「お客様、すみません」


 店を一歩出たとたん、店員の中年女性から、そう声をかけられ、軽く舌打ちしながら(めい)は振り返った。


「まだ、お支払いの済んでいない商品がありますよね?」


 スーパーの店員は、鋭い眼差しで茗の細い腕をつかみ、言葉だけは柔らかにそういった。
 店員に促され、店内に戻ると、「申し訳ありません」と、若い男が茗と店員に声をかけてきた。


「はい?」


 店員の女性は怪訝そうに男を見遣る。


「その子、僕の妹なんです。僕が支払いをする前に出て行ってしまって……。本当、せっかちな妹で、ご迷惑をおかけして、すみません。おいくらですか?」


 男は申し訳なさそうな表情を作り、ポケットから財布を取り出す。


「……ああ、そうでしたか」


 店員の女性は、いまいち納得がいかない表情を浮かべるも、レジに戻り、金額を告げた。男は小銭を取り出し、支払いを済ませる。


「行きましょう」


 謎の男に背を押され、茗はいわれるがまま外に出る。

 昼の灼熱の太陽が、容赦なく茗を照らし出す。 
 耳障りなセミのプロポーズを背に、茗と男は、スーパーの向かいにある公園のベンチに腰かける。すぐに茗の首筋を汗が伝う。


「はい、これ」


 男は、茗が万引きしようとした惣菜パンを渡す。
 茗は無言でそれを受け取ると、一度うつむいてから、顔を上げると、男を睨んだ。


「……どういうつもり?何であたしを庇ったの?何が目的?カラダ?お金?」


 警戒心たっぷりに男を見るが、男は優しげな微笑を浮かべると、「いやいや、目的も下心もないよ。それより、食べないの?お腹空いてるから盗ろうとしたんじゃないの?」と少し高い声で柔らかくそういった。

 茗は、手元に目を落とすと、袋を破り、パンにかぶりついた。
 黙々とパンを食べていると、男がさりげない様子で茗に訊いた。


「ずいぶん慣れてるみたいだけど、初めてじゃないの?」


「……万引きのこと?初めてじゃないよ。当たり前でしょ。もう何回も捕まってる。だから、別に助けてくれなくてもよかったのに。捕まることには慣れてる」


「どうしてそんなことするの?」


「生きるためだよ。あたし、小さい頃から手癖が悪くて、友達の持ち物とか、平気で盗んでたの。それが、今は役に立ってる」


「君、学校は行ってないの?」


 そう歳が変わらなそうな男の、やけに上から目線の問いかけに、少し苛立ちを覚えながら、茗は不機嫌そうに答える。


「高校は退学になった。何回も万引きで捕まったから」


「ご両親は?何もいわないの?」


「そんなこと、何で会ったばかりのあんたにいわなきゃいけないの?」


 すると、男は苦笑いを浮かべ、「そりゃそうだ」と頷いた。

 男のおどけた仕草に毒気を抜かれたのか、茗はどこか諦めの境地で話し出した。


「親は、いない。親父は借金作って夜逃げした。母親は愛人作って蒸発した。
 子どもの頃から、ネグレクトつーの?
 食べ物も与えられなくて、世話もしてもらえなかった。
 親がいなくなったあと、施設に保護されたんだけど、居心地が悪くて出てきちゃった。
 生きていくために、万引きもやったし、今、流行りの闇バイトで詐欺もやった。受け子ってやつ。それで稼いだお金で安いホテルを泊まり歩いてる。
 堕ちるとこまで堕ちてる。もう生きる意味なんてないのに、死ぬのが怖くて死ぬこともできない。あたしなんて、社会に何の役にも立たないのにね」


