一週間後――。

 深夜二時。
 恭稲探偵事務所。


「ふぅ」
 自身のチェアに着席し深く息を吐き出す慶は、新たなる依頼者と向き合うために精神を落ち着かせる。


 慶の目の前には、起動済みのノートパソコンが開けられている。右横には白姫から借りている白の卓上型スマホスタンドには、自身のスマホがセットされている。

 ノートは個人情報流失事件により、ロックナンバーを設定して開閉めするB5サイズの手帳に変化していた。


「簡単な依頼やったらええんやけどなぁ」

 本音をポツリと呟く慶はノートをロック解除させて開く。中がリング型になっていて使いやすそうだ。右横についているペンホルダーに収納している赤色と黒色のインクが使えるボールペンを取り出し、ノートの上にそっと置いた。

 白姫は智白の部屋でなにやら話し込んでいるようで、部屋には必然的に慶一人だ。


「よっし!」
 顔の前で両拳を作って気合いを入れた慶は、例のごとくリモートアプリ、『skyblue』を開ける。

 慶は手慣れた手つきでIDとパスワードを入力する。


【ログインが完了いたしました】
 数秒ほど歯車マークがクルクルと回転したあと、画面がマイページに切り替わる。ユーザー名 Kei18559452 ユーザーアイコンは変わらないままだった。


 次に慶は受け取った書類に記載されているIDへ通話リクエストをかける。その書類には、依頼者の名前の情報すらなく、ただBlueskyのユーザーIDしか記載されていなかった。

 三回程のコールが響いた後に、プツッと言う低い機械音が響く。

 モニター画面が一瞬真っ暗になった後、依頼者が映し出される。


「ッ⁉」
 Keiは飛び出そうになる言葉をかろうじて飲み込んだ。

 驚くのも無理はない。モニター画面に映る依頼者は、守里愛莉だったのだから。

『こ、こんばんは』
 度胸が据わっている愛莉ではあるが、今は目に見えて緊張していた。


「よ、ようこそ、恭稲探偵事務所へ。私の名は、Keiと申します。恭稲探偵事務所の依頼者は、貴方様で間違いはございませんか?」
 まだ動揺を隠しきれない慶は少しどもりながらも、冷静さを持つように心がけて話す。


『はい。私の名前は、守里愛莉と申します。お世話になります』
「はい。よろしくお願いいたします」
 Keiは初めて見る方言を消した大人の愛莉の姿が可笑しくて、内心で笑顔を隠す。


「早速で申し訳ございませんが、本日のご依頼はどういったものでしょうか?」

『えっと、凄く可笑しな依頼で、可能なのかも分からないんですが……』

「可能か可能ではないかは、こちらが判断いたします。守里愛莉様のご依頼内容を笑ったりも、不躾にひと蹴りすることもありません。ご依頼内容は外部の者に知らせることもありません。どうぞご安心して、ご依頼内容をお話しいただけますか?」
 Keiは愛莉を深く安心させるように、ゆったりと穏やかな口調で話し、柔らかな笑みを浮かべた。


「……」
「? 守里愛莉様?」
 一言も話さずボーっとする愛莉を不思議に思うKeiは小首を傾げる。


『ぁ、すみません。Keiさんの声や微笑みが私の大切な人に似ていたので』
「そう、でしたか」
 Keiはそっと微笑む。


『えっと、本当に変な依頼になるんですが──』
 愛莉は一呼吸を置いて、話し出す。
『三年前に天国へ旅立った碧海聖花という女性を捜し出して、私に会わせて欲しいんです』


「ぇ?」
『や、やっぱり可笑しいですよね』
 愛莉は自嘲気味な笑みを見せる。


「可笑しいとは思いません。ただ、何故三年前に天国へ旅立った方を今になって捜そうと?」

『今となっては、本当に天国へ旅立ったかも分からないんです』
「!」
 愛莉の言葉にKeiの心臓が跳ねる。


『二週間ほど前から、碧海聖花が生きている説が浮上し始めて、私は騙されていると思いながらも通勤途中や休日に聖花の姿を探していました。だけど、何処にもいなくて──。

 ですが、伏見稲荷大社で碧海聖花を見かけたって人がいるんです。それに、これは私の夢の中の映像なのか現実かさえも分からないんですけど、聖花と会った気がするんです。

 色々な不思議なモノ達が戦うなかで、貴方とよく似た女性がいました。瞳を含める見た目は全然違いましたが、私の直感がその人が碧海聖花に思いました。

 一週間前から碧海聖花とその女性を探していますが、未だに出会えていません。途方にくれていた私に助け舟を出してくれるように、恭稲探偵事務所の動画と出会いました。

 どうか私が納得出来るまで、探してくれませんか? 人非ざるものの手を借りても見つからなかったのなら、私も現実を受けとめます』


「……分かりました」
『ほんまですか?』
 愛莉は嬉しさのあまり、方言がでてしまう。


「はい。ですが守里愛莉様、人あらざるモノの手を借りるならば、いくつかの条件があります」

『動画にも書かれていましたね。条件と言うのは、一体どういうものなんですか?』


「一つ目。ここへ通じる道――鍵を口外してはなりません」
 Keiは例のごとく、人差し指、中指と、指を立ててゆきながら、条件を述べてゆく。ただ一つ違うのは、今回の依頼契約や依頼条件及び製作についても、全てKeiに任せられていること。


 愛莉は不安気な表情で、Keiが全て言い終えるまでのあいだ、静かに耳を傾け続けた。


「二つ目。今回の依頼で経験した事柄や知恵は全て、自分の身へ留めておくこと。

 三つ目。こちらが依頼者に必要だと判断した言動は素直に従ってもらいます。こちらは主に、依頼者の生死に関わる場合に適用されやすいものとなります。

 四つ目。こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、基本的に私はそれに対し、一切の関与はいたしません。真実を手にした依頼者が闇に落ちるも光へ導かれるも、依頼者自身の問題です。それが、真実を知る者の覚悟と責任。だと私は思っています。

 知りえることになる真実には、生半可な覚悟で受け止められるものじゃないものもあります。
 私は依頼者の人生まで背負うことは出来ませんし、依頼者の人生は依頼者のものです。私が大きく関与することはできません。

 この四つの条件が飲める場合のみ、契約を交わしてもらいます。といっても、はい。と答えた時点で、そちらに拒否権はなくなります」
 Keiは契約条件について、過去白から言われた言葉達を借りながら伝えた。


「どうなさいますか?」
『分かりました』
「では一度リモートを終え、守里愛莉様のDMに依頼書ファイルデーターを添付いたします。そちらにサインをご記入後、私の方へと再添付して送りつけ下さい」

