[あやかし白狐~恭稲探偵事務所、真実の事件ファイル~ Ⅳ]




 白が恭稲探偵事務所を離れてから半日が立った頃、白雨が白凪を連れて事務所へ戻ってきた。
「白雨! 白凪!」
 恭稲探偵事務所の結界強化を終えて事務所に戻ってきた白姫は、慌てて二人に駆け寄った。
「あぁ、白姫ちょうどよかった」
 白雨は白姫を見つけ、ほっと息をつく。
「白様は?」
「兄上は戻らない」
「ぇ? そんなに大変なの?」
「詳しい話しは白凪に。取り敢えず、俺は里に戻るから」
「ちょッ」
 白雨は白姫の引き止めを聞かず、右指をパチンと鳴らし、その場から姿を消した。
「白姫殿」
「白凪、どういうことなの? 里は? 黒妖弧は?」
 白雨から説明を受けられなくなった白姫は、傍にいた白凪へ矢継ぎ早に質問を重ねた。
「黒妖弧は何かを調べていたようですが、私達には無害で去って行かれました。白殿はその痕跡を辿り、白雨殿は里のモノ達を宥めながら、総長の面倒を見ています。童は白殿にこちらの援護するようにと、白雨殿の手を借り、今に至っております」
「何かを調べていたって、一体白妖弧の何を調べようと言うのよ? ぁ、座ってちょうだい」
 白姫は立ち話をしていることにハッとして、白凪を三人掛けのソファに座るように促す。
「はい。失礼します」
 白凪はそう言ってから、ソファに浅く腰を下ろし、綺麗に揃えて閉じた両膝の上に、重ねた両手をそっと置いた。
「えっと……」
 白凪は白姫は座らないのかと、視線で訴える。白凪の性格上、自分だけが座って話すことは気が引けるのだろう。
「ぁ! えぇ。座るわ」
 白姫は白凪の気持ちを汲み取り、白凪の左隣にそっと腰を下ろす。白凪の対面した所に一人掛けのソファもあるが、そこは白の席だと考える白姫がそこへ着席することはない。もちろん白がそれを強要しているわけでも、白姫や他の者が着席したくらいで怒る器ではない。白姫がそうしたいから、そうしているだけだ。
 白凪は白姫が着席したことを確認してから、ゆっくりと話し始める。
「黒妖弧が何を目的とし、白妖弧の里へ訪れたかは分かりませぬ。ただ白殿は大方のご検討がお着きになられていられるように感じました」
「どうして検討がついていたのかしら?」
「それは分かりませぬ。ただ、『嗚呼。やっと、動き出したか』と、呟かれておりました」
「どういうこと? 白様は黒妖弧が動き出すのを待っていたということ?」
 白姫は怪訝な顔で問う。
「それも分かりかねます。どんなに考えようとも、白殿がお考えになられていることなど分かりかねます。それでなくとも白殿は感情が読み取りにくく、先見の目がお強くあられるお方です。童共では推し量ることすら厳しいかと」
「まぁ、そうね」
 白姫は納得するように小さく頷き、新たな質問をするために口を開く。
「総長の具合はどうなの? 白様と里の皆は?」
「総長の寿命は刻一刻と近づき、日々エネルギーに陰りがでております。白様は色々大変なようですの」
「どういうこと?」
「白殿を指示するモノ達が大多数ではありますが、指示せぬモノ達も一定数おられるのですよ」
 白凪は言葉重く話す。
「それは、里を、捨てたから?」
「まぁ……そうですの」
 白凪は幾らか視線をさ迷わせ、遠慮しながらも頷く。
「白凪も白様が里を捨てたと思っているのかしら?」
 白姫は白凪の顔を不安げに覗き込みながら問う。
「捨てたとまでは思っておりませぬっ」
 白凪は慌てて首を左右に振って否定する。
「そう」
 白姫はホッと胸を撫で下ろす。
「捨てたまでとは思っておりませぬが、ただ、不思議には思っております」
「不思議に?」
「あい。白殿は人間界から御帰還しなさったとき、右足に傷を作られておりました。それに、天狐になられた瞬間に里をでて人間界へ。そして、気がつけばここで探偵をやられておった。白姫殿はそれらのことに対して、不思議には思わぬのですか?」
「人間界に何か目的があると?」
「その目的は──」
 白凪はそこで言葉を切り、慶が身を隠す部屋の壁を見る。
「慶だと言うの?」
 白姫は瞠目する。何を持ってしてそんなことが言えるのか、白姫には見当がつかなかった。
「それは分かりませぬ。目的が慶殿なのか、慶殿に関連する何かが目的なのか──。なにはともあれ、慶殿も半黒妖弧。白姫殿達も、よくよくお気をつけ下され。あの事実は、慶殿に伝えておらぬのでしょう?」
「えぇ。慶の性質だとあの事実を知ってしまったら、きっと私達から距離を置くわ。それどころか、逃亡しかねない」
「しかし、いつまでも隠し通せぬのでは?」
「覚醒しない限りは大丈夫でしょう」
「覚醒してからでは遅いのではあらぬか?」
 白凪は楽観的に考える白姫を忠告するかのように言った。
「それは……そうかもしれないけれど。今事実を伝えるわけにはいかないわ。大丈夫よ。白様もいるし、今の慶の戦闘力なら抑えられるもの」
「白殿は今里におりますぞ。覚醒した慶殿であれば、白姫殿の戦闘能力を上回るかと。半黒妖弧といっても、その血はあまりにも濃いすぎるのではあらぬか?」
「──」
 白凪の言葉に、白姫はしばし言葉を失う。
「きっと、大丈夫。もうこの話は止めましょう? 起きてもいないことを心配するのは。心配は心配を呼び、不安は不安を呼んでしまうだけよ」
 白姫は気鬱になりそうな心を吹き飛ばすように、溜息交じりに首を竦め、控えめに首を左右に振りながらそう言った。
「……あい。余計なことを言ってしまい、すまなんだの」
「いいのよ。白凪は心配してくれていたのよね? もう昔のようにはならないし、させないわ」
「あい」
「白凪は、しばらくここに?」
 白姫は流れる重い雰囲気を変えようと、声音を明るくさせ、話題を変えた。
「あい。白殿にしばらくはここで皆を援護するように言われておるゆえ」
「そうなのね。よかったわ。白凪がいてくれると思うと心強いもの」
「私もまだまだ修行の身。白姫殿達には、どうぞご自愛してもらいたいものですぞ」
「最善を尽くすわ」
「……あい」
 白凪は疑いの眼を白姫に向けながら、コクリと頷いた。白姫はそんな白凪へ微苦笑を浮かび返すのだった──。



  †


 白が恭稲探偵事務所を離れてから、三日後。
 午前二時――。

「主(あるじ)がいないと、こうも緩いか」
 薄い唇から発せられる重低音。
 大きなアーモンド型の目元。鷲鼻に少し尖った耳と褐色の肌。
 漆黒の髪は鎖骨下で切り揃えられたネオウルフヘアーにパーマをあてている。
 黒色スラックス。黒色のYシャツの上から、黒色のライダースのロングコートに身を包む広い肩幅と厚い胸板は、服の上からでもわかるほど筋肉質だった。
 白よりもさらに身長が高くて足が長い。ローファーを履いている素足のサイズも大きい。
 ごつごつとした厳つさを感じさせる男性向けの十字架のシールバーネックレスをつけた三十代後半ほどの男性が、靴音を鳴らして恭稲探偵事務所に訪れた。
「⁉︎」
 智白はその男性を見た瞬間、言葉を失う。
「主は不在か。可哀想に。守護するモノがお前だけとは……悲惨だな」
「魅(み)黒(こく)! 何故ここにッ⁉」
 そう問うた智白の声は、珍しく微かな震えを帯びていた。
「何故? わざわざ聞かなくてもわかっているであろう? 私の姪っ子を返しにもらいに来ただけだ」
「姪?」
 智白は、まさかとは思いながら、怪訝な顔をする。
「……白々しい。それとも気づいていなかったのか? それともお前の主は、真実を伝えていなかったのか? それか、主でさえも、その真実にたどり着けていなかったか? まぁ、お前達のことはどうでもよいし、要もない。私は姪を返してもらえればそれでいい――今のところはな」
 魅黒はそう言って不敵な笑みを見せる。
「何を、考えているのですか?」
「お前に答える義理はない。さっさと姪を出せ」
「ここに、貴方の姪と言える存在などいません」
「たかだか浄化の雨なんぞで隠し通せると思っていたつもりか?」
 魅黒は冷めた目で智白を見る。
 まるで強い毒を持つ蛇に睨まれたように、智白の背中にぞくりと身震いが起こる。
「余を馬鹿にするのも大概にしろ。そこにいるのは分かっている」
 魅黒は智白が結界を作り、出入り口の扉を壁にしていた場所へ右人差し指を突き出し、人差し指を下げる。すると結界は解かれ、出入り口の扉が現れる。
「待ちなさいッ!」
「余の邪魔をするな」
 魅黒を止めに入ろうとする智白だったが、魅黒の左手から放たれる妖力の球体を腹部に受けてしまい、勢いよく壁へ叩きつけられてしまう。
「ゔぅ」
 苦痛に顔を歪めた智白は、ズルズルと崩れ落ちる。
 幸いなのは、瞬時に呪符で結界を使って身を守ったため、急所などは魔逃れたが、瞬時に戦闘態勢に入れるほどではなかった。
「ふっ」
 魅黒は倒れている智白を、無様だな、とでも言いたげに、鼻で笑う。
「力が無いモノは黙って大人しく見ているか、力があるモノの言いなりになっていればいいのだ」
 魅黒は憐れむようにそう言い残し、隠されていた扉のドアを勢いよく開けた。
「ほぉ〜。とことん面倒なことよ」
 魅黒が開け放った扉の先には、誰もいなかった。
 誰もいないのではなく、智白がそう見せていたのだ。慶を隠し守る結界のおかげで、魅黒から慶の姿は見えることはないが、慶からは全てが見え、全てが聞こえていた。
 例のネックレスを変化させた刀の峰を左手で握りしめる慶は、右手で口元を覆い、自身の気配を殺し続ける。その指先は、カタカタと恐怖で震えていた。
 魅黒から慶は見えていないはずだが、透明感の強いレッドスピネルを彷彿とさせる瞳は、確実に慶の姿を捉えていた。慶は畏怖するばかりで、指一本動かせない。
「汝、我が眼を紛らわし全てのもの、天に滅せよ」
 魅黒は慶を人差し指で差しながらそう呪文を唱えた瞬間、結界が解かれてしまう。
「ほぉ。お前が我が姪であり、黒桂(つづら)の娘か」
「ッ⁉」
 慶は魅黒の威圧感と恐ろしさに硬直してしまう。
「ほんの三年前まで人間として生きてきたのだ。さぞや恐ろしかろう。碧海聖花を抹消したかと思えば、まさか白妖狐のモノ達から守ってもらっていたとはな――。父親共々なんと恥晒しなことよ。見目は母親によく似ているな」
「……わ、私の両親のこと、し、知っているんですか?」
 慶は声を振るわせながらそう問うた。
「嗚呼。よーく知っているぞ。腹正しいほどにな。お前は、何も知らぬのだな。何も知らぬまま、人間として生かされ、今日(こんにち)まで生きてこられたとは……なんと、恵まれたことか」
「……ッ」
 バクバクと激しくなる動悸を少しでも落ち着かせようと、慶は下唇を噛み締め、右手で自身の胸元を握った。着用していたスリムスーツのYシャツに皺が出来る。
「どうやら、白妖狐達からは何も聞かされておらぬようだな。特別に余が良い事を教えてやろう」
「……」
 慶は何も言わず、魅黒の言葉に耳を傾ける。
「まず一つは、お前の父親が純血黒妖狐であり、黒妖弧の里を仕切る総長の長男だと言うことだ」
「⁉︎」
「‼」
 これに驚いたのは慶よりも、珍しく目を見開く智白の方だった。
 痛手をおった智白は痛みで顔をしかめながら、予め片耳につけていた貼るピアスにて、娘と内密に連絡を取る。魅黒は全く気がついている様子はない。
「お前の父親は赤子の時より、時期当主になるように育てられていた。お前の父親であり、余の兄である黒桂(つづら)は、現在の総長が人間界の世界と人間の愚かさを知るため、人間界へと送り込ませた。純血主義の父上に反感ばかりし、常日頃から純血主義の世界を変えたいとほざいていた黒桂に対して父上は、人間はどういうものなのか分からせようとしたのだろう。
 だが黒桂は父上の期待に反し、何を血迷ったか人間の小娘を愛し、里を出て行った。それだけならまだしも、人間の小娘は、お前と言う新たな命を身籠った。こちら側からしたら、要らぬ命であった。それでも黒桂にとってその小娘やお前のことは、自分の人生や命を投げ打つほど、大切なものであった。
 黒桂はお前たちを守るため、あんなにも毛嫌いしていた里へ戻ってきた。お前達に一切手を出さないでくれと、父上に土下座までしておった。人の子や半妖弧にそこまでするなど、なんと無様なことか。そして黒桂は、里の総長となった。と言っても、あくまで形だけのようなもの。父上はまだまだ健在だからな」
「なら、なぜ?」
 智白はフラフラと立ち上がりながら、話しの前後なく問いかける。
「なぜ? 決まっているだろう? 不公平ではないか」
「不公平?」
「そうだ」
 魅黒は頷き、言葉を続ける。
「黒桂の娘の母親である水瀬(みなせ)柊子(しゅうこ)は、表の世界から姿を消したうえ、探偵として生計を立てていた。まぁ、どうやらそれが、子を守るために予め黒桂と交わしていた約束のようだが。黒桂は黒桂で、水瀬柊子と我が子を守るため、他殺と見せかけるように、人間界から姿を消した。残された水瀬柊子は黒桂を殺したモノを調べるため、生き続けるため、闇探偵業を続けるため、黒桂が消えてすぐに子供を孤児院に預けた。余は、父上から黒桂を抹消したと聞かされた。水瀬柊子は余の手下が死亡確認したことによって、全てが収まるべく所に納まったのだと思っていた。碧海聖花という存在を知るまではな」
「初めから、子がいることを知らなかったんですか?」
 智白の問い掛けに答えるため、魅黒は再び口を開く。鬱憤が溜まっているのか、その声音や口調の端々に苛立ちが垣間見える。
「水瀬柊子の記憶を探ったが、子に関する記憶は一つも存在しなかったからな。だが、驚くことに、水瀬柊子の死亡から十年後。余は碧海聖花という半黒妖狐がいることを、半妖狐狩り組織のモノ達から情報を得た。しかも、その半黒妖弧の血及び気配が黒桂が持つものに似ていると。余は瞬時に、そのモノが二人の娘で在ると感づいた。それは余にとって一生の不覚であり、一生の汚点であった。そこからはお前達の知る通りだ。
 三年前に全てが終わったと思った余が浅はかであった。それもこれも、余の手下が碧海聖花の偽造死に騙されおったせいだ。おかげで余は、来る日も来る日も、お前を探し続けることになってしまった。全く。赤子の時から命の長いやつだ。探し出した結果、白妖狐のモノ達から守られているとは、とことん恥晒しのモノよ。だがそれも今日でおしまいだ。生きる恥晒しのモノ達は私の手で殺める。それもこれも、里の秩序を守るため。今日(こんにち)まで半弧狩りの餌食になったモノ達がいる中で、総長の長男の娘というだけで、間逃れ赦されるなどの不公平さは、けっして許されぬ」
 慶は魅黒の存在や魅黒の話しに容量オーバーを起こし、ただ呆然と魅黒を見上げるしか出来なかった。

