それからゾエ夫人は機嫌良くイマージの質問に答えていった。
例えば、新聞にもロットハーナの末裔が関与した可能性が高いと書かれていた、リースト伯爵家の簒奪事件。
イマージの在籍する学園の3年A組には当のリースト伯爵ヨシュアがいる。彼はイマージも転校当初から世話になっている学級委員長カズン・アルトレイの友人だ。
前リースト伯爵カイルの後妻ブリジットは、前の婚家から離縁される前から、ラーフ公爵夫人の取り巻きの一人だったという。
その後妻、最初は再婚相手のリースト伯爵カイルに尽くし家政に張り切っていたが、そこへラーフ公爵夫人だったこのゾエが入れ知恵をした。
即ち、婚家と血の繋がらない自分の連れ子を、再婚相手の跡継ぎにする方法をだ。
まず、リースト伯爵家には嫡男のヨシュアがいるが、彼を何らかの理由によって失脚させる。
また、ヨシュア自身のサイン付きで、連れ子に爵位継承権を譲渡する旨、契約書を書かせればよい。
連れ子にはリースト伯爵家の血は一滴も流れていないから、もちろん貴族社会の目は厳しくなるだろう。
だが、貴族家最高位のラーフ公爵夫人のゾエが後押ししている。
しかる後にリースト伯爵家の一族の娘を娶れば、生まれた子供が伯爵位を継承するまでの間、連れ子が代理伯爵となることはじゅうぶん可能である。
そのように、後妻をそそのかした。
リースト伯爵令息ヨシュアはその頃から既に優秀な魔法剣士として知られていて、付け入る隙はほとんどなかった。
だがそれにも、ラーフ公爵夫人は特殊な魔導具や毒、隷属魔術のうち、多少でも魔力があれば使える術の方法などを授けることで、抵抗を削ぐ術を与える。
そうしたものが、今はほとんど知られなくなった前王家ロットハーナのものだったのである。
「奥様。ひとつだけ教えていただきたいのです。あなたのご子息ジオライド君は、なぜあれほど問題のある人物になってしまったのですか?」
「まあ。お前、良いところに気づいたわね」
ロットハーナの血筋の者は、覚醒すると独自の魔力を持つ。
その魔力の属性を“虚無”という。
「虚無、ですか……。しかも覚醒とは、いったい」
「難しいことはないのよ。何か一つでも、ロットハーナの術を使えば身に付くの。わたくしは娘時代に実家の宝物庫でロットハーナの遺物を見つけて、それで家にいたメイドの一人を黄金に変えてみた。そうしたら使えるようになっていたわ」
この力は意図的に後世に伝える必要がある、と夫人は思ったという。
「だからね、息子に虚無の力を継承させようと少しずつ、わたくしの魔力を馴染ませていったの。そうしたら自制のきかない子になってしまったのよね」
ジオライドは難産でようやく産んだ子供だったから、ゾエもそれなりに愛着のある息子だった。
だから息子が思うようにならないことがわかってからも、彼女なりの歪んだ愛情を注ぎ続けた。
その結果があの、幼稚で破滅的な言動の男だったというわけだ。
「元は、氏より育ちってやつでね。私や実の父より、育ての父親の性格に似てしまったのよね。お金儲けがとにかく上手で、実利的な思考。でもわたくしはもっと深みのある男になってほしかったのに」
この頃にはイマージも理解していた。
(この人は、頭のおかしい人間だ)
今のアケロニア王国の王太女、その伴侶となった男クロレオが彼女の元々の婚約者だったという。
彼がこのゾエを捨てて王太女グレイシアを選んだというなら、それは大した英断だったように思う。
詳しい話を聞いて、今後同じ血族の者として協力し合うことをイマージとラーフ公爵夫人ゾエは約束した。
屋敷を出るとき、ふとイマージの脳裏をある考えがかすめた。
(そうだ、ぼくたちは同じロットハーナの末裔。だけどゾエ夫人は既に犯罪者で追われるだけの身。ならば僕が彼女の物を貰っても構わないのではなかろうか)
見送りに来た金髪の執事を、イマージは振り向きざま、手持ちの隕鉄のナイフで刺した。
すぐに執事は硬直し、輪郭からほろほろと崩れて、後には指先で摘まめるほどの金の塊が残る。
「………………」
(なるほど。このナイフはこうするだけで良かったのか)
そのままイマージは再び屋敷の中に戻る。
気配と足音を殺しながら、先ほどまでいた応接間まで戻ると、まだラーフ公爵夫人はそこにいた。
「奥様、申し訳ありません。お伝えし忘れていたことがありました」
「まあ、何かしら」
イマージは自分の容貌や物腰が、他者に脅威を与えないことを知っていた。
故郷では平民ながら気品のある雰囲気だけで、目上の人間に一目置かれることも多かった。
そこは容貌の似通ったゾエ夫人も同じだろう。
「先ほどお見せした先祖伝来のナイフのことです。拵え部分の装飾と魔石について、お耳に入れておいたほうが良いかと思いまして」
先ほど執事に突き刺した後、懐に入れていた隕鉄製のナイフを取り出す。
ナイフは刃の部分が黒っぽい隕鉄で、表面にいくつも雷が走ったような紋様が入っている。
柄は銀製で、錆はないが全体的に黒ずんでいる。
ロットハーナの紋章と黒い魔石は持ち手の尻に当たる柄頭にある。
「この部分なのですが……」
剥き出しのままのナイフの柄側を夫人に向けて差し出した。
ゾエ夫人は何の警戒心も見せずにナイフを受け取ろうとする。
「!」
夫人がナイフを受け取る寸前、イマージはナイフの柄を自分で持ち直して、刃先を夫人に向け、華奢な肩に手を付いて勢いよく胸に突き刺した。
よく研がれた鉄の剣と違って、隕鉄のナイフの切れ味は鈍い。
それでもイマージも学生とはいえ、身体の出来上がった大人の男に近い体格と体力の持ち主だ。
その力で強引に突き刺せば、夫人の夏用のドレスの生地は難なく通過して、肉体まで到達した。
(やったぞ。上手く肋骨に当たらず刺せた)
そのまま力任せにナイフを夫人の胸元に押し込む。
急所の心臓まで達すると、抵抗を見せていたラーフ公爵夫人ゾエは一際大きく目を見開いた後で事切れた。
夫人の輪郭が、先ほどの執事と同じようにほろほろと崩れていく。
後には、イマージの拳より一回り小さいくらいの金塊が残った。
「すごいな。こんなに簡単なのか」
それから屋敷の中を見て回って、数人いた使用人たちからある程度、ゾエ夫人と執事たちに関する情報、この屋敷に出入りする人間や商人たちの話を聞き出した。
その上で口封じを兼ねて全員、隕鉄のナイフで刺して黄金に変えた。
もっとも、使用人たちは魔力をほとんど持たない者たちだったようで、後に残ったのは砂金粒ほどの金でしかなかったが。
これまで覚えたことのないような高揚感に浮き足立ちながら、屋敷の部屋をひとつひとつ確認していった。
ゾエ夫人に付き従っていた執事は家令を兼ねていたようだから、資金は彼が管理していたはずだ。
使用人部屋のひとつに、案の定金庫があった。
サイズはイマージが一抱えできる木箱程度だろうか。
