――本当に、こんなことが目の前で起きるなんて、と私は思った。




 いつも通り高校に着いたはずなのに、教室がいつもより一回り広く感じるのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。明らかに人の数が少ない。窓から漏れ出す風が昨日は心地よかったことを肌が覚えているのに、今日はなんだか少し寒く感じた。

結愛(ゆめ)、おはようー! 電車大丈夫だった?」

 不気味とは少し違うけれど、いつもとは違う感じのする教室に不安があった。けれど、その空気を真っ二つに切るかのような明るい声で私の友達が挨拶をしてくる。

「あー、1つ前の駅で降ろされちゃったから歩いてきた。でも、まあ大丈夫だったよ」

 水奈(みな)もすでに学校に着いるので幸い遅れずにすんだみたいだ。私はカバンを下ろして教科書などを机の中に入れこむ。

「てかさ、SNSにあの時の写真が上がってたんだよ! この子の制服、うちの高校じゃない!?」

 次に水奈はスマホを私の目の前に持ってきた。数十分前、私もいた駅のホーム。私がいた反対側のホームにこの高校のだと思われる制服を着た男子生徒の画像がSNS上にアップされていた。

「うん、そうかもね……」

 私は断定はしなかったけれど、実は彼の正体を知っていた。特別関わりがあるとかではないけれど、去年同じクラスだったから。それに、ある意味さっき会っている。

「でも、この子がホームに落ちて電車が運休……。故意なのか事故なのかは分からないけど、この子の状態も心配だよね」

 今、水奈が言った通りSNS上に上がっているこの男の子はこの後電車が迫る中ホームに落ちた。それにより今も電車は運休状態だ。これが故意なのか事故なのかは私には分からない。ただ、思うことが2つある。1つはなぜ高校とは反対側の電車に乗ろうとしてたのか。もう1つはなぜ、直前に私の方をじっと見てきたかということだ。

「あ、でもさっき会社の公式SNS見たんだけど、どうやらその子の状況、そこまでひどいわけじゃないっぽいよ」
「そうなんだ、それは少し安心だね。ちなみに、結愛はこの時どこにいたの?」

 普通の質問のはずなのに急にどこかを強く締め付けられる。私の口が一瞬、何かに塞がれた。

「実は私、この時1つ前の駅に止まったばかりの電車に乗ってたんだよね。そしてその電車が発車する直前に反対側から電車が入ってきて、男の子がホームから落ちてこうなった……そんな感じかな」

 私はその場面を直接見たわけではない。でも、周りからの悲鳴や電車の急ブレーキ音が私たちに異常を知らせていて何かが起きたことを間近で感じた。それからアナウンスでそれは人身事故だったということが分かったのだ。

「……そうなんだ。なんか少し暗い話になっちゃったからさ、明るい話しよう! 結愛の好きな家庭菜園の話とか! 最近はなにか取れた?」

 水奈が暗い話になってしまったことをあまりよくないとでも思ったのか、空気を入れ替えるために話を私の趣味である家庭菜園の話に変えてきた。

「んー、最近はさやいんげんを収穫したよ!」

 私はさっきよりもほほえましい声で(少し自慢するようにして)最近取ったものを紹介する。

「へー、すごいじゃん!」

 このあと私たちは家庭菜園トークで盛り上がり、いつの間にか朝のホームルームの時間になった。けれど、クラスの中にはいつもの3分の1ぐらいの人しかいなかった。隙間が目立つスポンジのよう。

「えっと、皆さんもご存知の通り電車が運休の為来てる人が少ないですが、まもなく運転が再開されるそうです。なので1時間目のうちには大体の人が来るとは思います。そのため、授業はいつも通り行うということですが、1時間目は実験ではなく教室で通常授業を行うということです。把握の方お願いします」

 先生の声はいつも通りのボリュームのはずなのにここが音楽室かのようにその声が響く。ホームルームが終わり休憩時間になると窓によりかかりながらスマホを確認する。先生の言った通りどうやら運転は再開されたということが書かれていた。かなりの遅れが発生してるらしいけれど、まだ学校に来てない友達からちょうどラインが来て、どうやら1時間目の授業が終わる前には学校に来れそうというメッセージが届いた。これで少し安心だ。

