人類は月旅行を成功させた。特別な訓練がなくても月へ行けるようになった。
大富豪が大金を叩いて順番待ちをし、ようやく宇宙船に乗れる時代は遠い昔。今は飛行機に乗る感覚で乗船できる。
やがて月への移住が可能となった。インターネットを使えば簡単に移住の手続きができ、引っ越し業者に頼めば月まで荷物を運んでくれる。
新たな地での生活を求めて旅立つ人が後を絶えず、地球の人口は減り、月の人口は増えていった。
さらには地球を知らない月生まれ月育ちの人も現れるようになり、人種の概念は地球人と月面人の2つに絞られるまでに至った。
月に夢みる時代は終わったのだ。
そんな人類が地球の外へと出ていく時代に、この古びた遊園地はひっそりと最後の時を迎えようとしている。
普通の遊園地だ。観覧車、ジェットコースター、お化け屋敷、バイキング、ティーカップ、メリーゴーランド。あらゆる王道のアトラクションを揃えながらも、他の追随を許さないような乗り物はない。遠い昔はどこにでもあった普通の遊園地だ。
これでも一応、客入りを良くする努力はしたらしい。
月に対抗してスペースシャトルを模したアトラクションを作ったり、シンボルになるようなキャラクターを公募したり。
しかし、スペースシャトルのアトラクションは本物に敵わず不発に終わり、キャラクターの公募はまったくと言っていいほど集まらなかった。
客はついぞ増えず、こうして最後の日を迎えた。
最後だというのに人の入りはいつもどおりだ。
見覚えのある地元住民、車で来たらしい子ども連れの家族、熟年夫婦並みの息の合ったカップル。
最後くらいスタッフを増員するかと思えばアトラクションを案内するスタッフ以外は見当たらず、バイキングに至っては休止。せめて入り口に最後を嘆くメッセージを掲げればいいのに、それすらもない。
とても最後を迎える遊園地とは思えなかった。
寂しいねと言うと、隣を歩く彼は「月に行けば、もっと安全で近未来のテーマパークがいっぱいあるからね」と答えた。冷たいねと言おうと思ったけれど、やめておいた。
「どこへ行こうか」
「どこでもいいよ」
「じゃあメリーゴーランドで」
「それは勘弁して」
彼は苦笑いを浮かべた。
だったら、どこでもいいなんて言うな。文句は心の中でとどめておく。
私たちは近くにあった『エアラインGO!』というアトラクションに乗ることにした。
飛行機を模した2人乗りの乗り物に乗って、上下しながら円を描くように回転するだけのアトラクションだ。回転は微かに風を感じるくらいゆっくりなので、高所恐怖症でなければ息抜きとして利用するのにちょうどいい。
遊園地にやってきて最初にこのアトラクションを選ぶくらい、私たちは大人になってしまった。
「昔はメリーゴーランド好きだったよね」
おおよそ3階の高さから眺められる景色は大したことがない。エアラインGO!の傍にあるサーカスのテントのような頭頂部を眺めながら何気なく呟いた。
「昔はね。この歳であれに乗るのはきついよ」
あれと言うので彼もメリーゴーランドを見ているのかと思い隣を一瞥すると、彼の視線はまっすぐを向いていた。
視線をテントの頭頂部に戻して話を紡ぐ。
「馬車に乗れば目立たないよ」
そういう問題じゃないよと彼は苦々しそうに笑った。
「弥生だって昔は乗りたくないって言ってたじゃん」
「嫌いだったから」
「恥ずかしいからでしょ? それと一緒だよ」
一緒じゃないよ。私は恥ずかしくて乗りたくなかったわけじゃない。嫌いだから乗りたくなかったんだ。
だけど今は、なんとなくあのメリーゴーランドに惹かれる。あんなに嫌いだったのに、最後だと思うと無性に乗りたくなってくる。
もしかしたら好きになれるんじゃないかと、根拠のない期待が止まらない。
飛行機は数分で着陸した。スタッフの見送りの挨拶を後にして、園内を歩き回る。
さっきよりも人が多くなった気がする。相変わらず混雑とはほど遠いけれど、活気は感じられる。
近くの老夫婦の会話に耳を傾けると、「最初に来たのはいつだったかな」なんて昔話に花を咲かせようとしていた。
「私たちが最初に来たのはいつだったっけ?」
