「ルシウス様。僕、イクラ食べたいのです。鮭の魚卵です」
ランクアップ試験も無事終わり、全員まさかの二段階特進で大喜びの後。
慰労会も終わり解散する前にカズンはルシウスにも頼んでおくことにした。
食べたいものは何がなんでも食べてみせるという強い意志がカズンにはある。
「魚卵だと? あれは腐りやすいゆえ廃棄と決まっているのだが」
「僕の前世では皆食べておりました!」
ルシウスには子供の頃に既にカズンの前世のことを伝えている。
というより、カズンが前世を思い出してポロポロ涙を流して泣くようになったとき、両親が真っ先に相談したのが、このルシウスなのだ。
「だが、あれは加熱すると不味いし、かといって生食すると寄生虫が……」
「身と同じ処理で良いのです。即ち氷の魔石で冷凍。確かマイナス20℃で丸一日!」
「!」
「はい!」
天啓を得た、とばかりにルシウスの湖面の水色の瞳が見開かれる。
「……カズン様、ちょっとリースト伯爵領までお越しいただけますかな? ともに鮭の魚卵の可能性を追求しようではないか」
「喜んで! 喜んでー!」
そこまで魚卵如きで盛り上がるか、というようなテンション上げ上げのふたり。
「ええええ……カズン、お前だけリースト伯爵領行くってずるい。しかもヨシュアも一緒だろう?」
「ユーグレン王子、安心するといい。この二人のことは私がしっかり監督しておく。あなたは安心して王族の務めを果たされよ」
「る、ルシウス様がそう仰るなら……」
夏休みに入りたての七月丸々、カズンとヨシュアを追いかけて避暑地に行ってしまったユーグレンは、もうこの夏は王都を出ることはできそうもない。
だがルシウスが確約してくれるのなら、それは確実なことだった。
むしろカズンやヨシュアといった本人たちからの約束より安心である。
「大丈夫ですよ、ユーグレン様。戻ってきたらお土産を渡しにお手紙出しますね」
別れ際、微笑むヨシュアの言葉だけがよすがだった。
ヨシュアが保護者の叔父ルシウスと帰って行った後の午後。
カズンとユーグレンはそのまま王宮に残り、先に来客対応していたヴァシレウスと訪問者とを王族専用の応接間で待っていた。
王宮にやって来たのは、カズンが別荘にいたとき発現した光の輪、環の問い合わせを受けた魔術師フリーダヤだ。
円環大陸の中央にある神秘の永遠の国所属の、この環の開発者本人である。
齢800年を超える、最も有名な魔力使いのひとりだ。
柔らかな若葉の如き薄緑の長い髪と瞳を持つ優男風の若い見た目の魔術師を、現王テオドロス以下、すべての王族で最敬礼で出迎えた。
「はは、よしてくれ、アケロニアの諸君。私はただの魔術師に過ぎないし、君たちより優れているともそうでないとも言えないのだから」
軽い口調で膝をついた一同を立たせて座り直させて、フリーダヤはすぐ話の本題に入った。
ざっと一同を見渡し、末席にいたカズンに目を止めて驚いたように、その髪と同じ色の瞳を見開いた。
「それで、環を発現したのは……君か、カズン!」
てっきりヴァシレウスかと思っていたとフリーダヤが驚いている。
「ご期待に添えず申し訳ありません、フリーダヤ様。私にはこの国は捨てられませぬゆえ」
説明を任せたいと言われたフリーダヤに促されて、カズンは彼を連れて王宮内の別室へ移動することにした。
特段、内緒にする話でもないということだったが、父親のヴァシレウスがまずは二人で話すよう勧めてきたのだ。
小サロンを借り、侍女がティーセットの準備を整え退室した後で、カズンはフリーダヤから話を聞いた。
「君はさ、今のアケロニアで血統的に一番の貴種なわけだけど。昔からあんまり、自分のこと偉いって思ってないところがあったね。そういうところが良かったんだろうな」
カズンは前世が現代日本の一般家庭に育った高校生で、その記憶があったのも良い方向に向かったようだ。
「王族の自分と平民とは、生まれや環境が違うだけで大した違いはないって思ってるね。そういう平等な価値観は貴族社会じゃ忌避されるだろうけど、魔力使いの世界では重要なことだ」
なぜならば、と滑らかにフリーダヤが事実を告げる。
「だって存在は等しく価値があり、また価値がないものだから」
それから、フリーダヤから受けた環の説明はカズンを驚愕させることになる。
カズンとフリーダヤが退室した後、応接間から国王テオドロスの執務室に移動したヴァシレウスたち。
さっそくソファに腰掛け、無造作に黒の騎士服の脚を組んだ王太女グレイシアが嘆息した。
「あーあ、環発現となると、セシリアの可愛いショコラちゃんが王家に残るルートは無くなってしまうかもなあ」
「母上、何を言ってるんですか。カズンは後々は私の側近になる予定なのですよ?」
少なくともユーグレンはそのつもりでいる。
「ふん、この愚息め。派閥だの何だのと煙にまいていたが、このわたくしの目は誤魔化せぬ」
「……うっ」
そう、建前上は仲の良い親友となった三人だが、実態はだいぶ違うものだった。
カズンとヨシュアとユーグレン、三人だけの内緒の話のはずが、なぜか母親のグレイシア王太女にバレている。
「そ、それはともかく。環の発現で可能性が潰れたとは、何のことですか?」
いろいろ誤魔化すためのユーグレンの疑問に、ヴァシレウスとテオドロス、そしてセシリアがほぼ同時に深い溜め息をついた。
「環を発現させた魔力使いは、自由を指向するようになる。結果、それまで所属していた社会的な枠組みから離脱する者が大半とされている」
「どういう意味です?」
「言葉通りの意味だ。恐らくカズンは遠くない未来に、王族どころか、この国からも離れていく可能性が高い」
思わず、ユーグレンはヴァシレウスとセシリアを見た。