 会ったばかりの男に、どうしてここまで自分のことを話しているのだろう。

 茗は不思議に思いながらも、語ることをやめない。
 赤の他人で、もう二度と会うことはない相手だからだろうか。

 すると男は、何かを考える素振りを見せてから、口を開く。


「意味がない。役に立たない……。僕も同じだから、わかるよ」


「あんたも犯罪で食べてるの?」


「いや、犯罪はしたことない。っていうか、できないんだ」


「ふうん?何で?」


「病気で入院してるから」


「入院?どこが悪いの?」


「いや……」


 そういったきり、男は口をつぐんだ。何かを考えているようだ。
 男が無言になったので、気まずくなって茗は再びパンをかじる。


「……月狼症(げつろうしょう)って知らないよね?」


「げつろうしょう?」


 男が苦しげな表情を浮かべる。


「信じてもらえないだろうけど、僕は、月の光りを浴びると、狼になるんだ」


 予想もしなかった男の答えに、一瞬ぽかんとした茗は、次の瞬間「ぶっ」と吹き出した。


「何それ……冗談だとしても全然面白くないんだけど!」


 言葉ではそういいながらも、茗は爆笑している。

 ついさっきまでの、むすっとした表情とは打って変わって屈託なく笑い転げる茗は、神妙な表情を崩さない男に気づいて、涙を拭いながら笑いをおさめてい
く。

「え……なに、本気でいってる?」


 茗の言葉に、男は頷いた。


「月狼症は、先天的な病気で、症例数も少ないし、治療薬もない。あそこの病院に入院してる」


 男が目線で、一際高い建物を示す。
 そこは、ヘリポートもある大病院だった。


「地下に作られた月の光りを一切通さない部屋で、隔離されてる。
 自分が狼になったら、何をするかわからないから、閉じ込められるのは仕方ないと思ってる。
 でも、寂しいんだ。
 医者も看護師もいるけど、みんな、腫れ物を扱うみたいな感じでさ。本当は怖いんだと思う。狼になる人間なんて」


「狼に、なったことあるの?」


「一度だけ。
 狼になった僕の、あまりの醜さを見て以来、両親は僕を病院に閉じ込めて、面会にもこなくなった」


 男の話を聞いて、茗は頭の片隅に、引っ掛かりを覚えた。

「狼……?」と呟く。

 普段は考えないよう蓋をしている良い思い出のない人生の記憶を掘り起こす。

 ……そうだ。



「夢を、見た気がする」

「夢?」


「3歳くらいだったかな。親にアパートの部屋を追い出されて、泣きながらドアを叩いてたんだけど、季節は冬で、寒くて部屋の前で座り込んでたら、大型犬よりも何倍も大きな動物が近づいてきて、震えるあたしを温めてくれたの。今思えば、あれは犬じゃなくて狼だったんだ」


 日常に埋もれてしまうような他愛ない夢を、やけに臨場感たっぷりに思い出せるのは何故だろう。

 凍えた小さな体を、温めてくれたお世辞にも柔らかいとはいえない、ごわごわとした毛並みの、歯を剥き出しにし、ぎょろりとした眼の、痩せてところどころ皮膚のただれたような醜い狼だった。

 一度、思い出してしまえば、次々と夢の内容が蘇ってくる。


「どうしたの?大丈夫?」


 男に顔を覗き込まれ、茗ははっと我に返る。

 夢を思い出している場合ではない。


「……狼に、なったらどうなるの?」


「信じてくれるの?こんな荒唐無稽な話」


「そっちからいってきたんでしょ。それとも、嘘なの?あたしを騙して遊んでる?」


「いや、病気は事実だけど、まさかこんなに素直に信じてくれる人がいるなんて、ってびっくりして。両親ですら、生まれたての僕が月狼症だって聞いて、すぐに信じられなかったっていってたし。
 狼になったら……僕にもよくわからない。
 狼になったのは、6歳のときに一回だけだったし」


