夕飯に料理人氏が作ってくれた焼きおにぎりの中には、まだ残っていたヨシュアのリースト伯爵領産の塩鮭も入っていた。
これもまた、カズンと同じように日本人を前世に持つライルを大いに喜ばせるものだった。
ふと、自分も塩鮭入りの焼きおにぎりを食しつつ、カズンの脳裏に疑問が浮かぶ。
「なあ、ヨシュア。鮭の身は色々加工してるが、卵はどうしたんだ?」
「え? あれは廃棄に決まってますけど?」
ヨシュアのリースト伯爵領では鮭が名産品だが、食べるのは身だけで魚卵イクラは捨てていると聞いて、カズンが絶望した。
「イクラ! 焼いた鮭! 山葵に醤油、刻み海苔! ……オヤジさん、オヤジさあん!」
食べかけの焼きおにぎり片手に厨房へ走った。王都の屋敷なら決して許されないお行儀の悪さだが、ここには口煩い執事や侍従はいない。
そして案の定、この集落に山葵はあった。
詳しく話をすると、壮年に見えて既に孫もいる匠の風格の料理人のオヤジさんは、グッと親指を立てて歯を見せて笑う。あるぜ!
そして翌朝、王都への帰りの馬車に、濡れ新聞紙で包まれた山葵数本が積まれることになるのである。
「カズン様、本気ですか? 魚卵ですよ? 腐りやすいからすぐ捨てちゃうやつですよ???」
「いいから、次に鮭のシーズンになったら魚卵は取り出した後捨てないで僕にくれ。ざっと数匹分でいいから」
ボウルに山盛りして余りある量を所望した。
「まあ、そう仰るなら手配致しますけど……紅鮭がもう獲れる頃ですから」
カズンは自分の食べたいものに妥協しない性格だった。
そしてそれに幼い頃から巻き込まれ続けてきたヨシュアは拒めない。普段が淡々としている反動なのか、勢いと圧が強すぎる。
「鮭とその魚卵か……。どういうものか想像もできぬが。カズン、それが完成したら私にも食させよ。ちゃんと連絡を寄越すのだぞ?」
「えっ。それじゃ連絡入れて予定合わせるまで僕が食べられないじゃないか」
自分は王族ではあっても、ただの一貴族の子息。
ユーグレンは国の唯一の王子で次世代の王太子の座が約束されている。
同じ王族でも、この差はかなり大きい。
ゆえに、連絡のやり取りは結構面倒くさい。
「カズン。私はお前の何だ?」
「親戚」
「やり直し!」
「………………一応、親友枠に入れておいてやる」
「正解。連絡、待っているからな?」
馬車の中、カズンを挟んで奥側に座ったユーグレンに肩を抱かれ、頬と頬を合わせてきた。親愛のチークキスだ。
約束を忘れるなよ? と念押しされながら。
反対側の馬車の入り口側にはヨシュアが座り、こちらはカズンの左手を取って握り締められている。
「魚卵、待っててくださいね」とニコニコ微笑まれながら。
「暑苦しい。僕だけ反対側に座りたいのだが、いいか?」
何で六人掛けの馬車の片側だけに三人並んで座らねばならないのか。
ちなみにライルとグレンは二人で別荘までやって来たホーライル侯爵家の馬車で、カズンたちの後方を付いてきている。
「暑くないように氷の魔石、使って差し上げたでしょう?」
「その通り。ハグしようが何しようが涼しく快適である。大人しく座っていろ」
ヨシュアとユーグレンが何やら結託したようで、カズンは少しずつ追い詰められていた。
(とりあえず、王都に帰ったら鮭……イクラ……!)
ひとまず今後のお楽しみを想像しながら、カズンは黒く輝く瞳を閉じた。
別荘のあった避暑地の集落から王都までは馬車で半日。
一眠りして起きたら休憩所に2回の休みを挟む。そうしたらもう王都はすぐだった。
王家にて、女傑イザベラの子孫トークス子爵家を、王族の親戚として認定する決定が下されたあと。
そのトークス子爵家の令嬢イザベラと、ラーフ公爵家の令息ジオライドとの婚約を双方に打診したのは、王太女グレイシアだった。彼女はユーグレン王子の母親である。
公爵の位は、通常は王家の男子、特に王子の位にある王族が臣籍降下した際に立ち上げる貴族家である。
ラーフ公爵家の場合は、元々侯爵家だったのが、過去に王女が降嫁したことで公爵に陞爵された家だ。
ところが当の王女は、当時の当主との間に子を成さないまま亡くなってしまう。
結果として今のラーフ公爵家に王家の血は一滴たりとも流れていない。
そのため、ラーフ公爵家は公爵家でありながら王家との血縁関係のない、名目だけの“遠い親戚”状態が長く続いている。
王家に王子や王女が多ければ、再び婚姻を結ぶことも可能だったが、ここ数代続けて王家に産まれる子供の数が少なかった。
先王ヴァシレウスは最初、王女、王子の順で正妃との間に子を儲けていたが、上の王女は同盟国タイアドに嫁していってそれっきりだ。
もっとも、ヴァシレウスの王女の孫であるセシリアがアケロニア王国に帰化して息子を産んだから、その分だけ二人分、数は増えた。
残った王子テオドロスは当然王太子となり、現在は即位して王となっている。
ならばテオドロスにラーフ公爵家から妃をと考えても、こんなときに限ってラーフ公爵家に適当な女子がいなかった。
王太女グレイシア、その伴侶クロレオ、現ラーフ公爵ジェイラス、その妻ゾエは学園時代の同級生だった。
