そろそろブルー商会を辞そうとしたところで、商会の職員がカズンの母からの注文品を持ってきた。
ひとつは、現在国内で流通している口内清浄剤のタブレットのうち、人気のフレーバーを集めたもので、薄型の四角い宝石箱に詰め替えられたもの。
「なるほど、お母様はこの入れ物を注文していたのだな」
道理で代金として渡された中に、大金貨という大金が入っていたわけだ。
中身のタブレットより、外側の宝石箱のほうがお高い。
セシリアと夫ヴァシレウス用に二つ、更に仲の良い貴族夫人への土産用に十数箱が用意された。
「で、ジャジャーン! こっちは自信作ですよ、超特急で缶からデザインしてみました!」
出てきた細長い缶のタブレットケースに、カズンもヨシュアも目を瞠った。
日常使いしている口内洗浄剤の缶ケースを単純に3倍した大きさのそれの、パッケージイラストが問題だった。
「カズン様のお母様から見本にお借りしていた絵姿を参考に、新たな描き下ろしで製作しました! ユーグレン王子×王弟カズン×リースト伯爵、これで更に爆売れ間違いなし!」
三人が好んで使っている口内洗浄剤タブレットを、縦に並べて三連結した製品を新たに作ったということらしい。
中央のスペアミント部分のイラストにはカズンの王族としての黒い軍服の正装姿。
左にはユーグレンの同じく正装姿でアニス。
右には薔薇のタブレットでヨシュアの、これまた白地にネイビーの差し色のリースト伯爵としての正装姿がイラストで描かれている。
中身のタブレットを取り出すときは、通常と同じように上へ蓋をスライドすれば良いようになっていた。
「御三方の交際を記念してのスペッシャルエディションってやつですよ! あ、ちゃあんとお母様からの正式発注ですから、不敬とかそういうの勘弁してくださいね?」
「セシリア様、やってくれましたねえ」
と言いながら、自分用にとりあえず今日持ち帰りたいからと、十箱注文するヨシュア。
ちなみにカズンの母セシリアはこれを百箱注文していたらしい。いったいどこで誰に配ろうというのか、考えるだけで恐ろしい。
(お母様! お母様! いったい何やってくれてるのですか、息子弄りも大概にしていただきたい……!)
価格は特別パッケージということで、元の価格より倍以上跳ね上がっている。
帰りの馬車に載せきれない分は、後ほどアルトレイ女大公家まで配達しに来てくれるらしい。
「口内洗浄剤の有名人パッケージ、流行りそうですよねえ。で、こっちがイザベラ先輩へ」
カズンの母が注文したものとは別の箱から、カレンはひとつ缶のタブレットケースを取り出してテーブルの上、イザベラに向けて差し出した。
カズンたちもケースを覗き込む。
「これ……“女傑イザベラ”ですか?」
タブレットケースは一般的な長方形・薄型のものではなく、楕円形でやや厚みがあるタイプのものだった。
表面のパッケージには、黒髪黒目の豊かに波打つ髪を棚引かせた、赤い騎士服を身に纏う十代後半の女性の絵姿が描かれている。
「そう。伝記の挿絵や一般的に出回ってる絵姿だと、髪色が茶色なんですよね。でも本当は黒髪を染めてただけだってカズン様のお母様から伺いました。なので修正したバージョンの絵姿です」
今年、女傑イザベラ没後五十周年で、彼女が先王ヴァシレウスの異母姉であった事実を公表する。
その際の記念品として、ヴァシレウスの伴侶セシリアが発注したということだった。
「女傑イザベラは……そうですね、セシリア様にとっては義姉になりますものね」
パッケージの中の女傑イザベラは真正面を向いて、力強く凛とした瞳を輝かせている。
眉がこの場にいるイザベラよりやや太いことを除けば、彼女とほとんど同じ顔だった。
「これ……いただいちゃってもいいの? カレンちゃん」
「もちろんです。セシリア様からお代は前もって頂戴してますから、じゃんじゃん持って帰っちゃってください。あと千個ほど」
「せん……っ!?」
突拍子もない数だが、そちらはまた別口で王都のトークス子爵家のタウンハウスへ別配送してくれるという。
「ちなみにですねえ、ガスター菓子店の本店限定で、女傑イザベラ没後五十周年記念の特別セレクションボックスが販売されるそうですよ。女傑イザベラのお母様と先々王の馬小屋でのエピソードにちなんでお馬さんのぬいぐるみ付き!」
ガスター菓子店はチョコレート菓子で有名な、王都の老舗名店だ。
毎年、国のイベントに応じてセレクションボックスを販売することで知られている。今年は女傑イザベラにちなんだものになるようだ。
「ボックスの表面に、女傑イザベラの一生を描いた絵画がプリントされるそうです。プレミア付きそう〜」
ブルー男爵家も予約開始と同時に予約を入れる予定だそうだ。
浮かれるカレンに笑いながら、イザベラは貰った口内洗浄剤の楕円の缶の蓋を開けた。
白く丸い粒をその場の全員にシェアし、自分も一粒口に放り込む。
ふわりと鼻腔にショコラの甘い香りが抜けていく。
「チョコレート風味だわ。珍しいフレーバーね」
「そちらもカズン様のお母様の指定なんです。何でも女傑イザベラの母君と先々王陛下にちなんだものだそうですよ」
「?」
どうやらイザベラの知らない話だったらしい。
だが、父ヴァシレウスから話を聞いていたカズンにはすぐピンときた。
「ガスター菓子店は、女傑イザベラの母君と先々王の二人が少年少女だった頃、お忍びで買い物に行った店だったらしいぞ。それにちなんだフレーバーだと思う」
「へえ、デート先にガスター菓子店! あそこお高いのに、さすがセレブってやつですかねえ」
カレンは感心していたが、まだ即位する前の王子時代の、先々王が少年だった頃の話だ。
「ああ。今と同じで、当時もガスター菓子店は高級店だった。そして当時の王族は自分で金など持ち歩かない」
王族が小遣いを渡されるようになったのは、ユーグレンの母の王太女の世代からだと聞いている。
それまでは侍従が常に付き添い、何をどの店で買うか厳密に定められていて、王族に個人的な買い物の自由はなかった。