「結愛、結局授業はあるのかー。更に通常授業っていうねー。実験楽しみにしてたのに」

 水奈はなぜか私の頭をすりすりとしながらいかにも残念そうにそう言ってくる。たぶん水奈、授業が1時間ぐらい潰れるとでも思ったのだろう。そして、授業をするならまだ実験の方がよかったとでも。

「まあ、人数がこれだから先生もゆっくり授業は進めてくれると思うからさ、とりあえず頑張ろうよ」

 私の励ましはあまり効かなかったようで、水奈は今度は膨れた顔をした。頑張れないよ、という意味だろうか。でも、その膨れた顔が面白くて、そして可愛くて笑ってしまった。

「なあ、結愛、ちょっと廊下にいいか?」
「……あっ、うん! 水奈、ちょっと失礼するね」
「うん、いいよー」

 人数が少なかったので私に声をかけてきたのが大知(だいち)くんだということはすぐに分かった。でも、それが急すぎたため私の頭が追いつかず、言葉を返すのに少しの間謎の沈黙が生まれてしまった。だけど、特に大知くんが気にしてる様子はなかったので、そのまま私は何がなんだかわからないまま大知くんと一緒に廊下に出た。

 私のドキドキの音が大知くんに聞かれないように心臓の辺りを抑えた。心臓の辺りが細かく振動している。

「……で、なんの用かな?」

 私はまだなんの用か分っていないので、少し声を震わせながら大知くんに問いかける。でも、大知くんの表情から私がなにかやらかしたとかではなく、何かを相談したいという顔に見えた。少し身構える。

「ごめん、あんまり話したことないから少しびっくりしてるよね。でも、あの子のこと。どうしてあんなことをしたのかなっていう――」

 あの子――駅のホームから落ちたあの子のことだろう。大知くんも去年、あの子と同じクラスだった。そして私も同じクラスだった。

「――こいなのか、事故なのか」

 私は一瞬、こいという言葉に体が反応してしまった。でも、私はすぐにこいというのを故意と漢字に変換する。

「俺は事故だと思うけど、結愛はどう思う?」

 ――結愛はどう思う? どう思うと言われても、適切な言葉が見つからない。確かに去年、関わりは少なかったけれどあの子は同じクラスだった。だから、少しはあの子の性格について私も分かってるはずだ。出てくるものは、比較的大人しくて頭が私なんかよりもずば抜けていい。でも、それだけでこの出来事が故意なのか事故なのか私には判断が付かない。だけど、黙っているわけにもいかず自分の考えを述べた。

「もちろん、私はあの子じゃないからわからないよ。でも、なぜか故意な気がするんだ……」

 そう思う理由としてあの2つが私の中で疑問に残るからだ。事故だとしたら、どうして落ちたのか……その判断の方が難しいように私は思える。でも、故意であったとしたら何らかの悩みを抱えていたことになる。そこまでしなきゃいけないほどの、誰にも言えないほどの悩みが。

「俺も内心そうかもと思ったけど、やる動機がな……。この学校いじめとか全く聞かないし。あと、これはその瞬間を見てた友達がさっき電話で言ってたんだけど、落ちた後にその子はすぐに動いて逃げてるようでもあったって……。まあ、とりあえず軽症だったのが何よりよかったな」

 私は見ていないからこの話が本当なのかは分からない。でも、逃げようとしていたのならやっぱり故意ではなく事故、なんだろうか……。考えれば考えるほど頭がつつかれるような傷みがしてくる。とはいえ、もうすぐ1時間目の授業が始まるし、私たちが考えるものではないと思い、この話は一旦切り上げることになった。

 1時間目の授業は通常通り始まったけれど、まだクラスの半分ほどの席が空いていた。先生はそれを少し気にしたのか、いつもより授業の進むスピードをゆっくりにしている気がする。でも、時計の針はいつもよ通りのように思えた。