「……汚らわしい瞳なことだ」
 初めて姪を目にした叔父が言うとは思えぬ言葉を吐き捨てる魅黒は、舌打ちを一つ落とす。
 慶は苦悶に顔を歪ませる。
「立て。お前は総長の前で手撃ちにしてやる。里のモノ達を一同に集めてな。里の秩序を守り続けられるのは私であると、父上に見せつけてやる。兄や他のモノ達に里は任せられない。良かったではないか。今日まで生きていた意味が出来たうえ、里に貢献できる葬られかたが出来て。恵まれていると思え」
 魅黒はそう言って慶の二の腕を掴もうとするが、バチっと大きい静電気がその手を跳ね除ける。
「また、目に観えぬ物に護られているのか? 本当に白妖狐達は守ることしか頭にないな」
 呆れたように小さな溜息をつく魅黒の手を妨げたのは、スーツの外胸ポケットにつけられた長刀ブローチの力だろう。
 そのアイテムを持つ者は、封印されたように安全な場所にいられる。身を守る盾となり、椅子どころか、刀で切られようとも弾丸で打たれようとも、かすり傷一つ負わない強固な結界となる。但し、本人がそのアイテムを身につけている時だけの話である。
 魅黒は黒色に発光した目に見える強風を慶に吹き付ける。慶は顔の前で持っていた刀の先を床に刺し、刀の影に隠れながら風が過ぎ去るのを待とうとするが、あまりの強風に耐え切れず、吹き飛ばされてしまう。
 不運なことに、ブローチは音をたてて慶の元を離れ、刀は魅黒の目の前に置き去りとなっている。唯一の救いは、ブローチは部屋の左隅飛ばされていたことだ。
「ッ」
 強風に飛ばされ壁に打ち付けて痛めた身体を半ば強引に動かす慶は、震える足で立ち上がる。吹き飛んでしまったブローチを取りに行こうとして、魅黒に背を向けてしまう慶に、これ幸いと、魅黒は漆黒の爪を鋭利な刃物に変化させ、慶の背中をひっかこうとした。
「⁉︎」
 魅黒はほんのり眼を見開く。
「背から狙うだなんて、紳士じゃないわね」
 白姫はそう言いながら、薙刀で魅黒の爪を止める。
「白姫ッ⁈」
「早くそれと刀を」
「はい!」
 白姫に促された慶は慌てて拾い上げたブローチを胸元につけ、刀を取りに行く。
「ほぉ、女子(おなご)二人が余に闘いを挑もうとでも言うのか? 平和主義者である白妖狐の智の家系のモノと半黒妖狐の小娘が。後者にあたっては、戦うどころか自分の身一つすら守れないではないか。……傑作だな。命が惜しくば、智の女子は智の女子らしく、慎ましく生きてゆくがいい」
 嘲笑う魅黒は、止められていた親指と小指以外の爪だけでなく、全ての指を勢いよく突き出し、白姫の胸を貫通させた。
「ぐっ」
 白姫の口から苦しげな呻き声と共に、大量の血が吐き出される。
「白姫ッ!」
 慶は慌てて白姫に駆け寄ろうとする。
 魅黒はそんな二人を気にする様子もなく、薄ら笑いを口恥に浮かべ、白姫を慶に投げつけるようにして一気に爪を引き抜き、元の爪に戻した。
「うっ!」
 血しぶきと共に飛ばされてきた白姫をまともに受けた慶は、支え切ることが出来ず、呻き声と共に尻もちをつく。
「し、しら……しらき」
 慶は苦しみに耐えながら白姫を抱き抱えるようにして、白姫の様子を確認する。
 白姫の腹部からは大量の血液が流れ出していた。
「白姫ッ!」
 慶は一瞬で青ざめる。だが慶にはまだ冷静さが残っていた。白が白姫に催眠銃を撃った時のことを、瞬時に思い出すことが出来たからである。
「白姫、白姫ッ」
 慶は白姫を呼びかけながら手を握る。全ての体温を無くしたかのように冷たい。
「しらき……」
 右手についた白の血液の匂いをしっかり嗅ごうと、恐れから手で口を覆う振りをして、血液の匂いを嗅ぐ。その香りは甘くなく、血液特有の鉄の香りが鼻につく。白姫の顔色はどんどんと青白くなるばかりだ。呼吸すれば上下するはずの胸元は一ミリも動いていない。
「し、しらき?」
 慶の冷静さはどんどん失われてゆく。
「ふっ」
 魅黒はそんな姪を見て冷笑する。
『落ち着け』
 慶の耳に白の声が届き、慶は我に返ったように目を見開く。
『返事はするな。そのまま騙され続けていろ』
 白の言葉に、いつかの日のことが脳裏にフラッシュバックする。
 ──相手に見せつける迫真の演技だという名目で在れば、中々に使える。但し、演技する本人まで騙されていなければの話だがな。
 ──貴方に足りないのは知識、経験、戦闘能力、それを的確に使うことが出来る冷静さと判断力、対応力。
 過去言われた白と智白の言葉が、慶に冷静さと責任感を芽生えさせた。
「し、しらきっ。目を開けて。返事して!」
 慶は震える声でそう続ける。白の言葉で、目の前にいる白姫が偽りであると感じ取った慶は、騙され続ける演技をする。大根役者であった慶だが、白姫と何かあったときに役立つかもしれないと、演技の猛特訓も重ねていたため、その演技力は若手女優並に成長していた。
「お友達ごっこか? なぜ敵対しているであろう黒妖弧の血が流れるモノを守り、仲良うできるのか、余には理解できない。白妖弧側にとって我々は、危険でしかないはずだ。むしろ、そうあらねばならない」
「ど、どうして敵対しなければならないんですか? 何故、対立しなければならないんですか? 何故、半妖弧達の命を奪うんですか?」
 慶は今まで溜めていた疑問を魅黒にぶつけた。
「我々がトップに君臨し続けるためには、白妖弧達は邪魔な存在でしかない。仲良しこよしでは、皆(みな)がまとまり切らぬからな。誰かが絶対的立場にいなければ場が荒れる。我々に調和はいらない。半妖弧達は歪んだ愛の形の結晶。本来であれば、我々あやかしと人が共存することなど、ありえぬ。ましてや、愛を育むなどあってはならぬこと。皆がそのようなモノばかりでは、我々の世界は半妖弧ばかりとなってしまう。
 半妖弧達は我々純血妖弧達よりも命が短く、妖力も弱い、他の妖弧にやられてしまえば、こちらに負荷がかかってくる。尻拭いをし続けなければならない。故に、我々を絶滅に及ぼす可能性があるモノ達でしかない。全ては我々が永遠の王座に君臨し、生存し続けるため。遠い将来を思ってのことだ。危険な芽は、早め早めに摘み取っておくのが利口であろう」
「生存し続けるために、命を奪うと? 全ては力のために?」
 慶は何処か憤りを感じる声音で問う。
「なぜ、人間は殺人や事件を悪だと思う?」
「殺人はいけないことです。それが当たり前だからです」
「なんと智慧のない。平和ボケも甚だしい」
 魅黒は左手の指先を額に当て、嘆かわし気に首を左右に振った。
「よいか、戦国時代では殺人が当たり前にあった。お前たちの時代であれば、戦争と言えば理解しやすいか? 己や大切な人を守り、世界を変えるためには、避けては通れぬ道であった。メディアがない時代では、人の口(ことば)がメディア化されており、人々はそれらに翻弄され、しないでもいい殺人が往々にして起こっていたのだ。
 自分軸で生きておらぬことによってメディアに翻弄され、大衆の意見が集まることで良い悪いが作られた。そしてその良し悪しは、いつしか人々を洗脳し、ある種の平和を手に入れた。他人軸で生きるという代償と共に。調和を履き違えれば、ただの自分殺しでしかない。それが嫌ならば、メディアから植え付けられたモノを全て抹消させることしかないのだ。全ては、我々が我々で生きてゆくためのもの」
「欲しい世界を力ずくで作り上げ続けると?」
「まぁ、そうだな」
「力尽くで作り上げた世界なんて張りぼてです」
「ふはっ」
 魅黒は短く吹き出す。
「余に反論してくるとは」
 傑作だ! とばかりに、魅黒は、くくくくっと押し殺すように笑う。
「張りぼてがどうした? 服従するしかないモノ達が寄せ集まったところで、どうしようも──ッ⁉」
 魅黒の背後に刃が斜めに振り落とされる。だがその刃が魅黒の背中を傷つけることはなかった。感づいた魅黒が、振り返るように飛び避けたからだ。ただ、左頬にかまいたちでもあったように傷ができ、たらりと血が流れる。
「ほぉ」
 魅黒は感心したように、刃を振り落とした白姫を見る。
「白姫⁉」
 驚く慶の元で倒れていた白姫は、傀儡の藁人形に変化していた。
「流石智恵の家系。知恵を要いた戦い方をする」
「ッ! ……汝、我が手中へ」
 白姫は震える声で薙刀を振り落とす。
「⁉」
 魅黒から流れていた血液に一本の線が光る。
 ピアノ線のような糸は傷口から伸び、蛇のように魅黒の身体に巻きつき、魅黒を引き裂く。
「ッ!」
 慶は思わず目を瞑り顔を背ける。
「⁉」
 瞠目する白姫の左真横から長い足が伸びる。
 白姫は振り向き薙刀で身体を隠すが、薙刀の上部に引っ掛かるようにして蹴られた足から伝わる衝撃に耐えきれず、薙刀は二時の方角へと飛んで行ってしまった。
「フッ」
 冷笑する声と共に、魅黒が現れる。
「ッ!」
 しくじったとばかりに下唇を噛む白姫の背後で、へたり込んでいた慶が目を見開く。
「目には目を歯には歯を。よくできた傀儡には、よりよくできた傀儡を――な」
 魅黒は嘲るような笑みを浮かべ、そう言った。その声の何とも言えぬ重厚感と冷たさは、鳩尾が震える。
 白の持つ圧倒的存在感とまた毛色の違う威圧感が含まれた存在感が、部屋の空間さえ小さく感じさせた。
「白姫と言ったか?」
「……」
 白姫は何も答えない。相棒を無くし、どう立ち回ればよいか思考を巡らせていた。
「智慧の家系の女子であるのにも関わらず、よくぞ余に歯向かったな。先程の傀儡は智慧のモノとしての戦略も含まれていた。余に匂いでバレぬよう傀儡に自身の髪を入れ、血液を染み込ませていた。そして半黒妖弧の反応で余を騙しにかかった。なんとも小賢しい」
「こ、小賢しくて何が悪いのよ」
 白姫は反論して睨み据えるが、その声音や指先は恐怖で震えていた。
「悪いとは言っていない。小賢しかろうと、カッコ悪かろうと、泥臭かろうと、最後に勝てればいいのだからな」
『ゴッホ』
 白から慶の耳に暗号ともいえる指示が届けられる。
「み、魅黒さん」
 慶は立ち上がり、震えた声で魅黒を呼ぶ。
「嗚呼、お前がいたことを忘れていた。私の可愛くて憎き姪を」
 魅黒は白姫に向き合っていた身体と神経を慶に向ける。
「ココへ来た目的は私ですよね?」
「それもあるが」
「それも? 他に何か目的が?」
 慶は怪訝な顔で問う。自分以外の目的など、皆目見当がつかないのだろう。
「なんと記憶力のない。三年前、喋る鴉のことを忘れたのか」
「覚えていますけど、それがなんなんですか」
「なるほど。存在は覚えていれど、言葉は覚えていないか」
「?」
「アイツは、『恭稲白は今どこで何をしている?』と、お前に聞いたはずだ。忘れたのか?」
 慶に過去の記憶が勢いよく脳裏で駆け巡る。
――恭稲白は今どこで何をしている? 知っているのであろう?
――恭稲白が何処で何をしているのか本当に知らないのか? それとも、知っていて答えないと言っているのか?
 それらは、あの鴉男が碧海聖花達を襲った日に言っていた言葉だ。
「恭稲さんを見つけてどうするんですか?」
「恭稲白は白妖弧の総長である長男。現在の総長の命は時期に途絶えるだろう。そうなれば、必然的に恭稲白が白妖弧の総長となる。そうなる前に余が恭稲白を殺めてしまえば、白妖弧は終わる。我々に歯向かうモノ達がいなくなる。なんとも清々しいことだとは思わぬか?」
 両手を広げて嬉々としてそう話す魅黒の背中に、音もなく呪符が貼り付けられる。
「ぉ、思いません。力で征服して作られた世界なんて、孤独の塊です。貴方が作ろうとしている愛のない世界では、本当の笑顔は産まれない」
「ふっは!」
 魅黒は短く吹き出す。そして、傑作だとばかりに、ははははと右手で顔を覆いながら笑いを飛ばす。笑ってはいるが、恐ろしいことこの上ない。
「やはりアイツの血が流れているということか。お前もアイツと同じことを言う」
「?」
 慶は頭上にクエスチョンマークを浮かべた。
「お前の父親も、お前と似たような考え方をしていた。本来ならば黒妖狐というものは、純血主義者であらねばならぬ。力で相手をねじ伏せ、我々の世界を築き上げなければならないのだ。弱い人間も中途半端な半妖弧など不必要。力こそ全て。人間や半妖狐に対して寛容でいる白妖狐など、あやかしとして恥でしかない。にも関わらず、お前の父親は天狐になる前から余と父上に刃向かっていた。
 今の時代、地位や権力や己の強さで人やモノを動かし、自分の望む世界を作り上げるなど古い。だとか、僕はそんな愛のない世界を作り上げるつもりも、今の里のあり方を肯定することも一生ない。愛のない世界など、諸刃の剣のようなものだ。と里を出ていった。出ていった結果が今だ」
「……私の両親を殺めたのは貴方なんですか?」
「そうだと言ったら?」
 魅黒は下卑た笑みを口端に浮かべる。
「!」
 慶はギリッと握り拳を握りしめる。
「お前の母親である水瀬柊子は、お前の父である黒桂(つづら)と出会い、恋をし、愛を育んだ。それが破滅の根源だ。あやかしの子を身ごもったばかりに、我々に抹消されたのだからな。普通に人間と添い遂げていれば、我々に殺されずにすんだものを。水瀬柊子は一年もお前を育てることが出来ず、孤児院に預け、この世から抹消された。黒桂は我々の動向を先読みしていたのだろう。お前を孤児院に預け、水瀬柊子を闇探偵として過ごさせるようにしていたのだからな。
 だがどう足掻こうとも人は人。お前のように守ってもらえる後ろ盾もなかった水瀬柊子は、我々の手によって、この世から葬られたのだ。お前が産まれたばかりに、二人の人生が狂ったと言ってもよい」
「……ッ」
 慶は苦痛に顔を歪める。何も言葉が出ない。
「半妖弧が産まれるから、我々の世界が狂うのだ。この世に調和や中途半端な存在などいらぬ」
「檻炎、閉ざされしもの、燃え尽きたし」
 魅黒の背後についていた呪符が、智白の呪文により、炎で作られた織で魅黒を囲む。
「ほぉ~。まだ、動けたか」
 魅黒は肩越しに振り向くが、そこに智白の姿はなかった。
「時期にその檻は貴方を燃やし尽くします。命が惜しくば、一度身を引くことです」
 そう言った智白は、いつのまにか白姫の左隣に立っていた。
「パパ! ナイスッ」
 嬉々する白姫に空笑いを口端に受かべた智白は、薙刀を娘に手渡す。
「ありがとう、パパ! 助かったわ」
『藍凪慶、ヤンS』
「!」
 慶は白の呼びかけと指示にハッと我に返り、自身の嗅覚に神経を研ぎ澄ます。
「私に命令するのか? 智慧家系の分際で」
「命令ではありません。ただの忠告です」
 智白は魅黒の冷徹な瞳に屈せずに言い返す。
「ただの忠告か……。なら、私からも一つ忠告しておこう。妖弧は化かし合いの数だけ、勝敗と生存確率が高くなる」