「というと?」
「店に行ったはいいが、先々王は金を持っていなかった。ショコラの代金はまだ少女だった頃の母君が出したんだ。父親が騎士とはいえとっくに引退した馬屋番の娘の小遣いなどたかが知れている。その少ない小遣いの中から」
ガスター菓子店で一番安い正規の商品は、銅貨8枚(約800円)で買える、一粒入りの小箱だ。
「だが母君は、銅貨8枚も持っていなかった。それを知った当時の店主でもあった菓子職人が『なら、いくら持っているんだい?』と訊ねて、銅貨3枚と答えた。ならばと店主が出して来たのが、欠けのあるショコラ片2枚だったという」
本来なら綺麗に正方形に成形するショコラだったが、製作途中で欠けてしまった訳あり商品なら銅貨3枚で良いと言ったらしい。
「二人はその場で、欠けたショコラ片を一枚ずつ美味しそうに食したそうだ。そのときの店主が後に王家へショコラの自信作を献上した際、即位していた先々王から直接、当時のことで礼を賜ったのだそうだ」
「ショコラ片2枚って……」
「ガスター菓子店で一番安いやつ!」
今の物価なら、銅貨3枚(約300円)なら子供の小遣いでも十分買える。
高級店のガスター菓子店は敷居の高い店だが、ちょっとだけ背伸びをしたい若い子たちや、上流の味を気軽に堪能したい人々が買っていくのが一番安い『ショコラ片2枚』なのだった。
日によってはショコラ詰め合わせセットより、このショコラ片のほうが売れる日もあるという。
「あの店にそんなエピソードがあったなんて、初めて知ったわ」
カレンも友人たちとの街歩きで、小遣い片手にガスター菓子店の一番安いお得なショコラ片2枚を買ったクチだ。
王族で王弟のカズンも、まだ学生のうちの使える金額は毎月の小遣いの範囲内だ。
学園の放課後、ガスター菓子店を覗いて箱入りの手頃なセットを買うときもあったが、必ずショコラ片2枚も一緒に買っていた。
「女傑イザベラの真実の公表とともに、ショコラ片2枚も爆売れしそうですよねえ〜」
そんな話を聞いてしまうと、尚更だ。
今日この後、商会の受付の手伝いが終わった後で買いに行こうかなとカレンが呟いている。
ちなみにこの後、ブルー商会を出た後、カズンたちはそのガスター菓子店のレストランへランチに寄る予定だ。
長らく王都には本店だけの営業だったが、今年に入ってついにファン待望の支店ができた。そちらでは本店よりややリーズナブルに飲食が楽しめる。
ブルー商会の職員に注文品の精算をしてもらうと、巾着の中には小金貨が5枚以上残っている。ヨシュアとランチを食べて、更に土産にショコラを買うには十分だろう。
「あら、カズン様たちデートですか?」
わかってるわ、あたしにはわかってますよと言わんばかりにニヤニヤとカレンに揶揄われる。
隣のイザベラも面白そうな顔をしていた。年頃らしくその手の話には目がないようだ。
「ユーグレン殿下抜きでデートですか? お二人とも」
「一応、ここに来る前に王宮に連絡は入れたが、どうかな。殿下も夏休みに入って忙しいみたいだから」
数日前から連絡を入れていればユーグレンも都合がついただろうが、何せカズンが母からお使いを頼まれたのが今朝のこと。
ヨシュアに連絡を入れたのと同時に王宮にも使いを出していたが、カズンたちがブルー商会にいる間に連絡が返ってこないということは無理なのだろう。
こういうとき、前世の世界で当たり前のようにあった電話やスマホ、メッセージアプリがないのは不便だなと思う。
一応、通信用の魔導具はあるのだが、緊急時専用で一般には普及していなかった。
「カレン嬢、電話的な魔導具を開発したりはしないのか? あればどれほど便利になることか」
「あー、それはもちろん魔導具師として考えましたけどね。以前試作品を作ってみたんですけど、何ていうんでしょ、変な電磁波みたいなのが出て魔物を誘き寄せちゃうんですよ。通信用魔導具が開発されているのに一般化できない理由は多分そこかなと」
まだしばらく、連絡の主な手段は手紙や人を介した言伝に頼ることになりそうだった。
(イザベラ嬢を救い、彼女を虐げていたジオライドとの婚約も無事に解消された。これで日々心を占めていたトラブルも解決! 憂いはなくなった!)
彼女の置かれたあまりの苦境を目の当たりにして胸は痛むわ、つられて魔力まで不安定になるわで散々だったカズンだ。
(しかしもう終わった。夏休みだ! 学生生活最後の夏休み!)
解放感で心身も爽快だった。
後は若者らしく弾けるだけである。
だが、そんな爽快感も夏休みに入って数日たつとだいぶ落ち着いてきて、以前の状態に戻った。
と思ったら。
「カズン。愛しい我が息子よ。だから言ったではないか、チョコレートの食べ過ぎは良くないぞと」
「違います、お父様! 確かに僕は毎日ショコラを食してましたが、執事がうるさくて一日3粒までしか口に入れておりません!」
自室の寝台の上にうつ伏せになって、医師の処置を受けながら、父ヴァシレウスからお小言を頂戴してしまった。
だが解せぬ。以前ユーグレンからせしめたガスター菓子店の中箱ショコラも、先日ヨシュアと買ってきた限定セットもすべて、笑顔の執事に奪われて自室に持ち込むことはかなわなかったではないか。
一口サイズのショコラ3粒で身体に害が出るなどあり得ない。
たとえそれが毎日のことだとしても。
「でもニキビが背中にできるって珍しいわねえ。あたくしも少女時代にできたことあるけど、ほっぺたとかだったわ」
「うう……」
夏休みに入って、宿題をこなしつつのんびり過ごしていたある日。
背中に鋭い痛みが走り、何事かと服を脱いで侍従に確認してもらうと、大小いくつかの吹き出物ができていた。
痛みが出たのは、そのうちの一つが服に擦れて潰れてしまったものらしい。
「お年頃の方のニキビは、セシリア様の仰る通り顔に出ることが多いのです。ですが、背中となると……。強いストレスを感じる出来事があると、大人でも背中に出やすいとが言われています。」