 カキカキ。

 黒板にチョークで書く音が響く。私はその文字をずっと眺めている。いつもは先生の書いているスピードと合わせるはずなのに今日は黒板にある程度書き終わったところで、私はまとめて板書をしていく。 

「じゃあ、人が少ないけどこの問題は他の人と意見を共有してほしいので、隣がいない人は近くの席に動くなどして共有してください」

 私は後ろを振り向く。私の列は特に出席率が低く、周りにはまるで砂漠に取り残されたように人がいなかった。私がどこか人のいる所に動こうと教科書など必要なものを持って移動をする。

 ――大知くんの隣が空いている。

 大知くんの隣に私が座ったら嫌がるだろうか。それとも、なんとも思わないだろうか。でも、私はさっきも喋ったんだし、去年も同じクラスという共通点もあるんだしいいか。

「あの、隣、いいかな?」

 大知くんはうんとは言わなかったけれど、うなずいたので私はいいという意味と解釈して大知くんの隣に座った。なぜ、私はわざと大知くんの隣りに座ったんだろうか。

「じゃあ、皆どこかしらに座ったみたいだから、これの予想を隣同士てしてください。早く終わったところは雑談していて構いません。私はプリントを職員室に取って来るので少し抜けます」

 先生は生徒にそう指示を出すと、足早で教室を出ていく。

「えっと、俺の予想はこのグラフから式を考えて……答えは選択肢2になると思いました」

 まずは大知くんは簡潔に自分の予想を言う。私はこの予想をどう立てればいいのか正直分からなかったので、そうかと納得してしまう。

「私もグラフから式を作るところまではできたんだけど、ここからどうなるのかなって……選択肢1か2で迷ってたんだよね。でも、2が正解なんだね」
「まあ、俺の予想に過ぎないけどな。で、終わったところからフリータイムだったっけ。同じクラスだったけど意外と結愛のこと知らないんだよなー。ちょっと質問していい?」 
「うん、別に構わないよ」 

 大知くんが私に質問していいかと聞いてきたということは、少なからず私に興味があるということ(と都合よく解釈してるだけかもしれないけれど)。そう思うと、顔がほんのり赤色に色づくのは自然なんだろうか。 
 
「じゃあ、定番だけど結愛の趣味って何?」

 本当のことを言うのなら家庭菜園が趣味だ。でも、私みたいな人は家庭菜園を大知くんに対して堂々と発表できない。別に趣味というわけではないけど、やったことはあるから嘘にはならないスイーツ巡りとでも言おうかな。だけど、嘘ではないけれど本当の趣味ではないものを言うのはそれはそれで少し気が引ける。

「ん……。家庭菜園、かな」

 私の声は音楽だったらデクレシェンドがついているかのように段々と弱くなっていく。そして最後は少し疑問形にした。変に思われないだろうか、それだけが少し怖い。

「へー、家庭菜園かー。いいじゃん。俺も結構好きだし、やってるよ。最近はさやいんげんを収穫したよ」
「えっ、私も!」

 私が想定していた展開だと、少しの間沈黙が生まれたりもしくは少し変な目で見られたり……そんなことを想像していたはずなのに、逆に大地くんも家庭菜園をやっているという私の中では想定していなかったことが起きている。それも、大知くんも私と同じさやいんげんを収穫したということも。だから私は少しオーバーに反応してしまった。恥ずかしい。私は慌てて口元を抑える。そんな姿に大知くんは優しく微笑む。

「うん、どうやって食べたの?」
「やっぱ定番に茹でたさやいんげんにマヨネーズをかけて食べたよ!」

 ネットで調べたところ、今の時代沢山ヒットするけれど、やはり一番シンプルに食べたいと思ってこの食べ方を選んだ。その食べ方を選んで正解だったし、その味は舌がちゃんと記憶している。