 そう話す魅黒は檻の炎にどんどん包まれてゆく。だが微塵の焦りも感じさせなかった。
 四方ある部屋の端。慶が立つ場所から左上の天井に向い、慶が思いっきり飛び跳ねて剣を振り落とす。蝙蝠のように逆さに立つ魅黒が姿を現す。飛距離が足りずに、剣は魅黒自身を傷つけることはなかったが、魅黒の姿を隠していた札を破ることはできたようだ。
『封』
「ほぉ。我の匂いを感じ取ったか。だが残念だな。姿を見つけたとて、その戦闘能力では逆に殺られるだけだ」
 魅黒は回転し、天井に張り付いていた長い足を慶が持つ刀に振り落とす。空中で強い力を銜えられた剣は慶の顔の中央に降りかかるが、刀が持ち主を傷つけることはなかった。白が先手を打ち、剣を防御するものへと変化させたからだ。だが降りかかる力には抗えず、慶は剣を手から離してしまう。刀は勢いよく床に落下し、空中で体制を崩した慶は腰から床に落下してゆく。
 智白は飛び上がって慶を受けとめようとするも、魅黒の左手から伸びる爪の刃が智白に伸び、それを妨げられる。智白は空中で身体を左に半回転させて爪の刃を避けるが、左頬が掠めて薄っすらと皮膚が切れて血を流す。
 魅黒は右手で慶を腹部から引き寄せ、綺麗に着地する。
「うっ」
 身長差のある魅黒の片腕に抱きかかえられた慶は、苦し気な声を上げる。足の爪先さえ到底床にはつかず、腹部には魅黒の腕がめり込んでいるため、そうなるのも仕方がないだろう。
「慶! パパ!」
 片膝をつき着地した智白の左横に、慶の刀を拾い上げた白姫が慌ててつく。
「パパ! 具合は?」
「今のところは何も」
「毒のことを心配しているのか?」
 智白達の会話を聞いていた魅黒が問う。
「余はそんな姑息な手は使わぬ。毒でいたぶって抹消させるのは、時間がかかるから面倒だ」
 呆れ口調でそう言う魅黒だが、二人は疑いの眼である。
「パパはもう動かないで。アイツ等のいう事なんて信用ならないわ」
「えぇ」
「恭稲白は何処にいる? 事務所の結界は手薄になっていた。訪れた結果がお前らしかいない。何故、ここの主はいない。いつまで隠れているつもりだ! 声は聞こえている」
『そうだな。これ以上、事務所で好き勝手されても面倒だ』
 白の声音が慶の鼓膜に響く。
 白発光させながら慶がつけていた白狐ストラップのチェーンが弾け飛び、白狐のぬいぐるみが宙へ浮く。その場にいたモノ達は、各々に光から瞳を守る。
 カツッ。という靴の音と共に、一人の青年が姿を現す。
 脇下まで伸ばされた白髪がふわりと空中を踊り、主の背中に舞い戻ってゆく。
 粉雪のようにキメ細い色白の肌。スッと鼻筋が通った綺麗な鼻。形の良い薄い唇は、どこか怪しげに弧を描いていた。右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。その額縁には、濃い紫色の胡蝶蘭を閉じ込めたかのような色合いかつ、宝石のような透明感のある瞳が収められている。
 質のいいスタイリッシュなスリムスーツに身を包む身体は、百八十センチ以上あるであろう長身の八頭身。そこには余分な脂肪など微塵もついていない。
 白が持つバイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳が、慶と魅黒を真っ直ぐに捉える。
「派手なご登場なことで」
 厭味ったらしくそう言う魅黒に何も答えぬ白は自身の爪を蛇のように伸ばし、慶を奪い返そうとする。だが魅黒の鋭利な左爪が慶の首元に当たることで、白はピタリと動きを止める。
「それ以上動けば、コイツの命はないと思え」
「この私を脅そうとでも言うのか?」
「脅しではない」
「殺りたければ殺ればいい」
 白はそう言って爪を慶に伸ばす。魅黒は爪を慶の首元に当て引き裂こうとする。
「⁉」
 魅黒は控えめに目を開く。慶の首元に当てたはずの爪が慶の全身を守る結界に阻まれ、魅黒の手を跳ね返したからだ。
 白は自身の爪の先から伸びた鞭のような光で慶を自分の元へ引き寄せ、自身の腕の中に収める。
「コレは、返してもらう」
 そう言った白は微笑を浮かべる。
 魅黒はハッと吐き出すような身近な笑いを溢し、くっくっくっと押し殺すような笑い声を溢す。
「まるでお前の所有物のような言い草だな」
「そのようなつもりは毛頭ない。感情を持つモノや者達は、絶対的な所有物にはならない。其方のように力で捻じ伏せたとしても、どこかで障害が生じれば、その縁は終わる」
 と話す白は慶を腕の中から解放し、「智白を」と凛とした声音で言う。慶は「はい」と頷き、智白の元に駆け寄った。
「慶、大丈夫?」
「うん。かすり傷一つあらへんよ。アレが守ってくれたし、恭稲さんが助けてくれたから」
「良かった。パパの分かりそう?」
「うん。智白さん、傷口を」
「えぇ」
「もう血は止まりそうですね」
 慶は智白の左頬から流れる血と傷口を確認する。目視と言うよりも、香りを確認した。
「どう?」
「……無臭。智白さんと私達が持つ匂い。それと魅黒の香り。今まで教えてもらった毒の香り成分は感じらへん」
「ということは、本当に毒ではなかったということね」
「少なくとも、私達の知っている毒性はないようですね」
 安堵する娘に、智白は油断は禁物だとばかりに冷静に話す。
「偉く順応な犬に成り下がったものだな。黒妖弧の恥が塗り重ねられるばかりで吐き気がする」
 白妖弧側で生きる姪の姿をしばし冷めた目で見つめていた魅黒は、吐き捨てるように悪態をつく。
「藍凪慶を恥だと吐き気がするというのならば、自分の失態を知った時には、泡でも吹くのか?」
「どういうことだ?」
 魅黒は声音をワントーン落として問う。
「其方の兄は今、どこで、何をしている?」
「さぁな。あの世で魂の浄化でもしているんじゃないか」
「ほぉ」
 白は何処かからかうような微笑を浮かべる。その笑みに疑念を感じ取る魅黒は小さな息を吐く。
「──今日の所は去ってやる」
「まるで負け犬の遠吠えだな」
「何も手に入れることなく去れば、ただの負け犬に成り下がる。だが余は違う。貴様等の守護者をもらっていかせてもらおう」
「!」
 魅黒の言葉の真意を瞬時に理解した智白は、部屋の扉の外に守護札を投げる。だが時はすでに遅く、魅黒が掌から出した黒色の気泡は部屋の外を覆い隠し、智白が守っていた結界ごと白凪が黒い球体の中に包み込まれる。
「⁉」
 自身に何が起こっているのか瞬時に理解できない白凪は、ぎょっとする。
「白凪ッ!」
 悲鳴じみた叫び声で白凪の名を呼ぶ白姫は焦って飛び出すも、魅黒が左手で出した黒い球体を向けられて阻止される。白姫は薙刀で黒球体から身を庇うものの、とてもそれで守れるものではない。智白は白姫を自身で庇うように黒球体を避けるも、技を浴びてしまい、そのまま意識を失ってしまった。
「パパッ!」
「智白殿! 白姫殿ッ!」
 白凪は悲痛な叫び声を上げ、球体の中から二人の身を案じる。
「そう心配することはない。お前は我々を援護するモノとなるのだからな」
「どういう意味なん? なんで白凪さんがッ」
 白凪が今まで何処にいて、なぜ今白凪が捉えられなければならないのか、何故魅黒が白凪を奪おうとするのか分からない慶は、右往左往しながら説明を求めるように言った。
「説明は後よ慶。まずは白凪を救出しないとッ」
「智慧家系の女子(おなご)が余に歯向かったとて、飼い犬に噛まれるより温いわ!」
 遊びは終わりだ! とばかりに、「百、黒切りの爪」と呪文を唱える魅黒は、右斜め下に向けた腕から指先にかけ、半球を描くように勢いよく腕を振りかぶる。
 黒い爪の刃が四方八方から散り散りに飛び散り、白姫と智白に傷をつける。ブローチによって身を守られた慶は、切り傷一つついていない。
 顔から足にかけ、いくつもの切り傷から血を流す白姫は両膝から崩れ落ちるように倒れる。
「白姫殿!」
 白凪は球体に両手をつき、白姫の身を案じる。白姫に意識はあるが、戦えるほどの余力は残っていない。
 地獄絵図を目の当たりにした慶は、ギリギリと歯ぎしりをする。慶はほどなくして、ガルルルルという獣のような、低音の唸り声を上げ始める。
「けい……だめ、覚醒しては、ダメよ」
 白姫はなんとか片膝をついて上半身を起こし、慶を落ち着かせようと慶の腕に右手を伸ばす。だが、伸びきった慶の鋭利な爪で遠慮もなく腕を引っ掛かれる。
「ッ!」
 白姫は顔をしかめ、跳ね除けられた腕を自身の胸に当てる。
「くくっく。本当に見境がないな」
 魅黒は押し殺すような笑みを溢す。
「慶殿! 駄目です! 心を落ち着かせて下され」
 白凪の言葉は慶の耳には届かず、刀を振りかぶりながら魅黒に向いかかる。
「本当に品のないことよ」
 魅黒は呆れ口調で呟き、先程と同じ技を繰り出す。だが先程同様に慶にかすり傷一つつくことはなく、守護されないモノ達に技が降りかかる――はずだった。
「雪花(ゆきばな)」
 白がそう呪文を唱えると、雪の花が部屋中に咲き乱れた。黒い爪の刃は雪の花に包み込まれ、誰も傷つけることはなかった。
「ほぉ。もう手出しはせぬのかと思ったがな。もっと早く助けてやれば良いものを」
「私には、私の目的とプロセスがある」
「それに仲間を巻き添えにしようというのか?」
「人聞きが悪いな。まぁ良(よ)い。不毛な言い争いなど、無駄なエネルギー消費でしかない。ソレは我々里のモノ。返してもらうぞ」
「⁉」
 魅黒の背後から雪の花吹雪が押し寄せ、大きな雪の花が白凪を包み込む球体ごと包み込み、白の元へと届けられる。それは一瞬の出来事だった。
「チッ」
 魅黒は忌々し気に舌打ちを打つ。
「解」
 白は傍に浮かぶ黒い球体に右手の平をかざし、そう唱える。黒い球体は雨のように流れ落ち、白凪がふわりと落ちてゆく。白は白凪を左腕だけで受け止め、そっと地に下ろした。
「白殿。感謝いたします」
 白凪は安堵したように、強張っていた身体の力を緩ませる。
「怪我はないか?」
「はい」
 自分の身を案じてくれる白をありがたく思いながら、白凪はコクリと頷く。
「智白達を」
「はい」
 白凪は強く頷き、怪我を癒すために白凪と智白の元へ駆け寄った。
「!」
 魅黒は声もなく目を見開く。いつのまにか慶が目と鼻の先にいたからだ。
「ぐるぐるるぅ」
 慶は唸り声を上げながら、刀を横からスライドさせるように振りかぶる。
 魅黒は慶の刀を瞬時によけ、「獏」と唱えて黒い球体を慶に投げつける。
 黒い球体は慶に直撃するが、慶には傷一つついていない。それもそのはずだ。すでに慶が何らかの結界で身を守られていると感じ取っていた魅黒は、獏と言う技で、その結界を解放したのだ。傷つける攻撃技ではない。
 魅黒は瞬時に慶との間合いを詰め、腹部に回し蹴りをするも、その場に慶はいない。慶が避けたのではなく、白の刃のない爪の鞭で縛られ、白がいる後ろへ引き戻されたからだ。
 爪の鞭に身体を縛られ身動きを取れなくさせられた慶は、唸り声を上げながら、白を睨む。今にも噛みつきそうだ。その姿は、慶本来の意識が消えていた。
「随分と反抗的になったものだな」
 白は微苦笑を浮かべ、人差し指と中指の指先を慶の額に当てる。
「ぐるるぅ」
 慶は唸り声を上げながら、白の指を振り払おうと首を激しく首を左右に振った。白はそれを気に留める様子もなく、「汝、微睡みの深海へ落ちたし」と唱える。すると、慶から全ての糸が切れたかのように全身の力が抜け落ち、すっと両瞼を閉じた。爪の鞭で身体を縛られていなければ、うつ伏せ状態で倒れる所だ。
「……。お前らはまだ多くのモノを守っているのか」
「其方(そなた)達には関係の無いことだ」
「守るモノや者を増やす分だけ危険が増える。いつまでも守り続ける側でいれば、いつか白妖弧は滅びるぞ。もちろん、我々の手でな」
「私達は黒妖弧などに滅ばされることはない。それは別のモノ達にも言えること。滅びる滅びないの問題であれば、現状、其方が一番滅びの道を歩んでいる」
「なんだと?」
 白を嘲笑っていた魅黒は、聞き捨てがならないとばかりに声のトーンを落とす。
「其方は肝心なことを見落としている」
「どういうことだ?」
 魅黒は腹正しさが募りながらも、白が何のことを指しているのか探る。
「碧海聖花の元に黒崎玄音を送り込んだのは、其方なのであろう?」
「何故、そう思う?」
「其方の匂いが黒崎玄音の香りに交じっていた。とても微量であったため、側近ではないのだろうがな」
「お前もまた随分と鼻が利くようだな。その通り。アイツはただの捨て駒だ」
「その駒は、今、どこで、何を、している?」
 魅黒に考える余白を与えるように、途切れ途切れに答える白であったが、魅黒にそのようなゆとりはない。
「白々しいことを。お前らが抹消したのではないのか?」
 魅黒は馬鹿らしい、と吐き捨てるかのように問い返す。
「私達は誰彼構わず、意味もなく、命を奪わない。そもそも私達にとって命というものは、奪うものではなく、救う対象。たとえその命が、人間であろうともな」
「嘘を付くのも、綺麗事ばかり並べるのも大概にしろ。あの場所には黒崎玄音の死体があったと聞いている。そこにはお前の香りがついていた。その後、黒崎玄音は一度たりとも余の前に現れていない」
「死体があれば死んでいる。目の前に現れなければこの世にいない。そんな安易なものなのか?」
 胸の前で腕を組む白は冷静な声音で問うた。その瞳は冷ややかであった。
「……お前、何か知っているな」
「今まで感づかなかったのは、そちらの知恵の無さ。実力行使だけでは、いずれ滅ぼされるぞ」
「ッ」
 魅黒は腹正し気に奥歯を噛み締める。
「今日の所は帰ってやる。だが、次に戯れの時間はない」
 そう言った魅黒は半球を描くように右腕を動かし、右掌を左肩へ当てた。どこからともなく出てきた黒色の霧が魅黒の全身が包み隠し、霧が晴れた時には、魅黒の姿はなかった。
「お手本のような負け犬の遠吠えだな」
 白は呆れ口調でそう言って、爪を元に戻す。慶が両膝から崩れ落ちる前に左腕で受け止めて抱き上げ、慶のベッドに寝かせた。次にその足を事務所の中央に向ける。
 慶達の部屋を含め、物が燦爛としていたり、壁に黒色の刺が刺さっていたりと、事務所は中々に荒れていた。
 白は卵を掴むような形でふわりと手を上げて開く。
「汝、意図された姿、あるべき場所へと」
 そう呪文を唱えると、白の手の平から溢れだした霧のような煙が恭稲探偵事務所に充満してゆく。
 ほどなくして、散乱した物達は一度空中へ浮かぶと、元の場所へと戻っていった。荒れ果てた壁や床も、綺麗さっぱりと元に戻った。まるで魔法にでもかかったように──。



