夜、自室で寛いでいたリースト子爵ルシウスは、屋敷の中によく知った魔力が入ってきたことに気づいて溜め息をついた。
「フリーダヤ……空間移動で来たな」
来るのは構わないのだが、せめて玄関か、あるいは裏口からでもいいから入口から入ってほしいものだ。
空間移動術は、環を使う新世代の魔力使いの中でも、トップクラスの実力者だけに扱える術だ。
現在、円環大陸上の各国の国内に設置されている転移魔術陣はフリーダヤのような空間移動術を使える、永遠の国に所属する新世代の実力者たちが開発したものだ。
アケロニア王国では、王都と各侯爵領、つまり辺境伯相当の国境を含む領地を結ぶ数ヶ所に設置されている。
他国もそう変わらない台数のはずだ。
ただし、規模の小さな小国には予算の関係で設置されていないことが多いと聞く。
絶妙だと思うのは、転移魔術陣はひとつの国の中を移動するためだけのもので、国家間の移動を可能とする設定にはされていないことだろう。
当然、他国への不法な侵入や侵攻を防ぐためである。
新世代の魔力使いたちは、そういうところへの配慮が行き届いている。
逆にいえば権力におもねらないし、都合よく動いてくれるわけでもないから、扱いづらいと敬遠する権力者たちも多いと聞く。
弟子の自分のところに来ないということは、フリーダヤの用があるのは甥っ子のほうだろう。
甥のヨシュアはとても優秀で魔力の多い魔力使いだから、フリーダヤも気になっていたものと見える。
「……ふむ」
少し本でも読んでから休もうと思っていたルシウスは、考えを変えて部屋の棚からウイスキーとグラスを取り出した。
魔法で簡単にグラスの中に透明な氷を作り、そこへ気に入りのリースト伯爵領産ウイスキーを注いだ。
ほんの一口だけ口に含んで、その味わいと感触を楽しみながら、ルシウスの思考はもう何年も前に別れて、二度と会うことがないと思っていた魔術師フリーダヤやそのパートナー聖女ロータス、そして己の最愛の亡兄へと向かう。
ルシウスは7歳年上の兄カイルが大好きだった。もちろん兄弟愛として。
ただもう、兄のことが好きで好きで堪らない気持ちだけが歳を重ねるごとに増していった。
とにかく、いつでも同じ空間の近い場所にいたいし、彼のためになることをしたくて仕方がなかった。
そんなルシウスだったから、やがて兄が妻を娶ると聞いたときには落ち込んだ。
兄カイル21歳、弟ルシウス14歳のときだ。
旅に出たのは、兄の結婚式を見届けた後、すぐの頃だった。
兄の妻となった人はとても個性的な女性で、ルシウスは一目で『この人は兄との相性がとても良い』と見抜いた。
リースト伯爵家の人間は見る者の心を蕩かすような麗しの美貌が特徴で、大抵の者はその美貌に騙されて騙されっぱなしだ。
実態は、外見を裏切る図太さの持ち主だったり、狡猾だったり、およそ自分勝手が服を着て歩いているような者たちの集団だった。
だが己の容貌が武器になることを知っているから、微笑みを効果的に使って周りを上手くコントロールしている。
勝手に周囲は忖度して都合よく動いてくれる。そういうものだと思っている。
ところが、ルシウスの兄カイルはそんなリースト伯爵家にあって、例外中の例外だった。
外見同様の繊細な内面を持っていて、繊細すぎて捻くれた性格の持ち主だった。
そんなセンシティブな感性の兄カイルに、呑気ながら口が達者で、相手をぐいぐい引っ張っていく新妻はとても相性が良かった。
とても個性的な性格で、兄カイルの繊細さや捻くれた性格を『そういうもの』として何ひとつ正そうとせずそのまま受け入れていた。
(兄の人生で何が良かったかといえば、やはりあの義姉ブリジットを伴侶に迎えたことだろう)
兄本人もそう思っていたようだ。
見合いの場で最初に彼女と出会ったとき、あまりのエキセントリックさに面食らったものの、その場で膝をついてプロポーズしたと聞いている。
『この女性を逃したら、オレは絶対に生涯独身のままだろうと思ったんだよ』
その義姉ブリジットが早逝した葬儀の日、埋葬される棺を見つめながら兄カイルが呟いていたことが思い出される。
(あまり妻を愛している様子を他人に見せることはなかったが……まさか同じ名前というだけで後妻を娶る愚を犯すとはな)
後に己を毒殺し、愛する息子ヨシュアをも手にかけようとした、リースト伯爵家簒奪事件の首謀者の後妻と、兄カイルの亡き妻は同じブリジットという名前を持っていた。
もちろん、ふたりは外見も性格も声も何もかも違う。
だが、兄本人が選んで連れてきた後妻をその名前とともに紹介されたとき。
一族の者はルシウスも含めて、なぜ彼が男爵家出身で子爵家から離縁されてきた子持ちの面倒くさい女を後妻にしたのか。
その意味を理解して、結局大きな声で反対はしなかったという経緯がある。
とはいえ、そんな兄でも結婚してしまったときは悲しかった。
当時まだ健在だった父メガエリスには「お前もいい加減に兄離れしろ!」と叱責されていたし、逆に自分にまで婚約者が充てがわれそうになったので、とりあえずルシウスは逃げた。
14歳のときである。
王立学園の中等部、2年生のときだ。
手持ちの小遣いを掻き集めて、素知らぬ振りで新婚ホヤホヤで浮かれている兄からもおねだりで小遣いをせしめた後、リースト伯爵家、そしてアケロニア王国から出奔して旅に出た。
しばらくは他国の冒険者ギルドで冒険者登録を行い、面倒見の良いギルド員や冒険者たちに構われながらその日暮らしの生活をしていた。
そんなとき、旅先で魔術師フリーダヤと聖女ロータスに出会う。
当時拠点にしていた冒険者ギルドの酒場で、つまらなさそうに皿の上のかたくて不味い肉の塊をフォークの先で突っついていた。
