高校生になったばかりのカズアキの毎日は、期待していたほど充実しなかった。
高校デビューを失敗した感がある。
学校ではいじめられることこそないが、同級生たちの輪の中に混ざれなかった。
顔を合わせれば挨拶ぐらいはするが、昼を一緒に食べたり、放課後に遊びに行く友達ができなかった。
高校に進学してすぐの一年生の春、小遣いが欲しくて地元のファミレスでキッチン調理のバイトを始めた。
下校後、夕方から夜の22時まで、土日を含めて週に5回。
そのアルバイト先でも、仕事上がりの後で雑談しているバイトやパートの主婦たちの中に混ざれなくて、いつもそそくさと、ひとりで帰宅していた。
家に帰ると、台所にはデリバリーのピザの空箱がゴミ箱の横に折り畳まれている。
テーブルの上や冷蔵庫の中を見ても、自分用に一切れでも残っている気配はない。
「……今からコンビニに買いに行くのも億劫だな」
炊飯器の中を覗くと残りご飯があったので、適当にふりかけで食べて、風呂に入ってすぐ自室に引っ込んだ。
別にカズアキが家族から虐待されているとか、そういうことではない。
バイト先がファミレスだから、仕事の後に何か自分で夕飯を食べてくるだろうと思われているだけだ。
(ピザ、僕も好物なんだけどなあ)
「………………」
部屋の時計を見ると、そろそろ日付が変わる頃だった。
通学カバンの中から、バイト前に本屋に寄って買ったライトノベルを取り出す。
聖剣を構えた勇者のイラストが今どきっぽく格好良くて表紙買いしたやつだ。
中央に勇者、右手にちょっと悪役っぽい魔法使い、左手に頭の良さそうな賢者。
コテコテのファンタジーものだ。
(学校でもバイト先でも親しい友達はできなかったけど、バイト代を好きに使えるのは嬉しいよな)
今回のラノベは当たりだったようだ。挿絵も好みだった。
続編も出ているようだし、明日また本屋に行って見てこようと思う。
「お先に失礼しまーす!」
変わり映えのしない毎日を繰り返して、季節は冬になった。
カズアキはまだ同じファミレスでバイトをしている。
店を出る前、店内フロアのスタッフたちに声をかけたが、雑談に夢中の社員やバイトの女子たちは聴こえていないようで反応すらない。
カズアキは溜め息をついて、店を出た。
「雪か……朝はまだ雨だったのに」
休日の今日は午前中からの前半シフトだったから、まだ時刻は夕方前で陽は落ちていない。けれど外はもう雪で真っ白だ。
10センチ以上積もっている。都市部のこの辺りでは大雪だ。
(これじゃ自転車は乗れないな……引いて帰るしかないか)
ゲンナリしながら傘を開こうとしたところで、何かが軋むような重い音が聞こえた。
ぎ……ぎ……
ファミレスの店の入口の上にある店名の看板が、雪の重みで傾いていた。
「!?」
あ、と思う間もない。
大量の雪ごと落ちてきた看板はそのまま真下にいたカズアキの頭部を直撃した。
泥混じりの雪で汚れた地面に倒れ込む。
周囲から悲鳴が聞こえた。ちょうどファミレスに入ろうとしていた駐車場からの客たちが、倒れたカズアキを目撃したようだ。
すぐに店内から社員やスタッフたちが駆けつけてきたが、店の前での惨状に声を失っている。
(やばい。身体がもう動かない)
落ちてきた看板が激突した頭部が、ズキズキと痛いような、熱いような。大雪の寒空の下なのに。
これはもう駄目だな、無理だなと自分でもわかった。
(僕の人生はこれで終わりなのか。もっとこう……素敵な人生だったら良かったなあ)
例えば、カバンの中の読みかけのワクワクするようなファンタジー系ライトノベルみたいに、だなんて贅沢は言わない。
何なら今と同じモブでもいい。派手じゃなくても、冒険と仲間たちと美味い飯。そのぐらいでいいのだ。
(家族。学校。同級生たち。アルバイト。……そんなに不満があったわけじゃない。でも、もうちょっとだけ……)
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
(もし、ラノベみたいに異世界転生とかできるなら、次はもっと……)
最後まで考えることはできなかった。
そうして、まだ16歳だったモブ男子、カズアキの人生は終わったのである。
「ロザマリア! お前との婚約を破棄する!」
突然の大声に、ハッとカズンは我を取り戻した。
(あれ? ここはファミレスの前……じゃない。僕は雪で落ちてきた看板に押し潰されて……もない)
白昼夢、いや、たまに思い出す前世のおぼろげな光景は、ここが学園の教室だと認識した時点ですぐにカズンの中から消え失せた。
ここはアケロニア王国の王都の学園、高等部の教室だ。
ちょうど午後の最後の授業が終わったところで、放課後すぐのこと。
男子生徒の大声に、いったい何事が起こったのかと、教室内は静まり返った。
教室にはまだ担任教師も残っており、彼もまた息を飲んでこの事態を見守っていた。
ここは成績優秀者クラスの3年A組。
大声の主は、2つ隣のC組の生徒だ。
名前と顔は皆、知っていた。
ホーライル侯爵令息ライル。
ホーライル侯爵家の長男で、次期侯爵の跡継ぎである。
赤茶の髪を、当世流行りの無造作カットで短髪に整えている。
中肉中背だが、ビリジアングリーンの制服の下の肉体が鍛えられていることも、やはり皆よく知っていた。