二人とも、沈痛そうな表情で両目を閉じ、両手を強く握り締めている。
彼らが一人息子のカズンを溺愛していることは貴族社会に広く知れ渡っている。
「大切なものがあっても、それらとの絆すら断ち切ってしまうのが環というやつらしい。貴族や組織の長に発現すると、大抵は自分の責任を放って出奔すると言われている」
「………………」
「例を挙げると、魔術師フリーダヤの弟子のひとり薬師リコは、この大陸の北部の街の大資産家だったという。だが環を発現した後、彼はその立場も莫大な資産や屋敷も投げ打って、フリーダヤの弟子になったというぞ」
「薬師リコ様、懐かしいですね。ユーグレン、あなたが幼い頃、麻疹にかかったとき世話になった方です」
と王太女の伴侶でユーグレンの父クロレオが懐かしげに目を細めている。
◇◇◇
環は、永遠の国所属の魔術師フリーダヤが約800年前に開発した、特殊な統合魔法魔術式のことである。
魔法と魔術の間の子のような術式で、かつ両方の術を統合したものだからこの名称で呼ばれている。
円環状、即ちリング状の光の輪に変換した自分の魔力の源を出現させる。
外界と繋がる機能からリンクと名付けられた。ちなみに形状から普通にリングと言ってももちろん通じる。
試しにとフリーダヤが自分の環を見せてくれた。
彼の場合は、胸の周りに浮き出たカズンとは違い、頭部の周辺に発現していた。
環の位置は、魔力使いそれぞれ違うらしい。
イメージとしては、カズンの前世の記憶にあるような、土星の輪に近かった。
環は光の輪とも呼ばれるが、実際の形状は幅のある、帯状の輪だった。
それからカズンは彼から、環に関する基本的なレクチャーを受けた。
まず、今後は環を用いることで、魔法・魔術の双方を血筋に依存した魔力だけでなく、それ以外からも用いることが可能となった。
環は自分の肉体が持つ魔力以外に、他者や自然界からも魔力の調達を可能にした魔法魔術式なのだ。
使いこなすには、魔法と魔術いずれを扱う場合でも、直前に執着を離れ無我の意識状態を作ることが求められる。
フリーダヤが環を創造するまでの魔法使い、魔術師たちの世代を魔力使いの世界では旧世代、環以降を新世代と呼ぶ。
旧世代と新世代には、魔力の使い方に大きな違いがある。
旧世代は、己の肉体が持つ魔力をベースとして魔法や魔術を使い、基本的に使える術は自分が持つ魔力量に依存する。
元々のポテンシャル以上の魔力を使う場合、自分や協力者の持つリソースの何かを代償として犠牲にする“代償方式”が特徴だ。
対して新世代は、環を発現できるだけの魔力量さえあれば、本人の力量の範囲内で、環を通じて魔法や魔術を行使するのに必要な魔力を、協力者や環境、世界など自分以外のところから安全に調達できる。
これを“環方式”という。
これらの特徴から、円環大陸では魔法使い、魔術師ともに、緩やかに環方式の新世代へと移行しつつあった。
王侯貴族制のある国や文化では、旧世代が主流で、魔法魔術大国のアケロニア王国も旧世代魔力使いの国だ。
王族や貴族は血脈を通じて強い魔力を受け継いできているため、自分の持つ魔力で大抵のことができてしまうからだ。
また、王侯貴族が新世代の環方式へ移行できない理由というものがあった。
「環を発現させるときは、己を一度リセットして無我にならなきゃいけない。そのとき、自分が属してる社会や義務との意識的な繋がりが切れてしまうんだ。その共同体に所属することの執着や責任感みたいなものもリセットされてしまうから」
例えば、一国の王が環に目覚めてしまうと、己の持つ責務が重荷となって環が使いにくくなる。
だから捨ててしまうのだ、と。
この事実が知れ渡っているため、円環大陸の魔力持ちの王族や貴族たちは環を警戒している。
結果、フリーダヤが環を開発して800年経った現在でも、世界には旧世代と新世代が共存するのみで完全な新世代への移行には至っていない。
むしろ旧世代の中には、新世代の環使いたちを厭う者もいるぐらいだ。
アケロニア王国は現王家に王朝が代わった頃、この魔術師フリーダヤの世話になった恩があった。
その縁で、王族たちは定期的に永遠の国のフリーダヤと連絡を取り合って交流を許されていた。
ただしそれでも何百年もの間、王族にはこれまでひとりも環に目覚め、使えるようになった者が出なかったのだが。
「私が環をこの世界に生み出してから800年が経ったけど、王侯貴族で環を発現させた者は数えるほどしかいない。特に君みたいな王の座に近い王族はね」
その意味でカズンが環を発現した意味は大きい。
「もしかすると、君の身近にも環が出やすい人材が集まってるんじゃないかな。友達とか親しい人はいるかい?」
と言われてカズンの脳裏にすぐに浮かんだのは、やはり幼馴染みのヨシュアだ。彼は魔力に関しては同世代の中でも特に秀でた存在だった。
それと、近い親戚であるユーグレンだろう。
幼馴染みで気心知れたヨシュアの家なら、前触れなしに訪れても特に問題はない。
カズンは一度、ユーグレンと合流してからフリーダヤを連れてリースト伯爵家へ向かうことにした。
「カズン様? 何かありましたか、昼前に別れたばかりなのに。それに、そちらの方は?」
「ああ、そのことなんだが。僕、環というものを使えるようになったんだ。それで……」
「環? まさか新世代の魔力使いたちのあの?」
怪訝そうにしながらもカズンの来訪が嬉しいらしく、麗しの美貌を綻ばせて出迎えてくれたヨシュア。
だが、カズンが環を発現したと聞いた途端、見る見るうちにその容貌を翳らせて、ついには泣き出してしまった。
「よ、ヨシュア? どうしたんだ、腹でも痛いのか!?」
(いったいどうした!? おまえはそんな情緒不安定さとは無縁の男のはず!)
