翌日。
 ♪コンコンコン。
 慶の部屋の扉がノックされる。


「はい」
 勉強机にボーと座っていた慶は扉に向き直り、声を出す。


「私です」
「どうぞ」
「失礼します」
 智白は一言断りを入れてから部屋の扉を開け、顔を出す。


「何かありましたか?」
「次の依頼が来ています」
「今ですか? 私に?」
 慶は怪訝な顔で問う。


「えぇ。これが資料となります。目を通して下さい」
「だけど私、今依頼を受けられるような──!」
「精神状態ではないと?」
 智白は慶の言葉を先読みするように言った。


「えっと……まぁ、そうですね」
 慶は気まずそうに視線をそらす。

「何が不安なんですか」
「何がって……」
 慶は右手の指先でそっとチョーカーに触れる。


「では、今から七時間後には心を整えて下さい。本日の深夜二時には 依頼者とコンタクトをとることになっています」
「すでに決まっているんですか?」
「えぇ」
 智白は当たり前だと言うように頷く。


「恭稲さんと依頼者は?」
「白様は今回、依頼者とコンタクトを取っていません。ですが、依頼者の情報は認知しています。のちのサポートもするでしょう」
「まったく一からじゃないですか……」
 慶は不安と不服さが混じるような表情で口を尖らかせ、両肩を落とす。


「そうですね」
「深夜二時ということは、今から七時間後ですよ? どんな依頼か、どんな人かもわからないのに──」
「依頼者の顔と名前はそちらの資料に記載されています。依頼内容については、本日のリモートで確認して下さい」
「依頼者は人間なんですか?」
「どうでしょうね」

「わからないんですか?」
「例え依頼者が人間だとしても、あやかしだとしても、私たちは依頼を受け付けます。それは 赤子であっても大人であっても変わりません。金銭があってもなくても変わりません。それが、恭稲探偵事務所です」
「……すみません」
 浅はかな質問をしてしまったと、慶は自分を恥ずかしく思う。


「理解して下されば良いのです。では、私はこれで」
 智白はそう言って、資料が入ったA4の茶封筒を机の上に置くと、部屋を後にした。いつもと変わらぬ淡々とした姿だ。特別労わるわけでも、特別距離を置くでも近づくわけでもない。ある程度の境界線と関係性は、魅黒のことがあった今でも変わらぬようだ。


「はぁ~」
 一抹の不安を抱える慶は盛大な溜息をつき、資料に手を伸ばす。

「まぁ、リモート対応やし。例え黒妖弧だとしても関係あらへんか」
 慶は自身にそう言い聞かせ、封筒から資料を取り出して目を通す。
 封筒の中には A4用紙が一枚入っていた。
【依頼者 黒柳《くろやなぎ》仁《じん》 男性 四五歳】
 という情報の下に、依頼者の顔写真がある。故意に取った物ではなく、スマホやパソコンから知らぬ間に撮影されたようなものだった。


 首が隠れる長さの漆黒の髪は右に八割、左に二割に分けられたワンレングスでストレートではない。眉下からミックスカールでボリューミーにアレンジされている。
 太めの眉に堀が深く、目鼻だも綺麗に整っており、どこかミステリアスかつ独特の雰囲気を感じさせる男性だった。


「この人も綺麗な顔してはるなぁ」
 慶はどこかズレた感想をボヤく。


「瞳の色は黒目がちやけど、これがほんまもんやとは分からへんもんなぁ。って、こんな差別じみたこと言ってたらあかへん」
 慶は自身の考えを咎めるように、顔を左右に振って考えを振り落とす。


「簡単な依頼であったらええんやけど……」
 白樹のようにデジタル知能に長けているわけでも、智白のごとく多くの智慧や叡智を蓄えているわけでも、白のように推理力等があるわけでもない慶にとって、依頼は荷が重いものだった。

 それでも依頼を断るわけにはいかない。断ったところで殺されるわけではないのだろうが、我儘を言いたくない慶である。
 
 自身で依頼解決が出来るのか、依頼者がどんな依頼を持ち寄って来るのか不安に思いながらも、慶はリモート通話の準備を済ませ、身支度を済ませるのだった。




 深夜二時。
 恭稲探偵事務所、慶と白姫の部屋より。


♪ピロン。
 ノートパソコンから通知音が響く。
 慶は起動させていたノートパソコンからblueskyのアプリを開き、IDとパスワードを入力する。


【ログインが完了いたしました】
 数秒ほど歯車マークがクルクルと回転したあと、画面がマイページに切り替わる。


 ユーザー名 Kei18559452 ユーザーアイコンはアンティークな錆びれた鍵が一つ、アンティーク洋書の上に置かれている写真となっているものだ。


 ゲストからの通話申請許可の確認通知が画面に映し出される。慶は迷うことなく、【はい】をワンクリックした。

 画面がリモート通話に切り替わり、依頼者の男性が映し出される。


 八と二で分けられたワンレングスに、眉下からミックスカールでボリューミーにアレンジされた漆黒の髪。太めの眉に堀が深く、目鼻立ちが綺麗に整っている顔立ちに、どこかミステリアスかつ独特の雰囲気を感じさせる男性だ。資料には四五歳と記載されていたが、もっと若く見える。
 小物のオシャレにも気にかけているのか、右耳にクロスのピアスとロケットネックレスをつけていた。


『こんばんは』
 男性は一度聴いたら忘れられない艶やかな低音ボイスを響かせ、穏やかな笑みを見せる。その声音と笑みに、慶の心がはねる。


「こ、こんばんは」
 意標を取られたKeiは、どもりながら挨拶を返す。驚くほど落ち着いた男性と、しどろもどろになってしまう探偵(仮)は、どちらが依頼者か分かったものではない。
『可愛い探偵さんですね』
 依頼者は穏やかな口調でそう言って微笑む。

 髪色は漆黒からラベンダー色にカラーチェンジされ、アッシュさのあるダークブラウン×イエロー×オレンジがバランスよく配合された向日葵を彷彿とさせる明るさと、ふんわりとしながらもさりげなく輪郭を強調してくれるデザインをしたカラコンで、スぺサルタイトガーネット色の瞳を隠したKeiは、大人メイクを施してはいるが、依頼者から見ればまだまだ幼く感じ、可愛く思えるのかもしれない。


「と、とんでもありません。私の名は、Keiと申します。本日より、黒柳仁様のご依頼は、私が受け持つことになりました。よろしくお願いいたします」
 慶は言葉のギフトを素直に受け取れず、つい否定をしてしまう。


『そんなに謙遜することないのに。僕は黒柳仁です。よろしく。ところで、君が恭稲探偵事務所のオーナーさん?』

「いえ。私は雇われの身のような者です。オーナーである恭稲氏は、主に事件性の高い依頼を承っております」

『修行中の身のようなものなのかな?』
 仁は小首を傾げて尋ねる。その口調は見た目に反し、驚くほどに優しい。


「そう、ですね。頼りないかと思いますが、恭稲氏のサポートも受けながら遂行いたしますので、ご安心頂けますと幸いです」

『そうか。わかったよ』
「ご理解いただき、ありがとうございます」
 Keiはペコリと会釈をして、お礼を言った。


「本日のご依頼はどのようなものでしょうか?」
『探して欲しい人がいるんだ』
「なるほど」
 Keiは一つ頷く。内心では、また捜索系キター! 難しい~。 いや、でもいい感じの情報を持ってはるという可能性も無きにしもあらず。と思っていた。


「どなたをお探しすればよいのでしょうか?」
『……わからない』
「わ、わからないっ⁉」
 思わず取り乱す慶は落ち着きを取り戻すため、コホンと一つ咳払いをさせて、「失礼しました」と謝る。が、内心ではヤバいヤバいと地団太を踏む。


『驚かせてごめんね』
「とんでもありません。こちらこそ、不安にさせてしまうような言動を取ってしまい、すみません」

『君は、優しいね。闇探偵でいさせたくないな』
 そういう黒柳は伏し目がちに呟き、自嘲気味な笑みを溢す。
「……」
 Keiはどう返せばよいか分からず、口つぐんでしまう。


『あぁ、困らせてしまってごめんね。こちらの話だから気にしないで』
「はい。では、依頼のお話に戻らせて頂きますね?」
『うん』
 黒柳は口元に微笑みを絶やさず、コクリと頷く。


「探し人が分からないとは、どういうことなのでしょうか? 記憶喪失とかだったりいたしますか?」
『記憶の欠落は一つもないよ』
「そうでしたか。失礼いたしました」
 Keiは焦るように頭を下げる。


『とんでもない。僕の言い方が分かりづらかったね。ごめんね』

「いえ、早とちりをしてしまったのはこちらの方ですので。お心遣い、感謝いたします」


『君は凄く律儀で丁寧な子だね』
「そうでしょうか? 自分ではよく分かりませんが」


『自分のことは自分でよく分からないものだよ。自らを俯瞰して見て客観的に観察しない限りね』

「そう、かもしれませんね」


『余談が過ぎたね。探し人が分からないと言うのは、あの子が産まれてから一年も傍にいられなかったから、今どこで何をしていて、どういう姿になっているのか、何も分からないんだ』

「では、探し人と言うのは、黒柳仁様のお子様。ということでしょうか?」
『うん』


「えっと、失礼を承知でお聞きさせていただくのですが、お子様のお名前は存じていないのでしょうか?」
 仁の話からすると、一年未満は子供と一緒に過ごしていたことになる。と言うならば、既に子供には名前がついていたはずだ。記憶の欠落は一つもないというのに、我が子の名前が分からないとはどういうことなのか、Keiには理解不能だった。子を誘拐する可能性も浮上し始めたため、Keiは慎重に話を進める。


『うん。分け合って子供の名前は知らないんだ。でも、あの子の母親の名前なら知っているよ。藍《あい》凪《なぎ》弓子《ゆみこ》という女性。僕の事情で、未婚で子を産んでいる。あの子が生きていれば、二十歳になるかならないかくらいだと思う。あの子の名前は分からないが、可能ならその子に会わせて欲しいんだ』


「なるほど。では、藍凪弓子さんのお子様を探し出し、黒樹仁様にその子の居場所をお伝えする。というご依頼内容でよろしいでしょうか?」
 Keiはそう話しながら、ノールックでノートに依頼内容を記してゆく。まずは依頼内容をまとめて、智白か白に相談しようと考えたのだろう。未婚で子を産んだと言うからには、それなりの裏事情があるはずだ。名前が分からない子を探しているというだけで、誘拐犯だとは決めつけられない。


『⁉』
 仁は一瞬目を見開くが、直ぐに平常の顔に戻す。
「黒柳仁様? どうなされましたか?」
『あぁ~。うん。君に一つ質問していいかな?』
 黒柳は少し遠慮気味に問う。


「……私で答えられることであれば」
『その指輪って、誰かからプレゼントされたものなのかな?』
 仁はKeiの右人差し指につけられている二種類のカラー宝石が埋め込まれたゴールドリングを指差す。先程ペンを握ってペン先をノートに当てた時に、リモート画面に映ったのだろう。


「えっと……はい」
 Keiはここで嘘をつく必要性もないだろうと、素直に頷く。


『まぁ、そうだよね。年頃の女性だもん。恋人の一人や二人いてもおかしくないか』
「まぁ、恋人ではないですが」

『じゃぁ、お友達から?』
「お友達というわけでも──」

『じゃぁ、家族とか親戚かな?』
「……ノーコメントで」
 Keiは何故そこまで知りたがるのだろうと、防御本能が働き、それ以上の詮索を拒んだ。


『あぁ~。根掘り葉掘りと聞いてしまってごめんね。ただこういう仕事をしている君は、独りぼっちではないのかな? って心配になってしまったんだ。この年になると色々と考えてしまってね』


「いえ。今はこのようなことを行っておりますが、独りぼっち……というわけではないですので」


『そうか。独りぼっちではないなら良かった。安心したよ。きっと、誰かが君を守ってくれているんだろうね』
 そう言って微笑を浮かべる仁に、Keiは微笑み返す。柔らかな人当りと口調のせいか、なんでも話してしまいそうになる。そんな仁に対し、これ以上の余談は危険だと悟る。

 依頼者と馴れ合うつもりはない。
 いつかの日、白がそう言ったことを思い出す。

 当初は冷たいだの、淡々としすぎていると感じたKeiだったが、依頼を受ける側に立ってみれば考え方は変化する。依頼者と馴れ合い過ぎることで、こちらに危険が及ぶかもしれない不安と恐怖が浮上するだけでなく、こちらの手の内や情報を知られる可能性が増えるのだ。


『さっきの依頼の件なんだけど、まだ変更可能かな?』
「はい。契約書にサインを頂いていないので」
『よかった。じゃぁ、依頼内容を変えさせてもらうね』
「はい。では、どういたしましょう?」
 コクリと頷く慶は新たな文字を記入するため、ノートを一ページ捲って無地のページにさせ、仁の話に耳を傾ける。
『僕が知りたい真実に、よりはやく近づくために、君に会いたい』
「えっと、それは、ご依頼でしょうか?」
 Keiは思わぬ仁の言葉に困惑する。


『うん。【恭稲探偵事務所で働く探偵、Keiに直接会わせて欲しい】これが、僕の依頼』
 仁はニコニコと微笑みながら依頼内容をまとめ、Keiに伝える。


「えっと……特殊なご依頼ですので私だけでは判断できかねます。一度リモート通話を終えさせていただき、こちらから改めて通話リクエストをかけさせていただいてもよろしいでしょうか?」
『もちろん。でも、このままスルーするのだけはやめてね。せめて良いか悪いかだけでも教えてね』
 仁は軽い口調でそう言った。


「もちろんでございます。では、一度失礼いたします」
 Keiは会釈をして、一度リモート通話を終える。仁を映していた画面はKeiのマイページへと戻る。


「ふぅ~」
 慶は長く大きな息を一つ吐く。
「……な、なんで?」
 慶は依頼内容に困惑し続ける。
 兎にも角にも、白に相談せねばと例のピアスで連絡を取ろうと口を開きかける慶だが、すぐに口を閉じる。今は深夜二時二十分。白も依頼者の対応をしている可能性が高い。


「智白さんに相談してみよう」
 白が駄目なら智白だ。とばかりに、慶はスマホ起動パスワード18591008をタップした後、シンプルなホーム画面からトークアプリ【kutou】をタップした。トーク者は良く知る面々が入っていた。上から二番目にいる智白とのトークルームをタップし、パスワードを入力してトーク画面に入った。


[智白さん、今大丈夫ですか?]
[えぇ。どうされましたか?]
 慶のメッセージに対し流れ星の速さで既読マークがつき、返信が届く。
[依頼についてご相談があるのですが]

[難読依頼でしたか?]


[ある種難読と言えば難読かと]

[私と対面で〈恭稲探偵事務所で働く探偵、Keiに直接会わせて欲しい〉というご依頼を頼まれました。どうすればいいか分からず、一度リモート通話を終え、こうして相談している次第であります]


[なるほど。では、そのご依頼を受けて下さい]
「ぇ? なんで?」
 智白のあっさりした承諾に困惑が隠せない。この時期に見知らぬ誰かと対面して話すことは、危険なのではないのか? そもそも、恭稲探偵事務所は対面での対応はしない主義ではなかったのか? という疑念が色々浮かぶ。


[既に白様より、貴方が依頼者と対面することが許可されています]

「ぇ? それこそなんで?」
 慶は小首を傾げる。
 なぜすでに許可が下りているのか。許可が下りているということは、依頼者がそう依頼してくることを予測していたのか。という色々な疑問が慶の脳裏に浮かぶ。


[余計な疑念を抱くなら、直接白様にお聞きなさい]
[本日は、白様への依頼は来ておりませんから]
 慶の心を読むかのように、智白から追記のメッセージが届く。


「そうなんやぁ」
 慶は一つ頷き、[分かりました。ありがとうございました]とだけメッセージを送り、トークアプリを終了させた。


「開」
 kutouのトークアプリを利用していない白との連絡手段は直接会うか、トランシーバーの役割を果たす左側の貼るピアスを利用するかの二択しかない慶は、迷わず後者を選ぶ。

 左耳にぶつ切りの機械音が響いた後、『どうした?』という白の声が、慶の鼓膜へ届く。


「えっと、少しお時間大丈夫でしょうか?」
『嗚呼』

「依頼者と対面で会うことを許可されていると聞いたのですが、何故ですか?」

『対面する必要性があるなら、対面すればいい。私はそこに換喩しない。三年間の監禁は終了した今、自身が──!』
『兄上―!』
 白の言葉を掻き消すように、少年の声が慶の耳に響く。ピアスだけでなく、声が大きすぎ、慶の部屋の中まで響いてくるほどだ。


『来客が入った。話は終わりだ。何かあれば智白に』
「ぇ? だけど、依頼者が──ッ」


『許可と強制を履き違えるな。自分の意志で動け』
 白はそう言うだけ言うと、通信が終了される。

 白の最後の言葉に、碧海聖花としての過去のことが蘇る。
 愛莉が行方不明になった時、白に相談した時に言われた言葉だ。


 ──気になるなら追えばいいだろう? 碧海聖花は私の指示がなければ行動できなくなってしまったのか? 私は自身でも命を守る言動を求め、私の指示に従ってもらうと言ったが、私が指示する以外の言動について縛った覚えはない。もし仮に私が、碧海聖花の友人の命の危機に無視をしろ。と指示を出せば、それに従うのか?