あ、とカズンも両親も当然思い当たることがある。
イザベラと元婚約者ジオライドの件では関係者すべてにかなりの強い精神的負荷がかかった。
「ほらやっぱり、ショコラのせいじゃなかった!」
あやうくショコラ禁止令が出るところだった。
それはカズンにとって、死ねと言われるに等しい宣告だ。泣いてしまう。
「首元やお腰の辺りに少し汗疹も出ていますね。今年は暑いですから、可能なら避暑地でゆっくり過ごされるとよろしいでしょう」
患部を清潔に保つことの指示と、解毒排毒のハーブティーを処方して、医師は帰っていった。
「確かに今年は暑い。避暑地行きは良い案だ」
「ですが旦那様、今の時期、王都を離れても良いものでしょうか?」
秋から冬にかけては王都では社交パーティーも増えるから、その準備に追われる。
自分たちに関していえば、まだロットハーナの件が片付いていない。
「ヴァシレウス様、それでしたら郊外の温泉地なら半日で行けますし、標高も高い場所ですから涼しく過ごせます。手配致しましょうか」
「あら、いいわね! 温泉ならお肌にも良いし、ニキビや汗疹にも効くのではなくて?」
執事の提案に乗ることにした。
「なら、ヨシュアにも連絡入れないと」
簡単な事情を手紙に書いて使用人を使いに出すと、夏休み期間中、一度は叔父に任せっぱなしのリースト伯爵領に戻らねばならないとの返事だった。
だがすぐに王都への帰り道に合流するとのこと。
家族旅行は往復時間を含めて一週間ほどの予定となった。
一家の護衛などを手配し、さっそく翌日から避暑地へ向かうことにした。
夏は暑さで体力が落ちやすい時期だから、社交好きの母セシリアもほとんど予定が入っていない。
父親ヴァシレウスは念の為、王宮に向けて息子の国王テオドロスに避暑地へ行く許可を得るため確認したようだ。
年齢を考えれば、温泉のある避暑地での休養はむしろ勧められたそうな。
そういえば、と行きの馬車の中で父にこんなことを訊かれた。
「カズン。ユーグレンに避暑地へ行くことを連絡したのか?」
「え? してないですよ? 必要があればテオドロスお兄ちゃまが伝えるでしょうし」
「お前たち、派閥問題の解決のために三人でいることにしたんじゃなかったのか?」
「うーん……ユーグレン殿下は僕じゃなくてヨシュアが好きな人ですからね。現地でヨシュアと合流した後も帰るまで短い時間しか一緒にいないでしょうし。あえて連絡する必要はないかと」
なお、この淡々としたカズンの対応が大間違いだったことは、後に判明する。
カズンが家族で向かう避暑地は、王都から馬車で休憩数回を挟んで約半日ほどの場所にある、郊外の山麓だ。
標高が高い地域のため冬はぐっと気温が下がるが、夏は逆に気温が上がりにくく、涼しく過ごしやすい。
山頂付近に残る雪が雪解け水となって麓の湖となり、一部の地域には温泉が湧き出している。
アケロニア王国の王都も山や森に囲まれた都市で自然は多いが、やはり人口の少ない山間部は空気が澄んでいる。
今回、カズンが初めて来た避暑地の別荘は王家のものではなく、ヴァシレウスの私物で建物は平屋の木造建てだった。
驚いたことに瓦の屋根で、どこか日本の和風建築の趣がある。
中に入ると木の爽やかで良い香りがした。嗅ぐだけで健康に良さそうな場所だ。
部屋数は使用人のものを含めて十部屋ほど。敷地は広かったが、大貴族の持ち物にしては建物のサイズが小さめだ。
その代わり、屋内に大きな浴場が設置されている。
ヴァシレウスが大病を患ったとき、湯治用に作られた施設ということだった。
まだ彼がセシリアと出会う前の話だ。数ヶ月単位で滞在していたらしく、建物を見て懐かしそうな目になっている。
別荘を訪れて、落ち着きかけていたカズンの解放感や爽快感は、逆にいや増した。
大好きな両親と朝から晩まで一緒ということもあるし、何より温泉が素晴らしい。別荘に湧き出ている温泉は重曹泉で、一度で全身がしっとりすべすべになった。
朝起きて一番に飲む水が美味い。身体の隅々まで染み渡り、細胞のひとつひとつが喜んでいるかの如くだった。
そして食事がこの上なく美味い。集落の村長の家から派遣されてくる料理人の腕が良いのもあるし、雪解け水で育った野菜や動物など食材の新鮮さは格別だった。
特に温泉の源泉近くの熱湯で作る、半熟の温泉卵の濃厚さには愛を囁きたくなったほどだ。
(楽しい。すごく楽しい!)
毎日、午前中は父と山登りしてそこから見える光景を眺めながら、様々な教えを受けた。
昼にはまた別荘に戻り、母も一緒に昼食を楽しむ。
それから午睡を楽しんだり、あるいはまた温泉に浸かったり。
午後は家の護衛騎士たちに混ざって剣や体術の鍛錬をする。父のヴァシレウスからも色々コツを教わってと、とにかく充実していた。
そうこうしているうちに、避暑地への滞在もあっという間に残り二日となった。
最終日の明日には、領地から戻る途中のヨシュアも合流する予定である。
今日も朝から充実した一日だった。
明後日には王都へ戻るから、別荘を出て集落の村長らに挨拶したり、土産を物色したりしていた。
もちろん夏だから外は暑いのだが、標高の高い地域なので朝晩は涼しく快適だった。
王都の屋敷にいたときとは段違いに空気も良いから、身体も動かしやすい。
夕食を終え、軽く休んでから父と温泉へ入って、また居間で家族の団欒を過ごして。
日付が変わる前に眠気が襲ってきて、カズンは両親に就寝の挨拶をしてから自室へ入った。
異世界風の和風建築の部屋で、床は木の板やタイルでなく畳に似た仕様だ。寝具はそこに厚手の敷き布団を二枚重ねと、夏用の薄手の掛け布団で休む。
布団の間に潜り込むなり、瞼がとろん、と落ちていく。
別荘に来てから毎日活発に動いているから、眠りに就くまでは秒の速さだった。
明日は何をしよう、ヨシュアも来るからまた何かこの地の名産品を使って調理実験でも……などと考える間もなく夢の世界へ。
夜中にカズンはふと目を覚ました。
(ん……?)