おろおろと狼狽えるカズンに、流れる涙を拭いもせずにヨシュアが無理やりの笑顔を作る。
「あなたは自分だけで先へ行ってしまうんですね。カズン様」
優れた魔力使いを排出するリースト伯爵家の当主であるヨシュアは、もちろん環のことを知っていた。
環を発現させた者の在り方の変化についても、理解していた。
リースト伯爵家の執事長が気を利かせて、フリーダヤとユーグレンを別室へと連れていった。
ユーグレンたちも心得たというように頷いて、大人しく執事の後をついていく。
先だって、学友のホーライル侯爵令息ライルは身体強化を高めて、剣術スキルのランクを一つ上げた。
その後輩、ブルー男爵令息グレンもライルと一緒にダンジョン巡りをして、冒険者ランクを上げたようだ。
それに伴い、二人のステータスは全体的に大きく向上している。
ここに来て、カズンまで環という破格の力を手に入れた。
ヨシュアも今日のランクアップ試験で冒険者ランクAまで上がったばかりだが、それだけだ。
自分だけが大した変化もなく、停滞し続けているようで強い苛立ちがある。
そう言ってヨシュアはカズンの胸で泣いた。
それから何とか落ち着いた頃、涙を拭ってカズンと来客の待つ応接間へと向かったヨシュア。
しかしそこでフリーダヤという超弩級の有名人の紹介を受けて卒倒しかけた。
「り、環創成の魔術師フリーダヤ様! ま、まさかこのようなところでお会いできるとは……!」
名前はもちろん、その偉大な業績も奇跡もヨシュアは知っていた。
感覚的には物語の中の伝説の人物が目の前にやってきたようなものだった。
「あのさ。君、もしかして同じ顔のお兄さんか親戚っている?」
ヨシュアの顔を見るなり、複雑そうな顔になったフリーダヤがそう聞いてきた。
「同じ顔、ですか? 我がリースト伯爵家の男子はだいたい似たような顔ですが……一番似ているのは叔父でしょうか。ルシウスという父方の叔父がおります」
「ルシウス! そうか、君はルシウスの縁者か!」
「叔父をご存知なのですか?」
「ご存じも何も、私の一番新しい弟子さ。なるほど、こういうふうに縁が繋がってきたんだねえ」
何と、とカズンとユーグレンが同じ黒い目を剥く。
それは初めて聞く話だった。
しかし、だとするとルシウスは新世代の魔力使いということになる。
新世代の魔力使いはすべて、環と呼ばれる光の輪が自分の肉体をくぐるように顕現する。
カズンもユーグレンもそれなりにルシウスと長い付き合いだが、彼の胴体に光の環が現れているところなど、一度も見たことがなかった。
午前中のランクアップ試験でも、彼は金剛石の聖剣を創り出していたが、やはりその身に環はなかった。
「ルシウス叔父様なら今、在宅中です。案内しましょう」
そうして、ルシウスとフリーダヤの対面となったわけだが。
「おや、我が師フリーダヤ。何かご用で?」
執務室で書類仕事を片付けていたルシウスは、何の気負いもなくフリーダヤを師と呼んだ。
「君、この国の貴族だったのか……いやまあ確かそんなことを言ってたっけ」
ルシウスは18年ほど前、事情があって円環大陸を旅していたことがある。
そのとき他国の冒険者ギルドでフリーダヤや彼のパートナーである聖女ロータスと遭遇し、魔力使いとしての教えを受けたという。
「では、ルシウス叔父様も環を?」
「それが、こいつは旧世代と新世代のいいとこ取りをしててさあ。いわゆる掛け合わせというやつ」
どういう意味かわからなかったので確認すると、言葉の意味通りで、単純に旧世代と新世代、両方の特徴を兼ね備えた魔力使いということだった。
旧世代の魔力使いは、己の肉体が持つ魔力が強く大きい。
魔力の強い血筋というものがあって、アケロニアの代々続く王族や貴族たちはこの類だ。
また、魔力を増大させるために己の感情をありとあらゆる方法を用いて刺激し、掻き立てることで魔力を高める傾向がある。
新世代の魔力使いは逆で、意識や判断力を乱す強烈な感情を厭う者が大半だ。
なぜなら新世代が術を使うのは必ず己の環を通してで、環はその感情と執着を鎮めて無我を作らないと発動できない仕様だからだ。
これら新旧の特徴を考えると、リースト子爵ルシウスは、典型的な旧世代魔力使いの代表に思えるのだが。
「カズン、君に最初の教えを授けるよ。ルシウスみたいに基本のステータス画面がバグってる者と遭遇したら何も考えず速攻逃げろ。人物鑑定のステータス基準よりオーバースペックの者という証拠だからね」
「オーバースペック? つまりルシウス様が?」
「こ、怖……っ」
「え、ではスキルがないのに使えるというのも、そのオーバースペックとやらが原因で?」
ルシウスは本人の有能さとは別に、基本ステータスのほとんどの欄がエラーで表示されないことでも知られている。
例えば現時点であれば、
--
名前 リースト子爵ルシウス
称号 魔法剣士(聖剣)
--
以下、すべて表示がバグっていて読み取れない。
魔法剣士だが大抵の武器を扱えるし、体術にも優れる。
また彼はカズンとヨシュアが調理スキルを獲得するに至った師匠でもある。
腕前からすると上級ランク以上の調理スキルの持ち主なのは間違いないが、やはりステータス画面はバグっていて、調理スキルの文字が読み取れない。
(あれ? 確か僕も環を発現したときステータスが見えなくなってるってお母様が言ってたような……)
「ところでルシウス。きみ、大好きなお兄ちゃんとはどうなったの?」
魔術師フリーダヤと聖女ロータスの弟子となり、環使いとなったはずのルシウス。
非常に力のある新世代の魔力使いとしても覚醒した彼だったが、大事な人を故郷に残していると言って、ある程度のことをふたりから学んだら、それですぐ帰郷してしまったのだ。
「兄なら亡くなりましたよ。今年に入ってから」
「そっか。それは悲しいね」
何とも淡々とした会話をしている。
「かくなる上は、もはや私には最愛の兄の忘れ形見を立派に育て上げることだけが生き甲斐!」
ギッと音がしそうなほど強い視線で甥のヨシュアを見る。
ビクッと震えてヨシュアが冷や汗を流している。
今後、叔父からの修行に不安しかない。
「私は環使いが目指す自由になど興味はない。最愛の側にただいたかった。それだけであったのに!」
コオオオオ……とルシウスのネオンブルーの魔力が遠雷のように鳴る。
本人は滝のような涙を流している。また亡くなった兄のことを思い出して心が悲鳴を上げているのだ。
「とまあ、こんな具合でルシウスは環使いとしてなかなか安定しなかったのさ」
「当然です。兄への思慕を執着と言われるなら本望! 私はどこまでもこの想いを抱えて生きていく!」
「うん。だけどその想いを純粋に高めた果てに無我の境地に辿り着いて環が使えるようになっちゃったんだよねえ。旧世代の魔力使いとして最強の力を持ったまま。恐ろしいもんだよ……」