「なんでもかんでも、恭稲さんの許可を取って動いていたら駄目や。自分の人生を、自分の体と心で生きている限り、私が私を生きないと。私は誰かの傀儡やないんやから」
 慶はより自己意志を芽生えさせ、再び依頼者とコンタクトを取るために、リモート通話リクエストをかける。

 リクエストをかけてすぐ相手から許可が下り、画面が切り替わる。
『やぁ』
 穏やかな笑みを浮かべる黒柳仁が画面に映し出された。


「大変お待たせしてしまい、申し訳ありません」
 Keiはぺこりと頭を下げる。


『ううん。連絡ありがとう。それで、どうかな?』
「黒崎仁様のご依頼、お受けいたします」
『本当? 嬉しいなぁ。いつ会える?』
 仁は安堵したように微笑む。


「真夜中の伏見稲荷大社であれば、近日中にでも」
『じゃぁ、明日の深夜二時。伏見稲荷大社の谺ケ池の前。はどうかな?』
 仁はまるでデートを誘うようにそう話す。


「分かりました。ご依頼をまとめさせていただきますと、【恭稲探偵事務所で働く探偵、Keiに、明日の深夜二時、伏見稲荷大社の谺ケ池の前で直接会わせて欲しい】という内容でよろしいでしょうか?」


『うん』
「かしこまりました。では、黒柳仁様。人あらざるモノの手を借りるならば、いくつかの条件があります」


『そういえば、動画にそんなことが書かれていたね。ということは、君も人あらざるモノということ?』
「君も?」
 出来る限り依頼者と馴れ合わないように心がけようとするKeiだが、仁の言葉が引っかかり、どういう意味なのか問うてしまう。

 君“も”ということは、黒柳仁も人あらざるモノの可能性が浮上してくる。瞳の色などカラーコンタクトでどうにでもなる時代だ。

 嗅覚が発達しているKeiでも、リモート画面越しに、あやかしの香りを感じ取られるわけではない。


『ココは人あらざるモノが営む探偵事務所なんだよね?』
「えぇ」
 慶は視線を左下へ下げながら頷く。


『だよね。だとしたらオーナーは人あらざるもののはず。だけど君はココのオーナーじゃないと言った。だとしたら、君が人あらざるモノではない可能性も出てくる。だから“君も”と言ったんだよ。もしかして、僕も人あらざるモノだと思っちゃった?』


「……なるほど」
 Keiは少し間を置き、納得するように頷く。と同時に、また早とちりしてしまったと自分を悔いた。


「私が人あらざるモノかそうでないかは、黒柳仁様の想像にお任せいたします。現在問題なのは、黒柳仁様がこちらの条件を飲むか、飲まないか。ですので」


『そっか。君の言う条件って?』
 Keiは初めて依頼者の人間味を感じ、内心でホッとする。ここで何の条件か聞かずにサクサク受けいらられる方が逆に怖い。


「一つ目。ここへ通じる道――鍵を口外してはなりません」
 慶は例のごとく、人差し指、中指と、指を立ててゆきながら、条件を述べてゆく。


 仁はKeiが全て言い終えるまでのあいだ、時折相槌を打ちながら、静かに耳を傾け続けた。
「二つ目。今回の依頼で経験した事柄や知恵は全て、自分の身へ留めておくこと。


 三つ目。こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらいます。こちらは主に、依頼者の生死に関わる場合に適用されやすいものとなります。


 四つ目。こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、基本的に私はそれに対し、一切の関与はいたしません。真実を手にした依頼者が、闇に落ちるも光へ導かれるも、依頼者自身の問題です。それが、真実を知る者の覚悟と責任。だと私は思っています。

 知りえることになる真実には、生半可な覚悟で受け止められるものじゃないものもあります。

 それに、その先は私自身のタスクではありません。私は依頼者の人生まで背負うつもりはありません。依頼者の人生は依頼者のものです。私が大きく関与することはできません。


 この四つの条件が飲める場合のみ、契約を交わしてもらいます。といっても、はい。と答えた時点で、そちらに拒否権はなくなります」

 契約条件を繰り返し暗記練習していたおかげで、慶は淀みなく説明することが出来た。


「条件を飲みますか? 飲みませんか?」
『了解。条件を飲むよ』

「分かりました。では一度リモートを終え、黒柳仁様のDMに依頼書ファイルデーターを添付いたしますので、そちらにサインをご記入後、私の方へと再添付して送りつけ下さい」

『了解』
「こちらこそ。では、失礼いたします」
 そう言って会釈を返すKeiは、一度リモートを終了させた。



「ふぅ~」
 慶は一仕事を終えたとばかりに盛大に息を吐き、背もたれの椅子に背を預けて天井を仰ぐ。


「智白さんに連絡しないと」
 一息ついた慶は、先程同様kutouのトークアプリにて智白とのトークルームを開き、メッセージを打ち込んでゆく。
[依頼者の依頼を受けることにしました]

[依頼内容については、【恭稲探偵事務所で働く探偵、Keiに、明日の深夜二時、伏見稲荷大社の谺ケ池の前で直接会わせて欲しい】にまとまりました。契約書の方、よろしくお願いいたします]
 智白からの既読はすぐについたが、それに対しての返事はなかった。


 そう言えば来客が来ていたのだった。と思い出す慶は、タイミングが悪かったかと不安を覚えるも、三分立たずして、智白から依頼契約書のファイルデーターが届けられる。


[前回同様、なにも余計なことはせず、このまま依頼者へ送って下さい]
 補足メッセージ付きではあるが、データーが届きほっとする。


「一応確認しておこう」
 依頼者から依頼書について追及されても瞬時に受け答えが出来るよう、慶は予備知識をインプットする。


【黒柳仁様のご依頼は、恭稲探偵事務所が受け付けました。
 ご依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとします。

一 依頼者である黒柳仁様は、恭稲探偵事務所で働く探偵、Keiに、明日の深夜二時、伏見稲荷大社の谺ケ池の前で直接会って対話をする。

 それに伴い、対話時間は十五分以内といたします。また、Keiや恭稲探偵事務所の情報を提示いたしません。
 Keiの付き添いが同席いたします。
 依頼者がKeiと対面した後に、次のご依頼はお受けすることは出来ません。

 また、こちらのご依頼に関する費用は不要といたします。

※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んで下さい。
 それに対する覚悟が整えば、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信して下さい。


 一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう。

 四、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、黒樹仁は承諾いたします。
 
                                    依頼者                 】


「あれ? 条件が一つ減ってる」
 慶は素直に浮かんだ疑問を、メッセージで智白に問う。


[依頼契約書のファイルデーターを確認させてもらったのですが、条件が一つ減っているのは何故ですか?]
[それと、付き添い者は智白さんのことですか?]
 二つに分けて送ったメッセージはすぐに既読マークがつき、すぐに二つ返信が届く。
「スムーズにサインしてもらえるとえぇんやけど」
 慶は一抹の不安を抱え、依頼契約書データーファイルを黒柳仁にDMで送った。瞬時に既読マークがつき、一分ほど後に通話リクエストが届く。


「はい」
 リモート通話リクエストを受けるKeiのパソコン画面がマイページから黒柳仁を映し出す。その表情は変わらず穏やかであった。


『契約書確認したよ。本当に会わせてもらえるだけって感じだね? 一応十五分の時間は設けられてはいるけれど、情報を提示しないってことは、僕の質問には一切答えられないってことだよね?』


「えっと、そうなりますね。黒柳仁様のご依頼は、【恭稲探偵事務所で働く探偵、Keiに、明日の深夜二時、伏見稲荷大社の谺ケ池の前で直接会わせて欲しい】です。依頼されたご依頼内容には、会話したい。や、質問に受け答えして欲しいは含まれておりません」


『あっはは』
 Keiの言葉に仁は短く吹き出す。


『君が元よりそういう性質なのか、それとも誰かに鍛えられたのか、随分と頭が良いね。そうだね。確かに僕は君と会うことだけを依頼した。会えば必然的にある程度普通に話せると思っていたから。でも違ったようだ。僕の考えが甘かったみたい。


〈Keiの付き添いが同席いたします〉についても、確かに二人っきりで会いたいとは依頼しなかったからね。なるほど。

 願い(依頼)はよく言葉を選び、相手にちゃんと伝えないといけないね。勉強になったよ。まぁ、同席に対しては逆に安心したけど。

 可愛い探偵さんを真夜中の神社で、見知らぬ依頼者と一人で会わせるようなオーナーの元にいないようでさ』
 参りました、とでも言うように首を竦めて見せる仁の表情は、穏やかだった。


「えっと……」
 焦りも怒りもしない仁の反応に、Keiのほうが戸惑ってしまう。


『あぁ、ごめんね。すぐに契約書にサインして送り返すよ。届いたDMから送り返したらいいんだよね?』

「それは、そうなんですけど──」
 Keiは依頼契約条件に対しての追及がないことに戸惑い、素直に話を前に進められない。


『あぁ。もしかして〈四、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない〉という条件についての言及がないことに対して、不思議に思っていたりする?』


「えっと……はい。そうですね」
 思っていることを言い当てられ少し動揺する慶は、視線をさ迷わせながら素直に認めた。


『確かに口頭では伝えられていなかったけど、それが恭稲探偵事務所のやり方なら仕方がないでしょ。こちら側はもう引き返すことは出来ないからね。それに、第四の条件が嫌なら、他の条件を飲めばなんの問題もない。でしょ?』

「そ、そうですね」
 そうあっけらかんと話す仁に面を喰らってしまうKeiは、少しどもってしまう。


『じゃぁ、一度リモートを切らせてもらうね。端末これしか持ってなくてさ』

「はい」
 コクリと頷くKeiに微笑む仁は、『じゃぁ、また後ほど』と言ってリモート通話を一度終了させた。

「ふぅ」
 穏やかでどこか飄々としている依頼者に対しまた違った緊張感を感じる慶は、一つ息を吐き出しながら背もたれに背を預けた。


 ほどなくして、黒柳仁からサイン済みの契約書ファイルデーターがDMに送られてきた。補足メッセージはない。

 慶はそれをスマホに保存させ、智白とのトークルームに添付送信する。


[確認いたしました]
[ご苦労様です]
[では、引き続き奮闘なさい]
 とメッセージが届く。


[はい]
 とだけ返信した慶は、再びリモート通話リクエストをかける。

 通話リクエストは瞬時に応えられ、黒柳仁とのリモート通話が再開された。


「契約書サインを確認いたしました。これにて、契約が無事に成立いたしました。黒柳仁様のご依頼は、恭稲探偵事務所のKeiが責任を持って担当させて頂きますので、最後までよろしくお願いいたします」


『はい。こちらこそ。じゃぁ、また明日。えっと、もうリモート通話を終えて大丈夫かな?』
「ぁ、はい」


『うん。じゃぁ、またね』
 仁は軽やかにそう言って、リモート通話を終了させた。

 終始仁のペースに持ってかれた慶は、しばしポカンとした間抜け顔をモニター画面に晒すのだった。


**

 翌日──。

♪コンコンコン。
 深夜一時三十分、慶の部屋の扉がノックされる。


「はい」
「私です」
「どうぞ」
「準備は良いですか?」
 部屋の扉を開けた智白が問う。その姿はいつもとは異なり、ヘーゼルの瞳にふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪型が印象的だ。


「はい。ところで、どうやって外に出るんですか?」
 慶は小首を傾げる。いつもであれば白姫が色々な場所へ連れて行ってくれていたが、現在白姫は不在。


「ついてきなさい。但し、現在来客がいるのでお静かに」
「はい」
 慶は智白の背中について歩く。


 部屋を出ると、柔らかで多い直毛のラフウェイトマッシュヘアーの真ん中から持ってきたような前髪の九割を使って右目を覆うようにワックスで揉み込み、オシャレにセットされた白髪が印象的な来客者が視界に入る。横顔しか分からないが、まだあどけなさの残る美青年だ。なにやら白と話し合っている。


「あぁ! 遂に正体を現しやがったなッ!」
 慶に気が付いた美青年は、少し幼さを感じさせる声を発し、慶を指差す。


「‼」
 矛先がいきなり自分に向いたことと、青年の口の悪さに驚く慶は、ビクリと肩を震わせる。


 青年は青色の変色で発色するバイオレットカラーが美しいタンザナイトを彷彿とさせる瞳で慶を睨み、がるると威嚇する。智白は青年にビクつく慶に、「お気になさらず」と言って、白のディスクから正面に当たる壁に呪符を貼り付ける。


「白雨、行儀が悪いぞ」
「すみません、兄上」
 白雨は白の一言でしゅんと大人しくなる。


「きょ、兄弟⁉」
 慶は度肝を抜かれたように驚く。

「んっだよ! 俺が兄上の弟だったら、文句あんのかよ?」
「ぁ、ありませんっ!」
「白雨」
 白から咎めるように名を呼ばれると、白雨は捨てられた子犬のようにしょんぼりとする。初めまして数秒で威嚇された慶は、小動物のようにビクビク怯えながら智白の傍によった。


「智白」
「はい。今すぐに」
 白は智白に早く出るように促し、智白はそれに答える。白雨と慶が同室にいると、色々と面倒だと思ったのだろう。


「汝、妖と人を繋ぐ橋を渡らせたし」
 智白が壁に右手をかざしてそう呪文を唱えると、白壁にブラックホールが現れる。


「行きますよ」
「行きますよって何処に? ブラックホールですけどッ? 闇で一筋の光もないですけど~ッ⁉」
「人の世界に決まっているでしょう? 飛び込んで下さい」
「飛び込めって言ったって……」
 漆黒の海に飛び込めと言われ、いきなり飛び込めるほどの強心臓や冒険心は持ち合わせていない慶は地団太を踏む。


「んっだよ、チキンじゃねーか」
 その姿を見ていた白雨が呆れたようにヤジを飛ばす。白はそんな弟に世話を焼くように、控えめに首を左右に振る。


「今回だけですよ」
 智白はそう言って慶をお姫様抱っこして、ブラックホールに飛び込んだ。二人を呑み込んだブラックホールは、何事の無かったのかのように白い壁へと戻った。


 恭稲探偵事務所に静けさが戻る。


 その静けさを破るように、白雨が口を開いた。

「何故ですか兄上」
 その声音はどこか悲しげだった。


「あの半黒妖弧がそんなにも大切なんですか?」
 白雨は二人が消えた壁を睨む。


「何故、兄上がアレを守り育てる必要性があるのですか?」
「結んだ契約は果たされるべきだとは思わぬか?」
「濁さないで下さいッ」
 白の返答に白雨はムッとする。


「濁しているつもりはない」
「何故、契約を結んだんですか?」
「その必要性があったからだ」

「──」
 白雨は白のもっと深い所まで読み解こうとするが、それは血の繋がった弟でさえも容易ではない。


「今日の所は帰りますけど、僕達には時間がないことをお忘れにならないようにお願いしますよ」
 これ以上話していても埒が明かないと感じ取った白雨は話を切り上げ、探偵事務所を後にした。


 †


♪トン。
 綺麗な着地音と共に、智白が地面に着地する。


 二人の後ろでは、千本鳥居の手前にある「電通鳥居」の近くにいる赤い布を羽織った向かい合う狐の銅像がいた。手を取り合うことで出来た輪っかが、白く発光している。その輪の中はブラックホールとなっている。今しがた二人が通ってきた道だ。


 普段であれば、二匹の狐が作る輪っかの中へコインを投げ、祈りの場へとするものもいるが、真夜中に至っては、恭稲探偵事務所へ続く扉になっていた。

 人の世界から恭稲探偵事務所へ訪れることも、白妖弧の世界から恭稲探偵事務所へ訪れることもできる。もちろん、その逆も然り。


「さ、立って下さい」
 智白は慶を地に下ろし、一人歩き出す。


「何をしているんですか? 早くついてきなさい」
 戸惑いながら突っ立っている慶を背中越しで感じ取る智白は、首だけで振り向きそう言った。


「は、はいっ」
 慶はいくつかの疑問を吞み込み、慌てて智白の背中について歩くのだった──。

 ほどなくして智白は能鷹社付近にある新池の前で足を止める。

「どうやら、出遅れたようですね」
「ぇ?」
 智白は慶に視線で状況を教える。
 長身の男性と思えるシルエットが、新池の前にあるフェンス柱に右腰を軽く預けていた。


「私はここで待機していますので」
「はい」
 慶はコクリと頷き、ドキドキしながら男性に歩み寄る。


「こんばんは、黒柳仁様でお間違いありませんか?」
 Keiは出来るだけ声が震えぬように心がけながら、男性に声をかける。


「こんばんは。うん」
 男性の一度聴いたら忘れられない艶やかな低音ボイスが辺りに響く。


「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「ううん。僕が早くきていただけだから。だってまだ待ち合わせ時間の十分も前だよ?」
 仁はそう言って腕時計を見せるが、Keiの位置からでは、暗闇で時刻が正確に見えない。


「本当に来てくれていて嬉しいよ」
「お受けしたご依頼は、偽りなく遂行いたします」
「……そっか」
 どこか飄々していた仁が初めて言葉に間を作り、ほんの少し寂しさの滲む微苦笑を浮かべた。


「黒柳仁様?」
「会えて嬉しいよ」
 仁がそう言った瞬間に雲隠れしていた満月が全て姿を現し、二人を照らし出す。


 八と二で分けられたワンレングスに、眉下からミックスカールでボリューミーにアレンジされた漆黒の髪。太めの眉に堀が深く、目鼻立ちが綺麗に整っている顔立ちに、どこかミステリアスかつ独特の雰囲気を感じさせる男性は、リモート画面越しと同じだった。

 ただ、画面越しでは分からなかった全体像は少しばかり印象を変える。


 身長は白よりも数センチ高く、体格もより男性的だった。かといって、魅黒より男性性が溢れだしているわけでも、白のように妖艶でも、白樹のように中性的でもない。


 黒柳仁にしか出せない独特の色香と、穏やかな雰囲気を持ち合わせていた。そして慶が不思議に思うのは、初めて出会ったはずなのに、どこか懐かしさを感じられるところだった。


 ネイビーチェスターコートに黒ニット。黒スラックスに黒のローファー。リモート画面で目に入った右耳にクロスのピアスは着用しているが、ロケットネックレスはつけられていなかった。



「何故、私に会おうと思ったんですか?」
「ん~……秘密」

「秘密ですか」
「うん。だって、君達の情報は得られないのに、僕だけがペラペラと情報を与えるのはフェアじゃないでしょ?」

「そ、そうですね……」
 Keiは眉根を下げて頷く。凛とした態度でいようと思うのに、何故か本性が隠し通せなかった。不器用な仮面でさえ被らせてもらえない人物だ。
「ところで、君の保護者はどこに?」
「あちらで待機しています」
 Keiは上半身だけで振り向き、数歩後ろで待機している智白を手の平の指先で示す。

「隣にはいないんだね」
「はい」
 確かにべったり隣についていないのは不思議に思うものの、Keiは智白には智白の考えがあるのだろうと自己完結する。


「君の隣にいなくても、相手は妖。変なことは出来ないな」
 仁は冗談じみた口調でそう言って、軽く笑う。


「えっと、黒柳仁様は、私に会ってどうしようと思われたのですか?」
 慶は先程の会話からして、答えは与えられぬだろうと思いながらも問うてみる。


「君と直接会う必要性を感じたから。後、君がつけている指輪を直接至近距離で見たかったんだ」
「ぇ?」
 Keiは指輪を守るように、自身の指先を右手で包み込むように隠す。


「ぁ、大丈夫だよ。別にソレを奪おうとか思っていないから」
 左掌を顔の前でヒラヒラと左右に振りながらそう言う仁の言葉に、Keiはホッと安堵する。


「右手で拳を作ってこちらに突き出してくれない?」
「?」
「そうする方が僕がリングを奪いづらいでしょ? その分、君に安心感を与えられると思ったんだけど──駄目かな?」
「あぁ」
 なるほど。と言うようにKeiは小さく頷く。


「えっと、どうぞ」
 Keiは素直に二種類のカラー宝石が埋め込まれたゴールドリングを仁に見せる。


 一つの宝石は、晴れ渡る青空に雲が泳いでいるようなグラデーションが美しい、セレスタイト。

 その左横には、古来から水の結晶と例えられてきた無色透明が美しいクォーツが埋め込まれている。そのカラットは約二mmほどの控え目ではあるが、他の細工や装飾が施されていないシンプルな細いリングということもあり、カラー石の存在感を感じさせていた。
「あぁ。やっぱり天使の石だったか」
「天使の石?」
「君は石のことに詳しくないみたいだね」
 仁の言葉にKeiは苦笑いを浮かべる。


