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 青春。恋愛。運命の人。そんな桜色の言葉たちに一切縁の無い人間が、藤塚沙耶だった。

 別に、「恋」がしたいわけじゃない。運命の赤い恋など信じてはいないし、甘ったるすぎる恋愛漫画にも興味はない。でも学園モノの青春漫画は結構好きだったりしていて、何か打ち込める部活に入って、そこで素敵な先輩といい感じになりながら青春の日々が送れたらなあ――なんて思っていた高校入学当初から既に一年半。

 相変わらず、沙耶は「青春」と縁遠い生活を送っている。入学式直後のホームルームでも、新入生懇親会のグループ雑談会でも、二年生の修学旅行でも、そして昨日の旧音楽室から漏れ聞こえてきた美しいピアノにも、手を伸ばせなくて青春を掴めない。

 すでに高校生活も折り返し地点を過ぎ、来年の春には三年生だ。このまま卒業するのは悲しすぎたけれど、沙耶の大人しい性格では現状を変えられる見込みなど殆どなかった。

 部活にも入っておらず、休み時間にクラスメイトとする会話は穏やかながら単調なものでさほど弾まず、毎日一緒に帰るような親友もいなくて、家に帰ればごろごろ布団で本を読むだけ。

 そんな生活を送っているものだから、放課後ぷらぷら図書室に向かって歩いていた時、話しかけられたのが自分だとはすぐには気付けなかったほどだった。

「ねえちょっと君――これを俺と一緒に、運んでくれないかな」

 振り返ると、そこには一人の男子生徒がいた。

 秋の夕陽に透けて淡く光る髪と、逆光の影の中に落ちていても分かる穏やかな表情。少しも皺のないブレザーの制服と、やけに絵になる佇まいが、どこか作り物めいている。まるで辺りにカメラや照明が彼のために用意されていて、映画か何かの撮影を行っている途中かのようだ。

 その人は影の中から一歩出て、窓から射す光に照らされながら、もう一度沙耶に話しかけてきた。

「ねえ、君?」
「えっ、私……ですか?」
「そう、君。他にいないだろ?」

 辺りを見渡す。確かに、誰もいなかった。どうして私に雑用を頼んでくるんだろうと沙耶は不思議に思いつつ、その人の言葉を待つ。

「俺一人じゃこんなの持てないからさ。これと、あれ。二つ分運ばないといけないんだ」

 ひらりと揺れる右手で示されたのは、山積みの段ボールだった。ラベルには「書籍・下積厳禁」と書いてあって、随分ずっしり重たそうだ。
 沙耶はこっそりと彼のタイの色を盗み見る。緑色だった。ということは、三年生の先輩ということになる。
 初対面であったとしても、先輩は先輩だ。涼し気な顔で重労働を依頼されているのは気になるが、断る口実も特に思いつかない。でも一つだけ、聞いておきたいことがあった。

「あの、こういうのって普通、逆じゃないですか……?」

 先輩は首を傾げる。

「うん? 逆、って?」
「重たいの持ってあげるよ、って。漫画とかだとそうなのに」

 先輩はきょとんとした顔で私を見た後、まるで幼稚園児を宥めるような声で言った。

「……現実は漫画じゃないんだよ?」
「知ってますっ!」
「じゃあこうしようよ」

 先輩はくすくす笑いながら沙耶に一歩距離を詰める。まだまだ三歩以上の距離が開いているというのに、沙耶はどうしてか緊張で身体が強張るのを感じた。

「俺さ、身体が弱いんだ。だからこんな重いの持てなくって――っていうのは、どう?」
「どう、って言われても……」

 そういう設定なら漫画っぽいとでも言いたいのだろうか。先輩は相変わらず柔和な顔に穏やかな微笑みを浮かべて、沙耶を見つめ続けている。その顔が、少しばかり呆れたような表情へ変わった。

「意外と冷たいんだね」
「いや、私、今会ったばかりですし! 先輩の名前も知りませんし」
「たしかにそうだった。俺は牧野。君は?」
「藤塚沙耶……です」
「これでひとまず名前は分かったね」

 返事を待たずに、先輩は沙耶に背中を向けて、一番小さい段ボールを両手で抱え持ち上げた。少なくとも運動部には所属していないんだろうな、と思われるような少しぐらつく身体の動かし方だったけれど、箱を抱えて沙耶を再び見る先輩の立ち姿は、背後からの夕陽に照らされてやっぱりすごく絵になっている。

「じゃ、沙耶も箱を一つ持ってくれる?」

 牧野先輩は、こうして沙耶に用事を言いつけた。