老夫婦の会話を奪うように彼に訊いてみた。老夫婦に比べると大した歴史はないけれど、私たちもそれなりに遡れるくらい昔の遊園地を知っている。
「幼稚園……いや、まだなってないくらいだったと思う」
「そんなに小さかった?」
「広場で戦隊ヒーローショーやっててさ、幼稚園に入ったら変身グッズを買ってくれるって母さんと約束した憶えがある」
私の1番古い記憶は5歳のとき。誕生日のプレゼントに彼の家族と私の家族とで来たときだ。魔法少女もののショーを見たかったのに、時間の関係で戦隊ヒーローショーを見ることになってむくれたのを憶えている。
「この遊園地には楽しい思い出がたくさんあるね」
彼がしんみりと言うので、そうだねと適当に相槌を打った。
「1年に1回、俺か弥生の誕生日に家族で来てさ……あ、でも、小6のときは学校の遠足でも来たから1年に2回だったか。中学だともの足りなくなって足が遠のいたんだよね」
「私は小3のときも2回来たよ。お父さんと最後に会ったのがここだったもん」
「ああ、そっか。家族3人で遊びに行った後にお父さんが出ていったんだっけ」
閉園間際にお父さんと乗った最後のアトラクションがメリーゴーランドだった。夜にネオンが輝く中でのメリーゴーランドは幻想的で、そのときの私はまさかお父さんが家を出ていくなんて思いもしなかった。
知っていたらメリーゴーランドに乗らなかった……ううん、遊園地に来たいなんて言わなかった。
来なければ、この遊園地もメリーゴーランドも嫌いにならずに済んだのに。
嫌いだ、こんな遊園地。お父さんを連れていってしまった遊園地なんて嫌い。
けれど、今はこんな遊園地にも後ろ髪を引かれる。
このまま終わってしまうことに時代の終わりを感じて、どうしようもない寂しさに胸が締めつけられる。
それから私たちは、メリーゴーランドを除いたアトラクションに片っ端から乗った。思い出を刻み込もうと、閉園ギリギリまで園内を歩き回った。
遊園地を取り囲む高層タワーのライトが照る頃には辺りが薄暗くなっていて、あっという間に夜闇に沈んだ。
まもなくして閉園の音楽が鳴りはじめた。
「帰ろうか」
「そうだね」
出口へと足を進める。この狭い園内のどこにいたのか、たくさんの人が同じ方向に向かって歩いている。閉園の音楽が鳴ってようやく最後を実感しているのだろう。人々の口数は少ない。
彼はそんな静けさに溶け込むような声で呟いた。
「そういえば、高校生のときに付き合って最初のデートはここだったね」
「うん。付き合って1週間の記念だった」
「どっちが誘ったんだっけ? 俺?」
私は小さく頷いた。
本当は初デートでこんな遊園地に来るのは嫌だった。もっとオシャレなシアターに行きたかった。でも、せっかく誘ってくれたのに嫌だとは言えなくて仕方なく来た。
初デートの思い出は楽しいものばかり。おかげで少しだけこの遊園地が好きになれた。
「そっか。懐かしいね」
付き合って今年で5年になる。つまり、これまでの人生の4分の1を恋人として過ごしていることになる。
長いようで短い。短いようで長い。
「明日は何時に出発するの?」
「13時」
「見送りに行くね」
「ありがとう」
彼は明日、月へ発つ。生まれてからずっと共に地球で過ごしてきたけれど、明日、彼はここを離れて新しい土地で私のいない生活を始める。
昔は月へ行くのに特殊な訓練を積んで順番待ちをしないと行けなかったらしい。今は、出入国手続きをすれば誰でも簡単に月へ行ける。
けれど、出入国の手続きをしないといけない。宇宙船に乗って時間をかけて向かわないといけない。簡単に月に行けるようになったけれど、行くにはお金と時間を犠牲にしないといけない。
距離だけは今も昔も変わらないんだ。
「じゃあね」
「うん、また明日」
遊園地を出て、私たちは背中を向けて反対方向に歩き出した。
私は歩きながら空を見上げた。月が昇っている。星々と比べたら大きいけれど、手を伸ばせば簡単に手のひらに隠れてしまうほど小さい。遠い。
明日が最後の日。会いたいときに連絡をして駆けつけてくれるのは明日まで。
でも、ここ1年間は会いたくなって連絡したことはなかった。