最初はまさか、このひょろっとした薄緑色の髪の優男と、美人だが掴みどころのないラベンダー色の髪と褐色肌の美女が、まさかあの円環大陸で最も有名な魔力使いペアだとは思わなかった。
「ねえ、そこの君。ここってさあ、もっと美味い飯はないの?」
「ああ、それは工夫すると美味くなりますよ」
と酒場を兼ねた食堂で声をかけられたルシウスが、食堂常備の薄い小麦粉を伸ばした丸い生地とチーズとトマト入りのサラダ、チリソースを持ってきて。
彼らが突っついていた肉の塊を細かく切り分けて、小麦粉の生地でそれらすべて包んで細長い棒状のブリトーにリメイクしたときから、彼らの縁は始まった。
ブリトーは当時、ルシウスを指導してくれていたギルドマスターの故郷のソウルフードだったらしい。
ここにアボカドがあれば完璧なのに、とよくボヤいていた。
大抵のものはこうして小麦粉の皮で包んで、適当なドレッシングやソースで味付ければ美味くなる。
案の定、ふたりは喜んで食べてくれていた。
それで自分も一緒に食事させてもらいながら話を聞くと、このよくわからない取り合わせの若い男女が、魔力使いの世界を旧世代と新世代に分断した張本人たちだというではないか。
即ち、環創成の魔術師フリーダヤと、聖女ロータスだ。
まさか、と思ってルシウスが食堂から見えるギルド受付のお姉さんを見ると、彼女はにっこり笑って頷いて見せるのだった。
優れた魔力使いを輩出するリースト伯爵家出身のルシウスは、当然ながら新世代の魔力使いたちが使う光の円環、環のことを知っていた。
血筋や本人の魔法や魔術への適性と無関係に使える術であることと、その発現条件についても。
「美味しいごはんをありがとう。これ、お礼ね」
と言って手を伸ばしてきたラベンダー色の髪と褐色の肌の女性の水色の瞳が濁っていて、彼女が盲目であることにルシウスが気づいたとき。
彼女、聖女ロータスの、案外節張った指の先がルシウスの額の中央を軽く突いた。
気づくとルシウスは冒険者ギルドの建物内の宿直室に寝かされていて、そこで何やらギルドマスターがフリーダヤと小難しい話をしていた。
ロータスは部屋の端のソファに裸足で寝転んでうたた寝をしている。
「目をつけられちまったな、坊主。……おいフリーダヤ。それでこのルシウス坊主は何に覚醒したんだ?」
髭面で強面の大男のギルドマスターを宥めつつ、フリーダヤがじっとルシウスを見つめてきた。
自分の魔力の流れに干渉する他者の魔力。
鑑定スキルを使われているとき特有の感覚だ。
「“聖者”だ。聖者ルシウス・リースト」
「え? 僕は魔法剣士ですよ? 聖者なんかじゃありません」
リースト伯爵家の者は、血筋に代々、金剛石の魔法剣を受け継いでいて、自動的に魔法剣士の称号と関連するスキルが発現する。
ルシウスも一本だけだが、なかなか強力な魔法剣を持っていて、それで冒険者として活躍していた。
「間違いなく聖者だ。というか君、元々が聖剣持ちの魔法剣士じゃないか」
「はあ、まあ確かに聖剣持ってますけど」
しかし、ルシウスにとっては、だから何だという話だ。
初めてこの聖剣を生み出したときの兄カイルの引きつった顔は忘れることができない。
自分はこんなものより、兄と同じ何十本もの無数の金剛石の魔法剣が欲しかったのだ。
(たった一本なんてショボすぎる!)
と実際、故郷でも口に出して顰蹙をかったのだが、だって本当に自分が欲しかったのは兄とお揃いのものだったのだ。
「珍しくロータスが動いたから驚いたけど、聖女から新たな聖者への“伝授”というわけだったか。そういうわけで、聖者覚醒だ。おめでとう」
「???」
何やら展開が唐突すぎてよくわからない。
ところが、ベッドの上に身を起こしてみると、ルシウスの腰回りに強く光り輝くリングがある。
「あれ、これって……」
「環だよ。君も聞いたことぐらいあるんじゃないの?」
冒険者の中には魔力使いも多くいて、その中にはこの光のリングを駆使する術者もそれなりにいた。
ただ、ルシウスの知る限りあまり強い者がおらず、回復やバフ役が大半なので自分とは関係のないものだと思っていた。
ルシウスは魔法剣士として徹底的な特攻タイプの戦闘スタイルだ。相入れない。
「まだ安定はしてないけど、これだけ輝く環の持ち主はそうはいない。久し振りに大物を当てたみたいだねえ」
それからもルシウスは冒険者ギルドを拠点にして冒険者活動を続けていた。
あの腰回りに出た環はその後消えてしまって、再び出そうとしても自力では出すことができなかった。
そのたび、こちらもフリーダヤと一緒に冒険者ギルドの宿に宿泊し続けていた聖女ロータスが音もなく忍び寄ってきては、ルシウスの白い額を指先でトンと突くのだった。
「あれ?」
十何回めかの同じ額を突かれた後。
ふと、ルシウスは己の頭の中がやけに静かなことに気づいた。
ちょうど、その日の討伐ノルマを終えてギルドに報告も済ませ、討伐品も納め終えた後のギルド内の食堂でのこと。
先にフリーダヤとロータスが食事をしていてルシウスに手を振ってきたので、自分も定食を頼んで彼らのテーブル席へ向かった。
そこでまたトン、とロータスに額にやられたのだ。
気づくとまたルシウスの腰回りには環が出ている。
「そろそろかな」
「そうよ。……あなた、頑固すぎるわ。もっと柔らかな生き方をなさい」
ロータスの嗜めるような言葉がルシウスの中を素通りしていく。
「あれ? いやちょっと待って……え? えええ?」
「どうしたの? まあこのお兄さんたちに話してご覧よ」
などとフリーダヤが相槌を打ちながら聞いてくれるものだから、ルシウスはもう居ても立っても居られず怒涛のように最愛への愛を語り続けた。
頼んだばかりの熱々の料理が冷めていくのも構わずに。
「そ、それで、どうなったんだい?」
もう何十回目だろう?
