♪


 高揚感を抱えたまま、沙耶は旧音楽室を後にした。

 ギリギリまでピアノを弾いていたせいで、すでに下校時刻は過ぎている。校内には、オルゴール風のクラシック曲が流れていた。そういえばこの曲は誰のなんという曲なんだろう、明日の練習で牧野先輩に聞いてみたい。

 校門へ急ぎながら、沙耶は不意に、スカートのポケットの中が空っぽであることに気が付いた。
 ――イヤホンが、ない。

 おそらく旧音楽室に忘れたのだろう。急いで帰り支度をしたせいだ。どうしても必要と言うわけではないけれど、登下校時にはいつも自分の演奏や牧野先輩の演奏を聞いていたから、無音の耳のまま帰るのは落ち着かない。家で復習する時にも、イヤホンがないとやはり困る。

 下校を促す放送が繰り返されていたものの、少し迷った末に、沙耶は小走りで旧音楽室へ引き返すことにした。ルールを無視するなんて、いつもの自分らしくないなと内心苦笑いしたくなる。

 ただ、今は文化祭前ということもあって、通りかかった教室では何人かの生徒が居残りしていることも多かった。まだ片付けも始めていない彼らに比べたら、イヤホン一つを取りに帰るだけなんてかわいいものだろう。

 旧音楽室には、何故か再び照明がついていた。牧野先輩は寄るところがあるとかで沙耶より先に出て行っていたから、すでに帰っているはずだ。いるとすれば田中先生だろうか。

 少し不思議に思いながら、扉を開く。そこには、牧野先輩がいた。

「沙耶? もう帰ったと思ってた」
「先輩こそ。どうしたんですか?」

 牧野先輩は珍しく、少しばつの悪そうな顔をした。

「……ちょっとね」

 先輩の手元には、沢山の楽譜が握られていた。

「楽譜、持って帰るんですか? その箱って?」

 見れば、ピアノの足元が、本やノートの山で散らかっている。
 なんだか引っ越しみたいだ、と思った。一つだけ口の開いた箱の中に、楽譜や教本が詰め込まれている。いつもは置きっぱなしにしているはずの倫理の教科書までもが箱の中にしまわれていた。

「……あの、この荷物、どうしたんですか?」

 沙耶の中に、牧野先輩への疑問がいくつも浮かび上がり始める。

 そもそも、帰ったはずなのに一人旧音楽室へ戻ってきていたこと、普段は持ち帰らない楽譜や教科書を箱に詰めていること、それから先ほどの、まるで悪戯が見つかってしまった五歳の子どもみたいなばつの悪そうな顔。

 まるで、まるで……。

「沙耶。さっき言い忘れてたんだけど、俺が一緒に練習できるのは今日までだ」
「え?」

 そんな話は、聞いていない。驚いて先輩を見るけれど、牧野先輩はコピーの楽譜に目を落としているばかりだ。意図的に、視線を逸らされているのだと分かった。

「どうして……です、か?」

 牧野先輩は楽譜に視線を落としたまま、少しだけ困ったように微笑んだ。

「うん、予定が早まっちゃって。残りの一週間のことは、田中先生に頼んであるから大丈夫。先生、ピアノめちゃくちゃ上手いからね」
「頼んであるから、って」

 先生は、先輩の代わりになんてならない。そう言いたいのに、混乱していて、うまく言葉が出てこなかった。

「じゃあ、先輩は?」
「……俺は、今日で終わり」

 そんなの、何の説明にもなっていない。
 見れば、牧野先輩が個人ロッカー代わりに使っていた棚の中は、中身が殆ど空だった。本当に、明日からはここに来るつもりがないのだと分かった。

「そうじゃなくて、先輩に見て欲しいんです。練習も、本番も」

 牧野先輩は、顔を上げない。

「……わかんないですか?」

 牧野先輩にとって、沙耶はどう見えているのだろう。だが少なくとも、沙耶にとっての先輩ほど、一番星のような存在ではないのに違いない。

 沙耶には、先輩ほどの演奏技術はない。内気で、気弱で、クラスメイトに話しかけることにすら勇気を使うような人間だ。先輩に後押ししてもらわないと、ピアノに挑戦することすらできなかった。今日ついに一曲演奏することが叶ったのは、週に四回、放課後の時間を全部くれた先輩のお陰だ。そりゃあ負担も大きかっただろう。

 でも、曲が出来上がったからって、説明もなしに突然いなくなろうとするなんて。

 結局、迷惑だったということなのだろうか。受験が忙しくなったのかもしれない。あるいは、そろそろ自分のピアノに力を入れたくなったのかも。理由は全然分からない。説明してもらっても、沙耶が理解できるかどうかすら分からない。それでも、せめて話をしてほしかった。

 視界が歪んでいくのを感じる。牧野先輩の前で泣くのは二回目ということになるけれど、今回はこのまま先輩の前にいたくはなかった。

「沙耶、俺は――」

 先輩が何か喋ろうとしていたのには気が付いていたが、沙耶はこれ以上、自分の足が勝手に動くのを止められなかった。

 とっくに見つけていた、机の上のイヤホンをひったくるように回収して、旧音楽室を飛び出す。後ろで先輩がなにかを言ってくれたような気がしたけれど、このまま先輩の前でわんわん泣き出すぐらいなら消えちゃったほうがマシだと思った。

 そして次の日、震える足で辿り着いた旧音楽室に、先輩はいなかった。その次の日も、さらに次の日も、次の週になって文化祭が目前に迫っても、先輩が姿を現すことはなかった。