元々はグレイシアとラーフ公爵ジェイラスが婚約者で、フォーセット侯爵令嬢だったゾエと伯爵家の次男だったクロレオが婚約者だった。
グレイシアとゾエは互いの婚約者をトレードした形になる。
「あのとき、クロレオを奪った償いとして、フォーセット侯爵令嬢が嫁したラーフ公爵家に、王族の血を持つトークス子爵令嬢イザベラとの婚約を打診したわけだが。わたくしの厚意を見事に無駄にしてくれたものだ」
蓋を開けてみれば、そのゾエは夫以外の男との間にジオライドを儲け、こうして混乱を引き起こしている。
夏休み前、学園の学期末のお茶会で盛大にラーフ公爵令息ジオライドが醜態を晒した後。
精神的ダメージから何とか立ち直ると、ラーフ公爵ジェイラスは、人物鑑定スキルの特級ランク持ちである学園長ライノール伯爵エルフィンに正式に依頼して、嫡男ジオライドの詳細な鑑定を行ったらしい。
そして、夫人ゾエの不貞を明らかにして本人に突きつけた。
すると彼女は肯定も否定もせず微笑むのみで、夫を煙に巻いた。
数日後、ラーフ公爵夫人ゾエは出奔。不貞相手だった、実家から婚家に連れてきていた専属執事とともに姿を消した。
元婚約者への暴挙や学園での大失態を犯した息子ジオライドが、謹慎のため領地に送られる前日のことだったという。
直後、驚くようなことが起きた。
それまで、高位貴族の令息にあるまじき幼稚で破壊的な言動をしていたジオライドが、正気に戻った。
本人は自分がイザベラや周囲に対して行なっていた言動をすべて覚えており、血の気が引いて今も罪悪感で動けないという。
「ジオライドの母親はなかなか魔力値が高かったそうですよ。悪意の強い性格が毒を生んで、息子のジオライドを染め上げていたってことなんでしょう」
まさに、文字通りの毒親だった。
この劇的な変化に、ジオライドは領地行きをひとまず止めて、王都で更に複数の人物鑑定持ちの魔力使いたちのもと、詳細な人物鑑定を受けることになった。
すると、バッドステータスの履歴に“虚無の侵食”が発見される。
しかし、魔力の属性に虚無などというものは聞いたことがない。
そんなとき、たまたま王宮に来ていてその話を聞きつけたヨシュアの叔父、リースト子爵ルシウスが、ラーフ公爵夫人ゾエの系譜をもっと遡って調べてみてはどうか、と助言した。
その助言を受けて王家の調査員が調べた結果は、関係者を震撼させた。
「まさかのロットハーナの末裔、発見です。ラーフ公爵夫人ゾエの実家に、ロットハーナの血を引くものがいたんです」
ロットハーナについて詳しいことがわかったと連絡を受けて、王宮にやってきたカズンは、同じように叔父と呼ばれていたヨシュアから簡単に事情を聞いて驚いた。
その後、兄の国王テオドロスの執務室で聞いた話も概ね同じ内容で、以降の注意事項を確認して解散した後は、ユーグレンも一緒にサロンで情報交換することにした。
そう。ついにカズンとユーグレンは、ヨシュアの保護者に報告すべき機会を迎えてしまったのだ。
リースト子爵ルシウス。
亡き父の跡を継いでリースト伯爵となったヨシュアの、父方の叔父である。ちなみに独身だ。
外見はリースト伯爵家の一族に特有の、青みがかった銀髪を耳にかかる程度の短髪に切り揃え、軽く整髪料で前髪が顔にかからない程度に整え額を出している。
瞳はヨシュアのようなアースアイではないが、色は同じ湖面の水色だ。
全体的に甥のヨシュアと非常によく似た外見をしている。むしろヨシュアがこのまま大人になった姿といっても差し支えない。
違うところがあるとすれば、年齢とすらりと高い背と正装の上からでもわかる、美しくバランスよく鍛えられた肉体だろうか。
全体的に、大変な美男子といっていい。
しかし彼の真価は、その外見にはない。
極めて有能、そして万能、しかし深い情熱を持った傑物なのだ。
現在のアケロニア王国を代表する、多方面における実力者のひとりだ。
王宮内のサロンへ移動し、侍女たちがティーセットを配膳し下がるや否や。
そのルシウスに、顔を合わせるなりじっと凝視されて、三人はそれぞれ固まった。
対面しているだけで圧がすごい。この迫力こそが彼の一番の特徴だ。
「叔父様、何か……?」
「……ふむ、派閥問題だなんだとふざけたことを仕出かして、説教する気満々だったのだが。お前たち全員、単独でいるより三人でいたほうがステータスのバランスが取れている。これでは叱るに叱れぬ」
「「「はい!?」」」
腰に響くような美声で嘆息されて、三人は緊張したまま飛び上がった。
「まず、ユーグレン王子」
「は、はい」
「あなたは元々、非常に調和した基本ステータスの持ち主だが、三人でいるとより安定する。他の二人との交流を通じてより人間的に成長していかれるものと思う」
「はい、助言ありがとうございます!」
「次に、カズン様」
「はい、ルシウス様」
「あなたは三人でいるとき、元の値より幸運値が上がっている。元々、魔力値以外は問題ないのだから、幸運を生かして様々なことを経験されるとよい。
「心得ます」
「そしてヨシュア。お前は……幸運値1は変わらずか。相変わらず不憫な子よな」
「叔父様あ……それのどこが『バランスが取れている』なのですか!」