鍵がかかっていたが、屋敷の入り口まで戻って、そのまま残っていた執事の衣服を探るとポケットから屋敷内の主だった部屋や設備の鍵を束ねたリングが出てくる。金庫らしきものの鍵もあった。
すぐ金庫の部屋に戻って開けると、そこには金塊半分、残り半分は大金貨と小金貨が布袋に詰まっていた。
あとは夫人のものだろう貴金属の宝飾品だ。
改めて屋敷の中を確認して、資金はこの金庫にあるだけだと確認する。
それでも金庫の中一杯の金は大量で、イマージひとりで持ち運ぶのは骨が折れそうだった。
少し考えて、イマージは徒歩圏内で、できるだけ街に近い場所に小さな家を借りた。
そうしてホーライル侯爵領にいる夏休みの残り期間の間に、住人の居なくなった屋敷から持てるだけ金塊や金貨を持ち出して、借りた家に移動させた。
これだけの資金があれば、この人生で金に苦労することはないだろう。
だが、アケロニア王国に来た当初の目的である学園卒業資格だけは得たかったので、イマージはそのまま学園に通い続けることにした。
王都の城下町の下宿での生活は変えなかった。
いつも月末近くにやっとのことで支払っていた家賃も、きちんと月初に支払うようになったことだけが変化だ。
そして放課後の短期労働も、急に辞めると怪しまれると思い、少しずつ適当な理由をつけてフェードアウトしていった。故郷の家族が仕送りしてくれるようになったから、という理由はとても説得力があり使えた。
毎週末には、王都や近郊の国内の転移魔術陣のある街から、ホーライル侯爵領の家へと飛んだ。
金銭的な不安がなくなったから、今までできなかった贅沢も楽しんでみた。
そんな生活の合間に、冒険者としての実力を上げていき、冒険者ランクもCまでアップさせた。
人目のないところで冒険者たちを黄金に変えていったが、やはり魔力の多く強い者でないと成果が少ない。
「魔力の多いもの……やはり貴族か」
高位貴族家出身のラーフ公爵夫人ゾエで、拳より小さいぐらいの金塊になる。
色々と実験してみる必要がある。
彼女は派手にやらかしたから問題になったが、自分ならもっと慎重にやれる。
ロットハーナの使っていた錬金術についても、もっと詳しく調べて研究してみたかった。
そのままサロンで軽食や菓子をつまみながら、カズンたちは談笑していた。
話が弾んできて、カズンはこの夏休み中に騎士団でランクアップ試験を受けたいとの話題を出した。
それを聞いたヨシュアの叔父、リースト子爵ルシウスが自分が試験を請け負うと申し出てくれた。
「ちょうど私のほうも手が空いたところだ。お前たち、どの程度成長したか私に見せてみなさい」
何の手が空いたかといえば、彼の最愛の兄を殺した前リースト伯爵カイルの後妻の実家の粛清だ。
完膚なきまでに叩きのめした。いや潰した。破壊した。
そんなことをしても愛する兄は戻って来ないのだが、やらずにはいられなかった。
「ルシウス様……」
低い美声で心底悔しげに、悲しげに呟かれて、カズンたちは胸が潰れるようだった。
というか本当にルシウスから発せられる魔力の圧力で潰されそうだ。
文字通り圧がすごい。
「……はは。愚痴を言ってしまってすまない。よし、騎士団でランクアップ試験を受けるのだな。手配は私がしておくから、お前たちは三日後まで可能な限り鍛えておくように」
「三日後で予定が取れるのですか?」
「問題ない。……そうだな、午前9時に王都騎士団本部の練兵場に集合だ。動きやすく汚れても良い格好で来るように。ああ、ちゃんと着替えも持参するのだぞ。朝食は抜いて飲み物だけに留めるように。やりすぎると吐くやもしれぬ」
そして彼は仕切り屋だった。
ルシウスがその日その時間だと指定したなら、その通りになるのだ。例外はない。
そしてこの瞬間、ランクアップ試験が吐くほどきついものになることが確定してしまった。
完全無欠の最強男と書いて“越えられない壁”と読む。
それがリースト子爵ルシウスを端的に表す、この上ない的確な表現だった。
久々にルシウスの活躍が見られると知って、王都騎士団の訓練所には王宮の内外から人が集まった。
「あたくしの可愛いショコラちゃーん! がんばってーえ!」
「お母様! 僕、頑張ります!」
観覧席から母セシリアが手を振りながら応援の声を上げていた。
これは負けられない。
そのセシリアもいつものような家でのワンピースや、ましてや社交に出るときのようなドレス姿ではない。
アケロニア王国では、成人した貴族はすべて国の軍属となる。
その上で、王都や各地域の騎士団か、自領の騎士団もしくは兵団に所属することになる。
騎士団に所属すると本人のみ一代限りの騎士爵の身分が与えられる。
このことから、爵位持ちの貴族の大半は騎士爵を従属爵位に持つ。
そしてアルトレイ女大公である彼女は大公家の専属騎士団を擁している。
よって彼女もまた騎士爵を持つ女騎士だ。今回、専用の黒い生地を使った夏用の騎士服をまとっての観覧である。
セシリアの隣には、同じような黒の騎士服姿の王太女グレイシアとその伴侶クロレオもいる。
生憎と父親ヴァシレウスは用事があって来られなかった。たいそう残念がっていたが仕方がない。
今回、挑戦者のランクアップ試験を担当するのはリースト子爵ルシウス。
現リースト伯爵ヨシュアの父方の叔父で後見人、リースト騎士団の副司令官でもある。
麗しの美貌で知られるリースト伯爵家の本家筋の人間なので、たいそう美しく、その上、男前だ。
これがまた、リースト伯爵家のネイビーのラインとミスリル銀の装飾入りの白い軍服が憎らしいほど似合っている。
そのため会場の観覧席には普段はいないはずの、各貴族家の三十代の淑女たちがいる。彼女たちは皆、ルシウスと同世代あるいは近い世代の女性たちだ。
特に学園で一年でも共に通った世代は、彼のファンクラブであった女性が多い。
彼女たちも貴族家の出身でそれぞれの家の軍服を身に纏っている。
そのため、黄色い悲鳴は聞こえてくるものの、風紀を乱すような派手で色っぽい夏のドレス姿の者はひとりもいなかった。
規則だからというのは、もちろんある。
しかし、この場合、ルシウス本人に見つかると説教一時間コース待ったなしなので各々が自重しているのである。
ルシウスが試験担当者なら、リースト伯爵家の男子特有の金剛石の魔法剣が出てくるか? と誰もが予想していた。
しかし大方の予想に反してルシウスが手に取ったのは、王都騎士団の備品の、なんてことのない鉄剣だった。
「まずはひとりずつ、それぞれ得意な獲物とやり方でかかってくるように」
ユーグレンは右手に大剣、左腕にアケロニア王族特有の盾剣バックラーを魔力で編み出しての挑戦だ。
筋骨隆々とまではいかないが、ユーグレンも日々騎士たちから訓練を受け、大剣を振り回す膂力がある。ましてや身体強化を使えるのだから、軽々と。