「二月四日の誕生日であるセレスライト。石ラテン語の天国という意味の〈coelestis〉は天使の意志とも言われていて、持ち主に深い癒しを与えてくれる。とても浄化力の高いものだよ。
 石言葉は、〈清浄〉〈博愛〉〈休息〉と言われる聖なる愛を象徴する石。運命的な出会いを招き寄せたり、純粋で深い愛情を持ち主の心に呼び起こしてくれるんだ」


「そうなんですね……。ぇ、じゃぁ、クォーツはどういう石なんですか?」
 Keiは興味深げに問う。まるで、相手が依頼者であると忘れているようだ。


「時折、四月の誕生日石の水晶とクォーツは別物と認識している人もいるけど、どちらも同じものなんだよ。水晶の英名がクォーツだからね。よく言われる〈クリスタル〉は正確には水晶をささないよ」


「ぇ?」
「日本語で〈crystal〉を訳すと、ただの〈結晶〉と言う意味になるんだ。だから正確にはクリスタル=水晶の事ではないし、水晶だけを意味するものではないんだ。クリスタルは古い言葉で〈透明な氷〉を意味していることが由来と言われている」


「そうなんですね」
 Keiは淀みなく話す仁に、関心するように相槌を打つ。


「うん。水晶の石言葉は〈純粋〉〈無垢〉〈完全〉だよ。持ち主の心身共に溜まったマイナスエネルギーを深く浄化し、赤子のようにピュアな状態へと導いてくれる力があるといわれている。その浄化の力は、この世で最も強力だといわれるほどにね」


「そうなんですね。どれも初耳で勉強になります」
「やっぱり、君は彼女と似ているね」
 仁はどこか喜びが混じる微笑みを浮かべる。


「彼女?」
「こちらの話だよ。気にしないで」
「はぁ〜」
 Keiは温顔を浮かべる仁に、間の抜けたような頷きを打つ。

「君にこの指輪を送った人は、よほど君を癒したかったのだろうね。もしくは誰かと誰かの誕生日石を使ったものとかね」


「……そうなんですかね?」
「多分ね。もしくは、私達がずっと側で見守っているからね。という応援の気持ちが込められていたり。贈り物は送り主の気持ちによって変わるからね。……さて、僕はもう行くよ」
「ぇ⁈」


「だって、これ以上話せることはないだろう? 質問には答えは返ってこないし、僕も今は君に僕の話をするつもりはない。そして、僕の目的は果たされた。となれば、長居する必要性はない。それに、君の保護者は時間を測っているだろうしね」


「本当にもういいんですか? 再びのご依頼はお受けさせて頂くことは出来ませんよ?」
 Keiは何も解決していないのではないかと心配になり、再確認する。


「うん。大丈夫だよ。わざわざ確認をとってくれてありがとう。やっぱり君は優しいね。良かった」
「とんでもありません」
 Keiは控えめに首を左右に振った。


「褒め言葉は素直に受け取る方が素敵だよ? 例え、自信がなくともね」

「……努力します」

「うん。褒め言葉は言葉のプレゼントだからね。君も友達に心を込めたプレゼントを贈ったのに、目の前でそのプレゼントをゴミ箱に捨てられちゃったら悲しいでしょう?」

「それは、もちろん」
 Keiは眉根を下げて頷く。


「だよね〜。でもさ、僕らは物質の贈り物は大切に受け取るのに、言葉の贈り物は相手の目の前で『そんなそんな〜』とか謙遜というもので否定して、ゴミ箱に捨ててしまう癖が出来てしまっている。
 日本は特にそういう性質の人が多いね。謙虚さや謙遜は奥ゆかしくて素敵なところもたくさんあるけど、使い所を間違えると、相手と自分を傷つけるものに変化してしまう。お互い気をつけようね」


「……はい」
 Keiは仁の言葉がいい意味で心に刺さりすぎてしまい、間ができてしまう。

「うん。じゃあね。本当に会えて良かった。凄く嬉しかったよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
「ぉ! ちゃんと学習してくれているね。偉い偉い」
 仁は感心した様子で数度頷き、口元を綻ばせる。


「なんだか、からかわれている気分です」

「そんなことないよ。ただ子供扱いぽくなっちゃったね。ごめんごめん。君があまりにも可愛くてさ」

「お口がお上手なんですね」
 あまりにも冗談ぽい口調だったため、Keiは微苦笑を浮かべる。


「冗談じゃなかったんだけどなぁ。まぁ、いいや。……じゃぁ、元気でね」
 前半の明るい口調が嘘のように、後半の口調は悲しみのかげりを感じさせた。だが口元の微笑みは絶やさなかった。


「……黒柳仁様?」
 Keiは仁の変化を心配するように名を呼んだ。


「じゃあ、僕は本当に行くよ。寒いから風邪ひかないようにね。しっかりご飯食べて、これからもちゃんと生きていて。お友達とは仲良くね。保護者の言うことはちゃんと聞いてね。きっと、その保護者は信用出来る人達だろうからさ。じゃぁね……」
 仁は大切な人と旅立ちの別れをするかのような言葉を並べ、Keiに背を向け歩き出した。


 Keiは仁の背中が見えなくなるまで見送った。その瞳は微かに潤んでいる。何故だか分からないが、胸が切なく締め付けられて苦しかったのだ──。



「もう終わったのですか?」
 慶に歩み寄る智白はそう問うた。
「はい」
 と頷き振り向く慶の瞳はもう潤んでいなかった。

「では帰りましょうか?」
「はい」
 慶は元来た道を、智白の背中を追いかけるように戻るのだった。



 少し離れた場所から二人の姿が見えなくなるまで見つめていた仁に、一人の青年が近づく。


「玄音か」
 仁は振り返ることなく、近づいてくる人物を言い当てる。


「えぇ。もうええんですか?」
 切れ長のツリ目に鼻筋が通った高い鼻に血色のいい薄い唇。シャープな輪郭に細身の体型。やや褐色の肌を持ち、一見近寄りがたい美形を持つ青年はそう声をかける。


「うん。ところで、どうだった?」
 仁は肩越しに振り向く。


「恭稲探偵事務所への出入り口は、千本鳥居の手前にある「電通鳥居」の近くにいる狐の銅像が握っているようです」


「狐の銅像?」
「はい。どうやら真夜中にいたっては、向かい合う赤い布を羽織った狐がお互いの手を取り合うことで出来た輪っかが、恭稲探偵事務所へと続く扉になっているようです」
「なるほど。協力、感謝するよ」
 仁は理解したとばかりに、コクリと頷く。


「ええんですか? 今なら楽勝で奪い去れるやないですか。相手は智慧の白妖狐。碧海聖花は例のマスコットを持っていることでしょうから、恭稲白が助けに入ると思いますけど。せやけど、本物ではあらへん。本物やとしても、貴方の方が強いはず」


「君は僕を買い被り過ぎている。彼も戦闘能力に長けているはずだからね。それに、実力行使で奪い去るやり方は嫌いなんだ。いかにも古い黒妖狐の考え方とやり方だからね」
 微苦笑を浮かべる仁に痺れを切らしているかのように、玄音が口を開く。


「……じゃぁ、どうするつもりなんですか? このままずっと、アイツの元にいさすんですか?」

「ん〜……考え中かな」

「そんなマイペースでええんですか? すでに魅黒は動き出していますよ」


「うん。魅黒のことは、もちろん知っているよ。だけどそこで焦っても仕方がないでしょ。僕の僕のやり方があって、僕には僕のタイミングがある」


「じゃぁ、またしばらく様子見ですか?」
「そうだね。ということで帰ろうか」

「はぁ〜。貴方の側にいたら身体が鈍りそうです」
 玄音は嫌気がさしているように、盛大な溜息をつく。両者の性格も先方も全く違っては、そうもなるだろう。


「鈍れば磨き鍛えれば良い。命があれば何度でもなるでしょ?」
「それ、ある種の脅迫ですよ」

「そんな失礼なこと言わないでよ。僕らはある種、Win-Winな関係なはずだよ?」

「まぁ、そうですけど」
「ほらね」
 仁は微笑み、「ということで、今後もよろしくね」と言って、先を歩き出す。


 辟易する玄音は、小さなため息をつき、仁の後をついて歩くのだった──。

***

 翌日──。
 白は恭稲探偵事務所に不在だった。


「パパ~」
 応接室の三人掛けソファに腰掛け、何かを思案していた智白はハッとする。


「白姫? どうしてココへ?」
「パパに会いたかったから、ちょっと帰って来ちゃった」
「なるほど」
「というのは半分嘘で、慶の様子を見に来ただけよ」
「藍凪慶は引き籠もっていますよ」
 智白は慶が隠れている部屋の壁に視線を向ける。


「慶が引き籠っているんじゃなくて、引き籠らせているだけでしょ? たまには外の空気に触れさせてあげれば? 命を守ることはとても大切だけれど、心を生かすことも同じくらい大切なことよ」
「一理ありますけど、今は難しいですね」

「白様がいないから? なんで白様いないの? 白様こそ引き籠りなのに」
「息を吸うようにディスるのはやめなさい。白様は外に出る必要性がないから、ココにいるだけですよ」
「ふーん。で、白様はどこに行ったの?」

「貴方に応える義理はありませんね」
「えぇ~⁉ どうして? 親子じゃない」

「貴方とは親子ではありません」
「ぇ?」
 白姫はグサリと傷ついたように目を見開く。

「そんな顔をしないで頂けますか? 白々しい」
「ほぉ。気づいていたか」
 白姫から発せられているとは考えられないほどの、重苦しい低音ボイスが辺りに響く。


「当たり前です」
「つまらぬな」
 そう呟く白姫が黒い霧に包まれる。その霧が過ぎ去った時には、白姫の姿ではなく、魅黒の姿へと変化していた。


「なぜ、そこまで藍凪慶に執着する必要性があるんですか?」
 智白はさして驚きもせず、冷静に問うた。


「半黒妖狐だからに決まっているだろう」
「本当に、それだけの理由ですか?」
「どういうことだ?」
 魅黒は怪訝な顔で問う。


「貴方方なら、半黒妖狐だとわかればすぐに殺めるはずでしょう? ですが、藍凪慶に至ってはずっと生かし続けている」
「そちらが邪魔をしているからであろう?」

「強行突破することもできるはずですけど? 先日も、やろうと思えばいかようにもやれたはずです。なのに、貴方はそうしなかった。何を考えているんですか?」

「何を考えているのか推測するのは、得意だろう?」
 魅黒は見透かすような冷たい視線を智白に向ける。


「私の推測が合っているとは限りません」
「そうか。ならば、一人で悶々と考えていれば良い」
 魅黒はそう言って、左手で産み出した黒色の球体を壁に投げつける。慶の部屋の扉が姿を現す。


「風」
 魅黒がそう呟くと追い風が吹き荒れ、部屋の扉が開かれる。

 いつもなら部屋の中に慶がいるはずだが、部屋の中はガランとしていた。


「何処に隠した?」
「何故言わなければならないんですか?」
 苛立ちが声音に現れる魅黒への負の感情に揺らされることなく、智白は問い返す。


「答える気がないならいい」
 魅黒は舌打ちを打ち、爪の刃で智白を切り裂いた。血しぶきが吹くのではなく、紙吹雪が魅黒の周りにチラつく。


「チッ!」
 傀儡だと気が付いた魅黒は忌々し気に舌打ちを打つ。


「どいつもこいつも、何処に行きやがったッ」
 歯ぎしり音を鳴らす魅黒は、恭稲探偵事務所をじろりと見回す。


「生身が奪えぬならば……」
 魅黒は白が仕事で使うパソコンを立ち上げた。ファイルデーターを観覧しようとするも、パスワードが求められる。


「月黒《つきぐろ》」
『御意』
 どこからともなく粘りのある低音ボイスが、恭稲探偵事務所に響く。だがその場には、魅黒しかいなかった。

 魅黒の左目から鴉の嘴が飛び出したかと思うと、ゆっくりと大人の鴉が飛び出してくる。その烏の瞳は魅黒と同じ色をしている。魅黒の左目に眼球はなく、風穴が空いていた。

 魅黒の左目から飛び出た鴉は、白のデスクから地面に降り立つ。鴉は足元から黒い霧に包まれ、その霧が晴れた頃には、青年の姿に変化していた。


 アーモンドアイは目の下にクマが目立ち、くすんだマデラシトリン色の瞳はどこを見ているか分らない虚ろさを覚える。
 首を隠す長さのワンレンマッシュレイヤースタイルは重たく、ワックスで毛先を外ハネにセットしている。
 どこか雨にうたれているようなジメジメしたような雰囲気を持つ男性だった。

「月黒、データーを奪え」
「御意」
 月黒は驚く速さでパスワードを読み解き、全てのデーターを自身の目に写す。


「魅黒様、終わりました」
「流石だな」
 魅黒はものの数分で全てのデーターを確認し終える月黒に、労いの言葉をかける。


「ありがたいお言葉、感謝いたします。全て確認いたしましたが、あるファイルだけ中身が改竄されているようです」

「改竄前のデーターは抹消されているのか?」


「恐らく。ただ、このパソコンは外部の端末から操作されているようです。恐らく他の端末も含め、余程の知恵を持つものが、守備しているのかと」
 月黒は冷静な口調で淡々と話す。


「それが誰か分からぬのか?」
「誰かはわかりませんが、端末のある場所は特定出来ました。が、恐らくそれも偽りかと」

「何故だ?」
「ここまで完璧に守護しているものが、位置情報を改竄していないわけがありません」
「なるほどな。罠の可能性が高いというわけか」
 魅黒はそう言いながら慶の部屋に入る。

 入口から一番近い白姫の机を物色するが、机の中身はもぬけの殻だった。


 次に慶の机を物色する。机の上に置かれたノートパソコンなどの端末には目もくれない。端末を確認したとしても、先程と同じ結果になると思っているのだろう。


「!」
 机の引き出しから大学ノートを見つけた魅黒は無遠慮に中身を確認する。


「小島すみれ。クギキョウコ。碧海すみれ──黒柳仁⁈」
 ノートに書かれた名前を読み上げていた魅黒は、仁の名に大きな反応を示す。


「月黒、戻れ」
「御意」
 月黒と呼ばれる青年は魅黒に言われるがまま先程姿を現した場所へと、鴉の姿で戻ってゆく。

 瞳を取り戻した魅黒の左目からは、血の涙が流れていた。

「ただいま~」
「誰もいませんけどね」
 恭稲探偵事務所に帰宅した智白と慶はそんなやり取りをする。


「⁉」
 慶は何かを気づいたのか、焦ったように智白の顔を見る。

「えぇ。やはりきましたね」
 スーツの内ポケットからゴールドフレームの老眼鏡を取り出す智白は、手慣れた手つきでかけ、白のノートパソコンを起動させた。


「貴方も確認を」
「はい」
 慶は智白に見習い、自分が持つ端末を確認するため部屋に戻る。

「!」
 智白は白樹に録画設定行うよう指示していた、パソコンモニターの内側カメラから撮影された映像を、開口一番に確認する。

「!」
 初めて月黒の姿を見る智白は、流石に瞠目した。


「智白さんッ」
「どうしました?」
 録画データーをファイル化させていた智白は、どこか焦ったような声音で自身の名を呼んでくる慶に目を向ける。


「このノート、誰かに見られたようです」
「見せてもらえますか?」
「はい」
 慶は持っていたノートを智白に手渡す。それを受け取った智白はノートの中身を確認した。


「貴方が担当した依頼者の名前と依頼内容。それと、契約内容ですね」
「はい。依頼者に何かあったらどうすれば──」
 自身の情報管理の甘さを悔いる慶は、視線を四方八方にさ迷わせる。


「少しは落ち着きなさい」
 智白は確認したノートを慶に返し、腰を曲げてノートパソコンを操作する。白の座る椅子には座らぬようだ。


「私はどうすればいいですか?」
「どうもしなくて良いです。何かあれば声をかけますので、いつも通り部屋にいてなさい」
「……はい」
 負の感情と自分を責める慶を慰めるよう、智白は慶の頭をポンポンと優しく叩く。まるで娘を見るような眼差しで慶を見つめていたかと思うと、「ハウス」と言った。

 智白に親のような安心と愛情を感じた慶はポカンとする。


「相変わらずの間抜け顔ですね」
「なっ!」
「一人で自分を責め、一人でどうにかしようとすればするほど深みにはまりますよ。貴方の後ろには私達がついていることをお忘れなく」

「……智白さん」
「分かったらどいて下さい。邪魔です」
「わ、分かりましたよ」
 智白の言葉に感動するのも束の間、冷たくあしらわれた慶は拗ねたように自室へと戻って行った。
 慶が自室に戻ったことを確認した智白は、いつものように部屋の扉に結界を張り、白樹に連絡を入れるのだった。

 慶は自信の危機管理能力を改めるため、手帳サイズの薄型日記ノートを机の引き出しから取り出した。

 このノートは自分が感じた反省点や、今の自分が強化すべき点を手短に書き留めているものだった。
 机に置いていた卓上型ペンケースを開け、黒色のボールペンを一つ取り出す。
 ノートについている栞の紐を使い、ページを一瞬で開く。


「ん?」
 栞の紐を挟んでいたページは、まだ何も書いていない無地だったはずだ。だが見開き二ページに渡り、文字が綴られていた。
 その丸みがなく角を感じる走り書きのような文字は、明らかに慶の文字ではない。


「なに、これ? 誰の文字?」
 慶は内容より、まず誰がこのノートに文字を綴ったのかに気がいく。

 智白の文字は、少し神経質さを感じさせる丁寧な文字だし、白姫の文字はコロンとした丸みのある字だ。白の文字は見たことはないが、このような荒い文字を書くとは到底思えない。白樹もまた然り。と言う事は、外部の者の仕業と言うことになる。


「何が書いてあるんやろぉ?」
 慶は誰がいつ書いたかもわからぬ文字を心内で読む。
【慶、良い事を教えてやろう。
 お前の本当の母親の名は〈藍凪弓子〉だ】


「ぇ?」
 唐突に教えられる母親の名。そして、〈弓子〉という名は、黒柳仁からでた名前だ。藍凪という苗字は慶と同じだった。藍凪慶として生きろと言ったのは白だ。白は慶の母親の名を知っていて慶に今の名を与えたのか、そうでないのかという疑問が慶の中に浮かぶ。


【お前が何故、その名を名乗っているかは知らぬが、余の言う言葉に偽りはない。これから書く話もまた然り。お前は、自身がココまで恭稲白に守られていることに疑念は浮かばないのか? 本当に依頼者だからという理由だけだと思っているのか?】