隣に座る甥の頭をぽんぽんと慈愛に満ちた手つきで軽く叩くも、憤慨したヨシュアに振り払われてしまっている。
だが、てっきり長時間の説教をされるものと思っていたから、三人はそれぞれホッと息をつくことができたのだった。
とはいえ、まだ話はあると、ルシウスは話を続けた。
彼が自分でも独自に手を回して調べていた、旧王族ロットハーナ一族についての話だ。
「ラーフ公爵令息ジオライドの母親ゾエの実家、フォーセット侯爵家がかつて奴隷売買を大々的に行なっていた黒幕だったというのは、トークス子爵家が独自に掴んでいた情報だ。それが今回、人物鑑定で確証を得たわけだな」
鑑定スキルで鑑定したからといって、何でもかんでも読み取れるわけではない。
今回は、特級ランクの人物鑑定によって判明した偶然による結果だった。
まず、ジオライドの母親ゾエの数代前の人物の出自に、“国際的奴隷売買組織オーナー”と表示されていた。それがロットハーナの件より先の問題だ。
「既に五十年以上前に、女傑イザベラによって違法な奴隷売買は法によって禁じられ、表向きは解決したとされる。だが、被害に遭った家やその家族たちはまだ忘れていない」
過去、アケロニア王国内で横行した奴隷売買と誘拐は、平民だけでなく貴族たちも少なくない数が被害に遭っている。
特に魔力を多く持つ家の者ほど狙われた。
ヨシュアやルシウスの出身であるリースト伯爵家も例外ではなかった。
魔法樹脂を使うリースト伯爵家には、一族の重要人物が不慮の事故に遭ったときに自動発動して、透明な樹脂の中に封印する術式が伝えられている。
そうして魔法樹脂の中に封印されたまま、解術されていない人物が数名残っていて、領地の本宅の地下で大切に保存されている。
その中の一人が、かつて奴隷売買組織に誘拐され、身を穢される寸前に魔法樹脂の術式を発動させた一族の若い女性だった。
「我が一族は、青みがかった銀髪と湖面の水色の瞳が特徴で、麗しく美しい。彼女も一族特有の容貌で生まれた、大変美しい女性でした」
とヨシュアが補足する。
リースト伯爵家の一族だから、魔力量は文句なしに多い。その上、これ以上ないくらい美しいときて、奴隷商に目を付けられてしまった。
「記録によると、誘拐されて他国で人身売買オークションにかけられ、落札された先で慰み者にされる直前に術を発動したようです」
透明な魔法樹脂の中で、青みがかった腰まである長い銀髪を大きく背後に散らし、緑色のドレスの胸元が破られ、慎ましい胸が片方、乳首まで剥き出しになっている。
ドレスの裾も破れていて、太腿にも鞭で叩かれたような赤いミミズ腫れがあった。
明らかに陵辱寸前とわかる状態だ。
それでも透明な樹脂の中の彼女に絶望した様子は見えず、湖面の水色の瞳は冷徹に目の前を真っ直ぐ見据えていた。
長らく行方不明だった彼女が再発見されたのは、ほんの三十年ほど前のこと。
アケロニア王国から遠く離れた国での芸術品オークションにオブジェとして出品されていたものを、たまたま現地に出張していたアケロニアの商人がカタログの中に見つけた。
青みがかった銀髪と湖面の水色の瞳の組み合わせは、リースト伯爵家の一族に特有の特徴だった。
商人はそれを知っていたから、慌てて母国のリースト伯爵家に緊急連絡を入れた。
連絡を受けたリースト伯爵家の当時の当主は現地に飛び、金に糸目をつけず、出品されていた一族の娘、出品名“拒絶の乙女”を落札し祖国へと戻した。
「リースト伯爵家の男子は、年頃になると彼女を紹介され、そのエピソードを教えられます。そしてその扇情的な様子に初めての性の兆しを覚えてしまうんですよねえ……」
魔法樹脂の中の彼女“オデット”の年齢は、まだ16歳。
彼女を解術して自分のものにしたいと望む男は多かったが、まだ誰も成し得ていない。
術を発動させた本人が、解術コードを誰にも残せない状況だったためだ。
魔法でなく“魔術”樹脂ならば、彼女を上回る魔力を持つ術者であれば解術の可能性があるが、独自の術式を構築する魔法ではそれも難しい。
とはいえ、魔法樹脂は永遠に生物を封入しておけるほど高機能な魔法でもない。
あと数十年、あるいは数百年か、いつかは術が解けて、凌辱寸前だった娘は再びこの世に甦る。
その“拒絶の乙女”を誘拐した者や組織を、いまだリースト伯爵家は許していない。
学園の一学期末のお茶会の場で、ラーフ公爵令息ジオライドの出自を鑑定した学園長エルフィンは、彼の母方の祖先に“国際的奴隷売買組織オーナー”がいるのを見つけた。
それだけではない。同じ母方を更に遡っていくと、何と旧王家ロットハーナ一族の末裔の者がいることが判明した。
「今、国内にロットハーナの者が入り込んでいることはエルフィン先生も知っているからな。それで内密にフォーセット侯爵家の者たちを鑑定したところ、確定した」
その後、夫に不貞を咎められたラーフ公爵夫人ゾエの出奔から程なくして、フォーセット侯爵家に当主を始めとして行方不明者が続出。
部屋に衣服だけが残されたり、血痕が残っていたりなど、他のロットハーナによる事件と手口が共通だった。
「……つまり、ロットハーナの末裔は国外からやってきたのではなく、国内貴族の中に紛れていたというわけか」