『はい。分かりました。よろしくお願いいたします』
 愛莉はモニターに映るKeiに向って頭を下げる。


「こちらこそ。では、失礼いたします」
 そう言って会釈を返すKeiは、一度リモートを終了させた。


「ふぅー」
 慶は盛大に息を吐く。その表情は嬉しさと驚きと困惑が綯い交ぜとなっていた。


【智白さん、今、依頼者と一度目のリモートを終えました】
【依頼者は守里愛莉でした。あの愛莉です】
【依頼内容は〈三年前に天国へ旅立った碧海聖花という女性を捜し出して、私に会わせて欲しい〉というものでした】
 慶はkutouで智白と二人だけのトークルームを使い、メッセージを送る。


【依頼者の依頼を受ける受けないも、どう解決するのかも貴方の意思次第です】

【また、今回は契約書もご自分で制作して頂きます】

【一から十までご自身で考え、ご自身で判断し、ご自身で行動なさい。貴方はもう自由の一歩手前まで来ています】

 三つに分けて届けられたメッセージを確認した慶は、「ですよね~……」と言って、ガクリと肩を落とした。


 未だ白姫は智白の部屋から戻ってこない。智白がわざと引き止めているのかも知れない。

 このような時間に一人あのような場所で、愛莉一人を長時間いさすことも出来ないため、いつ戻るか分からない白姫を待っていることは出来ない。となれば、本当に慶一人で考えて判断した答えを実行に移さなければならぬということだ。


 愛莉に会って真実を伝えたい気持ちはあるが、まだまだ不安が拭えない。

 白妖弧と黒妖弧が手を取り合ったとはいえ、自分と自分の大切な人達に危害が加わらないという保証は、まだ何処にもない。


♪コンコンコン。
「はい」
 慶は部屋のノック音に返事をする。


「開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
 智白の声に返答をする。


「白様がお呼びです」
「ぇ?」
「早急に来なさい。大切な話です」
 智白はそう伝えるだけ伝えると、部屋の扉を閉じた。


 慶は待たせている愛莉が気になるが、白の大切な話と言うからには生命に関わることがあるやもしれぬと、後ろ髪を引かれる思いで応接室へ足を向けることにした。

 だが愛莉を放置することを不安に思った慶は、kutouで白姫と二人だけのトークルームを開き、【白姫お願い。可能なら愛莉を見守って。今、伏見稲荷大社の千本鳥居の所におる】というメッセージを送信した。

 既読マークは流星のごとくつき、【了解】とだけ返事が届く。


【ありがとう】
 とだけ送った慶は鏡で身なりを整え、応接室へ足を向けた。


「こちらへ」
 慶が部屋を出てすぐ、いつものレザーチェアに悠然と腰を下ろしていた白が言う。

 普段ならばこの時間の応接室は、モニター画面と月明かりしか照らされていないが、今は煌々と人工的な灯りがついていた。


「は、はい」
 どもりながら返事をする慶はぎこちない動きで白の元へ歩み寄り、机を挟んで向かい合う。白はレザーチェアーに座ってはいるが、その美しさと独独のオーラは未だになれず、圧迫感からの緊張感が拭いきれない。


「そのオドオドとした態度は、いつまでも変わらぬな」
「ぇ?」
「いい加減、無意識なジャッジを止めたらどうだ?」
「どういうことですか?」
 言葉の意味が理解出来ない慶は小首を傾げる。


「無意識に相手が自分より上だ下だとジャッジすることだ。相手が上だと感じればオドオドし、へりくだり、相手が同類または下だと感じればヘラヘラと振舞う。特に縦社会の強い日本で住む者達には、そういう傾向が強い。そもそもそのジャッジは、本当に正確なのか?

 同じ立場のものだとしても、自分を過大評価しているものと、過小評価しているもので、ジャッジは変わってくるだろう。心持次第のジャッジで、自分で自分を落とすなど馬鹿げているとは思わぬか? 

 相手も同じ感情を持つ生き物。
 人間、あやかし、この世界に生きぬモノ、感情を持つものたちならば、恐れることはないのではないのか?

 社会には、差別発言にあーだこーだと騒ぎ立てているものがいるが、そういうものに限って、あの人は生きる世界が違うだの、あの人は不思議な子だとジャッジをする。

 世界線からの差別を破壊することが、自己への確立と平和の一歩だとは思わぬか? 何故ならば、この世はワンネスだからな」


「ワンネス?」
 聞いたこともない単語に、慶は頭上にクエスチョンマークを浮かべる。


「本来、この世の全ては一つである。という概念だ。私達は何も考えずに生きていれば、〈自分と他者〉など、物事を区切って捉えてしまうことが往々にしてある。
 だがワンネスという考えの元では、万物は本来一つの存在としてつながっており、物事の間に境界はないとされている。つまり、私と藍凪慶も同じ存在だと言える。智白や白姫もまた然り」


「そ、そんなッ! ありえませんッ。全く違うやないですか」
 珍しく白の言葉に強く反論する。当たり前だ、見目も妖力や属性、持っている知恵や叡智や思考など、なに一つとして全く同じモノではない。


「何故、今目に見えるモノだけで判断する?」
「ぇ?」

「私達は肉や臓器を取り除けばただの骨。骨の姿形は個によって違うが、それを燃やせば皆が同じ色の灰となる。もっと細かくいえば、私たち生きとし生けるものは全て、素粒子が固まってなるものだ。そして、魂がある」


「……」
「またお得意のおとぼけ顔か? 本当に成長せぬな」
 難しい話しになってきたぞ……と内心で眉根を寄せていた慶を感じ取った白は、そう言って微苦笑を浮かべる。


「そ、そないな顔していません」
「そうか? だが私の話している意味をよくよく理解していないようだが?」

「それは……」
 慶は言葉に詰まる。全く持ってその通りだからである。


「だろうな。間接的に話すならば、〈ワンネスという考え方の元では、本来自分と他人の間に境界線はなく、自分も他人も同じくらい尊重出来る存在である〉ということだ」

「どうしてそんなことが言えるんですか?」
 同意しかねる白の言葉に、慶はまた問いかける。


「私達は、魂が中心にある素粒子の塊だからな。そこに各々が持って産まれて来た人生の設計図である魂の青写真を地図のように、人生に置いての色々な経験を積んでいく。
 その過程において、色々な感情や学びを重ね、各々の個性が確立されてゆき、各々の世界が作られてゆく。


 己の普通は他者の普通ではなく、己が手放したいと思っているモノは、他者が欲しているモノかもしれない。


 己が当たり前だと思っている世界は、誰かから見れば奇跡の世界になり得る。
 それでも私達は一人一人違うブループリントを持ち、一人一人が違う世界を持ち、一人一人が違う個性を持って生きている。

 であるならば、本来ならば、自分と他人を比べる必要はない。ということになる。
 自分と他人を比べ、いい方向へと作用するならばそれも良いのだろう。
 だが多くのものは、比べることによって暗い方向へ左右させることが多い。〈他者と自分を比べて卑下することは無意味であり、自分と相手への冒涜になり得る〉ということだ。