魔石の常夜灯で薄暗いはずの室内が、妙に明るい。
まだ夜明けにはだいぶ早い時刻のようだ。
「なっ、何だこれ!?」
明かりの光源は自分だった。
自分の身体、胸の辺りに、胴体をくぐる帯状のフラフープのように光の輪が浮かんでいる。
室内が明るいのは、この光の輪から放たれる光のせいだ。
「お、お父様、お母様!」
両親の寝室に慌てて駆け込んだ。
既に休んでいた二人は、深夜にやってきた息子に揃って跳ね起きた。
「何ごとだ!?」
「お父様、こ、こんなものが僕に……!」
「それはまさか」
両親の部屋も薄暗かったが、カズン自身がランプのように明るく室内を照らしていた。
「環ですわね。話には聞いてましたけど、見るのはあたくしも初めて」
魔力使いの“新世代”に特有の、魔力の光化現象だ。
「リンク、ですか」
初めて聞く名称だった。
「セシリア、カズンのステータスを鑑定してみてくれるか」
「やってますわ、旦那様。でも……見えません。能力値がすべてエラーになってましてよ」
ほら、と言ってセシリアはカズンのステータスを目の前に可視化させた。
--
カズン・アルトレイ
:アケロニア王家王族、王弟、アルトレイ女大公令息、学生
称号 :-
スキル:
人物鑑定(初級)、調理(初級+)、身体強化(初級)、防具作成(初級、盾剣バックラー)
体力 -
魔力 -
知力 -
人間性 -
人間関係 -
幸運 -
--
カズンは幼い頃受けた呪詛の影響で、ステータスのうち魔力値が2まで低下している。
その魔力値だけでなく、他の一般的な能力値全てがエラーとなって表示されていなかった。
以前通り表示されているのは、氏名と出自や身分、スキルだけだった。
母親のセシリアは人物鑑定スキルの特級ランク持ちだ。その彼女ならもっと詳細な情報を読み取れるはずなのだが。
「えっ。ま、まさか全能力値まで無くなったとか!?」
「いいえ、多分そういうことではないわ」
恐らく発現した光の輪が、カズンのステータスに対して何らかの影響を及ぼしているのだ。
「これは私たちの手には負えない。王都に戻ったら専門家に連絡を入れるから、彼らが来るまで判断は保留だ」
このまま部屋に戻ろうとしたが、両親に引き止められて二人の間で眠ることに。
「うふふ、一緒に眠るのは久し振りね」
「学園の高等部に入ってからは、とんとご無沙汰だったな」
優しく両側から髪や肩などを撫でられているうちに、すぐにうとうととして瞼が重くなってくる。
(リンクとやらの話し、もっと詳しく聞きたいんだけど……眠い……)
両親の暖かな体温に包まれて、幸せな気持ちのまま夢の中へ旅立っていくカズンだった。
そして翌朝。
カズンはなぜか、布団から起き上がれなかった。
「まああ、あたくしの可愛いショコラちゃんったら。旅行ではしゃぎすぎてお熱出すなんて!」
「うう……それもあるかもですが、昨晩あの光の輪が出てから魔力が不安定で……」
以前のように突き刺すような片頭痛ではなかったが、頭蓋骨の中身を揺らされているようなグラグラする頭痛が朝から止まらなかった。
午後になるとだいぶ良くなっていたが、さすがに身体を激しく動かす訓練や、外出は認められなかった。
実際、自室の布団の中で横たわりながら、適当に持ってきていた本を眺めているのが精々だった。
「カズン様、調子を崩されたそうですが大丈夫ですか」
領地に戻っていたヨシュアが到着し、すぐカズンの元までやって来てくれた。
「うん……まだちょっと頭が痛い」
「ポーションもあまり効かなかったと伺いました」
何本か飲まされたが、多少気分が良くなる程度で、本来の効果はなかったといっていい。
(あの光の輪のこと、はっきり判明するまではヨシュアにも内緒にしてろって、お父様たちは言ってたけど)
ヨシュアは国内でも屈指の、魔力使いに習熟したリースト伯爵家の当主だ。
案外彼に相談したら詳しいことを知っていそうなものだが、まだ内緒ねと両親が言うなら従っておくべきなのだろう。
それからまた夕方まで部屋で休んでいた。
ヨシュアが起こしに来た頃には、寝汗をかいて寝巻きを着替えたくなった。
長湯しなければ大丈夫だろうとのことで、温泉で汗を流すことに。
「ああ、吹き出物と汗疹ってこれですか。まだちょっと残ってますね」
一緒に入浴して背中を流してくれながら、ヨシュアの指先が患部をそっとなぞる。
「ヨシュアは……何もなさそうだな」
振り返って見たヨシュアの白い裸体に、赤い発疹などの類いは見当たらない。
「我が家は魔石が沢山ありますから。家にいるときは氷の魔石で部屋を冷やしていたので、体調はすこぶる快調でした」
「いいなあ。僕の家にも欲しい」
「カズン様の場合、魔石にチャージする魔力量がネックですよねえ」
クーラーのような冷房用の魔導具もあるが、動力源はやはり魔石に込める魔力だ。
この言い方だと、カズンの魔力値では足りないのだろう。
魔導具は利用する本人の魔力を使うのが基本である。
「おや、入っていたのか」
身体や髪を洗った後で温泉に浸かっていると、ヴァシレウスが浴場に入ってきた。
先ほどまで庭で護衛たち相手に組み手をしてかいた汗を流しに来たようだ。
軽く全身の汗や汚れを流してから、カズンたちが浸かっていた湯に入ってくる。
石造りの温泉はざっと十人以上入れるほど大きかったが、それでも2メートル近い巨躯のヴァシレウスがざばっと入ってくると一気にカサが増した。
ふう、と適温の湯で身体が解れていく心地よさに溜め息をついている。
首筋から肩、胸元へと湯が流れていく肌は血色も良く、とても九十代後半とは思えないほど良い色つやだった。
男盛りはとっくに過ぎている年代のはずだが、見たところ全身の筋肉などにも衰えはない。
「そういえばお前たち、ユーグレンも入れて三人で仲良くやってるそうだな」
不意打ちのように訊かれて、二人揃って顔を見合わせた。
「うん。何かぼくの派閥があったみたいなんですけど、別に無くなっても困りませんよね?」
貴族間にあった王弟カズン派閥のことだ。
「ふうむ。お前がユーグレンを押し退けて国王になりたいなら、後援派閥は便利だぞ?」
「! 要らない! 王様とか僕には無理です、ユーグレンのほうが絶対に向いてます!」
「……そうか」
お湯に浸かりながら、ヴァシレウスが少しだけ残念そうな顔になったのに目敏くヨシュアが気づいた。