何らかの要因によってロットハーナの邪法に目覚めたラーフ公爵夫人ゾエが、実家のフォーセット侯爵家を食い物にして黄金に変え、資金を手にして逃亡しているものと思われる。
さすがにこの件はこれまでのように、王家のところで止めておくわけにはいかなかった。
国民へ注意喚起とともに、逃亡中のラーフ公爵夫人ゾエは指名手配されることになったという。
ラーフ公爵夫人ゾエがロットハーナの末裔であり、祖先と同じ邪法を駆使して逃亡したことは、国内の主要新聞各紙で公表された。
夏休み前にアケロニア王国、王都の学園に転校してきたばかりのイマージ・ロットも、新聞でその話を知った口だった。
そこで初めてイマージは、自分が探していた人物が実際存在していたことを知る。
襟足長めのウルフカットの灰色の髪とペールブルーの瞳を持つ、品の良い青年イマージ・ロットは、他国で金融業を主に営む商会の息子として生まれた。
幼い頃は家もまだ豊かだったが、年々経営が厳しくなり、近年は定収の見込める学校など教育機関の教師になる家族や親戚が多かった。
やがて成長したイマージも家から出て働きに出ざるを得なくなった。
アケロニア王国へ来たのは、祖先がこの国の古い王朝の王族だったと、幼い頃に一族の老人から聞いたことを覚えていたからだ。
家を出る前、まだ存命だったその老人を訪ねると、彼は祖先から受け継いでいるという隕鉄でできたナイフを餞別としてくれた。
他、いくつか先祖伝来の品を頂戴し、アケロニア王国の王都の学園に転入を果たす。
学園では、前の王家のことを詳しく知っている者はいなかった。
もちろん日常の学園生活の中で口にする者もほとんどいない。
そんな中、図書室で資料を探って先祖ロットハーナ一族のことを知ったときには驚愕した。
(そうか。ぼくの祖先は滅ぶべくして滅んだのだな)
イマージの祖先は人間を黄金に変える邪悪な錬金術の使い手だったらしい。
だが、子孫のイマージにはそんな術など使えないし、方法もわからない。
祖先が王族として支配していたアケロニア王国へ来れば、自分にも何か良い影響があるのではないかと期待していた。
だが実際はただの貧乏苦学生だ。
成績は良かったから学園には成績優秀者として奨学金を貰えたが、生活費は自分で稼がねばならない。
祖国に残っていたら、元いた学校を退学せねばならないほど家庭の経済状況は悪かったから、それに比べれば学費負担がないだけはるかにマシだったが。
そして夏休みに入ったある日、イマージはアルバイト先の貴族御用達パーラーで、ロットハーナの噂を耳にするようになった。
(あのラーフ公爵令息ジオライドの母親が、ロットハーナの末裔……?)
その直後、新聞各紙でも大々的に報じられ、確認することができた。
本人は婚家のラーフ公爵家を出奔し行方が掴めなくなっているという。
そして今日もまた、貴族の客たちはロットハーナの話題に熱中している。
「西への国境沿いに行方不明者が続出しているらしい。もしかしたらラーフ公爵夫人はその辺りに潜伏して、ロットハーナの邪法を使って人間を資金に変えているかもしれないぞ」
「何と恐ろしいことを。西の国境沿いといえば、ホーライル侯爵領の管轄ではないか。騎士団の副団長閣下が動かれるだろうな」
ラーフ公爵夫人ゾエはロットハーナの邪法を使って人々を黄金に変え、その資金でいとも容易く逃亡生活を続けているということか。
腐っても公爵夫人だ。魔力を持つ貴族たちとの縁が多い。その縁を利用して次から次へと人々を己の財に変えているようだ、と客たちは話している。
パーラーのフロアで客たちの噂話を聞きながら、イマージはふと己の手をじっと見つめた。
日々の労働でカサついた皮膚。短く、端が少しヒビ割れている爪。
「……同じロットハーナの末裔なのに」
片や逃亡していても華麗に、片や貧しく惨めに。
この差はいったい何なのだろう。
その後、夏休み前半中にある程度の生活費を稼いだイマージは、残りの夏休み期間中は宿題に取り掛かりたいからと言ってアルバイトを辞めた。
パーラーの支配人は学園の卒業生だ。後輩に当たるイマージの事情に理解を示し、途中での退職を快く認めてくれた。
それだけでなく、「少しは若者らしく遊びなさい」と小遣いまでくれたのだから、ありがたい。
イマージが故郷で親戚の老人から譲り受けた先祖伝来の品のひとつに、便利なものがあった。
同じ紋章の入った魔導具を持つ者を探索する、方位磁石に似た魔導具だ。
それを使ってイマージは逃走中だというラーフ公爵夫人を探すことにした。
ロットハーナの邪法を使っているというなら、何かしら紋章の入った魔導具を持っている可能性が高いだろうと考えたのだ。
馬車でまずはホーライル侯爵領まで。
路銀は心許なかったが幸い夏だ。装備さえ整えれば野宿もそう難しくない。
途中の街の冒険者ギルドで冒険者登録をして、簡単な依頼をこなして資金を確保しながら数日かけて目的地へと辿り着いた。
ホーライル侯爵領は港のある海に面した領地として知られているが、辺境伯としてのホーライル侯爵の治める地でもある。