 他者と自分を比較すればするほど、本来自分が持つ個性が押し込められ、生きづらくなるだけだ。自分で自分の世界を狭め、自分で自分の首を絞めているようなものだ」


「他者と自分を比べないことが、本当の自分で自由に生きられるということですか?」


「そういうことになるな。それと、人生の遅咲き早咲きなどと騒ぐものたちがいるが、それも今を無駄にする。ワンネスには時間軸がない。

 そもそも、時間と言うのは人間が産み出した数字にしか過ぎないのだ。時差と言うのがいい例だ。


 ワンネスという宇宙的考えに及べば、時間に追われて身も心もすり減らすことはない。各々には自分だけの人生時計を持っているのだからな。


 相手が上だ下だ、勝者だ敗者と不毛な執着は自身を幸せから遠ざけることになる。一歩間違えれば、本来であれば輝ける魂も、不毛な争いや執着を持つことによって、違うフィールドで戦い続けた結果、苦しい日々を過ごすことになる。


 我々は同じ源から誕生した魂であり、各々が持つ人生終了時刻が来れば、また同じところへ帰結する。それは、人も、あやかしも、動物──生きとし生けるもの、魂をもつもの全てだ。そうであるならば、抱える生きづらさも和らぐのではないか?」


「──そうかも、しれません」
「さて、長くなったな」
 白は机の上に、一枚の書類を置いた。


「何ですか?」
「黒桂から届けられた誓約書だ」

「誓約書?」
「目を通してみろ」
「はい」
 慶は頷き、失礼しますと、一言断りを入れてから契約書を手に取り、目を通す。
【私達黒妖弧は、二十××年 四月 四日より、藍凪慶及び、藍凪慶に関連するものたち全てから手を引き、今後一切危害を及ぼさぬことを、ここに誓います。

もし、これらを罰すモノが現れた場合、現当主である黒羽がそのモノに処罰を加えます】
 という内容の下に、黒桂から追記のメッセージが記入されていた。


【今まで辛い日々を過ごさせてしまってごめんね。
 今後は、父親として出来うる限り君の近くで、君をサポートしてゆきたいと思っている。
 君がもっと自由に輝き、一秒でも多く笑顔で過ごせることを、心から願っているよ。
                                                       黒桂】


 契約書の内容と、黒桂のメッセージを読んだ慶の瞳が潤む。



「藍凪慶。これで藍凪慶を含む者達が黒妖弧から命を狙われることもなくなる。友と会おうが、碧海響子、碧海雅博に会おうが自由だということだ」

「ということは……」
「嗚呼」
 と相槌を打った白は書類を二枚、机の上に置いた。それは、過去に藍凪慶が恭稲白と交わした契約書だった。


【恭稲探偵事務所が受け付けました碧海聖花との依頼は、藍凪慶に引き継がれます。
 改めて、依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとする。


 依頼者である碧海聖花改め、藍凪慶の命を狙う主犯が見つかり、安全に生活出来るまでのあいだ、藍凪慶と藍凪慶が大切に思う者達を守ろう。
 それと並行して藍凪慶の本当の両親についての調査を行う。
 その期間は、主犯が見つかり、根本を削除するまでの間とする。
 また、この依頼に関する費用は不要とする。


 ※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んでもらう。それらに対する覚悟があるのなら、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信してもらおう。


 一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。

 四、藍凪慶は契約終了までのあいだ、恭稲白の駒となる。

 五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、藍凪慶は改めて承諾いたします。
                      
 依頼者         】


【一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう。

 四、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。

 五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、碧海聖花改め、藍凪慶は了承いたしますことをここに示します。

 依頼者名 

 また、私は今後生きていくことや、恭稲探偵事務所で働くことにおきまして、以下の契約を守ります。


 一 私は今これより、碧海聖花としての命を終え、今後は[藍凪慶]として生きてゆきます。

 二 それに伴い、私は金輪際、碧海聖花の名を名乗りません。

 三 恭稲探偵事務所で依頼者と関わる時においては、藍凪慶の名を隠し通します。そして、[Kei]という名で活動いたします。

 四 己はもちろんのこと、他者が碧海聖花の名を口にした場合、連隊責任として、藍凪慶とその者は腕立て五十回+スクワット五十回いたします。

 五 恭稲探偵事務所の業務中、髪色と瞳の色を変更いたします。

 以上のことを守らなかった場合、恭稲探偵事務所から出ていくことを誓います。
 
                                     契約書名           】



「藍凪慶が現在担当している依頼が終了次第、私との契約からも解放される。最後の依頼、自分の思うがまま行えばいい。藍凪慶が自分で考えたことで必要ならば、こちらがサポートする。以上。話は終わりだ」


「ありがとうございます」
 瞳に涙をめーいっぱい溜めた慶は、体育会系のように頭を下げると、ドタバタと自室へと戻って行った。

 白はそんな慶の背中を見て、柔らかな笑みを口端に浮かべるのだった。




 勢いよくチェアに腰を下ろす慶はパソコンのworld Textnoteを開き、契約書を作成する。


【守里愛莉様のご依頼は、恭稲探偵事務所が受け付けました。
 ご依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとします。


一 依頼者である守里愛莉様が捜索する“碧海聖花”の居場所を、恭稲探偵事務所のKeiが突き止めます。それは、生死の確認も含みます。

二 碧海聖花が見つかり次第、守里愛莉様にお会いさせます。

 その期間は、本日より三日以内といたします。
 また、依頼者が真実の鍵を手にした時点で、調査及び依頼は終了し、その後のことについて、こちらは一切の関与はいたしません。

 また、こちらのご依頼に関する費用は不要といたします。

※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んで下さい。
 それに対する覚悟が整えば、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信して下さい。


 一、ここへ通じる道――鍵を口外してはなりません。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらいます。

 四、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとしても、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与いたしません。

 五、碧海聖花が現在どんな姿で、どんな名を名乗っていたとしても、守里愛莉様の直感を信じて下さい。

 六、碧海聖花が名を変更していた場合、変更後の名で呼んで下さい。もし、碧海聖花の名を口にした場合、腕立て五十回+スクワット五十回をして下さい。

 七、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はありません。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなします。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、守里愛莉は承諾いたします。
 
                                    依頼者                 】



「出来た!」
 契約書を完成させた慶はテキストファイルを保存し、自身のスマホに送信した。贈られたデーターを開き、スクリーンショットを撮影後、そのフォトデータを依頼者である守里愛莉とのDMに送信した。

 愛莉からサインが書かれた契約書が送られてくる前に、通話リクエストコールが鳴り響く。


「はい」
 Keiはすぐさま通話コールに応える。

『ぁ、Keiさん。今送られてきた契約書を確認したのですが、なんか色々と契約が増えているのですが……。第七の条件についても、ん? と思うこともありますが、それはまぁ私が変なことを起こさなければいいだけの話なのでスルーしますけど。
 ただ、第六の条件、碧海聖花が名を変更していた場合、変更後の名で呼んで下さい。もし、碧海聖花の名を口にした場合、腕立て五十回+スクワット五十回をして下さい。というのは、どういう意味ですか?』