魔力使いの世界において、新旧合わせての最強はフリーダヤのパートナーの聖女ロータスと言われている。
だが実際は、この“無欠のルシウス”こそが最強ではないかとフリーダヤは見ているそうだ。
「無欠……無欠って……!」
ユーグレンが口元を押さえて、笑いたいのを必死で堪えている。
まさに、彼に相応しい称号ではないか。
「だけどさ、私の魔力使いの系統はファミリーを形成しているから、強いならその力でもって後に続く者たちの良き父であり良き兄になって欲しいんだよ。この男はどうだろう? そこの甥っ子君大好きなだけのおじさんじゃないか」
「あ、僕たちは子供の頃から可愛がってもらっておりましたよ! 技能によってはルシウス様が師匠なのです」
カズンの説明に、ユーグレンもうんうんと腕組みして頷いている。
特に体術など身を守る術の基本など。
「えええ。……じゃあさ、ルシウスはカズンやユーグレン王子が頼むなら動いてくれるわけ? 例えば、僻地の小国で苦境に陥ってる聖女を助けてやってって頼んだら行ってくれるかい?」
「その聖女とやらに私と何の関係が?」
「これだよ」
こういうところが、旧世代の魔力使いの良くないところだ。
自分の利害や重要事項以外は基本、どうでもいいと思っている。
それで一通り、カズンが改めて一同に、環を発現させた経緯などを説明する。
「環が発現したきっかけがあるだろう? こう、莫大な魔力が自分の中を突き抜けていくような」
とフリーダヤに言われて思い出したのは、夏休みの直前、学園で親戚であるトークス子爵令嬢イザベラの婚約者とのトラブルに関与したことだ。
彼女を助けようとはっきり意識したとき、自分の中を通り抜けていった爽やかな清涼感は印象的で、カズンの中にいまだ余韻を残している。
「できるだけ克明に、細部まで思い出しながら語ってごらん。想起しながら追体験していけばまた同じ状態を再現しやすくなる」
「克明に、細部までですか。ええと……」
辿々しく語るカズンに、フリーダヤは様々な視点から疑問点や指摘を挟んでは確認していった。
ヨシュアとユーグレンは、カズンの中でそのような意識の変化があったことを初めて知って驚いている。
特にヨシュアは、その場面で同じ空間にいた立場であったにも関わらずまるで察知していなかったことで密かに落ち込むことになった。
「最初に無我になる瞬間は、人によって千差万別だ。あとは君なりに同じ状態を再現できるよう心がけてみることだ」
一通りカズンの内面が語られひと段落ついたところで、さて、とフリーダヤはヨシュアを見た。
「君はカズンの幼馴染みだそうだね、ルシウスの甥っ子君。君は環には興味ある人?」
「それはもちろん……オレとて環に憧れはありますが……」
ヨシュアの歯切れが悪い。
「そんなに難しいことじゃない。だけどね、ルシウスと血の繋がった甥なら、旧世代の魔力使いだろう?」
「……はい」
「見たところ、かなり魔力の強い術者と見た。でも今の時代、優秀な魔力使いほど、旧世代の“代償方式”の弊害が出ている。ヨシュア君」
「は、はい」
「君は典型的な“旧世代”タイプの魔法使いだ。ステータスを皆に見せて貰ってもいいかな?」
「……良いでしょう。オレの能力は国内では知られていますから」
ステータスオープン、と呟いてヨシュアは自分のステータスをその場の全員に見えるよう可視化させた。
--
ヨシュア・リースト
性別 :男
職業 :リースト伯爵、学生
称号 :魔法剣士、竜殺し
スキル :魔力鑑定(中級+)、物品鑑定(初級)、調理(初級)、身体強化(中級+)、魔法剣創造、魔法・魔術樹脂作成、、、
体力 6
魔力 8
知力 7
人間性 6
人間関係 3
幸運 1
--
基本ステータスは、円環大陸全土で人物鑑定スキルに使われているテンプレートの、代表的な項目だ。
人物鑑定スキルの使い方次第では別項目で表すことも可能だが、あまり一般的な使い方ではない。
「魔法剣士として傑出した能力を発揮するために、犠牲になっているステータスがあるだろう?」
「あー……なるほど、こういうことですか」
カズンが思わず声を上げた。
『幸運1』のことだろう。
ステータスの平均は5で、最低が1だ。
「でもこれは、かつて受けた呪詛の影響なのですが」
「そうかな? 元から低かったんじゃない?」
「……呪詛を受ける前は3でした。確かに、高くはなかったです」
ちなみに幸運値も平均は5である。
「フリーダヤ様。オレにも環が発現する可能性はあるでしょうか?」
ヨシュアに問われて、フリーダヤはじろじろと不躾な視線をヨシュアの全身、頭から足元までを見つめた。
魔力をスキャンするとき特有、独特な目つきだ。
その上で、ここに来る前にカズンにも話した環の概要を話してみせた。
即ち、環発現の条件である執着を離れて無我になることの必要性をだ。
「君さ、魔法剣士なんだって? それなら魔法剣にこだわりがあるよね」
「それはもちろん。我が家が代々受け継いできたダイヤモンドの剣の数々は一族の誇りです」
「それさ、捨てられる?」
「……はい?」
何か信じられない言葉を聞いた。
「今、君の魔力の性質と構造を見た。君の能力を阻害してるのが、その魔法剣だよ。そもそも何でわざわざダイヤモンドなんかにするわけ? 剣なら金属でいいじゃない。意味わからないよね」
「な、それは……っ」
馬鹿にするような言い方をされて、ヨシュアの白い頬が染まる。
「ほらね、揶揄されて怒った。その執着が環の発現にとって一番厄介なんだ。君、本来はもっと魔力量多いよ。魔法剣のせいで本来の実力の何分の一か……下手すると何十分の一になってる」
「そんな」
フリーダヤの発言の中には、期待させるような内容と、困惑させる内容とが混在している。
「やっぱり王侯貴族で環発現は難しい。今の地位や身分や矜持が邪魔過ぎる。ねえ。ヨシュア君だって、貴族なんでしょ?」
「……リースト伯爵と申します」
「わお、現役の伯爵サマ!」
道化のような派手な動作でフリーダヤが驚いてみせる。
「……必ずしも今の環境を捨てねばならない、わけではないですよね?」
「さて、どうだろう。でもいいじゃない、王侯貴族としてこれまで何世代にも渡って既得権益を独占して、いい思いしてきたんでしょ? そろそろ他に明け渡してもいい頃じゃない?」
「簡単に言ってくれる……」
苦々しげにヨシュアが呟く。
現役の伯爵の彼は、リースト伯爵領という豊かで広大な土地と領民を持ち、率いる立場だった。
「ははっ、いいねえその顔! 美少年の怒った顔もなかなかいい!」
「フリーダヤ様、その辺で。ヨシュアを揶揄わないで下さい」
さすがにカズンがそれ以上は止めた。