次の日曜日、空いてる? 暇だから遊ぼうか──そうして会う約束をする。
初めのうちはそれでも週に2、3日は会っていた。けれど、だんだん連絡の頻度が落ちてきて、気がつけば2週間に1回会うだけで満足できるようになってしまった。
彼が月に行ったらもっと頻度が落ちる。1か月に1回、3か月に1回、半年に1回、1年に1回。そうして会わなくなっていって、自然消滅するのだろうか。
お互い新しい恋人ができて、結婚して、子どもが生まれたことも知らずに老いていくのだろうか。
生まれたときから20年も連れ添った人を、顔も名前も思い出さないまま死ぬのだろうか。
彼への気持ちはまだ残っている。人生で唯一好きになった人だ。今も好き。
けれど、ほかの人に気持ちが移りつつある彼の心を、地球から引き止める気力はもう残っていない。
私はこの遊園地に寂しさを感じた。
彼は近未来のテーマパークに目を向ける。
私はメリーゴーランドに乗りたかった。
彼はもう乗らないと言う。
私は遊園地に楽しい思い出ばかりじゃなかった。
彼は楽しい思い出ばかりだったと言う。
すれ違う彼の心を引き戻すのはもう疲れた。
ふいに鈴の音を鳴らすような機械音がした。
バッグから端末を取り出して、たった今入ってきたメッセージを開ける。彼からのメッセージだった。
『好きだよ』
私も好きだ。大好きだ。
君しか好きになったことがない。ほかの人を好きになる方法がわからない。
ずっと心の中に君だけがいた。君しかいなかった。
辛い思い出も悲しい思い出も、君が隣にいてくれたから乗り越えられた。
君が隣にいない人生なんて考えられない。
どうしてこの時代に生まれてきてしまったんだろう。
もっと先の未来に出会えていたらよかった。
どんなに遠い距離でもドアを開ければすぐ会える未来に生まれていたら、君を追いかけたのに。
もっと昔の時代に出会えていたらよかった。
月への移住が夢のまた夢だった時代を生きていたら、君が月へ行くこともなかったのに。
けれど、私たちが生まれたのはこの時代。ないものをねだっても虚しいだけ。
弱い私を許して。
私は明日、君にさよならを言う。
〈完〉
大富豪が大金を叩いて順番待ちをし、ようやく宇宙船に乗れる時代は遠い昔。今は飛行機に乗る感覚で乗船できる。
やがて月への移住が可能となった。インターネットを使えば簡単に移住の手続きができ、引っ越し業者に頼めば月まで荷物を運んでくれる。
新たな地での生活を求めて旅立つ人が後を絶えず、地球の人口は減り、月の人口は増えていった。
さらには地球を知らない月生まれ月育ちの人も現れるようになり、人種の概念は地球人と月面人の2つに絞られるまでに至った。
月に夢みる時代は終わったのだ。
そんな人類が地球の外へと出ていく時代に、この古びた遊園地はひっそりと最後の時を迎えようとしている。
普通の遊園地だ。観覧車、ジェットコースター、お化け屋敷、バイキング、ティーカップ、メリーゴーランド。あらゆる王道のアトラクションを揃えながらも、他の追随を許さないような乗り物はない。遠い昔はどこにでもあった普通の遊園地だ。
これでも一応、客入りを良くする努力はしたらしい。
月に対抗してスペースシャトルを模したアトラクションを作ったり、シンボルになるようなキャラクターを公募したり。
しかし、スペースシャトルのアトラクションは本物に敵わず不発に終わり、キャラクターの公募はまったくと言っていいほど集まらなかった。
客はついぞ増えず、こうして最後の日を迎えた。
最後だというのに人の入りはいつもどおりだ。
見覚えのある地元住民、車で来たらしい子ども連れの家族、熟年夫婦並みの息の合ったカップル。
最後くらいスタッフを増員するかと思えばアトラクションを案内するスタッフ以外は見当たらず、バイキングに至っては休止。せめて入り口に最後を嘆くメッセージを掲げればいいのに、それすらもない。
とても最後を迎える遊園地とは思えなかった。
寂しいねと言うと、隣を歩く彼は「月に行けば、もっと安全で近未来のテーマパークがいっぱいあるからね」と答えた。冷たいねと言おうと思ったけれど、やめておいた。
「どこへ行こうか」
「どこでもいいよ」