カズンは盾剣バックラーのサイズを大きめに調整して左腕へ装着。
武器はあえて持たず、籠手を付けての徒手空拳での挑戦だ。
カズンはまた拳だけでなく足技も持っている。
ヨシュアはやはり有名な金剛石、ダイヤモンドの魔法剣だ。
宙に浮かせて自在に扱う他、手元に一振り残して対人用に使う。
ルシウスの鍛えられた身体からは、光るネオンブルーの魔力が噴き出している。
怖い。あれは絶対に勝てないやつだ。
ユーグレン、カズンはそれぞれ三手ほど交わした時点で攻撃が通らなくなり、一分もしないうちに試験は終了した。
だが、二人とも終わった後は全身に汗を流して息を荒げていた。
「き、きつい……!」
「永遠に終わらないかと思った……!」
胸の奥から込み上げてくるものがある。
必死に堪えていたが、ふたりして用意されていたバケツに吐いてしまった。
本命はやはり、叔父と甥の対決だろう。
「ルシウス叔父様、胸をお借りします」
「来い、ヨシュア!」
が、しかし。
「お、おい、“竜殺し”の称号持ち英雄が震えてるじゃないか……」
会場で誰かが呟いた。その声はやたらと会場内に通る。
「ヨシュア! 大丈夫だ、ポーションも魔力ポーションも僕とユーグレンで王宮内のありったけの在庫をかき集めてきた! 怪我しようが手足がもげようがすぐ治してやるからな! 安心して良いぞ!」
「……どこにも安心できる要素がない」
ぽそっとヨシュアが呟くが、すぐに目の前の叔父に意識を集中させた。
「叔父様、そんな無粋な剣でオレの相手をしないでください。あなただってダイヤモンドの魔法剣を持っているのだから!」
「……これは真剣勝負ではない。あくまでも試験であってだな」
「叔父様」
「……仕方のない子だ。怪我しても恨むでないぞ?」
こちらは観覧席のカズンの母セシリアとユーグレンの母の王太女グレイシア。
「出たな……“魔剣”」
「えっ、聖剣でしょ? ルシウス君の魔法剣って」
「こんな大地を揺るがすような聖剣があってたまるか」
あの、たった一振りの両刃の魔法剣の存在感ときたら。
魔力で顕現させた瞬間から、ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのような音が鳴って空気が震えている。
その剣の属性は聖。
美しく眩く輝くダイヤモンドの魔法剣である。
彼が生み出せる魔法剣はこの一振りのみ。
気づくと誰もが歓声を止めてその美しい剣に見入っていた。
もちろん、既に試験を終えたカズンやユーグレンも。
子供の頃から絵本や物語の中でしか見たことのなかった聖剣は、カズンたち男子にとって大きな憧れだった。
聖剣を持つにも関わらず、ルシウスの学生時代のあだ名は“魔王”だった。つまりはそういうことである。
伊達に最強男と呼ばれているわけではなかった。
そしてもちろん、ヨシュアもボロ負けで終わった。
ただし、1分保たなかったカズンやユーグレンと違って、5分持ち堪えていたのはさすがといえる。
普段の騎士団の訓練で、団員同士の試合が5分保たないとなれば訓練指導者のゲンコツが待っているものだが、今回ばかりは誰もがヨシュアを讃えた。
「あの魔王相手に、5分も持ち堪えられたとは……!」
「さすがは最年少魔法剣士! そこに痺れる憧れるうううう!」
「よっ、竜殺し! ドラゴンスレイヤー!!」
「ハグしてあげたーいっ!」
「むしろお前こそが勝者だー!!!」
「………………」
なお、ヨシュアは試合後の歓声には俯いて、いっさい応えなかった。
「これにてランクアップ試験を修了とする。試験官のリースト子爵ルシウスから結果発表だ!」
会場でそのまま王太女グレイシアが修了宣言し、その場でルシウスからの結果発表となった。
「ユーグレン王子、カズン・アルトレイ、ヨシュア・リースト。3名の結果発表を行う」
厳かなルシウスの低い美声に、カズンたちは固唾を飲んで次の言葉を待った。
「試験の結果、全員に適切なランクへのランクアップを認める。ユーグレン王子とカズン・アルトレイはランクEから2段階アップでランクCへ。ヨシュア・リーストも同じくランクCから2段階アップでランクAに昇格するものとする。異論がある者はいるか?」
ルシウスが会場の軍部の要職にある者たちを見回す。
即ち王太女グレイシア、その伴侶クロレオ。
王都騎士団の団長と副団長。なお副団長はカズンの親友ライルの父、ホーライル侯爵だ。
そのライルは今日はグレンとまたダンジョンに潜っていて今回は不参加だ。彼らは冒険者活動で問題なくランクアップできるということもある。
そんな彼ら全員が無言だった。
ということは異論なしだ。
カズン、ユーグレン、ヨシュア。
三人、圧倒的な壁に挑んだ甲斐は充分あったといえよう。
その後、王宮で王太女グレイシアが催してくれた慰労会では、半泣きのヨシュアという珍しいものが見られた。
「ううっ、本当に何で叔父様が当主じゃないんでしょう? オレより絶対、叔父様のほうが相応しいですよね?」
「仕方なかろう。リースト伯爵家の当主は、本家筋の“最も魔法剣の本数が多い者”がなるんだ。お前は100本以上、私はたった1本。ほら、もう勝負はついている」
「その1本でオレの魔法剣ぜんぶ凌駕してるくせに!」
「ヨシュア……ほら落ち着け、美味しいもの沢山あるぞ?」
普段はヨシュアを引っ張り回すばかりのカズンがヨシュアの宥め役に回っているという、これまた珍しい光景があった。
ちなみにヨシュアはカズンと違って、美味しいもの程度では誤魔化されることがない。
「慰めのハグを所望します」
「なぜだ。僕だって負けてるのだから僕こそ慰めが欲しい。鮭! 魚卵はどうしたヨシュア!」
「……そこで素直にハグしてくれない、そんなあなたも大好きですよ、カズン様」
何だか切ない顔で微笑まれてしまった。
一方、ユーグレンとその家族はといえば。
「うむ……まあ、あのルシウス相手によくやったと褒めてやるぞ、愚息よ」
「……次はもっと長く戦って見せます」
「まあ無理するな、一生かけてもあやつに勝つのは無理だ」
「ですよね……」
せめて五手ぐらい試合えると思っていた頃がユーグレンにもあった。具体的には試験の寸前までは。
実に甘かった。
「ルシウス君は相変わらずですねえ。何事にも手を抜かないところは昔から変わっていない」
氷入りのレモネードのグラスを息子に差し出しながら、王太女の伴侶でユーグレンの父クロレオが優しく微笑みながら、しみじみ呟いている。
王太女グレイシアとその伴侶クロレオは同い年で、学園でクラスも同じだった。
ヨシュアの父でルシウスの兄の前リースト伯爵カイルは彼らの三歳年下になる。
カイルは一年だけ飛び級で早く学園の高等部に進学していたので、グレイシアたちが3年生のとき、カイルは1年生。
