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 驚きで心臓が飛び出てしまいそうだった。叫びそうになる口を手で押さえる。牧野先輩が慌てたように沙耶の手を取るので、二人でこそこそしながら体育館の後ろまで小走りで辿り着く。

 ここならもう大丈夫そうだ、と判断したところで、沙耶は自分が出せる一番大きな囁き声で叫んだ。

「先輩、普通に生きてるじゃないですかっ!」
「……俺、死んだことになってたの?」

 うっ。そう言われると、たしかに物凄く不謹慎な言い方だった……けどっ、こんなに元気そうに文化祭に参加してくるなんて、思ってもいなかったのだ。

 恨めしい気持ちで先輩を見上げると、少し涙で歪んだ視界の中で、牧野先輩が頭をかいた。

「悪かったよ。これでも反省してるんだ」

 先輩は、今まで沙耶に対して秘密にしていたのはなんだったんだろうというぐらい、包み隠さずこの一週間にあったことを話してくれた。手術は無事大成功、経過があまりに良いので一時帰宅の許可まで取れたらしい。

 というわけで――結局、先輩は助かった。というか、どうやら沙耶のほうが、先輩の病状を深刻に捉えすぎていたらしい。

「――ごめんごめん。まさか、そう勘違いするとは思わなくってさ」
「だって、この世界のどこにいたとしても……って、もう死にそうみたいなこと書いてたじゃないですかっ」
「え? 退院できててもできてなくても、って意味だったんだけど」
「……。先輩、文才はないんですね」
「手厳しいなあ」

 へらり、と笑う顔は、どこまでもいつもの牧野先輩だった。今の沙耶は、先輩の顔を見るだけで、安心してなんだか泣いてしまいそうだった。

「しかし沙耶も随分可愛いところがあるね。俺が死ぬと思ったの?」
「おもっ……思ったんです! 確かに、冷静に考えたらそんなこと書いてなかったですけど!」
「一言もね」
「うるさいですっ!」

 全く、本当に人騒がせな人だ。こんなことなら、事前に全部教えてくれていれば良かったのにと、いまさら牧野先輩への怒りがふつふつと湧いてきた。

「……ごめんね」

 牧野先輩が、今日何度目かしれない謝罪の言葉を口にする。本当に困り切っているのがよく分かる、弱った表情だった。

「でも、俺もね、手術の前にはいつもこう思うよ。もしかしたらこのまま目が覚めないのかもしれないなって。実際、そういうリスクが少しはある、死ぬかもしれないって書いてある同意書に、母親がサインをしてから始めるわけだし」
「……っ」
「なんて、また本気にした?」
「もうっ、先輩!」

 そう叱るように叫んではみたものの……やっぱり、牧野先輩だって不安でたまらなかったんじゃないかな、とそう思った。絶対に大丈夫だと自分でそう分かっていたなら、沙耶にも直接事前に教えてくれた気がする。……多分、だけど。

 まあでも、今となっては、一週間前のことなんてもうどうでもよかった。
 沙耶は今日、自分が弾きたいようにピアノが弾けた。そして、牧野先輩が隣にいる。

 これ以上に大切なことなんて、他にない。

 そういえば……と、沙耶は牧野先輩を改めて見上げる。

「私のピアノ、どうでしたか?」
「堂々としてた。すごくよかった。これが演奏会じゃないのが残念なぐらいだね」

 そう言って、ぱちぱち、と音が出ないように先輩が小さく拍手する。でもこのささやかな手拍子だけで、今日の沙耶には十分だと思った。

「先輩。また、ピアノを一緒に弾いてくれますか?」
「もちろん、喜んで。しばらくしたら、水曜日の通院もしなくてよくなるし――あ、でもそれより前に卒業しちゃうかな」
「あっ」

 先輩が三年生だったことを、沙耶は改めて思い出した。受験生であることも考えると、一緒にいられる時間は、そう多くないのかもしれない。

「まあ、卒業まではこれまでと同じように一緒に弾けるよ。その先だって、会えないわけじゃない」
「……でも先輩、受験勉強とかありますよね?」
「え? 言ってなかったっけ。俺、もう推薦決まってるよ」
「きっ、聞いてないです……!」

 こんなに何も言ってくれない人だとは思わなかった。思わず頬を膨らませそうになる沙耶を、宥めるみたいに牧野先輩が慌てて口を開く。

「そうだ、俺の残りの青春イベントってもう卒業式しかないからさ。来てくれる? よかったら、沙耶のピアノが聞きたいな」
「……もうほんと、しょうがないですね」

 強引で、少し身勝手で、でもとても根気強くて、優しい。牧野先輩に微笑まれると、沙耶には抵抗するすべがなかった。

 次の週から、先輩は再び旧音楽室に来るようになった。