「なぁ奈津、いい加減教えてくれても良くない?」
6月に入り、いつ梅雨入りしてもおかしくなさそうな天気が続く中、半袖だと少し肌寒く感じた俺は、カバンに入れてあった上着を羽織りながら、奈津に話しかけた。

「…なにを?」
「なにをって、引っ越し先の話だろ〜。奈津ー」
いつものように素っ気ない奈津は、俺の顔を見ることもなくそう言うと、真っ直ぐ校門の方へ歩いて行った。

あれから何度も聞いている引っ越し先を、奈津は(かたく)なに教えようとしなかった。
"遠く"
"佐藤くんの知らないところ"
いつもそんな言葉で交わされていた。

「あ、おい奈津!俺チャリとってくるから!すぐだから待ってて!」
俺はダッシュで自転車置き場に向かった。
それは、奈津が俺を待たないことを知ってるから。

俺は自転車、奈津は電車で通学していて、放課後は駅まで奈津と歩く。
まぁ俺が勝手にそうしているだけだけど。

「…」
だいたい、"俺の知らない遠いところ"ってどこだよ。
都道府県名なら小学生で習ってるんだけどな、俺って頭悪いと思われてる?
それともどこかの小さな島か?
まさか日本じゃないとか?

あれこれ考えている間に奈津に追いついたその時、ビュウッと強めの風が吹いてきて、奈津の髪が舞った。

その瞬間、少し慌てたように髪の毛を押さえた奈津だったけど、
「奈---」
俺の声に反応したのか、ゆっくりと奈津が顔を上げた。
奈津と、目が合う。

「見た、よね…」
「あ…」
見てはいけないものを見てしまったことを瞬時に察した俺は、
「こ、転んだのか…?」
気の利いた事のひとつも言えなかった。
「まさか」
そう言って奈津は自嘲気味に笑った。

「引っ越すなんて話は、嘘」
「え」
「見たでしょ、病気なんだ」
「…」
奈津の首には、アザがあった---。

「身体にも、いくつもあるんだ。きっともう、死ぬかもしれない。だから…引っ越すって、嘘ついたの」
奈津は、こんな時まで落ち着いていた。

アザ?
病気---?

"死ぬかもしれない"って、言ったのか?

「だから、付き合えないし………忘れてほしい」

「な…何言ってんだよ。なんだよ、それ…、意味、わかんねーよ」
絞り出した声が、奈津に届いたかはわからなかったけど、
「駅…着いたから、じゃあね」
奈津は駅の中に消えていった---…。

俺は奈津を呼びとめることが出来なかった。
今にも---涙が溢れそうだったから…。

そうしてパラパラと、雨が降りだした-
--。


-がちゃり
家に着いた俺は、真っすぐ自分の部屋に入っていった。

よく、"どこをどう歩いたのか覚えていない"なんて表現を耳にするけど、今の俺がまさにそれだった。

「………」
俺は思い出していた。
奈津と関わってきた全部を。

入学式、ひとり複雑な表情をしていた奈津。
その時に俺が感じた弱さや脆さは、病気だから?

"彼氏はいらない"と言い続けているのも、病気だから?

暑い日にシャツの袖を折り曲げることもなく、髪の毛を束ねている姿を見たこともない。
スカート丈も長めなら、靴下も長い。
こうした極力肌を見せないスタイルも、病気のアザを見られないため…。

風邪で学校を休んだ日も、病気が関係していたのかも。

《遠くに行きたい》

「…っ」

奈津の、あのラインは---。
"病気から逃げたい"---もしかしたら、そんな意味だったのかもしれない。

思い出せる全てが、病気と言われたら嫌でも納得できてしまう事ばかりだった。

そして、さっき嘘だとわかったけど、引っ越す話。
あれはそう、きっと…。

遠く
知らないところ
会うこともない

「---奈津」

"きっともう、死ぬかもしれない"


全てが、"死"につながる言葉だった………。

こうもつじつまが合ってしまうと、受け入れられなくても、その事実を認めるしかなくなってくる。


「クソッ…!」

なんなんだよ………‼︎
なんでだよ…‼︎
なんでそれが…奈津なんだ………!

"忘れてほしい"---?
何を……遠くに行きたいと言ったことか?

それとも…自分(なつ)のことを言ってるのか---。


奈津はいつから病気で、

いつまで………。


いつから?

中学の時はフツーに笑う明るい子だった---川野さんの言っていた言葉が、ずっと俺のどこかに引っかかっていた。

奈津は、本当はキャラ変なんかじゃなくて、病気がわかった事で(ふさ)ぎぎみになってるのかもしれない。


「…」
もし、本当にもう長くは生きられないとしても…。
奈津を、笑顔に。
その瞬間を、俺がつくりたい。


涙がひと筋こぼれた少し後、雨がやんだのか、カーテンの隙間から陽が差し込んでいた---。


◇◇◇◇◇


あれから一週間。
制服の衣替え移行期間も終わり、梅雨入りと共に本格的な夏がきたことを実感する。
毎年、ほぼほぼ変わらない流れ。

「おはよう奈津-」
そして俺も、変わらず奈津に会いに行く。
「…」
奈津も相変わらずだ。

「暑くない?」
「別に」
「ならいいんだけど、熱中症とか気をつけなよ」
奈津の身体には、病気によるアザがいくつもあるらしく、半袖シャツの下にロンTを着てそれを隠していた。
見るからに暑そうだった。

「何で…来るの?」
「奈津に会いたいからだろ。そろそろ俺と付き合ってくれる気になった?」
「…!」
奈津は、驚いていた。
「諦め悪いんだよね、俺。バイトのシフトも増やしてもらったし。そしたら早く"遠く"に行けるだろ?」
奈津は何も言わなかったけど、俺の目をずっと見ていた。