この薄緑色の長い髪と瞳の優男フリーダヤのことは昔から王宮にふらっとやって来るからよく知っているカズンだったが、こうして人を煽って苛つかせることが多かった。
それでいて捉えどころがないところは、新世代の魔力使いに多い特徴らしい。
「フリーダヤ様。では、私はどうでしょうか。カズンと同じように環が出る可能性は?」
「ユーグレン王子、君がその質問をするのは国王が許さないんじゃないかなあ」
この国の次世代の王となることが確定しているユーグレンが、王族としての責務を解除してしまう環を求めることは現状、許されない。
その日の夜、ヨシュアが就寝しようという時間になって、バルコニーから窓を叩く音が聞こえてくる。
警戒しながらカーテンを開けると、そこには昼間会ったばかりの、薄緑色の長い髪と瞳を持つ長く白いローブ姿の優男、フリーダヤがいる。
「やあ。ヨシュア君」
「フリーダヤ様、こんな時刻に何のご用でしょう? まさか夜這いとか?」
「まさか。カズンに怒られるようなことはしないさ。それに、そんなことしたらいくら私でもルシウスに殺される」
昼間、午後に一度カズンやユーグレンとリースト伯爵家を訪れていたフリーダヤは、ヨシュアがカズンやユーグレンと親しい間柄なことを聞かされている。
それに結局、環に関する話をした後は、ルシウスから如何に自分の甥が可愛く優秀か、本人の気が済むまでとことん甥っ子自慢に付き合わされてしまったのだ。
ここであの男に捕まったら、また長話に付き合わされること間違いなしだ。
「そろそろ王都を出ようと思うんだけど、君のことが気になってたからさ」
ヨシュアは寝間着姿のまま部屋へとフリーダヤを迎え入れる。
茶でも用意させようかと言うと、それほど長居するつもりはないとのこと。
「久し振りに、存在として莫大な魔力量を持つ者に会ったからさ。もうちょっとだけアドバイスしておこうかと思って」
「! 是非に! それは願ってもないことです」
銀の花咲く湖面の水色の瞳で、食い入るようにフリーダヤを見つめる。
「多分ね、君の一族は魔力量が多すぎて存在崩壊の危機に陥ったことがあるはずなんだ。その危機を切り抜けるために用いた術が、ダイヤモンドの魔法剣なんだと思うよ」
ヨシュアが創り出し扱うダイヤモンドの魔法剣が、過剰に魔力を消費するものだとは指摘されたばかりだった。
「ですが、昼間伺った話だと、魔法剣こそが魔力を阻害していると仰ってたではありませんか」
「うーん……つまりさ、君のご先祖様の時代には、余分な魔力を一本一本、魔法剣に加工することで上手く消費していったわけさ。だけど子孫の君は、ご先祖様たちほど魔力があるわけではない。他の魔力使いより多いとはいっても、さ」
そもそも、旧世代の魔力使いは、元々の血筋自体に大量の魔力を保持し、また更に増大させるような組み合わせの婚姻と子作りを続けて来ていることが多い。
そうして得た強大な力を制御しきれず滅んでいった一族もまた、枚挙に暇がない。
「……魔法剣を捨てれば、その分の魔力が回復するということなのですね」
「捨てろとまでは言わない。でも、百本以上ある現在の魔法剣をとりあえず一つでいいから、魔力に還元してみることを勧めるよ。それを私から君への課題としよう」
更に、とフリーダヤは自分の環を頭部の周りに発現させた。
この位置に環が出る者は、知性に優れると言われている。
光の円環が柔らかく室内を照らし出す。
「環が発現できるようになると、自分のステータスにそれまで隠れていたスキルや称号が隠しステータスとして出てくるようになる。環を発現した上で総合鑑定スキルを持つと、魔力使いのステータスにカッコの中身が浮き出て見えるのさ」
自分のステータスを表示してごらん、と優しく言われて、ヨシュアは素直にステータスを目の前に出した。
--
ヨシュア・リースト
:リースト伯爵、学生
称号:魔法剣士、竜殺し
体力 6
魔力 8
知力 7
人間性 6
人間関係 3
幸運 1
--
フリーダヤはヨシュアのステータス欄の“称号”の箇所を指差した。
“魔法剣士”の文字が明滅している。
そのまま見ていると、魔法剣士の称号は消えて、下から浮き出てくるように別の文字が現れた。
「大、魔道士……」
「そう。君は剣士の素質は、本来なら持ってない。先祖代々、魔法剣を受け継いでいるから魔法剣士になってるだけ」
「………………」
さすがに、すぐには受け入れられなかった。
金剛石ダイヤモンドの輝きを持つ魔法剣は、リースト伯爵家に生まれた男子の誇りである。
亡くなった父カイルも、祖父メガエリスも、後見人として自分の仕事を手伝ってくれている叔父ルシウスも。
数は違えど同じ剣を持っているからこそ、深く通じ合えるものがあるというのに。
「やあ、カズン。あ、夜這いしに来たわけじゃないからね?」
「何言ってるんですか、フリーダヤ様」
本当に夜這いなんてしに来てたら、カズンの父ヴァシレウスが大激怒だ。殴られるだけでは済まないだろう。
普段は穏やかな父だが、怒るととても怖いのである。
説明し忘れたことがあるとフリーダヤは、アルトレイ女大公家の二階にあるカズンの部屋のバルコニーから入ってきた。
「玄関から入って来れば良いのに」
「それだとお家の人たちに挨拶とか、色々面倒だからさ。勘弁して」
同じ理由で、ヨシュアのリースト伯爵家にもバルコニーから侵入したのだ。
まあ聡いルシウスには気づかれていたことと思うが。
「肝腎なことを伝え忘れてたんだ。環が発現した者の未来について」
近年では環の存在が知れ渡るにつれて誤解も増えてきたため、フリーダヤは自分の系列の新世代魔力使いたちには、きっちり説明することを心がけている。
「一応注意しておくけど、環を発現させるときだけ無我になれれば良いのであって、常に自分を無くせってわけじゃないからね。それをやると人間らしい感情や心を失くして魔に魅入られてしまう。でも、いつでも自分の意志で我欲から離れることができるよう、努力してほしい」
新世代魔力使いの環使いたちの中には、その辺を誤解して執着どころか感情まで滅する方向の修行をしてしまう者が出ていた。
結果、人間らしい思いやりの心も失ってしまって、他人や外界と繋がり通じ合うためのものであるはずの環も使えなくなってしまった者が多数出た。
環という術式は、現在ではこの問題点を最も鋭く酷評されている。
環自体は条件を満たせば誰でも使える設定で生み出された術式だが、正しい使い方をせず我流で曲解して使うことには、そのような弊害もあるということだ。
フリーダヤは自分と、魔力使いとしてのパートナーの聖女ロータスの系列の弟子たちにはそのような魔境に陥らないよう、慎重かつ細やかな指導を行う方針を取っている。
そのため、一党は全員で『ファミリー』を形成し、先輩格は良き父母であり兄や姉、新たな弟子たちは子供や弟や妹であり、等しく面倒を見る。