  †

 白妖弧の里にて。

「兄上、何故ですかッ?」
「何がだ?」
 焦ったように問うてくる弟に対し、兄はいつもの口調で問い返す。
「里のことも、次期当主問題のことも宙ぶらりん状態で、一体何をしようと言うんですか? 何度も人間界に行って──何か目的があるんですか?」
「直近の目的だけを話すのなら、藍凪慶と藍凪慶が大切に思う者達を守護することだ」
「……藍凪慶がそんなに大切ですか? 兄上は、藍凪慶の奥の誰かを見ているのではないんですか?」
「……。赤子の時より時期当主として育てられてきたが、私には私の目的がある。その目的のためには、敷かれたレールを歩くことは出来ない。父上のことは、もうしばし白雨がサポートしてくれ。もう少し時間が必要だ。すまないな」
 白雨の問いには答えずそう言い残す白は、白雨の目の前から姿を消した。


  †

「白殿、二人の癒しは終えました」
 白凪は腹部辺りで両手を重ねて行儀よく立ち、白と向き合って話す。
「嗚呼。恩に着る」
「慶殿にお怪我はありませぬか?」
「嗚呼」
 相槌を打った白は自身のオフィスデスクの右横の細い引き出しから一つのチョーカーを取り出し、スーツの左ポケットにしまった。その足で慶達の部屋に戻り、うつ伏せで倒れている白姫の傍で片膝をつき、白姫を仰向けにさせた。
「しばらくは夢の中かと」
「そうだな」
 白は白姫の両膝に左腕を、右手は両肩を包み込むように差し込み、軽々と持ち上げた。いわゆる、お姫様抱っこだ。
 白は白姫をベッドにそっと寝かせ、布団をかけてやる。
「無理をさせてしまい、すまなかったな」
 白はそう言って、白姫の乱れた髪をそっと整える。
 次に白は慶の元へ歩み寄り、先程持ち出したチョーカーを取り出して慶の首につける。シンプルなホワイトカラーのベルトに、剣のチャームがついている。剣の峰に近い刃の部分には、水晶のような宝石が埋め込まれていた。
「汝、荒れ狂う波紋を玉(ぎょく)に収めよ」
 白は人差し指と中指先をチョーカーに当て、そう呪文を唱えた。
「……。このため、ですか?」
 お腹の前で両手を重ね、白の数歩後ろで控えていた白凪は控えめに問う。
「嗚呼。藍凪慶は、半白妖弧ではないからな。恐ろしい思いをさせてすまなかった」
「いえ」
 と、控えめに首を左右に振りながら答える白凪は温顔であった。
「もうしばしココにいて、皆を援護してくれるか?」
「はい。私は白殿側についていますゆえ」
「しばし一人にさせるが、すぐ戻る」
「はい」
 白は穏やかに目を細め、白狐ストラップに戻る。故意に戻ったのではなく、戻る時間がきただけだ。
「──やはり白殿が何を考えておいでなのか、童にはとうてい推し量ることなど出来ぬの」
「白様は、悪いようにはいたしません」
 目覚めた智白がそう言った。
「智白殿! もう目覚められたのですか?」
 明日の朝までは眠っているであろうと思っていた智白の回復力に、白凪は驚愕する。
「えぇ。白様より策を伝えられておりましたので、予め保護をしていたんです」
「白姫殿は?」
「いえ」
「何故ゆえ?」
 白凪は首を左右に振る智白に不思議そうな顔をして問う。
「その必要性があったからです」
「さよう、ですか……」
 白凪はどこか腑に落ちないながらも、頷いた。これ以上聞いても答えてはくれないと、感じ取ったのだろう。


