1
 雪の日は嫌いだ。
 頬を刺す凍てついた冬の空気が、ひらひらと宙を舞う真っ白な雪の欠片が、私を一年前のあの日へと呼び戻すから。
 苦しい記憶は鉛のように重たくて、常に私の心の中に沈んでいる。
 あの日を忘れたことなんてない。
 特に雪が降る日には、当時の絶望が鮮やかな輪郭を持って甦り、私は叫び出したくなる。
一生許されることのない、私の罪。


 しんと静まり返った放課後の教室。窓際の自分の席で補習のテストに取り組みながら、私は無意識の内にため息を吐いていた。教壇の上で私たちを監視していた担任の川野先生が、それを目ざとく見つける。
「どうした三崎、分からない問題でもあったのか?」
「いえ、大丈夫です」
 私は何とか笑ってみせる。このため息は、テストの問題が解けないから吐いたのではない。
 十二月半ばの今日、早朝に初雪が降った。すぐに溶けたし、電車がちょっと遅れたものの、ホームルームには間に合った。
 けれど。
 問題を全て解き終え、シャーペンを机に置く。窓から外を眺めると、低くて広い空は今も厚いグレーの雲に覆われていた。あれから気温も上がったし、もう雪は降らなそうだ。
 胸の奥の癒えない傷を、グリグリと抉られる感覚。
 本心は補習どころじゃなくて、早く家に帰ってベッドで毛布にくるまりたかった。だけど、期末テストで赤点を三つも取ってしまったのだから、そんな悠長なことはしていられない。
「終わった者から、提出して帰っていいぞ。ああ、三崎は残るように」
「えっ?」
 先生の思いがけない言葉に、私は思わず声を出して驚いてしまった。
 早く家に帰りたいのに。

 教室に残された私に、先生は呆れたように告げる。
「三崎、この成績じゃ、三年への進級はギリギリだぞ。三学期はもっと頑張れよ」
 私は俯いて唇を噛んだ。
 そのことは、自分が一番よく知っている。
 だけど……。
 すると先生は、真面目な声になって言った。
「一年の時と比べたら、雲泥の差だな。あの頃は、委員会活動も頑張る優等生だったじゃないか。……まあ、『あんなこと』があって、三崎が落ち込む気持ちは分からんでもないが。だからといって、学生の本分である勉強をおろそかにしちゃいかんぞ」
 分かってない。
 先生は何にも分かってないよ。
 私は学生である前に人間なんだよ。
「あんなこと」があった後で、普通に生活出来るわけないじゃない。
 だけど、それは口には出さなかった。
 分かってもらえないと知っていたから。

 校舎を出ると、夕方の冷えた外気とどんよりとした曇り空が私を出迎えた。
 雨が降りそうで降らない、どこか不安な気持ちになる天気だ。
 まるで、私の心みたいだな。
 重たい心に隠した本音が、零れ落ちそうで落ちない。
 駅に向かう道を歩いていると、背後から、こっちに向かって走ってくる足音がした。
「三崎!」
 聞き覚えのある声で名前を呼ばれて、私はびっくりして振り向く。
 するとそこには、同じクラスの広瀬君が立っていた。走ってきたからだろう、サラサラの黒髪がちょっと乱れている。彼の姿を認めた私の心に、サッと緊張が走った。「これ、川野から。お疲れさんってさ」
 そう言って、広瀬君は手にしていた本を私に差し出す。数学Bの問題集で、表紙には私の名前が書かれていた。赤点の多い私は、補習テストの他に問題集の提出も課されていたのだ。
「何で、広瀬君がこれを?」
 私は背が百五十センチしかないので、長身の広瀬君を見上げる形になる。上目遣いに聞くと、彼は苦笑して言った。
「さっき職員室の近くで、川野に頼まれた。三崎はまだ教室にいるだろうからって。でも、教室には誰もいなくて、窓から歩いてる三崎が見えたから、追いかけてきた」
 じゃあ、広瀬君は問題集を届けるためだけに、わざわざ走ってきてくれたのだ。胸の中が嬉しさでいっぱいになる。
 それなのに、表に出た私の態度は素っ気ないものだった。
「そう、ありがと。それじゃ」
「待てよ」
 背を向けて再び駅へと歩こうとした私を、広瀬君の声が止めた。
「まだ何かあるの?」
 振り返りながら、我ながら冷たい口調だったな、と後悔する。
「前から思ってたんだけどさ、三崎って俺のこと避けてるよな?」
 真剣な瞳で問われて、私は思わず彼から目を逸らした。
「そんなこと、ないよ」
「あるだろ。一年の時は、もっといい奴だったのに。なのに、須藤が死んでからは、」
「やめて!」
 彼女の名前を、広瀬君の口から聞きたくなかった。ハッと目を見開く彼に、やっとの思いで告げる。
「……私のことなんか、放っておいて」
 広瀬君は俯いて、どこか悔しそうに表情を歪ませた。好きな人のそんな姿を見たくなくて、私は今度こそその場を立ち去る。
 歩きながら、私は彼女のことを思い出していた。
 須藤沙弥。
 一年前に命を落とした、私の親友のことを。