「へーそれが一番ベストかもな。結愛も家庭菜園してるなんて興味深いなー。知り合いでやってるの俺だけとか思ってたからちょっと仲間みたいで嬉しいかも……」

 私も同じだ。家庭菜園をしてるの知り合いで自分だけかもしれないと思ったから単純に嬉しい。でも、大知くんに言うのをためらってしまった自分が少し憎い。 

「なんかもっと色々な話し聞きたいなー、よかったら今日一緒に帰らない?」

 一緒に帰る……? つまりは話したいから大知くんと帰るということ。それは分かるけれど、私には非現実的すぎる出来事になんと返していいのかわからない。もちろん、こんな私を誘ってくれたのは嬉しい――いや、嬉しすぎる。でも、そんな簡単に素直になれない。

「……うん、別に構わないよ」

 だから、その誘いに乗る形で返した。素直に言うのならうん、帰りたい! と言っていたのだろう。私たちの話がちょうど切りのいいところで終わるのを待っていたかのように先生が教室の戻ってくる。でも、表情がどこか変わっているようにも思えた。さっきよりもやつれたような顔をしている。

「お待たせしました、長くなってすみません。少しトラブルがありまして……」
「先生、トラブルって?」

 先生のトラブルという単語にクラスのいわゆる陽キャ男子が素早く反応する。先生の苦い顔に思わずつばを飲みこむ。
 
「……今日、皆さんの楽しみにしていた実験の予定でしたよね。でも、私の確認ミスでどうやら足りないものがあったということがわかりまして……。もし今日やってたら途中で終わってしまう班が出てくるかもしれなかったのでよかったです」
「え、まじか。ある意味俺らの日頃の行いいんじゃね?」
「ある意味、電車遅れたのが吉と出た? まあ、事故は起こらないほうがいいんだけど」
「それはそうだけど、俺楽しみにしてたから途中で終わらなくてよかったー」

 先生の話にクラスがざわめき始める。

「なんかわからないけど、ある意味よかったのかな?」

 隣にいる大知くんも私に小さな声でそうささやく。私もどう反応していいのかに悩んだけれどそうだよねという意味で頷く。よくないと思ったことがいいものに繋がるってこういうことを言うんだろうか。



 大知くんと帰れると決まってからそわそわしてしまうのはどうしてだろうか。今日の授業がやけに長く感じるのは気のせいだろうか。窓から見える景色とにらめっこしてしまうのはなんでなんだろうか。時計の針が気になるのはなぜなんだろうか。

 大知くんに対しての感情は私を見ただけでは多分他の人には分からないだろう。でも、仮に私の心の中に入ったのだとしたらきっとバレバレだ。その感情を持ったのはどうしてなのかははっきりとはわからない。でも、この感情ってそういうものなんじゃないだろうか。

「結愛、やっと今日終わったよー!」

 水奈が私の顔を覗き込んで来る。そして私に向かって手を振る。私は決して寝ていたわけではないけれど、ぼーとしていたので声をかけてくれたのだろう。気づけばもうこんな時間になっていたんだ。さっきまで計算をしていた気がする。数学の計算とかではなく今日大知くんと帰る時の計算。

「今日はなんだかんだ朝から騒がしかったけど、1時間目終わるまでまでに全員来れたしよかったね。今はいつも通りのお祭り騒ぎの明るいクラスって感じに戻ったし」

 水奈が周りを見渡しているのにつられて私も周りを見渡す。私の周りに広がるのは友達と楽しそうに会話をしたりするクラスメートの姿。朝の出来事なんて皆もう忘れてるんじゃないだろうか、そうも思えてくる。あんな大きな出来事でも時間だ経てば薄れてくるのは当たり前なことだけど。

「結愛、じゃあ帰ろうかー」

 その声を待っていましたといわんばかりに私は大知くんの方を振り向く。この声を聞くだけでも今日の疲れによって減った充電が回復していくようだ。

「へー、あんま見ない組み合わせだね。結愛、今日大知くんと帰るの?」
「うん、結愛、家庭菜園してるって知ったから少し話したくて」
「へー、大知くんも家庭菜園してるんだ。かっこいいじゃん。私は部活だからもうそろそろ失礼するねー」