何やら疲れたようなフリーダヤの問いかけに、ルシウスはふと考え込んだ。
既にルシウスがフリーダヤとロータスのテーブルにやって来てから、3時間は経過している。
夕方から既に夜の時間帯になっていて、酒場には早い夕食を取っていた者たちは既に退席して、飲み目的の冒険者たちでごった返していた。
「僕の想いは……重たすぎたようです。そっか。だから我が最愛は僕が嫌いだったんだ」
「いや、自分で気づけて何よりだよ。むしろ、今まで誰も君に教えてくれなかったの?」
「うちの一族は、その……皆揃ってこだわりが強いので、僕もそんなに目立たなかったというか」
むしろ、麗しき美貌の兄弟が仲良く引っ付いている姿を、微笑ましげに見守られていた気がする。
確かに兄は嫌がっていたが、それでもルシウスが近くに居続けると諦めたように苦笑いして側にいることを許してくれていた。
だからルシウスも甘え続けたまま、ここまで来てしまった。
「あなた、その人から離れたほうがいいわ。完全な離別の必要はないけど、せめて違う場所に住むとか、距離を作ったほうがいい」
「……そうですね。故郷に戻れば別宅もあるので、いろいろ考えてみます」
そうと決まれば、後は簡単だ。
「故郷に戻ります。そろそろ、うちの美味しい鮭も食べたくなってきたし」
定食で頼んでいた、もうすっかり冷めきっていたデビルズサーモンの蒸し焼き、今日のルシウスの討伐ノルマだった戦利品の魚の魔物を食しながら言った。
悪くはないが、脂が多すぎて野暮ったい味だ。あと冷めると脂が生臭くなる。
「うち、なかなか有名な鮭の名産地なんですよ。こんなのより、ずっとずっと美味しいんですから。おふたりもアケロニア王国のリースト地域にお越しの際は絶対絶対、食べていってくださいね!」
「え、もう帰るの? せっかくだから、環が使えるようになるまで僕たちのところで修行していきなよ」
「必要ないです。無我を作るため感情の執着をなくせ、が環使いこなしの秘訣なのでしょう? 僕は我が最愛への想いを捨てたくないから新世代の環使いにはなりません」
「えええ……どうするよ、ロータス?」
困ったようにフリーダヤが隣のロータスを見る。
盲目の彼女は目を開いたまま、何か考えるような顔つきでじっとルシウスのほうを見ていた。
「あなた、相当に魔力量が多いみたいだけど、何か理由があるの?」
「ああ、それは当然です。僕は古代種ですから」
「「!?」」
そこでルシウスは、家族と一族の主要人物以外は誰も知らない己の真の出自を話した。
「僕の家は、魔法樹脂の使い手なんです。僕はその始祖筋の家の息子だったんだけど、生まれてすぐに魔力を暴走させて手に負えないからって、魔法樹脂に封じられてしまったんです」
それから数百年、あるいは数千年かが経過して、故郷の今の実家の倉庫に大切に保管されていたのが、約14年前に解けた。
それからは現在まで、普通の人間の子供と同じように成長してきている。
「すごい話だな。……ロータス、君はその一族のこと聞いたことある?」
「魔法樹脂を使う、青銀の髪の一族……ないわね。相当古いでしょ」
「あなたがたは確か800年生きてるんですっけ? 僕の先祖たちが今の故郷に移住したのは千年以上前で、それからまったく国外に出てませんから、知らないのも無理はないかと」
古代種というのは、人間の上位存在であるハイヒューマンのことで、すべての円環大陸の人類の祖先にあたる。
今はほとんど数がおらず、現在も生きている者たちは円環大陸中央部の永遠の国に集まって滅多なことでは外に出ない。
魔法や魔術を扱う魔力使いたちは、このハイヒューマンの血が流れているから魔力を持つと言われていた。
(そうか、僕は兄さんの側にいないほうがいいんだ)
その考えをすぐ実行に移したかったので、ルシウスはまだしばらく修行を続けてはどうかと勧めてくるフリーダヤたちに丁重な断りを入れ、旅を終えてアケロニア王国へと戻った。
すると兄と義姉の間には子供が産まれていた。
ヨシュアという名前の、とても愛らしい男の子だった。
そのとき、環に目覚めたばかりで魔力に満ちていたルシウスに天啓のような直観が訪れた。
「ああ、そうか。兄さんの妻も、兄さんの一部か」
そして生まれた甥ヨシュアにも何ともいえない愛情を感じた。
「兄の妻も子も、すべて兄と思って愛そう」
最愛の兄しかいなかったルシウスの世界が広がった、決定的な瞬間だった。
それまでは、兄か、兄でないかの区別しかなかったルシウスの世界は、兄と身内か、それ以外かに広がった。
帰国すると、一年近くも無鉄砲な冒険者活動を続けたことを、父親や兄に散々絞られた。
だがルシウスは心配させたことを詫びた上で彼らに相談し、リースト伯爵家が従属爵位として持つ子爵位を受け継いで、王都にある別宅ひとつを貰い受けて、兄とその家族から離れた。
まだ15歳のときのことだ。
そして爵位を持ったことで成人扱いとなった。
この国の成人年齢は学園を卒業する18歳だから、3年も早いことになる。
ルシウスが離れたことで、兄のカイルは少し落ち着いたようで、妻ブリジットとの関係も良好、間もなく王都の魔法魔術騎士団という魔力使いを率いる騎士団の副団長に抜擢された。
