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 ――沙耶が、飛び出していく。けれど、俺はその背中を追いかける資格がない。

 しんと静かになった旧音楽室で、俺は一人溜息をついた。

「『資格』、か……バカらしい、って思ってたのにな」

 ピアノを弾こうと誘った時に、沙耶がそう言っていたのを思い出す。ピアノを弾く資格、青春を楽しむ資格、恋をする資格――自分には、それがないのだと。

 一人きりの旧音楽室は、とても広く感じた。とりあえずピアノの前に座ってみるけれど、当然弾く気にはなれない。

 それでも今は、このピアノだけが俺を慰めてくれる唯一のものだった。ぽろん、と音をこぼす。寂しげに鳴るその音を追いかけて、一つの旋律を作りあげる。

 ……いや、戻った、だけなのかもしれない。ピアノと自分しかいない、旧音楽室に。

 やがて、ドアが開く音がした。沙耶でないことは分かり切っているので、俺は振り返らない。でも、ピアノを演奏する手は止めた。

「あのね」

 と、諫めるような声が響く。声の主は、分かり切っていた。

「牧野くん。藤塚さんに言ってないことあるでしょう」
「……さすが先生、お節介ですね」

 はあ、と溜息を吐いたのは、田中先生だった。

 先生は傍までやってきて、旧音楽室に唯一残されている机の前に腰を下ろした。まるで生徒みたいだ。

 弾いてよ、と言うので、そんな状況じゃないだろうと思いながらワルツを弾く。リズムがなっていない。音がぶれている。自分でも酷いと分かっていた。全く気晴らしにもなりはしない。

 俺は諦めて、田中先生と話をすることにした。

「隠してたわけじゃなくて、言う機会がなかったんです。……っていうか、言いづらかったんですよ。言いやすいと思いますか?」
「そりゃ、言いづらかったでしょうね。でも言わなきゃいけなかったのよ」

 田中先生が、もう一度溜息をついた。

「教えてあげましょうか」
「何をですか?」
「青春の三年間は短いのよ」
「俺にとってはなおさらそうです」
「……そうだったわね」

 田中先生が目を伏せる。同情を稼げるうちに、もう一度頼み事の念押しをしておいたほうがいいかもしれない。

「明日から沙耶の練習、付き合ってやってください」
「嫌よ。最後まで責任もって自分でやりなさい、部長さん」
「……冷たいなあ」

 嘘だ。田中先生が優しいことは、俺が一番知っている。吹奏楽部とは別に、ピアノ部を用意してここで弾かせてくれているのも、たった一人しか所属していない部活を俺のために残してくれているのも、田中先生だった。

 いや、今は――ピアノ部は二人。そう数えてもいいだろう。

「俺だって、文化祭見に行ってやりたいですよ」
「そういうことを言ってるんじゃないの。藤塚さんと、このままになっちゃってもいいの?」

 いいわけがない。目に涙をいっぱいに溜めた沙耶の顔が、焼き付いて離れない。沙耶は俺にとっての光だった。

 いつもみたいに一人きりでピアノを弾いていたら、まるで映画のワンシーンみたいに、きらきらした瞳で俺の演奏を聞いてくれた子。俺の音を、真っ青だと言ってくれた子。教えるのが下手な俺なんかのことを信じて、ピアノを弾き続けてくれた子。

「ほんと、最後まで見てやりたかったなあ」
「最後まで、面倒見てあげればいいでしょ。たとえ隣にはいれなかったとしてもね」
「でも俺、今日から入院ですよ?」

 そう反論してはみたものの、たしかに、このまま旧音楽室を去ることはできなかった。

 だから、せめて手紙を残すことにした。こんな手紙なら無いほうがマシかもしれない。

 それでも俺は書くことにした。