リースト伯爵令息だったカイルは、親同士が親友だった縁で、王女グレイシアの幼馴染みでもある。
その一年間だけ彼らは学園で共に通う仲間だったわけだが、その年、王都を中心に大地震が起こり、王宮は無事だったが街中の古い建物がいくつか倒壊する被害が出ていた。
その倒壊した建物のひとつが、リースト伯爵家の王都でのタウンハウスだった。
幸い、ほとんど怪我人はなかったのだが、兄カイルが学園に通うため王都のタウンハウスに当時住んでいたものだから、仮の宿に困っていた。
ちょうど、王都騎士団の寮に空き部屋があったので、屋敷が修復できるまでそこにカイル、ルシウスの兄弟は一時的に避難して生活することになった。
部屋は単身者用だったが、まだ15歳で学生のカイルと7歳年下のルシウスがふたりで住むには十分だった。
特に兄が大好きなルシウスは同じ部屋、たったひとつの部屋で一緒に暮らせることに周りが微笑ましくなるほどはしゃいで喜んでいたものだ。
だが対する兄カイルは繊細な男で、歴史あるリースト伯爵家の嫡男である自分がこのような狭い部屋で生活せねばならない現状を屈辱に思っていたらしい。
本来リースト伯爵家はとても豊かな家だが、さすがに王都の屋敷を修繕するとなると費用がかさむ。
この期間中、経済的に節制を迫られた兄弟は、騎士団寮内の簡易キッチンで自炊を余儀なくされた。これがまた次期伯爵のカイルにとっては矜持を傷つけることだったらしい。
反面、弟ルシウスは元来、非常に器用で物覚えが早いので、騎士団寮内の食堂の厨房に出入りしていたかと思えば、あっという間に調理を覚えてしまった。
それで朝昼晩と兄と自分の食事を見事に用意してみせた。
グレイシアとクロレオが思い出すのは、学園のランチタイムになると騎士団寮から大きなバスケットを持ってやってくる、まだ頬の辺りに幼さを残した8歳のルシウスの半ズボン姿だ。
8歳とはいえ、莫大な魔力を持って生まれたルシウスは成長が遅く、当時で5歳児ぐらいの背丈しかなかった。
「兄さん、お昼ご飯持ってきたよ!」
と白い頬を薔薇色に染めて、よちよちと手を振って駆けてくる姿。
あれは実に愛らしかった。今の存在するだけで圧の強い姿からは想像もできないほどだ。
あまりに可愛すぎて誘拐の心配があるからと、頼まれもしないのに毎回、騎士団員の誰かが自発的に護衛に付いてくるぐらいだった。
バスケットの中身はもちろん彼の作った昼食が詰まっている。
リースト伯爵家は魔法薬だけでなく、食料生産も盛んだから領地から送ってくる食料にだけは事欠かなかった。
特にリースト伯爵領の特産品のひとつである鮭は最高だった。
ルシウスは毎回、何か最低ひとつは故郷のご自慢の鮭を入れたものを作る。
グレイシアもクロレオも日々相伴に預かっていた。実に美味かった。
特にスモークサーモンを挟んだサンドイッチの美味さときたら、夢に見るような贅沢な味わいときた。
なぜルシウスが兄の昼食を作っていたかといえば、やはり当時の彼らの懐事情が厳しかったからだ。
学園には食堂があって料金は学生価格で王都の一般的なレストランのものより抑えられていたが、それでも毎日となると当時のカイルには痛い出費だった。
それを知ったルシウスが、ならば昼も自分が作ると言い出して始めたのだ。
「あれは、自分が兄とランチを楽しみたいからやっていたのだろうな」
懐かしげにグレイシアが目を細めている。
カイルの性格的に金銭的支援は受け付けないだろうことがわかっていたから、この兄弟の苦境を知った友人たちは積極的に材料の差し入れをしていた。
そのお陰で当時の彼らリースト伯爵家の兄弟の食生活はかえって豊かだったかもしれない。
グレイシア、クロレオのひとつ下、カイルのひとつ上には現ホーライル侯爵のカイムがいて、女運の悪さでよくトラブルに巻き込まれては笑いをもたらしてくれたものだ。
学園では何となくこの四人で仲が良く、生徒会長だったグレイシアを中心に学生生活を楽しんだ。
それがグレイシアたちの青春時代だった。
ルシウスは生まれながらに魔力が極めて強く、能力の欠けが一切なかった。
特筆すべきは絶対直観とでも言うべき眼力で、彼がイエスと言ったことは必ずその通りになったし、ノーと言ったことが実現することはなかった。
この特質から、ルシウスは現在ではアケロニア王国を代表する要人として広い人脈を持つようになった。
ただ、不可能のないルシウスにも決して手に入らないものがあった。
それこそが兄、カイルだ。
家族愛なのか恋情の絡む愛なのかまではグレイシアたちの預かり知らぬところであるが、人前でもなに憚ることなく「兄さん、大好き」と言っていた姿を思い出す。
ただ一緒にいるだけで、まだ幼かった子供の頃も、成人して大人になった後もルシウスは幸福そうだったのだが。
しかし兄カイルのほうは、言葉にこそ出さなかったが、自分より圧倒的に強いこの弟を厭う素振りを見せることが多かった。
良くないな、とグレイシアが昔から思っていたのは、兄カイルが弟ルシウスの忠告を聞かないことだった。
素直に聞いておけば大抵の問題を回避できるのに、わざと聞こえなかった振りをして、結局問題に巻き込まれていたのがリースト伯爵カイルという男の哀れなところだった。
最たるものは、最初の妻、つまりヨシュアの実母を早くに亡くした後、長らく再婚する気を見せなかった癖に、数年前急に再婚すると言い出したことだろう。
連れ子持ちの男爵家出身の後妻を娶ると言い出して、彼女たちの調査をしたルシウスは強硬に反対した。
しかし兄カイルは強引に再婚して後妻とその連れ子をリースト伯爵家の本家に入れてしまった。
その後のことは皆が知る通りだ。
カイル本人は後妻によって毒殺され、息子ヨシュアも監禁と、毒殺一歩手前までの被害を受けて、あと少しでリースト伯爵家が乗っ取られるところだった。
また悪いことに、ヨシュアが被害を受ける少し前から、カイルは弟ルシウスに他領との折衝を命じていて、ルシウス本人が王都のタウンハウスに行けない状況だった。
「なんであそこまで頑なだったんだろうなあ。あいつ」
自分だって天才と呼ばれたリースト伯爵で魔法剣士。
一度は若くして魔法魔術騎士団の副団長にまで昇り詰めていたではないか。
リースト伯爵カイルの死は、グレイシアやクロレオたち同世代の者たちにとってひとつの時代の終わりを感じさせた。
あの美しき伯爵の死は、彼をこよなく愛する弟ルシウスの逆鱗に触れた。
カイルの死に直接関わる後妻とその連れ子は既に処刑されていたが、後妻の実家の男爵家は完膚なきまでに潰され、元婚家だった子爵家も相応の制裁を受けたと聞く。たったひと月の間にだ。
その報復は後妻たちと親しかった者たちにも当然飛び火し、少しでも兄の死に関わると判断された者は死ぬより酷い報復を受けたと聞く。