彼、ホーライル侯爵令息ライルは学生の身でありながら、学内でも知れた剣の使い手なのだ。
しかし、この剣幕はどうしたことか。
普段の彼は、どちらかといえばひょうきんな印象の三枚目で、学友たちや周囲を冗談で笑わせては場を和ませるような人物だったはずだ。
その彼が、同級生たちと談笑していた女生徒、ロザマリア・シルドットに指を突きつけ、婚約破棄を申し渡した。
対するロザマリアは、シルドット侯爵家の長女だ。
面倒見の良い金髪の美しい少女で、同級生たちに慕われている淑女だ。
そんな彼女がライルの婚約者であることは、学園内の貴族なら誰でも知っていた。
「婚約破棄と申されましたか、ライル様」
困惑を隠しきれない様子と声音で、ロザマリアは己を不躾に指差す男を、まだ座っていた教室の席から見上げた。
彼女の周囲の学友たちも、困ったように顔を見合わせていた。
「その通りだ、ロザマリア。お前は卑怯にも、このアナ・ペイル嬢に卑劣な嫌がらせを繰り返し、身の危険に晒した。そのような女と縁を持ち続けることはできない、よってこの場で婚約破棄を……」
「待て、そこまでだ」
激高するホーライル侯爵令息ライルの言葉を、涼やかな声で遮った。
凛とした声に自分でも驚く。
(僕はカズアキ……いや、カズン、カズンだ。ここはもう前世の世界じゃない。異世界でもう新しい人生を生きている)
今はこの学園の3年A組で学級委員長のカズンだ。
まだ騒ぎ立てようとしたホーライル侯爵令息ライルと、詰め寄られているシルドット侯爵令嬢ロザマリアの間にカズンは立った。
背丈はライルと同じくらい。
黒縁眼鏡をかけた、黒髪黒目の切れ長の目を持ち、切れ長の全体的にキリリと引き締まった端正な容貌と雰囲気を持っている。
それがカズンの今世の姿だ。
「……待てだとぉ?」
「ああ、待てと言った。君の行為はこの場に相応しくない」
「何だと? 貴様如きに言われる筋合いはないぞ!」
気色ばんだライルを御するように、学級委員長のカズンは「まずは落ち着け」と言って、自己紹介から始めた。
「僕はカズン・アルトレイ。この教室では学級委員長を務めさせてもらっている」
「アルトレイだと? 聞いたことないぞ」
「……母が他国出身の貴族令嬢でね。先だってこの国の爵位を賜ったから、僕も間違いなくこの国の貴族籍の持ち主だ」
「ふん、聞き覚えがないぐらいだ、その程度の爵位なんだろ」
「……そうかもな」
この王都の学園は入学試験にさえ受かれば、貴族でも平民でも区別なく入学できる。
とはいえ、元が貴族学園だったため、今でも身分によって差別する生徒は多かった。
そのため、カズンも最初に『自分は貴族である』との自己紹介から入った。
もっとも、この反応では、ライルはカズンの家が取るに足りない低位貴族だと思ったことだろう。
「……ともかく。ここは神聖な学び舎であって、大立ち回りのための劇場ではないのだ。しかも君の望みは、ロザマリア嬢との婚約破棄なのだろう?」
「その通りだ! こんな女との婚約など、一刻も早く破棄したくてならない!」
カズンを押し退けてロザマリアに詰め寄ろうとするライルを、どうどう、と宥める。
「……だから待てと言っているだろう。君も貴族なのだから、婚約は家同士の思惑による政略のはずだ」
「……ああ」
「ならば、その婚約を破棄したい君がまず行うべきことは、君の家のご両親に婚約破棄の希望を申し出ることだ」
ど正論である。
担任教師を含めた教室内の生徒たちは内心で大いに頷いた。
「……っ、そうかもしれないが! だが! この女は、アナを平民だからと侮辱し、教科書を汚し、あまつさえ制服のスカートを短剣で引き裂いたというではないか! そのような卑劣な行為を犯す女を糾弾して何が悪いというんだ!」
悪いことだらけだ。
ここは優秀な生徒たちの集まる王立高等学園であって、場末の底辺学校ではないのだ。
ましてや、糾弾されている側の少女ロザマリアは侯爵令嬢である。
手癖の悪いチンピラの手口を自ら行うとは、とてもじゃないが考えられない。
「その、諸々突っ込みどころの多い内容を検証する前に確認したいことがあるのだが、いいだろうか?」
「何だ! 手短かにしろ!」
「……君の隣にいる女生徒は誰かね?」
ライルに庇われるように肩を抱かれている小柄な少女のことだ。
柔らかな癖毛に揺れるピンクブロンドを肩までのショートボブにした、可憐な美少女である。
「あっ、あたし、アナ・ペイルといいます! 1年F組で、平民だけど今年入学しました!」
「……そうか」
「学級委員長さん、あたし、ロザマリアさんにいじめられたんです! でも相手が貴族だから怖くって、たまたま相談したライル先輩がロザマリアさんの婚約者だからって一緒に来てくれたんです!」
「……経緯がよくわかる説明をありがとう」
言いながら、さりげなくカズンはシルドット侯爵令嬢ロザマリアと、ホーライル侯爵令息ライル及びアナ・ペイルらの間に立ったまま、ロザマリアに後ろに下がるよう促した。
「話はわかった。君たちには君たちなりの言い分があるようだ。……だが、ここは一度引いてくれないだろうか」
「どういうことだ。俺はそこの卑劣な女に用があるのだと言っただろ!」
「……話を聞いていた限りでは、ペイル嬢がシルドット侯爵令嬢にいじめられていたとのことだな?」