当時まだ兄カイルは22歳。大出世だ。
対するルシウスはそのまま、一年のブランクなどものともせず学園の中等部を卒業して、高等部へと進学した。
それから兄カイルの妻ブリジットが亡くなるまでは、ルシウスは彼らとは付かず離れずの絶妙な距離を保った。
兄は、ルシウスが息子ヨシュアに会いに来てあれこれ魔力の使い方のレクチャーなどをする分には嫌がることもなく、むしろ感謝していたのがまた良かった。
間にヨシュアやブリジットを挟むと、ルシウスがいても兄カイルは穏やかだった。
それが悔しく悲しかったが、仕方がない。
ルシウスは兄が大好きだったが、自分たちは相性が悪かったのだ。
ルシウスは大変に力のある魔力使いで、幼い頃から内外に知られていた。
また、「自分がやれと言ったことはやるべきだし、駄目だと言うものは本当に駄目なのだ」という持論の持ち主だった。
実際、その言うことに従うと良い結果になり、反抗すれば破滅的な結果になることが多い。
今にして思えば、それこそがフリーダヤたちが言っていた“聖者”特有の能力だったのだろう。
ヨシュアの父でルシウスの兄だった先代リースト伯爵カイルは、自分より優秀な弟ルシウスを厭うところがあった。
もちろん、表面的、対外的には仲の良い兄弟だったのだが。
弟ルシウスは大層力のある人物で、彼の言葉はその通りに実現することが多かった。
だが兄カイルは、そんな弟の助言を否定することに己の力を注ぎ込むようなところがあった。
周囲から嗜められても決して改めなかった。
最たるものは、紹介された男爵家出身の未亡人とその連れ子を「あれは駄目だ、我が家に入れてはいけない」と警告してきた弟に猛反発して、即座に再婚してしまったことだろう。
結果として彼は後妻に毒殺されて四十にもならない若い命を散らし、残された息子ヨシュアの命まで脅かされることになった。
「私が嫌いなら、それはそれで良かったのだ。兄さん。でも、あなたがもう少しだけ私の話を聞いてくれたらと思ったことは、何度もあるよ」
聖者が人々に向けて発する助言や忠告は『聖者の忠告』と呼ばれて、そのまま受け取り実行すると良い結果に、抵抗したり無視したりすると悪い結果になりやすい。
この能力はアケロニア王国では『絶対直観』とも呼ばれていた。
ただ、ルシウスは帰国して以来、一度も、誰にも己が新世代の環や聖者に覚醒したなどと話したことはなかった。
またそれで己を超えたのかと兄カイルの機嫌を損ねることはわかりきっていたので。
◇◇◇
「しかし、気づいたらグレイシア様たちにはバレていた。バラしたのはあなただな? 我が師フリーダヤよ」
気づくと部屋にいた、白く長いローブ姿に、薄緑色の長い髪と瞳の優男を、ルシウスは音がしそうなほど強い視線で睨みつけた。
「わっ、痛い! 痛い、ほんとに視線に魔力がこもってて痛い!」
「余計なことをしてくれたものだ。グレイシア王女殿下に知られたことで、私は面倒くさい案件をしょっちゅう回されることになって、兄やヨシュアの側にいられる時間が減ってしまったのだ!」
「いや、私は何もしてないよ。君、感情が昂ると魔力がネオンブルーに光って見えるから、それでバレたんだろ」
「何と!?」
「気づいてなかったの……」
わりと気配りの行き届いている男なのだが、変なところで抜けている。
「あとね、君も“聖者の芳香”が出てるからね。樹脂香系の……松脂やフランキンセンスみたいなやつ。周りは香水だと思ってるかもしれないけど、君が聖者だから発生する香りだ」
例えば聖女ロータスだと、その名前と同じ蓮の花の芳香を漂わせる。
この現象ばかりは、聖なる魔力持ち特有の現象だった。
「そうなのですか? デオドラント不要で便利だなと思っておりましたが」
「まあ、汗をかいても、足が蒸れても臭くならないのはいいよね」
聖者や聖女のいる空間は埃も溜まりにくく、清浄に保たれやすい。
実際、食料品なども聖者の祝福を受けると新鮮さが保たれ腐敗しにくいと言われている。
「それで、我が師フリーダヤ。早く帰れ」
「いやちょっと待って。ヴァシレウスから気になる話を聞いてたの忘れてたんだ。ロットハーナ一族の被害が出たんだって?」
ロットハーナ一族は現アケロニア王家の前の王朝の一族だ。
邪悪な錬金術を使って、誘拐した自国民たちを黄金に変えては己の欲望に耽った邪道の徒である。
「調査を頼めないかって言われたんだけど、私はあんまり向いてないんだよね。君はどう?」
「目の前にいるなら塵も残らず殲滅して見せましょう」
「だよねー」
フリーダヤとロータス系列の魔力使いたちには、個性的で様々な特色を持つ者たちが揃っている。
分析や探索の得意なタイプは、女占い師ハスミンがいる。だが今、彼女は姉のガブリエラとバカンスの最中で連絡が取れない。
新世代の環を使う魔力使いたちは、同じファミリーに属する者たちの間でなら環を通して情報や、物品の送付や交換ができる。
当然、占い師ハスミンにも早急にアケロニア王国まで来るよう手紙を送ったのだが、よほどバカンスが楽しいのか返事が来ない。
ならばと、姉のガブリエラのほうにもフリーダヤは手紙を送ったものの、こちらも返事がない。
彼女の場合は面倒がって、環をそもそも発現させておらず手紙を受け取った形跡がない。