「どういうこと……?」
 慶はサイドの髪で両耳につけている貼るピアスを隠しながら、文字を読み進める。


【恭稲白と藍凪弓子は過去に縁が紡がれている。生前時や死体時も含め、藍凪弓子には常々白妖弧の匂いが強くついていた。余はその白妖弧がナニモノであるか謎であったが、恭稲探偵事務所に襲撃した時にハッキリとした。あの白妖弧は恭稲白で間違いない。この意味が分かるか?
 恭稲白はお前を守っているのではなく、お前を大切に思っていた藍凪弓子の想いを守っているのだ。いわば、償いだ。あの頃の恭稲白はまだ幼くてひ弱であったため、藍凪弓子を守れなかったからな】


「──ッ」
 気持ちがポロリと言葉に出さぬよう、慶は言葉を呑み込んだ。貼るピアスなどを通し、白や智白の耳に届くかもしれないからだ。


(恭稲さんが私の本当のお母さんを知っていたとしたら、なんで関わり合いがあるん? 幼かったってことは、天狐になる前ってことやんな? 恭稲さんは確か──一二〇四歳。それが三年前。

 智白さん曰く、人間年齢×三六年と計算したものが、妖弧達の本来の年齢らしいけど、恭稲さん達は三年前と全然見た目が変わってへん。ということは、素直にプラス三年と考えたら、恭稲さんは現在、一〇一一歳。天狐になれるんが、一〇〇〇歳って智白さんが言ってはったから、約十二年程前のこと。もしくは、それより以前に藍凪弓子さんと何かしらの関係性を持っていたということになる。

──訳が分からへん。ただ唯一分かったことは、このメッセージを残したのは魅黒しかおらんということ)

 脳内で一人語りをしていた慶は静かにノートを閉じる。先程書こうとしていた反省点のことは忘れていた。


 慶の思考は藍凪弓子と恭稲白の関係性のことや、本当に償いで自身が守られているのかという疑念がグルグルと思考が巡る。そこにあるのは、モヤモヤとした何とも言えぬもので、自身では消化しきれぬものであった──。

***


「父上!」
 魅黒は自身の里へ戻り、総長である父親の部屋に押し入る。
 部屋の中は高級旅館の和室のような場所だった。


「なんだ、騒々しい」
 九尾の黒妖弧は圧倒的オーラを放ち、落ち着いた低音ボイスを響かせる。その声は、魅黒よりも低く、制圧性があり、愛情と人間味の欠如を感じる者であった。


「アイツを生かしていたんですか⁈」
「ほぉ。どこでその情報を手に入れた?」
「そんなことはどうでも良いのです! 何故私に何も言って下さらなかったのですか?」
 がぶりを振る魅黒は、どこか子供のように感情を表す。


「言ったところで何になる?」
「何になるって……」
 前のめりになっていた魅黒は、感情と共に半歩引く。


「言ったところで、お前の手で始末するだけだろう?」
「ぁ、当たり前じゃないですか! アイツは黒妖狐の裏切り者ですよ⁉︎ 何故今も生かしているんですか? どんなに生かしていても、アイツは変わりません! ずっと父上に歯向かうだけですよ」
「お前は、ずっと兄を憎むだけだろうな」

「それは父上が……ッ」
「私がなんだ?」
 魅黒の言葉を産まれ落とさぬように、冷徹な視線で魅黒を睨む。
 父の恐ろしさをよく知る魅黒はビクリと肩を震わし、押し黙る。


「話しはそれだけか?」
「……父上は、アイツを後継者にする気ですか?」
「それはアイツ次第だ」
 魅黒は腹正し気に、父親の言葉に奥歯を噛み締める。


「話しが済んだなら下がれ。不毛な話ほど無駄なものはない」
「──ッ」
 魅黒は腹正しさと悔しさを吐き出すことも出来ず、大人しくその場を後にした。


  †


「くっそ!」
 里から人間界に戻ってきた魅黒は、コンクリートの壁を蹴り付ける。
 憤りが外壁に移ったように、壁にヒビが入る。


『これから、どう動かれますか?』
 魅黒の左目に隠れる月黒が問う。


「決まっているだろ? アイツを抹消する。そうすれば晴れて余は時期総長となる」
 魅黒は下卑た笑みを浮かべる。一人でニタリと笑いながら話す姿は側から見ると、可笑しなやつだろう。


『何処にいるかわかっているんですか?』
「いや。だが、誘き寄せることは容易」

『どうするんですか?』
「守里愛梨を利用する」

『碧海夫妻ではなく?』
「嗚呼。守里愛梨は若い分、行動力が高い。碧海響子も騙しやすいが、碧海雅博が冷静な判断を下し、邪魔になるからな」

『なるほど。どうやって動かれますか?』
「そうだな──」
 こうして、魅黒と魅黒の左目に潜む月黒は、作戦会議をするのだった。

 深夜零時。
 伏見稲荷大社の谺ケ池前に、ある一人の女性が立っていた。


 美味しそうなハニーマフィン色に染め上げた髪は胸下辺りまで伸ばされ、ゆるふわにパーマをかけられている。
 小柄かつ童顔で実年齢よりも幼く見られぬように、大人ぽいメイクを施しながらも可愛さを忘れない見た目をした二十代前半の女性、守里愛莉は谺ケ池を覗き込んでいた。


「春香ちゃん曰く、聖花は生きているって話やったけど──騙されたんやろか? って言っても、人を騙すような子とちゃうし、今更聖花が生きている誤情報を流しても、なんの得もあらへんやろうしなぁ」


 愛莉は西条春香に、「このあいだ伏見稲荷大社の谺ケ池を眺めていた聖花先輩に会ったんです。三年間も経っているので、少し姿は変化していましたが、あれは絶対に聖花先輩でした! 聖花先輩は生きていたんですよッ!」と熱弁され、大学後のバイト終わりにココへ訪れてみたわけだが、聖花の姿はなかった。


「……いでよ! 谺ケ池の神よ! 我に碧海聖花がどこにいるか教えてたもれ!」
 愛莉は両手を天に上げ、想いのままに叫ぶ。聖花が生きていて、ココへいた情報を手にしたものの、何処にいるか分からないと意味がない。

 谺ケ池の話を知っていた愛莉は、こうして谺ケ池に問うてみているわけなのだが──。


「──」
 谺ケ池は寒風で波立つだけで、何かを発すことはない。当たり前だ。あくまで迷信なのだから。例えソレが事実だとしたとしても、特別な能力を持たぬ愛莉では、何も感じ取ることは出来ぬだろう。


「ですよね~」
 愛莉は分かっていましたよ。とでも言うように両手をダラリと下げて落胆する。


「うち、なにをやってんねんやろぉ」
 自嘲気味な笑みを浮かべ、あの日からずっとつけているネックレスを左手で包み込むように握った。
 ゴールドの百合の花。花びらの部分はふっくらと浮き上がるように色が塗られ、花びらの中央には小さなスワロフスキーが五つついているネックレス。それは、教師になる夢はもちろん、出来ることならば百合泉乃中高等学園で働きたいと常々言っていた愛莉を思い、聖花が探し選んだ愛莉の誕生日プレゼントだった。

 その後、聖花は愛莉の誕生日に“おめでとう”の言葉さえも言えていない。


「もう帰ろう。こんな時間に、いつまでもこんな所におったら危ないわ」
「そうやな。こんな時間に、こんな所におったら危険すぎるわ」
「ぇ⁉」
 愛莉は背後からかけられる声音にビクリと全身を震わせ、身体全体で勢いよく振り向く。


「……うそ、やろ……っ?」
 愛莉はオバケでも見たかのように、一歩後ずさる。寒風で温かい洋服で包む身体さえ冷え込んでいるのにも関わらず、さらに全身から血の気が失せていくようだ。


 鎖骨下で切り揃えられていた黒髪は胸下辺りまで伸び、まだあどけなさが残っていた顔立ちは大人びている。三年前と雰囲気が変わってはいるが、そのハリと潤いのある少し褐色した健康的な肌や、大きなアーモンド型の目元。濃いオレンジ色に赤黒い血液を混ぜたような瞳は健在だ。


 会いたいと思ってこの地へ訪れたはずなのだが、いざ会うと恐ろしさが込み上げてくる。その者が持つ瞳への恐ろしさではなく、三年前に死んだはずの碧海聖花の姿にだ――。


 恭稲探偵事務所、応接室。

 白が不在の中、恭稲探偵事務所の結界を破り、魅黒が訪れていた。


「また主は不在か。お前らの主は、お前らを捨てたな」
 魅黒は智白を小馬鹿にしたように笑う。


「白様は私達を見放したりしません。貴方とは違います」
 聖花を隠す部屋の扉の壁の前に立つ智白は、右手の指先で五枚の呪符を持っていた。


「そのような紙切れで、余を止められるとでも思うのか?」
「出来る出来ないではありません。出来なければいけないのです」
 嘲笑ってくる魅黒に対し、智白は凛とした声で言う。その瞳に恐れや不安の色はなかった。


「ほぉ~。お前に用はないがやってみろ」
「逐一腹正しいですね」
 忌々しげに呟く智白は、五つの呪符を魅黒に飛ばす。魅黒は避けることもせず、飛ばされた呪符を真正面から受け入れた。

 呪符はまるで魅黒の囲うかのように、前後、左右、頭上に一枚ずつ定着する。


「それで?」
 智白は何も答えず、右手親指と人差し指の指先を塩少々つまむ形にして左首の下に置き、右へ移動させながら開いて最後は閉じた。その指の形のまま勢いよく左へスライドさせ、「汝、我が手中に囚われたし」と唱えて勢いよく両手を叩くと、呪符達は光柱となり、魅黒を囲む。


「小賢しい」
 魅黒は左手の鋭利な爪で呪符を引き裂こうとするが、呪符に跳ね除けられる。光柱の中でかまいたちが動き回るが、魅黒が瞬時に結界で身を守ったため、かすり傷一つ作ることはなかった。

「なるほどな」
 魅黒は智白の出した技に一つ頷く。その表情は至って冷静で、一ミリの焦りも感じられない。


「兄弟揃って代わり映えのしない技を」
 魅黒はどこか興醒めしたように首を竦め、掌を床に向け、黒色の球体を放つ。呪符で出来た光柱に触れぬ黒色の球体は、魅黒を傷つけることなく床に吸い込まれ、光柱の外に姿を現す。


「⁉」
 直径十五センチ程の球体は、直径三センチ程の球体五つに別れる。


「ショット」
 魅黒がそう言った瞬間、五つの球体はビリヤードの球のように智白に向って飛ぶ。智白はその球体を幾度か避けるが、避けた球体達は四方八方に飛び散り、着地した個所からスーパーボールのように飛び跳ね、また智白の元へと向かう。


「しぶとい奴だな」
 魅黒は嫌気がさしたように呟き、「レーゲン」と唱える。

 四方八方に跳ね回っていた五つの球体は、空中で四方八方飛び散って定着した。かと思えば、球体は黒色の雨雲のように恭稲探偵事務所の応接室の天井に広がり、魅黒の頭上以外に雨の兼山ほどの針の雨を降らした。


「‼」
 逃げ場を無くした智白は、頭上から黒色の針の雨が突き刺さる。
 呪符を操るモノがいなくなったことで、魅黒は光柱の檻から解放された。


「やはりな」
 魅黒は漆黒に染まった傀儡人形を踏み潰す。


「ジャーべ」
 魅黒は慶の部屋を隠す壁に右掌を翳してそう唱えると、部屋の扉が姿を現す。

 部屋の扉を蹴り壊して中へ入った魅黒は、部屋に誰もおらぬことを確認すると、「小賢しい奴らだ」と舌打ち交じりに言って、恭稲探偵事務所を後にした。
「智白さん、今愛莉のような声が聞こえた気がするんですが?」

「まさか。何故守里愛莉がこのような時間に、ココへ訪れる必要性があるんですか?」

「それは、分かりませんけど……」
「少しは静かに気配を沈めなさい」
 本殿奥の鳥居前に二体いるお稲荷様の銅像。その銅像の左側。巻物を咥えるお稲荷様の背後で気配を潜めていた智白と慶はコソコソと話す。辺りに結界を貼ってはいるが、魅黒の手にかかれば結界を破ることは容易いだろう。


「気配の沈め方が分かりません」
「……瞑想なさい」
 智白は世話が焼けると言う風に一瞬無言になり、適切なアドバイスをおくる。


「なるほどです」
 アドバイスに納得する慶は瞑想を試みるが、どんどん眉間に皺が寄る。気配を押し殺すどころか、どんどん負の波動を出し始める。


「もう止めなさい。貴方に瞑想も気配を殺すのも早かったようです。息を潜めるだけで結構です」
 智白は呆れ口調で言いながら、結界の力を強める。


「はい」
 慣れない瞑想から解放された慶はホッとした表情で頷く。


「「──」」
 その後、二人は何も言葉を発すことなく、ただ時間が過ぎ去ることを待つのだった。

 二人がこのような場所で息を潜めているのには理由がある。


 本日の早朝四時。
 白のblueskyのアカウントのDMに一件のメッセージが届いた。正確に言えば、白樹がブロックしたメッセージを智白に見せたのだが。


 内容はこうだ。

【本日、深夜一時を過ぎた頃。
 世界一可愛くて憎き姪を迎えに行く】

 明らかに魅黒が送ったと思われるものだった。
 ただ、ソレが嘘か偽りか定かではない智白は、恭稲探偵事務所の外で身を隠すことにした。
 今は白が里に戻っており不在だ。白雨も同じく白妖弧の里にいる。白姫と白凪も不在の今、戦闘になってしまえば一ミリの勝ち目もない。唯一の救いは、昨日の早朝に、近々白が戻るという連絡が入っていたことだった。


「このような所に隠れていたか」
 その場が鉛のように重くなるような重低音の声音が辺りに響く。


「ッ」
「⁉」
 智白と慶は息を飲む。


「ジャーべ」
 智慧のお稲荷様に左掌を翳した魅黒がそう唱えると、あっさり結界が解ける。だがそこに智白と慶の姿はなかった。


「逃げ足の速いことだ」
 刹那までそこにいたはずの智白と慶は、智慧のお稲荷様から恭稲探偵事務所へ戻ったのだ。


「なに、これ……」
 慶はゾクリと背筋を凍らす。魅黒が降らせた黒色の雨の針が、事務所の至る所に突き刺さっていたからだ。


 智白はどうすれば得策なのかを考える。

 このままここにいても、魅黒は再びやってくる。同じように智慧のお稲荷様からワープしてくるか、正面出入り口からくるか、第三の方法でやってくるかは分からない。ただ分かることは、このまま事務所の中にいては危険だということ。逃げ場が少なすぎる。


「行きますよ」
 智白は左手で慶の二の腕を掴み、恭稲探偵事務所の白壁に右手をかざし、「汝、妖と人を繋ぐ橋を渡らせたし」と呪文を唱える。刹那で出来るブラックホールにぐずりそうな慶の二の腕を掴んだまま、飛び込んだ。二人を呑み込んだブラックホールは、何事もなかったかのように白い壁へ戻る。 


 電通鳥居の近くにいる赤い布を羽織った向かい合う狐達が作る輪を通り、人間界に降り立った二人は地上に着地する。


「遅かったな」
 五歩ほど歩いた所で、魅黒がスッと二人の目の前に現れる。

 腕を組んで仁王立ちする魅黒は、高圧的な声音と口調で言った。智白は思わず舌打ちを打ち、慶を庇うように自身の背中に隠す。


「お前に用はない。どけ」
「はいそうですか、と下がるものはいないと思いますけどね」
「なら、いい。碧海聖花──いや、藍凪慶と呼ぶべきか? 育ての親や大切な友を捨て騙し、過去の己を殺したのだからな」
「!」
 慶は魅黒の言葉に一瞬目を見開き、苦悩に顔を歪める。


「私達は目先の利益しか見ていない貴方方とは違うんです」
「先に見据える利益のために、大切な友を命の危機に晒すのか?」
「⁉」
「?」
 慶は慌てて顔を上げ、智白は怪訝な顔で魅黒を見据える。


「慶、良いモノを見せてやろう」
 魅黒は自身の腹部の前で左掌を天に向ける。


「オンブル」
 と唱えると、掌から光柱が立ち、その光柱は扇状に開き、空中にプロジェクターのように光る。ほどなくして、伏見稲荷大社の谺ケ池前で愛莉と月黒が対峙する映像が映る。


「……愛莉?」
 慶は智白の背後から顔を出し、目を凝らす。


「あぁ、そうだ。こいつにお前が生きていることを伝えたら、見事に余の思うままに動いてくれたわ」
「騙したんですかッ?」
「心外だな。騙しているのはそちらだろう? 慶。お前は友を騙している。我は正直にお前が生きていることを教えただけだ」
「教えたとは、何処までのことを?」
 二人の会話に、智白が割って入る。慶が半黒妖弧であったことまで伝えられていては、色々面倒なことになる。


「余はお前と話してはいない。邪魔をするな」
 掌を床に向けて黒色の球体を放つ。黒色の球体は地面に吸い込まれた。


「?」
「下がって」
 智白はおとぼけ顔を晒す慶を左腕で押しながら、自身も後ろに下がる。
 地上に姿を現した直径十五センチ程の球体は、直径三センチ程の球体五つに別れる。


「ショット」
 魅黒がそう唱えた瞬間、五つの球体はビリヤードの球のように智白に向って飛ぶ。


「私から離れなさい」
「ぇ?」
 智白は球体を器用に避けながら慶に指示を出す。慶は訳が分からぬまま、智白から距離を置く。智白を手助けしようにもどうすればいいか分からない。自分が変に手を出して、智白の邪魔になることを恐れていた。


「鬱陶しいですね」
 球体を避け続けながら、スーツの内ポケットから五つの呪符を取り出し、球体一つに一枚貼り付けるように飛ばし、「玉響」と唱える。球体はピタリと動きを止めた。


「凄い」
 慶は口元に笑みを浮かばせる。

「それで食い止めたつもりか?」
 球体が一時停止したのはほんの一瞬で、ビリビリと振動しだす。智白はそれを見越していたのか、守護札を自身の前後左右、上下に一枚ずつ空中で定着させた。恭稲探偵事務所の被害を目の当たりにしていた智白に抜かりはない。

「ほぉ」
 自らの力で呪符を跳ね返した球体達は、一斉に智白に向かう──が、守護札で出来た光柱によって跳ね除けられた。球体達は四方八方に飛び交う。

 自らの元に飛んでくる球体を軽やかに避ける魅黒に、突っ立っているだけの慶は例のブローチの守護によって守られる。

 慶自ら避けるなり、刀で切るなり出来たりも出来たのだが、何も手を出さないことが智白との約束だった。
 刀で球体を切って新たな技が発動するかも知れないし、球体から毒薬が飛び散ることも往々にしてありえる。ならば、何もせずアイテムに守護させるほうが得策だと考えたのだ。