「そうだ! そこの卑劣な女がアナを貶めたのだ!」
「もしそれが本当なら、やはり今は引いてほしい」
「なぜだ!? まさか貴様、その女を庇い立てするつもりか!?」
いきり立つライルに、カズンは激情に巻き込まれないよう、黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ一呼吸ついてから、静かな声で言った。
「シルドット侯爵令嬢ロザマリアが本当にアナ・ペイル嬢をいじめていたならば、彼女と同じ組の僕たちも無関係ではいられない。学園内で彼女と最も多くの時間を過ごしているのは僕たちクラスメイトだからね」
「貴様、回りくどいぞ! 何が言いたいんだ!」
わざと、相手から情報を引き出すために湾曲な表現で時間を稼いでいるのだ。
「学園内のいじめで彼女を糾弾するなら、優先権はクラスメイトであり学級委員の僕にある。婚約者の君には後日、確認内容を報告するからそれまで待って欲しい。それに……」
とカズンはわかりやすく、ライルの隣のピンクブロンドの髪の少女を見た。
「君が庇っている彼女、平民なのだろう?」
「平民だから何だというんだ! 学園内では身分差別は禁じられているのだぞ!」
「もちろんだ、ライル君。だが、この学園の生徒たちの半数以上が貴族家の出身。ましてシルドット侯爵令嬢は高位貴族。同じ派閥の家の者も学園内には多い。もちろん、このクラスにも」
「……それはそうだが」
「今のままではペイル嬢の身のほうが危ないと言っているのだ」
「!」
「平民が高位貴族に楯突くなど生意気と思う貴族たちが、個人的な制裁に動く前に、ここは引いて彼女を自宅まで送り届けてやりたまえ」
「だ、だが……」
ライルは学級委員長カズンの後ろで不安げに佇んでいるロザマリアを睨みつけた。
「できたら数日、安全な場所で彼女を匿ってやるといい。君も侯爵家なのだから、自宅の敷地に別宅や離れぐらいあるだろう?」
「し、しかし……」
「君の家には今日中に事態を説明した手紙を送る。さあ、早く! ペイル嬢を守りたいのだろう!?」
「わ、わかった!」
カズンに急かされ、ホーライル侯爵令息ライルはアナの小さな手を握り、言われるままに教室を出て行った。
(よし、適当に理屈押しでいけた!)
お騒がせ男女二人を見送り、足音が聞こえなくなったことを確認した時点で、学級委員長カズンは教壇に残っていた教師を振り返った。
「ロダン先生、封筒と便箋があればいただけますか。今の出来事を関係各所に知らせねばなりません」
「あ、うん、それは構わないけど……ちなみに、どこに、どんな手紙を書くつもりなんだい?」
中年の担任教師はレターセットを教壇の引き出しから取り出し差し出しながら、素朴な疑問を口にした。
「決まってます。まずはロザマリア嬢のシルドット侯爵家へ、彼女が婚約者から事実無根の糾弾を受けた経緯を」
「……わたくしを信じて下さるのですか、学級委員長」
驚いたようにロザマリアが目を見開く。
「もちろんだ。クラスメイトの諸君も同じだろう?」
静まり返っていた教室内を見渡す。
ほぼ満場一致で肯定が返る。
「ロザマリア嬢が品行方正な淑女であることは、クラスメイトは皆わかっていますよ。というより、この場合は相手が異常過ぎるので、あちらを警戒するほうが先です」
頼まれた便箋と封筒を差し出しながら、ロダン教師も苦笑して頷いた。
「まあねえ。『1年F組、平民のアナ・ペイル』って意味がわからないし」
教室内の生徒たちのうち、二割程度は納得して首肯し、残りはよくわからないという顔になった。
カズンは担任からレターセットを受け取って、ス……と黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
キラリンと眼鏡のガラス面が光る。
「ひとつ、この学園にF組は存在しない。ふたつ、この学園に入学できるほどの平民は成績優秀な特待生だから、組分けは上位クラスのA組かB組に限定される。みっつ、よってあのペイル嬢なる者は己の身分や学籍を偽った上でホーライル侯爵令息にすり寄っている」
「まあそういうこと。だから、あのペイル嬢がシルドット侯爵令嬢にいじめられたなんて訴えも虚言か、何かしらの謀略じゃないかと簡単に判断できるわけ」
補足する担任に、なるほど、と生徒たちが頷く。
「あれ、でもそれなら、アナ・ペイルに騙されてるホーライル侯爵令息はどうなるんだ?」
首を傾げたのは、クラスメイトの一男子生徒だ。
「うむ。ひとまず、彼の家に手紙で先触れを出そうと思う。僕はこのまま彼の家に向かって、ご両親か家人に事情を説明してくるよ」
手紙を書きながら返事する。
やがて学級委員長カズンは二通の手紙を書き上げた。
担任が封蝋を魔法で溶かし封筒に垂らしてくれたので、自分の筆箱から家紋の印を押し付けて封印する。
「一通はロザマリア嬢のシルドット侯爵家へ。お父上に渡してくれるかい」
「承りました。お手数おかけ致します」
たおやかな細く白い手が、封筒に入った手紙を受け取る。
「一応、今起こった出来事のあらましを書いておいたけど、詳細が知りたいなら僕の家宛てに連絡を寄越してくれれば説明に参上しよう」
「はい」
二通目の手紙を持ったまま、カズンは教室内を見回した。