「6歳……あんた、いくつなの?」


「あ、自己紹介がまだだったね。僕は織原高翔(おりはらたかと)。19歳。君は?」


星野茗(ほしのめい)。16歳」


「16歳か。若いね。まだまだ未来に希望がある」


「そっちだって若いじゃない」


「歳は関係ないんだ。僕の病気は、余命がないから」


「余命がない?」


「そう。僕が生まれたとき、両親は、余命宣告を受けた。どのくらい生きられるかじゃなくて、今すぐにでも死ぬ可能性があるって」


「余命ゼロってこと?」


「そう。それが19歳まで生きたなんて奇跡なんだって。でも僕は、いてもいなくても変わらない、幻みたいな存在。話しているこの瞬間にも、死ぬかもしれない」


「確かに、あたしも世間からみたら、幻みたいな存在かもしれない」


 高翔は、遠い目をしながらぎらぎらと燃える太陽を見るともなしに眺めた。


「でもね、この病気には、ギフトがあるんだよ」


「ギフト?」


「大切な人に、命を捧げられる。つまり、命をかけて大切な人を助けられるってこと」


「それ、好きな人を命がけで救うってこと?あんた、死ぬってこと?」


「そう。自分の命を投げ打ってまで、救いたい人ができるなんて幸せなことだよ。そこまで深く、誰かを愛することができたら、僕が生まれた意味もわかるかもしれない」


 茗は、何もいえずに唇を噛んでいる。


「茗ちゃん」


「馴れ馴れしいな」


「こんな生活、いつまで続けるの?」


「高翔に関係ないでしょ。あたしの人生なんだから」


「おお、高翔呼び。嬉しい」


 高翔は、曇りのない真っ直ぐな笑顔で茗を見た。

 茗の心臓がどくんと跳ねる。

 顔が赤くなったことを自覚して、茗はその笑顔から顔を逸らす。

 シャワーのように降り注ぐ夏の雑音が、ゆるりと流れる時間が、止まった気がした。
 世界に高翔と茗の、ふたりだけが取り残されたような錯覚を覚える。

 気恥ずかしさを隠すように、茗は高翔の顔を見ずに訊いた。


「高翔は、入院してるんでしょ?どうしてスーパーにいたの?」


「時々、病院を抜け出して街を散歩してるんだ。いつまで生きられるかわからないのに、外の世界も知らずに、一生閉じ込められるなんて理不尽すぎるだろ。
ささやかな世界への抵抗」


 すると、高翔は一瞬の迷いをみせたあと、こんな提案をしてきた。


「茗ちゃん、よければ、なんだけど。アルバイトしない?」


「アルバイト?なんの?」


「僕の、話し相手になってほしい。電話は、繋がるようになってるから。
昼間でも、眠れない夜も。くだらない話で構わないんだ。地下は暗くて、一人じゃ孤独を紛らわせられない。誰かと繋がっていたいんだ。それが茗ちゃんなら、すごく嬉しい。もちろん、アルバイト代なら出すよ。こういっちゃなんだけど、うち、結構裕福なんだ。僕を病院に入れておける程度のお金ならある。僕が頼めば、僕に負い目のある両親はすぐにいうとおりにしてくれると思う。
だから、悪いことからは足を洗ってほしい」


「お金さえ出せば、あたしがいうことをきくと思ってる?」


「犯罪に手を染めるより、マシだと思うけど。収入は安定するし、危険もないし、それに、何より僕を助けられる」


 高翔の言葉に、ふっと茗は笑った。


「そっか。さっき助けてくれたもんね。わかった、そのバイト、引き受けるよ。あたしだって、食べていかなきゃいけないんだから。どんなに生きてる意味がなくても、お腹は減るし。
万引きも詐欺もやめるよ。
ただ……」