  †

 恭稲探偵事務所に落ち着きが戻った三十分後、白が戻ってきた。
「お帰りなさいませ、白様。里の方はよろしいのですか?」
「良い悪いで答えるのならば、後者だろうな。時期に白雨がやってくるだろう」
「よろしいのですか?」
「嗚呼。そちらは? 無理をさせてすまなかったな」
「私共は大丈夫です。白凪や偽の白様がおりましたので」
「他のモノ達は?」
「二人は眠っています。白凪は二人に寄り添っています」
「そうか」
 白は頷き、いつものチェアに腰を下ろし、パソコンなどの端末達を全て起動させる。
「それで、白姫が遭遇した黒妖狐は我々の知るモノだったんですか?」
「嗚呼。ナイトが動いてくるかと思ったが、現れたのはポーンだった」
「どういうことですか? ポーンと言うのは?」
 白は智白の問いにヒントを与えるように、不思議な試合展開を見せるチェス盤に視線を映す。
「任務を達成させられずに消滅させられるはずだった駒は、ナイトの手によって息を吹き返したようだ」
「……あのモノが生きていたんですか⁉」
 白が言う駒が誰のことなのかを理解する智白は驚愕する。
「嗚呼。今までどこで雲隠れしていたかは分からぬがな」
「でも何故今頃になって姿を? しかも我々の里に」
「里に残る藍凪慶の香りに誘われたのだろう」
「……まさか、我々の里で藍凪慶を修行させ続けたのも計算の内ですか? 誘き寄せるための」
「かも、しれないな」
「はぁ~」
 蠱惑的な笑みを浮かべて答える白に対し、智白は呆れと感嘆が混じる溜息を溢す。
「危険すぎます」
「ポーンであれば白雨で対処ができる」
「里へ訪れたモノがナイトだったら、どうするおつもりだったのですか?」
「ナイトの目的は我々の里を破滅させることでも、白妖弧の誰かを奪い去ることもない」
「──目的はあくまでも、藍凪慶であると?」
「嗚呼。目的が藍凪慶である限り、我々を傷つけることはない。ナイトにはナイトの考えがあり、やり方がある」
「さようでございますか。では、私達は次にどう動けば?」
 白に何を言っても仕方ないし、悪いようにはならない。何より、白を信じている自分を信頼し、自分の選択に責任を持っているからこそ、智白は変わらず白についてゆく。
「まずは、藍凪慶の精神状態を平常に戻すことからだな」
「覚醒した時の記憶が残っていれば、自分を責めるでしょうからね」
「嗚呼。よく見ておいてくれ」
「かしこまりました。では、また何かあれば」
 智白はいつものように右掌を胸元に当て、頭を下げる。
「嗚呼」
「それでは」
 智白はそう言って自室に戻っていった。
 一人残された白は端末を確認し、新たな依頼者を探すのだった。


  †


「っ……」
 白姫は小さな呻き声を上げて目を覚ます。
「白姫殿!」
 白姫の枕元の近くで白姫のチェアに座っていた白凪は、前のめり気味に白姫の顔を覗き込む。
「大事はないですかッ?」
「しら、なぎ……」
 白姫は重だるそうに上半身を起こす。
「ご、ご無理をなさらぬで下さい」
 慌てる白凪は白姫がいつ倒れても支えられるように、左腕を白姫の背中に、右腕は白姫の正面に伸ばす。
「大丈夫よ。癒してくれてありがとう。助かったわ」
「いえ」
「それより、貴方が無事でよかったぁ」
 白姫は上半身を捻り、心底安堵したように白凪を抱き締める。
「白姫殿……」
 白凪は緊張の糸が切れたように、瞳を潤ませる。それでも、涙を流している場合ではないと、泣き崩れてしまいそうになる心をグッと耐えた。
「助けてあげられなくてごめんなさい。白狐ストラップの白様がいてくれて、本当によかった……。私もまだまだね。もっと修行しないと」
「そんなことありませぬ」
 白凪はフルフルと首を左右に振る。
「智白殿の結界によって守られていた童の姿は、白姫殿から見えておらなんだことと思いますが、童からは白姫殿の姿は、しかと見えておりました。あのように恐ろしいモノにも果敢に挑み、皆を守ろうとするお姿はとても勇敢で、立派でございました。尊敬しかありませぬ」
「白凪……。ありがとう。それでも私はみんなを守るために、もっと強くなりたい。強くなりたいから、もっともっと修行するわね。だから、これからも私をサポートしてくれるかしら?」
「もちろんでございます。怪我の癒しは白凪にお任せ下さい」
 潤む瞳を輝かせる白凪は胸の前に拳を当てる。なんとも心強い。
「ありがとう」
 そう言って微笑む白姫に穏やかな雰囲気が戻った。かと思えば、白姫は大切なことを思い出したかのように、ハッとした。
「そういえば慶はどうなったの? 覚醒したみたいだけど」
「慶殿はベッドで眠っています。慶殿のことは安心して良いかと。白様が例のチョーカーを慶殿につけられておりましたので。例え、再び覚醒したとしても、大きな惨事になることはないでしょう」
「そうね……。やっぱり白様の目的はそれだったのね」
「目的を知らなんだのですか?」
 白凪は驚愕する。
「えぇ。ちゃんとした説明は聞いていないわ。だけど、白様のことだもの。変なことはしないし、変なことにもならない。今後皆が光ある未来に進むために必要なことだと感じたから、分かっていたから、私は何も聞かされなくとも戦うことが出来るのよ」
「凄い信頼ですの」
「白凪もでしょう?」
「無論。童は何度も白様に命を作っていただいている身でございますゆえ。この命ある限り、童の命も力も、白様の援護に使いたいと思っております。ご本人には言えませぬが。きっと叱られてしまいます」
 白凪は微苦笑を浮かべる。
「そうね。きっと、白凪の命も力も白凪の物だ。一生涯誰かのために捧げるものでも、使うものでもない──とかね」
「言いそうでございますね」
「それと同時に、だがどう生き、どう選択してゆくのかは白凪の自由だ。私は何も言わぬ──とかも言いそうだわ」
「ふふふ」
 白凪は同意を示すかのように微笑んだ。
「んっ……」
 穏やかな空気を停止させるように、慶の小さな呻き声が部屋に響く。
 白凪はピクリと肩を震わせ、身体を硬くさせた。それは無意識だった。
 チョーカーをつけている限り慶が暴走することはないとわかってはいるが、覚醒した半妖孤の恐ろしさを身を持って知っている白凪にとって、顕在意識でコントロール出来るものではなかった。
「大丈夫よ。白凪はココにいて。私が様子を見てくるから」
「かたじけない」
 しょんぼりと肩を落とす白凪に優しく微笑む白姫は、「大丈夫よ」と、自身の前にあった白凪の腕をポンポンと優しく叩く。
 白凪は自分が情けなくて、力なく微笑むことしか出来なかった。
「大丈夫」
 白凪を通して自分にも言い聞かせるようにそう言った白姫は薙刀片手に、慶が眠るベッドへ歩み寄った。薙刀を手にするあたり、白姫も不安が拭いきれていないのだろう。
「けい?」
 白姫は控えめに慶の名を呼ぶ。
「ん……」
 慶は一度両瞼をぎゅっと閉じて開ける。その後何度か瞬きを繰り返し、視界に白姫を映す。
「白姫?」
「大丈夫? 具合はどう?」
「だい、じょうぶ。どうなったん? 魅黒は?」
 まだ意識がハッキリとしない慶は、ぼんやりとしながら問う。
「魅黒は一度去ったみたい。荒れていた事務所も元通りになっているわ。怪我は白凪が綺麗に癒してくれた。今はもう大丈夫。平穏よ」
「けが……怪我ッ⁉」
 慶はハッとしたように、勢いよく上半身を起こす。
「!」
 慶の顔を心配そうに覗き込んでいた白姫は、その勢いに思わず仰け反る。危うく頭突きに合うところだ。
「ど、どうしたの?」
「なんか、よぉ覚えてへんねんけど……でも、たぶん、白姫に怪我させてもうた。なんか、パニックになってからの記憶があらへんのよ。せやけど、白姫がなんか声をかけてくれた気がしてて──私、なんかしてもうたん?」
 右拳を口元に当てながら独り言のように話していた慶は真実を知ろうと白姫を見る。その瞳は不安定に揺れていた。
「……えっと、その──」
 白姫は自分が今真実を伝えてしまってもいいものか、どこまで伝えていいものなのかわからず、言葉に詰まってしまう。
「取り敢えず、私達は大丈夫よ。慶も大丈夫。詳しい話しは、白様かパパに聞いてちょうだい」
♪コンコンコン。
 まるで助けが入るように、扉のノック音が部屋に響いた。
「私です」
「どうぞ」
 白姫の返答を確認した訪問者は、「失礼」と一言断りを入れてから、部屋の扉を開ける。
「パパ……」
 白姫は安堵したように胸を撫で下ろす。
「丁度皆目覚めていましたね。白姫、具合はどうですか?」
「大丈夫。今すぐ戦えるほどのエネルギーは残っていないけれど」
 白姫はそう正直に答え、苦笑いを溢す。
「日常生活が出来るなら十分です。先程より白様が戻られています」
「白様が⁉」
「えぇ」
「よかったぁ」
 智白の吉報に、白姫始めとする二人も安堵の溜息を溢す。それほどまでに白の存在は大きい。
「白姫。白様がお呼びです。すぐに行って下さい」
「ぇ? 私が? どうして?」
 いつもであれば呼び出しされるのは慶だ。しかも、現状を考えれば、自身ではなく慶が呼び出されるはずなのでは? とばかりに首を傾げる白姫に対し、「早くお行きなさい」と、智白が顎で指示を出す。
「わ、分かったわよ。えぇ~……一体なんなのかしら?」
 白姫は両肩を落とし、おずおずと部屋を出ていく。慶達をまともに守ることも出来なかった自分を責めている白姫にとって、今の呼び出しは負の想像しか湧いてこぬのだろう。
 残された白凪は、「では、童も──。何かあればお呼び下され」と、自身の部屋である予備のゲストルームに戻って行った。
 部屋に残った二人に、刹那の沈黙が流れる。
「さて、貴方の具合はどうですか?」
 智白はカツカツと靴の音を鳴らし、慶の傍に歩み寄った。
「身体に外傷はありません。記憶は鮮明に残っている所もあれば、ほぼ消えている所もあります」
「それは、我を忘れた時からですか?」
「私、どうなったんですか?」
「覚醒したんですよ」
「覚醒? そう言えば、いつかの日も“覚醒”という言葉を使われていましたよね? もしかして、私の知らない何かがまだあるんですか?」
「えぇ」
 智白は黙っていたことを悪びれる様子もなく、あっさりと頷く。
「どうしてあの時、全てのことを教えてくれなかったんですかッ?」
「あの時の貴方は、全てを知るタイミングではなかった。ただ、それだけのこと」
「ただそれだけのことって──」
 慶は憤りを感じさせるように、小さな息を吐く。
「安心なさい。今から全てを話します」
「本当ですか?」
 慶は怪訝な目で智白を見上げる。
「えぇ。だから、心してお聞きなさい」
「──はい」
 コクリと一つ頷く慶は、智白は本当に全て話してくれるのか、自分に何が起きたのか、何重もの不安を抱えながら耳を傾けるのだった。