「本当に小賢しい奴らだな。守護ばかりしていては、何も奪えないぞ」

「奪うことでしか何も得られない貴方方には、なりたくありませんからね」

「余はそんな小綺麗なことばかりを並べる偽善者共にはなりたくはない。この世は、奪うことでしか得られぬものが往々にしてあるのだからな」


「得たいモノを得るために、何をしてもいいと?」
「あぁ、そうだ。ほら、見て見ろ慶」
 魅黒は黒色の球体をワルツダンスでもするかのように避けながら、先程の映像の続きを慶に見せる。


『可哀想にな。友はもう少し選ぶがいいぞ』
『⁉』
 哀愁を漂わせそう言った月黒は地を蹴り上げ、愛莉に漆黒の爪の刃を向けて走る。


「愛梨!」
 慶はホノグラムの映像に向かって叫ぶ。


『残念無念また来世』
 慶がよく知る声が響くと共に、薙刀を左斜め上に振る白姫が愛梨の前に立つ。その姿は、大学生の姿ではなく、白姫本来の姿であった。


「またこの小娘か」
 いらぬ邪魔が入った魅黒は、忌々しそうに小さな息を吐く。


「白姫ッ」
 慶は白姫がこの場にいることへの驚きと、ひとまずは愛莉が助かったことに安堵した。


『またお前か』
 月黒は白姫を見るなり忌々し気に舌打ちを打つ。


『またって、私は貴方と会った覚えはないわ』
『二度も私の大切な爪を切り跳ね飛ばしておいて、酷い言い草だな』

『二度って……』
『忘れているのならば、思い出させてやろう』
 月黒は右手で指を一つ鳴らす。

『ひっ!』
 とにかく逃げなければ、と伏見稲荷大社の出入り口に向って走り出そうとしていた愛莉は、小さな悲鳴を上げる。愛莉の声に慌てた白姫が肩越しに振り向く。全身で振り返らないのは、月黒に背後を取らせないためだろう。


『まさかッ! 生きていたの⁉』
 愛莉を右腕に抱くように身動きを奪っている男性の姿に、白姫は瞠目する。


 ニュアンスマッシュかつウルフヘアーにカットされた毛先は紅赤色に色づき、前髪は重すぎて目元が良く見えない。黒縁眼鏡をかけており、鼻筋は高い。黒いワイシャツとスラックスにはシワ一つなく、潔癖さを感じさせる男性──三年前に碧海聖花と碧海夫妻に危害を加えようとしていた例の鴉男だ。


「⁉」
「あの人!」
 これには、智白も慶も目を見開き驚く。特に智白に至っては、鴉男は主に抹消されたのだろうと予測していただけに驚きも大きい。


『ぁ、悪夢や……。これはうちが見ている悪夢や』
 愛莉は次から次へと襲い掛かる危険に現実逃避を始める。


『生きていたかと問われれば、生きてはいない』
『どういうこと?』
 白姫は怪訝な顔で問う。


『アレは吾輩の生まれ変わる前の姿。赤妖弧だったときの吾輩の姿だ』
『貴方は黒妖弧でしょ?』
『とも言えるな』
『とも言える?』
 意味不明だとばかりに、白姫の表情が険しくなる。


『主の駒として任務遂行を完璧に行なえなかった吾輩を、魅黒様はチャンスを与えて下さった』
『まさかっ。あの男は失敗したものにチャンスなんて与えるはずがないわッ』
 白姫はありえないと、頭ごなしに月黒の話を否定する。


『嘘ではない。吾輩は主の手により、生まれ変わったのだ。私は現在、赤妖狐でも黒妖狐でもない。主の左目としてな』

『そんなこと……ありえない』
『ありえないことを、ありえるようになさるのが吾輩の主。主の命令は絶対。主の喜びは、吾輩の喜び。主の怒りは、吾輩の怒り。主の望みは、吾輩の望み。吾輩は主の望みを叶えるためならば、手段を選ばぬ。藍凪慶、聞いているか? お前がここへ来ぬのならば、守里愛梨の命はないぞ』
 月黒は慶を脅すようにそういうと、右指をパチンと鳴らす。

 烏男は愛梨に鋭利な爪の刃を突き立てる。

 これは予想していなかった白姫は、何か得策はないだろうかと、下唇を噛み締めながら思案する。


「さぁ、どうする慶。このまま大切な友と仲間を見捨てるのか?」
 弄ぶような笑みを口端に浮かばせる魅黒を、慶はギロリと睨む。その瞳に慶特有の穏やかで優しい色は感じない。
「ほぉ。良い目をするではないか」
「藍凪慶! 落ち着きなさいッ」
 このままでは再び覚醒しかねると、智白は慶を落ち着かせる。


「私は落ち着いているし、ちゃんと意識はありますッ。あるからこそ……ッ」
 と、慶は地を蹴って走り出す。もちろん向かうべき場所は、愛梨達の元だ。


「待ちなさいッ!」
 智白は慌てて慶の後をついて行こうとするが、「パパ! 助けてッ」と言う白姫の声に反応して後ろを振り向いてしまう。それはもう、ほとんどが無意識だった。


「⁉︎」
 智白が振り向いたと同時に、傷だらけで血を流す白姫が投げ飛ばされる。避けることは容易であったが、智白はつい手を出し白姫を受け止めてしまう。


 智白に出来た隙を見逃さない魅黒は、人差し指と中指を揃え智白に向け「ウラガン」と、呪文を唱える。すると爆風が智白と白姫を吹き飛ばす。 


 四方に身体を受け止める壁や木々がなかったため、智白は吹き飛ばされながら左手の平を地面に向け、「繋鎖」と呪文を唱える。

 智白の左手の平からジャラジャラ飛び出した二本の白鎖が地面に埋め込まれる。


「くっ」
 智白は白鎖の一つを命綱の如く握り、空中に浮いている身体を地に足つける。同じく飛ばされた白姫はすでに傀儡の紙に変化していた。

 意識が呪符から鎖に向かったことを見逃さなかった黒色の球体達が一斉に智白へ向かう。


「白蜘蛛針」
 智白は二本の鎖を握りながら球体達を幾度か避けるも、七時の方角からくる球体を避け切れず、左腕に球体を受けてしまった。
「愛梨、白姫!」
 体格差のある鴉男と薙刀を駆使して闘っていた白姫は、「慶ッ!」と声を上げる。


「遅い!」
 慶を待っていた月黒は慶と対峙する。
 白姫は慌てて慶の元へ行こうとするも、「お前の相手は吾輩ではないのか?」と、背後から重苦し声がかけられる。


「やめてッ!」
 慶は悲鳴のように叫ぶ。

「卑怯よ!」
 肩越しで振り返る白姫は、あと数ミリで愛梨の首の皮が切れる距離でピタリと爪を止めていた鴉男を睨む。


「その子にも、慶にも、傷一つつかせないわ」
 薙刀を握り直す白姫は、愛莉を助けることが先決だと、鴉男に対峙する。慶は恭稲探偵事務所のアイテムによって守られているが、愛梨は人を守るものは何一つ持っていないのだ。

 月黒は直径二十センチの黒球体を慶に放つが、慶は例のブローチによって守られる。


「だろうな」
 月黒はこうなることが分かっていたかのように呟くと、黒球体を慶に向かって乱射する。


 愛梨を助けたいが、自分が近づくことで逆に愛梨を危険な目に合わせると悟った慶は、凛とした顔つきでネックレスを刀に変化させ、愛梨から距離を取る。乱射される球体が愛莉に当たっては大変だ。


 月黒は左掌を慶に向け、「ウラガン」と唱える。その瞬間、黒色の爆風が吹き荒れた。

 慶を守護するブローチは爆風で吹き飛び、刀で風を避けようとする慶も吹き飛ばされる。


「慶ッ!」
 白姫の意識が慶に向いたことを見逃さなかった鴉男は、黒色と赤色を混ぜたようなマーブルカラーの球体を白姫に向って飛ばす。


「!」
 白姫は薙刀で身を庇うように球体を受けとめるが、その勢いのままに身体が後ろに下がる。薙刀で振り払うことも可能であったが、愛莉に危害が加わる可能性がある。

 身体を宙に浮かし、球体を後ろへ流すことも可能であるが、その場合、慶に危害が加わる可能性が出てくる。皆を守ろうとするが故に、白姫は受け止めることしか考えられなかった。


「白姫」
 よく知る声が白姫の鼓膜に響く。

「遅い!」
 嬉しそうな口調で悪態をつく白姫は、薙刀を棒高跳びの棒のように使い、血についていた両足を天に向かせる。
 球体を止めていた薙刀ごと更に半回転、一回転して、少し離れた場所で綺麗に着地した。留めるものがなくなった球体は、速いスピードで直線に進む。球体は慶に当たることなく、白色の球体に飲まれ、水たまりが跳ねるように弾ける。

 飛ばされたはずの慶は、智白の右腕の中にいた。


「間に合って何よりです」
「智白さん……怪我ッ」
「嗚呼、これは故意なのでお気になさらず」
「故意?」
「えぇ」
 智白は小さく頷き、慶の両足を地に下ろす。
 先程の魅黒との戦いでのことだ。

 †



「白蜘蛛針」
 智白は二本の鎖を握りながら球体達を幾度か避けるも、七時の方角からくる球体を避け切れず、左腕に球体を受けてしまった。


「無様だな」
 智白は冷笑する魅黒に対し、「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」と、口端に弧を描く。


 地の中に潜っていたチェーンはいつのまにか天にまで貫き、白い蜘蛛の巣が雨のように魅黒の頭上に降りかかる。それを避ける魅黒であるが、蜘蛛の巣が一本でも服や身体癒着したが最後、身動きがとられないほどに絡めとられる。それはまるで、蜘蛛の巣に張り付いて動けなくなったクロアゲハ蝶のように。


「貫《かん》」
 智白がそう唱えた瞬間、まだ頭上にいたチェーンの先端部分が太い針となり、魅黒の背後を一突きする。貫かれた針からは血が流れることはなく、智白の予想通り、いくつかの藁が宙に飛び散るだけだった。

 針に刺さっているのは魅黒ではなく、傀儡人形。智白はそれを予測していたため、左腕をおとりとして使い、この場に決着をつけたのだ。


「どちらが小賢しいんでしょうね」
 舌打ち交じりに呟きながら右掌を勢いよく引っ張る智白は、出した技を手中に戻し、谺ケ池に向かうのだった――。


**

「それ以上無駄な動きをするな。お前は吾輩にやられればいい。さすれば、守里愛莉の命だけは助けてやろう」


「なに思ってもないことを言っているのよ。どうせ皆殺しにする気なんでしょう? 貴方達の言葉なんて、何一つ信じられないわ」

 愛梨を盾に脅す鴉男に屈しない白姫だが、良い策はなに一つとしてない。呪符で助けることも可能だが、一ミリでも動けば、鴉男の爪が顔面蒼白した愛梨の首を貫きかねない。


「愛梨ッ! 白姫ッ!」
「白蜘蛛の巣」
 焦って二人の元に飛び出そうとする慶の左腕を右腕で掴む智白は、先程同様の技を繰り出す。


「芸がない男だな」
 興醒めしたような声が辺りに響き、智白の手の平から出ている白色のチェーンが三日月のような黒い刃に切り落とされる。


「⁉︎」
 智白は瞠目し、慶は一瞬目を見開き、苦痛に顔を歪める。


「私に関わらへんかったら、みんなが危ない目に合うことあらへんのに」
「ぇ?」
 智白は慶の異変を感じるも、邪魔が入って、まともに話が出来なかった。


「セカンドショット」
 その言葉と共に、直径三十センチ程の黒球体が二人の元に飛ばされる。

 智白はブローチを失った慶をかすり傷一つ合さぬように守るため、慶を右腕の力だけで抱え、飛びのいた。だが黒球体は何処までも二人を追ってくる。


「慶! ソレはお前だけを狙っているぞ」
 魅黒の声音が辺りに響く。


「!」
 慶はハッとしたように目を見開くと、智白の腹部を思いっきり蹴り上げ、腕の中からとびぬける。ふらつきながら着地した慶に、黒球体は勢いよく向かう。慶は慌てて体制を立て直し、飛び跳ねるように逃げ回った。


 智白が慶に向って守護の札を飛ばすが、月黒の爪の刃によって切り裂かれてしまう。

 万事休すかと思われたが、慶の手首から最後の切り札が強く発光し、弾け飛ぶように離れる。


 白狐マスコットが空中へ飛んだ刹那、恭稲白の姿へと変わる。白は慶を俵担ぎして、かろやかに黒球体と距離を取った。慶を背後に隠し、黒球体に向って左掌を突き出す。


「冬風《とうふう》」
 と呪文を唱えると、白の掌から冷たい風が勢いよく吹き付け、黒球体を吹き飛ばす。それに対し魅黒はなんの反撃もせず、鴉男に顎で指示を出す。


「白姫」
 白は白姫に視線で指示を出す。

 主の指示を的確に読み取った両者は、それぞれの行動に出る。


 自身の元へ向かってくる黒球体に愛莉を投げ飛ばした鴉男は鴉に姿を変え、魅黒の元へ飛んでゆく。白姫は飛ばされる愛莉を横から奪い去るように抱き留め、着地しようとする。だが隙が出来る白姫を見逃さない月黒が、白姫を狙いにかかる。

 慶が助けに入ろうと飛び出そうとするのを白が止める。


「!」
 白姫の左横に黒い物体が勢いよく横切ったかと思うと、月黒の爪が切り刻まれて宙にばら撒かれる。


「お前の相手は俺や」
「お前ッ⁉」
 月黒は目の前に現れた男に瞠目し、白は口元に弧を描く。

 無事に着地した白姫は勢いよく後ろに振り向き、状況を確認する。
 そこには、切れ長のツリ目に鼻筋が通った高い鼻。血色のいい薄い唇。シャープな輪郭に細身の体型。やや褐色の肌。一見近寄りがたい美しさを黒色のナチュラルスーツが上乗せさせている二十代前半程の青年が、月黒と対峙していた。


「ど、どうして……」
 過去よく見知った青年に、白姫は一驚する。
「く、黒崎玄音⁉」
 慶はありえないモノの登場に愕然とする。


「智の女。さっさと恭稲の元へ行け。邪魔や」
「なっ!」
 白姫は失礼な言い草にムッとするが、腕の中で今にも失神しそうな愛莉に気づき、ひとまず安全圏に移動する。


「玄音―ッ‼」
 月黒は憎悪と共に玄音に向い、一定距離で渾身の回し蹴りをする。が、玄音は左掌で月黒の右足を受けとめた。


「ええやんええやん」
 玄音は戦いを楽しむかのように、舌なめずりをした。 


「お前、野垂れ死んだんじゃなかったのか? 何故、魅黒様を裏切るッ⁉」
 月黒は左拳を玄音の左頬に向えるが、玄音の左掌が月黒の拳を包むように受け止める。


「野垂れ死にかけたんはお前も同じやろ?」
「何故白妖弧側についている?」

「お互い救われたモノの考え方と目的が違ったからやろーな」
「魅黒様を本当に裏切るのか?」

「あぁ。俺は俺を裏切らん生き方をえらんどる。その為に元主を裏切ることになっても気にせん。今さら戻ったとしても、殺されるだけやッ」
 玄音は月黒に頭突きを喰らわせる。


「ぐっ!」
 月黒は苦痛に呻き声を上げながら、左足を玄音の腹部を壁にするように押し蹴り、相手と距離を取る。


「今のお前の主は誰だ?」
「そらまだ言われへんわ~」
 相手から繰り出される手足をいなしたり受けとめたり、反撃したりと、月黒と玄音は呪符も技も使わず、己の身体のみを使って戦う。

 そんな二人を横目でサラリと流し見た魅黒は、さも興味なさげに自身のことに飛んできた鴉を右腕に止める。


「ムーン、いい子だ」
 魅黒は左指で鴉の喉元を撫でてやる。



「パパ!」
 白姫は自身の一番近くにいた智白に駆け寄る。

「その怪我、大丈夫? もう歳?」
「貴方は……。心配するのかディスるのかどっちなんですか」
 智白は娘の言い草に溜息交じりに言って、首を竦める。

「ぁ、あの~」
 白姫に俵担ぎされていた愛莉は控えめに声を上げる。その顔色は悪く、うっぷうっぷと吐き気をとどめている。

「ぁ。ごめんっ」
 白姫は慌てて愛莉を地に下ろす。愛莉は一瞬地に足をつけるが、腰が抜けたかのようにへたりとその場へしゃがみ込んでしまった。


「ちょっ、大丈夫?」
 白姫は慌てて片膝を折り、愛莉の顔を心配そうに覗き込む。

 智白は二人を背に隠すように立つ。いつ何が飛んでくるのかわかったものではない。白と魅黒はお互い不敵な笑みを浮かべながら対峙していた。


「愛梨! 白姫ッ!」
 慶は慌てて二人の元に駆け寄った。

「慶」
 白姫は見知った慶の姿にホッと安堵する。

「慶?」
 青白い顔で慶を見上げる愛梨の顔は険しい。
 慶は愛梨の正面で片膝をつき、「お怪我はありませんか?」と問うた。他人行儀ではあるが、今はこうするしかない。


「……あんた、聖花か?」
「ぇ?」
 慶は目を見開き、顔だけ後ずさる。


「ち、違いますよ。私の名前は、藍凪慶です」
 どもりながら嘘を付く慶は、視線を時計回りに回転させながら俯いた。


「……嘘や。うちには分かる。服装も髪型もちゃうけど、あんた慶やろ? 声で分かる。それに癖が変わってへん。可笑しな嘘つきなや」

「癖?」
 白姫はどういう意味かを問うように呟く。


「慶は嘘がバレたり、分が悪くなるような指摘をされると、目を見開いて首を竦めるような、顔を後ろに引っ込めるような仕草をするんです。それに、嘘を付くときは罪悪感と後ろめたさから、言葉はどもり、視線が右から下に泳いで、最後は俯いて黙り込んでしまうんです。全て、さっきの行動に現れてる」

「すっごい洞察力」
 白姫は強く感心したように息を吐く。


「ち、違います。私は慶です」

「──分かった。慶、うちの勘違いやったみたいや。ごめんやで。碧海聖花は三年前に亡くなってるんやった。亡くなってる人間がこないなところにおるわけあらへんな。しかも、人間とは思えん人達に囲まれているし。きっと、これはうちの夢やな。夢やったら──」
 愛莉はそう言って両腕を広げる。