「佐藤くん、そんな所にいたら遅刻になるわよ〜」
「あ、岡谷先生。じゃあ奈津、また来るわ!」
例によって担任に見つかった俺は、奈津に手を振ってから自分のクラスへと戻って行った。

「空くんおはよ〜」
「おは…ふわぁ〜……」
「なぁに?寝不足?」
川野さんが俺のあくびを見て、すかさず指摘してきた。
「いや、バイト増やしたから疲れてると思うわ」
「そうなんだ〜、何か買うの?」
「内緒!」

「…いいな」
「ん?」
「岩田さんのためなんでしょ?いいなぁ…」
川野さんは俺ではなく、天井あたりを見上げていた。
「…」
俺は川野さんの顔を見ていたけど、何も言えなかった。


◇◇◇◇◇


「お疲れ様でしたーっ」
夜の9時半、挨拶をしてからバイト先のコンビニを出た俺は、駐車場でポケットからスマホを取り出した。

着信3件…母さんかと思ったその相手は、奈津だった。
10分前に、奈津からの着信………3件も。

「奈津!ごめん今までバイトしてて…!」
「うん。そうかなとは思ってたから」
「どうした⁈何かあったのか⁈」
「ちょっと落ち着いてよ」
慌ててかけ直し焦って話す俺とは違って、奈津は落ち着いていた。
いや焦るだろフツーに。
奈津が俺に、初めて電話をしてくれたんだから。

「お疲れ様」
「うん、ありがとう……って奈津今どこ⁈」
スマホの向こうから、電車のような音が聞こえた気がした。

「駅」
「は?」
「………」
「駅ってどこの駅?」
「………」
「奈津?」

次に奈津が口を開いたのは、少し間があいてからのことだった。
「本当に…遠くに連れてってくれる……?」

「い、今から…?何言って………」
俺の戸惑いが伝わったのだろう、
「冗談だよ」
奈津はすぐになかったことにしたんだ。
「冗…談?」
「そう、冗談。ついでに言うと、駅にいるのも嘘。テレビから流れてた音だから」
「え?…あ、嘘…かぁ………なんだ…」
そうだよな、こんな時間に、病気なのに、って考えたら、すぐにわかりそうな事だよな。

「もし、本当にどこかの駅にいたら、来て…くれた?」
なんか…上手く言えないけど、奈津がおかしい。

「当たり前だろ!遠くたってチャリ飛ばしていくよ!」
「ふふ…それじゃ遅いから、近くの駅から電車に乗って?」
「奈津…?」

奈津が…いつもと違う。
電話だからか?
学校じゃないからか?

「なぁに?」
奈津の声は、とても柔らかかった。
学校で話してる時の、あの奈津とは別人なんじゃないかと思うほどに。

「奈津…」
「あたしね、7月生まれなの」
「…」
俺が上手く話せないでいると、奈津がゆっくりと話し始めた。
「夏に生まれたから"奈津"なんだって、そのまますぎるでしょ」
「あ、それなら俺も!俺を産んだ時に見た空が綺麗だったからだって。そうじゃなきゃ違う名前だったらしいから…もしかしたら太郎とか?」
「あはは」
「…っ」
笑った---(わず)かではあったけど、奈津が…笑った。

「そうなんだね…空っていい名前だと思う」
「な、奈津だっていい名前じゃん!」
俺は急に照れ臭くなって、慌てて言葉を返した。
「ありがとう」

やっぱり、どこかおかしい。
「奈津…どうした……なんか今日の奈津---」
「ありがとう」
「奈津…?」



「好きになってくれて、ありがとう…」


「…そ、そんなのっ、当たり前だろ…っ」
「ううん、ありがとう」
奈津が、こんなこと言うなんて…絶対おかしい…何かあったのか?何があったんだ?
「奈津、何かあったのか…?」

「何もないよ…大丈夫だから」
「何でもないことないだろ…?」
「………」
黙ってしまった奈津は、何かを考えているみたいだったけど、
「大丈夫、遅い時間にごめんね。バイバイ」
「おい奈津、待てっ……」
一方的に通話が切れてしまったスマホの画面を、しばらく見つめていた俺だった---。

そして、

これが、俺が奈津の声を聞いた最後になった。



◇◇◇◇◇



奈津は、嘘をついていた。

身体中にアザがあって、病気で、死ぬかもしれないと言っていたのも、嘘だった。

本当は駅にいたのに、テレビの音だというのも、嘘だった。

あの夜、あの後、奈津は駅のトイレで自分の腹を、持っていた包丁で刺して自殺を図ったらしい…。


アザは、父親からの暴力の痕だった。
思春期になり、自分を遠ざけるようになった奈津に腹を立てた事から始まり、母親は黙認していたとの事だった。

結局俺は、奈津のことを何もわかっていなかった…。



それから2年
奈津は今---

「奈津」
俺は病室で眠る奈津に、笑顔を向けた。

奈津は一命をとりとめたものの、目を覚すことはなかった。
2年も経って身体はすっかり回復しているはずなのに…まるで奈津の意思でそうしているかのようだった。

あの時、あの夜、俺が奈津に会いに行っていたら、今は違ってたかもしれない…。
俺に助けを求めて、電話をくれたのかもしれない。
奈津の嘘に気づくことができなかった2年前の俺は、後悔ばかりしていた。

「目を覚ましたら、」
後悔しても、前には進めないから。
だから俺は今日も、奈津に伝えるんだ。


「俺と付き合ってよ」