神奏のフラグメンツ

「……何でだろ」

全ての者が新たな戦いに意識を向け始める。
その中で奏多だけがただ無心に戦いを見続けていた。

「動けない……」

奏多は油断すれば湧き上がる想いを前にして俯く。
渦巻く不安はどうしようもなく膨らんでいくばかりだ。

「いや、動けないんじゃない。これは……」

奏多は刹那、気付いた。
身動きが取れない理由。それは内側から湧き上がる『破滅の創世』としての意思が、奏多の動きを制限しているからだと。

『破滅の創世』であるはずなのに、『破滅の創世』の配下達と分かり合えない。

奏多とアルリット達を隔てる、たった一つの最も重要で決定的な要素。
その要素は……『失った神としての記憶』だ。
その記憶には、一族の上層部が犯した罪過への『破滅の創世』の憤懣がある。
ましてやそれが延々と折り重ねった憎しみに起因するものであるならば、もはや激昂に近いかもしれない。
『破滅の創世』である奏多であればこそ、その怒りを身に染みるほどに理解している。
何度も神としての憤りに――絶望視した過去に囚われてしまうかもしれない。

それでも……諦めたくない。
結愛と……みんなと共に生きたい。

奏多は現実で踏ん張ると決めている。
奏多が人として生きた人生という道を、『破滅の創世』は否定なんて出来ないはずだ。

それに人間として生まれたことを過ちになんてしたくはないから――。

それでも、奏多はもしもを思い浮かべてしまう。
もしも、人間として生まれていなかったら。
『破滅の創世』の神魂の具現が一族の上層部の作為によって生み出されず、一族の上層部の好奇によって利用されずに。
何事もなく『破滅の創世』として存在していたら。

「この世界は今も、穏やかな平和を享受していたんだろうか」

それとも奏多が目を逸らして考えることをやめれば、結愛達と紡ぐこの尊い時間がずっと続くのだろうか。
だとしたら、現実と向き合うことにどれほどの意味があるのだろう。

「俺は人間として生まれなかった方が良かったのか?」

奏多が事実を知ろうとすればするほど、どれが『正しい』かは分からなくなってくる。
誰かにとって悪だったものが、別の誰かには善となる。
人と神。相容れない思いがぶつかり合う。簡単に答えなど出ようはずもなかった。
それでも――

「そんなことないです!」
「……結愛」

奏多の揺れる眸を見つめ、結愛は縋るように彼の腕に掴まる。

「お願いします。奏多くん、悲しいことを言わないでください……」

涙色に染まる指先に。
この時間が永遠に続けば良いと――結愛は願いながら。
だからこそ、今のままで過ごすわけにはいかない想いがある。

「『破滅の創世』様にとって、人の心は不要なものかもしれないです。……でも、奏多くんが心を知らなければ、私はこんなにも奏多くんを好きになることも、愛おしく思うこともなかったんです」

『破滅の創世』としての奏多の意志を、結愛は否定しない。ただ、今の想いを伝えたいだけ――。
「私は奏多くんが……『破滅の創世』様が大好きです」

結愛は知っている。
そんな素敵な想いが、最期までこの胸に寄り添う理由を。

「だから、この世界で奏多くんと一緒にずっとずっと生きていきたいです! 奏多くんと同じ光景を――明日に繋がる未来を見たいから!」

結愛が示したのは希望という名の確固たる意思。決して変わることのない願いだった。

「本当の本気の本物の最大級の願い事です!」
「ゆ……結愛……」

そう懇願した結愛と戸惑う奏多の視線が再び、交差する。

「……奏多くん……、生まれなかった方が良かったなんて言わないでください……。あなたがこの世界にいなきゃ、嫌です! あなたが傍にいなきゃ、嫌です!」

言葉は、言葉にすぎない。
約束なんて言葉は特に曖昧で、時としてたやすく霧散してしまう。
それでも二人で歩む未来はこれからも続いていくと、甘く確かな約束を求めて。

「だから、お願いします。奏多くん、あの時、私と交わした約束を信じてください!」

そう言う結愛の目には光るものが浮かんでいた。

何を信じるなんて……そんなの……。

大切な人が覚悟を決めて、自分を切望する。その独占じみた想いに、奏多の胸が強く脈打った。

そんなの決まっているだろ……!