「……愛莉」
 全ての意図を汲み取った慶は、愛莉の腕の中に飛び込む。涙を滲ませる愛莉は、慶をそっと抱きしめた。心友がついた嘘も状況も、丸ごと受け止めるように。


「慶……」
 二人の様子を見ていた白姫は瞳を潤ませ、下唇を噛み締めた。

 白姫は何かを決心したように立ち上がり、智白の左隣に立つ。


「これからどうするのパパ」
「その采配は、白様が握っているでしょう」

「白様は何を考えておいでなの? 今は里にいるんでしょう?」
「帰って来るようですけど」

「後継者問題が大変なのに?」
「白様には白様の考えがあり、白様には白様の目的があります」


「慶?」
 愛莉は慶の不審な動きに目を細めるも、慶の人差し指を唇に当てられ、それ以上は介入しなかった。藍凪慶が碧海聖花であると気づいたいま、慶への信頼は大きい。
 愛莉は慶がどう行動するのか詮索することもなく、ただことの様子を見守った。

「!」
 スーツの内ポケットから拳銃を取り出した慶に瞠目する愛莉だが、慶にゆっくりと頷かれ、引き続き見守ることに徹した。


「白様の考えってなんなの? それに、白様の目的ってなに? 天狐になってすぐ人間界に戻ったことに関係あるの?」

「私の口からは応えられません」

「何よそれ。いっつもいっつも二人だけの中で話を進めてばっかりじゃない。ちょっとは私達の気持ちも考え──!」
 拳銃の音と共に、白姫がうつ伏せで倒れ込む。智白は慌てて白姫を受け止め、勢いよく後ろを振り向く。


「貴方ッ」
 智白は拳銃を握ったままの慶を見て瞠目する。


「ごめんなさい。だけど、これ以上白姫を危ない目に合わせたくない」

「……慶?」
 愛莉は白姫の安否と心友が殺害を犯してしまったのかと困惑した。


「大丈夫。眠っているだけ。この銃では誰の命も奪うことは出来ない」
「そう」
 愛莉はほっと胸を撫で下ろす。


「白姫を眠らせて、どうするつもりですか?」
「私は、魅黒の元に行きます」

「意味が分かりません。何を考えているんですか?」
「魅黒の狙いは私ですよね? 私が行けば、もう白姫達が危ない目にあうことも、皆に迷惑をかけることも、恭稲さんが償うこともなくなりますよね?」
「白様が貴方に償うですって? 何を言っているんですか?」

「恭稲さんは私の本当のお母さんを知っていますよね? 二人は何かしらの関係があり、お母さんの娘が私であることを知っていた。何かしらの理由でお母さんの命が危ぶまれたけれど、天狐ではなかった恭稲さんは、お母さんを守りきることが出来なかった。分からないけれど、それを悔いている恭稲さんは、娘である私を守ることで償おうとしている」


「……誰に入れ知恵されたんですか?」
「私は、お母さんのかわりじゃない……」
 慶は下唇を噛み締めて俯く。


「──嗚呼。嫉妬、ですか?」
 智白は合点がいったのか、一人納得するように一つ頷く。


「!」
 勢いよく顔を上げた慶の瞳は同様で揺れている。


「ち、違いますッ」
「思わぬ感情はいつしか産まれているもので、気が付いた時点で手遅れなんですよ。残念でしたね」

「慶、来い。余の元へ」
 魅黒は左手の人差し指をクイクイと上下させる。それに対し慶は素直に従おうとする。


「あかん!」
 愛莉は慌てて慶の左腕にしがみつく。


「愛莉?」
「なんやよぉわからへんけど、あの人の元へ行ったらあかん。殺されてまう」
「愛莉……」
「そうですね。魅黒の元に行った時点で貴方はお陀仏です。貴方はそれでいいのかもしれませんが、残された者達の命も同様です。ひと時の感情に流され、本来の目的を忘れるつもりですか?」
「ッ!」
 慶は智白の言葉にぐぅの音も言い返すことができない。


「さっさと来い!」
 魅黒は人一人が入れる黒球体を慶の元に飛ばす。白凪を閉じ込めたあの球体だ。

「!」
 目を見開く魅黒の正面に白が立つ。黒球体は、黒球体より一回り大きな白色の球体に飲み込まれ、灰色の水となり、地面に振り堕ちる。辺りは水びだしとなった。


「恭稲白、お前は余の邪魔ばかりをするな」
「邪魔をしているつもりはない。もしそう思うのならば、邪魔されるだけの技量しかないということだ」
「くッ」
 魅黒は白の物言いにギリッと奥歯を噛み締め、白を睨む。
 苛立つ魅黒ではあるが、感情任せに突っ込んでいくことはなかった。


「あくまでお前の本体は、あの小さな小さな稲荷人形でしかない。だとしたら、お前を消すことは容易」

「ほぅ」
 白は興味深げに相槌を打つ。

「行け」
 魅黒は腕に乗せていた鴉のムーンに指示を出す。

「御意」
 ムーンは白の正面に突っ込んでいくかと思ったが、大きく浮上し、白の頭上で翼をバサバサと動かす。


「フラム・ムーラン」
 ムーンがそう呪文を唱えると、全長八センチ程の炎で出来た風車が五十個近く辺りに浮かび上がる。風車たちは白に向わず、智白達の元に飛んでいった。


「!」
 智白は瞬時に守護札を空に飛ばし、辺りにいる者たちが全て円の中に入れる結界をはった。
 白は先程の同じ技を使い、向かってくる風車を魅黒達に飛ばし返す。


「フラム•フラゴル」
 地面から火山が爆発したように炎が吹き飛びでる。白は智白達のいる地面に向かい、「雪垣」と言って白い光線を撃った。


 白光線は結界を突き破る。智白達の地面に突き刺さり、白の水溜りのようなものを溜めたかと思うと、刹那で雪垣に変化する。その雪垣は崩れることなく、皆を持ち上げた。浮いた空洞部分にガスコンロのごとく火が燃えているが、雪を溶かすことはなかった。


 外で四方八方に噴き出す炎や吹き荒れる火の粉達からは、智白の結界が皆を守る。

 炎の中に飲まれた白は炎が全て鎮火したあと、黒焦げとなった白狐マスコットらしきものとなり、宙から地面に落下した。


「恭稲さんが……」
 慶は初めて白が負傷したことに驚愕する。
「やはり、傀儡の弱点は炎であったか」
 魅黒は勝ち誇ったように高笑いをする。


「黒桂《つづら》! どこかで見ているのであろう? 藍凪慶を守る者はいなくなったぞ! このままでいいのか? 出てこないのならば──」
 魅黒は中腰姿勢で思いっきり地を蹴り上げ、慶の元へ向おうとするが、「エクレール」という声と共に黒色の稲光が落ち、飛び跳ねるように後ろに下がる。


「お望み通り、出てきてやったぞ。魅黒。お前の本当の狙いは、この子でも恭稲白でも、ましてや守里愛莉でもない。僕なのだろう? なら、はじめっから僕を狙えばいいだろう?」
 柔らかさを無くした低音ボイスを響かせながら、慶たちを庇うように夜行性の獣のような素早さで着地した。


「ぇ?」
 慶はその男性に目を疑う。

「やぁ、また会えたね。Kei」
 元Keiの依頼者であった黒柳仁が肩越しに振り向き、嬉しそうに微笑む。


「黒柳仁さんが、黒桂さん……?」
「うん」
 黒柳仁こと、黒桂はコクリと頷く。


「アハト・ノワール・アロウ」
 重い声音の呪文と共に、黒色をした八本の矢が、黒桂の元に飛ばされる。黒桂は慌てることも避けることもせず、「ノワール・シルト」と呪文を唱えた。
 黒桂の正面に畳四畳ほどの大きな壁が現れ、放たれた矢たちは壁に衝突して地面に落下する。


「やめろ。魅黒と戦うつもりはない」
「ふざけたことを抜かすな。お前が生きている限り、余はずっと二番煎じを飲まされ、トップに立つことも出来ぬ」

「僕のせいだ、父のせいだと、被害者意識を持っている時点で負けだと早く気がつけ」
「ぐッ」
 額に血管を浮かばせ奥歯を噛み締める魅黒は、黒桂を睨み据える。


「兄弟喧嘩ならば、自身の里でするがいい」
 今となっては、慶に安堵感さえ与える声音が辺りに響く。だがその声音の主は、どこにも見当たらない。慶達は辺りを見回すが恭稲白の姿はない。


「智白、三時の方角へ飛ばせ」
「失礼」
 智白は白の指示の意味を読み解き、「ぇ? な、なに?」とテンパる慶の首根っこを掴み、三時の方角へ思いっきり飛ばす。


「のわ⁉」
「なっ!」
 黒桂は間抜けな声と共に飛ばされる慶を助けに行こうとするが、「余に背を向けるな!」と魅黒の攻撃に刹那の時間を奪われる。その間に飛ばされた慶は大きな獣の背中に落ち、地面に叩きつけられることを間逃れた。
「わっぷ」
「少しは、落下に備えるくらいの芸を身に付けたらどうだ?」
 間抜けな声と共に落下した慶は、馴染みある声音に、ギュッと固く瞑っていた両眼を開く。


「な、なな、なに? もふふ、け」
 慶は言語にならない言葉を発しながら狼狽する。

「……悲惨なほど頭のネジが緩んだようだな」
 嘆かわし気な溜息と共に、再び馴染みある声が響く。
「そ、その声! やっぱり⁉」


「耳元で騒ぐな。五月蠅い」
「す、すみませんッ」
 慌てて両掌で口元を覆うように隠す慶は、目を白黒させた。その声も、この口調も、確かに恭稲白であった。だが、慶の知っている恭稲白ではない。

 艶やかでサラリとした白髪は健在だが、その毛並みは人のものとは違う。そもそもの姿かたちからして違うのだ。九本の尻尾を持つ妖弧の姿──きっとこれが、恭稲白本来の姿なのだろう。


「捕まっていろ」
「ぇ?」
 九尾の白は四本足で思いっきり地を蹴ると、空へ飛んで行ってしまう。


「待ちなさい! その子を何処へつれて行く気だッ」
 黒桂は向かってくる魅黒の横腹を遠慮なく回し蹴りすると、同じく九尾の妖弧の姿となり、白の後を追いかける。


「玄音!」
 空中で切ない据わった九尾の黒桂は、玄音の名を呼び、視線で指示を送る。

「はいはい」
 仰向けで倒れていた戦闘不能の月黒の元から俊敏な動きで智白達の元へ飛び降りた玄音は、智白達を背に庇う。


「チッ! どいつもこいつもッ」
 魅黒は舌打ちと共に苛立ちを言葉にすると、「ムーン、始末しておけ」と指示を出し、九尾の黒妖弧となり、二人を追いかけた。

 指示を受けたムーンこと鴉男は人の姿に姿を変え、すでにいくつかの負傷を負っている玄音と対峙する。
「恭稲君、その子をどうする気だ?」
 黒妖弧の姿をした黒桂は白妖弧の姿をした白の右隣について話す。


「ポーンをポーションさせる」
「?」
 意味不明な答えが返ってきたことに、流石の黒桂も理解が追い付かない。


「黒妖弧の里の門を」
「君とその子が黒妖弧の里に行って何をする気だ? 大体、黒妖弧の里にその子を連れて行ったりしたら格好の餌食になる」

「守りきれる自信がないのか?」
「……ったく」
 煽ってくる白妖弧の白に首を竦める黒妖弧の黒桂は、「分かったよ」と、黒妖弧の里の門を開かせる。


 宙に浮かび上がった大きなブラックホールに視線を向ける黒妖弧の黒桂は、「あそこを潜れば、僕達の里につく。里の村ではなく、人や村がない山奥だけどね」と説明した。


「理解した」
 白妖弧の白は何の躊躇もなくブラックホールへ飛び込む。その後に、九尾の黒桂と魅黒が続いた──。





 三時──。
 黒妖狐の里。
 

 ブラックホールを潜り抜け、黒妖狐の里へ訪れた白、黒桂、魅黒は九尾の妖狐の姿から人の姿へと変身する。


「黒妖狐の総長はどこにいる?」
「会って何する気? 殺されるよ。白妖狐を目の敵にしているモノだからね」
 白の問いに黒音が答える。


「私が何かをするわけではないし、殺されもしない」
「君が何を考え、何を目的としているか分からないけれど、総長はいずれココへ来ると思うよ。僕の気配はもちろん、白妖狐と半黒妖孤まで集まっているんだ。異常事態を感じ飛んでくるだろう。それは、総長意外のモノたちもね」
 黒桂は何かを見据えるように空を見る。


「ほらね」
 黒桂はほら言わんことない、とばかりに首を竦めて白を見る。


「慶、私から離れるな」
 至って冷静な白は、慶を背に庇うように立つ。

「……」
「何を拗ねている?」
 白は呆れ口調で無言の慶にそう問うた。


「ご自身の里はどうされたんですか?」
「藍凪慶が気にかける事は無い」

「里や里の皆さんのことをほっぽりだして、私を守って下さるのは、私が依頼者だからと言う理由だけですか?」
「それ以外に何がある?」

「……藍凪弓子さんをご存知ですよね?」
慶は確信に迫るような質問を問う。


「!」
 慶の問いに黒桂が目を見開く。何かを話そうと口を開きかける黒桂に、魅黒が襲いかかる。


「ったく」
 黒桂は、しょうがないな、と言うように小さな溜息をつき、本格的に魅黒との戦闘に入る。



「変な入れ知恵をされたか」
「それが変な入れ知恵になるのか、嘘か偽りかで変わってくると思います」

「もし、私が藍凪弓子を知っていると言ったら何になる?」
「それは……」
 慶は白の問いに言葉をつまらせる。


「それは、なんだ? 言いたいことがあるのならばハッキリと言えばいい。聞きたいことがあるならば、素直に聞けばいいだろう? いつまで、うじうじ虫でいるつもりだ」

「うじうじ虫って……」
 相変わらずな白の物言いに、慶はしょんぼり首を下げる。


「ガルルゥ」
 獣の唸り声と共に、十匹程の黒妖狐が白と慶の元へ飛びかかってくる。
「何故、白妖狐と黒妖狐が我々の里にいる?」
「何故、半黒妖狐をお前が庇う? ソレをこちらへ渡せ! ソレは我々が始末しなければならぬモノ」
「お前達は我々の里には異物者でしかない」
「我々の里へ踏み入れた以上、命がないと思え」
 白と慶を囲う黒妖狐達は、それぞれ思うがままに話す。


「其方達に用はない」
 一斉に飛び掛かってくる黒妖狐達を一まとめにするため、白は慶を左腕に抱えるように抱き上げ、大木の幹の高さほどに飛び上がる。白の狙い通り、黒妖狐達が一斉に二人の元へ飛び上がる。


「風百《ふうひゃく》氷柱《つらら》」
 と言う呪文と共に、白が右掌を左から扇状に右に動かすと、百本の氷柱が風に乗って四方八方に飛び散る。

 黒妖狐達に氷柱が突き刺さり、ボトボトと地面に落ちてゆく。


「こ、殺してしまったんですか? それに黒柳さんもいるのに……」
「私が、生きとし生けるもの達を無意味に始末すると、本気で思っているのか?」

「ぃや、だって、落ちた狐達がピクリともしていません」
「妖狐を狐呼ばわりするな。見目は類比していても、全く異なるものだ。それに、あれらは生きている。微塵も動かないのは、ただ眠っているだけにしか過ぎない。三日も経てば元通り動く。そして黒桂達はこれくらいの技、各々避けるなり防御するなりするだろう」
 白はそう説明しながら、優雅に地に足をつけ、慶を解放する。


 慶は魅黒と黒桂に視線を移す。先程と変わらず、二人は眠ることなく、命をかけた壮絶な兄弟喧嘩を繰り広げていた。
「何故、十年以上も姿を表わさなかったのに、今になって戻ってきた。余はお前が生き残っているなど、父上から聞いていない。何故裏切り者が生かされている」


「今までは姿を現す必要性が無かったからね。父上には僕を生かす必要性があったんだろう」


「父上はお前がいる限り、余を眼中に入れない。ただの予備駒くらいにしか思っていない。余にとってお前は邪魔者でしかない」


「予備駒だと父上が言ったのか? ただの被害妄想じゃないのか? そうやって被害者意識を持っている限り、お前はずっと苦しいままだ。囚われるのはもうやめないか?」


「五月蝿い」
 魅黒は黒音の言葉をひと蹴りして、左掌を黒音に向ける。

「シエン・ノワール・アロウ」
 と呪文を唱えると、百の黒い矢が四方八方に飛び散る。

 白は「封」と言って、慶と自身を閉じ込めるような結界を作り守る。


「ノワール・シルト」
 そう唱えた黒桂は、前後左右天井を黒い壁で覆い隠し自身を守った。

 誰にも刺さらなかった矢は、壁や結界に衝突して地面に落ちる。それを見越していた魅黒は、気配を消して黒音の正面に立つ。壁に守られる黒音はそれに気がつかない。

 全ての矢が地面に落ち、辺りが静まったことが分かると、黒音と白は守護術を消す。  


 魅黒はその瞬間を待っていましたとばかりに、「ノワール・ムーン」と唱え、至近距離から黒球体を飛ばす。魅黒の思惑では、黒音に直撃するはずだったのだが、すでに黒桂は宙にいた。

 誰にも当たらなかった黒球体は木々に当たり、大木すら崩れ倒れてしまった。


「⁉︎」
 慶は魅黒の恐ろしさにぞっとする。と同時に、ここにいるモノ達は同類の力を持つモノ達なのだと考えると、急に恐ろしさが芽生えた。
「藍凪慶」
「な、なんですか?」
「先程の答えは出たか?」


──もし、私が藍凪弓子を知っていると言ったら何になる?

