら、販売機会は多い方が売上も上がるでしょ? 貴族のご婦人やご令嬢はもちろん、一般人の女性たちにその都度おススメ商品を紹介していったわけ」

 それがカレンが七歳の頃のことだという。
 こういった商品販売の知識は、前世の日本ではよく知られていたものだ。そのまま異世界でも流用してみたら効果があったという話。

 鳴かず飛ばずで、細々と領地の畜産品を販売するだけだったブルー男爵家の商会が、少しずつ余裕を持てるようになってきた。



「そのまま順風満帆に進めば良かったんだけどね。その頃、あたしにお兄ちゃんがいたって判明して家の中は大荒れですよーあはは、参っちゃう」

 笑うカレンに、グレンも苦笑している。

「そういや、グレンはブルー男爵の庶子なんだっけか。やっぱり正妻が怒って大荒れってやつ?」
「お母さんは当然怒りましたけど、グレンお兄ちゃんが産まれた経緯を聞いて、お父さんに激おこでした。ね?」

 と話を振られたグレンは、誤魔化せなさそうだと渋々口を開いた。

「僕の母は、ブルー男爵の父の学生時代の恋人だったんです。卒業後は父に政略結婚の話が来て円満に別れたそうなんですが、その後でお腹にボクがいるってわかって」

 グレンの実母はそのまま元恋人のブルー男爵に子供ができたことを知らせず、一人でグレンを産んで育てたそうだ。

「ボクが八歳になる頃に、女手ひとつで育ててくれていた母が体調を崩して働けなくなったので、冒険者として低級クエストで家計を助けることにしたんです。でもその年の冬に流行った風邪を拗らせて死んでしまって……」

 母親は死の前に元恋人のブルー男爵に手紙を書き、自分亡き後の息子グレンを託した。
 ブルー男爵の元に手紙が届いたのは母親が亡くなり、葬儀が終わった後だったそうだ。時間差を作るよう配達指定していたらしい。

「お父さんは隠し子がいた事実とその経緯をお母さんに恐る恐る話したんだけど、なぜもっと早く母子を保護しなかったの! って予想とは違う方向で怒られて、速攻グレンお兄ちゃんを引き取ることにしたのよ」

 グレンがブルー男爵家に引き取られ、男爵家の長男として正妻に認められたのは翌年の春、九歳の誕生日の直前頃。
 正妻のブルー男爵夫人にとって、グレンの存在は正直複雑だが、自分との婚前にできた子供なら母子ともに罪はないという考えだったようだ。



「そんなわけで、ボクと義母、異母妹との関係はまあまあ良好です。先輩がた、ご心配には及びません」

 一通り聞いて、カズンたちは一安心だ。
 カレンの様子から家族仲は悪くないと感じていたが、貴族社会で庶子となると厳しい境遇に置かれていることも多い。
 カズンはもちろんだが、特にライルがグレンを心配していた。

「引き取ってくれた男爵家に恩返ししなきゃって思って、学園ではできるだけ大物の貴族令嬢と結婚できるよう婚活を頑張ろうと思っていたんだけど……そこをナイサーに付け込まれちゃったんですよねえ……」

 溜め息をついている兄に、妹が追い討ちをかける。

「この間のドマ伯爵令息の事件では、お兄ちゃんめちゃくちゃお母さんに怒られてたもんね。あの合理的なお母さんに三時間もネチネチ言わせるなんてよっぽどよ」

 ブルー男爵夫人は子爵家出身者で、実家も商会経営して運営方法に熟知していることからブルー男爵家に嫁いできた女性だ。
 合理的でサバサバした性格の持ち主で、無駄を嫌う。
 事情を鑑みて夫の庶子をすぐ認めたことといい、賢妻なのは間違いない。

「まあ、ホーライル侯爵家の寄り子になれたことは喜んでましたけどね。うちみたいな男爵家が格上の貴族家と縁を持てるなんて滅多にないことですし」

 これに関しては、グレンは本当にライルに対して頭が上がらない。
 女生徒に変装してハニートラップに嵌め、婚約破棄までさせて彼の名誉を地に落とした。
 本人はもう気にするなとグレンに笑いかけてくれるが、グレンにはライルとホーライル侯爵家に返しても返し切れない恩があった。