全てを包み込むような温かな光景は、張り詰めていた奏多の心を優しく解きほぐす。
その時、心中で無機質な声が木霊した。

『約束など不要なものだ。愚者の理解などいらぬ』

人は、永遠ではない。
そんなことは分かり切っていることなのだけど。
それでも。
それでも――

「どんなことがあっても、俺は結愛と交わした約束を『信じている』」

言葉は所詮、言葉だ。音の波は空気に触れれば溶けていく。
それでも奏多はここで終わらせたくない。
そう強く願った瞬間の想いはいまだ胸の内でくすぶっている。
熾火のように燃え尽きず、赤々と熱するままに己を昂らせていた。

「ずっと傍にいるって約束したからな」
「ふふ、言いましたね、約束の力は無限大ですよ!」

ありふれた何気ない日常こそが救いなのだと他の誰でもない奏多と結愛だけが知っている。
二人でいれば、世界はどこまでも光で満ちていた。

「生まれなかった方が良かった……そんなわけねぇだろう……!」

そう言って、歩み寄った慧は奏多の頭を撫でる。

「もう失うのは嫌なんだ……。蒼真(そうま)に傍にいてほしい」
「蒼真……?」

奏多が目を瞬かせると、慧は照れくさそうにほんのりと頬を赤くした。
それは知らない人の名前。
奏多は慧が発した言葉の意味を理解できない。
これからどうすればいいのか、確固たる解答もまだ出ていない。
でも――何故か、懐かしい響きがした。
『どんどん大きくなるな、慧と蒼真は』
『ふふ、本当ね。このまま、蒼真がずっと生きていてくれて家族四人で過ごせたら何もいらないわ』

どこからか優しげな誰かの声が聞こえてくる。
知らない記憶。なのに、どうしようもなく現実味を帯びた感覚があった。

『慧にーさん、慧にーさん!』
『つーか、蒼真、あまり無理するなよ』

兄弟は公園を燥いで駆け巡り、そのたびにどうでもいいことで一喜一憂する。

誰かに生きた証を見てほしかった。傍にいてほしかった。
――それを望んだのは誰の心だったのだろうか。

だけど、願わくば見て見たかった。
この胸の奥底を灼く焦燥にも似た、けれどより甘やかな感情の正体は何なのかを。

「慧にーさん……」

奏多は懐かしむように慧に髪をなぞられる感触に身を任せる。

「ありがとう」

きっといつまでも、この記憶を忘れない。
この温かさを忘れない。
きっと、これからもずっと覚えている。
そんな着地点へ落ち着くなり、奏多の身が軽くなった。

「結愛、もう大丈夫だ。行こう!」
「はい、奏多くん!」

奏多と結愛は改めて戦意を確かめ合う。

「奏多、敵の視線をこちらに向けさせる。結愛と一緒に援護してくれ」
「分かった。慧にーさん」

奏多は即座に打開に動くべく、慧達のもとへと進んでいった。
今の自分がすべきことは、みんなとともに『破滅の創世』の記憶のカードを確保することなのだから。





「『破滅の創世』様……」

アルリットは酷な現実に心を痛める。
奏多が『破滅の創世』としての気持ちを押し殺し、その意志をゆっくりと心の湖に沈めたことを感じ取ったからだ。

「……辛いね」
「……っ」

そう吐露したアルリットの瞳と奏多の瞳が重なる。その瞬間、奏多の胸が苦しくて息苦しくなる。
その感情はあの時、奏多の中で湧き上がった想いだったからだ。

「それは――」

困惑する奏多の反応も想定どおりだったというように、アルリットの表情は変わらない。

「……辛い気持ちを我慢しないで。あたし達、『破滅の創世』様のためにできることなら何でもするから」

たった一つの想い。
何もかもを取り戻せるなら、アルリットはあの頃の『破滅の創世』を取り戻したいと願っていた。

「わたし達の想いをどう感じるのかは我が主の自由だ。だけど、わたし達は一族の者の愚行によって……絶望を見ているんだよ」
「絶望……」

リディアが発した発露は奏多の神意を確かめるような物言いだった。

「現時点では一族の上層部の思惑どおりに事が進んでいる。だが、『破滅の創世』様の記憶のカードさえ手に入れれば、全てを覆すことができるはずだ」
「……うん。リディア、頑張ろうね」