「うちの系列、ほんとフリーダム過ぎない? せっかく活躍して力を得るチャンスなのに見向きもしない」
「ははは、自由が服を着て歩いている御仁が何を仰るやら」
「その言葉、そっくりそのまま返すからね、ルシウス」
制限の多い人間社会の中にいてなお、捉われない自由な精神を保持するのがフリーダヤ・ロータスファミリーの魔力使いたちだ。
基本的に、どれだけ深刻な事態に直面しようと意識は軽やかさを保っている。
「それで、アケロニア王国にはいつまでご滞在で?」
「うーん……。ヴァシレウスに詳細を聞いたんだけどね、ロットハーナ一族は人を黄金に換えているのだろう? そんなことしたらとっくに犯人はまともな人間ではなくなってるはずだ」
「我が国の魔法魔術騎士団の精鋭たちが全力で調査しても、まだ見つかっていないようですね」
既に、ラーフ公爵夫人である、元フォーセット侯爵令嬢だったゾエ夫人が、ロットハーナの末裔であったことが判明している。
ゾエ夫人は今も逃亡中で、その途中で実家の家族をほとんどすべて黄金に換えて逃亡資金としたとされる。
噂では、国境のあるホーライル侯爵領に潜伏したとの情報もあったが、まだ見つかっていない。
「もし本当に、平気で生きた人間を素材にして黄金に換えるようなことをしているなら、その者の魔力は“虚無”という属性に変わっているはずだ」
「虚無、ですか? 初めて聞きますが」
「滅多にないんだけどね。私も師匠筋の呪師から話を聞いただけで、実際知ってるわけじゃない」
今の円環大陸にもほとんど存在しないらしいが、その説明はルシウスをして驚愕させた。
「『魔術を無効化する』ですと?」
「そう。これが厄介だよ。魔法なら相手を上回る魔力量の持ち主なら大丈夫。防壁を張っても、魔術防壁だと虚無魔力はすり抜けてしまうらしいんだよね」
「………………」
「魔法はさ、やっぱり術者独自の術式だからそう簡単には破られないんだけど。……でも、魔術師と比べると魔法使いの数は少ないからね。一応、ヴァシレウスには自分たちの護衛に魔法使いを増やすよう助言してきた」
それでここからが重要、と前置きしてフリーダヤは声を潜めた。
「虚無の影響を受けると、自分も虚無に染まる。浄化できるのは聖なる魔力だけだ。ルシウス、もし万が一のときに備えて、大切な人を守ってあげるんだよ」
ということは、虚無の浄化は実質、今のアケロニア王国では聖者のルシウスにしかできないということだ。
だが、フリーダヤはだからといって、ルシウスに『お前が戦え』とは言わなかった。
この男はどれだけ人が頭を下げて必死に頼んでも、自分の家族や身内と認めた者以外のために動くことがない。
だからいつまでも、新世代の環使いでありながら、旧世代の魔力使いの特徴と弱点を色濃く残す。
さて、今回このルシウスは対ロットハーナ一族絡みで動いてくれるのかどうか。
「カズン様、ではいつ頃リースト伯爵領へ行きましょうか?」
魔術師フリーダヤ来訪の衝撃も冷めやらぬ翌日。
何とか気を取り直してアルトレイ女大公家を訪れたヨシュアがそこで見たものとは。
「もうちょっとだけお父様とお母様分をチャージしてから」
ソファに座る父ヴァシレウスと母セシリアの間に挟まって、思う存分に甘えているカズンの姿だった。
約半月ほどの間、避暑地の別荘と王都とで離れ離れに過ごした結果、両親恋しさに落ち込む姿を見せていたカズンだ。
先日、王都に戻ってきてから数日経っているのだが、まだまだ甘え足りないらしい。
そんな息子と離れていた両親側もそれなりに寂しかったようで、ヴァシレウスは横からカズンの黒髪を飽きることなく撫でてやっているし、セシリアは先ほどからずっと頬っぺたに自分の頬をくっつけたり、口づけたりしては顔を合わせるたび笑い合っている。
「鮭の魚卵はもう興味がなくなりましたか? カズン様」
別荘で見せたあのテンションの上がりようを見るに、これで気を引けるはずだった。
案の定、ギラリとカズンの黒縁眼鏡の硝子面が光った。
「まだ8月だが、鮭の魚卵は獲れるのか? ヨシュア」
「リースト伯爵領ではサケ類は通年獲れるんです。今の時期だと紅鮭がちょうど食べ頃です。身は一番美味しい時期ですね」
「一番美味しい時期……」
「早く漁獲しないと、産卵を終えた紅鮭に卵が無くなりますし、身も痩せてあとは死んでいくだけなので」
「何と!」
それはいけない。すごくいけない。
「あら、あたくしの可愛いショコラちゃんはお出かけね? じゃあ、あたくしもお仕事に行ーこうっと」
カズンの左隣にいたセシリアが、軽やかな声をあげた。
「え。お母様、どこか行かれるのですか?」
「そうよ? 人物鑑定スキルで見てほしいっていう依頼がいくつかあってね。また一ヶ月くらい、国内を回ってこようと思うの」
セシリアは人物鑑定スキルの最高峰、特級ランク持ちだ。
貴族から呼ばれる場合は、妊娠した本人や、妻、家族や一族の子供の父親の確認をしてほしいと呼ばれることがある。
あとは裕福な庶民や、叙勲などで叙爵された者の家系図を作成するために、本人の系譜を詳しく人物鑑定してほしいという依頼が、常にある。
「そっか……お母様、またいなくなっちゃうのか……」