ただ、中にはルシウスのように最初から完成した格別な実力者がいて、ファミリーを無視して自分の好きに動いてしまう者も出る。
それは仕方がない、だって『可愛い子には旅をさせろ』だから。
ファミリーが増えてくれば、中には好き勝手したがるやんちゃな弟だっているわけだ。
しかしそんな『わんぱくな弟』とて、いつかはファミリーとして己の義務を果たすときが来ることだろう。
もっとも、その点に関しては、既に甥のヨシュアやカズン、ユーグレンなどを指導する形で実践していると見ることもできた。
「自在に物事の執着から離れられるようになると、環が安定する。そうして次第に使える魔力が高まってくると、どこかの時点で“時を壊す”といって、その時点で寿命がストップする。死ななくなるんだ」
たとえば、フリーダヤ自身は既に800歳を超える魔術師だった。“時を壊す”の結果である。
ただし、“時を壊す”は魔力使いなら新旧どちらにも起こる、古の時代から知られた現象である。
円環大陸にはフリーダヤ以上に長く生きている魔力使いも存在していた。
「“時を壊す”が果たされると、自分にとって最も能力を発揮しやすい状態に心や肉体が調整される。大抵は若返るけど、人によっては中年期や老年期の肉体になることもある」
その上で必要な魔力の量さえあれば、物心ついた年頃から死の直前頃まで広い範囲で、自分の年齢を変えることも可能になる。
ただし、“時を壊す”は誰にでも起こるわけではない。
究極まで魔力を高めて稀有な能力を獲得した魔力使いだけに与えられる、栄誉のようなものだった。
「あと、環を発現した者のうち、私の系統の者には特典があるんだ」
フリーダヤが頭部の周りに環の光の輪を出現させると、反応したようにカズンの胸周りにも環が現れた。
「お、君は胸元に出たのか。環は出現する位置によって術者の個性がわかる。力の強い者は腰から下が多い。ロータスとルシウスがそのタイプだ。私みたいに頭部に出る者は特に知力に優れる。君のような胸元は、両方の良いとこ取りだ。人と人の調整役や環境の調和に向く。……うん、ステータスに“バランサー”が出たね」
えっ、と思わずカズンは自分のステータスを確認した。
「本当だ。称号欄にバランサーってある……」
「不安定な状況に調和をもたらす者のことさ。君は魔力使いを輩出する王族の出だから、今後はもっと他にも称号が出てくると思うよ」
それだけではない。
称号欄には何と“魔術師”の文字まで増えているではないか。
そして、カズンがその文字を見た次の瞬間、それまでバグって見えなくなっていた基本ステータスがすべて元に戻った。
「魔術師カズン。今後はそう名乗るといい」
さて、それで。
フリーダヤはおもむろにカズンの胸元の環に手を突っ込んできた。
「ちょっと触らせて貰うよ。……空間収納。アイテムボックスって言えばわかるかな? 環を通じて、異次元空間に物品を収納する見えない箱を設置した。容量や、入れられる物の種類は君が環を使いこなすほど増えていく。ステータスで詳細は確認できるから、練習してみるといい」
「転生者チート特典来た!?」
今まで自分にはチート無双の要素は皆無だと思っていたカズンだが、まさかここに来てとは。
「この空間収納に習熟すると、同じ原理を使って空間移動もできるようになる。私は普段は永遠の国にいるから、いつか空間移動で会いにおいで」
永遠の国は、円環大陸の中央にある秘境だ。誰でも存在を知っているが、周囲を水に囲まれていて内部の実態が不透明なことでも知られている。
「今はまだこの国で、ふつうの生活を送りながら、できるだけ安定して環を出せるよう練習してみるといい。もっと先に行きたくなったら、旅に出て私の弟子たちに会ってみるといいんじゃないかな」
魔力使いの世界で、魔術師フリーダヤとその弟子たちは有名人だ。
彼らに会う資格を得るために、この円環大陸上のどれほどの者たちが血眼になっていることか。
「あの、僕はフリーダヤ様の弟子ということになるんでしょうか?」
「うん、私の系統の環使いになった。ただし既に世代が移っているから、実際は私の弟子たちのうち、誰かが君の直接の師匠になるはずだよ」
とフリーダヤは言っていたが、結局特定の師匠一人に付くわけでなく、以降カズンは彼の系統の魔力使いに順番に会っては交流していくことになる。
「さあ、今後は私にも、同じファミリーの他の仲間たちにも敬称はいらない。私たちはすべて等しく価値があり、等しく無価値の、自由を求める探求者となったのさ」
夜、自室で寛いでいたリースト子爵ルシウスは、屋敷の中によく知った魔力が入ってきたことに気づいて溜め息をついた。
「フリーダヤ……空間移動で来たな」
来るのは構わないのだが、せめて玄関か、あるいは裏口からでもいいから入口から入ってほしいものだ。
空間移動術は、環を使う新世代の魔力使いの中でも、トップクラスの実力者だけに扱える術だ。
現在、円環大陸上の各国の国内に設置されている転移魔術陣はフリーダヤのような空間移動術を使える、永遠の国に所属する新世代の実力者たちが開発したものだ。
アケロニア王国では、王都と各侯爵領、つまり辺境伯相当の国境を含む領地を結ぶ数ヶ所に設置されている。
他国もそう変わらない台数のはずだ。
ただし、規模の小さな小国には予算の関係で設置されていないことが多いと聞く。
絶妙だと思うのは、転移魔術陣はひとつの国の中を移動するためだけのもので、国家間の移動を可能とする設定にはされていないことだろう。
当然、他国への不法な侵入や侵攻を防ぐためである。
新世代の魔力使いたちは、そういうところへの配慮が行き届いている。
逆にいえば権力におもねらないし、都合よく動いてくれるわけでもないから、扱いづらいと敬遠する権力者たちも多いと聞く。
弟子の自分のところに来ないということは、フリーダヤの用があるのは甥っ子のほうだろう。
甥のヨシュアはとても優秀で魔力の多い魔力使いだから、フリーダヤも気になっていたものと見える。
「……ふむ」
少し本でも読んでから休もうと思っていたルシウスは、考えを変えて部屋の棚からウイスキーとグラスを取り出した。
魔法で簡単にグラスの中に透明な氷を作り、そこへ気に入りのリースト伯爵領産ウイスキーを注いだ。
ほんの一口だけ口に含んで、その味わいと感触を楽しみながら、ルシウスの思考はもう何年も前に別れて、二度と会うことがないと思っていた魔術師フリーダヤやそのパートナー聖女ロータス、そして己の最愛の亡兄へと向かう。
ルシウスは7歳年上の兄カイルが大好きだった。もちろん兄弟愛として。
ただもう、兄のことが好きで好きで堪らない気持ちだけが歳を重ねるごとに増していった。
とにかく、いつでも同じ空間の近い場所にいたいし、彼のためになることをしたくて仕方がなかった。