リディアの宣誓に呼応するように、顔を上げたアルリットは一族打倒を掲げた。
「……状況は悪化していく一方ですわね。でしたら――」

現状を把握した聖花は唇を噛む。
このまま、悪戯に時間を消費しても平行線だ。
何もしなくては『破滅の創世』の配下達の前に為す術もなく朽ち果てるだけだろう。
ならば、機先を制した方が確かだ。

「『破滅の創世』様の記憶のカードはここにあるわ……」

聖花は劣勢に立たされても、愛しそうに所持しているカードに触れる。

「でも、私が所持している限り、それをあなた達が手にすることはないの。それにカードを手に入れても、一族の上層部は既に記憶を再封印する手立てを考えているわ」

窓から細く月明かりが射し込む中、聖花は謳うように囁いた。
そして、考え得るおよそ最悪のタイミングでそれを言った。

「さあ、どうするの?」

反応は劇的だった。
聖花のその言葉が引き金になったように、リディアはいつの間にか彼女の目の前にいた。

「当然、奪うだけだ」
「――っ」

口にすれば、それ相応の苛立ちと嫌悪がにじみ出てくる。
リディアは片手をかざし、明確なる殺意を聖花にぶつけていた。
衝撃の反動で、聖花の所持していたカードが落ちる。

「このカードが『破滅の創世』様の記憶のカードか」

カードを拾い上げたリディアは一目でそれが目的のカードであることを感じ取っていた。
しかし――

「だが、これは……!」

その瞬間、リディアの手にしていたカードが突如、爆発する。
聖花が『破滅の創世』の記憶のカードに施していたのは時限式の爆弾。
それは爆発に巻き込まれても敵の動きを阻止しようとする、聖花のその覚悟と。
たとえ、木端微塵になっても、『破滅の創世』の配下達に『破滅の創世』の記憶のカードを渡すまいとする強い意志が宿っていた。

「なっ……」

奏多達は改めて、一族の上層部の不気味さ、底知れなさを実感する。

「『破滅の創世』様の記憶のカードが粉々に……」
リディアの驚愕に応えるように、聖花は僅かに笑みを零し……息絶えた。
「ふーん。カードに時限式の爆弾を付与したんだね。あなたの能力って面白いね。確か、相手の能力をコピーすることができる力だよね」

アルリットは倒れ伏せた聖花のもとに歩み寄ると、その背中に手を当てる。

「アルリット、また『強奪』するのか?」
「うん。利用価値がありそうだし、この人間の能力なら『破滅の創世』様の記憶のカードを復元させられるかもしれない」

リディアの疑問に、アルリットは朗らかにそう応えた。

「それにケイのように生き返ったら困るからね」

重要な任務に失敗し、アルリットに殺害された後、慧は一族の上層部の者の手によってアンデット、つまり不死者として蘇っている。
だからこそ、アルリットは一族の上層部が再び、聖花を蘇させてくると踏んでいた。
矢継ぎ早の展開。
それも唐突すぎる流れに、司は顔をしかめる。

「まずいな……」

驚愕と焦燥。
司が走らせた瞬間的の感情に状況は明白となった。

一族の上層部の一人である聖花が倒れ、『破滅の創世』の配下達が『破滅の創世』の記憶のカードを確保した。

その歴然たる事実を前にして、司の取った行動は早かった。

「奏多様、こちらへ!」
「結愛、行こう」
「はい、奏多くん」

置かれた状況を踏まえた司は即座に逃げの一手を選ぶ。
迷いも躊躇いもない。
生き延びた『境界線機関』の者達も奏多と結愛の身を護りながら撤退する。

「なっ……!」

リディアは一瞬、追いかけるべきか躊躇う。
だが、その迷った数瞬が明暗を分ける一線だった。

「奏多は絶対に死守するさ」
「奏多様は絶対に護るわ」

慧の確固たる決意に、カードをかざした観月は応えた。

「悪いが、ここから先は行かせねぇぜ」

慧は奏多達が撤退する猶予を作るように発砲した。
絶え間ない攻撃の応酬。だが、弾は全て塵のように消えていく。
決定打に欠ける連撃。
それでも奏多と結愛の安全さえ確保できれば、慧と観月が懸念する要項が減る。
あとは全力でこの場から離脱するのみ――けれども致命状態には気をつけながら、慧は観月と連携して次の攻撃に移った。

