深夜、珈涼は起き上がった。
 意識はしっかりしている。そして幸いにも、今日は拘束具がついていなかった。
 シーツだけを巻いて外に出る。もちろん警備員はいるだろうし、監視カメラもあるかもしれない。
「お待ちください。どちらへ行かれるのですか」
 案の定一階のフロントの前を通りかかる時、警備員とコンシェルジュの両方に止められた。
 珈涼は一度自分を落ち着かせるために顎を引いて、そしてシーツを落とす。
 包帯まみれの凄惨な裸体が光の中にさらされた時、彼らはごくりと息を呑んで目を逸らした。
 その一瞬の隙をついて、珈涼は駆けだす。
 力いっぱい走った。裸足でコンクリートを踏みしめて、マンションの外に飛び出していく。
 マンションの前には森のような公園があることを知っていた。上からの眺めで地理を把握した珈涼は、木々が茂って見えにくい場所へと駆けこむ。
 公園は珈涼のいた高級住宅街と下町の境界になっている。道が入り組んで光も少ない下町に抜け出るのが狙いだった。
 いくら深夜とはいえ、人に見咎められずに抜けることが難しいのはわかっていた。ましてこんな格好は人目につく。数週間も寝込んでいたために、すぐにでも転んで動けなくなりそうだ。
 それでも珈涼の足取りはしっかりしたものだった。木々で素肌が傷つくのも構わず、目をこらしてどんどん暗闇に入っていく。
 その迷いのなさが、珈涼を夜の闇に隠してくれたのかもしれない。まもなく追手の気配は完全に消えた。
 珈涼は公園から下町の路地に入る。
 この界隈は目を閉じていても歩くことができる。ここの下町は、珈涼が育ったところなのだ。見回りのパトロールがいつ通りかかるか、近所の夫婦がどの道を散歩するかまで知っている。
 人が一人やっと通ることができるほどの幅の小さな路地だが、子どもたちが遊べるよう住人がきちんと掃除をしてくれていて、裸足でも歩くことができる。お小遣いを渡されたら、よくこの路地を通ってお菓子を買いに出かけた。
 珈涼はその中の小さなアパートに入っていった。階段を使って二階に上ると、端部屋の電力メーターの裏を探る。
 そこから鍵を取り出して、珈涼は懐かしい自宅に辿りついた。
 外観は古びたアパートだが、中は柔らかいトーンの茶色でまとめられている。紙細工の花に、優しい顔立ちをした西洋人形、レースのテーブルクロス。ほのかにせっけんの匂いが香る。
 母は父にさえ、この家の場所を教えなかったという。ここは母と珈涼だけの家だった。
 あふれてくる母への想いのまま、このゆりかごのような空間に浸りたい。でも、月岡はここの場所も調べているかもしれない。今はまだここに帰るわけにはいかなかった。
 急いで服を着て、タクシーを呼ぶ。
 向かった先は、猫元の別荘だった。