「ペナルティーです」

『何故、そちらがペナルティーをつくられるんですか? まるで、すでに碧海聖花が名を変えているようです。すでに居場所を知っているようです。依頼解決期限が三日以内と言うのも、早すぎます』


「人智を超えたことなどいくらでも起こりますから。三日もあれば充分です。ペナルティーについては、もし本当に碧海聖花様が名を変えて隠れて生活していた場合、過去の名を口にされたら困ってしまうかもしれません。その為、ペナルティーを先に提示していた方が気をはることが出来ますよね?」


『……まぁ、そうですね』
「いかがなさいますか?」
『分かりました。サインを送るため、一度リモートを終えさせてもらってもいいですか?』
「はい」
『では、一度失礼します』
 愛莉の手によって、ブッと言う短い低機会音が響き、リモート通話が終了される。


「ふぅ〜。契約書の説明、ちょっと無理があったかな?」
 慶は緊張した心をほぐすように長いため息を吐き、苦笑いを溢す。


 ほどなくして、愛莉からDMが送られてきた。 

 サイン済みの契約書ファイルデーターが送られてきただけで、補足メッセージはなにも送られてこなかった。


【サイン済みの契約書ファイルです】
 慶はそれをスマホに保存させ、智白とのトークルームに添付送信した。


【了解しました】
 とだけ返答が返ってくるが、智白から依頼書についてあれこれ口を出すことはなかった。本当に全て慶の意志で動けということらしい。

 慶は放任主義化したことに少し寂しさを感じながら、今一度依頼者の愛莉と向き合うため、再びリモート通話リクエストをかける。

 通話リクエストは瞬時に応えられ、愛莉とのリモート通話が再開された。


「契約書のサインを確認いたしました。これで、契約が成立いたしました。守里愛莉様のご依頼は、恭稲探偵事務所のKeiが責任を持ち、真実へと導かせて頂きますので、今後もご協力をお願いいたします」


『はい。どうぞ、よろしくお願いいたします』
 Keiの会釈に会釈で返す愛莉の表情はどこか晴れない。


「多くの不安や心配事が気を重くさせているかもしれませんが、どうぞご安心下さい。きっと必ず、再び温かな光が照らされます」

『──はい』
 Keiの言葉に愛莉はどこか力なく微笑む。


「では、何かわかり次第、また改めてリモートをお繋ぎいたします」

「はい。分かりました。どうぞよろしくお願いいたします」

『こちらこそ。では、失礼いたします』
 こうしてリモート通話を終えた慶は机の背にゆったりと背中を預け、脱力するように息を吐き出す。盛大に息を吐いた後の慶の表情は明るいものだった。

 二日後──。

 真夜中の零時。

 守里愛莉はKeiからの送られてきたDMにより、谺ケ池の前にあるフェンス柱に右腰を軽く預け、待ち人を一人で待っていた。

 池の前方を囲むように生えている木々から枝垂れる草木達が、春の夜風で踊っている。


♪コツコツコツ。
 ヒール音を響かせ、一人の女性が現れる。黒色のシンプルなスリムパンツスーツに身を包む女性は、黒色のサングラスをかけており、その瞳は見えない。

 靴の音で振り向いた愛莉は不審な女性の姿にビクリと肩を震わせて一歩後ずさり、強い警戒心を抱く。


「落ち着いて下さい。私は貴方の敵ではありませんし、貴方に危害を加える者ではありません」

「……」
 愛莉は耳なじみのある声音に、目と耳を研ぎ澄まさせる。

「私は恭稲探偵事務所のKeiです。ただ、それはある種、仮の姿であったかもしれません」
「仮の姿?」
 慶の言葉に愛莉の猜疑心が強くなる。


「Keiと言う名は、表向き。本当の名は<藍凪慶>と申します」
「藍凪慶?」
「はい。ただ、その名前は最近ある方に与えられたものです」
「名を与えられた? 芸名?」
 愛莉はますます怪しく意味の分からぬ人だと、怪訝な顔をして慶を見る。


「私は過去の名を捨てる必要性がありましたから」
「過去の名は、なんというのですか?」
 慶はその質問を待っていましたとばかりに、口元に笑みを浮かべ、サングラスをそっと外す。

 サングラスに隠された瞳にカラーコンタクトはされておらず、大きなアーモンド型の目元。濃いオレンジ色に赤黒い血液を混ぜたような色合いを持つ、慶本来の瞳があった。


「⁉」
 愛莉は慶の瞳を見て目を見開き、息を吞む。

「愛莉」
 慶は優しい声音で大切な心友の名を呼んだ。その声は震え、瞳には涙が滲んでいる。


「スぺサルタイトガーネット色の瞳──まさか、ぇ? ほんまに? ぁ! 夢、これはうちの夢なんか?」
 現実を受けとめたい気持ちと、素直に受け止められない気持ちが混同する愛莉は、自分で自分の頬を摘まんで確認する。


「いひゃい」
「ふっふ。何してんの?」
 慶は口元に拳を当てて笑う。


「ほんまに、聖花なん? 生きてんの? うちと同じ世界でおるんやな? うち、まだ生きてるもん」
「うん。私も愛莉も生きてる。名前は、藍凪慶に変わってもうたけど」
 慶の言葉に愛莉の瞳から涙が溢れだす。


「聖花~」
 愛莉は両手を広げ、慶に飛びつくように抱き締める。

「だから、もう聖花やないって。契約違反やで。後でペナルティーな」

「なんなんそれ? 性格キツなったんちゃう? っていうか、今まで何してたん? あの死体はなんやったん? 手紙は聖花が書いたもんやんな? ぁ、そのリング、響子さんが棺桶にいれてたやつやん! なんで持ってるん? なんで探偵やってるん? 恭稲さんって誰なん?」


「ちょ、ちょっと落ち着いてーや。そんな矢継ぎ早に質問されても答えられへんわ」
 慶は愛莉の両肩を優しくポンポンと叩きながら、愛莉を落ち着けた。


「ぁ、せやな。じゃぁー何から質問したらええ?」
「取り敢えず、順を追って説明するな」
 慶は少し落ち着きを取り戻した愛莉に、ゆったりとした口調でこれまでの経緯を話した。

 自身が命を狙われていたこと、恭稲探偵事務所に出会い助けをこうたこと、恭稲白と契約を結び幾度も幾度も助けてもらったこと、自身が半黒妖弧であったことなど、自身に関することは全て隠さずに話した。


 愛莉は真摯に慶の話に、耳を傾け続け続けるのだった。


「というわけで、私は人間やなかってん。それでも、また私と仲良ぅしてくれる? もちろん、無理にとは言わへ──ッ⁉︎」
 慶は最後まで言い終える前にお腹を抑え、苦痛に顔を歪める。愛梨が遠慮なく慶の腹部にストレートパンチをお見舞いしたからである。