 まだヴァシレウスやブルー男爵が戻ってくるまで、少し時間がかかるようだ。
 ならばとカレンが持ってきたのが、ブルー商会の売れ筋商品だった。

「さすがに香油は別の地域からの取り寄せですけどね。薔薇の香りシリーズはブルー商会のロングセラーですよ」

 たとえば、と出してきたのは手のひらサイズの小瓶。中には半透明でジェル状のクリームが入っている。

「これなんかは、潤いと保湿力を高めた自信作! 是非夜に使ってみてくださいね!」
「あ、ああ……夜ということは、寝る前に塗ればいいのか?」
「はい! ベッドに入ったらお相手に使ってください。もちろん、お相手に渡してもOKです!」
「んん?」

 何かがおかしい。どうも互いの認識に食い違いがあるようだ。

「顔や手に塗って保湿するのだよな?」
「えっ? 何言ってるんですか、大事なところが傷つかないよう保護するための保湿保潤ジェルですよ?」
「えっ?」
「えっ!? 寝室での夜の営み用の保湿保潤ジェルですってば?」
「あ、ああー! そっちの用途か!」

 つまり閨で使う潤滑剤ということだ。

「か、カレン? お前、そろそろいい加減にしようか!?」

 可愛らしい顔から出してはいけないような低い声で、グレンは妹の肩を掴んだ。
 カズンたち同年組は全員、顔を真っ赤に火照らせている。

「まさか皆さん、その……未経験?」

「「「の、ノーコメントで……」」」

 何とかそれだけ言えたカズンだったのだが、カレンは容赦なかった。

「うっそー! 王族や高位貴族の皆さんって閨房術習ったりしないのー!?」
「……カレン嬢、君ちょっとロマンス小説の読みすぎ。しかもまだ読めない年齢指定付きのやつ読んでない?」

 頬を染めながらも、ヨシュアが突っ込んだ。
 カレンはグレンより一歳年下の今年15歳。性的な要素の入る年齢指定小説は最低でも十六歳になってからだ。

「ちなみにサンプルありますけど、いる?」
「「「………………」」」

 無言で全員、手を差し出した。
 にんまり笑って、カレンが試供品用の小さなチューブをひとつずつ手のひらに置いていった。
 経験はなくとも、興味はあるお年頃なのである。

しばらくしてブルー男爵家の執事がやってきた。
 ヴァシレウスとブルー男爵は話に熱中しているため、食事はそちらに軽食を運んで済ませるということだ。
 子供たちは夕食を好きに取って構わないと伝言を貰った。

「ブルー男爵領の名産品を使った、簡単なブッフェを予定してたんです。素朴な料理が多いけど、素材の新鮮さと味は保証しますよ」

 とグレンが自信満々に言いながら、一同を食堂に案内してくれる。
 食堂は十六畳ほどの長方形の部屋だった。家族用の食堂とは別に設けられた、来客をもてなす用の部屋らしい。
 中央に長テーブルを置いて料理と皿を置き、立食形式で好きに選べるようになっている。部屋のサイドに一休みできるよう数人がけのソファやテーブルがいくつか置かれている。

 そして特筆すべきは、壁際に小さな石窯があるところだろう。
 石窯では牛やチキンをその釜で焼くかといえば、ブルー男爵家の料理人が用意したのは平べったい小麦の皮だった。
 焼く前のパン生地を30cmほどに麺棒で手早く広げて、トマトソースを薄く塗り伸ばし、塩を軽くひとつまみ振ってから薄切りにした生チーズことモッツァレラチーズを載せ、それを金属部が平たくなったシャベルのようなピールの上に載せて釜の中へ。
 一分もしないで再びピールで生地を取り出すと、見事なピザの完成である。

「ピザかあ!」
「ピザですとも!」

 早速料理人が放射状に切り分け、一同にサーブしていく。

「はい、皆さんドリンクも行き渡りましたね? 本日は貴重なミスリル銀調達、誠に感謝しております! ではかんぱーい!」

 一同、グラスを掲げ一口喉を潤してから、焼きたてのピザをいただいた。
 香ばしい生地の小麦の香り、濃厚だがフレッシュな甘みのあるトマトの風味、そして溶けてほんのり焦げ目のついた白い生チーズのミルキーさ。
 モッツァレラチーズは、前世で食べたピザのように長く糸を引いたりはしないが、歯応えがしっかりしていて、噛むごとにまろやかな旨みが口の中に広がる。