「じゃあメリーゴーランドで」
「それは勘弁して」
彼は苦笑いを浮かべた。
だったら、どこでもいいなんて言うな。文句は心の中でとどめておく。
私たちは近くにあった『エアラインGO!』というアトラクションに乗ることにした。
飛行機を模した2人乗りの乗り物に乗って、上下しながら円を描くように回転するだけのアトラクションだ。回転は微かに風を感じるくらいゆっくりなので、高所恐怖症でなければ息抜きとして利用するのにちょうどいい。
遊園地にやってきて最初にこのアトラクションを選ぶくらい、私たちは大人になってしまった。
「昔はメリーゴーランド好きだったよね」
おおよそ3階の高さから眺められる景色は大したことがない。エアラインGO!の傍にあるサーカスのテントのような頭頂部を眺めながら何気なく呟いた。
「昔はね。この歳であれに乗るのはきついよ」
あれと言うので彼もメリーゴーランドを見ているのかと思い隣を一瞥すると、彼の視線はまっすぐを向いていた。
視線をテントの頭頂部に戻して話を紡ぐ。
「馬車に乗れば目立たないよ」
そういう問題じゃないよと彼は苦々しそうに笑った。
「弥生だって昔は乗りたくないって言ってたじゃん」
「嫌いだったから」
「恥ずかしいからでしょ? それと一緒だよ」
一緒じゃないよ。私は恥ずかしくて乗りたくなかったわけじゃない。嫌いだから乗りたくなかったんだ。
だけど今は、なんとなくあのメリーゴーランドに惹かれる。あんなに嫌いだったのに、最後だと思うと無性に乗りたくなってくる。
もしかしたら好きになれるんじゃないかと、根拠のない期待が止まらない。
飛行機は数分で着陸した。スタッフの見送りの挨拶を後にして、園内を歩き回る。
さっきよりも人が多くなった気がする。相変わらず混雑とはほど遠いけれど、活気は感じられる。
近くの老夫婦の会話に耳を傾けると、「最初に来たのはいつだったかな」なんて昔話に花を咲かせようとしていた。
「私たちが最初に来たのはいつだったっけ?」
老夫婦の会話を奪うように彼に訊いてみた。老夫婦に比べると大した歴史はないけれど、私たちもそれなりに遡れるくらい昔の遊園地を知っている。
「幼稚園……いや、まだなってないくらいだったと思う」
「そんなに小さかった?」
「広場で戦隊ヒーローショーやっててさ、幼稚園に入ったら変身グッズを買ってくれるって母さんと約束した憶えがある」
私の1番古い記憶は5歳のとき。誕生日のプレゼントに彼の家族と私の家族とで来たときだ。魔法少女もののショーを見たかったのに、時間の関係で戦隊ヒーローショーを見ることになってむくれたのを憶えている。
「この遊園地には楽しい思い出がたくさんあるね」
彼がしんみりと言うので、そうだねと適当に相槌を打った。
「1年に1回、俺か弥生の誕生日に家族で来てさ……あ、でも、小6のときは学校の遠足でも来たから1年に2回だったか。中学だともの足りなくなって足が遠のいたんだよね」
「私は小3のときも2回来たよ。お父さんと最後に会ったのがここだったもん」
「ああ、そっか。家族3人で遊びに行った後にお父さんが出ていったんだっけ」
閉園間際にお父さんと乗った最後のアトラクションがメリーゴーランドだった。夜にネオンが輝く中でのメリーゴーランドは幻想的で、そのときの私はまさかお父さんが家を出ていくなんて思いもしなかった。
知っていたらメリーゴーランドに乗らなかった……ううん、遊園地に来たいなんて言わなかった。
来なければ、この遊園地もメリーゴーランドも嫌いにならずに済んだのに。
嫌いだ、こんな遊園地。お父さんを連れていってしまった遊園地なんて嫌い。
けれど、今はこんな遊園地にも後ろ髪を引かれる。
このまま終わってしまうことに時代の終わりを感じて、どうしようもない寂しさに胸が締めつけられる。
それから私たちは、メリーゴーランドを除いたアトラクションに片っ端から乗った。思い出を刻み込もうと、閉園ギリギリまで園内を歩き回った。
遊園地を取り囲む高層タワーのライトが照る頃には辺りが薄暗くなっていて、あっという間に夜闇に沈んだ。
まもなくして閉園の音楽が鳴りはじめた。
「帰ろうか」