 私たちのことを気にしたのか水奈はリュックを背負うと足早に部室の方に向かっていく。そういうのじゃないのに。でも、大知くんと帰れる。1時間目からこれだけを活力にして頑張ってきた気がする。

 やっぱり帰り道は家庭菜園の話が中心になった。例えば、今まで取った中で一番印象に残ってるものとか、今までで一番苦労した作業とか。こういう話って一番人の心が見えるような気がする。大知くんの心が。

「ちなみに大知くんはどうして家庭菜園をしようと思ったの?」
「あー、確かに。言われてみればなー。まあ、やることが好きになったからだと思うけど――」

 ちょうど赤信号の時に私はそんな質問をした。大知くんはそう言ったあとに、まるで空に答えを求めているかのように視線を上に上げた。雲ひとつないどこを見ても同じような青が続く空だ。でも、答えが下りてくることはなかったようですぐに視線をもとに戻した。

「――でもさ、何かを好きになるとかに明確な理由、ないものも多い気がするんだよな。いつの間にかって感じで。だけど、質問してくれたから答えかはわからないけど、何か言うんだとしたら子供を育ててるみたいな感じが僕の心を奪ったんじゃないかな」
 
 大知くんは明確な理由は答えなかった。だけど、――なにか言うんだとしたら子供を育ててるみたいな感じが僕の心を奪ったんじゃないかな。この言葉に私は少し体のどこかが引っ張られた。風にスカートが揺れた。この言葉、優しい心を持っている人にしか出ない……私にはそう思えるのだ。

「ちなみに聞くけど、水奈は?」

 この大知くんの作ってくれた温かい空気の中で私はどう答えられるんだろう。私もどうして始めたのかと言われれば首を傾げてしまうかもしれない。

「私もそう言われるとわからない気がする。でも、自分で作った野菜が美味しいってことに気づいていつの間にか続けてしまったんだと思う」
「そうか。じゃあ、僕はこっちの道だから。今日はありがとな、またいつか一緒に帰ろうぜ!」

 大知くんはそう言うと私から離れていく。本当なら寂しいけれど、大知くんが私に手を振っていること、そしてまた帰ろうと言ってくれたこと……この2つがあって寂しいという感情は生まれなかった。私も手を振る。スクールバッグが大きく揺れる。

「じゃあね。私もまた帰りたい!」

 大知くんはうんとうなずいてじゃあなと言うと自分の家の方へ歩き出した。私はその姿を少し見ていた。大知くんが私の方を振り向くことはなかったけれど別になんとも思わなかった。でも、さっき少し恥ずかしかった。学校で大知くんが帰ろうと誘ってくれたときにはその誘いに乗る形で返したのに、さっきのは素直に言ってしまったから。あの時からたった数時間しか経っていないのに。

 大知くんの姿も見えなくなったし私も帰ろう。そう思ったけれど、近くの喫茶店から何か視線を感じた。私を見ているような。少し痛いような視線が。恐る恐る喫茶店の方に目を向けると誰かが窓越しに私の方を見ていた。

 ――電車から落ちた彼、だ。

 あの出来事がなかったかのように彼は今、優雅にコーヒーらしきものを飲んでいるのだ。なぜかわからないけれど、気づけば私は喫茶店に入っていた。ほぼ無意識だった。だから、喫茶店に入って何名様ですかと店員さんに言われた時少し冷や汗が出た。でも、入ってしまったんだしここで帰るわけにもいかない。

「友達が先に来てます」
「わかりました。ごゆっくりどうぞ」

 もう後には引き返せない。私はしょうがなく彼のもとに向かった。でも、少し怖かった。今日2度も私のことを見てきたし、あの出来事も、今ここで優雅にコーヒーを飲んでいることも。