「ぁ、愛梨さん?」
 いきなりの攻撃に意味が分からない慶は、説明を求めるように愛梨の名を呼ぶ。


「皆を悲しませた罰や。響子さんも雅博さんもうちも、どんだけ泣いたと思ってるんよ。なんで独りで抱えるんよ。聖花が皆んなを守りたいように、うちらも聖花のことを守りたいと思ってるし、大切に思ってる。水臭いことしなや! なんで一緒に闘おうとしてくれへんかったんよ⁈」


「ご、ごめんなさい。けど、あの時はあーするしかなかってん……」


「聖花がおらんくなって、何度帰ってきて欲しいと思ったか覚えてへん。あやかしやか、人間か半黒妖狐かなんや知らへん!
 名前が変わろうが人種が変わろうが、聖花は聖花やろ⁈ うちらは成長して性格が成熟して変化することがあるけど、丸ごと変化することはあらへんのよ。たとえ記憶を失ったとしても、その人本来が持つ優しさとか暖かさとか、本質は変わらへん。
 今後も探偵するつもりならそれでもええ。碧海家に戻るんが気まずいんなら、うちと一緒に暮らしてもいい。なんでもええから、早くうちらの元へ戻ってきてや」


「……あいりぃ」
 慶はずびっと鼻水をすすり、涙を流す。


「ほらな。子供のようにずぴずぴ泣くのも変わってへん」
 愛莉はどこか茶化すようにそう言って、リュックからポケットティッシュと、エチケット袋を取り出して慶に手渡す。


「ありがとうぅ」
 慶はお礼を言いながらティッシュを受け取り、豪快に鼻水を噛む。


「あぁー。あの頃と全然変わらへんやん。なんか、デジャブを感じるわ」

「そのデジャブ、私も感じてた。愛莉はいっつも、どんな私も受け止めてくれる。ほんまにマリア様のようや」

「……変な褒め方してもなんもないで」
 愛莉は照れ隠しが混じるじとーという視線を慶に向ける。


「いらんよ。ってか、なんかもらおうと思ってへんし。愛莉がまた隣で笑ってくれたらそれでええ。それがええ。また一緒に笑い合いたい」


「また一緒に、失った時間をゆっくりと取り戻して行こう。ほんま、生きててくれてありがとう」
 愛莉は穏やかな口調でそう言って、優しく慶を抱き締める。


 慶は愛莉の温もりに甘えるように、愛莉を抱き締め返すのだった──。






「慶、よかったわね」
 あの後愛莉と別れた慶は、恭稲探偵事務所に戻ってきていた。


「うん」
 二人の部屋で笑顔を向けてくれる白姫に、慶は満面の笑みを見せる。


「これから、どうするの?」

「どうしたらええやろ?」

「それは、私が決められないわ。慶の人生は慶のものだし、慶が作り上げていくものよ。今まで沢山我慢してきて生きてきたのだから、もう自分に我慢させないで。本当に心から望む自分で、心から望む世界を生きて欲しい。サポートが必要なら、私達がいくらでもするから」


「……白姫。ありがとう」
 すでに真っ赤に充血していた慶の瞳から、また涙が溢れだす。


「ほんっとに泣き虫さんね」
 白姫は微苦笑を浮かべながら、慶にティッシュを手渡した。


「ありがと~う」
 ティッシュを受け取った慶は、白姫にあやされながら、また思いっきり感情を開放して泣き腫らす。


「一つ、サポートしてもらってもええ?」
「もちろん!」
「じゃぁ──」



 その後。

 慶は白姫のサポートも借りて、碧海家に訪れ、自身のことを全て話した。あやかしだとか、半黒妖弧だとか言っても信じてもらえないだろうと、術を使える白姫にサポートしてもらった。


 初めは信じてくれなかった碧海夫妻であったが、慶の瞳の色と例のリングの存在によって、藍凪慶が碧海聖花であると信じてくれた。


 妖弧のことについては、白凪が色々な術を見せることで、信じてもらうことに成功した。白姫が、過去碧海家に泊った西条春香の姿に変身できたことが、信頼感を強くさせたのだろう。


 慶が戻ってきたことや慶の話を聞いたことで、碧海夫妻は泣いたり驚いたり怒ったりと感情の波が激しく荒れ狂っていたが、最後は慶を抱き締め、「お帰り、聖花。戻って来てくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。これからは、藍凪慶としてよろしく」と、慶の全てを受け入れてくれた。その無償の愛に、慶はまた涙を流し、白姫はもらい泣きするのだった。

 翌日。


「無事、最後の依頼も完了したようだな」
「はい」
 いつものレザーチェアに悠然と腰を下ろしていた白とオフィスデスクを挟み、慶が立っている。


 時刻は午後十時。
 モニター画面の反射をせぬようにブラインドカーテンが閉じられているため、人工的な灯りがついていた。


「恭稲探偵事務所は、明日で永遠の閉業をする」
「ぇ?」
 慶は思いもしていなかった言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


「藍凪慶が担当した依頼は完了し、私と藍凪慶の契約は終了した。私の目的も果たされた今、ここを営む意味も目的もないからな」

「もう依頼主と依頼者と言う関係性が終了するということですか?」

「嗚呼。そう言うことだ。チョーカー以外のアイテムを返却してもらおう」

「……はい」
 慶は少し名残惜しそうに全てのアイテムを一つ一つ自身から外し、丁寧に白の机に置いて返却した。


「随分と名残惜しそうだな」
「ある種の卒業をしたようです」

「私達が新たな舞台に立つとき、過去の舞台から降りなければならない。二つの舞台を同時に立つことは出来ないからな」


「恭稲さん達は、人間界と妖弧の境界線のような世界から旅立たれるのですか?」

「……そうだな。各々が各々で選び取った舞台に戻るだろう」

「初めて、自身のことへの質問に答えて下さいましたね」
 慶はどこかほっとしたように、穏やかな笑みを溢す。


「もう其方は依頼者ではないからな」

「そうですか」
 慶は口元に笑みを浮かべるも、呼び名が〈藍凪慶〉から〈其方〉へ変化したことに寂しさを覚えた。依頼契約が終わると、また新たな関係性が出来て親しくなれると思っていたが、どうやらそうでもないようだ。


「依頼者ではない私は、何処まで質問してもいいのでしょう?」

「したいようにすればいい。答えるか答えないかは私次第だがな」
 白はレザーチェアーに深々と背を預け、足を組み直す。優美で悠然とした姿に飲み込まれそうになる慶であるが、山ほどある聞きたいことを一つ一つ口に出してゆく。