「ホーライル侯爵令息のご近所さんはいるか? 帰りにホーライル家に届けて欲しい。ついでに、僕がすぐ説明に上がると言づてを頼む」
これには、また別の男子生徒が請け負ってくれた。伯爵家の令息だ。
「よし、では今日はこれで解散」
軽く手を打つと、緊張していたクラスメイトたちは息を吐いて、各自下校の準備を始めた。
「カズン君、私も一緒に行くかい?」
「先生。ひとまず僕が行きます。僕の手に負えないようなら助けを求めますので」
教科書や筆記具をまとめ、下校していくのだった。
(口も身体も自然に、当たり前のように動く。これは前世では考えられなかったことだ。前の僕は口下手だったから)
学園の馬車留めに向かいながら、ふと前世との違いに気づいた。
不思議と最近、以前はあまり意識していなかったはずの前世のことを思い出している。
この手の話題は幼馴染みの叔父が詳しくて、幼い頃からよく相談していたものだ。
久し振りに連絡を取りたかったが、ここ数日は幼馴染みが学園を休んでいてそれも叶わない。
いつもなら、放課後はその幼馴染みと街を散策して、ちょっとした買い食いを楽しんでから帰宅するのだが、いないものは仕方がない。
それに今日はこのまま、ホーライル侯爵家へと向かわなければ。
「それにしても、不思議なことだ。ライル君はあんな男ではなかったと思ったが」
先ほど、教室でロザマリア嬢を怒鳴りつけていた同級生に首を傾げる。
彼らは親が決めたとはいえ、それなりに仲の良い婚約者同士だったはずだ。
ロザマリアに会いによくカズンの教室に来ていたから、親しく会話している姿も頻繁に見ていたのだが。
これが、後から思い返してみれば、平穏でほのぼのしたカズンの日常で最初に起こった“異常”だった。
前世でモブの男子高校生だったカズアキが転生したのは、間違いなくファンタジー世界だったのである。
「それで、侯爵家まで事情を説明に行ってたのかい?」
夜の9時過ぎと、いつもより何時間も遅い時刻に帰宅した息子を待っていた父親と、遅い夕食を取りながら、はい、とカズンは頷いた。
「わかりやすいハニートラップでしたから。経緯を令息のお父上の侯爵閣下に説明したら、すぐに女を押さえに動いてくれましたよ」
あらかじめクラスメイトに先触れを頼んでおいたお陰で、非常にスムーズに事態は進んだ。
息子がハニートラップに嵌まったと聞いた王国騎士団の副団長でもあるホーライル侯爵は、すぐに息子ライルの居場所を確認した。
帰宅した息子が本邸ではなく、同じ敷地内の別宅に入ったと執事から報告を受け、即座に自ら別宅へ赴いた。
すると、そこに居たのは薬を嗅がされ意識を失って、部屋の柱に縛られ物置の中に放り込まれていた息子ライルの哀れな姿だったというわけだ。
「既に別宅の貴重品が盗まれた後でした。あの様子だと計画的な犯行だから、犯人の捜索は難しいかもしれません」
ホーライル侯爵令息ライルとピンク頭のアナ・ペイルが別宅に入ってから、学級委員カズンがホーライル侯爵家に到着し、侯爵に詳細を説明するまでの間は一時間と空いていない。
その短時間のうちにこれだけのことを仕出かすとは、おそらくアナ・ペイルは単独犯ではなく協力者や組織だった犯行の可能性が高い。
「ホーライル侯爵令息は無事だったのか?」
「……無事といえば無事でしたが……」
薬物で眠らされたライルは、気付け薬代わりのブランデーを口に含ませるとすぐに目を覚ました。
カズンも侯爵や侯爵家の家人たちも安堵したが、しかし。
「彼の発見されたときの姿が問題で。……その、女性の下着を頭に被されていて……」
部屋の柱に縄で縛り付けられたライルの頭部には、女物の下着、俗に言うパンティーがヘッドマスクのように被されていた。
「犯人女性の脱ぎたてと思われます」
「それはまあ、何とも」
その光景を想像して父親も苦笑している。
「発見した一同、大爆笑ですよ。あんまりにも無様な姿だったものだから、侯爵閣下も叱る前に腹抱えて笑ってましたね」
とはいえ、意識を取り戻した後のライルを拳で思いっきりぶん殴っていたが。
それからカズンは、侯爵家から早急に報告の必要な関係各所に、事態の経緯を改めて手紙にまとめて送った。
まずはライル・ホーライル侯爵令息の婚約破棄の被害にあった、ロザマリア嬢のシルドット侯爵家。
次に、報告を待ち望んでいるだろう、学園の職員寮に帰宅して待機している担任教師ロダンへ。
その上でホーライル侯爵に声をかけてから、侯爵家を辞去してきたというわけだ。
夕食後、リビングに移動して食後のお茶を父と息子で楽しんだ。
お茶を入れるのは父親のヴァシレウスだ。
厚みのある鍛えられた巨躯の持ち主である父がティーセットを扱うと、ティーカップもポットもミニチュアのままごとの道具のようで、ほっこりした気分になるなとカズンは思った。
「あっ。お父様、お茶を蒸らしすぎです! また渋くて飲めなくなります!」
「!? 砂時計の砂はまだ残ってるぞ!?」
「あー! そこでひっくり返してどうするんですかー!」
何で執事に任せないんだ、などと無粋なことを言うつもりはない。
これは父の楽しみのひとつなのだ。
彼はこのアケロニア王国の先王で、英傑王、大王と呼ばれる偉大な人物だった。
この世界で大王は、王の上位職で名誉称号でもある。
(今、世界中に大王の称号持ちは僕のお父様だけ!)