「そうだね」
出口へと足を進める。この狭い園内のどこにいたのか、たくさんの人が同じ方向に向かって歩いている。閉園の音楽が鳴ってようやく最後を実感しているのだろう。人々の口数は少ない。
彼はそんな静けさに溶け込むような声で呟いた。
「そういえば、高校生のときに付き合って最初のデートはここだったね」
「うん。付き合って1週間の記念だった」
「どっちが誘ったんだっけ? 俺?」
私は小さく頷いた。
本当は初デートでこんな遊園地に来るのは嫌だった。もっとオシャレなシアターに行きたかった。でも、せっかく誘ってくれたのに嫌だとは言えなくて仕方なく来た。
初デートの思い出は楽しいものばかり。おかげで少しだけこの遊園地が好きになれた。
「そっか。懐かしいね」
付き合って今年で5年になる。つまり、これまでの人生の4分の1を恋人として過ごしていることになる。
長いようで短い。短いようで長い。
「明日は何時に出発するの?」
「13時」
「見送りに行くね」
「ありがとう」
彼は明日、月へ発つ。生まれてからずっと共に地球で過ごしてきたけれど、明日、彼はここを離れて新しい土地で私のいない生活を始める。
昔は月へ行くのに特殊な訓練を積んで順番待ちをしないと行けなかったらしい。今は、出入国手続きをすれば誰でも簡単に月へ行ける。
けれど、出入国の手続きをしないといけない。宇宙船に乗って時間をかけて向かわないといけない。簡単に月に行けるようになったけれど、行くにはお金と時間を犠牲にしないといけない。
距離だけは今も昔も変わらないんだ。
「じゃあね」
「うん、また明日」
遊園地を出て、私たちは背中を向けて反対方向に歩き出した。
私は歩きながら空を見上げた。月が昇っている。星々と比べたら大きいけれど、手を伸ばせば簡単に手のひらに隠れてしまうほど小さい。遠い。
明日が最後の日。会いたいときに連絡をして駆けつけてくれるのは明日まで。
でも、ここ1年間は会いたくなって連絡したことはなかった。
次の日曜日、空いてる? 暇だから遊ぼうか──そうして会う約束をする。
初めのうちはそれでも週に2、3日は会っていた。けれど、だんだん連絡の頻度が落ちてきて、気がつけば2週間に1回会うだけで満足できるようになってしまった。
彼が月に行ったらもっと頻度が落ちる。1か月に1回、3か月に1回、半年に1回、1年に1回。そうして会わなくなっていって、自然消滅するのだろうか。
お互い新しい恋人ができて、結婚して、子どもが生まれたことも知らずに老いていくのだろうか。
生まれたときから20年も連れ添った人を、顔も名前も思い出さないまま死ぬのだろうか。
彼への気持ちはまだ残っている。人生で唯一好きになった人だ。今も好き。
けれど、ほかの人に気持ちが移りつつある彼の心を、地球から引き止める気力はもう残っていない。
私はこの遊園地に寂しさを感じた。
彼は近未来のテーマパークに目を向ける。
私はメリーゴーランドに乗りたかった。
彼はもう乗らないと言う。
私は遊園地に楽しい思い出ばかりじゃなかった。
彼は楽しい思い出ばかりだったと言う。
すれ違う彼の心を引き戻すのはもう疲れた。
ふいに鈴の音を鳴らすような機械音がした。
バッグから端末を取り出して、たった今入ってきたメッセージを開ける。彼からのメッセージだった。
『好きだよ』
私も好きだ。大好きだ。
君しか好きになったことがない。ほかの人を好きになる方法がわからない。
ずっと心の中に君だけがいた。君しかいなかった。
辛い思い出も悲しい思い出も、君が隣にいてくれたから乗り越えられた。
君が隣にいない人生なんて考えられない。
どうしてこの時代に生まれてきてしまったんだろう。
もっと先の未来に出会えていたらよかった。
どんなに遠い距離でもドアを開ければすぐ会える未来に生まれていたら、君を追いかけたのに。
もっと昔の時代に出会えていたらよかった。
月への移住が夢のまた夢だった時代を生きていたら、君が月へ行くこともなかったのに。
けれど、私たちが生まれたのはこの時代。ないものをねだっても虚しいだけ。
弱い私を許して。
私は明日、君にさよならを言う。
〈完〉