海とは反対方向には山脈があり、山を越えれば隣国への道がある。
イマージは探索の魔導具を起動させた。
反応がある。間違いなくこの地にラーフ公爵夫人はいる。
突然前触れもなくやってきた灰色の髪にペールブルーの瞳の青年を、逃走中のやつれなどまるでないラーフ公爵夫人ゾエは微笑みながら出迎えた。
アルカイックスマイルを浮かべた淑女は、罪など知らぬというような典型的な貴種の見た目の貴婦人だった。
顔を合わせた瞬間、互いに血の繋がりがあることはすぐにわかった。
公爵夫人もイマージと同じ髪色と目の色なのだ。
即ち、灰色の髪とペールブルーの瞳を持っていた。
「お前がロットハーナの末裔ですか。証拠はあるのでしょうね」
「はい、奥様。先祖から受け継いだ魔導具がいくつか。こちらをどうぞ」
と一番わかりやすい、ロットハーナの紋章入りのブローチを献上した。
ブローチの宝玉部分は透明な魔法樹脂だ。魔力を通せば何らかの魔法が発動されるはずだが、起動に必要な魔力量が大きすぎて、イマージの一族の者は誰も術の発動も解術もできていなかったものだ。
公爵夫人の魔力でも不可能なようで、ブローチはイマージに返された。
「間違いないようですね」
それから執事が茶の準備をして、ゾエ夫人と話をした。
彼女はまず、フォーセット侯爵令嬢だった婚前の過去をイマージに語った。
元々は、現在王太女の伴侶となったクロレオは彼女の婚約者だったという。
今の夫、ラーフ公爵が本来の王太女の婚約者だったのだ。
王太女がクロレオに横恋慕して奪い、結果として互いの婚約者を交換した形になる。
少なくともゾエ夫人はそう思っている。
「あの頃から、わたくしは王家が大嫌い」
王家の血筋だと判明したトークス子爵令嬢イザベラと息子の婚約を王家から打診されたが、とんでもないことだった。
かつての償いのつもりなのだろうか。
しかも、イザベラはゾエからクロレオを奪った憎き王太女グレイシアとよく似た顔立ちだった。
「とことん、この子を潰してやろうって思ったの」
うっそりと笑うゾエ夫人は、それでも貴族的で美しかった。
どうやって人々を黄金に変えたのか、とイマージは訊ねた。
するとゾエ夫人は、実家に伝わる魔導具を使うと対象者の魔力を削ぎ無力化できることをイマージに教える。
彼女が使っていたのは、イマージが持っているものと同じ隕鉄製の、こちらは短剣だった。
実家から連れてきた、愛人でもある忠実な執事に実験を繰り返させてデータを集めてきた。
結果わかったのは、伝承にある通りロットハーナの血筋の者なら人間を黄金に変える錬金術が使える。
ただし、既に血は薄くなっているため、魔導具が必要であると。
ロットハーナ伝来の魔導具は、まず武器で相手に攻撃しながら魔石部分に触れる。
その後、ロットハーナの血筋の者が自分の魔力を流すと、相手に虚無という属性の魔力を作用させて抵抗を削げる。
そのまま魔導具を相手に触れさせ魔力を流し続けると、黄金錬成の出来上がりだった。
短剣を突き刺された相手は黄金へと姿を変える。
その量は相手の魔力量が多ければ多いほど、大量の金となる。
「だからターゲットとなる人間は魔力があればあるほど良いのね。……ふふ。試しに、ダンジョンで普通の冒険者相手に魔導具を使わせてみたのだけど、砂金ほどの黄金にしかならなかったわ。これだから平民は駄目ね」
魔力量の多い貴族だと、そこそこの量になったそうだ。
ゾエ夫人は当初、婚家のラープ公爵家を出奔した後、まず実家のフォーセット侯爵家へ一度戻っている。
だがゾエ以外の実家の両親や兄弟は誰一人、自分たちがロットハーナの末裔であることを知らなかった。
そのため、ゾエがロットハーナの邪法を使うことを当然のように非難してきた。
「だから、お父様もお母様も。お兄様たちもみぃんな、黄金に変えてしまったわ。ふふ、やり過ぎてしまったかしら」
黄金に変えた家族はそのままこの別荘まで持ち込んでいるという。
「本当なら、イザベラ。あの娘もジオライドと結婚させた後、程々のところで黄金に変えるつもりだったのよ? そうしたら行方不明扱いにして、また一年も経ったらジオライドに別の良い令嬢を当てがおうかなあって」
それからゾエ夫人は機嫌良くイマージの質問に答えていった。
例えば、新聞にもロットハーナの末裔が関与した可能性が高いと書かれていた、リースト伯爵家の簒奪事件。
イマージの在籍する学園の3年A組には当のリースト伯爵ヨシュアがいる。彼はイマージも転校当初から世話になっている学級委員長カズン・アルトレイの友人だ。
前リースト伯爵カイルの後妻ブリジットは、前の婚家から離縁される前から、ラーフ公爵夫人の取り巻きの一人だったという。
その後妻、最初は再婚相手のリースト伯爵カイルに尽くし家政に張り切っていたが、そこへラーフ公爵夫人だったこのゾエが入れ知恵をした。
即ち、婚家と血の繋がらない自分の連れ子を、再婚相手の跡継ぎにする方法をだ。
まず、リースト伯爵家には嫡男のヨシュアがいるが、彼を何らかの理由によって失脚させる。
また、ヨシュア自身のサイン付きで、連れ子に爵位継承権を譲渡する旨、契約書を書かせればよい。