異世界転生したカズンの親ガチャは大成功、間違いなく☆5やURクラスを引いた。実に誇らしい。
年齢はとうに九十歳を超えているが、髪こそ白髪まじりだがいたって壮健、百歳も余裕で超えるだろうと国の誰もが思っている。
体力も気力も衰えを見せない彼は、外見だけなら六十代そこそこに見えるぐらい若々しい。
カズンの黒髪と黒目、端正な顔立ちはこの父から受け継いだものだった。
カズンは彼と、同盟国の公爵令嬢との間に生まれた息子だ。
その公爵令嬢は、同盟国に嫁した、この父の最初の子供である第一王女の孫だった。ヴァシレウスから見ると曾孫にあたる。
それゆえ、カズンはこの国の先代国王の実子にして玄孫、かつ現国王の実弟という、大変ややこしい出自を持つ。
同盟国の元公爵令嬢だった母セシリアは、社交的な金髪碧眼の美女だ。
成人後、初めて祖母の祖国を訪れたとき、当時既に退位していたヴァシレウスに一目惚れした。
情熱的に告白しヴァシレウスを口説いたが、求愛はやんわりと断られ続けたという。
そうこうするうちに帰国する日が近づき、諦めきれなかった母は決死の思いでヴァシレウスに夜這いを仕掛け思いを遂げた。
その後も帰国せず留まり妊娠が発覚して初めて、腹の子供の父親が祖母の祖国の先王だと語り、大騒ぎになった。
結果からいえば、母セシリアは見事にヴァシレウスの後添いの座をゲットし、現在こうして同じ屋敷で共に暮らしている。
現時点で先王ヴァシレウスの唯一の妻だった。彼自身が長寿者なので、既に正妃も他の側室も亡くなっているためである。
セシリアは偉大な先王と同盟国の王族、双方の血を引く筋目の正しい令嬢だった。
結果、アケロニア王国に帰化してから嫁したこともあり、正統な血筋を評価された上で、先王の伴侶として現在は女大公の爵位を授けられている。
その母セシリアは、この国でできた友人の貴族夫人の出産祝いで現在は留守にしている。
ここに彼女がいれば、今日学園で起こったハプニングを楽しんで聴いてくれたことだろう。
「よし、できた」
父の大きな手からソーサーごとティーカップを渡される。
最初は慣れずによく中身のお茶をこぼしていたが、最近はだいぶ自然な手つきになってきた。
残念ながら訓練された執事や侍女が入れるより薄かったり、濃すぎて渋かったりだが、カズンは父が不器用に入れてくれるこのお茶の時間が大好きだった。
「あああああ。お父様、紅茶が真っ黒です……」
抽出時間を長くかけすぎだ。
「なあに、毒じゃないんだ、飲める飲める」
「……お茶請けのショコラ追加でお願いします」
お茶を入れるのも本来なら侍女の役割だが、この屋敷では父自ら気軽にやることが多い。
生まれながらの王族で、王になることが定められていたヴァシレウスは、これまでの人生で温かい食事を食べたり、熱いお茶を飲んだりしたことがほとんどなかったという。
暗殺を警戒するための、毒味後の食事や飲料しか口にできなかったため、日常ではぬるいか冷めた物ばかりだったらしい。
それが、後添えとなったセシリアと暮らすこの屋敷に移ってきてからは、妻と息子と共に、厨房に隣接した家族用の食堂での飲食が可能になった。
温かいものは温かいままで、冷たいものは冷たいままで。
国王としての現役時代には望めなかった幸福だと、彼は笑って息子のカズンにたびたび語る。
「昨日は大変迷惑をかけた! 済まなかった!」
朝のホームルームで、クラスの担任に許可を得て、開口一番そう謝罪した男子生徒がいた。
学級委員長カズンの所属する3年A組にホーライル侯爵令息ライルがやってきて、昨日教室を騒がせたことを謝罪しに来たのだ。
本来、三枚目寄りだが男臭く整っていたはずのその顔は赤くパンパンに腫れ、ところどころ青黒いアザになっている。
ああ、父親の侯爵に殴られたんですね、と誰もが思った。
ホーライル侯爵は現役の騎士団の副団長だ。剣の腕だけでなく腕っぷしが強いことでも知られている。
婚約者だったシルドット侯爵令嬢ロザマリアとの婚約は、もちろん破棄だ。
当然ながら、ホーライル侯爵令息ライル側の有責で既に話が進んでいた。
クラスメイトたちの視線を受けて、ロザマリア嬢は慎ましげに苦笑している。
ハニートラップ犯のアナ・ペイルは窃盗犯として国から指名手配されることになったという。
本人を見かけたらホーライル侯爵家か騎士団本部に知らせて欲しいと言って、ライルはもう一度深く頭を下げて去って行った。
昼休みになって、改めてカズンに謝罪と世話になった礼をしに来たライルと、話しがてら昼食を共にすることになった。
朝は真っ赤に腫れていたライルの顔も、治癒魔法が得意な者に治して貰ったようで、ほぼ元通りになっていた。
昨日の今日で、さすがにいつもの目立つ赤茶の髪もどことなく艶がない。
「その様子だと、昨日は侯爵閣下に絞られたようだな」
「ああ……うっかり、亡くなった母上がお花畑で微笑んでる光景が見えたぜ」
「関係各所に迷惑をかけまくったが、君が五体満足で無事だったことは幸いだ」
「……まあ、それは親父にも言われた」
会話しながら、食堂の注文カウンターで特別メニューを注文するカズン。
出てきた料理をトレーに乗せて、カズンは嬉しそうに席に着いた。
「ん?」
ふと、自分の定番のランチ定食と比べたライルは、カズンのトレー上の料理に驚愕した。
「お、お前、それって……!」
「ん? ああ、これはラーメンという麺料理だ。この国になかった料理だが、家庭科の先生と食堂の料理人の皆さんの協力を得て研究してきて、ようやく形になってきてな。安定して調理できるようになったら食堂のメニューに入れて貰おうと思ってる」