「さて、ここからが踏ん張りどころだ」

司を始め、『境界線機関』の者達も相応の覚悟を持って、この撤退を行っている。

最優先事項は奏多の身の安全――。

『境界線機関』の者達は今回、奏多を守護する任務を帯びている。
その守りは固く、そう簡単には隙は見せない。
防衛戦を仕掛ければ、十分に凌ぐことはできるはずだ。
だからこそ――

「……逃がしたか」

颯爽とその場から姿を消した司達の手際の良さに、リディアは舌を巻く。

「そっか。リディア、ちょっと待って、まずはこの人間の能力で『破滅の創世』様の記憶のカードを復元させなきゃならないから」

そう言うアルリットは奏多達がこの場から離脱したことに落胆していない。
むしろ、『破滅の創世』の記憶のカードをリディアとともに確保できたことが喜ばしいとばかりに笑んでいる。
やがて、聖花の背中に置いていたアルリットの手が一際大きく光を放った。

「――うん、強奪成功。この人間の能力なら『破滅の創世』様の記憶のカードを復元させられるね」

そう、復元できる――あるいは元の状態に戻せるとでも言い換えてもいい。
その言葉の裏には『聖花の能力には利用価値がある』という事実がある。
『破滅の創世』の配下達に『破滅の創世』の記憶のカードを渡すまいとした聖花の強い意志。
しかし、その過程の最中で粉々になったカードは、自身の能力を利用された今ではただ無為の証左にしかなりえなかった。
「さてと……」

アルリットは粉々になったカードに手をかざす。
その手から淡い光が放たれた瞬間、アルリットの姿は聖花のそれへと変わっていく。
やがて、その手から光が消えると、『破滅の創世』の記憶のカードは元通りになっていた。

「うん、復元成功」

銀髪と紫眼の少女がころころと嬉しそうに笑う。
純真なまでの笑顔には悪意の欠片もありはしない。
一目見ただけでは、この場に居合わせた誰もが彼女を聖花だと疑わなかっただろう。
本物の聖花がその近くで倒れ伏せていなければ。

「ねー。あたし、真似るのは得意なの。この人間の能力と同じだね」

紫の瞳と銀色の髪が特徴的な少女。
裾を掴んでいるドレスを思わせる衣装は青や紫色の花をあしらわれている。
いまや、アルリットの見た目は聖花そのものだ。

「このまま、一族の上層部の一人として潜入できそうだよね」
「アルリットは演技力皆無だから、すぐにバレるだろう……」

アルリットの明るい声音に、リディアはため息を吐きながら応対する。

「しかし、潜入か。わたし達の目的を遂行する足掛かりになるかもしれないな」

リディアは一族の上層部に気づかれぬように秘密裏に奏多と――『破滅の創世』と接触する方法を模索していった。





一族の上層部の一人である聖花の拠点から離れてからしばらく経った後、やがて、奏多達の視界には筑紫野学園の跡地が見えてきた。

「奏多くん、皆さんがいますよ」

結愛が指差す先を見据えれば、先の戦いを生き延びた学園の教師や生徒達の姿が見えてくる。

「みんなが無事で良かった……」
「はい、奏多くん」

みんなと合流を果たした奏多と結愛は安堵の胸をなでおろす。
再会の喜びも束の間、慧は確認するように置かれている状況を踏まえる。

「何とか、ここまで戻ってこれたな」
「ああ。だが、ここも安全ではない。即急に別の場所に移動する必要がある」

司は警戒を示すように言葉を切った。
周りの景色が妙に寒々しいものに思える。まるで張り詰めた緊張感に身震いするようだ。
この状況は誰かの悪意に彩られて作られているような、そんな予感さえも感じられる。

「危険を犯して、一族の上層部の拠点に乗り込んだ結果がこれか。……成果は散々だな」

司は改めて、『破滅の創世』の配下達の手強さを肌で感じ取っていた。
聖花の陰謀を止めることに成功したが、結果的に『破滅の創世』の配下達が『破滅の創世』の記憶のカードを確保することになった。
監視カメラがない状況は一族の上層部の裏をかくことができる状況。
それは間違いない事実である。
しかし、『破滅の創世』の配下達にも同様のことがいえた。
だが、彼女達は既に撤退したという思い込みが、『破滅の創世』の配下達が『破滅の創世』の記憶のカードを確保するという最悪の循環を生んでしまう結果になった。
「見通しが甘かったと言わざるを得ないな」