と、ぴったり当の母親にくっついたまま、寂しそうにカズンが呟く。
「うちの息子はとんだ甘ったれだ」
口ではそう言いながら、右隣のヴァシレウスが楽しそうにカズンの黒髪を掻き回してやっている。
「よし、リースト伯爵領に行くのだな? ならば私も行こう。ヨシュア、構わないかね?」
「わあ、ヴァシレウス様もですか? 大歓迎です、リースト伯爵領のすべてをあげて歓待いたします!」
「はは、そんな大ごとにしてどうする。お忍びだ、お忍び!」
近年のヴァシレウスは、カズンが生まれる前にたびたび患っていた病と体調不良を乗り越えたこともあり、非常に活動的でフットワークも軽い。
他の予定もあるから何日もは無理だが、二日ぐらいなら都合がつくという。
ならばと翌日からさっそく、リースト伯爵領へ小旅行することにした。
「あ。一応、ユーグレン様にもお声がけしましょう」
「また怒られたくないものな」
先月、カズンたちが避暑地の別荘にいたことを知らされずにいたユーグレンが非常に怒ったことは、まだ記憶に新しかった。
「ライルたちはどうだろう。声かけてもいいか、ヨシュア」
「ええ。リースト伯爵領はランクAダンジョンがありますしね、彼らなら楽しめるんじゃないかな」
それでさっそく手紙をしたためて王宮のユーグレン、ライルとグレンの家宛に家人に届けてもらうと、それぞれ良い返事が返ってきた。
明日は直接、王都のリースト伯爵家のタウンハウスに朝、集合である。
「へえ、ユーグレン、来れるのか」
ヨシュアが帰っていって夕食の後にリビングで家人が持ち帰った手紙の返事を確認していると、今回はパスだろうなと思っていたユーグレンも参加するとのことで、カズンは驚いた。
昨日、イクラの話題を出したときは、リースト伯爵領までは行けないと残念そうにしていたのだが。
「まあ夏だしな、テオドロスやグレイシアたちも活発には動かぬだろうし、文官たちの仕事も鈍い。……それに、お前とヨシュアがふたりきりとわかっていて、執務に身が入るわけがない」
何やら父のヴァシレウスが訳知り顔で含み笑いしている。
「頻繁に三人で会えるのも学生時代のうちだけだろうしな。仲良くやるといい」
「うーん……そうでしょうか?」
正直なところ、カズンはいまだに自分たちの、三人の関係がいまひとつピンときていない。
本当なら、ユーグレンがヨシュアを上手く捕まえていればいいのだ。
実際、ヨシュアの祖父はカズンの父の歳の離れた幼馴染みで、国王と魔道騎士団の団長という主従関係にあった。そんな感じで。
(なんでぼくが巻き込まれてるのだろう?)
いまいち、よくわからない。
そもそも、ユーグレンがヨシュアを推しているように、ヨシュアが自分を推しているというのも驚きなのだ。
カズンにとってヨシュアは家族以外で一番親しい人間で、側にいて当たり前の存在だから、好きとか嫌いとか変な打算を絡めたくないのだ。
「ねえ、お父様は今の僕みたいな三角関係になったことはありますか?」
「カズンみたいな、すべて一方通行の三角関係はないな。相手からの矢印はすべて私に向いていたことばかりだ。ハハハハハ!」
「もう。お父様ったら」
そもそも、矢印の終点のカズンには、矢印の向け先がない。
(あれ、じゃあ三角関係じゃないのでは???)
明日から人物鑑定の仕事に出るとのことで、早々に部屋に戻っていった母セシリアにはとても聞かせられないような、父の武勇伝だ。
カズンが首を傾げたりして考え込んでいると。
「お前の場合は、幼い頃からヨシュアが周りを牽制していたのだ。お前はこのヴァシレウスの息子で、現国王の王弟ぞ? 学友や側近候補の打診など山ほど来ていたに決まっている」
「ええっ? それは初めて聞きました!」
しかし言われてみれば確かに、幼い頃から一番自分の側にいたのはヨシュアだ。
(あれ? というより、ヨシュアしかいなかった……ような……?)
ユーグレンとも仲は良かったが、あちらは王子、こちらは王族とはいえ一貴族の子息。
月に数回会えれば良いほうで、ヨシュアのように毎週、下手をすれば毎日互いのどちらかの家に行って遊びまくっていたわけではない。
「ヨシュアって……そう……なのか……」
カズンにとってヨシュアといえば、最も親しい友人でその座は揺らいだことがない。
だが、ヨシュアと自分の関係を考えていて、ふと、以前学園にいたとき彼がライルとグレンの関係を見て口にしたことが思い出されてきた。
『オレだったら、相手が逃げる前に、周りから逃げられないよう囲い込みますけどね』
『それで周囲から自分の良い評判をそれとなく、本人の耳に入るよう動いてもらって』
『あとは、自分以外の人間が相手に手を出さないよう、監視を付けると思います。横取りなんてされないよう、慎重に排除するでしょうね』
『だって、絶対に失敗したくないじゃないですか。これだ、と決めた相手は必ず手に入れたいですから』
思えば、ヨシュアが自分の人間関係への所感を語ったのは、後にも先にもあのときだけだった。
あのときは確か、ユーグレンがヨシュアに、既に慕う対象となる人物がいるのかを訊いていたのだった。
それでヨシュアはどう答えたのだったか。あくまでも答えは濁していたように思う。
(あれって……僕のことを言ってた……のか、な?)