そして先日、ひと段落ついてしまった。
現在はまだ他に残っていないか執念深く調査を進めていることだろう。
「あいつ、説教くさいだけで気のいい男なんだけどな。何でわざわざ本人の勘に障ることをやらかす輩が出るのだか」
とグレイシアは昔から不思議に思っている。
基本、親切で情に厚いし、自分が強く有能だからといって礼儀知らずなわけでもない。
だから貴族社会の中でも先王ヴァシレウスや現王テオドロスにも可愛がられている。
酒も強くて、じっくり飲み交わすと彼が誰より懐の大きく深い人物であることがよくわかる。
彼と親しい者たちはルシウスと関わると良いことしか起きないので、なぜ逆らう者がいるのかが理解できない。
息子のユーグレンや、再従姉妹セシリアの息子カズンも幼い頃からルシウスと面識がある。
子供のことだから悪戯も多く、そういうのにはルシウスはこんこんと善悪や倫理道徳を教え諭す。
それ以外だと、子供好きなルシウスは喜んでユーグレンやカズンたちと遊んでやっていた。
そんな男だから、絶対的強者として畏怖を覚えつつも、ユーグレンもカズンもルシウスが大好きだ。
今も、慰労会の会場では試験官だったルシウスの周りに集まって嬉しげに会話を楽しんでいる。
「あの子たちは良い縁に恵まれました。ルシウス君の加護を受けているなら、少なくとも道を間違えることだけはないですからね」
クロレオが微笑ましげに見守りながらコメントした。
リースト子爵ルシウス。
金剛石の輝きを持つ唯一無二の聖剣を持つこの麗しい男前が、円環大陸でも十人といない聖者であることを知る者は少ない。
彼は聖者としての使命より、己の愛する者たちのために生きることを選んだ。
だから今はもう、滅多にアケロニア王国からも出ない。以前は冒険者として国外に出ていたこともあったのだが。
そんなルシウスは、大王の称号を持つ先王ヴァシレウスに次いで、ふたりめの永遠の国からの称号持ちだ。
円環大陸の神秘の国である永遠の国が彼に与えた称号は“無欠”。
無欠のルシウスは、文句なしにアケロニア王国の最重要人物だった。
「ルシウス様。僕、イクラ食べたいのです。鮭の魚卵です」
ランクアップ試験も無事終わり、全員まさかの二段階特進で大喜びの後。
慰労会も終わり解散する前にカズンはルシウスにも頼んでおくことにした。
食べたいものは何がなんでも食べてみせるという強い意志がカズンにはある。
「魚卵だと? あれは腐りやすいゆえ廃棄と決まっているのだが」
「僕の前世では皆食べておりました!」
ルシウスには子供の頃に既にカズンの前世のことを伝えている。
というより、カズンが前世を思い出してポロポロ涙を流して泣くようになったとき、両親が真っ先に相談したのが、このルシウスなのだ。
「だが、あれは加熱すると不味いし、かといって生食すると寄生虫が……」
「身と同じ処理で良いのです。即ち氷の魔石で冷凍。確かマイナス20℃で丸一日!」
「!」
「はい!」
天啓を得た、とばかりにルシウスの湖面の水色の瞳が見開かれる。
「……カズン様、ちょっとリースト伯爵領までお越しいただけますかな? ともに鮭の魚卵の可能性を追求しようではないか」
「喜んで! 喜んでー!」
そこまで魚卵如きで盛り上がるか、というようなテンション上げ上げのふたり。
「ええええ……カズン、お前だけリースト伯爵領行くってずるい。しかもヨシュアも一緒だろう?」
「ユーグレン王子、安心するといい。この二人のことは私がしっかり監督しておく。あなたは安心して王族の務めを果たされよ」
「る、ルシウス様がそう仰るなら……」
夏休みに入りたての七月丸々、カズンとヨシュアを追いかけて避暑地に行ってしまったユーグレンは、もうこの夏は王都を出ることはできそうもない。
だがルシウスが確約してくれるのなら、それは確実なことだった。
むしろカズンやヨシュアといった本人たちからの約束より安心である。
「大丈夫ですよ、ユーグレン様。戻ってきたらお土産を渡しにお手紙出しますね」
別れ際、微笑むヨシュアの言葉だけがよすがだった。
ヨシュアが保護者の叔父ルシウスと帰って行った後の午後。
カズンとユーグレンはそのまま王宮に残り、先に来客対応していたヴァシレウスと訪問者とを王族専用の応接間で待っていた。
王宮にやって来たのは、カズンが別荘にいたとき発現した光の輪、環の問い合わせを受けた魔術師フリーダヤだ。
円環大陸の中央にある神秘の永遠の国所属の、この環の開発者本人である。
齢800年を超える、最も有名な魔力使いのひとりだ。
柔らかな若葉の如き薄緑の長い髪と瞳を持つ優男風の若い見た目の魔術師を、現王テオドロス以下、すべての王族で最敬礼で出迎えた。
「はは、よしてくれ、アケロニアの諸君。私はただの魔術師に過ぎないし、君たちより優れているともそうでないとも言えないのだから」
軽い口調で膝をついた一同を立たせて座り直させて、フリーダヤはすぐ話の本題に入った。
ざっと一同を見渡し、末席にいたカズンに目を止めて驚いたように、その髪と同じ色の瞳を見開いた。
「それで、環を発現したのは……君か、カズン!」
てっきりヴァシレウスかと思っていたとフリーダヤが驚いている。
「ご期待に添えず申し訳ありません、フリーダヤ様。私にはこの国は捨てられませぬゆえ」
説明を任せたいと言われたフリーダヤに促されて、カズンは彼を連れて王宮内の別室へ移動することにした。
特段、内緒にする話でもないということだったが、父親のヴァシレウスがまずは二人で話すよう勧めてきたのだ。
小サロンを借り、侍女がティーセットの準備を整え退室した後で、カズンはフリーダヤから話を聞いた。
「君はさ、今のアケロニアで血統的に一番の貴種なわけだけど。昔からあんまり、自分のこと偉いって思ってないところがあったね。そういうところが良かったんだろうな」
カズンは前世が現代日本の一般家庭に育った高校生で、その記憶があったのも良い方向に向かったようだ。
「王族の自分と平民とは、生まれや環境が違うだけで大した違いはないって思ってるね。そういう平等な価値観は貴族社会じゃ忌避されるだろうけど、魔力使いの世界では重要なことだ」
なぜならば、と滑らかにフリーダヤが事実を告げる。
「だって存在は等しく価値があり、また価値がないものだから」
それから、フリーダヤから受けた環の説明はカズンを驚愕させることになる。
カズンとフリーダヤが退室した後、応接間から国王テオドロスの執務室に移動したヴァシレウスたち。
さっそくソファに腰掛け、無造作に黒の騎士服の脚を組んだ王太女グレイシアが嘆息した。
「あーあ、環発現となると、セシリアの可愛いショコラちゃんが王家に残るルートは無くなってしまうかもなあ」