「……醤油だけか?」
「んん?」
何やら意味深な問いかけだ。
「俺はラーメンなら味噌派なんだ」
生憎とこの学園のあるアケロニア王国に、味噌なる調味料は存在しない。あるかもしれないが、一般的ではないはずだ。
ず、と麺を一口啜ってから、カズンは湯気で曇った眼鏡を無言で外して、口を開いた。
「……ラーメンはどこの国発祥の料理か知ってるか?」
「中国だろ。でも現地とは違う独自の発展を日本でしたんだよな」
中国も日本も、この世界にはない国名だ。
「……ラーメンには醤油味、味噌味の他に何がある?」
「俺が知ってるのは、塩味、海老出汁、鯛とかの海鮮出汁、あと豚骨や担々麺なんかもあるな!」
「……麺は何麺が好きだ?」
「俺は断然太麺だぜ。食い応えのある感じが好きでさ」
「……そうか。僕は佐野ラーメン系の幅広の縮れ麺派だ」
おっといけない、麺が伸びてしまう。
とりあえず麺とあらかたの具、スープまで美味しく飲み干して、カズンはライルをじっと見つめた。
「………………おまえ、転生者か」
「おう。お前もなー」
がし、とフィストバンプで男ふたりの拳が合わさった。同士。
「俺もラーメン食っていいか? 醤油も味噌の次に好きなんだ」
「良かろう。存分に食すがいい。カズンの許可を得たと注文カウンターで言えば出してくれるぞ」
「おっけー、行ってくる!」
思わぬところで異世界転生仲間、ゲットである。
ちなみに後日、ライルのホーライル侯爵家から盗まれた貴重品や装飾品は、送り主不明で送り返されてきたらしい。
どうやら、アナ・ペイル嬢なる女は、貴族令息を鴨にした愉快犯の一種ではないか、とのことである。
ホーライル侯爵令息ライルによる婚約破棄事件は、ひとまずこれで終息となった。
と、ここまでが、王弟にして学級委員長カズンが、自分と同じ異世界転生の友人ライルを得るまでの経緯である。
カズンの幼馴染み、ヨシュアは幼い頃からの親友だ。
リースト伯爵家という、国内でも屈指の魔法の大家の嫡男である。
学園のクラスメイトでもあるので、ほとんど毎日顔を合わせている大の仲良しなのだが、最近休みがちで心配だった。
ヨシュアは青みがかった絹糸のように滑らかな銀髪と、湖面の水色の瞳に銀の花が咲いたようなアースアイを持つ、優美な美少年だ。
背はカズンと似たり寄ったりで、もう少し細身か。
一見すると儚げな美人で、麗しの美貌を愛され、学年や男女を問わず人気がある。
学内には非公式のファンクラブがあり、絵姿が出回っているともっぱらの噂である。
そんなヨシュアだったが、父親の伯爵が事故で急死し、後妻とその連れ子に虐げられているとの噂が広がりだした。
元々身体が弱く休みがちな生徒ではあったが、最近では不登校の日数が以前より増えていた。
その上、リースト伯爵家では伯爵の実子であるヨシュアではなく、義弟になる後妻の連れ子が後継者になるのだと、社交界で後妻本人が言い出すようになった。
その連れ子にはリースト伯爵家の血は一滴も入っていない。後妻の前の嫁ぎ先での子供である。
伯爵家の血の入っていない連れ子がその家を継ぐことは、この国の法律上、まず不可能なのだが。
「……今日で無断欠席七日目かあ」
朝のホームルームでクラスの出席簿を眺めて、担任教師ロダンは溜め息をついた。
「先生、ヨシュアは今日も欠席ですか?」
「残念ながらそのようだ。おうちから連絡はないんだけどねえ」
リースト伯爵令息ヨシュアは、今年に入って父親が事故で急死し、混乱していることが知られている。
まだ学生で成人前だから急遽、父方の叔父が後見人となったが、亡父の後妻とその連れ子との関係がとにかく悪い。
最近では学園でも憔悴した様子を見せることが多かった。
担任のロダンは伯爵家を幾度か訪問していたのだが、不在だったり不調で寝込んでいるなどと応対した後妻に言われて、なかなかヨシュア本人に会えないでいた。
安否を確認したいのだが、強引に貴族家に押し入るわけにもいかない。
そこで担任は、同じクラスで元から仲の良い学級委員長のカズンを頼ってきた。
とはいえ、王弟ではあっても、まだ学生のカズンには大した権力がない。
父親の先王陛下に頼っても良かったが、ここは現役世代に相談するのがベストだろう。
「お兄ちゃま、学園のことで相談乗ってください」
王宮へ登城し、顔パス・フリーパスで国王陛下の執務室へ向かったカズンは、部屋の主にそう切り出した。
「カズン! 何でもお兄ちゃまに任せなさい!」
久し振りに顔を見る弟を、ぎゅううっとハグするのはアケロニア王国の現国王、テオドロスだ。
齢は六十を過ぎていて傍から見ると祖父と孫だが、異母兄弟ながら、れっきとした兄弟である。
年は大きく離れているが、ふたりとも同じ黒髪と黒い瞳、顔立ちはどちらも父親のヴァシレウスとよく似ている。
「ありがとうです。でもお兄ちゃま、話を聞く前にそんなこと言っちゃ駄目ですよ?」
「カズンだからいいのだ!」
書類仕事をほっぽり出して、溺愛する孫ほど年の離れた弟を連れて、応接室へと向かうのだった。
「なるほど、友人の伯爵令息の安否を確認したいのだね」
侍女に入れさせた紅茶を飲みながら、詳しく話を聞いた。
「はい。リースト伯爵家のことはお兄ちゃまたちも把握されてますよね?」
テオドロスは一緒に応接室へ来ていた、傍らに控えている宰相に確認を取った。