そこでようやく、カズンはヨシュアの気持ちに意識を向け始めた。
(そうか……僕が推しというほどだから、あいつは謀略を巡らせて、自分以外を僕に近づけなかったってことなのか)
そういえば、今は親しい友人となっているライルやグレンは、ヨシュアが亡父の後妻たちによるリースト伯爵家のお家乗っ取り事件の被害を受けて、学園に登校できなかった時期がきっかけで親しくなっている。
もしかしたら、カズンのいる3年A組でライルが婚約破棄事件を起こしたとき、ヨシュアがその場にいたなら。
(ふうん……物事のタイミングとは不思議なものだな……)
何にせよ、ヨシュアもユーグレンも押せ押せで怖い。
むしろ、カズンだけが一方的に押されている気がする。
何となく三人で一緒にいて当たり前になっているが、本気で自分も考えないと、押し切られて引き返せないところまで関係を進められてしまいそうだった。
(しかもどこに向かうかわからない。こわい!)
ユーグレンは毎朝、朝食を済ませひと休みしてから、王宮内の自室から執務室へと向かう。
王太女の母親やその伴侶の父がユーグレン用に仕分けした、王族の裁可を必要とする書類を処理するのが仕事になっている。
「今日も暑いな……」
室内に入れば氷の魔石を使った冷房用の魔導具があるので涼しいのだが、さすがに建物の回廊までは冷やしていない。
護衛兼側近のウェイザー公爵令息ローレンツを伴って、執務室へ向かう回廊を歩いていると、曲がり角の先から自分の名前が聞こえてくる。
そこでユーグレンはぴたりと足を止めた。
聞き耳を立てるまでもなく、数人の文官たちがそこで立ち話をしているようだった。
「ユーグレン殿下、本当にリースト伯爵を傘下に入れるらしいな」
「へえ、あのリースト伯爵家の澄ましたお綺麗な顔が殿下に侍るのか。側近にするのか、違う意図があるのか勘繰ってしまうよな」
「おい、不敬だぞ」
「何言ってるんだ。ユーグレン殿下がヨシュア殿に懸想してたのは有名な話じゃないか」
「ちょっと行って注意してきますね」
ローレンツが出て行こうとするのを、ユーグレンは首を振ってやめろと引き止めた。
「……私がヨシュアを望んだことで、彼まで侮辱を受けてしまうとは」
「殿下」
「私が、そんな、彼を……」
その先はさすがに青臭すぎて言葉には出せなかったが、付き合いの長いローレンツには、ユーグレンの葛藤が何となくわかったようだ。
心配そうな顔でユーグレンの様子を窺っている。
また変な方向に拗らせなければよいのだが。
三人で親しく付き合うようになってからというもの。
ユーグレンはヨシュアとふつうに軽口を叩けるぐらいまで親しくなれた。
彼もまた、ユーグレンと学園でのことや政治や領地経営、カズンの話などをするのは案外楽しそうで。
(これなら本当に、彼を私の側に置けるかもしれない)
とユーグレンは期待に胸を高鳴らせていた。
特に夏休みに入って、カズンたちを追って避暑地の別荘まで行って現地滞在している間はそれはもう朝から晩まで共にいられたわけで。
ところが。
そんなヨシュアだったが、ユーグレンがカズンと集中して話し込んだり、スキンシップで肩や背中、腕などに触れたりすると途端に機嫌が悪くなる。
ましてや、カズンからユーグレンの頬に親愛のキスなどしようものなら、それこそ親の仇を見るような鋭い目つきで睨みつけてくる。
あの、ユーグレンを蕩かせる、銀の花咲く湖面の水色の瞳で。
「参ったなあ。私はいったい、どうすればいいのだ」
と悩んでいたところに、今朝耳にした、あの噂話だ。
ユーグレンは王族で王子という公人のため、人から好き勝手なことを言われるのは有名税のようなもので慣れている。
だが、自分たちの関係やその行方が人々の注目の的だと認識させられて、さすがのユーグレンも戸惑っていた。
自分はいい。だがヨシュアやカズンはどうだろうか。
執務に没頭しているようでいて、一日ずーっと同じことでユーグレンは堂々巡りなことを考えていた。
すると夕方の少し前ごろになってカズンから、明日よりヴァシレウスも連れてリースト伯爵領に行くがお前はどうする? との手紙が届いた。
「………………」
先月の七月、ほとんどを自分もカズンたちと別荘地で過ごして遊んでしまったユーグレンだ。
さすがにもうこの夏休み中、遊びに行く許可は下りないだろうなと、半ば諦め気分で母親の王太女グレイシアの執務室まで行くと。
「うむ、良いぞ。いつもというわけにはいかぬが、まあこの夏休みの間ぐらいは好きにするといい」
「もしかすると、環を発現させたカズン様は本当に国を出て行ってしまわれるかもしれませんしね。今のうちにたくさん思い出を作っておくといいでしょう」
両親それぞれから激励の言葉まで頂戴して、許可が取れてしまった。
執務室に戻り、カズン宛の返事を書いて、待っていた彼の家の家人に渡して帰してやる。
その後、速攻で残っていた執務を片付けて、自分の部屋に戻り旅行の準備を侍女たちに頼んだ。
「何日ぐらいなら滞在できるだろう。二日、いや三日かな?」
「必要があれば連絡が入るでしょうから。ゆっくり楽しんでいらしてくださいね」
リースト伯爵領へ行くなら、ヨシュアや彼の叔父ルシウスといった手練れが常に側にいるため、ユーグレンにも多人数の護衛は必要ない。