さらにそんなヨシュアに気づいたヴァシレウスが、こっそりヨシュアにウインクを投げて寄越した。『言うなよ?』ということのようだ。
「まあ、若いうちにいろいろ経験しておくのは良いことだ」
それで背中を流し合いっこしたりしながら、三人で温泉を堪能していたわけだ。
その後、軽い夕食を取った後でまた頭痛がぶり返してきたカズンは部屋に逆戻りだ。
「うう、目が回るうう……」
「困ったわねえ。明日にはもう帰るっていうのに」
鑑定スキルで簡単にステータスを確認しても、表示されているのは暑気中りと軽度の皮膚疾患だけなので、医者を呼び寄せるほどではなかった。
セシリアだけでなくヴァシレウスも少し難しい顔になって腕を組んでいる。
「カズン、もう少しだけこの地で養生していなさい。ヨシュア、世話を頼めるか?」
「問題ありません。喜んでお世話させていただきます」
何やら勝手に周囲が決めていってしまっている。
「お父様たち、僕を置いて行かないでください……」
この一週間ずっと一緒にいた両親と離れるのが寂しい。
昨晩は久し振りに一緒に寝たこともあり、父と母が恋しかった。
「あらあら、あたくしの可愛いショコラちゃんが甘えん坊さんになってるわあ。でもいい機会だから、ちゃあんとお肌しっかり治しなさいな。すべすべお肌に戻るまで帰ってきちゃダメよ?」
カズンの訴えもむなしく、残留決定となった。
「ここに残るなら、叔父もご一緒すれば良かったですね」
「ん? ルシウスも一緒だったのか?」
「ええ、何でも王都でやることがあるそうで、オレと別の馬車で途中まで。陛下やヴァシレウス様たちへの挨拶は王都でするそうです」
「あやつ、口煩いが居れば便利だからなあ」
ヨシュアの叔父は、これまでは前リースト伯爵の急死で混乱していた領地の統制を行なってくれていた人物だ。
そんな混乱も数ヶ月経ってひと段落ついて、一度王都で情報収集や社交などに動きたいと言って今回領地を出てきたのだ。
該当するスキルがステータスに表示されないにも関わらず、大抵のことをこなしてしまう人物で、面倒見が良いから、ここに来ていたら喜んでヨシュアごとカズンの世話を焼いてくれたことだろう。
「ルシウス君、相変わらずなのかしらねえ」
「うう……とりあえず顔を合わせたら、第一声は『夏休みの宿題やったか!?』でしょうね……そうか……今王都に戻らなくて良かったかもしれない……」
会えば会ったで嬉しい人物なのだが、如何せん話が長い。一度捕まると本人の気が済むまで解放されることはない。
彼にまつわる逸話は数多く、説教魔神のエピソードとしては、本人から『帰さないぞ』『今夜は寝かせない』などと言われてお色気展開を期待した者が、文字通り一晩中ご教示賜って一睡もできなかった、などというものがある。
被害者は多数。それでも多数の信奉者がいるあたり、リースト伯爵家の男子だなあという感想を貴族社会では持たれている。
「今ごろ王都に着いて知り合いを誘って飲みに出てるでしょうね。ふふ、オレたちが戻った頃にカズン様たちにも挨拶に来ると思いますよ」
「……あたまいたい。もうなにもかんがえられない」
カズンは考えるのを放棄して頭から布団に潜り込んだ。
ちなみに避暑地に来てから遊びと温泉が楽しすぎて、まだほとんど夏休みの宿題に手をつけていないカズンなのだった。
学園が7月から夏休みに入り、ヨシュアたちと何をして遊ぼうか心弾ませていたユーグレン王子。
しかし数日前、カズンからのガスター菓子店のレストランへの誘いを最後に(残念ながら予定が合わず断りを入れてしまったが)、ヨシュアどころかカズンとも連絡が取れなくなって、半狂乱に陥った。
「まさか……まさか、二人で駆け落ちしたというのか!?」
「そんなわけがあるか! 少しは落ち着け、この愚息が!」
「ぐあっ!?」
母親から鉄拳を頂戴して、暴走は寸前で食い止められた。
夏用の、風通しの良い女性用の黒の軍服を身に纏う彼女こそ、王太女グレイシア。
豊かな黒髪と強い光を持つ黒い瞳、見るからに意志の強そうな顔立ちの、国内屈指の武闘派王族である。
父の国王や息子ユーグレンとよく似た端正な顔立ちの美女だが、気の強さは現在の王族の中では一番だろう。
ユーグレンの側近から息子が使い物にならないと報告を受けて、叱咤しに王子の執務室までわざわざ足を運んだのだ。
「くう……相変わらずいい拳をお持ちで、母上」
「カズンは両親と一緒に避暑に出かけた。一週間ほどで戻るとのことだ」
殴り飛ばされて床に膝を付いていたユーグレンの目の前に、カッと音を立ててグレイシアの真っ赤なヒールの爪先が叩きつけられる。
「ええっ!? 何ですかそれは! 私は聞いていませんよ!」
「……わたくしが聞いたし、許可は国王のお父様が出している。何も問題あるまい?」
「ありまくりです!!!」
そこは自分にも一言、何か言っておくべきではないのか。
もっと言うなら、自分も誘って欲しかった!
「あれ? カズンはヴァシレウス様たちと避暑地で、……ではヨシュアは?」
「リースト伯爵は領地に帰還したい旨、申請が出ておったぞ」
「そ、それも私は知りませんでした……」
「……お前、本当にあの二人と親しいのか? すっかり蚊帳の外ではないか」
かわいそうなものを見る目で見下ろされて、ユーグレンは捨てられた仔犬のようにショボくれながら、よろめきつつ立ち上がった。
「仕事に戻ります……」
「そうしてくれ」
カズンもヨシュアもいないなら、それぐらいしかやることがない。
そうはいっても、基本的に優秀なユーグレンが無心で取り掛かれば書類仕事の類いが片付くのはあっという間だ。
当日のノルマが終わると、あとは手持ち無沙汰となってしまう。
今年は特に暑い夏だから、体調を崩さぬよう昼間から外へ出る公務も少ない。
「王都で評判の氷菓の店へ、ともに行きたかったのだぞ……ヨシュア、カズン……」
特に、最近は硝子の食器に盛るはずのパルフェを、平たい皿に盛り付けるオープンパフェなるものが流行していると聞く。
チョコレートソースとアイスが絶品の店があると聞いて、三人で行こうと計画していたユーグレンは、その予定が台無しになって悲しかった。すごく悲しかった。
「………………」
執務室の机に座ったまま、鍵の掛かった引き出しから原稿用紙の束を取り出す。
こういうときは、ヨシュアファンクラブの会長として、会報用の原稿に没頭するに限る。