司は悔やむように唇を噛む。
この戦場で齎(もたら)された事実は、それほどまでに司達の心を抉るものだったのだろう。

「それでも一族の上層部の拠点の一つに乗り込んだ価値はあったさ」
「慧にーさん……」
「……ほええ、価値?」

それはただ事実を述べただけ。しかし、慧の言葉は、奏多と結愛には額面以上の重みがあった。

「萩野まどかを救出し、そして、一族の上層部の一人、冬城聖花が『破滅の創世』の配下達によって倒されたことを知ることができたからな」

慧は奏多達の想いを汲みつつ、これまでのいきさつから戦況を正しく見通す。

「でも、まどかはまだ、一族の上層部が有する神の加護による洗脳を受けているわ……」

観月は肝心の問題は残っていると、慧に抱きかかえられたまどかの容態を気にかける。
聖花から引き離したとはいえ、まどかはいまだ、一族の上層部が有する神の加護による洗脳を受けている。
一族の上層部が有しているその絶大な力。
狂気じみたそれはもはや集団洗脳に等しい。
意識が戻れば、まどかは再び、観月達に敵意を示してくるだろう。
だが――次に結愛が放った言葉は、観月の予想だにしないものだった。

「お姉ちゃん、大丈夫ですよ」
「結愛……?」

導くような結愛の優しい声音。観月は不思議そうに頭を振る。

「『破滅の創世』様の配下さん達は、一族の上層部さんが神の加護を行使していることをよく思っていません。『破滅の創世』様の配下さん達が『破滅の創世』様の記憶のカードを手に入れた場合も、一族の上層部さんはきっと神の加護を容易に行使できなくなります」

観月に向ける結愛のまっすぐな瞳は変わらない。いつだって紛うなき本音を晒しているのが窺えた。

「そうであってほしいなぁっていう、私の願望も含まれているんですけども……」

諦めているくせに、どこかで信じて、それに縋っている。
そんな心を結愛は身を持ってよく知っていた。

「でも、お姉ちゃん、安心してください。大丈夫です」

結愛は一度だけ目を伏せ、そしてまた観月をまっすぐに見つめた。

「一族の上層部さんはきっと、これまでのように神の加護を容易に行使できなくなります。それにまどかお姉ちゃんの洗脳も必ず解けますよ」

この言葉が、観月が自由へと羽ばたくその一助となることを結愛は切に願う。
それがいつになるか分からなくても、遠い遠い先の話であっても。
いつか近い未来、観月とまどかが元気に笑い合う姿を想い浮かべながら。

「だから、お姉ちゃん、心配しないでくださいね」
「結愛、ありがとう……」

結愛の宣言に、観月の心の奥底から熱が溢れる。
感情が震えて熱い涙が止まらない。

「結愛の予感は当たるもんな」
「はい。私の予感は当たるんです。だから大丈夫です!」

奏多が問いかければ、結愛は夜空を見て答える。
抱く志。思うことが同じであれば、互いに進む先は決まっていた。
「まぁ、そういうことだ。観月、奏多を護るためにも……力を貸してくれ!」

慧は強い瞳で観月を見据える。
それは深い絶望に塗れながらも前に進む決意を湛えた眸だった。
一族の上層部の策謀。そして『破滅の創世』の配下達の思惑。何一つ連中の思いどおりなど、させてやるものかと。

「ええ……もちろんよ……」

他に言葉は不要とばかりに、観月は優しい表情を浮かべていた。
二人の誓いはたった一つ。
奏多と結愛を護るためにこの状況を打開すること――一族の上層部の野望を(くじ)くために絶望の未来になる連鎖を断ち切ることだ。

「今のところ、『破滅の創世』の配下達の動きも、一族の上層部側の動きもない。『破滅の創世』の配下達の手の内はまだ探れないのだろうが、撤退したと見せかけた時点で彼女達の動きが変化したとも考えられるな」

司がこれまでの状況から推測を口にする。

「つーか、強奪か。どんな能力なのかは知らないが、『破滅の創世』の配下達の力はどこまでも計り知れねぇな」
「本当ね」

慧と観月は底の知れない『破滅の創世』の配下達の力に改めて畏怖した。

「まぁ、アルリットは忘却の王ヒュムノスと同じく、『破滅の創世』様の幹部の一人だからな」

ひりつく緊張が慧の首元を駆け抜けて行く。
『破滅の創世』の配下の者達の中でもひときわ常軌を逸している存在が『幹部』と呼ばれる者だ。
アルリットもまた、『蒼天の王』として、蒼穹の銘を戴く幹部の一人である。