──言いたいことがあるのならばハッキリと言えばいい。聞きたいことがあるならば、素直に聞けばいいだろう? いつまで、うじうじ虫でいるつもりだ。


「……聞きたいことは山ほどあります。でも、きっと答えは与えてもらえない」
 すでに諦めモードの慶は下唇を噛む。


「何故そう思う?」
「私が恭稲さんの依頼者だからです。依頼者とは馴れ合わない主義なんですよね?」
「嗚呼」

「私が恭稲さんの依頼者でなくなったとき、全てのことを話してくれますか?」
「……そうだな。それにはまず、世界を変える必要性がある」

「どういうことですか?」
「来る」
 白の言葉が合図のように、木々達が騒めき、強い風が吹いた。重い呻き声と共に現れた大きな九尾の黒妖狐に、辺りの気配が一気にピリつく。


「ほー。盛大な兄弟喧嘩をしているではないか」
 黒妖弧の九尾の妖弧は、魅黒と黒桂の間に入るように降り立つ。


「「父上」」
 魅黒と黒桂の声が重なる。


「黒桂よ。やっと戻って来る気になったのか?」
 父上と呼ばれた九尾の妖弧は魅黒に目もくれず、黒桂だけに意識をやる。そんな父親の泳ぐ九尾を恨めし気に見る魅黒はギリッと奥歯を噛み締めた。

 その間に慶を片腕に抱く白は、木々の間に身をひそめる。
 白が身を隠すなど今までならあり得ぬことだ。


「何をする気ですか?」
「時期にわかる」
 白はそう言いながら手短にあった太い幹に左掌を当てる。


「汝、地と幹が繋ぐ道筋、我が里と繋げたし」
 そう呪文を唱えると、白の掌から稲妻のような光が飛び出し、木々の幹に光の傷跡を作った。


「?」
 慶は訳も分からぬまま、息を潜め見守った。


 一方林の外では、兄弟喧嘩から、父と息子の口喧嘩が勃発していた。


「僕がこの里に戻って来るときは、貴方が考え方を変えた時だと言いましたよね? 今回はイレギュラーなことが起きただけですよ」


「私の考え方が変わるなどと、本気で思っておるのか?」

「十年以上待ちましたが、変わり映えはしません」
「それはお互い様だろう。お前は、どうすれば私の言う事を聞くようになる」
 父親は憤るような口調でそう言いながら、首を左右に振る。


「僕は貴方のマリオネットではありません。僕には僕の意志があり、信念があります」
「それは、こちらも同じこと」


「その意志や信念は、本当に貴方のものなんですか?」
「何を言っている?」
「僕が命を落としそうになったとき、救ってくれた白妖弧がいました」
「ほぉ」
「その方の名前は、恭《く》稲《とう》天白《てんぱく》さん」

「‼」
 九尾の黒妖弧は大きく目を見開く。


「天白さんに色々お聞きしましたよ。その昔、二人はとても親しかったと。その時代も派閥はあったようですが、二人で新たな世界を作って行こうと言っていたとも」


「可笑しな入れ知恵をされおって。白妖弧のモノを信用するなど馬鹿げている。偽善者の塊たちでしかあらぬ」


「それは、貴方が色眼鏡で見て来た結果じゃないですか? 本当の姿をしっかりと見て下さい」


「私はいつだって正しい眼で物事を見てきた。それは、今も昔も変わらぬ」


「正しい眼で見てきたと言うのであれば、それは正確性のない外側ばかりを見てきたのだな」
 その言葉と共に、九尾の白妖弧が黒音の右隣に降り立つ。黒桂の父親より少し小さく、毛並みの艶やかさはなく、顔には皺があるように思えた。声音は凛としているが、どこか月日を感じさせるものだった。



「天白……。何故お前がここにいる。黒妖弧の里は知らぬはず」


「私達を繋ぐ縁が、再び結ぶ時がきたということだ」


「!」
 黒桂は白の仕業だとすぐに理解する。何故、この里へ訪れたのか。訪れた目的がなんだったのかを。


 二人の姿を探せば、林の木々の隙間から、黒色の光と白色の光が発光しているのが目に入る。
 これだけ暴れたうえ、天白の大きな気配もある。多くの黒妖弧達が加勢にきてもおかしくない。
 すぐにでも加勢に行きたいが、急に押し黙った魅黒の動向が気になる。

 天白の戦闘能力は高いが、今は戦場から離れて療養している身だ。
 黒妖弧の総長である父親と、実質父親の右腕である魅黒から一斉に狙われては、流石に命の危機だ。
「黒羽《くう》よ。まだ囚われているのか? 我々は幼き頃よく共に遊んでいたではないか。忘れてしもうたのか?」


「あれは、黒歴史でしかない。汚れた記憶。父上達に顔向けができない」


「何故だ? お主は私と遊んでいた日々は楽しくなかったのか? 私は楽しかったぞ。それに、お主のあの時の誓いや言葉は、偽りであったと申すのか?」

「そうは言ってはいない! ……だが、私は父親の後を継ぎ、里の総長となったのだ。独断と偏見で一つの世界を動かすことなど出来ない。父上もそれは望まぬであろう」


「お主は口を開けばすぐに父上がどうだ、先代はあーだった、黒妖弧の里は本来こーだったなどと抜かしておるが、そこにお主の気持ちは含まれておるのか?」


「ッ……」
 黒羽は言葉を詰まらせる。瞬時に言い返す言葉が出てこない。


「父上、もう私は貴方に認めてもらわなくて結構です」
 激憤する魅黒が二人の話を割って入るように声を上げる。その場にいるモノたちの視線が一気に、魅黒へと集まった。


「これまでの私が馬鹿でした。黒桂しか眼中にない貴方の気を引こうと試行錯誤したり、次期後継者になるべく血を流すような努力を重ねた日々も、今では全てが馬鹿馬鹿しく思えます」

「魅黒?」
 禍々しいオーラに黒羽は目を細め、息子の名を呼ぶ。だが、もう時すでに遅し。


「何故、余は正攻法で時期当主になろうとしていたのか……。余に見向きもしない父上の気持ちを変えるより、貴方をさっさとあの世に葬り、余が当主の座についたほうがよほど利口で確実」
 魅黒は忌々し気にそう言うと、地に向けていた両掌を天に上げる。土から湧き上がってくる巨大な黒い球体が外に姿を現す。黒羽が丸々球体の中入ってもまだゆとりのある大きさだ。


「魅黒、やめろ!」
 黒桂が制止する黒音の言葉を無視して、「もう遅い!」と、魅黒は巨大な黒球体を黒羽に投げつける。


「馬鹿なことを」
 黒羽は焦ることも戸惑うこともせず、九尾の尻尾を黒い妖気で包み、野球ボールでも打つように黒球体を投げ飛ばす。


「そっちは駄目だッ‼」
 白達がいる林の方へと飛んでいく黒球体を止めるべく、黒桂が飛び走るように助けに向かう。
 黒球体より前についた黒桂は、「ノワール・シルト」と唱え、両掌を前に突き出した。


「厳しいかッ⁉」
 黒音がだした壁は黒球体の動きを止めてはいるものの、跳ね除けることも、地面に落とすことも出来ない。壁よりも黒球体のほうが大きいのだ。


「恭稲さん!」
 白の作った結界の中で安全を守られている慶は、十匹の黒妖弧と一人の天狐と格闘していた白に声をかける。


「あれ!」
 慶が指差す黒球体を確認した白は一瞬瞠目する。

「邪魔が多いな」
 煩わし気に呟く白の元に、巨大な中華包丁のような刀を持った中肉中背の黒妖弧の男性が襲い掛かる。白はその男性の顎を蹴り上げ、回し蹴りで慶の元に飛ばす。


「撃て」
 白の指示を読み解いた慶は俊敏に太股のホルスターから例のピストルを取り出し、飛ばされてくる男性を打つ。純血黒妖弧の男は深い眠りにつき、地面に落とされる。

 頭《かしら》がやられて指示を無くす妖弧達を白球体に一まとめにしたものを木の幹に張り付けた白は、黒球体の元に飛び向かう。


「汝、白昼夢、白蓮の地へ」
 白の呪文と共に、白色球体が黒壁に当たり、壁が黒色球体より三層ほど大きなものへと変化する。白色と黒色に別れていたものは綺麗にまじりあい、マーブル模様に変化する。

 黒色球体は二人が作り出した壁に飲み込まれてゆき、辺りに静けさが戻る。
 黒桂はホッと胸を撫で下ろす。


「恭稲君、ありがとう。助かったよ」
 黒桂は自身の左隣にいた白に左掌を突き出す。


「それは、こちらも同じこと。感謝する」
 白はそう言って右手を差し出し、黒桂の握手に応える。


 その光景を見ていた天白が口を開く。

「黒羽よ。我々は先代に囚われ過ぎているとは思わぬか? 我々は今を生きている。そして、我々は未来永劫生きることは出来ず、時代は脈々と受け継がれてゆく。受け継がれた先の未来に執着することも、操作することも出来ない。

 時代はいつか終わりをつげ、新しい時代が幕を開ける。純血がどうだ、半弧がどうだと、あれやこれや差別し、権力を振るって、皆《みな》を駒のように扱う時代は、とうに終わりを告げている。

 もう私達の時代で全てに終止符を打とうではないか。しがらみから解放されるときなのだ」


「……そう、だな。俺は、俺の意志で俺の人生を歩んでこなかったのかも知れぬ」
 どこか自身に落胆の色を見せる黒羽は、自嘲気味な笑みを見せながら同意の意を示す。


「私達はいつからでも、どんな状態からでもやり直すことが出来る。それは、生きている限りずっとだ。再び、手を取り合おうではないか」

「嗚呼」
 黒羽は天白の言葉に同意するように、深く頷いた。
 そんな父の後ろで魅黒は両膝をつき、「くそ! くそくそ、くそッ」と繰り返し拳を地面に叩きつけていた。


「──」
 黒羽はそんな息子の姿を見て、心を痛めるかのように小さな息をつく。そして、九尾の姿から、人のとなり、我が子に歩み寄る。

 ウェーブのかかった漆黒の髪を腰まで伸ばした男性は、魅黒の前で片膝をつく。百九十センチをゆうに超える背丈に広い肩幅は、片膝をついた所で、存在感は和らぐことはなかった。


「魅黒」
 黒羽は魅黒の右肩に右手をそっと当てた。

「余に触るなッ!」
 パシッと音を立て、黒羽の手を左手で跳ね除ける魅黒は黒羽を睨め付ける。


「……魅黒」
「今更なんなのだッ!」
「今まで、すまなかった。お前を蔑ろにし過ぎていた」
「今更謝ったところで余の傷は癒えぬ。父上に認められるために費やした時間も、当主になるべく費やしてきた時間も戻ってこない!」
「当たり前だ」
 憤慨して牙を向く魅黒に、白が凛とした声を響かせた。

 魅黒が顔を上げると、林から戻ってきた三人の姿があった。
「其方が自分の意志で判断し、今まで行動した結果、勝手に傷ついたのであろう? それを癒して欲しいだ、償って欲しいだなどお門違いだ」


「お前に何が分かる! どうせお前も敷かれたレールの道を歩み、時期に当主になるモノだろうが? 決められたゴールがあるから、自由に生きられているんだろうが」
 牙を向き続ける魅黒は荒れに荒れている。


「私はもちろん、誰にも其方の気持ちなど分からぬ。其方さえも良く理解していない己の心を理解して欲しいなど、赤子以下だ。そして私は当主になるつもりはない。そもそも、決められたゴールなんてものはこの世に一つとしてない。
 決められた道や決められたゴールのみを見て、生きているから己を見失う。我々は、自ら〝決めた〟ゴールに到着するために生きている。他人が決めたゴールを見るな」


「またお説教や綺麗事か? 白妖孤は正論で相手をねじ伏せてくる。一番嫌な奴等だ」
 魅黒は軽蔑するように白をはじめとする白妖弧を見る。


「其方がそう思うのならばそうだろう。私は私の思う言葉を言っているだけにしか過ぎぬ。どんなにこう受け取って欲しいと言葉を駆使したとて、受け取り手の環境や心理状況、魂の成長具合によって、いかようにも受け取られる。そもそも、其方の望みは黒妖弧の総長となることなのか?」


「は?」
 眉間に皺を寄せ自身を見上げてくる魅黒に、白はこう続けた。

「その望みの本質は、父親に愛されたい、兄に勝ちたいと言う気持ちからきたものではないのか? 本願を叶えるために、ソレが必要だからと持った望みではないのか?」


「……」
 白の言葉に魅黒は言葉を失う。それは、肯定を意味しているようなものだった。


「本願とエゴの望み。本願を叶えるために選んだ望みを履き違えると苦しむだけだぞ」

「じゃぁ、余はどうすればよかったという? どんなに頑張っても父上から見向きもされず、どう足掻いても黒桂の上には行けぬ!」


「其方が愛情をもらえなかったと不足を見続ける限り、其方は一生、被害者意識から抜け出せない。其方の姪に当たる、藍凪慶はその見目故に、心無い言葉を幾度となく投げかけられてきた。自身の真実を知っていく過程で、心に重しがのしかかることも多々あっただろう。だがこの者はけして人のせいにはしなかった。相手からの言葉を馬鹿正直に受け止め続けてきた。それでも生き続けられたのは、この者が環境や人に恵まれただけではない。不足ばかりに焦点を当てず、光にも焦点を当て、その光に感謝していたからだ。其方は、本当に愛されてこかなかったのか? 
 どう足掻いたとて、私達は独りでは生きてはいけぬ生きものなのだ。何千ものあいだ生き続けた其方は、確かに愛の恩恵を受けて来たはずだ。だが色眼鏡をかけているせいで観えていないのだ。其方の父や兄が其方に向けた愛情や言葉を。それでも愛情がなかったというのならば、友や仲間、其方を慕うモノ達の愛情はなかったのか?」


「……本当にお前は、正論と綺麗事ばかりを並べるな」
 魅黒は舌打ちを打つ。


「私はただ、そこにある事実を申しているだけにしか過ぎない。私の言葉をどう受け取ろうが勝手だ」
「魅黒。すまなかった。私が幼かったのだ。言い訳に思えるだろうが、私も感情のある生き物。子育ても手探りで教科書のないものだ。それ故に、愛情のかけ方を間違えることもあっただろう。お前が求める愛情を与えてやることは出来なかっただろう。だが、お前を大事に思わぬ日はあらなんだ」


「嘘をつくな! ならば何故あの時、兄ばかりを褒めて、余には厳しく当たったのだ?」
 魅黒は鬱憤を吐き出すように言い捨てる。


「お前は忘れているかも知れぬが、私は幾度かお前を褒めたことはあった。だがお前はその度に調子に乗り、ふんぞり返り、修行をさぼるようになった。それを危うく思った私は、其方を褒めることを止めてしまった。さすれば反骨精神で上に上にと這い上がってきたからな」


「……全ては、余が蒔いた種だと言うのか?」
 嘆くように呟く魅黒は両手で頭を抱える。呆然とする息子の姿を痛ましそうに見つめていた天羽は口を開く。
「魅黒──私達はどこかでボタンを掛け違えてしまった。一度掛け違えたボタンを全て外し、また一からかけ直そうではないか」
 魅黒はその言葉に否定も肯定もせず、黒羽の右手に自身の左手をそっと重ねる。


「父上」
 白は天白を呼ぶ。

「嗚呼」
 天白は一つ頷き、林の方へ歩き出す。先程まで荒れ果てていた場所は全て元に戻っていた。白が例の術で元に戻したのだろう。


「恭稲君、もう行くのかい?」
「嗚呼。騒がしくしてすまなかった」
「いいんだ。Keiのこと、もうしばらくの間よろしく頼むよ」
「言われずもがな」

「Kei.また会おう。今度会った時はゆっくり話すよ。色々なことをね」
「……はい」

「藍凪慶、行くぞ」
「はい!」
 慶は黒音にペコリと会釈をし、先を歩く白の後ろを追いかけた。

 黒音は慶達の姿が見えなくなるまで見守った。



「闇が、開けたな──」
 黒桂がそう呟いたと共に、朝日が昇り始める。それは、長い長い闇が開け、新たなる世界の幕開けを知らせるかのようであった──。

*****



「父上! 兄上! ……と、藍凪慶ッ」
 白の後ろに隠れていた慶に気づいた白雨はあからさまに嫌悪する。


「えっと……こんにちは」
「な~にが、こんにちは、なんだよ。明朝四時。おはようございます。だろうが。日本語もロクに出来ねーのかよ! 大体、兄上と距離が近いんだよ! もっと離れろ」
 白雨は左掌でしっし! とでも言うように前後させた。


「な、なんだかすみません」
 白雨の剣幕に圧倒される慶は、委縮して数歩後ずさる。


「藍凪慶、気にするな。父上と智白以外には、誰にでもあんな態度を取る」
 白は振り向くことなく、慶を庇うようなフォローを入れる。と言っても、話していることは事実だ。


「これこれ、白雨。そう品のない会話をするでない」

「……はい」
 天白に注意され、荒れ狂う野良犬のように牙を剝き出しにしていた白雨は、借りてきた猫のような猫のように大人しくなる。


「智白達は?」
「連れてきましたよ。当初の指示通り、白凪を連れて恭稲探偵事務所に訪れました。荒れ放題だったので、術で綺麗に戻しておきました」
「気が利くな」
 白の言葉に白雨はとても嬉しそうに、へにょりと笑い、続きを話す。


「事務所内にいなかったので探しました。見つけた時には智白さんは怪我をして、白姫は眠り、女の人間は気絶し、ズタボロの黒妖弧が三体いて──。取り敢えず、黒崎玄音以外の黒妖弧は呪符結界の中に押し込めて放置させときましたけど。
 智白さんと白姫は白凪が癒しました。黒妖弧は黒崎玄音って男だけを癒しました。黒崎は倒れた二体の黒妖弧を見張っとく、白妖弧の里なんて誰が行くかって言うから、ならくんな! 誰も頼んでねーし、お前なんぞ願い下げだーって口喧嘩したら智白さんに叱られました。智白さんはすぐ叱ります。口煩いです」


「……それは其方にも非があるから仕方がないな。諦めろ」
 白雨は白の言葉に、ガーンとばかりにショックの色を見せる。


「それで、守里愛莉はどうした?」

「守里愛莉? 人間なら智白さんが眠りの呪文を使って深く眠らせた後、一緒につれて来ましたよ。今は智白さんの家で眠っています。一体、何が起こっているんですか?」
 白雨は訳が分からないとばかりに眉根を寄せる。


「そうか。詳しくは落ち着いてから話す。里のモノ達はどうしている?」

「ほとんどのモノ達はまだ眠っていますよ。このような時間ですしね」

「里のモノ達全員に伝えたいことがある。一時間で皆を広場に集めてくれ」

「伝えたいこと?」
 白雨はどこか不安げに問う。


「跡継ぎについての話があるそうだ。私ももうそろそろ、玉座から降りようと思っておる」

「父上……」
 白雨はなんとも言い表せぬ顔をして下唇を噛み締めて俯くも、直ぐに「分かりました!」と、顔を上げ、行動を開始した。

 午前五時──。


 白妖弧の里。
 大広場に里で暮らすモノ達が全員集まる。そこには、智白や白姫、白凪の姿もあった。


 黒妖弧と白妖弧が再び手を組み、新たな世界を作り上げていくことは、まだ話してはいない。たった先程手を組み、新たな一歩を踏み出したばかりだ。新たな改革論などが何一つ進んでいない中で話したとしても、真実と信頼みにかけ、里のモノ達に恐怖と不安を与えてしまう可能性があると考えたのだろう。


 光へ続く道も、タイミングを間違えば、闇に落ちることもある。鋭い先見の明を持つ天白は、色々な事柄に置いて、タイミングがどれほど重要性をなすものなのかよく理解しているのだろう。


 里のモノ達の正面に白が立つ。その右隣の一歩後ろに天白、左隣りの三歩後ろに白雨。白雨の左隣から少し離れた場所に、慶が硬直したように立っていた。


「白様だ」
「白様が帰ってきた」
「天白様と白様までいる」
「一体何を話そうというんだ」
 白妖弧達がコソコソと話し出す。この異様な雰囲気に、ココへ集まるモノの不安は大きい。