「あの、私――」

 あなたと去年同じクラスだった人ですといいかけたところで、彼に座ってと言われた。私はその指示に従い彼と対面になるようにして座る。

「うまくいった感じかな」

 そう言うと彼はコーヒーをすする。やはり怖い。うまくいったという言葉が余計に。

「……どういうことですか? それになんで、あなたは今日ホームから落ちたんですか?」

 会話をするときは何個も同時に質問をしないようにと母から教わっているはずなのに気になることが多すぎてつい2つの質問をしてしまった。

「その2つは関連してるから一緒に答えようかな。まず、今日僕がホームから落ちたのは正直に言えばあれは故意だ。でも、故意とわかったら面倒なことになるし、僕も痛い思いをしたくて落ちたわけじゃないから事故にみせかけたけど」

 やっぱり私が思ってるようにやはり彼は故意に落ちたのだ。私はどこを見ればいいのか分からずさっきから視線が様々なところにいっている。

「悩みでもあったの? 私でもいいなら聞くよ」

 彼が何も言わなくなったので私はたまらなくなってそう言う。

「悩みか……。でも、そういうんじゃないんだよ。ちなみに僕のお陰で実験が失敗せずに済んだとか」
 
「いや、それよりも!」

 彼が違う話にそらしてきたので思わず私は少し大きな声を上げてしまった。するとごめんと言いながらわざとらしく笑う。

「理由だよな――。いきなり言うけど、君が大知くんのことを好きっていうのはなんとなく分かってたんだ。いや、僕のとってはバレバレだった。だから、僕がこんなことをすればきっと2人は僕の話題を話すだろうし、少し距離が近くなるんじゃないかなって」

 私が大知くんのことを好きというのをバレてた衝撃よりも、そこまで計算してくれていたという衝撃のほうが今は大きい。確かに全部彼の計画通りとなっている。彼の話題を出して大知くんと話したし、今日だけでかなり大知くんと距離が近づいたような気がする。

「でも、なんで私のために?」

 今日彼がこうした理由はわかったけれど、また新しい疑問が生まれてしまった。私はそれについて聞く。

「――君のためになりたかったんだ。君に憧れていたんだ。でも、ちゃんとした理由なんてわからないよ。いや、もっと素直に言おうかな。ちょっとおかしいとか思われるかもしれないけど、僕という人間はこういう人なんだ」

 彼は大げさにつばを飲み込んでから口を開いた。さっきとは違う空気だ。あの時の空気と似ている。大知くんが家庭菜園を始めた理由を言った時の空気に。私に憧れていた。その言葉が心の中に吸い込まれていく。この言葉を誰かに言われたのは生まれて初めてだった。

「――正直に言うのなら僕は君のことが好きだ。でも、なぜだか僕は恋をしている君の方が好きだからこうしちゃったんだよ。君のためになることが僕にとって一番の恋だから」

 憧れていたと言われたときからなんとなく彼の感情は分かっていた。でも最後まで聞くとなんだよそれ、と思った。確かにちょっとおかしいのかもしれない。でも、うまく飲み込むことができた。私はそっかとだけ言った。ちょっとの間、何も言わなかった。言葉は見つかるはずなのに、なぜか、言葉を言う前に心が熱くなってしまった。私の為にここまでしてくれたなんて。自分を犠牲にしてやる意味が私には理解できないけれどなんだか嬉しい気もする。

「――じゃあさ、私の恋を手伝ってくれる?」

 私は少し意地悪な質問をしたと思った。でもこれしか言葉は思いつかなかったんだ。だけど彼は答えた、

「もちろんさ」
 
 と。私はその約束の印になのか彼の手を取った。彼は少し恥ずかしがっていた。

「でも、こういう危ないことはもうやめてよ。君がいなくなるのは嫌だから。君だって私の中の大切な人に変わりはないんだからね」

「はい」

 私が優しく忠告すると彼は素直にうなずいた。さっきまでコーヒーを優雅に飲んでいた彼とは思えないぐらい子供みたいだった。

 なんだか、少し不思議な私の恋の物語が始まったんだなと思った。そして私は店員さんを呼んでコーヒーを頼んだ。