  †


「白様、お帰りなさい」
 白姫は本物の白の姿にほっと安堵する。と同時に、何を言われるのか戦々恐々としながら、白の前に歩み寄る。
「嗚呼」
「私にお話しってなんですか?」
 白姫は一抹の不安を抱えながら問う。無意識に薙刀を握る力が強まる。
「無理をさせたな」
「へ?」
 思いもしていなかった言葉に、白姫は珍しく素っ頓狂な声を溢す。
「大事はないか?」
「は、はい。慶達をしっかり守り切れず、すみません。ナイト、失格です」
「本当にそう思うか?」
「ぇ?」
「白姫は自身をナイト失格だと思うならば、そういう未来しかこない。だが、自分はナイトなのだと思い続け行動する限り、ナイトで在り続けるだろう。分かるか?」
「私は、今の自分が不甲斐ないです。もっと強くなりたい。もっと大切な人達を守れる力が欲しいです」
「ならば、一度ココを出ろ」
「⁉︎」
 思わぬ言葉に、白姫は目を見開く。
「勘違いするな。役立たずだと言っているわけでも、追い出そうとしているわけでもない」
「なら、どうしてですか?」
 白姫は微かに声を震わせながら問う。
「お互いに距離を取る必要性があるとは思わぬか?」
 白は白姫が持っている薙刀に視線を移す。白姫が覚醒した慶を目の当たりにして、恐れと不安が拭い切れていないことを悟っているのだろう。
「……」
 白姫は薙刀をグッと握り締める。それは同意を示すものだった。
「私はここをでて、何をすればいいんですか?」
「守里愛梨の守護強化に勤めてもらう」
「愛梨が危険なんですか?」
 白姫は思わぬ指示に驚く。
「予防線としてだ」
「分かりました」
「住まいは、白樹のアパートに。部屋は隣でも同室でも好きにしてくれて構わない」
「白樹も危険なんですか?」
「いや、あの者は白樹の存在を知らぬ」
「あの者?」
 白姫は目を細め問う。
「黒崎弦音だ」
「生きていたんですかッ⁉」
 もう二度と聞くことはないと思っていた名が唐突に飛び出し、白姫はぎょっとする。
「そのようだな」
「碧海夫妻の守護強化はしなくていいんですか?」
 至って冷静な白に促されるように、すぐに冷静さを取り戻した白姫は的確な質問をする。
「嗚呼。そちらは既に対処している」
「分かりました。いつから動けばいいんですか?」
「今夜に」
「分かりました」
 白日はコクリと頷く。
「それまでは白凪と共にいるか、智白の部屋にでもいろ」
「慶と顔を合わすなと?」
「いや、ココを出る前に一度話せ。但し、一度里に戻るように要請されたとでも言っておけ」
「嘘を?」
「本当の理由を話せると思うか?」
「いえ。愛莉の守護強化なんて言えばテンパるかと。そして、更に自分責めに陥る」
「嗚呼」
「分かりました」
 白姫は全てを受け止め、白凪のいる部屋へ足を向けた。
 ほどなくして、智白が戻ってくる。
「様子はどうだ?」
「予想通りですね」
「そうか。まぁいい。どんなに堕ちても這い上がってくればいいだけのこと」
「這い上がると思いますか?」
「自ら這い上がってこられぬのならば、こちらが促せばいいだろう」
「藍凪慶には甘いんですね」
 智白は小さな息をつく。
「どこが」
「全てですよ。まるで、守り育てているかのようです」
「──ふっ」
 白は何も答えず、短くも乾いた笑みを溢す。
「まぁ、私共はサポートし続けるだけですから、何も言いませんけど。では、また何かあれば」
 智白はいつものように執事のごとく会釈をして、自室へ戻る。
「……」
 一人残された白は何も言わず、ただ自嘲気味な笑みを溢すのだった。


 †

 恭稲探偵事務所。
 午後二十時。
 ♪コンコンコン。
「私よ。入るわね」
「うん」
 白姫は慶の返答を聞いてから、部屋の扉を開けた。慶は未だベッドで布団にくるまって横になっている。
「具合悪いの? 夕飯も食べてないようだけど……」
「夕飯はいらへん……。そないに優しくせんでええよ。ごめん白姫」
「何を謝っているのよ。気にすることないわ」
「気にするに決まってるやん!」
 慶は勢いよくベッドの上に立ち上がり、声を荒げる。その顔には涙の跡がくっきりと残り、顔は腫れぼったくなっていて、なんとも痛々しい。
「慶、お行儀が悪いわよ」
「……ごめんなさい」
 慶はしょんぼりと両肩を落とし、項垂れるように両肘をベッドの上に付けて女の子座りをした。
「慶。私、しばらくココを出るわね」
「ぇ⁉」
 白姫の言葉に慶は大きく動揺する。
「一人早とちりしないで人の話は最後まで聞いてちょうだい。多分、自分のことが恐ろしくなったから~とか、私が傷つけしまったから~とかなんだとか思っているんでしょう?」
「──っ」
 図星をつかれ言葉に詰まった慶は視線を落とす。
「まったく。失礼しちゃうわね」
 とプリプリする白姫は、自身のクローゼットから大学用のバックを取り出した。
 フロントにつけられた細めのベルトの上に、大振りな蓮の花モチーフの南京錠ビジューがワンポイントに光るA4トートバッグ。ショルダー付きの2WAY仕様なことや、あおりポケットにスマホが収納できるうえ、デザインカラーがホワイト一色なところが白姫のお気に入りだった。
 慶はそんな白姫を不安気に見守る事しか出来なかった。
「変な勘違いしないでちょうだい。心外だわ」
「す、すみません。じゃぁ……なぜ故?」
「一度里に戻ってくるように言われたのよ。私、これでも里から頼りにされているのよ。特に女性の白妖弧達にね。大丈夫よ。用が済めばまた会えるから」
 白姫はそう言いながら、勉強机にある大学で使っている教科書たちを先程のバッグに詰めてゆく。
「里から大学へ通うん?」
「そうね。単位落としたら面倒だと聞くし。それに人間界の勉強もしておかなくっちゃね」
「白姫が学んできたことと、人間界の学びは違うん?」
「そりゃそうよ」
 当たり前でしょ。とでも言うように、白姫は大きく頷き、話しを続ける。
「学ぶ必要性があるものや、学ぶべき題材が違うもの。掛け算や割り算の数字的な勉学や、日本語の文字の読み書きは同じみたいだけど。他は初めて見聞きするものが多いわ。高校の時からね。だって、私達の世界に戦国武将なんて人達はいないもの。社会地図だとか、英語などの語学だとか、水道が同たらこうたらとか訳が分からないわ。里では水道は井戸水。ガスは無いから火を起こすのよ。まぁ、ふた昔ほど前の日本と似たような暮らしかも知れないわね。冷蔵庫もないし。世界が便利になるだけ学ぶべきことも増えて大変ね」
「……そっか。そうなんやね。大変な思いさせてごめんな。 勉強辛いやん」
「おつむの弱い慶と一緒にしないでちょうだい」
「ぇ?」
「誰も勉強が辛いだとか、難しいとか言ってないでしょう? 変な先入観や自分の価値観で決めつけるのは良くないわ。私を誰だと思っているのよ?」
「す、すみません。えっと……白姫は白姫です」
「ただの白姫じゃないわ。智慧の家系の長の娘よ! 命の安全を確保された人間界の勉学を習得するなんて、私にとっては容易いのよ」
 白姫は悪役令嬢よろしく、おーほほほっほほと、高らかに笑って見せる。部屋から漏れる白姫の笑いに、智白は頭を抱え、白は密かに微苦笑を浮かべるのだった。
「さ、流石です。ていうか、そんなキャラでしたっけ? 変なモノでも食べた?」
 白姫のキャラ変に慶は苦笑いを浮かべる。
「私は私よ。他の誰でもないわ。どんな属性のキャラになろうともね。私は私。慶は慶──でしょ?」
「……うん」
 まるで言い聞かせるかのようにそう問うてくる白姫に、慶は力なく頷いた。
「じゃぁ、行くわね」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます。帰ってきたらまたスイーツパーティでもしましょう。今度は白凪も加えての女子会よ」
「うん」
 慶は力なく微笑み返す。
「じゃぁね。ちゃんとご飯食べるのよ。起きたことや、起きてもいないことをうじうじ考えて、うじうじ虫になってちゃ駄目よ」
 荷造りを済ませた白姫だが、慶のことが心配で中々部屋を出て行こうとしない。
──黒崎玄音という不安の芽は摘み取った。だが、碧海聖花がまた不安の種を育てれば、いずれその芽は花を咲かす。起きていないことをうじうじ考えるな。そんなうじうじ虫では生きにくいだろう。
──あげくにナメクジです。
「ふふふ」
 過去、白と智白に言われた言葉が脳裏にフラッシュバックし、慶は似たもの通しだなと、思わず笑みを溢す。
「何笑っているのよ?」
「べっつにー」
「別にってなによ、別にって」
 まったく、失礼しちゃうわね。とばかりに白姫は息を吐く。
「白姫」
「なぁに?」
 白姫は間の字した返事をして小首を傾げ、耳を傾ける。
「ありがとう」
「……やっぱり、慶は慶ね。こちらこそ、ありがとう。またね」
 そう言って微笑んだ白姫は、ごめんね。と言う言葉を胸の内で伝え、部屋を後にした。
 残された慶は両掌を胸に当てて、口端を上げる。白姫から伝わる優しい光を感じ取っているのだろう。目覚めてから初めて、慶が穏やかな笑みを見せた瞬間だった。


 †

 午後二十二時──。
 恭稲探偵事務所に訪問者が現れる。


♪コンコンコン。
 慶の部屋の扉がノックされる。
「はい」
「僕だよ」
 どこか女性的な色香が入り混じる男性の声音でありながらも、儚げな透明感と可愛さを感じさせるハイトーンボイスが返ってくる。
「⁉」
 想像していた声音と違う声が部屋に響き、慶は目を見開く。
「開けていい?」
「どうぞ」
「お邪魔しま~す」
 間延びした声と共に扉が開かれ、一人の青年が姿を現す。
「久しぶりだね」
 全体的に薄い桜色の富士山型の上唇が印象的な口元から、透明感のある柔らかなハイトーンボイスを発す二十代前半程の男性が微笑む。
 重たい印象を与える前髪のマッシュウルフヘアーだが、ダークミルクティー色に染め上げているため、どこか重々しくない。表情は前髪で隠れていて分かりにくいが、柔らかで優しい雰囲気に満ちており、警戒心が剝ぎ落される。
「風間、先生……」
「ふふっ」
 慶の言葉に青年は短く吹き出す。
「久しぶりに言われた。風間亜樹音の姿をしているけど、白樹でいいよ。ココだしね」
「白樹さん、どうされたんですか?」
「アイス、食べない?」
 白樹は左手に持っていた紙袋を自身の顔の前に持ってくる。
「……」
「あれ? アイス嫌いだった? 姫の情報だと、3☆のショップにあるチョコレートと抹茶とチョコチップミントのフレーバーが好きって話なんだけど。さては、ガセネタを流してきおったな」
「ふふふ。ガセなんかじゃないですよ。3(スリー)☆(スター)のアイス店も、そのフレーバーたちも好きです」
「良かった。急にだんまりするから不安になるでしょーが」
 白樹はそう言って、両頬を膨らませる。
「すみません。なんか今、甘いモノ食べてテンション上がるって感じでもなかったので」
「別にテンション上げなくてもいいよ。ただ、僕と一緒にアイスでも食べながら僕の話を聞いてくれるだけでいい」
「話しって?」
「僕達にしか共有できないこと」
 先程までの明るい口調から、ぐっと大人びた声音と表情に変化する白樹は、部屋の扉を振り向くことなく右手で閉める。
「まぁ、まずはアイスでも。溶けちゃう。慶、何食べる?」
「……チョコレートが良いです」
「了解。ちょっとおかしてもらおう」
 という白樹は紙袋を白姫の机に置き、冷蔵庫の横に立てかけてあった折り畳み式机を広げる。Lサイズのピザ箱が二つほど置けるサイズ感だ。
「椅子も出すね」
「自分の椅子は自分で」
 赤ずきんのように布団にくるまっていた慶はベッドから降り、勉強机の左横に立てかけてあった折り畳みの丸椅子を、四角形の折り畳み机の西の方角に置いた。
 白樹は冷蔵庫の傍に置いてあった折り畳みの背もたれ付き丸椅子を広げ、東の方角に置く。この椅子は白樹用に購入されたものだ。
「スプーン出しますか?」
「うん。ありがとう。でも大丈夫だよ。お店の人、アイスの数だけスプーンくれたから。残りは冷凍庫に入れとくから、また姫とでも食べて」
 白樹はそう言って、チョコレートとバニラだけを取り出し、残りは冷凍庫にしまう。
「わかりました。じゃぁ、紙ナプキンだけ。ありがとうございます。でも、白姫は当分帰ってこないかもです」
「へ? なんで? せっかく姫の好きなキャラメルフレーバーも買ってきたのに」
「一度里に戻って来るようにと言われたようで──」
「へぇ~。そうなんだ。まぁ、アイスが腐るまでには戻って来るでしょ。アイスの味が落ちるだけだよ」
「ふふふ。だと良いですけど」
 慶はそう言って、ファミレスとかにある紙ナプキンをアイスが置かれている横に置いた。自身のは右側に、白樹のは左側に。利き手のことを考えて置かれている所が、慶の気配りを感じさせた。
「アイスと関係ないんだけどさ、ヘアゴムかヘアピンとかない? さっきから前髪が鬱陶しい」
 冷蔵庫を閉めて振り向く白樹は、前髪をどかすように首を左右に振る。
「あぁ、私ので良ければ」
「貸してもらえる?」
「はい。ヘアピンとヘアゴムどっちがいいですか?」
 小首を傾げてくる白樹にそう問いながら、慶は机の引き出しから黒色のメイクポーチを取り出す。
「ヘアゴムのほうがありがたいかな。ヘアピンは難しいから」
「わかりました」
 と頷く慶はポケットティッシュケース付きポーチを取り出し、その中から紺色のヘアゴムを一つ手に取って、白樹に「どうぞ」と手渡した。他にも黒色と赤色のヘアゴムがあったが、あえて紺色を選んだのだろう。
「ありがと~う。助かったよ」
 白樹は間延びしたお礼を言ってヘアゴムを受け取り、重い前髪を掻きあげ、ちょんまげスタイルで一まとめにしてくくる。前髪がなくなったことで、隠していた白樹の目元と瞳が露わになった。
 少し釣り目気味でありながらも、存在感のある涙袋と二重が柔らかさを与えている絶妙なバランスの目元は男性アイドルのようだった。だがその額縁に収められている瞳の色は、バイオレットと黒と白が淡く混ざり合い、時空のゆがみを感じさせる。その不思議な色合いと透明感のない艶やかな光沢感が、上質なチャロアイトを彷彿とさせている瞳に対し、慶が驚くことはなかった。
「ふふふ」
 瞳の色には驚かないが、ちょんまげスタイルには笑いが込み上がってくる慶である。
「な、なに?」
 慶の笑みに胡乱する白樹は顎を引く。
「ぁ、いや、あの……干物男子的で。せっかく整った顔立ちをしてはられるのに、残念さがあるな~って」
 慶はしどろもどろになりながらも、正直に答える。
「なんか褒められているのか貶されているのか分かんないんだけど。まさか! 姫と暮らすようになって、手厳しいのが映っちゃったんじゃ……」
 白樹は口元に右拳を当てて、あわあわと恐れるような表情を見せる。それがまた可笑しく思えてくるのか、慶はさらに笑みを溢す。
「失礼しちゃうな。もう僕一人でアイス食べちゃうからね。溶けても知らないからね」
 白樹は少し不貞腐れたように頬を膨らまし、自分の席に腰を下ろした。
「あぁ、ごめんなさい。悪気はないんです」
 慶は慌てて謝り、自身の椅子に着席する。
「悪気ない方が傷つくこともあるけど──まぁ、慶が笑顔になってくれるのならいいや。笑えるようで安心した」
「ぇ?」
 慶は白樹の言葉にキョトンとする。
「それ」
 白樹は慶の首についているチョーカーを人差し指でさす。
「ぁ……」
 白樹の言葉でハッとする慶は、チョーカーを包み隠すように左掌を重ねた。
「それをつけているってことは、覚醒した証拠だからね」
「白樹さんは?」
 慶は白樹の首元を見る。白いハイネックのニットを着ているため分らないが、過去に一度たりとも白樹が同じチョーカーをつけているところは見たことがない。
「僕もつけているよ。今は隠しているけどね」
「服の下に?」
「一応ね」
「どういうことですか?」
「汝、我が身に隠す鎖、姿を露わしたし」
 人差し指と中指の指先を自身の首元に当てながら、そう呪文を唱える。
 白樹の首元が淡く発光し、すぐに光は消える。
「?」
「ほら」
 きょとんとする慶に対して白樹は、両手でハイネックを折り曲げるように、鎖骨辺りまで下げる。そこには慶と同じ白のチョーカーがつけられていた。但し、ベルトに水晶のような宝石はついていない。
「呪文で隠していたんですか?」
「うん。チョーカーってネックレスと違って悪目立ちするからさ、時折面倒じゃない? それに、妖弧達にはコレが何であるか一発で分かってしまう。だから、隠していたんだ」
「なるほど……」
「僕が言ったこと、覚えてる?」
「?」
 慶は眉根を下げて小首をかしげる。
「見事な間抜け顔だ」
 ふふふと控えめに笑う。
「保健室で風間亜樹音として話したこと、もう忘れちゃった? 君が、『貴方はこちら側の方ですか?』と聞いてきた日のことを」
 白樹は慶の記憶を呼び起こすように問う。
 慶は白樹の問い掛けによって、碧海聖花として話した時の記憶が、脳裏で一気にフラッシュバックした。