 茗は物憂げに、眉間にしわを刻む。


「ただ?」


「受け子をしたとき、指示役に身分を知られちゃってるんだよね。関係を断てればいいんだけど……」


 茗の言葉に高翔も真剣な表情になる。
 重い空気が流れる前に、あえて茗は明るい口調でいった。


「ま、多分大丈夫だと思うよ。あたし一人いなくなったくらい、問題ないよ、きっと。連絡先交換しよ」


 茗にいわれて、高翔もスマホを取り出す。

 その顔は、まだやや強張っていたが、少しだけ、安堵したように見えた。

 二人が連絡先を交換していると、「織原さん!」と公園の入口から、女性の素っ頓狂な声がした。

 はっと顔を上げ、「やべっ」と高翔が立ち上がる。
 声の主は、看護師の女性だった。

 彼女は、つかつかと茗たちの方へ歩いてくると、高翔を見据え叫んだ。


「織原さん!何度脱走したら気が済むんですか!探したんですからね!すぐに病院に戻りますよ!」


 険しい顔の看護師は、高翔の腕をつかむと、彼を引っ張って公園を出て行こうとする。
 看護師に引き摺られながら、高翔は振り返り、情けない顔で茗に笑いかける。


「またね、茗ちゃん!この人怖い人だから行くわ!電話するから、待っててね!約束だよ!」


 名残惜しそうに何度も振り返りながら、夕方の気配を漂わせはじめた公園を、高翔は去って行った。

 茗は、手元に残ったパンの袋をくしゃっと丸めると、ゴミ箱に放り投げ、公園を後にした。 

 なんだか、妙に足取りが軽かった。

☆☆☆

 出会ったあの日から、茗は高翔と毎日のように電話で話していた。

 茗は生い立ち、小学校時代の話、すっかり犯罪に染まった中学時代の話、犯した悪行の話、将来の不安を語ることもあった。

 高翔は、病院のごはんに飽きてしまったこと、暮らしている部屋は殺風景なこと、やることがなくて暇を持て余していること、昼間は監視付きで外へ出て太陽を浴びられることなどを語ってくれたが、自分が患う病について、愚痴はこぼさなかった。

 どの会話も他愛なく、脱線しながら、だらだらと続いていた。

 高翔からの電話は、たいてい夜にかかってくる。
 隔離されている部屋が、一筋の光りの差さない暗闇で、完全な静寂に包まれており、底知れない孤独を感じるのだという。 

 自分なんかが高翔の孤独を紛らわせることができるのなら、いくらでも話し相手になろう、と思う。

 そこに、同情以外の感情が潜んでいることに、茗は気付かないふりをした。

 高翔は、いつ死んでもおかしくないといっていた。
 そんな余命ゼロの彼に特別な感情を抱くことが怖かった。

 きっと高翔も、両親と同じように、何の前触れもなく自分の前から消えてしまう。

 好きになってはいけない。

 あの微笑みを、柔らかく優しい声を、思い出すたびに胸が苦しくなるけれど。


☆☆☆

 ふたりが出会って、一ヶ月が経った。

 茗は、元いた施設に戻ることにした。

 高翔と別れてから、万引きも詐欺もしていない。

 もし警察に逮捕されてしまえば、高翔と電話できなくなるからだ。

 お金を貯めて自立しようと、アルバイト先も探しはじめた。

 高翔と電話で話すことは、茗の生活に欠かせない楽しみになっていた。

 昼に電話するときには、馬鹿話で盛り上がり、涙が出るほど笑っているのに、夜遅く電話がかかってくるときには、高翔はどこか不安定で、孤独に圧し潰されそうになっていることが窺える。