「そういえば、忘却の王ヒュムノスはあの場にはいなかったわね」

そこで観月はヒュムノスがいなかったことに気づき、聖花の拠点があった方向に緊張を走らせた。

「恐らく、他の『破滅の創世』の配下達に先の戦いの報告をしに戻ったんだろうさ」
「報告……。他の『破滅の創世』の配下達も手強そうね」

慧の説明に、透明感のある赤に近い長い髪をなびかせた観月は表情を強張らせる。
既に日常が瓦解してしまった都市。

「『破滅の創世』様の神としての権能の一つである神の加護を一族の上層部が有している今、『破滅の創世』の配下達は同じ地に長時間、留まることはできないわ。でも――」

観月は天を仰ぐ。夜空には今も煌々たる月の光が輝いている。
月明かりの下。降りしきる光が身体を伝って、次第に体温を奪っていく。

「一族の上層部が神の加護を失えば、地の利を生かすことはできないな。とはいえ、奏多の意思も『破滅の創世』様の意思には変わりねぇはずだ。『破滅の創世』の配下の奴らも無理やりにはあいつを奪いに来ないはずだぜ」

慧は一つ一つを紐解くように応えた。
少なくとも今は、『破滅の創世』の配下達は奏多の意思を無視して強引に連れていくことはない。
だからこそ、それを確実に成し遂げるために、奏多の『破滅の創世』としての記憶を完全に取り戻そうとしているのだろう。
神の意志を完遂するために――。

「……っ」

その時、まどかの喘ぐ声が聞こえた。
まどかはいまだ、一族の上層部が有する神の加護による洗脳を受けている。
意識が戻ったまどかの動向を警戒して、『境界線機関』の者達が即座に駆け寄った。

「ここは……?」

まどかは自分を取り囲む『境界線機関』の者達を見る。

「萩野まどか。一族の上層部の一人、冬城聖花は『破滅の創世』の配下達によって倒された。よって、おまえの身柄はこのまま、俺達『境界線機関』が預かる」

司は感情を交えず、ただ――ありのままの事実だけを口にした。
その意味するところを余すところなく、その身に刻んだまどかは理に合わない現実にこれ以上なく混乱する。

「なんで、なんで、なんでよ……聖花様が負けるわけないのに……」
「俺達も冬城聖花も、『破滅の創世』の配下達を甘く見ていた。その結果だ」

その渦巻く疑問すら、司は予測していたように応えた。
そして改めて、それを成し遂げた『破滅の創世』の配下達の手強さを肌で感じ取る。

「おまえの主である冬城聖花はもう亡くなっている」
「うるさい! うるさい!」

まどかはあまりのことに混乱をきたした。
司の言葉が理解できないというように狼狽える。

「まどか!」
「来ないでよ!」

そっと差し伸べた観月の手さえも、まどかは拒絶するように払い除けた。

「もう、元の関係には戻れないんだよ、観月ちゃん。私達はもう……敵同士なんだから!」
「――っ」

まどかの憎しみの瞳がことごとく観月の心を抉る。
今のまどかは意思を奪われ、ただ此ノ里家の者である観月の人質としての役割を果たす基幹的存在に成り果てている。
身を苛むそれが親友である観月とこれ以上、会話することを拒絶しているようだった。

「おまえが俺達の話を信じないなら、それでもいい。だが、冬城聖花から授かった能力はもう使えないだろう……?」
「あ……」

司が明かした事実は、まどかの瞳を揺らがせるのに十分すぎた。

なんで、なんで、なんでよ。
この場から逃れたいのに、聖花様から授かった力が使えない……。

ここにきて、ようやくまどかは聖花から授かった能力が使えないことに疑問を持ち始める。

「このっ!」

まどかは怒りに身を任せて拳を振り上げる。
それでも聖花から授かったはずの能力の数々が発揮されることはなかった。

「……あ、うっ」

本当に聖花が亡くなったという現実だけがまどかの身に突きつけられる。
その瞬間の感情をうまく言葉に表現することはどうにも難しかった。
ただ――

「そんな、そんな……」

まどかが抱いていた混乱はさらに拍車がかかる。
今の無力な自分では聖花の仇を取ることも、この場を逃れることもできない。
まさに抵抗する術がない以上、どうにも手の打ちようがなかった。