──君の言う“こちら側”の意味が分からない。人間側なのか、あやかし側なのか。黒妖狐側なのか、白妖狐側なのか――。
──君の聞きたいことに答えるのならば、僕はどちらでもない。どちらにもなりきれなかったんだ。君と同じさ。
──どちらでもない? 私と同じってどういうことですか?
──僕はあの人の駒のようなもの。君の味方にも敵にもなれる。それと同時に、未来の君の気持ちが一番よく分かるモノだと思うよ。

「思い出した?」
 白樹の問いに、慶はコクリと頷く。
「あの時は、『君の味方にも敵にもなれる。それと同時に、未来の君の気持ちが一番よく分かるモノだと思うよ』という言葉の意味が分かりませんでしたが、今ならわかる気がします。……あの言葉は、半妖弧のことをさしていたんですね」
「うん。属性は違えど、僕も半妖弧だからね」
「じゃぁ、白樹さんも覚醒を?」
「一度だけ。だけど、これのおかげで大事には至らなかった」
 白樹はチョーカーを人差し指でさしながら言った。
「そうなんですね。チョーカーはストッパーの役割を?」
「うん。半妖弧は覚醒すると自我を失ったり、力をコントロール出来なくなってしまう。仲間がどんなにとめても、その仲間が逆に痛手を負う。覚醒したら敵味方が分からなくなってしまうんだ。覚醒したモノより強いモノであればとめることができるけど、運よくその場に、自身よりも強いモノがいてくれるという訳ではない。そこで、このチョーカーの出番ってわけ」
「?」
 慶はより深い説明を求めるように、小首をかしげる。
「半妖弧が覚醒したら、チョーカーが強制的に首を絞める。それも、死ぬ間際までね」
「⁉」
 白樹の言葉に慶はぎょっとする。
「ただ苦しめるだけでは、力の強いモノは抗いながら暴れてしまう。だから、気絶させる必要があるんだ。安心して。死ぬことはないから。絞められた跡は残るけど」
 白樹は苦笑いを浮かべながら少しベルトを下げて、自身に残っている掠れた古い跡を見せる。
「! そんなになるまで……」
 白樹の跡を見た慶は一瞬息を飲み、痛ましい気に言った。
「仕方がないよ。自我を忘れた僕等はただのケモノに成り下がる。それも、敵味方関係なく傷つけてしまうケモノにね」
 白樹は自嘲気味な笑みを溢す。
「どうして、覚醒なんてするんでしょう?」
「覚醒する理由は人それぞれだけど、主に大切な者やモノを傷つけられた時や、守りたい者やモノを守り切れない時に、より強い力を求めて覚醒する事が多い。守りたい人を守りたくて覚醒したのにも関わらず、守りたい者やモノを傷つけてしまうなんて、酷い話だよ」
「だからあの時……」
 慶は俯き視線を落とす。
「覚醒した時の記憶を失うことが多いんだけど、記憶が残っているの?」
「ハッキリ残っているわけではないんです。ただ、白姫が何か言っていて、手を握ってくれた気がするんです。だけどその後、視界に血が飛び散って──私が白姫を傷つけてしまったんです。あの時、白姫が否定も肯定もしなかったのは、肯定を示しています。白凪さんが怪我を癒してはくれていますが、白姫を傷つけてしまった事実は消えない」
 両膝に置いた拳を握りしめる慶は、罪悪感を押し殺すように苦い顔をする。
「……そっか」
「白姫は普通通りに接してくれようとしていますが、恐ろしい思いをさせてしまったのは事実。それでなくとも、私がここへいるばかりに皆を傷つけ、危ない目にあわせてしまっている」
「それ、本当に言っているの?」
 白樹は少しムッとしたように、声のトーンを落とす。
「ぇ?」
「確かに覚醒して、姫を傷つけたのは真実かも知れない。だけど、今回皆を危険に晒したのも、晒しているのも君ではない。黒妖狐でしょう? 君自身が皆を傷つけたのはわけじゃない。
 全ての事柄に対し、自分の責任だとか自分が悪いだとか思うのは、単なる自己犠牲だよ。被害者意識にも成りかねない。それに、皆は自分が動きたいように動いている。白様は強制的に見えるかもしれないけれど、僕達の自由意志だけは保護しているんだ。
 白様の指示を飲むも飲まないも僕達の自由意志。君を守るも守らないも、僕達の自由意志。戦うも戦わないも、僕等の自由意志。立ち向かうも立ち向かわないも、僕等の自由意志。全ては僕等の自由意志。君が責任を感じる必要性は微塵もない。
 言い方はキツくなるけど、私のせいだわと両手で頭を抱える悲劇のヒロイン気取りはやめなよ。進むと決めたら進む。立ち向かうと決めたら立ち向かう。立ち止まっても良いけど、そこで堕ち続けては、絶望しか産まれない。闇があれば光は必ずある。君は今、光を産もうとしているんだ。こんな所で、負けてはいけないよ」
「──」
 慶は白樹の言葉が心を突き、すぐに何かを反応することは出来ない。
「君は、自分のことを特別な人間であると思っているでしょ?」
「……私は、人間ではありません」
「そうだね。かといって妖弧でもない。常に中立にいるのが僕等だ」
「そうですね」
「その中で、君はかなりハードモードの人生を送ってきたのだと思う。その瞳は人間界では浮いてしまう。それに、真実を知った後は、より苛酷になった」
「……」
 慶は否定も肯定もせず、口つぐんだまま視線を下に向けた。それは、肯定を意味しているようなものだった。
「君は自身が特別だと思うかもしれない。私の気持ちなど誰も理解できない、想いを共感できるものもいない。私のような境遇化で生きてきたものはいない。とか、思ってない?」
「そこまでは、思っていません。思ってはいませんが、何故私だけ? 何故こうなってしまったんだろう? もっと普通に産まれたかった。普通の生活がしたかった。とは、思ってしまいます」
「君の言う、普通ってなに?」
「ぇ?」
「日本人かつ、日本人らしい顔立ちと瞳の色を持つ者として産まれ、血の繋がった両親の元で平穏に暮らすこと? それが、君がいう普通?」
「まぁ、そうですね……。少なくとも、人間ならば人間に。あやかしならば、あやかしとして。日本人ならば、人間らしい顔立ちと瞳で。兎にも角にも、世界と馴染めるような姿で──!」
「つまらなくない?」
 白樹は慶の言葉を跳ね除けるように、そう問うた。
「どういうことですか?」
「一応、僕も世間で言う一般とは違うからね。人間でも白妖狐でもない。あげくに、兄は純血の白妖弧のうえに、智慧の家系の長でもある。腹子違いで産まれた僕は、父上に引き取られ、母親の顔を知らぬままにココまで生きて来た。せめてもの救いが、白妖弧の家系であったこと」
「?」
 何故白妖弧の家系に産まれたことが救いだったのか分からない慶は、不思議そうな顔をする。
「白妖弧はまだ半弧に寛容だからね。母は殺されずにすんだんだ。覚醒するまでの年月を里で暮らし、色々な知恵を教えられてきた。ある程度の自己防衛術を学んでいなければ、半弧狩りにあってしまうからね。ただ、里でどんなに必死で努力をしたとしても、やはり純血白妖弧達の力には及ばなくてさ。心無い言葉もかけられてきた。苛めにもあってきた。兄は優しくしてくれたし守ってくれていたよ。ありがたいことにね。姫は僕を怖がるどころか、同じ年代の子供のように接してきた。それでも、僕は生きづらかったんだ。
 覚醒してから人間界で生活することになったけれど、この瞳を含む見た目のせいで浮きに浮きまくったよ。多分、日本を拠点にしたのも影響したんだろうけどさ。人間界で学生として生き生活をすれば、智慧が高すぎて恐れられた。神童だと羨望の眼差しを向けてくる者もいれば、恨み辛み嫉妬を向けてくる者もいた。少しでも秀でた何かを持つ者であれば、叩きつぶそうとする世界だ。特に日本はそう言う傾向が強い気がする。
 人間界でも、あやかしの世界でも、ある程度一般と呼ばれる世界やものがある。その枠組みに入れない僕は、やはりどこか浮いていた。正確に言えば、浮いていると思い込んでいたのかもしれない。世の中は自分の写し鏡で在り、考え方次第でいくらでも見え方が変化するからね」
 白樹は右手で頬杖を突き、カップアイスに刺したプラスチックのスプーンをくるくると回しながら、淡々とそう話す。半分溶け始めているアイスは、トルコアイスのようになってしまっていた。
「……白樹さんも、普通に憧れていたということですか?」
「まぁね。僕も幼かったからさ。兄さんを疎ましく思う日もあった。普通を渇望し、一体誰が作ったのかもわからない普通と言う枠組みに入りたいと願った。けど、白様の言葉が僕の考え方を変えてくれたんだ」
「恭稲さんは、なんと仰ったんですか?」
 慶は一、二度視線を左右に動かし、そう問うた。
「前後の話を割愛するけど、『何故、自分を特別だと、特別な身体を持っていると、特別な環境で産まれ、育ち、住んでいるのだと思う。もし世界中、同じ才能しか持たぬ人間だけしかいないとすれば、世の色は一色しか持たぬだろう。音・匂い・味・触感、全てが類比したつまらぬ世界だ。
 もしも世界中の人間が同じであるならば……と、仮定して見ればいい。皆が同じ顔だったら? 皆が五体満足でなければ? 皆が同じ病気を抱えていたら? そんな同じが埋め尽くされている世界だとしたら? 皆が同じように産まれ、皆が同じような身体に成長し、皆が同じタイミングで命を終えたとしたら、この世界には滅亡しか待っておらぬだろうな。
 皆が同じ環境で産まれ、同じ環境で育ったのならば、この世界に娯楽も救いもないだろう。類比した人工的商品や音楽に埋め尽くされる。類比した人間が産み出すモノは変わらぬも同じだ。其方はそんな世界を望むか? 自分を捨てるか? 何故、其方がそんなにも苦悩しているのか分かるか? 劣等感。焦燥感――無意識化で他と比べているからだ。だから苦悩する。
 この世界に普通や特別の定義はない。そんなに普通になりたければ、己の存在が普通だと思いこめばいい。皆が其方と同じだったら、と思いこめば容易いだろう。他者と比べ、数値化して普通を割り出そうとするから苦悩する。そんな無意味な時間を過ごして生を終えたいというのならば、私は何も言わない』ってさ。相手に新たな視点を与えても、それを強要することのない白様らしい言葉達だと思わない?」
「……そう、ですね」
 慶は白樹づてに聞く白の言葉に何かを感じたのか、浅く座っていた椅子の背もたれにそっと背を預けた。
「その時、決めたんだ」
 白樹は柔らかな口調と瞳に凛とした強さを宿す。まるで、再度誓いを立てるように。
「何をですか?」