「母上、何を言ってるんですか。カズンは後々は私の側近になる予定なのですよ?」
少なくともユーグレンはそのつもりでいる。
「ふん、この愚息め。派閥だの何だのと煙にまいていたが、このわたくしの目は誤魔化せぬ」
「……うっ」
そう、建前上は仲の良い親友となった三人だが、実態はだいぶ違うものだった。
カズンとヨシュアとユーグレン、三人だけの内緒の話のはずが、なぜか母親のグレイシア王太女にバレている。
「そ、それはともかく。環の発現で可能性が潰れたとは、何のことですか?」
いろいろ誤魔化すためのユーグレンの疑問に、ヴァシレウスとテオドロス、そしてセシリアがほぼ同時に深い溜め息をついた。
「環を発現させた魔力使いは、自由を指向するようになる。結果、それまで所属していた社会的な枠組みから離脱する者が大半とされている」
「どういう意味です?」
「言葉通りの意味だ。恐らくカズンは遠くない未来に、王族どころか、この国からも離れていく可能性が高い」
思わず、ユーグレンはヴァシレウスとセシリアを見た。
二人とも、沈痛そうな表情で両目を閉じ、両手を強く握り締めている。
彼らが一人息子のカズンを溺愛していることは貴族社会に広く知れ渡っている。
「大切なものがあっても、それらとの絆すら断ち切ってしまうのが環というやつらしい。貴族や組織の長に発現すると、大抵は自分の責任を放って出奔すると言われている」
「………………」
「例を挙げると、魔術師フリーダヤの弟子のひとり薬師リコは、この大陸の北部の街の大資産家だったという。だが環を発現した後、彼はその立場も莫大な資産や屋敷も投げ打って、フリーダヤの弟子になったというぞ」
「薬師リコ様、懐かしいですね。ユーグレン、あなたが幼い頃、麻疹にかかったとき世話になった方です」
と王太女の伴侶でユーグレンの父クロレオが懐かしげに目を細めている。
◇◇◇
環は、永遠の国所属の魔術師フリーダヤが約800年前に開発した、特殊な統合魔法魔術式のことである。
魔法と魔術の間の子のような術式で、かつ両方の術を統合したものだからこの名称で呼ばれている。
円環状、即ちリング状の光の輪に変換した自分の魔力の源を出現させる。
外界と繋がる機能からリンクと名付けられた。ちなみに形状から普通にリングと言ってももちろん通じる。
試しにとフリーダヤが自分の環を見せてくれた。
彼の場合は、胸の周りに浮き出たカズンとは違い、頭部の周辺に発現していた。
環の位置は、魔力使いそれぞれ違うらしい。
イメージとしては、カズンの前世の記憶にあるような、土星の輪に近かった。
環は光の輪とも呼ばれるが、実際の形状は幅のある、帯状の輪だった。
それからカズンは彼から、環に関する基本的なレクチャーを受けた。
まず、今後は環を用いることで、魔法・魔術の双方を血筋に依存した魔力だけでなく、それ以外からも用いることが可能となった。
環は自分の肉体が持つ魔力以外に、他者や自然界からも魔力の調達を可能にした魔法魔術式なのだ。
使いこなすには、魔法と魔術いずれを扱う場合でも、直前に執着を離れ無我の意識状態を作ることが求められる。
フリーダヤが環を創造するまでの魔法使い、魔術師たちの世代を魔力使いの世界では旧世代、環以降を新世代と呼ぶ。
旧世代と新世代には、魔力の使い方に大きな違いがある。
旧世代は、己の肉体が持つ魔力をベースとして魔法や魔術を使い、基本的に使える術は自分が持つ魔力量に依存する。
元々のポテンシャル以上の魔力を使う場合、自分や協力者の持つリソースの何かを代償として犠牲にする“代償方式”が特徴だ。
対して新世代は、環を発現できるだけの魔力量さえあれば、本人の力量の範囲内で、環を通じて魔法や魔術を行使するのに必要な魔力を、協力者や環境、世界など自分以外のところから安全に調達できる。
これを“環方式”という。
これらの特徴から、円環大陸では魔法使い、魔術師ともに、緩やかに環方式の新世代へと移行しつつあった。
王侯貴族制のある国や文化では、旧世代が主流で、魔法魔術大国のアケロニア王国も旧世代魔力使いの国だ。
王族や貴族は血脈を通じて強い魔力を受け継いできているため、自分の持つ魔力で大抵のことができてしまうからだ。
また、王侯貴族が新世代の環方式へ移行できない理由というものがあった。
「環を発現させるときは、己を一度リセットして無我にならなきゃいけない。そのとき、自分が属してる社会や義務との意識的な繋がりが切れてしまうんだ。その共同体に所属することの執着や責任感みたいなものもリセットされてしまうから」
例えば、一国の王が環に目覚めてしまうと、己の持つ責務が重荷となって環が使いにくくなる。
だから捨ててしまうのだ、と。
この事実が知れ渡っているため、円環大陸の魔力持ちの王族や貴族たちは環を警戒している。
結果、フリーダヤが環を開発して800年経った現在でも、世界には旧世代と新世代が共存するのみで完全な新世代への移行には至っていない。
むしろ旧世代の中には、新世代の環使いたちを厭う者もいるぐらいだ。
アケロニア王国は現王家に王朝が代わった頃、この魔術師フリーダヤの世話になった恩があった。
その縁で、王族たちは定期的に永遠の国のフリーダヤと連絡を取り合って交流を許されていた。
ただしそれでも何百年もの間、王族にはこれまでひとりも環に目覚め、使えるようになった者が出なかったのだが。
「私が環をこの世界に生み出してから800年が経ったけど、王侯貴族で環を発現させた者は数えるほどしかいない。特に君みたいな王の座に近い王族はね」
その意味でカズンが環を発現した意味は大きい。
「もしかすると、君の身近にも環が出やすい人材が集まってるんじゃないかな。友達とか親しい人はいるかい?」
と言われてカズンの脳裏にすぐに浮かんだのは、やはり幼馴染みのヨシュアだ。彼は魔力に関しては同世代の中でも特に秀でた存在だった。
それと、近い親戚であるユーグレンだろう。
幼馴染みで気心知れたヨシュアの家なら、前触れなしに訪れても特に問題はない。
カズンは一度、ユーグレンと合流してからフリーダヤを連れてリースト伯爵家へ向かうことにした。
「カズン様? 何かありましたか、昼前に別れたばかりなのに。それに、そちらの方は?」
「ああ、そのことなんだが。僕、環というものを使えるようになったんだ。それで……」
「環? まさか新世代の魔力使いたちのあの?」
怪訝そうにしながらもカズンの来訪が嬉しいらしく、麗しの美貌を綻ばせて出迎えてくれたヨシュア。
だが、カズンが環を発現したと聞いた途端、見る見るうちにその容貌を翳らせて、ついには泣き出してしまった。
「よ、ヨシュア? どうしたんだ、腹でも痛いのか!?」
(いったいどうした!? おまえはそんな情緒不安定さとは無縁の男のはず!)