そんなルシウスだったから、やがて兄が妻を娶ると聞いたときには落ち込んだ。
兄カイル21歳、弟ルシウス14歳のときだ。
旅に出たのは、兄の結婚式を見届けた後、すぐの頃だった。
兄の妻となった人はとても個性的な女性で、ルシウスは一目で『この人は兄との相性がとても良い』と見抜いた。
リースト伯爵家の人間は見る者の心を蕩かすような麗しの美貌が特徴で、大抵の者はその美貌に騙されて騙されっぱなしだ。
実態は、外見を裏切る図太さの持ち主だったり、狡猾だったり、およそ自分勝手が服を着て歩いているような者たちの集団だった。
だが己の容貌が武器になることを知っているから、微笑みを効果的に使って周りを上手くコントロールしている。
勝手に周囲は忖度して都合よく動いてくれる。そういうものだと思っている。
ところが、ルシウスの兄カイルはそんなリースト伯爵家にあって、例外中の例外だった。
外見同様の繊細な内面を持っていて、繊細すぎて捻くれた性格の持ち主だった。
そんなセンシティブな感性の兄カイルに、呑気ながら口が達者で、相手をぐいぐい引っ張っていく新妻はとても相性が良かった。
とても個性的な性格で、兄カイルの繊細さや捻くれた性格を『そういうもの』として何ひとつ正そうとせずそのまま受け入れていた。
(兄の人生で何が良かったかといえば、やはりあの義姉ブリジットを伴侶に迎えたことだろう)
兄本人もそう思っていたようだ。
見合いの場で最初に彼女と出会ったとき、あまりのエキセントリックさに面食らったものの、その場で膝をついてプロポーズしたと聞いている。
『この女性を逃したら、オレは絶対に生涯独身のままだろうと思ったんだよ』
その義姉ブリジットが早逝した葬儀の日、埋葬される棺を見つめながら兄カイルが呟いていたことが思い出される。
(あまり妻を愛している様子を他人に見せることはなかったが……まさか同じ名前というだけで後妻を娶る愚を犯すとはな)
後に己を毒殺し、愛する息子ヨシュアをも手にかけようとした、リースト伯爵家簒奪事件の首謀者の後妻と、兄カイルの亡き妻は同じブリジットという名前を持っていた。
もちろん、ふたりは外見も性格も声も何もかも違う。
だが、兄本人が選んで連れてきた後妻をその名前とともに紹介されたとき。
一族の者はルシウスも含めて、なぜ彼が男爵家出身で子爵家から離縁されてきた子持ちの面倒くさい女を後妻にしたのか。
その意味を理解して、結局大きな声で反対はしなかったという経緯がある。
とはいえ、そんな兄でも結婚してしまったときは悲しかった。
当時まだ健在だった父メガエリスには「お前もいい加減に兄離れしろ!」と叱責されていたし、逆に自分にまで婚約者が充てがわれそうになったので、とりあえずルシウスは逃げた。
14歳のときである。
王立学園の中等部、2年生のときだ。
手持ちの小遣いを掻き集めて、素知らぬ振りで新婚ホヤホヤで浮かれている兄からもおねだりで小遣いをせしめた後、リースト伯爵家、そしてアケロニア王国から出奔して旅に出た。
しばらくは他国の冒険者ギルドで冒険者登録を行い、面倒見の良いギルド員や冒険者たちに構われながらその日暮らしの生活をしていた。
そんなとき、旅先で魔術師フリーダヤと聖女ロータスに出会う。
当時拠点にしていた冒険者ギルドの酒場で、つまらなさそうに皿の上のかたくて不味い肉の塊をフォークの先で突っついていた。
最初はまさか、このひょろっとした薄緑色の髪の優男と、美人だが掴みどころのないラベンダー色の髪と褐色肌の美女が、まさかあの円環大陸で最も有名な魔力使いペアだとは思わなかった。
「ねえ、そこの君。ここってさあ、もっと美味い飯はないの?」
「ああ、それは工夫すると美味くなりますよ」
と酒場を兼ねた食堂で声をかけられたルシウスが、食堂常備の薄い小麦粉を伸ばした丸い生地とチーズとトマト入りのサラダ、チリソースを持ってきて。
彼らが突っついていた肉の塊を細かく切り分けて、小麦粉の生地でそれらすべて包んで細長い棒状のブリトーにリメイクしたときから、彼らの縁は始まった。
ブリトーは当時、ルシウスを指導してくれていたギルドマスターの故郷のソウルフードだったらしい。
ここにアボカドがあれば完璧なのに、とよくボヤいていた。
大抵のものはこうして小麦粉の皮で包んで、適当なドレッシングやソースで味付ければ美味くなる。
案の定、ふたりは喜んで食べてくれていた。
それで自分も一緒に食事させてもらいながら話を聞くと、このよくわからない取り合わせの若い男女が、魔力使いの世界を旧世代と新世代に分断した張本人たちだというではないか。
即ち、環創成の魔術師フリーダヤと、聖女ロータスだ。
まさか、と思ってルシウスが食堂から見えるギルド受付のお姉さんを見ると、彼女はにっこり笑って頷いて見せるのだった。
優れた魔力使いを輩出するリースト伯爵家出身のルシウスは、当然ながら新世代の魔力使いたちが使う光の円環、環のことを知っていた。
血筋や本人の魔法や魔術への適性と無関係に使える術であることと、その発現条件についても。
「美味しいごはんをありがとう。これ、お礼ね」
と言って手を伸ばしてきたラベンダー色の髪と褐色の肌の女性の水色の瞳が濁っていて、彼女が盲目であることにルシウスが気づいたとき。
彼女、聖女ロータスの、案外節張った指の先がルシウスの額の中央を軽く突いた。
気づくとルシウスは冒険者ギルドの建物内の宿直室に寝かされていて、そこで何やらギルドマスターがフリーダヤと小難しい話をしていた。
ロータスは部屋の端のソファに裸足で寝転んでうたた寝をしている。
「目をつけられちまったな、坊主。……おいフリーダヤ。それでこのルシウス坊主は何に覚醒したんだ?」
髭面で強面の大男のギルドマスターを宥めつつ、フリーダヤがじっとルシウスを見つめてきた。
自分の魔力の流れに干渉する他者の魔力。
鑑定スキルを使われているとき特有の感覚だ。
「“聖者”だ。聖者ルシウス・リースト」
「え? 僕は魔法剣士ですよ? 聖者なんかじゃありません」
リースト伯爵家の者は、血筋に代々、金剛石の魔法剣を受け継いでいて、自動的に魔法剣士の称号と関連するスキルが発現する。
ルシウスも一本だけだが、なかなか強力な魔法剣を持っていて、それで冒険者として活躍していた。
「間違いなく聖者だ。というか君、元々が聖剣持ちの魔法剣士じゃないか」
「はあ、まあ確かに聖剣持ってますけど」
しかし、ルシウスにとっては、だから何だという話だ。
初めてこの聖剣を生み出したときの兄カイルの引きつった顔は忘れることができない。
自分はこんなものより、兄と同じ何十本もの無数の金剛石の魔法剣が欲しかったのだ。
(たった一本なんてショボすぎる!)