「誰かが作った社会の一般に自分を押し込めないし、押し殺されないと。時代や社会や世界が変われば、普通の定義は変わる。僕達半妖弧は今はまだ当たり前ではないのかもしれない。だけれど、いつか僕達の存在が当たり前になる時代がくるかもしれない。人とあやかしは相容れることは稀なのかもしれない。それでも、僕は光を見て生きてゆこうと決めたんだ。僕は僕の存在を社会の当たり前だと思おうと思った。例え外の世界がそう言わなくとも、僕の内側の世界だけでもそうあろうと。それで、いつか本当にそうなったとしたらいいなと思ったんだ。簡潔的にまとめると、負けたくないと思った」
「負けたくない?」
「そう。自分の境遇に、自分の姿に、外側の世界に負けたくないと思った。僕は僕として、この世界を生きてゆくと決めたんだ──アイスは負けたみたいだけどね」
 白樹は微苦笑を浮かべ、ほぼ溶けたアイスを慶に見せる。
「もうバニラジュースだよ」
「ふふっ」
 しょんぼりと肩と眉根を下ろして話す白樹が可笑しくて、慶は短く吹き出す。
「じゃぁ、私のはショコラジュースになっていますね」
 と微笑む慶の表情は穏やかだった。
「まぁ、良く冷えたジュースだと思えば美味しいよね」
 と笑い、カップを口に付けた白樹は、ゴクゴクとバニラアイスの液体を飲む。
 その姿を見ていた慶は、穏やかな微笑みを浮かべ、コクリと小さく頷いた。
「白樹さん」
「ん?」
 バニラを飲み干した白樹は小首を傾げる。
「ふふっ。口、ついていますよ」
 想いを口にする前に、子供のように口を汚している白樹が可笑しくて、短く吹き出す慶は、自身の唇を人差し指で指しながら指摘した。
「あぁ、流石バニラ」
「ふっふ」
 訳の分からぬ返しに、慶は更に吹き出す。
「……笑えるようになったみたいでよかった」
 白樹は落ち着いた口調でそう言いながら、先程までスプーンが置かれていた紙ナプキンで口元を綺麗に拭った。
「……白樹さんのおかげです。ありがとうございます」
「ひいては、白様の言葉のおかげかもね。僕も、白様がいてくれなければ、白様が言葉をかけてくれなければ、堕ちるところまで堕ちて、這い上がってこれていなかったと思うんだ。僕にとって、白様は恩人なんだ」
「──私もです。恭稲さんと出会って、恭稲さんが色々導いてくれたおかげで、少しずつ心が強くなれている気がします」
「白様は、人を導くことに長けていらっしゃる。僕等は白様の導きによって、ここまでやってきたんだ」
「白姫も言っていました。恭稲さんがいてくれたからここまでやってこられたのだと」
「姫も、ここまでくるのに苦労したからね」
「そう言えば、白樹さんはどうして白姫のことを“姫”と仰るんですか?」
 慶は常々疑問に思っていたことを問うてみる。
「姫には女性であることを忘れて欲しくないんだ」
「白姫は充分女性らしいですよ。オシャレですし、甘いモノやお花が好きです。身なりにも気を配っていて、人間界のファッション雑誌を楽しみ、メイク動画でメイクを勉強していたり……」
「へぇ~。そうなんだ。メイク動画は知らなかった。嬉しいなぁ」
「嬉しい?」
 慶は不思議そうに小首を傾げる。
「昔の姫はさ、恐ろしいほど尖ってたんだよ。近づくもの皆が敵! みたいな勢いで」
「へぇ~……」
「すっごい疑いの眼をしているね。信じてないでしょ?」
 白樹は気のない相槌を打ちながら疑いの眼で自分を見てくる慶を、疎まし気に見ながら言った。
「嘘をついているとは思いませんが、話しを盛っているのではなかろうか、という疑念は感じています」
「失礼しちゃうな~」
「す、すみません」
「まぁ、いいや。それでさ」
 白樹はさして気にする様子もなく、話しの続きを話し始めた。慶は静かに耳を
傾ける。
「姫には自分のありたい姿があって、作りたい世界があって──そのためには強くならなきゃいけない、認められなければいけない! と奮闘していたんだ。その為に姫は全てを捨てた」
「どういうことですか?」
「大好きだったお花も、甘味も、人間世界の可愛いモノやキラキラしたものを全て捨てたんだ。里にいる女性で一番強くなるのは当たり前。智慧家系のどの男性よりも強くならなくては、話しにならない。兎にも角にも強くならなければ! と躍起になって修行を積んでいた。挑まれたケンカを買ってはボロボロになっていたよ。『私は女性であることを捨てる。もう赤子や大人、女や男なんて関係ない。強くならなければ認めてもらえないのならば、そうするしかない』とまで言い出す始末でさ。
 大好きな物達を全て捨ててまで進まなければならないのかと、何故そこまで躍起になるのか、僕には分からなかった。いつしか姫は顔立ちや表情が荒々しくなって、気性の激しい捨て猫のようになってしまった。変わってゆく姫を見て、姫が姫ではなくなると思った。このまま進めば、黒妖弧のように強さだけを求め、強さで認めさせるモノになりかねない。それに、姫が求める強さや、姫がありたい自分の像ってものは、きっとそういうものじゃないと思ったんだ。だから僕はせめてもの抵抗として、白姫のことを“姫”と呼ぶことにしたんだ」
「そうだったんですね。そんな感じの白姫が、どうして今のようになったんでしょう?」
 慶は一つ大きく頷き、新たな疑問をぶつけてみる。
「それもまた、白様のおかげだよ」
「恭稲さんが?」
「姫が全てを投げ捨てるかのように強さを求め続けていた頃、大切な女の子の友達や家族を邪険にすることが多くなっていた。家族と話すよりも修行。友人と遊ぶよりも修行。そんな姫の姿を見ていた白様が、『白姫がありたい自分は、本当に今の道筋にいるのか? 強くあるのは大切だが、強さだけを手にした時、守りたいモノ達が周りにいなければ何の意味も持たぬのではないのか? 今一度、自分がどうありたいのか、どうあるべきなのか、どう進むべきものなのか、考えてみてはどうだ? 進むだけが全てではない』と言ったんだ。その言葉は姫に響いたんだろうね。
 誰の言葉にも耳をかさなかった姫が、一度戦いや修行から距離を置いた。そこから智慧家系にいる同世代の女性達との距離が縮まって、いつしか白姫を慕う女性も出てきた。今一度、自分がどうありたいのか、という目指すべき自分の像が固まった姫は、再び進みだし、今の姫に至る。結局は、白姫や兄さんの心を動かすのはいつだって白様さ。僕を含めてね。皆白様には敵わないんだ」
 自嘲さと微苦笑が綯い交ぜとなった笑みを浮かべ、首を竦めて見せる。
「流石の恭稲さんですね」
「本当にね」
 参りました、とばかりにお手上げポーズで首を竦める白樹の笑みに、慶は微笑み返す。
「ありがとうございます。白樹さんとお話し出来て良かったです」
「僕もちゃんと君とお話し出来て良かったよ。僕等はある種の同士だからね。独りじゃないから。自分を忘れずに生きていこうね」
「……はい」
 まだ心が完全復活したわけではないが、白樹のおかげでまた顔を上げられるようになった慶は、白樹に感謝するのだった──。



  †

 深夜二時。
 恭稲探偵事務所、応接室。

「お呼びでしょうか?」
「白樹から面白い依頼者が、面白い依頼をかけてきたと連絡が届いた」
 いつものレザーチェアに悠々と座って作業をしていた白は、依頼者のデーターをプリントアウトした資料を智白に見せる。
「面白い依頼者に、面白い依頼ですか……?」
 智白は不思議そうに呟き、スーツの左ポケットにしまってあるゴールド色のスクエアフレームの老眼鏡をつけ、資料に目を通す。
「……何故、今頃になって?」
「魅黒の動きで感づいたのかも知れぬな」
 いささか動揺を隠せない智白とは対照的に、悠然たる態度の白は冷静に答える。
「どうするんですか?」
「藍凪慶に任せておけ」
「良いんですか?」
「嗚呼。必要ならば、依頼者と直接対峙させても構わぬ。藍凪慶が分からなくとも、依頼者はそうであると理解するだろうからな」
「大胆に動かれになりますね」
「嗚呼。新月から刻々と月が満ちていっているからな」
「今が動くべきタイミングだと」
「嗚呼。次に止まる時は、私の目的が果たされた時だろう」
「最期まで」
 白智は忠義を誓うように掌を胸元に当て、頭を下げる。
「頼りにしている」
「……冥途の土産になります」
 智白の返しに、白は微苦笑を溢す。
「では、また何か御用があればお呼びを。失礼します」
 智白は今一度会釈をし、自室へと戻った。
 一人残された白は、仕事デスクの左隣りにある赤いベアロ素材の背もたれが高貴な印象を与えているアンティークチェアに移り、長い足を組み座る。
「――」
 何かを思案するように、白はゆっくりと瞼を閉じる。
 閉じていた瞼を静かに開けた白は、目の前にあるミディアムロースト色をした円形サイドテーブルに置いてあるチェス盤を、ほんのしばし見つめた。
 チェス盤上で繰り広げられていた試合展開は、先日と全くもって変化していないが、白はチェスの駒に手を伸ばす。試合展開に変化を加えるようだ。
 キングの位置は両者共変わらぬままで、まずは白板のチェス達に変化を加える。
 キングの左隣に、白のルークがキングを喰らうようについている。
 白のルークは一マス前に進み、三のfにルークへ。
 白のビショップは斜め右に下がり、先程までいたルークの居場所、二のfに移す。
 二のeにいたクリスタルのポーンを一マス前に進ませ、三のeに移す。
 白のクイーンは、二のdから動かぬままだ。
 三のaに白のポーン。その隣にライトローストのポーン。そこへ、三のdにいた白のナイトを四のbに動かす。
 三のgにライトロースト色のナイト。三のhにライトローストのビショップ。四のhに白のポーンは置き場所を変えぬようだ。
 二のcに、フレンチロースト色をしたポーンが倒れたままになっている。
 そして再びルークを一マス前に進ませ、四のf。
 クリスタルのポーンも一マス前に進み、四のe。
 次に白は、黒板のチェスを流し見、チェス駒に手を伸ばす。
 七のfに黒のルーク。七のeに黒のビショップは元いる一から動きは見せない。
 白は八のeにいた黒のクイーンを優雅に掴み、右斜め上に一マス進ませ、七のdに移す。
「等々、動かぬモノ達も動き出したか」
 白はそう呟き、七のaに倒れていた黒のナイトを立たせ、六のcへ。五のcに倒れていた黒のポーンを再び立たせる。
「やっと、役者が揃ったな──」
 白は長い足を組み直し、どこか楽しさを滲ませた蠱惑的な笑みを口端に浮かべ、しばしチェス盤を見つめるのだった──。