実はまだ、ファンクラブ会員たちにヨシュアを含む三人の仲が良くなってヨシュアとカズンがユーグレン派閥に参入し、王弟カズン派閥が実質消滅したことを告げていない。
次の会報を刊行する前に夏休みに入っていたためだ。
最新号は夏休み明けの新学期の刊行となるだろう。
派閥の件はどこにも発表していなかったが、話の早い貴族はどこにでもいる。
というよりどうも、カズンの母のセシリアが積極的に社交界で広めてしまったとのこと。
そしてユーグレンの元には断続的に匿名でファンクラブ会員たちから手紙が届き続けている。
「非難2、応援3、残り5は様子見といったところか」
『応援すべきファンクラブ会長が一番ヨシュア様と仲良しだなんて、そんなのずるい!』
「済まぬ。会長の資格がないというなら、私はこの座を明け渡しても構わない」
「ユーグレン殿下が辞めたら、会報誌も薄くなりそうですよねえ」
護衛の側近が横から突っ込んでくる。
そう、毎回の会報の記事の半分以上はユーグレンが書いている。ほとんどはヨシュア礼讃の信仰告白だが、情熱的で胸にグッとくると案外評判が良い。
ひとまず続投してほしい。
『そこ代わって下さい、殿下』
「誰が代わるか! ……おい、エルネストの字じゃないか、無記名だからって誤魔化せると思うなよあやつめ!」
「あいつ、懲りないですねえ」
宰相令息のグロリオーサ侯爵令息エルネストは、ヨシュアファンクラブの副会長だ。
しかし以前、あまりにも振り回されすぎて醜態晒しまくりの主君ユーグレンを見かねて、直接ヨシュアに文句を言いに行った猛者だった。
実態はヨシュアは何も関係なくユーグレンの一人相撲に過ぎなかったのだが、ユーグレンが隠していた想いをヨシュアに暴露してしまうという失態を犯した。
結果的に彼の働きによってユーグレンはヨシュアとの交際に漕ぎ着けたわけで、その意味では功労者といえる。
だが、繰り返すようだが彼はヨシュアファンクラブの会員、それも副会長だ。
ユーグレンと一緒に最初期からファンクラブを立ち上げ、ここまで育ててきた古参の同志。
如何に竜殺しのときのヨシュアが素晴らしかったか、また今日廊下ですれ違ったヨシュアの優美さ、ほのかに香る柑橘系の香水の香り(※リースト伯爵領産の魔力ポーションの香りであって香水ではない)にときめいたことなど、夜を徹して語り合ったことは数知れず。
ユーグレンが一足先にヨシュアと親しくなって距離を詰めたと知って泣き崩れた彼を前に、抜け駆けしてしまったユーグレンは罪悪感が半端なかった。
夏休みに入った今も傷心が癒えないようで、ユーグレンの側近なのに出仕拒否を続けている。
「手紙を出す元気はあるのだから、そろそろ引っ張り出してくれる」
『ヨシュア様とのムフフな体験談レポお待ちしております!』
「そんな展開に持ち込めるなら、こんな苦労はしとらんわ!」
「……悲しいな。悲しいですね、殿下……」
いったい何を期待しているというのか。
『ヨシュア様と会長、上下はどっちですか? ハッキリさせて下さい!』
「? 上下とはどういう意味だ? 身分なら私が王族だし上だろうが……。……ふっ、崇拝してしまった私が敗者で、奉られる彼こそが勝者よ。ならばこの関係においてはヨシュアが上で私が下だ!」
「あー……えー……殿下、殿下? その発言は色々誤解を招きますので、よそではおやめくださいね?」
ファンクラブ会員の中には腐った者も混ざっているらしい。
「ヨシュア……カズン……私はさびしい……」
粗方、会報誌の原稿をまとめ終わった時点でユーグレンが執務机の上に突っ伏した。
こぼれ落ちる涙を指先で伸ばして、机の上に二人の名前を書いている。
「………………」
駄目だこの王子。早く何とかしないと。
護衛を兼ねた側近は、傍らにいながらも自分に何ができるかを考え始める。
事態を打開する朗報は、一週間後にカズンたちが王都へ戻るまで無さそうだったが。
そして一週間後。
そのカズンの一家が避暑地から戻ってきたと聞いて、ユーグレンは速攻でアルトレイ女大公家へ向かった。
だがそこに、カズンやヨシュアの姿はない。
いたのはどこか落ち込んだ様子のヴァシレウスとセシリアだけだったが、勢いづいていたユーグレンはスルーしてしまった。
聞けば、現地で調子を崩したカズンは、少なくとも今月中は避暑地で養生に努めるとのことだった。
世話役のヨシュアとともに。
「と、いうことは……今、カズンとヨシュアは別荘で二人きり……」
ユーグレンは青ざめた。
カズンはまだいまいち理解していないようだが、あの二人はヨシュアからカズンへ想いのベクトルが向いているのだ。
誰よりヨシュアを見ていたユーグレンにはわかる。
そしてその想いは、間違いなくユーグレンがヨシュアへ向けているものと同じ質量と熱量を持っている。
下手するともっと重いかも。
「わ、私も行かなくては……!」
二人だけで先に進まれて堪るか。
王宮に戻るなり、すぐ準備して避暑地へ飛び出して行きかねなかったユーグレンを、王太女とともに四十代はじめくらいの、ヘーゼルの癖毛と翡翠色の瞳を持った中背の男性が引き止めた。
名前はクロレオ。王太女グレイシアの夫でユーグレンの父だ。
「待ちなさい、ユーグレン。話があります」
「父上?」
クロレオはグレイシアと同い年で、国内貴族の伯爵令息だった。
本人は次男だったため爵位を持っておらず、王太女の伴侶となっても王族籍には入らない選択をしていた。とはいえ準王族の立場ではあるが。
そのような事情から、実の息子ではあっても王子のユーグレンにも丁重な態度を崩さない。
その父は、ユーグレンに金貨の詰まった袋を差し出してこう言った。
「ユーグレン。あなたも今後は何かと入り用も増えることでしょう。こちらをお使いなさい」
これまでは王子ではあっても、まだ未成年のユーグレンが使える金は小遣いの範囲内だけだった。
だが、現役伯爵のヨシュアらとの交友機会が増えるとなれば話は別だ。それは社交の一種として、王家から正式な予算が出る。
クロレオは更に、交友の際の注意事項も説明してきた。
「食品など、食べて消えてしまうものなら構いませんが、物品の場合は王家やあなた個人の紋章を入れたものを送るときは気をつけてください」
悪用されないよう充分な注意が必要だ。
送られた側の立場にもよるが、と補足を付け加える。