 茗はそんなことには気付かないふりをして、努めて明るい声で、バイト先での失敗談を面白おかしく話し、高翔を笑わせることに必死になった。

 高翔のことを知れば知るほど、茗の中で彼の存在が大きくなっていく。


 高翔は、時々甘えたような声で、茗の名前を呼ぶ。

 それを聞くたびに、茗の心臓は締め付けられる。


 高翔が、たまらなく好きだ。

 深夜、電話を終えると、訳もなく泣いてしまうことがある。

 茗の恋心は、日に日に育って制御できないほどに膨らんでいった。

☆☆☆

 飲食店のバイトを終え、帰途についていた茗のスマホが振動した。
 
 画面には、高翔の名前が表示されている。

 
「もしもし、高翔?」


「こんばんは、茗ちゃん。……騒がしいね、今、外にいるの?」


「うん、バイトで遅くなっちゃって」


「一人で帰るの?大丈夫?」


「平気平気。繁華街で人が多いし、安全だよ」


 今日は何の話をしよう、と茗がわくわくして話題を探していると、「星野!」と茗の背中に男の声が投げかけられる。

 そのよく知った声に、びくっと茗の体が跳ねる。
 恐ろしくて振り返れずにいると、ぐいっと力強い手で、肩をつかまれた。


「お前、どこに行ってたんだよ。お前の個人情報、こっちは握ってるんだからな。逃げられると思うなよ」


「っ放してください!あたしは、もう詐欺はやりません!」

 茗より遥かに高い身長の、厳つい大男の手を、茗は震えながら振り払う。

 茗が受け子をつとめた詐欺グループの、指示役の男だった。

「はあ?お前はもう立派な犯罪者なんだよ。お前みたいなガキに、食っていけるだけの稼ぎは渡してるだろ。お前はもう、普通の生活に戻ることなんてできねえ。俺たちとこっちの世界で生きてくしか道はねえんだよ」


「詐欺はもうやりません!」


 震えながら涙声で叫ぶ茗の耳に、スマホの向こうから「もしもし、茗ちゃん?何かあったの、大丈夫?」と高翔の声が届く。

 「助けて!」といいそうになって、口を押さえて叫びを喉の奥でなんとか止める。

 満月が美しく輝き、空を照らしていた。


「茗ちゃん、待ってて、すぐに助けに行くから!」


 茗は反射的に「来ちゃダメ!」と声を張り上げるが、高翔の答えを聞く前に、男が茗の手からスマホを取り上げ、地面に叩きつけ、更に足で踏み潰した。


「いいから来い!」


 大男に担ぎ上げれられ、茗は必死で暴れるが、男はびくともせずに繁華街から、暗がりがわだかまる路地裏へと入っていく。

 詐欺集団が拠点とするマンションの一室へと向かっているようだ。

 そこへ連れ込まれてしまえば、二度と出られない可能性がある。 

 逃れる方法はないか、自分の脳内を検索するが、短い茗の人生経験では、最適な答えは得られなかった。

 その間にも、男はマンションに向けて進んでいく。

 ……もうダメだ。きっと、バチが当たったんだ。道を踏み外した自分が、まともに働こうとするなんて、到底無理な話だったのだ。

 こんな自分に、生きる価値などあるのだろうか。


 茗がすっかり抵抗を諦めた、その時だった。


 どこからか、犬の遠吠えのような声が聞こえてき
た。

 はっと茗が顔を上げる。


「なんだ、野良犬か?……にしてはデカいな」

 
 暗がりに、大型犬の何倍も大きな生き物が、男の前に立ち塞がっていた。


「……狼……」

 
 茗が呟く。


 ごわごわとした毛並みの、歯を剥き出しにし、ぎょろりとした眼の、痩せてところどころ皮膚のただれたような醜い狼がそこにいた。


「夢じゃ、なかったんだ」


 茗が呆然としていると、男に向かって、狼が突進してきた。

 男の体は簡単に宙に吹き飛び、先回りした狼の毛並みが、放り出された茗を受け止めた。


「大丈夫?遅れてごめん」


 狼が、喋った。

 その少し高い声は、聞き馴染んだものだった。


「……高翔……なの?」


「そうだよ。驚いた?怖い?」


「驚いた。怖くは、ない。だって、高翔なんでしょ。
 あたしが小さい頃、あの冬の夜、温めてくれたの
は、高翔だったの?」


「そう。
 あの夜、両親ですら直視しなかった醜い僕を、君は怖がりもせずに受け入れてくれた。本当に、嬉しかったんだ。この子を守ろう、そう決めた。
 時々、病院を抜け出して、君の様子を見に行った。
 成長するにつれて辛い境遇になっていく君を、ただ遠くから見守ることしかできなくて、歯がゆかった。
 大袈裟かもしれないけど、僕が生きる意味は君だったんだ。君のためなら、命を投げ捨ててもいいと思った。
 だから、あのスーパーで偶然出会ったとき、初めて言葉を交わせて、天にも昇る想いだった。
 毎日君と電話で話せたこと、僕はそれだけで満足だったんだ。君と出会えて、本当に幸せだった。僕を受け入れてくれてありがとう。
 ギフトは、このときのために授かったんだ、きっと」