連れ子にはリースト伯爵家の血は一滴も流れていないから、もちろん貴族社会の目は厳しくなるだろう。
だが、貴族家最高位のラーフ公爵夫人のゾエが後押ししている。
しかる後にリースト伯爵家の一族の娘を娶れば、生まれた子供が伯爵位を継承するまでの間、連れ子が代理伯爵となることはじゅうぶん可能である。
そのように、後妻をそそのかした。
リースト伯爵令息ヨシュアはその頃から既に優秀な魔法剣士として知られていて、付け入る隙はほとんどなかった。
だがそれにも、ラーフ公爵夫人は特殊な魔導具や毒、隷属魔術のうち、多少でも魔力があれば使える術の方法などを授けることで、抵抗を削ぐ術を与える。
そうしたものが、今はほとんど知られなくなった前王家ロットハーナのものだったのである。
「奥様。ひとつだけ教えていただきたいのです。あなたのご子息ジオライド君は、なぜあれほど問題のある人物になってしまったのですか?」
「まあ。お前、良いところに気づいたわね」
ロットハーナの血筋の者は、覚醒すると独自の魔力を持つ。
その魔力の属性を“虚無”という。
「虚無、ですか……。しかも覚醒とは、いったい」
「難しいことはないのよ。何か一つでも、ロットハーナの術を使えば身に付くの。わたくしは娘時代に実家の宝物庫でロットハーナの遺物を見つけて、それで家にいたメイドの一人を黄金に変えてみた。そうしたら使えるようになっていたわ」
この力は意図的に後世に伝える必要がある、と夫人は思ったという。
「だからね、息子に虚無の力を継承させようと少しずつ、わたくしの魔力を馴染ませていったの。そうしたら自制のきかない子になってしまったのよね」
ジオライドは難産でようやく産んだ子供だったから、ゾエもそれなりに愛着のある息子だった。
だから息子が思うようにならないことがわかってからも、彼女なりの歪んだ愛情を注ぎ続けた。
その結果があの、幼稚で破滅的な言動の男だったというわけだ。
「元は、氏より育ちってやつでね。私や実の父より、育ての父親の性格に似てしまったのよね。お金儲けがとにかく上手で、実利的な思考。でもわたくしはもっと深みのある男になってほしかったのに」
この頃にはイマージも理解していた。
(この人は、頭のおかしい人間だ)
今のアケロニア王国の王太女、その伴侶となった男クロレオが彼女の元々の婚約者だったという。
彼がこのゾエを捨てて王太女グレイシアを選んだというなら、それは大した英断だったように思う。
詳しい話を聞いて、今後同じ血族の者として協力し合うことをイマージとラーフ公爵夫人ゾエは約束した。
屋敷を出るとき、ふとイマージの脳裏をある考えがかすめた。
(そうだ、ぼくたちは同じロットハーナの末裔。だけどゾエ夫人は既に犯罪者で追われるだけの身。ならば僕が彼女の物を貰っても構わないのではなかろうか)
見送りに来た金髪の執事を、イマージは振り向きざま、手持ちの隕鉄のナイフで刺した。
すぐに執事は硬直し、輪郭からほろほろと崩れて、後には指先で摘まめるほどの金の塊が残る。
「………………」
(なるほど。このナイフはこうするだけで良かったのか)
そのままイマージは再び屋敷の中に戻る。
気配と足音を殺しながら、先ほどまでいた応接間まで戻ると、まだラーフ公爵夫人はそこにいた。
「奥様、申し訳ありません。お伝えし忘れていたことがありました」
「まあ、何かしら」
イマージは自分の容貌や物腰が、他者に脅威を与えないことを知っていた。
故郷では平民ながら気品のある雰囲気だけで、目上の人間に一目置かれることも多かった。
そこは容貌の似通ったゾエ夫人も同じだろう。
「先ほどお見せした先祖伝来のナイフのことです。拵え部分の装飾と魔石について、お耳に入れておいたほうが良いかと思いまして」
先ほど執事に突き刺した後、懐に入れていた隕鉄製のナイフを取り出す。
ナイフは刃の部分が黒っぽい隕鉄で、表面にいくつも雷が走ったような紋様が入っている。
柄は銀製で、錆はないが全体的に黒ずんでいる。
ロットハーナの紋章と黒い魔石は持ち手の尻に当たる柄頭にある。
「この部分なのですが……」
剥き出しのままのナイフの柄側を夫人に向けて差し出した。
ゾエ夫人は何の警戒心も見せずにナイフを受け取ろうとする。
「!」
夫人がナイフを受け取る寸前、イマージはナイフの柄を自分で持ち直して、刃先を夫人に向け、華奢な肩に手を付いて勢いよく胸に突き刺した。
よく研がれた鉄の剣と違って、隕鉄のナイフの切れ味は鈍い。
それでもイマージも学生とはいえ、身体の出来上がった大人の男に近い体格と体力の持ち主だ。
その力で強引に突き刺せば、夫人の夏用のドレスの生地は難なく通過して、肉体まで到達した。
(やったぞ。上手く肋骨に当たらず刺せた)
そのまま力任せにナイフを夫人の胸元に押し込む。
急所の心臓まで達すると、抵抗を見せていたラーフ公爵夫人ゾエは一際大きく目を見開いた後で事切れた。
夫人の輪郭が、先ほどの執事と同じようにほろほろと崩れていく。
後には、イマージの拳より一回り小さいくらいの金塊が残った。
「すごいな。こんなに簡単なのか」