「まあ要するにだ、遊ぶ際はお前が費用すべて出すのだぞ? 間違ってもカズンやリースト伯爵の財布の紐を緩めさせぬように」
王家の沽券に関わることをするなというわけだ。
「ユーグレン。あなたとカズン様の派閥問題については、自分たちでまとめる前に私たち大人に相談して欲しかった」
「そ、そうかもしれませんが、父上。ですが、何というかその場の成り行きで決まってしまい……」
最初にその話を聞いたとき、グレイシアも夫のクロレオも、また祖父の国王テオドロスも呆気に取られたものだ。
ユーグレンがヨシュアに懸想しているのは知っていた。
その想いが、美貌と強さを兼ね備えたヨシュアへの信仰じみた、相手を崇拝するようなものだったことも。
本人がいつまでたってもヨシュアに話しかけることすらできないチキン野郎であることもバレバレだった。
周囲の大人たちは誰もが、ユーグレンはいずれ現実を見るものとばかり思っていたのだが。
気がついたら、ちゃっかり王弟カズンごと親しくなっているのだから、やりおるな! と家族は皆で大笑いしていた。
「まあそう言うな、クロレオ。カズンはともかく、リースト伯爵家の男子を取り込めたのは大変良い。よくやった、褒めてやる」
「いや、ですから。我々の関係はそういう打算的なものよりまず……」
「これで、外野はうるさく騒ぐだろうが、遠慮なくリースト家を伯爵から侯爵にランクアップさせられる」
有能な魔力使いを輩出するリースト伯爵家は、アケロニア王国の最初期から存在する名家だ。出自を辿れば現在の王朝より古いかもしれない。
その高い能力を如何に王家に取り込み引き付けておくかは、代々アケロニア王族の課題のひとつだった。
しかし、リースト伯爵家の男子は自分の興味があること以外への関心が薄く、権力にも興味を示さない。
能力の偏りも大きいため、扱いづらい一族でもあった。
リースト伯爵家自体が、近年は魔力ポーションをはじめとした薬品類の開発・販売で大層潤っている。
ヨシュアに関していえば、亡父も得られなかった竜殺しの称号持ちで、若年ながら魔法剣士としての実力も充分。
ユーグレンと親しくなったことで今後は更に知名度も上がるだろうから、頃合いを見てもう幾つかの業績を立てさせ、陞爵させてしまおう。
「あるいは、新たに侯爵にすれば、空いた伯爵位は“彼”に渡るでしょうね」
「それだ!」
彼、即ちヨシュアの叔父であるリースト子爵ルシウスだ。
実力からいえば彼が新たなリースト伯爵を継承してもおかしくなかった人物だ。
そうだなそれでいこう、と話題を弾ませている両親をよそに、ユーグレンはいてもたってもいられなかった。
(政治的判断は今はどうでもいい。早く……早く……!)
早く、あの二人に逢いたい。
結局、ユーグレンはその日のうちに強引に、馬車を使う時間も惜しいと言って、自分の馬でカズンたちが滞在する避暑地へ向かってしまった。
護衛兼側近のローレンツ一人だけを連れて。
「愚息の放り出した仕事は誰がやるんだ?」
「仕方がないので、私が致しましょう」
王太女の執務室に移動して、グレイシアとクロレオ夫妻は今朝の朝刊を見直していた。
「まあ、愚息がいないなら、それはそれで幸いか。あやつがこの件に対処したら火に油を注ぎかねんからな」
ヴァシレウスたちが避暑地から戻る一日前、あるひとりの恐怖の男が王都入りしている。
名をリースト子爵ルシウスという。
リースト伯爵を襲名したばかりのヨシュアの、父方の叔父である。
7月に入ってすぐ、リースト伯爵家で先代リースト伯爵カイルが後添えの後妻に毒殺された事件の詳細が、国内の主要新聞で公表された。
後妻は連れ子とともに伯爵家の簒奪を目論み、後継者のリースト伯爵令息だったヨシュアを監禁し、こちらも毒殺を企んでいた。
幸い、子息は学友の王弟の介入で救出され、現在は無事回復し、父の跡を継いで新たなリースト伯爵となった。
罪人の後妻と連れ子は、有罪が確定し既に極刑が執行されている。
アケロニア王国では、貴族家や爵位の簒奪は重罪中の重罪である。しかも内容によっては、主犯の家族や一族まで連座で飛び火する。
この事件を知った貴族たちの反応は、世代によって見事に分かれた。
醜聞に眉をひそめた大半の世代は、概ね新たなリースト伯爵に同情的だった。
そして、恐怖に震えた年代は三十代と四十代に集中している。まだ三十代前半のリースト子爵ルシウスと直接関わることの多かった世代だ。
王宮の中だけでも、グレイシアが聞いた声にはこのようなものがあった。
「リースト伯爵家にお家乗っ取りを仕掛けるとか、後妻たちには自殺願望でもあったのか?」
「仕掛ける前から詰んでるし」
「頭おかしい。正気なら絶対できない」
「だって、あの家には……」
「あの魔王がいる家に喧嘩吹っかけるとかありえない」
そして今朝、国内の主要新聞の朝刊の一面に、亡くなった先代リースト伯爵の弟の名義でこのような一文が掲載された。
『我、リースト子爵ルシウスの名において、此度のリースト伯爵家簒奪事件の首謀者とその関係者たちへの報復を宣言する』
「……奴はこのアケロニア王国にまた伝説を一つ作ったか」
とは、朝一で朝刊を眺めたときの、王太女グレイシアの言であった。
この朝刊が発行された本日から、どれだけの期間、貴族たちは恐怖に震えることになるだろうか。
報復対象に該当する貴族だけでなく、その貴族と付き合いのある家や人々にとっても眠れぬ日々が続くことだろう。
「この国から男爵家と子爵家が一つずつ消えますね」
前リースト伯爵の後妻の実家が男爵家で、元婚家が子爵家だ。
男爵家の方は既に取り潰しが決定されているが、子爵家は目溢しされていたはずだった。
「それで済むと思うか? クロレオ」
「他にも飛び火するようなら、私も動きますよ。グレイシア」
ルシウスはやると言ったら必ずやり遂げる男だ。
普通なら頓挫するような困難があっても、彼ができるといえばその通りになる。
今、アケロニア王国で最も力のある人物の一人と言われているが、決して誇張ではなかった。
そして彼は、グレイシア王太女の腹心の一人でもある。
「あいつ、何でもっと早く生まれてこなかったんだろうなぁ。あと十年早く生まれてくれてたら、絶対モノにしたのに」
「その場合、私はあなたに相手にもされなかったでしょうから、私としては幸いですね」
王太女夫妻とルシウスには十歳近い年齢差がある。