「ええ、伯爵が急死されてから家中が混乱して、貴族達の間でもきな臭い噂が流れていますね。後に残されたのが成人前の嫡子ひとりと、伯爵の後妻とその連れ子ですから、円滑な爵位継承が行われるかどうかの監視対象になっています」
しかもその後妻は男爵家出身の出戻り未亡人で、伯爵家に嫁ぐには元々の身分が低い。
だからこそ、“危ない”のだ。余計な野望を持たせないよう、公的な監視が必要だった。
「僕がリースト伯爵家に入れるように、手配してもらえないでしょうか?」
「それなら、父を亡くして心細かろうと心配する陛下からの労りの手紙を託された、というストーリーは如何でしょうか。本人に直接渡すよう王命を受けたと言えば、王印の入った手紙ですから来訪を拒否できないはずです」
それから執務室に戻った国王にすぐ王印入りの手紙を書いて貰い、そのままカズンはリースト伯爵家へ向かうことにした。
あえて先触れは出さないことにして、直接だ。
リースト伯爵家へ向かえば、タイミングの良いことに後妻とその連れ子の息子はお茶会に出かけていて留守だった。
カズンの訪問を受けて、王印の入った手紙を受け取った老執事は青ざめて、
「よ、ヨシュア坊ちゃまをどうかお助けください、王弟殿下……!」
と深く頭を下げて、カズンをヨシュアのいる部屋へと足早に案内した。
「執事さん、随分前に引退したんじゃなかったか?」
カズンはヨシュアやリースト伯爵家とは幼い頃からの付き合いだ。
今のリースト伯爵家は、親戚筋の者が家令を兼ねた執事長として家政を取り仕切っているはずだった。その執事長の姿が見えない。
カズンを案内してくれている彼は、先代の執事長の補佐だった人物だ。
「……新しく来られた奥様が、執事長を口うるさいからと厭うて領地へ追いやってしまったのです。ですが彼がいない分、屋敷の中が回らぬからと、引退していた私が引っ張り出されることになりました」
「……それは、それは」
由々しき事態ではないか。
案内されたのは伯爵家別宅の屋根裏部屋だった。
「鍵がかかっているな。外から開けられないのか?」
「そ、それが、屋根裏部屋の鍵は奥様がお持ちでして」
「スペアキーは?」
「それも奥様が……しかも何やら術がかけられているようで、外部から開けることもできぬのです」
ここに来るまでに、老執事から詳細を聞き出している。
やはり噂通り、ヨシュアは後妻となった義母やその連れ子から虐げられ、本宅から別宅へと追いやられてしまったという。
終いには屋根裏部屋へ押し込められて、執事や他の家人たちが抗議すると、伯爵家から首にするぞと脅されたり、鞭で暴力を振るわれたりと手が付けられなかったと悔しげに言う。
今はヨシュアの後見人となった彼の叔父が当主の急死でひとまず当主代理となったが、領地での実務処理にかかりきりになっていて、なかなか王都のこの屋敷に戻ってこれないのだという。
彼さえ戻ってくれば、ほとんど解決したも同然なのだが。
「……ヨシュアがここに入れられてから、どのくらい日数が経っている?」
少なくとも学園を無断欠席するようになった七日間より前のはずだ。
執事に確認すると、ほぼその頃で間違いないという。
「まずいな、七日間も監禁されて外から鍵までかけられているとなると……おい、鍵を壊すぞ。修理費用は後で僕の家まで請求してくれ!」
「は、はい、お願いします!」
見たところ、カズンの持つ魔力でならドアノブ部分から破壊できそうだ。
最も強く魔力を載せられるのは足技だ。黒革の学生靴の踵で一気に、ドアノブとその下の鍵穴を蹴り飛ばし、開いた扉の中へと駆け込んだ。
屋根裏部屋の室内はホコリっぽく空気が淀んでいる。
ここは子供の頃はヨシュアと一緒にかくれんぼなどで遊んでいた秘密基地だったが、もう何年も足を踏み入れていない。
近年は確か物置きになっていたはずだった。
室内奥、壁際に薄汚れたマットレスと毛布。その上に、目的の人物であるリースト伯爵令息ヨシュアが目を閉じて横たわっていた。
鍵を壊すときに大きく音を立てたが、ヨシュアはピクリとも動かない。
「ヨシュア! ……執事殿、力のある家人を連れてきてくれ、あと早急に医師の手配を!」
「は、はいぃいいっ!」
駆け寄って、まず手首と首筋で脈を確認する。どちらも温かく、脈もあった。
良かった、生きている。
しかし目を覚ます気配はない。
唇がガサガサに乾いてヒビ割れている。
その口元から白いシャツの胸元にかけて、広い範囲で汚れていた。
「吐いたのか……」
吐瀉物は乾ききっている。吐いてからかなりの時間が経っているようだ。
室内を見回すと、封が開いたワイン瓶が二本、転がっている。
他に飲食物の形跡はない。
一本は空、二本目は辺りに中身がほとんど零れている。
「ぶどう酒でギリギリ水分を取っていたか……。……いや待て、吐いたものに赤紫色の色素が混ざっている。だとすると」
ワインの中には何か、嘔吐させるような毒が入っていた可能性が高い。
「くそ、もっと早く来ていれば……!」
想定していた最悪の事態に近かった。
カズンはすぐに王弟の名前と印入りの手紙を王都騎士団に出して、騎士たちを派遣して貰った。
ヨシュアが閉じ込められていた屋根裏部屋の現場の確認と、保存をしてもらうためだ。
何よりヨシュア本人の状況を第三者の目で確認させ、監禁し毒を飲ませた犯人の確保に早急に動いてもらう必要があった。
犯人、即ちリースト伯爵の後妻ブリジットとその連れ子のアベルをだ。
結果はすぐにカズンへ報告された。