おろおろと狼狽えるカズンに、流れる涙を拭いもせずにヨシュアが無理やりの笑顔を作る。
「あなたは自分だけで先へ行ってしまうんですね。カズン様」
優れた魔力使いを排出するリースト伯爵家の当主であるヨシュアは、もちろん環のことを知っていた。
環を発現させた者の在り方の変化についても、理解していた。
リースト伯爵家の執事長が気を利かせて、フリーダヤとユーグレンを別室へと連れていった。
ユーグレンたちも心得たというように頷いて、大人しく執事の後をついていく。
先だって、学友のホーライル侯爵令息ライルは身体強化を高めて、剣術スキルのランクを一つ上げた。
その後輩、ブルー男爵令息グレンもライルと一緒にダンジョン巡りをして、冒険者ランクを上げたようだ。
それに伴い、二人のステータスは全体的に大きく向上している。
ここに来て、カズンまで環という破格の力を手に入れた。
ヨシュアも今日のランクアップ試験で冒険者ランクAまで上がったばかりだが、それだけだ。
自分だけが大した変化もなく、停滞し続けているようで強い苛立ちがある。
そう言ってヨシュアはカズンの胸で泣いた。
それから何とか落ち着いた頃、涙を拭ってカズンと来客の待つ応接間へと向かったヨシュア。
しかしそこでフリーダヤという超弩級の有名人の紹介を受けて卒倒しかけた。
「り、環創成の魔術師フリーダヤ様! ま、まさかこのようなところでお会いできるとは……!」
名前はもちろん、その偉大な業績も奇跡もヨシュアは知っていた。
感覚的には物語の中の伝説の人物が目の前にやってきたようなものだった。
「あのさ。君、もしかして同じ顔のお兄さんか親戚っている?」
ヨシュアの顔を見るなり、複雑そうな顔になったフリーダヤがそう聞いてきた。
「同じ顔、ですか? 我がリースト伯爵家の男子はだいたい似たような顔ですが……一番似ているのは叔父でしょうか。ルシウスという父方の叔父がおります」
「ルシウス! そうか、君はルシウスの縁者か!」
「叔父をご存知なのですか?」
「ご存じも何も、私の一番新しい弟子さ。なるほど、こういうふうに縁が繋がってきたんだねえ」
何と、とカズンとユーグレンが同じ黒い目を剥く。
それは初めて聞く話だった。
しかし、だとするとルシウスは新世代の魔力使いということになる。
新世代の魔力使いはすべて、環と呼ばれる光の輪が自分の肉体をくぐるように顕現する。
カズンもユーグレンもそれなりにルシウスと長い付き合いだが、彼の胴体に光の環が現れているところなど、一度も見たことがなかった。
午前中のランクアップ試験でも、彼は金剛石の聖剣を創り出していたが、やはりその身に環はなかった。
「ルシウス叔父様なら今、在宅中です。案内しましょう」
そうして、ルシウスとフリーダヤの対面となったわけだが。
「おや、我が師フリーダヤ。何かご用で?」
執務室で書類仕事を片付けていたルシウスは、何の気負いもなくフリーダヤを師と呼んだ。
「君、この国の貴族だったのか……いやまあ確かそんなことを言ってたっけ」
ルシウスは18年ほど前、事情があって円環大陸を旅していたことがある。
そのとき他国の冒険者ギルドでフリーダヤや彼のパートナーである聖女ロータスと遭遇し、魔力使いとしての教えを受けたという。
「では、ルシウス叔父様も環を?」
「それが、こいつは旧世代と新世代のいいとこ取りをしててさあ。いわゆる掛け合わせというやつ」
どういう意味かわからなかったので確認すると、言葉の意味通りで、単純に旧世代と新世代、両方の特徴を兼ね備えた魔力使いということだった。
旧世代の魔力使いは、己の肉体が持つ魔力が強く大きい。
魔力の強い血筋というものがあって、アケロニアの代々続く王族や貴族たちはこの類だ。
また、魔力を増大させるために己の感情をありとあらゆる方法を用いて刺激し、掻き立てることで魔力を高める傾向がある。
新世代の魔力使いは逆で、意識や判断力を乱す強烈な感情を厭う者が大半だ。
なぜなら新世代が術を使うのは必ず己の環を通してで、環はその感情と執着を鎮めて無我を作らないと発動できない仕様だからだ。
これら新旧の特徴を考えると、リースト子爵ルシウスは、典型的な旧世代魔力使いの代表に思えるのだが。
「カズン、君に最初の教えを授けるよ。ルシウスみたいに基本のステータス画面がバグってる者と遭遇したら何も考えず速攻逃げろ。人物鑑定のステータス基準よりオーバースペックの者という証拠だからね」
「オーバースペック? つまりルシウス様が?」
「こ、怖……っ」
「え、ではスキルがないのに使えるというのも、そのオーバースペックとやらが原因で?」
ルシウスは本人の有能さとは別に、基本ステータスのほとんどの欄がエラーで表示されないことでも知られている。
例えば現時点であれば、
--
名前 リースト子爵ルシウス
称号 魔法剣士(聖剣)
--
以下、すべて表示がバグっていて読み取れない。
魔法剣士だが大抵の武器を扱えるし、体術にも優れる。
また彼はカズンとヨシュアが調理スキルを獲得するに至った師匠でもある。
腕前からすると上級ランク以上の調理スキルの持ち主なのは間違いないが、やはりステータス画面はバグっていて、調理スキルの文字が読み取れない。
(あれ? 確か僕も環を発現したときステータスが見えなくなってるってお母様が言ってたような……)
「ところでルシウス。きみ、大好きなお兄ちゃんとはどうなったの?」
魔術師フリーダヤと聖女ロータスの弟子となり、環使いとなったはずのルシウス。
非常に力のある新世代の魔力使いとしても覚醒した彼だったが、大事な人を故郷に残していると言って、ある程度のことをふたりから学んだら、それですぐ帰郷してしまったのだ。
「兄なら亡くなりましたよ。今年に入ってから」
「そっか。それは悲しいね」
何とも淡々とした会話をしている。
「かくなる上は、もはや私には最愛の兄の忘れ形見を立派に育て上げることだけが生き甲斐!」
ギッと音がしそうなほど強い視線で甥のヨシュアを見る。
ビクッと震えてヨシュアが冷や汗を流している。
今後、叔父からの修行に不安しかない。
「私は環使いが目指す自由になど興味はない。最愛の側にただいたかった。それだけであったのに!」
コオオオオ……とルシウスのネオンブルーの魔力が遠雷のように鳴る。
本人は滝のような涙を流している。また亡くなった兄のことを思い出して心が悲鳴を上げているのだ。
「とまあ、こんな具合でルシウスは環使いとしてなかなか安定しなかったのさ」
「当然です。兄への思慕を執着と言われるなら本望! 私はどこまでもこの想いを抱えて生きていく!」
「うん。だけどその想いを純粋に高めた果てに無我の境地に辿り着いて環が使えるようになっちゃったんだよねえ。旧世代の魔力使いとして最強の力を持ったまま。恐ろしいもんだよ……」
魔力使いの世界において、新旧合わせての最強はフリーダヤのパートナーの聖女ロータスと言われている。
だが実際は、この“無欠のルシウス”こそが最強ではないかとフリーダヤは見ているそうだ。
「無欠……無欠って……!」
ユーグレンが口元を押さえて、笑いたいのを必死で堪えている。
