珈涼は電車で一駅と十分歩いたところにある、小さな喫茶店で働き始めた。 
 月岡が紹介してくれたそこは、初老のマスターが趣味で続けているようなところで、訪れる客も一日に十人ほどだ。赤茶色の優しい色合いで整えられた内装と香ばしいコーヒーの匂いが母の店を思い出させて、珈涼はすぐに働くのが楽しくなった。
「いらっしゃいませ」
 幼い頃から珈涼は母の店の手伝いをしてきた。だから軽食や飲み物の作り方に慣れている。それにマスターは温厚な人柄で、珈涼の働きぶりを穏やかに見守ってくれる。
「このまま珈涼ちゃんに継いでもらうのもいいね」
 そう言ってもらえた時は本当に嬉しくて、珈涼は母に見せるようなとびきりの笑顔を浮かべた。
 ただ、気になることもある。珈涼が働き出してから、客がずいぶん増えたとマスターが言うのだ。
 それはこの店を隠れ家のようにしたいというマスターの意向とはすれ違うことで、珈涼は戸惑った。
「珈涼ちゃん、休憩時間はいつ?」
「今度食事に行こうよ」
 そう誘う男性客がほとんどだったことが、余計にマスターに申し訳なかった。
 母の店を手伝っていた頃も、そういう客はいた。けれど母はそういった個人的な誘いはたやすくあしらう余裕を持っていて、珈涼のようにうろたえたりはしなかった。
 きっと自分はからかいやすく見えるのだろう。珈涼はそう思って、微笑むだけで答えたりはしなかった。
 一方で夜にマンションに帰ってくると、珈涼の戸惑いはもっと濃くなる。
 月岡はほとんど毎日、夕食の時に現れる。それで一緒に食事を取りながら、珈涼に話しかける。珈涼の体調のこと、アルバイトのこと、勉強のこと。
 ……そしてコーヒーの後になるとあの時間が始まる。絡め取られて、貪られる。
 珈涼はいつも目を開くことができない。声も上げることができない。さながら蜘蛛の網にかかった獲物のように、ただ震えている。
 その時だけは月岡は容赦がなくて、珈涼が怖がる素振りを見せてもやめたりはしなかった。
 ただ、最初の日とは変わったことが一つあった。
 行為が終わってまどろみの中にある珈涼が、体を包むぬくもりに目覚める。そこは浴室の中で、珈涼は月岡に体を洗われているのだった。
 丁寧に体の隅々まで拭われる。男の人にそんなことをされるのは怖いはずなのに、そのときは大丈夫だった。
 洗い終わると、月岡は珈涼を抱いて湯船に浸かった。その時間が、珈涼は何より好きだった。
 直に触れる月岡の肌の感触に安堵した。それは張りがあって、温かい。
「月岡さん。すき」
 半分以上夢の中に沈みながら、珈涼はうわごとのように呟いた。
 体が食べられて心だけが漂っている時間だったから、零れるように言葉が溢れた。
「彰大」
「あき、ひろ」
 それを月岡の名前だとも理解できない朦朧とした意識の中で、珈涼は繰り返す。
「すき……」
 そう言うと、月岡はもっと珈涼を引き寄せて囁くのだ。
「もう一度」
 まるで教え込むように、月岡は低くつぶやいた。
 朝になると、珈涼は昨夜のことを夢だったように感じる。
 そして夜になってやって来る彼のことを、「月岡さん」と呼ぶ。