それから屋敷の中を見て回って、数人いた使用人たちからある程度、ゾエ夫人と執事たちに関する情報、この屋敷に出入りする人間や商人たちの話を聞き出した。
その上で口封じを兼ねて全員、隕鉄のナイフで刺して黄金に変えた。
もっとも、使用人たちは魔力をほとんど持たない者たちだったようで、後に残ったのは砂金粒ほどの金でしかなかったが。
これまで覚えたことのないような高揚感に浮き足立ちながら、屋敷の部屋をひとつひとつ確認していった。
ゾエ夫人に付き従っていた執事は家令を兼ねていたようだから、資金は彼が管理していたはずだ。
使用人部屋のひとつに、案の定金庫があった。
サイズはイマージが一抱えできる木箱程度だろうか。
鍵がかかっていたが、屋敷の入り口まで戻って、そのまま残っていた執事の衣服を探るとポケットから屋敷内の主だった部屋や設備の鍵を束ねたリングが出てくる。金庫らしきものの鍵もあった。
すぐ金庫の部屋に戻って開けると、そこには金塊半分、残り半分は大金貨と小金貨が布袋に詰まっていた。
あとは夫人のものだろう貴金属の宝飾品だ。
改めて屋敷の中を確認して、資金はこの金庫にあるだけだと確認する。
それでも金庫の中一杯の金は大量で、イマージひとりで持ち運ぶのは骨が折れそうだった。
少し考えて、イマージは徒歩圏内で、できるだけ街に近い場所に小さな家を借りた。
そうしてホーライル侯爵領にいる夏休みの残り期間の間に、住人の居なくなった屋敷から持てるだけ金塊や金貨を持ち出して、借りた家に移動させた。
これだけの資金があれば、この人生で金に苦労することはないだろう。
だが、アケロニア王国に来た当初の目的である学園卒業資格だけは得たかったので、イマージはそのまま学園に通い続けることにした。
王都の城下町の下宿での生活は変えなかった。
いつも月末近くにやっとのことで支払っていた家賃も、きちんと月初に支払うようになったことだけが変化だ。
そして放課後の短期労働も、急に辞めると怪しまれると思い、少しずつ適当な理由をつけてフェードアウトしていった。故郷の家族が仕送りしてくれるようになったから、という理由はとても説得力があり使えた。
毎週末には、王都や近郊の国内の転移魔術陣のある街から、ホーライル侯爵領の家へと飛んだ。
金銭的な不安がなくなったから、今までできなかった贅沢も楽しんでみた。
そんな生活の合間に、冒険者としての実力を上げていき、冒険者ランクもCまでアップさせた。
人目のないところで冒険者たちを黄金に変えていったが、やはり魔力の多く強い者でないと成果が少ない。
「魔力の多いもの……やはり貴族か」
高位貴族家出身のラーフ公爵夫人ゾエで、拳より小さいぐらいの金塊になる。
色々と実験してみる必要がある。
彼女は派手にやらかしたから問題になったが、自分ならもっと慎重にやれる。
ロットハーナの使っていた錬金術についても、もっと詳しく調べて研究してみたかった。
そのままサロンで軽食や菓子をつまみながら、カズンたちは談笑していた。
話が弾んできて、カズンはこの夏休み中に騎士団でランクアップ試験を受けたいとの話題を出した。
それを聞いたヨシュアの叔父、リースト子爵ルシウスが自分が試験を請け負うと申し出てくれた。
「ちょうど私のほうも手が空いたところだ。お前たち、どの程度成長したか私に見せてみなさい」
何の手が空いたかといえば、彼の最愛の兄を殺した前リースト伯爵カイルの後妻の実家の粛清だ。
完膚なきまでに叩きのめした。いや潰した。破壊した。
そんなことをしても愛する兄は戻って来ないのだが、やらずにはいられなかった。
「ルシウス様……」
低い美声で心底悔しげに、悲しげに呟かれて、カズンたちは胸が潰れるようだった。
というか本当にルシウスから発せられる魔力の圧力で潰されそうだ。
文字通り圧がすごい。
「……はは。愚痴を言ってしまってすまない。よし、騎士団でランクアップ試験を受けるのだな。手配は私がしておくから、お前たちは三日後まで可能な限り鍛えておくように」
「三日後で予定が取れるのですか?」
「問題ない。……そうだな、午前9時に王都騎士団本部の練兵場に集合だ。動きやすく汚れても良い格好で来るように。ああ、ちゃんと着替えも持参するのだぞ。朝食は抜いて飲み物だけに留めるように。やりすぎると吐くやもしれぬ」
そして彼は仕切り屋だった。
ルシウスがその日その時間だと指定したなら、その通りになるのだ。例外はない。
そしてこの瞬間、ランクアップ試験が吐くほどきついものになることが確定してしまった。
完全無欠の最強男と書いて“越えられない壁”と読む。
それがリースト子爵ルシウスを端的に表す、この上ない的確な表現だった。
久々にルシウスの活躍が見られると知って、王都騎士団の訓練所には王宮の内外から人が集まった。
「あたくしの可愛いショコラちゃーん! がんばってーえ!」
「お母様! 僕、頑張ります!」
観覧席から母セシリアが手を振りながら応援の声を上げていた。
これは負けられない。
そのセシリアもいつものような家でのワンピースや、ましてや社交に出るときのようなドレス姿ではない。
アケロニア王国では、成人した貴族はすべて国の軍属となる。