本人たちはヨシュア監禁や毒殺の罪状を認めなかったが、倒れていたヨシュアと物品が何よりの証拠だ。
屋根裏部屋の鍵も後妻の荷物から押収されている。
その上、参加していた茶会でも平気で、自分の連れ子が間もなくリースト伯爵を襲名するのだと公言していた。
心ある貴族夫人たちは、リースト伯爵家の血筋ではない連れ子が爵位継承することは不可能だと知っており扇の裏で顔を顰めていたと聞く。
そんな茶会の空気を、後妻はまったく読めていなかったようだ。
そう、早かれ遅かれ彼らの自滅は確実だった。
「……まったく。干からびていても、お前は相変わらず美しかったぞ」
監禁されていた七日間、ほとんど絶食状態だったヨシュアは脱水症状を起こして、非常に危険な状態だった。
治癒魔法の使える医師から治療を受け、体内に水分を補給して貰って、何とか一命を取り留めることができたのは幸いとしか言いようがない。
当日の夜には目を覚まし、カズンはそれを確認してから自宅へ帰った。
翌日、学校帰りに見舞いの果物を携えて、再びリースト伯爵家を訪ねた。
朝のうちにカズンの家へ、リースト伯爵家からヨシュアの健康状態が回復し意識もはっきりしていると報告が来ていたからだ。
弱ってやつれてはいたが、ヨシュアの万人を魅了する麗しの美貌は健在だった。
むしろ、より物憂げな儚さが増してグレードアップしている。
「助けてくれてありがとうございました、カズン様。さすがのオレも、まさか自分の家で魔力封じが施された部屋に閉じ込められるとは思ってもみなくて……」
申し訳なさそうに苦笑いしている。
「あの屋根裏部屋か。床板の裏側にびっしり魔力封じの呪符が仕込まれていたそうだな」
「ええ。窓と壁、ドアにも透明なインクで描かれていました。あそこまでやられてしまうと、オレでも太刀打ちできません」
ヨシュアは膨大な魔力を持って生まれ、幼少期から魔法剣士として研鑽を積んできた人物だ。
ただ惜しむらくは、体内に蔵する魔力量を支えるだけの肉体の強さが足りなかった。
いつも気怠げで学園を休むことも多いのは、魔力と未成熟な肉体とがアンバランスなせいだ。
それも成長して鍛錬を続けていけば改善すると彼の叔父は言っているそうだが、まだまだ先は遠い。
「お前が魔法剣の一本も出せないほど完璧に魔力封じをやられるとはな。後妻たちはどこで、そこまで術が使える術師を見つけてきたんだ?」
後妻ブリジットは男爵家出身で、この伯爵家に嫁ぐ前は子爵家へ嫁いでいた人物だ。連れ子はそのときの子爵との間の息子と聞いていた。
どちらも、大した魔力量はなかったと聞いている。
「……本当かどうかはわかりませんが、魔道書を読んで自分たちで材料を調達して描いたんだそうです。あのまま魔力封じの施された屋根裏部屋に監禁し続けて、死ぬ寸前に特殊な毒を飲ませると、傀儡のように命令を聞くようになるのだそうで」
「なるほど、その薬剤の入っていたのがワインか」
「ええ、元からあの部屋の中に、これみよがしに置かれていましてね。水も食料もなかったものだから、危ないとわかっていてもあれを飲むしかなかった」
後妻たちは違法な隷属の魔導具を所持していたとも報告を受けている。
話を聞いて、カズンは深い溜め息をついて、ヨシュアが身体を起こしているベッド脇の椅子に腰を下ろした。
長い話になりそうだ。
「……で。後妻とその連れ子は牢へぶち込まれ、伯爵家嫡男の監禁と殺害未遂で相当、重い罰が下されるだろう。お前の描いたシナリオ通りか?」
「ふふ。……鬱陶しい輩が視界から消えてくれて、嬉しいですよ」
微笑むヨシュアは文句なしに麗しく、美しい。
この顔に皆、勝手に勘違いしたり、騙されたりするんだよなあ、とカズンはしみじみ思った。
基本的に貴族令息らしいおっとりマイペースな男だが、虫も殺さぬような可愛いタマでは決してない。
確かに成長するにつれ魔力と肉体のアンバランスで体調を崩しがちになり、物憂げな顔を見せることが多くなった。
しかし幼馴染みでもあるカズンからしたら、やんちゃが程よく抜けて大人しくなったなぐらいの感想である。
子供の頃はよく一緒に悪戯して、彼の叔父に怒られていたものである。
「……僕はてっきり、お前は爵位は継ぐが実務の面倒臭いことは義理の弟に任せて楽できるよう環境を整えるのだとばかり思っていた」
世間話ついでにヨシュアからその話を聞いたのは、そう遠い昔のことではない。
二人は同じ教室のクラスメイトで、幼い頃から互いを知る幼馴染みでもある。
今年、学園の最終学年に進級してからは同じクラスとなったので、とても親しい友人関係だった。
「最初はそのつもりでした」
実際、数年前に男爵家出身の出戻り未亡人ブリジットを後妻として迎えたヨシュアの父、リースト伯爵カイルの思惑もそうだったらしい。
魔力と肉体のアンバランスで不調を抱えていた息子ヨシュアの世話と補佐が可能な、貴族家出身で学園の卒業生でもある女性。
後妻ブリジットは学園時代は成績優秀クラスにいたそうで、連れ子アベルも伯爵家の役に立つ程度には有能だと判断されていたはずだった。
「だから義母と義弟の贅沢も、必要経費と思って目を瞑ろうとね。……だけど、彼女たちは決してしてはならないことをした」
「というと?」
「我がリースト伯爵家の先祖伝来の宝物を売り飛ばして、豪遊に使っていたんですよ。母の遺品の装飾品もね。もちろん、すぐに買い戻しを配下に命じましたが……」
リースト伯爵家は後妻に、伯爵夫人として必要と思われる品格維持費を渡していたが、本人には足りなかったようだ。