同年代なのはむしろ、ルシウスの亡き兄の先代リースト伯爵カイルの方だ。
カイルはグレイシアたちの後輩なのだ。
「しかし、最愛の兄を殺されて今日までよく堪えたというべきか」
十代の頃からリースト伯爵家の兄弟を知るグレイシアは、ルシウスが年の離れた兄カイルを深く慕っていることをよく知っていた。
カイルのほうは、自分より優秀な弟を厭う素振りを見せることが多かったようだが。
伯爵家の後継者で嫡男のヨシュアがまだ未成年の学生で、かつ当主の死が唐突だったからこそ、領地の混乱は酷かったと聞く。
自分の私的な思いより混乱の収拾にまず動いたのは、さすがであった。
「しばらく、王都は荒れそうだな……」
正確には、王都の貴族社会がであるが。
だがルシウスが来ると、新たな風が入る。
図抜けた眼力の持ち主でもある彼に助言を乞いたい案件は多かった。
王家の白い駿馬を飛ばしに飛ばして、馬車で半日かかる距離を休憩もほとんど取らずに二時間ちょっとでユーグレンは目的の避暑地に到着した。
勢いよく木造建築のドアを叩かれ、何事かとカズンたちが外に出てみれば、そこにはいるはずのないユーグレン王子が汗だくで立っていたのである。
「ユーグレン? 何の連絡もなしにどうした?」
「どうしたではないわ、連絡がないから心配して来たのだろうが!」
暑い季節になってきて、カズンの背中に汗疹が出たため、美肌で有名な温泉地に湯治に行ったのだとユーグレンは聞いていた。
しかも家族旅行だ。まだロットハーナの件が未解決のままだから、護衛の任を解かれていないヨシュアも途中から一緒だったと。
両親のヴァシレウスとセシリアは数日で帰ってきたが、カズンは現地で調子を崩したのと、まだ汗疹が消えなかったので、避暑も兼ねてこのままヨシュアと残ることにした、と。
もうそれを聞いたユーグレンはいてもたってもいられなくなった。
ヴァシレウスたちと入れ替わるようにして、王都からカズンたちの滞在先の別荘に急襲してきたというわけである。
馬車だと時間がかかりすぎるからと、いつも学園で側に置いていた護衛のローレンツだけを連れて。
別荘の居間に移動し、ユーグレンにタオルを渡して汗だくの身体を拭ってもらっているうちに、ヨシュアが率先して茶を入れる。
居間も畳敷きで、木製のローテーブルに座布団と座椅子の設えで、旅館風の趣がある。
ユーグレン一人対カズンとヨシュア二人で向き合うなり、非難するような目で睨みつけられた。
「旅行に行くなら、せめて予定くらい教えてほしかったぞ、二人とも」
「一週間で戻る予定だったんだ。帰ってから連絡すればいいかと思ったんだが」
そんな悪びれないカズンの言い訳に、普段温厚なはずのユーグレンが怒った。
「派閥問題はまだ解消したばかりなのだぞ! 夏休みだからといって離れ離れでは周りの目を欺けぬだろうが! それに私は二人のことならどんな小さなことでも知りたい! それを、王都を離れるというのにお前たちときたら!」
「も、申し訳ありません、ユーグレン殿下。まさかそこまでお怒りになられるとは……」
ヨシュアは素直に頭を下げたが、カズンは納得いかないような顔をしていた。
何でそれぐらいのことで怒っているのだ? という表情だった。
それを見て更にユーグレンは激昂した。
「たとえただの友人だったとしても! 行き先も知らせないとは、私に対して誠意が足りぬのではないか、カズン!」
「誠意って、おまえな。要するに何が言いたいんだ?」
カズンからのぞんざいな扱いに、ぐっと詰まってからユーグレンは涙目になって吠えた。
「私ひとりを除け者にして、二人で楽しく遊んでいたのだろう!?」
「「えええっ!?」」
要するにそれが、一番言いたいことだったらしい。
カズンがヨシュアと二人で郊外の温泉地に出かけたと聞いて拗ねているのだ。
「なぜだ。どうせ遊ぶなら私だって混ぜてほしい!」
「いや、遊ぶって、お前なあ」
「一緒に温泉に入ってただけですよ? しかも二人きりじゃないです、ヴァシレウス様も一緒でした」
そんなの子供の頃からやっている。
互いの家にお泊まりするときは、邸宅の浴場だってよく一緒に使っていたものだ。
「だって……そんな……私は、てっきりお前たちはもう……」
カズンとヨシュアは顔を見合わせた。
「殿下。変な心配は不要ですから。ね?」
「う、うむ……」
とりあえずヨシュアが麗しく微笑んでユーグレンの反論を封じた。つよい。
「それはともかく、ユーグレン殿下。派閥のことにしろ、友人としてお付き合いしていくにしろ、とりあえずそれぞれの家族にご挨拶させていただけませんか」
湯飲みに入った緑茶(現地の集落特産品)を啜りながら、ヨシュアが説明してきた。
「我々全員、まだ未成年の子供ですし、王族と貴族です。なのに、互いの家族に挨拶もしてません。必要ですよね?」
「あああ!? 言われてみれば!」
ちなみに昨日、ヨシュアはカズンの父ヴァシレウスには確認を取った。後に母セシリアにも。
「王都に戻ったら、ユーグレン殿下のご両親に一度お会いできればと思います」
「わ、わかった……そうだな、それは欠かせぬことだったな」
「で、オレの保護者もいま王都にいるので、よろしくお願いしますね?」
ぴたり、と示し合わせたようにカズン、ユーグレンの動きが止まった。
「る、ルシウス殿に、甥御殿を下さいと言わねばならんのか……!」
「ユーグレン、落ち着け! 結婚の挨拶じゃないのだぞ、『僕たち仲良くなりました』だけで良いんだ!」
「あはは、混乱してますねえ」
甥のヨシュアはもちろん、カズンとユーグレンもルシウスが王都にいる間は子供好きの彼によく遊んでもらっていた。
何はともあれ。
「ようこそ、ユーグレン殿下。後で一緒に温泉に行きましょうね」
にっこり麗しの美貌を輝かせて、ヨシュアが微笑む。
「そ、そうだな。……何だか一人で先走って済まなかった」
ユーグレンはちゃんと己の非を認めて謝れる男だった。
ただし、今回のことでカズンとヨシュア、ふたりにとっての印象はだいぶ変わった。
(ユーグレン殿下、大らかな方だと思ってたけど嫉妬する独占欲強めタイプかあ。……ふふ、かわいいなあ)
こちらはヨシュア。意外なことに好感度が上がったようだ。
(……わかっちゃいたが、本格的なウザ男だった。この調子で僕たち上手くやっていけるんだろうか?)
対して、カズンはこの先への不安が増してしまったのだった。