「じゃぁ──、私と血縁のある母を知っていますか?」
「嗚呼」
 白はなんの躊躇もなく、小さく頷いて見せる。そこに偽りさは感じられない。


「! く、恭稲さんは、『碧海聖花と血の繋がりを持つ両親はすでに碧海聖花と同じ世界には存在しない』と仰いました。ですが、血縁のある父は生きていました。ということは母もどこかで生きているのではないのですか?」
 白の返答に対し驚く慶は一瞬言葉を失うが、次の疑問を投げる。


「私は〈同じ世界には存在しない〉と言っただけで、生死については発言していない。あの頃の其方は人間界という世界に存在し、黒桂は人間界と黒妖弧界の境界線の世界に存在していたからな」


「私の勘違いだったと?」
「まぁ、そうなるな」
 してやられた! という慶の表情を楽しむように、白は口元に弧を描く。


「じゃぁ、母は何処にいるんですか?」
「私の知る限りでは、天界だ」
「母は亡くなっていると?」
「私の知る限りではな」
 白はそう言って意味深な笑みを浮かべる。


「どういう意味ですか? 何か知っているんですか?」
「母親の件については、黒桂に問うた方がより精密な答えが知れるだろう」
「……分かりました。もう一つ、私が産まれる前から私の母と何らかの関係性を持っていましたか?」
「──嗚呼」
「!」
 慶は目を見開き、驚きの色を見せる。


「詳しく、お聞きすることは出来ますか?」
「聞いてどうする?」
「……知りたいんです。母のことを」
 貴方のことを。という言葉は胸の内に飲み込んだ慶は、白を真摯に見つめる。


「そうか……」
 白は一つ頷き、長い長い昔話を始めた。




「すっげ~! 真っ白な狐」
「これは高く売れんで!」
 小雪が降り続ける午後二二時。


 真っ白な狐は後ろの左足から血を流していた。

 狐を前後で挟むように、二人の男性が下卑た笑みを浮かべながら立っていた。五十代前半程の男性は猟銃を持っている。


「磨《ま》白《しろ》!」
 脇下まで伸ばされたブラックコーヒーより薄くて艶やかな色合いに染め上げられた髪に、顔周りから左へ流れるレイヤーと大きくあてたデジタルパーマをかけた品のある女性が、半ば悲鳴のような声で叫び、白狐の元に駆け寄ってくる。


「貴方達、何をやっているのよッ!」
 少ししまったシャープな顔と猫目がどこか鋭さを感じさせる女性は、臆することもなく男性二人を睨む。


「俺等が先にこいつに目をつけてたんや」
 二十代の男性がそう言いながら、白狐を指差す。


「邪魔すんなよ、ねーちゃん」
 五十代後半ほどの男性は鼻先を赤くさせながら、声を少し荒げる。


「貴方達、自分が何を言って、何をしようとしているか分かっているの? この子は野生の子じゃないの。磨白は私のペットなのよ。飼い主のいる動物を誘拐及び、暴力。ましてや殺害を冒した場合、どうなるかくらいわからない?」


「何を持ってして、コイツがねーちゃんのペットだって言えんねんッ。なんか証拠でもあんのか?」

「コレで、満足かしら?」
 五十代後半程の男性に、凛とした女性はある証明書を突きつけるように見せる。


 男性はまじまじとその証明書を見る。

 女性が突き出したのは、狐の健康診断書だった。


「野生でも多々いる狐をペットにしているから、よく疑われるのよ。毎回腹正しいから常に証明できそうなものを持っているの。コレでも文句あるなら、この子がお世話になっている病院に行く? こんな時間だから、もう明日しか空いてないけれど」


「チッ」
 五十代後半程の男性は舌打ちを打ち、「帰るぞ!」と言ってその場を去る。
 一緒にいた二十代の青年は慌ててその男性について行った。残された女性は、男性達が見えなくなるまで凛と立ち続けた。


「ふぅ。やっと行ったわね」
 男性達が見えなくなったことを確認してから、女性は安堵の溜息をつき、胸を撫で下ろす。


「君、大丈夫? うちで手当てしても大丈夫かしら?」
 女性は白狐の正面で両膝を下り、優しい口調で問いかける。

 白狐は同意をするように、女性の足元に歩み寄る。


「じゃぁ、行きましょうか。お互い風邪をひいてしまったら大変。君も早く手当てしないと」
 そう言って微笑む女性は白狐を抱き上げ、自身の車に乗り込み、この場を後にした。





「ただいまぁ。誰もいないけど」
 女性は苦笑いを浮かべ、事務所の中へと入る。

 女性が帰宅したのは、錆びれたバーの地下室だった。


「こんな所でごめんなさいね。身を隠さなければならないのよ」
 女性はそう言って白狐を横長オフィス机に乗せる。机の上にはディスクトップパソコンとキーボードとマウス。いくつかの書類が縦積みされていた。


 事務所の中にある家具は、恭稲探偵事務所と変わらないが、より英国らしさのある者達で統一されていた。照明はダウンライトで、不安な雰囲気と不思議な温かみを感じさせた。


「今、救急箱を持ってくるから、大人しくしていてね」
 そう微笑む女性はシェルフの一番下にある引き戸から大きな救急箱を取り出し、すぐに戻る。


「今から手当するけど、君を傷めつけているわけじゃないから。私を噛まないでちょうだいね」
 女性はスリムなゴム手袋をして、慣れた手つきで白狐の手当てをする。その間、白弧が声を上げることはなかった。


「出来た。君、随分と強くて大人しい子ね」
 後片付けをする女性は、救急箱を元の場所に戻し、背もたれ付きのチェアーに腰を下ろす。


「君は野生の子? 随分と綺麗な毛をしているのね。神様みたい。もしかして、本当に神様だったりして」
 そう話す女性は何かを思い出したように、また新たに口を開く。


「申し遅れたわね。私の名前は水瀬柊子──と言っても、偽名だけど。三十七歳で訳アリ闇探偵よ。君は……あやかし?」
 柊子の言葉に白狐は一瞬目を見開く。それもそのはずだ。この白狐は本当にあやかしであり、天狐になるまえの恭稲白なのだから。


「な~んてね。早々、人間界に妖弧ばかりいるわけがないわよね。名前がなかったら少し不便ね。取り敢えず、磨白と呼ばせてもらうわね」

「くぅ」
 幼い磨白は相槌代わりに、小さく声を上げる。天狐になる前の妖弧では、人間の姿に変化することも、人の言葉で話すことも出来ないのだ。


「磨白で良いってこと?」
 柊子の問いに答えるかのように、幼い白はコクリと頷く。


「ふふふ。本当に頭のいい子。これからよろしくね、磨白」
 柊子は優しく微笑み、麻白と名付けられた白の体を撫でる。麻白は噛み付くことも避けることもなく、柊子の好きなようにさせた。

「ねぇ、麻白。お腹空かない? 流石に君の餌になる様な昆虫や小動物はないけど……」
 と話しながら、柊子はもう一つの部屋に入って行った。


「お待たせ」
 ほどなくして戻ってきた柊子は、手に持っていたグラタン皿を磨白の前に置いた。グラタン皿には人肌に温められたミルクが、皿の七部まで注がれていた。人間界のミルクなど飲んだことのない磨白であったが、柊子の善意を受け取り数口舐めた。磨白の口には濃いものではあったが、どこか温かくて優しいものが心を癒した。