明日は集合場所のリースト伯爵家までユーグレンを送り届けた後、ローレンツも短い休暇を取ることになる。
翌朝、カズンたちが王都のリースト伯爵家のタウンハウスへ行くと、そこには薄緑色の長い髪と瞳の魔術師フリーダヤがいる。
「フリーダヤ様、帰られたのではなかったのですか?」
「ヴァシレウス。私もそう思ってたんだけど、ルシウスに引き止められちゃって。……皆さんお揃いで、遠足でも行くの?」
リースト伯爵家では、当主のヨシュアとその叔父で後見人のルシウスが一同を出迎えた。
やって来たのはカズンと父ヴァシレウス。
王宮からユーグレン王子。
ホーライル侯爵令息ライルと、ブルー男爵令息グレンは同じ馬車で来た。朝、ライルがグレンの家に寄ってから来たらしい。
「えっ。フリーダヤって、あの環創成の魔術師フリーダヤ様ですか!?」
「超有名人じゃん」
ライルとグレンが驚いている。まあこうなるだろうなと、カズンたちには予想できた反応だ。
「はい、魔術師フリーダヤですよ。おやおや、君たちも環を出せそうな素質持ちじゃない? やっぱりカズンの周りに集まってたねえ」
それでなぜ、フリーダヤがここにいるかといえば、リースト伯爵領への空間移動の術を使わせるためである。
本人も環使いだと判明したルシウスでも可能らしかったが、彼の場合は他人にあまり自分が環使いであることを知られたくないようだったので、わざわざ師匠フリーダヤを引き留めて使うことにしたらしい。
そうして全員集合したところで、フリーダヤの空間移動魔法でリースト伯爵領まで瞬間移動した。
さあ、今が旬だという紅鮭を獲りに行くぞ! とカズンが気合いを入れたところで、ルシウスが無粋な待ったをかけた。
「学生諸君は夏休みの宿題は終わったのか?」
「あ」
王子のユーグレンは早々に終わらせていて問題ない。
カズンとヨシュアは別荘にいた先月のうちに八割方終わらせて、後は残りと内容確認。
「あー忘れてましたねえ」
「別にやらなくても罰則とかねえし、俺はそのまま放置で」
夏休みに入ってからずっと冒険者活動に明け暮れていたライルとグレンのペアは、手を付けてもいなかった。
しかし、そのような不精を許す保護者はここにはいない。特に、ここには口うるさいことで有名なルシウスがいる。
「フリーダヤ、二人を家に連れて行って宿題のテキストを持ってきてくれませんか」
「えっ、そこまで私を使う!?」
「学生は勉強が本分です。そのくらい、いいじゃないですか」
師匠であるはずのフリーダヤを顎で使って、ルシウスはライルとグレンを連れて彼らの実家まで戻り、宿題を持って来させるよう促すのだった。
残ったカズンとヨシュアは「まず宿題を片付けるのが先だ!」と有無を言わさずルシウスに詰め寄られ、頷くしかなかった。
即座に、リースト伯爵家本邸のサロンルームに学習用の長机と椅子が運び込まれ、保護者たちの監督のもと宿題が終わるまで逃げられなくなった。
「ルシウス様が厳しすぎる……」
今日はもう宿題を終わらせないと他に何もできないだろう。
カズンが嘆息した。どことなく黒縁眼鏡のレンズの輝きも鈍い。ちゃんといつも硝子は拭いているのに。なぜだ。
するとヨシュアが、悪戯っ子みたいな顔をして内緒話をしてくれた。
「ふふ。内緒ですよ? あんなこと言ってる叔父様も、昔は夏休みの宿題をサボっていたそうです」
「「マジで!?」」
「マジです。父と祖父の両方から聞きました。宿題の存在を思い出すのがいつも、夏休みの最終日だったとかで。ユーグレン殿下のお母上はご存じじゃないかな」
ユーグレンの母、グレイシア王太女はヨシュアの父、前リースト伯爵カイルの学園での先輩なのだ。
学生時代はよく後輩のカイルを同級生たちと訪ねて遊んでいたそうな。
そのとき、夏休みの宿題に追い込まれて泣きを見ている少年時代のルシウスによく巻き込まれていたとか。
そして鮭は漁獲しても、寄生虫対策で一度冷凍しなければ食べられない。
今日は領民の皆さんが川に紅鮭を獲りに行ってくれているとのことで、本番は明日からだ。
カズンとヨシュアが宿題の残りを片付けて、ユーグレンが時々助言をし、ヴァシレウスとルシウスは歓談して午前中をリースト伯爵家の本邸で過ごした。
昼前にライルとグレンを連れたフリーダヤが戻ってきたのだが。
「何か出たわ。俺、すごくねえ?」
ライルの腰回りに光るリングが浮かんでいる。
ぼき、とヨシュアが握っていた鉛筆を折る音がした。
カズンが隣の幼馴染みを見ると、ヨシュアの顔が青ざめている。
「そんな……まさか、こんな短期間でライル様までなんて……」
青ざめたヨシュアの顔色は、あっという間に紙のように真っ白になっていく。
「いやーすごいよね、ちょっとここに来るまでの間にアドバイスしたら勘を掴んじゃったみたいでさ!」
「何をどうやったら出たんだ? ライルは」
「剣を使うときの、集中する感覚そのまま研ぎ澄ませていったら出たんだよ」
「なるほどー」
ライルが赤茶の髪を掻いて照れている。
その傍らにはグレンもいたが、彼の場合はまだ環を発現するところまではいかなかったようだ。
カズンたちが彼を見ると「とんでもない!」と必死で顔をぷるぷる横に振っていた。