 高翔に吹き飛ばされた男が、うめき声を上げながら体を起こす。

 高翔が何をしようとしているのか察して、茗は狼の背中にしがみつく。


「待って、ギフトを使ったら、高翔は死んじゃうんでしょ?やめて、お願い!」


 高翔を止めようと、頬に温かい雫を伝わせながら、茗が叫ぶ。


「幻みたいな人生の、たったひとつの希望が君だった。
 ギフトは、君を助けるためだけにある」


 ゆるりと男が立ち上がり、頭から出血しながらも、殺気を隠そうともせずに茗たちのほうへ近づいてくる。


「高翔がいなくなったら、あたしはどうすればいいの?あたしの生きる意味がなくなっちゃう!」


「大丈夫。ギフトは大切な人を救うことができる。辛い人生から、君を助け出すことができるんだよ」


「待って、行かないで、あたしを一人にしないで!」 


「ごめん、もう遅いんだ。一度狼になったことがあるっていったでしょ?
 そのとき、もう一度月の光りを浴びたら、命はないって医者から釘さされてさ。
 理不尽な病気だけど、自分の命が大切な人の命を救えるなら、死に方としては悪くないのかなって思ってる」


 高翔は、茗の前に立つと、迫りくる男へと威嚇するように一度吠えた。

 男と高翔が同時に走り出す。


「だめ!行かないで!」


 茗の絶叫が響き渡る。

 男に躍りかかった高翔は、男ごと壁にぶつかり、鋭い爪で男を切りつける。

 男の声にならない悲鳴が路地裏に反響する。
 鮮血が舞う。

 男に馬乗りになった高翔の体が、ほろほろと崩れるように細かい粒子となって消えていく。粒子は、月光を受けて、きらきらと虹色の輝きを帯びる。

 狼に押さえつけられ、身動きのとれない男の体も、同じように粒子となって煙のように天に消えていく。
 自分が崩れていく様子を見て、男が情けない声を上げた。

 茗は、泣きながら狼に駆け寄り、消えゆく粒子をつかもうとする。

 しかし、粒子は茗の手をすり抜けて空高くへと舞い上がっていく。

 自分のせいだ。

 自分が犯した犯罪のせいで、高翔は死んでしまうのだ。

 大切な人を喪うと、わかっていたら、犯罪に手を染めなかったのに。

 しかし、過去は変えられない。どんなに嘆いても遅いのだ。

 
「高翔!」

 泣き叫ぶ茗に、狼が鼻を近づけてくる。

 表情が変わるはずないのに、狼が、高翔が微笑んだような気がした。


「泣かないで、茗ちゃん。泣かせたかったわけじゃない。僕の最期のお願い、きいてくれる?」


 茗は手の甲で乱暴に涙を拭いながら、大きく頷いた。


「笑って。笑いながら、生きて、生き抜いてほしい。幸せな人生だったと、永遠に眠るとき、そう思ってほしいんだ」


 高翔は男を巻き込みながら姿を曖昧にしていく。
 数分後、高翔の姿は完全に消滅した。

 あとには、何も残らなかった。織原高翔が、存在した形跡は、跡形もなく消えていた。

 茗は、放心して涙を流すことも忘れて、座り込んでいた。

 会えなくても、電話でしか話せなくても、醜い狼であっても、高翔に生きてほしかった。

 生きて、生きて、生き抜いてほしかった。
 高翔と、笑って生きていきたかった。

 
「あーーーーーっ!!!」


 頭を抱えてうずくまり、茗は狼の咆哮のように絶叫した。

 どのくらい、そうしていたか。

 ゆっくりと立ち上がった茗は、強引に、唇を笑みの形にした。

 ふらふらと、覚束ない足取りで歩き出す。

 高翔が守ってくれた、何の意味もない人生を、笑って生きよう。

 生き抜いてみよう。

 生きる意味などなくても、生きているだけで、人生は美しい。

 強く生きた高翔の生き様が、美しかったように。

 命をかけて、高翔が彩ってくれた茗の人生は、誰よりも、美しいはずなのだから。