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 卒業の季節にふさわしく、桜が満開の晴れの日だった。

 これが一番好きなんだよね、と先輩が指定してきたショパンの曲は、正直とても難しかった。何度も文句を言って、何度も励まされて、そうしてようやく完成した一曲だ。ありがたく思ってくださいよ、と内心苦笑いしながら、沙耶は一音目の鍵盤に指を置く。

 ――ぽろん。

 ピアノは、不思議だ。最初の一音さえあれば、そこから紐で繋がったように次の音へ指が導かれていく。一番上手く弾けるときには、本当に自分が弾いているのか、あるいは鍵盤に弾かされているのか、楽譜に導かれているのか、よくわからなくなる。

 自我さえなくなったように思うほどピアノと一体化できているとき、音は色付いて、メロディは華やいでいく。全てを手に入れたように感じられるこの瞬間が、たまらなく気持ちよかった。

 音の洪水。メロディの色彩。ピアノが与えてくれた全て。

 不意にどうしても顔が見たくなって、ピアノを弾きながら沙耶は顔を上げた。三年生の集団の中でも、胸にコサージュを付けて笑っている牧野先輩はすぐに見つかった。

 やがて、ぽろん、と最後の音が空中に消えていく。その音が確かに桜色に輝いているのが、沙耶にも見えたような気がした。

 演奏を終えた沙耶へ、体育館中から拍手が贈られる。この演奏は、ピアノ部による、卒業生へのはなむけのプログラムということになっていた。

 でも――沙耶にとってこれはもう、牧野先輩ただ一人へあてた演奏のようなものだ。

 そして当の先輩は、誰よりも大きく手を鳴らしている。

 沙耶は目を閉じて、すうと息を吸った。そしてこの空気を噛みしめるように、大きく息を吐いて深呼吸する。

 ――その間も、たくさんの拍手が、鳴りやまず続いている。

 この音の海に溺れる資格が、ピアノを弾く資格が、青春を楽しむ資格が、今の沙耶には確かにちゃんとある。


   <了>