その上で、王都や各地域の騎士団か、自領の騎士団もしくは兵団に所属することになる。
騎士団に所属すると本人のみ一代限りの騎士爵の身分が与えられる。
このことから、爵位持ちの貴族の大半は騎士爵を従属爵位に持つ。
そしてアルトレイ女大公である彼女は大公家の専属騎士団を擁している。
よって彼女もまた騎士爵を持つ女騎士だ。今回、専用の黒い生地を使った夏用の騎士服をまとっての観覧である。
セシリアの隣には、同じような黒の騎士服姿の王太女グレイシアとその伴侶クロレオもいる。
生憎と父親ヴァシレウスは用事があって来られなかった。たいそう残念がっていたが仕方がない。
今回、挑戦者のランクアップ試験を担当するのはリースト子爵ルシウス。
現リースト伯爵ヨシュアの父方の叔父で後見人、リースト騎士団の副司令官でもある。
麗しの美貌で知られるリースト伯爵家の本家筋の人間なので、たいそう美しく、その上、男前だ。
これがまた、リースト伯爵家のネイビーのラインとミスリル銀の装飾入りの白い軍服が憎らしいほど似合っている。
そのため会場の観覧席には普段はいないはずの、各貴族家の三十代の淑女たちがいる。彼女たちは皆、ルシウスと同世代あるいは近い世代の女性たちだ。
特に学園で一年でも共に通った世代は、彼のファンクラブであった女性が多い。
彼女たちも貴族家の出身でそれぞれの家の軍服を身に纏っている。
そのため、黄色い悲鳴は聞こえてくるものの、風紀を乱すような派手で色っぽい夏のドレス姿の者はひとりもいなかった。
規則だからというのは、もちろんある。
しかし、この場合、ルシウス本人に見つかると説教一時間コース待ったなしなので各々が自重しているのである。
ルシウスが試験担当者なら、リースト伯爵家の男子特有の金剛石の魔法剣が出てくるか? と誰もが予想していた。
しかし大方の予想に反してルシウスが手に取ったのは、王都騎士団の備品の、なんてことのない鉄剣だった。
「まずはひとりずつ、それぞれ得意な獲物とやり方でかかってくるように」
ユーグレンは右手に大剣、左腕にアケロニア王族特有の盾剣バックラーを魔力で編み出しての挑戦だ。
筋骨隆々とまではいかないが、ユーグレンも日々騎士たちから訓練を受け、大剣を振り回す膂力がある。ましてや身体強化を使えるのだから、軽々と。
カズンは盾剣バックラーのサイズを大きめに調整して左腕へ装着。
武器はあえて持たず、籠手を付けての徒手空拳での挑戦だ。
カズンはまた拳だけでなく足技も持っている。
ヨシュアはやはり有名な金剛石、ダイヤモンドの魔法剣だ。
宙に浮かせて自在に扱う他、手元に一振り残して対人用に使う。
ルシウスの鍛えられた身体からは、光るネオンブルーの魔力が噴き出している。
怖い。あれは絶対に勝てないやつだ。
ユーグレン、カズンはそれぞれ三手ほど交わした時点で攻撃が通らなくなり、一分もしないうちに試験は終了した。
だが、二人とも終わった後は全身に汗を流して息を荒げていた。
「き、きつい……!」
「永遠に終わらないかと思った……!」
胸の奥から込み上げてくるものがある。
必死に堪えていたが、ふたりして用意されていたバケツに吐いてしまった。
本命はやはり、叔父と甥の対決だろう。
「ルシウス叔父様、胸をお借りします」
「来い、ヨシュア!」
が、しかし。
「お、おい、“竜殺し”の称号持ち英雄が震えてるじゃないか……」
会場で誰かが呟いた。その声はやたらと会場内に通る。
「ヨシュア! 大丈夫だ、ポーションも魔力ポーションも僕とユーグレンで王宮内のありったけの在庫をかき集めてきた! 怪我しようが手足がもげようがすぐ治してやるからな! 安心して良いぞ!」
「……どこにも安心できる要素がない」
ぽそっとヨシュアが呟くが、すぐに目の前の叔父に意識を集中させた。
「叔父様、そんな無粋な剣でオレの相手をしないでください。あなただってダイヤモンドの魔法剣を持っているのだから!」
「……これは真剣勝負ではない。あくまでも試験であってだな」
「叔父様」
「……仕方のない子だ。怪我しても恨むでないぞ?」
こちらは観覧席のカズンの母セシリアとユーグレンの母の王太女グレイシア。
「出たな……“魔剣”」
「えっ、聖剣でしょ? ルシウス君の魔法剣って」
「こんな大地を揺るがすような聖剣があってたまるか」
あの、たった一振りの両刃の魔法剣の存在感ときたら。
魔力で顕現させた瞬間から、ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのような音が鳴って空気が震えている。
その剣の属性は聖。
美しく眩く輝くダイヤモンドの魔法剣である。
彼が生み出せる魔法剣はこの一振りのみ。
気づくと誰もが歓声を止めてその美しい剣に見入っていた。
もちろん、既に試験を終えたカズンやユーグレンも。
子供の頃から絵本や物語の中でしか見たことのなかった聖剣は、カズンたち男子にとって大きな憧れだった。
聖剣を持つにも関わらず、ルシウスの学生時代のあだ名は“魔王”だった。つまりはそういうことである。
伊達に最強男と呼ばれているわけではなかった。