「皆《みな》のモノ、まずはこのような時間から集まってもらったことに感謝する」

「白しゃま~。しゃとへ、もどってきてくれたんでしゅか?」
「コラ」
 ショートカットの小さな女の子が右手を上げ、可愛らしく質問をする。それに慌てた母親は慌てて子の手を下げさせ、注意する。


「すまないが、里へ戻ってきたわけではない」

「ぇ?」
「なんだって?」
「里へ戻ってこないつもりだと仰っているのか?」
 白の言葉に里のモノ達が一斉にザワつく。


「皆のモノ、落ち着かぬか。話はまだ終わっておらぬ」
 天白の言葉で辺りが恐ろしいほど静まり返る、生唾を呑み込む音さえ響きそうなほどだ。


「私は、この里へ戻ることも、この里の当主を引き継ぐこともしない」

「‼」
 これには天白も目を見開いて驚きの色を見せる。辺りが再び、ざわめき始める。
「はい! 白様に質問です」
 知恵の家系の最前列にいた白姫が右手を上げる。


「どうした?」
「里に戻らないということは、ここ三年かいた世界で同じ生活をするおつもりですか?」
 白姫は公の場ということもあり、恭稲探偵事務所などについては触れないように白へ問う。


「いや、今までいた私の世界も大きく変える」
「何を変化させるのですか?」
「白姫」
 八杉早に質問する娘を咎めるように、智白が白姫の右腕を下へ引っ張る。


「藍凪慶」
「‼」
 思いもしない所で自身の名を呼ばれた慶は、ビクリと肩を震わせた。


「こちらへ」
「⁉」
 慶は視線をさ迷わせ、左人差し指で自身の顔を指し、聞き間違えではないのかと、本当に自分を呼んでいるのかを確認する。


「兄上の指示はコンマ数秒で動け」
 白雨は不機嫌な猫のように慶にそう言った。


「は、はいッ!」
 慶はピシッと姿勢を正し、「し、失礼いたします」と、ロボットのような動きで白の傍に歩み寄る。


「人間?」
「気配が違うわ」
「半黒妖弧だよ」
 里のモノ達が再びざわめきだす。


「察しの通り、この者は半黒妖弧だ」
 白は騒めきに答えを与えた途端、さらに騒めきが大きくなる。


「やっぱり」
「だけど、どうして黒妖弧が白妖弧の里に?」
「そもそも、何故白様が半黒妖弧と親しげなんだ?」

「今から話すことは、とても重大で大切な話だ。静かに耳を傾けてもらえぬか」
 白の言葉に、辺りがしんっと静まり返る。


「これまで、半妖弧達は我が里においても、肩身の狭い思いをしてきただろう。一歩里をでれば、本人が半弧狩りに餌食となるだけではなく、家族や知人にまで危害が及ぶ。この者もまた然り。数年前まで人間界で人間として生きて来た者であったが、黒妖弧に見つかったことにより半弧狩りの標的となり、私に助けをこうてきた。この者は覚醒もあったことで、色々悩みも起こっていただろう」


「覚醒済みだって⁉」
 誰かが思わずそう口に出してしまう。

「すでに南京錠がされている。恐れることは何一つない」
「取り乱してしまい、すみません」
 どこからかは分からぬが、先程の声音で謝罪の言葉が響く。

「いや、恐れるモノ達の心も理解できる。だが、半妖弧達も其方達と同様に自身を恐れ、色々なことに傷つき、苦しんできた。家族もまた然り。そこで私は、そのもの達が安住出来る里を産み出すことにした」

「新しい里を作るということですか?」
 智白が問う。


「嗚呼。私が新たに生み出す里は、白妖弧の里でも、黒妖弧の里でも、赤妖弧の里でも、黄妖弧の里でもない──半妖弧の里だ」
「半妖弧の里?」
 慶がポロリと呟いてしまう。


「嗚呼。そこには、白妖弧・黒妖弧・赤妖弧・黄妖弧を同じ里で暮らす」

「なんだって⁉」
「黒妖弧も同族にするなんて危険すぎる」
 里のモノ達が再びざわつき出す。


「話はまだ終わっていない」
 白の半トーン落とした声音に、ざわついていたモノ達が口を閉じる。


「半妖弧の里では、半妖弧はもちろん、そのモノの家族も同じ里で暮らす」
「人間と妖弧と半妖弧を同じ里に集めるということですか? しかも属性をなくしてッ。危険すぎます」
 智白は声を上げる。


「そうです。皆が仲良しこよしに住むなど、夢物語です」
 癒しの家系の総長が声を上げる。


「そうだな。夢物語なのかもしれない。だが私達は、夢を見て初めてその世界を作り出すことが出来るのだ。新たな世界を作り出すには、大きなエネルギーと多大な時間を要すだろう。だが私は、この生涯をかけてこの夢物語だという世界を作り上げたいと思っている。十年もあれば、新たな時代も、新たな里も、良き形になるだろう」


「ま、待って下さいッ兄上! 兄上が当主にならずして、誰が当主になるというのですかッ?」
 白雨が白の言葉の撤回を望むように、割って入る。

「其方がいるであろう? 白雨」
「は? 何を言っているんですか? 僕は次男ですよ? 当主というものは、長男が継ぐものだと決められています」
 柔らかな視線を向けてくる兄に、白雨はどこか捲くし立てるように反論する。


「それは、誰が決めたものだ? そういう法律でもあったのか? 長男が継がねば法の裁きでも受けるのか?」
「そ、それは──」
 白雨は早々に反論の言葉を失う。


「昨日の常識は今日の非常識。何故長男に生まれたからと言って後を継がねばならない。何故次男だからと後を継いではならない。何故、お家柄に生まれたものの定めだと受け入れ、自分の人生や気持ちを押し殺して生きていかなければならない。本当に愛や熱を持っている者に継がせる方が良き道へと進むはずだ。脈々と受け継がれたものだとしても、いつかは終わりが来る。始まりがあれば終わりが来るのは世界の通り。私は、今日を持ってこの里を出る。そして、跡も継がない」
 白は里のモノ達に向い、堂々と宣言する。これを聞いたモノ達は一斉に騒ぎ出す。


「待って下さい兄上! なぜ僕にッ⁉ 僕はまだまだ未熟者です。兄上のように強くもなければ、賢くもない。皆を束ねられるほどの器ではありません!」
 白雨は白の両腕を掴み、顔を見合わせるように見上げる。


「白雨。お前はいつも、私達の世界のこと里の皆を愛していたな。その愛のはけ口がなくて苦悩していたこともあるだろう。愛だけではいけないのか?」

「……。ち、父上! 父上も何か言って下さいよッ」
 もう白に行っても無駄だと感じ取った白雨は、天白に助けを求める。


「白雨。私は白の考えに何一つとして異議はない」
「そ、そんな……」
 白雨は父親に助けも借りられず、ガクリと項垂れる。


「し、白雨なら出来るぞ!」
 二十代前半程の青年が意を決したように声を上げた。その声は震えていた。


 それを皮切りに、色々な声が上がってゆく。


「わ、私も! 私も白雨なら、素敵な総長になると思います」


「白雨様がこの里と皆を愛してくれていることは、皆が感じています」


「た、確かに白雨様は白様に比べ安定感も安心感もありません。ですが、どんなに不格好でも、一生懸命私達を救ってくれていました」


「白雨様になら、私達はどこまでもついていきます」


「頭が足りないのなら、私がいくらでも助けに入ります。知恵も叡智もお教えいたします」


「白雨にぃ、もっと自信もって~!」
「白雨お兄ちゃんならきっと出来るよー」
 老若男女問わず、白雨を指示するモノ達が白雨を励まし、応援する。


「皆……」
 白雨は里のモノ達の言葉に、「若干ディスってんじゃねーよ」と言いながら目を潤ませる。


「白雨。総長は絶対的に強くなければいけないのか? 誰よりも利口でなければいけないのか? 今は権力などを振りかざすリーダーも、一匹オオカミのようなリーダーも古いように思う。
 今の時代、誰かが強いだけでは意味がない。力が足りぬのなら、力の持つ者に助けを求めればいい。知恵が足りるなら知恵を頼る。なんでも一人でしなければならない! と思うから駄目なのだ。
 其方が得意なことは他の者にとっては苦手なこと。その逆もある。今は、力を貸して欲しいときに声を上げた時、その者を助けたくなる者こそリーダーなのだ。時代は変わる。だから白雨。まずは私が声を上げよう。この里を守り、里の皆《みな》を収め、調和してくれぬか? と」
 白は白雨の両腕を自身の両手でそっと下ろす。


「──」
 白雨は覚悟を決めたように、コクリと頷いた。白は口元に柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくり浅く頷く。


「白雨を総長にすることに異議を申すモノは挙手を」
 天白の言葉に辺りが静まり返る。

 白がいないあいだ、天白の右腕としてずっと里のモノ達との絆を深め続けた結果だろう。誰一人として、異議を唱えるモノはいなかった──。



 恭稲探偵事務所。

 今ではもう自分の部屋として馴染んだ自室で、慶は白姫と向き合っていた。


 愛梨は慶のベッドで深い眠りについている。この後、白姫が愛梨を自宅に届け、見守ることになっていた。

 玄音達は黒桂が迎えに来て自里へ帰ったらしい。玄音が残した傀儡は、智白達に完結的に説明すると、紙に戻り燃え尽きた。

 白と智白は応接室で何やら話しているようだが、慶達の耳までは届かない。


  †

「白姫……」
 どこか気まずそうにしていた慶は、意を決したように口を開く。だが、「ごめん、慶」という白姫の言葉に遮られてしまった。


「ぇ?」
 何故白姫が頭を下げて謝罪しているのか分からない慶は、困惑する。


「本当はね、私白妖狐の里に帰っていなかったのよ。里から呼び出しも受けていないわ」

「どういうこと?」
 白姫の言葉に慶はさらに困惑した。


「私の弱さを感じ取った白様は、私と慶の距離を置くことが得策であるとお考えになった。私も同意したわ。まぁ、ココを離れたのは、愛莉の守護も兼ねていたのだけれど」


「弱さ?」
「えぇ。私……」
 一度言葉に詰まる白姫であったが、意を決したように本音を吐露する。


「私、恐ろしかったの。慶が覚醒して恐ろしかった。普通にしよう、普通にしなきゃと思っても、身体が微かに振るえてしまっていたわ。このまま慶の近くにいればいるほど、お互いが傷つくことになると白様は感じ取ったのだと思う」


「そうなんや……。怖がらせてしまって、ごめんな。あの時、なんもコントロール出来へんかって、白姫を傷つけてしもうた。でも、もうあないなことはあらへんと思う。恭稲さんがコレをつけてくれたから。コレをつけてたら、私の大切な人を傷つけんですむんやろ?」
 慶は左手の指先で、自身の首につけられたチョーカーをそっと触れる。その声音と指先は微かに振るえていた。


「それでも、白姫が怖いんなら、私と距離置いててもええよ。覚醒したときだけやなくって、今回もあの銃で白姫を眠らせてしまった。これは私の弱さからくる逃げかもしれへんけど、私の傍におったら、白姫はいっつも傷だらけになってまう。私もそんな白姫を見たない。ずっと白姫に守られているだけの自分が不甲斐ない」
 声を震わせて話す慶を、白姫は思いっきり抱きしめた。その手に薙刀は持っていない。両手いっぱいに、慶を抱き締めていた。

「……白姫?」

「慶、ごめん。私が弱いばかりに辛い思いをたくさんさせてしまって、ごめんなさい。慶と距離置いているあいだ、ずっと慶のこと考えていたわ。今なにしているかな? ちゃんとご飯食べているかな? 自分を責めてないかな? 一人で眠れているかな? パパ達にイジメられてないかな? とか色々」

「私、そんな子供やないよ?」
 慶は白姫の過保護さに微苦笑を浮かべる。


「それは分かっているけど、心配になってしまうのよ。と同時に、慶も苦悩していたなか、どうして自分は慶の傍にいていないのだろう? いられないのだろう? って自分を責めていたわ。愛莉の家で共に過ごすなか、愛莉は私の元気のなさに気づいたのね。本当のことを話すわけにもいかないから、『今、大切な人と距離を置いているの』って話したら、叱られちゃった」
 白姫は慶を腕から解放し、ベッドで眠る愛莉に視線を移して自嘲気味に笑った。


「なんで?」
「愛莉は、『なんで喧嘩したんかは知らんけど、大切な人が同じ世界におるのに、このままずーっと距離を置き続けるんはあかんと思う。いずれ、後悔することになる。うちはな、学生時代に大切な大切な親友を失ってしまった。その子の名前は、碧海聖花って言うんやけどな、聖花は最後の手紙を届けてくれたんよ。なんでそんなもん書いてたんか謎やし、届けられたんかも今も謎やねんけど──けど、その手紙見てうちはめっちゃ後悔した』って言うのよ」


「ぇ、なんで? ぇ、迷惑やったんやろか?」
 渾身の思いの丈を綴って書いた手紙を見て後悔したと言われれば、慶が動揺するのも無理はない。


「そんなわけないじゃない! 愛莉はね、『聖花は自分の言いたいことだけ言って、自分の元から去ってしまった。うちは聖花にまだまだ伝えたいことがいっぱいあった。もっと一緒に遊びたかったし、出掛けたかったし、しょうもないことで笑い合っていたかった。うちが夢を叶えるまで見届けて欲しかったし、聖花の未来を見守りたかった。
 もし聖花に夢が出来た時は、全力で応援したかった。もっと大好きって思いも、ありがとうって思いも伝えたかった。なんでもっと伝えへんかったんやろう。なんでもっと一緒に遊べへんかってんやろう。なんでもっと、同じ時間を過ごさんかったんやろう──って、めっちゃ後悔した。奈緒にはそんな後悔をして欲しくない。
 大切な人がずっと傍にいてくれるとは限らへんねん。大切な人と喧嘩したり、いがみ合ったまま、永遠の別れなんてしたないやん?
 せやから、一秒でも早く仲直りしたほうがええよ。永遠の別れはいつだって、うちらの隣におるんやからね』って忠告された。愛莉の背景を知っているからこそ、余計にグサッと来るものがあったわ。ほんと、愛莉の言う通りね」


「愛莉がそんなことを……」
 慶は自身のベッドで眠る愛莉を横目で見つめ、どこか切なくも嬉しそうな笑みを浮かべた。



「慶、ごめんなさい。覚醒しなくたって、覚醒するようになったって、慶は慶なのに……。脆い自分でごめんなさい。慶が良ければ、また慶の傍にいさせて欲しい。私はもう二度と慶を恐れたりしない。慶が苦しい思いをしないように、私はもっともっと強くなる──だからッ」


「白姫っ」
 瞳に涙を滲ませる慶は、白姫をぎゅっと抱き締める。


「弱いのは私の方や。毎回毎回、白姫や皆に守ってもらってばっかり。皆を傷つけてしまうばっかり。そんな自分が情けない。情けないからこそ、もっと強くなりたい。皆を守れるほど。だから、また見守っていて欲しい。修行でへこたれてしまったら一緒に甘いモノ食べて欲しい。また他愛もない話しをしたり、笑い合ったりしたい。だから、また私の傍におってくれる?」


「えぇ、ずっと」
 白姫は慶を抱き締め返す。

「ありがとう、慶」
「こちらこそ、ありがとう白姫」
 こうして二人は、微妙に出来てしまった歪みをお互いの温もりで修復するのだった──。





 一週間後──。

 恭稲探偵事務所。
 深夜一時。

 一番大きな窓ガラスに左腕を預け、八十パーセント満ちた月を見つめていた白は、物思いに耽っていた。あれほど荒れ果てていた事務所はその言葉通りに、白雨の手により元通り綺麗に修復されていた。


「白様」
 ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が恭稲探偵事務所に響く。

 白は首だけで振り向くと、真ん中分けのセミロングにセットされた白髪、目尻や口元にほんのりと年齢を感じるも人間離れした整った顔立ちを持つ男性の姿を、月光が鈍く照らしていた。


「どうした?」
 白の瞳が智白の姿を捉える。その瞳はどこか穏やかだった。

「白雨から話は聞きましたか?」

「嗚呼。黒妖弧の総長は黒桂に、力の家系の長が魅黒に納まったようだな。それと、百年前に私達の里から奪っていった癒しのモノ達を開放し、白妖弧の里に帰したと」


「強い癒しの力を持つモノのいない黒妖弧にとっては、大きな痛手となるでしょうね。ですが、奪ったモノ達を帰すことで、交友関係を持つことへの信頼性を量ったのでしょう」


「そうだな。奪っていた癒しのモノ達は、黒妖弧の里で大切にされていたようだが、毎日多くの癒しの力を強要され疲弊していたようだ。百年はゆっくりさせてやりたいと、白雨が言っていた」


「民のことを大切に想い、大切にして下さる当主になられそうですね」
 智白はどこか安堵したように口元を綻ばせる。


「嗚呼」
「今の未来を、あの頃から作り上げようと考えておいでだったのですか?」

「さぁな」
 白は蠱惑的な笑みを浮かべる。


 智白はどこか問題児に手を煩わされる先生のように小さな溜息を零し、高さ174cm、横幅95cm、奥行き50cmほどの英国クラシックなブックシェルフの前に歩み寄り、スーツの左ポケットから鍵を取り出してガラス引き戸書庫を開ける。

 下段には、ワインレッド色のシステム手帳が十冊収納されており、上段には、牛革で作られたA五サイズのほどの白色が印象的なシステム手帳が二冊収納されていた。


 引き戸に入っている手帳達と同じ種類の色違いである、白色と黒色のマーブル色をしたシステム手帳を二冊収納した。これは、智白が依頼者の小島ひまりと黒柳仁について書き留めていたものだ。


「白妖弧と黒妖弧が手を重ねた今、恭稲探偵事務所と藍凪慶は、どうするおつもりですか?」

「これを、藍凪慶に渡せ」
 白は智白の質問には答えず、A四の茶封筒を智白に突き出すようにして手渡す。


「依頼ですか?」
「嗚呼。それが、藍凪慶と恭稲探偵事務所最後の依頼となる」


「藍凪慶はともかく、恭稲探偵事務所もですか?」
 瞳にどこか哀感の色を滲ませる智白が問う。


「嗚呼。その依頼が終わり次第、恭稲探偵事務所の扉を閉じる」
「!」
「永遠にな」
 白は一驚する智白へ最後のとどめとばかりに、そう一言付け足した。


「そう、ですか……」
「大きなものを得るためには、大きなものを手放さなければならない。新たな世界を産み出すためには、今生きている世界を抜け出さぬことには始まらぬからな」

「そうですね──」
 智白は考え深げに頷き、例のごとく会釈して自室へと戻って行った。


 一人残された白は、残り二十パーセントの月が満ちるときを待つように、静かに月を眺め続けるのだった。