と実際、故郷でも口に出して顰蹙をかったのだが、だって本当に自分が欲しかったのは兄とお揃いのものだったのだ。
「珍しくロータスが動いたから驚いたけど、聖女から新たな聖者への“伝授”というわけだったか。そういうわけで、聖者覚醒だ。おめでとう」
「???」
何やら展開が唐突すぎてよくわからない。
ところが、ベッドの上に身を起こしてみると、ルシウスの腰回りに強く光り輝くリングがある。
「あれ、これって……」
「環だよ。君も聞いたことぐらいあるんじゃないの?」
冒険者の中には魔力使いも多くいて、その中にはこの光のリングを駆使する術者もそれなりにいた。
ただ、ルシウスの知る限りあまり強い者がおらず、回復やバフ役が大半なので自分とは関係のないものだと思っていた。
ルシウスは魔法剣士として徹底的な特攻タイプの戦闘スタイルだ。相入れない。
「まだ安定はしてないけど、これだけ輝く環の持ち主はそうはいない。久し振りに大物を当てたみたいだねえ」
それからもルシウスは冒険者ギルドを拠点にして冒険者活動を続けていた。
あの腰回りに出た環はその後消えてしまって、再び出そうとしても自力では出すことができなかった。
そのたび、こちらもフリーダヤと一緒に冒険者ギルドの宿に宿泊し続けていた聖女ロータスが音もなく忍び寄ってきては、ルシウスの白い額を指先でトンと突くのだった。
「あれ?」
十何回めかの同じ額を突かれた後。
ふと、ルシウスは己の頭の中がやけに静かなことに気づいた。
ちょうど、その日の討伐ノルマを終えてギルドに報告も済ませ、討伐品も納め終えた後のギルド内の食堂でのこと。
先にフリーダヤとロータスが食事をしていてルシウスに手を振ってきたので、自分も定食を頼んで彼らのテーブル席へ向かった。
そこでまたトン、とロータスに額にやられたのだ。
気づくとまたルシウスの腰回りには環が出ている。
「そろそろかな」
「そうよ。……あなた、頑固すぎるわ。もっと柔らかな生き方をなさい」
ロータスの嗜めるような言葉がルシウスの中を素通りしていく。
「あれ? いやちょっと待って……え? えええ?」
「どうしたの? まあこのお兄さんたちに話してご覧よ」
などとフリーダヤが相槌を打ちながら聞いてくれるものだから、ルシウスはもう居ても立っても居られず怒涛のように最愛への愛を語り続けた。
頼んだばかりの熱々の料理が冷めていくのも構わずに。
「そ、それで、どうなったんだい?」
もう何十回目だろう?
何やら疲れたようなフリーダヤの問いかけに、ルシウスはふと考え込んだ。
既にルシウスがフリーダヤとロータスのテーブルにやって来てから、3時間は経過している。
夕方から既に夜の時間帯になっていて、酒場には早い夕食を取っていた者たちは既に退席して、飲み目的の冒険者たちでごった返していた。
「僕の想いは……重たすぎたようです。そっか。だから我が最愛は僕が嫌いだったんだ」
「いや、自分で気づけて何よりだよ。むしろ、今まで誰も君に教えてくれなかったの?」
「うちの一族は、その……皆揃ってこだわりが強いので、僕もそんなに目立たなかったというか」
むしろ、麗しき美貌の兄弟が仲良く引っ付いている姿を、微笑ましげに見守られていた気がする。
確かに兄は嫌がっていたが、それでもルシウスが近くに居続けると諦めたように苦笑いして側にいることを許してくれていた。
だからルシウスも甘え続けたまま、ここまで来てしまった。
「あなた、その人から離れたほうがいいわ。完全な離別の必要はないけど、せめて違う場所に住むとか、距離を作ったほうがいい」
「……そうですね。故郷に戻れば別宅もあるので、いろいろ考えてみます」
そうと決まれば、後は簡単だ。
「故郷に戻ります。そろそろ、うちの美味しい鮭も食べたくなってきたし」
定食で頼んでいた、もうすっかり冷めきっていたデビルズサーモンの蒸し焼き、今日のルシウスの討伐ノルマだった戦利品の魚の魔物を食しながら言った。
悪くはないが、脂が多すぎて野暮ったい味だ。あと冷めると脂が生臭くなる。
「うち、なかなか有名な鮭の名産地なんですよ。こんなのより、ずっとずっと美味しいんですから。おふたりもアケロニア王国のリースト地域にお越しの際は絶対絶対、食べていってくださいね!」
「え、もう帰るの? せっかくだから、環が使えるようになるまで僕たちのところで修行していきなよ」
「必要ないです。無我を作るため感情の執着をなくせ、が環使いこなしの秘訣なのでしょう? 僕は我が最愛への想いを捨てたくないから新世代の環使いにはなりません」
「えええ……どうするよ、ロータス?」
困ったようにフリーダヤが隣のロータスを見る。
盲目の彼女は目を開いたまま、何か考えるような顔つきでじっとルシウスのほうを見ていた。
「あなた、相当に魔力量が多いみたいだけど、何か理由があるの?」
「ああ、それは当然です。僕は古代種ですから」
「「!?」」
そこでルシウスは、家族と一族の主要人物以外は誰も知らない己の真の出自を話した。
「僕の家は、魔法樹脂の使い手なんです。僕はその始祖筋の家の息子だったんだけど、生まれてすぐに魔力を暴走させて手に負えないからって、魔法樹脂に封じられてしまったんです」
それから数百年、あるいは数千年かが経過して、故郷の今の実家の倉庫に大切に保管されていたのが、約14年前に解けた。
それからは現在まで、普通の人間の子供と同じように成長してきている。
「すごい話だな。……ロータス、君はその一族のこと聞いたことある?」
「魔法樹脂を使う、青銀の髪の一族……ないわね。相当古いでしょ」
「あなたがたは確か800年生きてるんですっけ? 僕の先祖たちが今の故郷に移住したのは千年以上前で、それからまったく国外に出てませんから、知らないのも無理はないかと」
古代種というのは、人間の上位存在であるハイヒューマンのことで、すべての円環大陸の人類の祖先にあたる。
今はほとんど数がおらず、現在も生きている者たちは円環大陸中央部の永遠の国に集まって滅多なことでは外に出ない。
魔法や魔術を扱う魔力使いたちは、このハイヒューマンの血が流れているから魔力を持つと言われていた。