まさに、彼に相応しい称号ではないか。
「だけどさ、私の魔力使いの系統はファミリーを形成しているから、強いならその力でもって後に続く者たちの良き父であり良き兄になって欲しいんだよ。この男はどうだろう? そこの甥っ子君大好きなだけのおじさんじゃないか」
「あ、僕たちは子供の頃から可愛がってもらっておりましたよ! 技能によってはルシウス様が師匠なのです」
カズンの説明に、ユーグレンもうんうんと腕組みして頷いている。
特に体術など身を守る術の基本など。
「えええ。……じゃあさ、ルシウスはカズンやユーグレン王子が頼むなら動いてくれるわけ? 例えば、僻地の小国で苦境に陥ってる聖女を助けてやってって頼んだら行ってくれるかい?」
「その聖女とやらに私と何の関係が?」
「これだよ」
こういうところが、旧世代の魔力使いの良くないところだ。
自分の利害や重要事項以外は基本、どうでもいいと思っている。
それで一通り、カズンが改めて一同に、環を発現させた経緯などを説明する。
「環が発現したきっかけがあるだろう? こう、莫大な魔力が自分の中を突き抜けていくような」
とフリーダヤに言われて思い出したのは、夏休みの直前、学園で親戚であるトークス子爵令嬢イザベラの婚約者とのトラブルに関与したことだ。
彼女を助けようとはっきり意識したとき、自分の中を通り抜けていった爽やかな清涼感は印象的で、カズンの中にいまだ余韻を残している。
「できるだけ克明に、細部まで思い出しながら語ってごらん。想起しながら追体験していけばまた同じ状態を再現しやすくなる」
「克明に、細部までですか。ええと……」
辿々しく語るカズンに、フリーダヤは様々な視点から疑問点や指摘を挟んでは確認していった。
ヨシュアとユーグレンは、カズンの中でそのような意識の変化があったことを初めて知って驚いている。
特にヨシュアは、その場面で同じ空間にいた立場であったにも関わらずまるで察知していなかったことで密かに落ち込むことになった。
「最初に無我になる瞬間は、人によって千差万別だ。あとは君なりに同じ状態を再現できるよう心がけてみることだ」
一通りカズンの内面が語られひと段落ついたところで、さて、とフリーダヤはヨシュアを見た。
「君はカズンの幼馴染みだそうだね、ルシウスの甥っ子君。君は環には興味ある人?」
「それはもちろん……オレとて環に憧れはありますが……」
ヨシュアの歯切れが悪い。
「そんなに難しいことじゃない。だけどね、ルシウスと血の繋がった甥なら、旧世代の魔力使いだろう?」
「……はい」
「見たところ、かなり魔力の強い術者と見た。でも今の時代、優秀な魔力使いほど、旧世代の“代償方式”の弊害が出ている。ヨシュア君」
「は、はい」
「君は典型的な“旧世代”タイプの魔法使いだ。ステータスを皆に見せて貰ってもいいかな?」
「……良いでしょう。オレの能力は国内では知られていますから」
ステータスオープン、と呟いてヨシュアは自分のステータスをその場の全員に見えるよう可視化させた。
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ヨシュア・リースト
性別 :男
職業 :リースト伯爵、学生
称号 :魔法剣士、竜殺し
スキル :魔力鑑定(中級+)、物品鑑定(初級)、調理(初級)、身体強化(中級+)、魔法剣創造、魔法・魔術樹脂作成、、、
体力 6
魔力 8
知力 7
人間性 6
人間関係 3
幸運 1
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基本ステータスは、円環大陸全土で人物鑑定スキルに使われているテンプレートの、代表的な項目だ。
人物鑑定スキルの使い方次第では別項目で表すことも可能だが、あまり一般的な使い方ではない。
「魔法剣士として傑出した能力を発揮するために、犠牲になっているステータスがあるだろう?」
「あー……なるほど、こういうことですか」
カズンが思わず声を上げた。
『幸運1』のことだろう。
ステータスの平均は5で、最低が1だ。
「でもこれは、かつて受けた呪詛の影響なのですが」
「そうかな? 元から低かったんじゃない?」
「……呪詛を受ける前は3でした。確かに、高くはなかったです」
ちなみに幸運値も平均は5である。
「フリーダヤ様。オレにも環が発現する可能性はあるでしょうか?」
ヨシュアに問われて、フリーダヤはじろじろと不躾な視線をヨシュアの全身、頭から足元までを見つめた。
魔力をスキャンするとき特有、独特な目つきだ。
その上で、ここに来る前にカズンにも話した環の概要を話してみせた。
即ち、環発現の条件である執着を離れて無我になることの必要性をだ。
「君さ、魔法剣士なんだって? それなら魔法剣にこだわりがあるよね」
「それはもちろん。我が家が代々受け継いできたダイヤモンドの剣の数々は一族の誇りです」
「それさ、捨てられる?」
「……はい?」
何か信じられない言葉を聞いた。
「今、君の魔力の性質と構造を見た。君の能力を阻害してるのが、その魔法剣だよ。そもそも何でわざわざダイヤモンドなんかにするわけ? 剣なら金属でいいじゃない。意味わからないよね」
「な、それは……っ」
馬鹿にするような言い方をされて、ヨシュアの白い頬が染まる。
「ほらね、揶揄されて怒った。その執着が環の発現にとって一番厄介なんだ。君、本来はもっと魔力量多いよ。魔法剣のせいで本来の実力の何分の一か……下手すると何十分の一になってる」
「そんな」
フリーダヤの発言の中には、期待させるような内容と、困惑させる内容とが混在している。
「やっぱり王侯貴族で環発現は難しい。今の地位や身分や矜持が邪魔過ぎる。ねえ。ヨシュア君だって、貴族なんでしょ?」
「……リースト伯爵と申します」
「わお、現役の伯爵サマ!」
道化のような派手な動作でフリーダヤが驚いてみせる。
「……必ずしも今の環境を捨てねばならない、わけではないですよね?」
「さて、どうだろう。でもいいじゃない、王侯貴族としてこれまで何世代にも渡って既得権益を独占して、いい思いしてきたんでしょ? そろそろ他に明け渡してもいい頃じゃない?」
「簡単に言ってくれる……」
苦々しげにヨシュアが呟く。
現役の伯爵の彼は、リースト伯爵領という豊かで広大な土地と領民を持ち、率いる立場だった。
「ははっ、いいねえその顔! 美少年の怒った顔もなかなかいい!」
「フリーダヤ様、その辺で。ヨシュアを揶揄わないで下さい」
さすがにカズンがそれ以上は止めた。
この薄緑色の長い髪と瞳の優男フリーダヤのことは昔から王宮にふらっとやって来るからよく知っているカズンだったが、こうして人を煽って苛つかせることが多かった。
それでいて捉えどころがないところは、新世代の魔力使いに多い特徴らしい。
「フリーダヤ様。では、私はどうでしょうか。カズンと同じように環が出る可能性は?」
「ユーグレン王子、君がその質問をするのは国王が許さないんじゃないかなあ」
この国の次世代の王となることが確定しているユーグレンが、王族としての責務を解除してしまう環を求めることは現状、許されない。