「ずっと独りだったから、嬉しいわ。なんだったら、ずっといてくれていいのよ? せめて、傷が治るまでの間はいてね」

 総長との意見の食い違いによって飛び出してきた幼い白に行く当てはない。


 何処かで隠れ住もうとも、野蛮な人間に見つかれば先程と類比したことが起きるか、それ以上も考えられる。それに、優れた聴力を持つ白に人間界の外気音は余りにも騒々しかった。
 かと言って、里に帰った所で総長に丸め込まれて終わる。総長を論破するアイディアもなければ、妖力もない。
 かくして、白は策を練るあいだ、柊子の世話になることにしたのだった。


**


 磨白として柊子半月程暮らしたある日の夜、柊子が疲弊して帰宅してきた。


「ただいまぁ」
 いつもならすぐにオフィスチェアーに座り、何らかの作業を始める柊子だったが、この日は倒れるように三人掛けのアンティークソファに倒れ込む。


「⁉︎」
 柊子から香る匂いを確認するため、磨白は柊子に歩み寄った。


「あら珍しい。慰めてくれるの?」
 うつ伏せに寝転んだままダラリと下げた左腕を磨白の頭に伸ばし、犬や猫を撫でるように、磨白の頭を撫でる。
 磨白は、柊子の好き勝手にさせてやった。そこに神経をやるより、柊子から香る黒妖狐の香りが気になっていたのだ。


「ダメね……。あの子のために、強くならないと」
「クゥー」
 磨白は鳴き声を一つ上げる。


「君にならいいか。少し、聞いてくれるかしら?」
 磨白はコクリと頷く。


「私が初めて本気で恋をした人ね、あやかしだったのよ。黒妖狐というあやかし。本当の姿を見た事はないけれど、美しい人の姿をしていたわ。名前は仁さん。

 私は仁さんの子を身籠って、自宅出産をした。仁さんと仁さんの知り合いの助産師さんだけでね。

 私の両親はすでになくなっていたから。あの頃はまだ祖母は生きていたけど、妖弧との子供を産みますだなんて、口が裂けても言えなかった。驚愕したまま旅立ってしまいそうだもの。

 一般的とは言えないけど、これから家族三人で仲良く過ごせるのだと思っていた。だけど、現実は甘くなかったわ。

 仁さんは私が出産した半年後に、誰かに殺害されてしまった。私は仁さんと約束していた通り、大切な我が子を孤児院に預け、指定されていた場所のココで闇探偵をしているの。見て……」

 柊子はスーツの内ポケットから取り出した手帳を開き、一枚の写真を取り出して磨白に見せる。

 今より若々しい柊子が生後二ヶ月ほどの赤ん坊を大切に抱き上げ、ファインダーに満面の笑みを見せている写真だった。


「!」
 磨白は刹那目を見開く。
 少し褐色した肌と、スぺサルタイトガーネット色をした瞳を持つ可愛らしい笑顔を浮かべた赤ん坊だったからだ。柊子の話が真実であることを、赤ん坊が告げていた。


「傍でこの子を守れはしないけれど、遠くからサポートしていくつもりよ。私が傍にいることでこの子に危険が及んでしまうようだから。あやかしの世界も世知辛いのね」
 柊子は涙が滲む声音でそう話す。磨白は柊子を慰めるように、だらりと伸ばされた左腕にぽんぽんと手を当てた。


「ありがとう、磨白。貴方がいてくれてよかったわ」
 柊子は磨白と握手するように、磨白の前足を握る。


「ねぇ、磨白。もしもこの子に出会ったのなら、この子と、仲良く、してあげてね。守って……あげてね」
 柊子はポツリポツリと吐露しながら、浅い眠りについた。

 磨白は柊子の足元にあった薄い毛布を引っ張り、柊子にかけた。


 三日後。


「磨白、どうしたのよ? 今までそんなにぐずるようなことなかったじゃない」
 磨白は仕事に行こうとする柊子の足元を前足で叩いたり、鳴き声を上げたりして、柊子が外に出ていくことを引き止めていた。


「今日はどうしても出て行かないと行けないのよ。依頼者と約束をしているの。ごめんなさいね。すぐに戻って来るから大人しく待っていてちょうだい。美味しいミルクを買ってくるから」
 と困り眉で微笑む柊子は、半ば強引に事務所を後にした。後を追いかけようにも、重い扉を開く力は今の磨白にはなかった。


 数分後、事務所の重い鉄の扉が開かれる。


「!」
 扉の前で何か策はないかと思案していた磨白はハッとしたように、勢いよく顔を上げる。
 そこには、ふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪を少し雨に濡らしたシャープなフェイスラインを持つ長身の男性が立っていた。


「やっと、見つけましたよ」
 目尻などに皺があるものの、美しい顔を持つ男性はヘーゼル色の瞳に磨白を映す。


≪智白≫
「こんな所で何をやっているんですか? さっきココから出て行った女性と過ごしていらしたんですか?」


《あれは、柊子という者だ。すぐに追いかけてくれ》
 白は胸の内で話す。それは、妖狐通しなら会話が成立する音のない言葉だった。


「はい?」
 話が見えない智白は珍しく素っ頓狂な声を溢す。


《あの者の娘は半黒妖狐だ。ここ最近、黒妖狐と赤妖狐の匂いがあの者からする。今から依頼者に会いに行くと言っていた。あの者が危険だ。詳しくは後から話す》

「分かりました。間に合うか分かりませんが……」
 智白は右腕を磨白に伸ばす。


《恩にきる》
 磨白から恭稲白に戻る白は、智白の掌から腕を駆け上がって智白の頭に乗る。


「では、行きますよ」
《嗚呼》
 智白は白の指示のまま、柊子を追いかけた。だが時はすでに遅く、見つけた時には、腹部から血を流した柊子は、うつ伏せに倒れていた。


「……どうしますか? とても残念ですが、今から癒しの力を持つモノを連れてきても手遅れです」
 智白の頭上から飛び降りた白は、右前足を柊子の手の甲に重ねる。それに気がついた柊子は、「……ま、し、ろ?」と呟く。


「ど、う、して?」
「私の大切な子を、守って下さりありがとうございました。心より感謝いたします」
 智白は柊子を安心させるように、穏やかな口調でそう伝えた。


「あぁ、かいぬし、み、つかった、のね。良かった……。コレで、独りぼっち、じゃない。よ、かった……」
 柊子はマリア様のように穏やかな笑みを浮かべ、両瞼を閉じる。


 白は追悼の意を捧げるように、しばし両瞼を閉じた。小雨が振り出し、皆が雨に濡れる。白の瞳から流れる一筋の水滴は、雨なのか涙なのかは、本人にしか分からなかった。



「こっちです! お巡りさん、早く! こっちから女性の悲鳴が」
「智白」
「はい」
 変に誤解されては面倒なことになると、二人はその場から離れ、白の意向で白妖狐の里へ戻るのだった。

