その日の内に珈涼が連れてこられたのは、都内の十階建てのマンションだった。
 外観はこじんまりとしていたが、中を見て驚く。部屋は一フロアをまるごと占める広さで、珈涼が着いた時には真新しい家具がすべて揃っていた。
 聞けば一階のフロントにコンシェルジュや警備員といったスタッフがいて、一日に一度清掃員が部屋を掃除しに来る。最上階のレストランには料理人も常駐していて、頼めば毎食部屋に届けてくれるそうだ。
「足りないものがあったら何でも仰ってください」
 月岡は珈涼にそう告げたが、この環境はもったいないことはあっても足りないことは考え付かなかった。
「あの……」
「はい」
「私はここに、一人なのでしょうか」
 不安そうに告げた珈涼に、月岡は安心させるように微笑んだ。
「スタッフの中に看護師がおります。具合の悪い時はフロントまでお申し付けください」
 珈涼は戸惑う。珈涼が考えたのは、健康上の不安ではなかった。
 どうやらこれから、この広い部屋で一人暮らしをするらしいのだ。……月岡と一緒に暮らすのかもしれないと期待してしまった自分を、珈涼は恥じた。
「そろそろ七時ですね。夕食を届けさせましょう」
 月岡はややあって振り向く。
「私も同席してよろしいでしょうか?」
「はい」
 珈涼は思わず微笑んでうなずいていた。月岡はそれを見て少し目を見開く。
 月岡と一緒に夕食。初めてのことに珈涼は嬉しくなって、いそいそとテーブルを拭いて支度を始める。
「珈涼さん。支度は私が」
「いえ、やらせてください」
 食器棚を開いてまた驚く。食器類はすべて二セットあった。月岡はこれから、ここで食事をするつもりなのだ。
「わぁ」
 そんな事実一つで珈涼の心は舞い上がる。食事が運ばれてきた時は、珍しくもはしゃいだ声を上げた。
「お口に合いますか?」
「とてもおいしいです」
「それはよかった」
 これからどうなってしまうのだろうという不安は、脇に追いやられていた。月岡と向き合って食事ができることに浮き立って、何を食べてもおいしく感じる。
「これは初めて食べました。何でしょう?」
「エビ真薯です。エビのすり身に山芋などを合わせて揚げるんです」
「面白い食べ物ですね」
 珈涼は胃が弱く、揚げ物はほとんど食べられない。けれど今日は特別だった。胃は少し痛むが心はどこまでも軽く、いつもよりたくさん食べる。
 珈涼は新しい皿に目を移すたびに頬を緩めた。
 月岡も食べてはいるが、優しい眼差しで珈涼をみつめていることが多かった。それに気づいて、珈涼は胸が熱くなる。
「どうされました?」
 うつむいた珈涼に、月岡が気遣わしげに声をかける。
 優しい目をした月岡と向き合うと、母と食事をしているような気持ちになれる。普段大人しい珈涼は母の前でだけはにぎやかな子どもで、はしゃぐように話す珈涼を母は穏やかな目で見てくれていた。
 たった三か月前までは当たり前だった光景を、珈涼は目の前に描いていた。
 黙りこくった珈涼と月岡の前に、食後のコーヒーが運ばれてくる。
 これが終わったら月岡は帰ってしまう。一人は慣れたつもりだったけど、一瞬感じたぬくもりが遠ざかると思うと、たまらなく寂しかった。
 途端にコーヒーを口に運ぶのが遅くなる。月岡もしばらく何も言わなかった。
 やがて珈涼は窺うように目を上げる。
 ……そこにあったのが例の獲物を狙う目で、珈涼は血の気が引く。
 この目をしている時の月岡は、何か違う。母のような慈しみではなく、別の感情に支配されて珈涼を見ている。
 月岡は席を立った。珈涼は反射的に椅子を引いて後ずさる。
 一歩で間合いを詰められて、手を掴まれた。頭を引き寄せられて、唇を重ねられる。
 キスだと気付くのに、少し時間がかかった。口から食べられていく。そんな思いがした。
 緊張に体を固くして、珈涼は呼吸ができなかった。ふらついた珈涼の腰に腕を回して、月岡は珈涼を抱き上げる。
 何か考えようとすると、月岡の熱に意識が奪われてしまう。首の後ろを押さえた手、触れ合う髪、そんなものにも体がざわつく。
 ふいに背中に当たるクッションの感触に気づいた。
「あ……」
 いつの間にか寝室のベッドの上にいた。珈涼を縫いとめるように月岡が覆いかぶさっている。首筋へのキスは、段々と下がっていく。
 どうして月岡がこんなことをするのかわからない。どうして自分の体がざわつくのかも。何か大きな奔流に飲まれて、しかもそれを自分も望んでいるような気がしてならない。
 珈涼の心を恐怖が衝いた。震え出しながら、体はますます強張っていく。
 珈涼は思う。月岡は珈涼を外に出してくれた。その対価は身をもって払わなければいけない。だけど立派な家とおいしい食事に見合うほどの価値が自分の体にあるとは思えない。
 ……この行為が終わったら、月岡はがっかりするだろう。それが怖くてたまらなくて、珈涼はぎゅっと目を閉じた。
 珈涼が震えていることに気づいたのか、月岡の手が珈涼の頬を労わるように撫でた。
 一方で、月岡のもう一つの手は性急に珈涼の着衣を解く。
 月岡が今どんな目をしているのか知るのが怖くて、珈涼は決して目を開かなかった。
 珈涼はただ震えながら、月岡の男の行為に身を任せた。