「トマトソースと生チーズだけのこれが、一番オーソドックスで美味しいの。まだまだあるから、たくさん食べてね! 具入りのもあるから!」

 貴族の家の食事なら、来客をもてなす場合はやはり食前酒から始まるコース料理が一般的だ。
 しかし今回集まっているのはまだ十代の学生、しかも育ち盛りの男子ばかり。
 口当たりが良くて美味しい料理を、食べやすく。
 さすがに商売上手のブルー男爵家はよくわかっている。



「カズン、ピザって今世でもやっぱり好きなんだな」

 思わず会話を忘れて黙々とピザを堪能していると、隣に来ていたライルがそう聞いてきた。
 カズンは一瞬だけ物思いに耽るように皿の上のピザに視線を落とした。

「そうだな。美味いと思うし、好きな味だ」
「何の話です?」

 料理人に料理内容を指示し采配していたグレンが、カズンたちの輪に戻ってくる。
 カズンは以前、この友人たちに話したことを掻い摘まんでグレンに語った。
 即ち、自分が転生者であり、前世で日本の高校生だったときに経験したエピソードをだ。
 もっとも、転生者であることは先日、グレンたちブルー男爵一家がアルトレイ女大公家を訪れたとき、グレンの妹カレンから転生者だと自己紹介された時点で伝えてある。

 少しだけ、ライルとヨシュアが心配そうな顔でカズンを見つめてくる。
 以前、ホーライル侯爵領に小旅行したとき語った記憶は、前世で家族にピザを食い尽くされて残念だった、という話なのだ。

 子供の頃は時折同じ出来事を思い出しては、しくしく泣いていたこともあるのだが、今になってみると何でそれだけのことで自分が泣いていたのか、正直カズンにはよくわからなかった。自分のことなのにも関わらず。

 ただ、あのとき幾つかのエピソードを語って以降、カズンは少しだけ頭痛がしたり、胸が詰まるような感覚が出るようになったことを、まだ誰にも話していなかった。
 前世のことをあれだけまとめて他人に語ったのは初めてだったこともある。
 それから度々、前世の出来事が想起されてくるようになった。
 頭痛が出たり、胸が塞ぐような気持ちになるのは、そんなときだ。

 たとえば、前世のアルバイト先や、通っていた高校での他愛ないエピソードが、脈絡なく想起されてくる。
 次の瞬間、心臓が不規則に跳ねるのだ。
 そして魔力が乱れる。
 カズンの前世は平凡な高校生で、とくにトラウマとなるほどの強烈な経験はしていないはずなのだが。



「やだ……お兄ちゃんとヨシュアさんが一緒にいるとめっちゃ百合ぃ~」

 カレンの溜め息混じりの囁きが耳に入り、ハッとカズンは我に返った。つい物思いに耽ってしまっていたようだ。
 そのカレンは振り向いたカズンと目が合うと、少し恥ずかしそうにはにかんだ。

「ねえ、カズン様。その眼鏡って伊達眼鏡でしょ? 特に術式を組み込んでもいないみたいだけど、オシャレ眼鏡ってこと?」

 かけている黒縁眼鏡を指差されて、カズンは眼鏡を外した。
 黒い瞳を持つ端正な顔立ちは父親のヴァシレウス、ユーグレンとよく似ている。
 黒髪と黒い瞳はアケロニア王族に特有の色だ。これに兄王テオドロスも加わると、間違いなく血の繋がりを見てとることができる。

「これは目印みたいなものでな。子供の頃はユーグレン殿下と区別がつかないぐらい似ててよく間違われたから、区別するため付けたんだ」

 8歳くらいまでは、二人は身長も体格もほとんど同じだった。
 子供だったから髪型も似たり寄ったりで、余計に間違われやすかった。
 8歳を越えた時点でユーグレンのほうが伸び始めてからは、間違われることも減ってきたのだが。

(あれが悔しくて、ユーグレンを殿下と呼ぶようになったのだっけ)

 幼い頃は『ユーちゃん』『カズ君』と呼び合う仲だったのだが。

「ちょっとカズン様、それもうちょっと詳しく。王族同士の幼馴染み愛、萌えだわ!」
「僕より、ヨシュアだぞ。殿下の想い人は」
「それももっと詳しくううううう!」

 テンションの高いカレンに付き合って、ピザをつまみながら雑談を楽しんだ。