 後に、天狐となった白は自身の目的を果たすため、慶を捜索するため、恭稲探偵事務所を開くのだった──。


 祈るように組んだ両手を、悠然と組んでいた足の太股の上に乗せ、長い昔話を終えた白は小さくも微かな息を一つ吐き出してまた口を開く。


「間接的にまとめると、其方の母は私の命の恩人であり、私が救うことが出来なかった唯一の人間だった、ということだ」


「……私に手を差し伸べたのは、やはり償いですか?」
 何とも言えない表情で静かに話を聞いていた慶は、下唇をキュッと噛み締め、視線を幾度かさ迷わせた後、どこか躊躇するようにそう問うた。


「私が、償いで動くと思うのか?」
「……それは、分かりません。被害者意識のようなもので動かれるようなことは、ないとは思いますけど」
 慶は眉をハの字にして俯く。


「この世は未だに、地位や名誉や権力などに振り回されすぎている。なぜ人もあやかしも、ないものばかりに目を向け、不毛な争いを続け続けるのか、幼い頃も今も分かりかねている。
 無いものねだりばかりして、自分が今持っているものや奇跡に目を向けずして、新たなことを得てしても、また、新たなものを手にしたくなる。
 その度に争い、自分に負荷をかけ続けた結果、最後には破滅する。
 だが世界を動かすには、トップの座に君臨せねばならない。それ故に人もあやかしも不毛な争いばかり続けられている。そういった不毛な争いなど、私の座で終わらせたいと常々考えていた。その為には、其方の存在が必要だった」


「! 償いではなく、自身の目的のために私を利用したということですか……?」
 慶は一瞬目を見開き、傷心したように、微かに振るえる声音で問うた。


「悪く言えば、そうなるな」
「そんな……」
 沈痛な表情を浮かべる慶は、右拳を胸に当て視線を床に落とす。
 償いと言われたとしても腹正しくも悲しいが、利用されたという事実はまた違う痛みを伴う。


「其方も命が守られ、求めた真実の鍵は得られ、世界は広がった。ある種、Win-Winであったはずだ」

「……そう、なのかも知れませんが」
 何処か腑に落ちないように不貞腐れる慶に、白は首を竦める。


 白は何も言わず、右手の親指と人差し指をパチンと鳴らした。
 グワン! とした金属音にも似た重低音が辺りに響く。


「⁈」
 慶が肩越しに振り向くと、白壁には例のブラックホールが出来ていた。

「あそこを潜れば、人間界へ降り立つことが出来る。そこで其方を待っている者がいる」

「誰ですか?」
「会えば分かる」
 白は慶に答えを与えることはなかった。


「分かりました」
「嗚呼」
 事務所に刹那の沈黙が流れ、慶が再び口を開く。


「……もう、私が恭稲探偵事務所に訪れることはないんですね」
「嗚呼。此処は閉業するからな」


「……」
「さぁ、もう行け。此処の外で首を長くして待っているモノがいる」
 白は視線をブラックホールに向け、慶に前へ進むことを促した。


「……はい」
 慶は名残惜しそうに頷く。内心では、依頼者で無くなった自分は白の側にいる理由がない。

 依頼契約で繋がれていた白との縁は、契約が終われば切れてしまうということを実感し、寂しく思う。


「恭稲さん」
「なんだ?」

「色々とありがとうございました。恭稲さんのおかげで私は色々なことを学び、色々な経験と体験をしました。その中で私は色々と成長できたと思います。考え方も大きく変わったかと思います。これからは、恭稲さんに教えてもらったことを胸に抱え、自分の人生を歩いていきたいと思います。大木のような強い幹で、柳のようにしなやかな動きで、月のように凛として」


「誰かの言葉を参考にするのも良いが、それに囚われすぎるのは良くない。依存になってしまうからな。自分が思うがままに生きていけ。其方の人生だ」


「はい! ……では、失礼いたします」
 慶はこのままうじうじ虫になっていつまでも居座ってはいけないと、白に背を向けて歩き出す。



「慶」
 白に背を向け恭稲探偵事務所を後にしようとする慶を白が引き止める。

 初めて〈慶〉と呼ばれた慶の胸はどきりと跳ねる。


「な、なんですか?」
 身体全体で振り返る慶の耳は軽く桃色に色づいていた。


「どんなことがその身に起きようとも、自分らしく生きてゆけ。自分の中にある心の中心を大切にすることを忘れなければ、本来の其方で生きてゆける。

 私を含め、人もあやかしも感情を持つ生き物だ。意志がある唯一無二の存在達だ。だからこそ闇を作り出すことも、光を作り出すこともできる。


 私たちは感情と言う意思がある、唯一無二の存在。それは生まれながらにしてだ。

 本来であれば私達は初声を上げた瞬間から、望月のように満ち足りた存在なのだが、環境や他者から受けるもので、自分軸が崩れていく。そこからはもう、自身が持つ望月はかけて行くだけだ。


 大人になって気が付けば、自分が何者かさえも分からなくなる。それはまるで朔のように、そこにあるはずのものが見えなくなる。だが、そこからだ。

 そこから初めて、私達がもう一度再生してゆくのは。大人になったからこそ、己のなりたい己に、己で己を再教育してゆけるのは。


 自分軸で生きられるようになった時、人は再び望月のように生きられるようになる。

 そうなったら他者と自分を肯定し、他者と自分を比べなくなる。自分が心から満ち足りていることで、何かを奪う気もならないだろうからな。

 まずは自分で自分を満たし、望月に戻ることから、穏やかな世界は始まるのかも知れぬな」
 白はそう話し、優しい笑みを口端に浮かべた。


「……私の望月はどうなっていますか?」

「それは私が決めるものではない。答えはいつも自身が握っている。本当の自分の声に耳を傾け続けろ。但し。問うてコンマ数字で返ってきた最初の返答が本質であり、後から追いかけてくる言葉はエゴの声でしかない。エゴの声は生存本能からくるものだが、自分を輝かせるには重荷になる。よくよく気をつけることだ」


「はい」
 慶は真摯な表情で力強く頷く。その表情は何処か満足気だった。

 例え利用されていたのだとしても、白が今まで与えてくれた言葉には、いつも月のような凛とした優しさがあるものだった。

 慶が一人で生きていけるように、強く自分らしく生きていけるように、常に導いてくれていた。

 ただ利用するものだけであったなら、そこまで手をかけないはずだ。そう思うことで、慶の心がほんのりと温かいものとなった。


「ありがとうございました」
 慶は深々頭を下げてお礼を伝え、ブラックホールに足を踏み入れ、恭稲探偵事務所を去るのだった──。