2
 去年の四月一日は、雲一つない晴天だった。
 私は期待に胸躍らせながら、新しく通う高校の校舎を見上げた。肩まで伸ばした栗色の髪が、爽やかな春風に揺れる。
 受験勉強を頑張った甲斐あって、私は第一志望の私立高校に合格した。建て替えたばかりの校舎はどこもピカピカで、ブレザーの制服もすごく可愛い。付属大学があるから、悪い成績さえとらなければ、大学受験の心配をせずに高校生活を目一杯満喫出来る。
 ワクワクがいっぱいの新学期。まずは友達を作らなきゃ!
 一年二組の教室に入り、自分の席に着いた私は、緊張しつつも周囲をキョロキョロと見回した。と、通路を挟んだ隣の席の子と目が合う。柔らかそうな黒髪を左右で二つに結んだ、おっとりとした雰囲気の女の子だ。
「何だか緊張するね」
 勇気を出して声を掛けると、女の子は微笑んで頷いた。
「うん。知らない人ばっかり」
「私立だから、学区関係ないもんね。あの、私、三崎萌花。よろしくね」
「萌花って、可愛い名前だね。私は須藤沙弥だよ。話し掛けてくれて、ありがとう。ねぇ、良かったら友達にならない?」
「うん、勿論だよ!」
 こうして、私は沙弥とすぐに仲良くなれた。
 彼女は穏やかで優しい性格で、一緒にいると和んだ。一方で、おとなしそうな見た目に似合わず、ちょっと大胆なところもあった。
 例えば、後日、委員決めの学級会で、いきなり沙弥から中央委員に推薦された。中央委員とは、生徒会と連携して行事を運営する役割があって、なかなか責任がある立場だ。
 勿論、最初は断ろうと思った。だけど、沙弥に「萌花は、皆をまとめるのに向いていると思う」と言われて、気持ちが変わった。そんなことを言われたのは初めてだったから、本当に驚いたけど……私もやる気に満ちていたから、思い切ってやってみることにしたんだ。
 勉強と委員会で忙しかったけれど、仲の良い友達もいて充実した高校生活。
 もしかしたら、彼氏を作る機会もあるのかなぁ? まだ、好きな人はいないけど……。
 この時は、毎日がキラキラと輝いて見えていて、そんな日々がずっと続くって思ってたんだ。


 五月も終わりに近付いた頃から、学校で周りの人たちを見て気付くことがあった。
「カップルが増えたなぁ……」
 昼休みや放課後に、仲睦まじく一緒にいる男女の姿が多くなった。皆、いつの間に付き合い出したんだろう。
 クラスでも、付き合って間もないカップルが何組かいる。お揃いの指輪を着けて楽しそうに喋る姿は、本当に羨ましい。
「あ~あ、私も彼氏欲しいなぁ!」
 昼休み。窓辺で語らうカップルを眺めながら、私はため息を吐いた。残念ながら、私も沙弥も彼氏はいない。
「萌花は、好きな人いないの?」
 沙弥に聞かれて、私は力なく頷いた。
「うん……。クラスや委員会で男子と話す機会はあるけど、そんなに親しくないし、好きって思える程の人は、まだいないかな。沙弥は?」
 何の気なしに聞いてみると、沙弥は頬をサッと赤く染めて俯いた。
「えっ! そのリアクションは、いるってこと? 誰だれ?」
「しっ! 萌花、声大きいよ!」
 興奮する私を、沙弥が慌てて嗜める。てっきり、沙弥も好きな人がいないんだと思ってたのに……。
 沙弥は周囲を注意深く確認してから、そっと私に耳打ちした。
「広瀬悠馬君」
「……へぇ~!」
 それは、私も知っているクラスメイトの名前だった。
 広瀬君は女子にモテる。整った顔立ちと長身は人目を引くし、他の男子みたいに騒いだりしなくて、落ち着きがあるからカッコいい。所属しているサッカー部でも、期待の新人と評価されているそうだ。
 だけど、私にはそのクールな雰囲気が、どこか近寄りがたく感じた。私は中央委員ということもあって、クラスの人たち全員となるべく話すようにしている。だけど、彼はそんなに喋る方じゃないから、何を考えているのかよく分からなかった。
 今は周りに人がいるから、後でじっくり話を聞かせてもらうことにして、テンション高く昼休みが終わった。

 放課後のドーナツショップで、私は沙弥から広瀬君を好きになったきっかけを聞いた。
 春先、沙弥が登校中に体調を崩したことがあった。フラフラとよろける沙弥に、偶然後ろを歩いていた広瀬君が声を掛けて、身体を支えて保健室まで連れていってくれたらしい。
「迷惑掛けてごめんねって謝ったら、『俺は部活で、具合悪い人を助けるのは慣れてるから、安心して。ちゃんと休めよ』って言ってくれたの。その瞬間に、広瀬君のことを好きになっちゃった」
「きゃ~! そんなことがあったんだ~! それは惚れるね!」
 広瀬君の意外な一面に、私は驚くとともにときめいた。なるほどね、イケメンなだけじゃなくて、照れずに女子にそんなことが言えるんだから、モテるわけだ。
 沙弥は困ったように目を伏せた。
「だけど、自分から広瀬君に話し掛けるなんて、出来なくて……」
「確かに、広瀬君はあまり女子と話す方じゃないもんね……でも、私、沙弥の恋を応援するよ!」
 沙弥は微笑んで、「ありがとう。萌花に打ち明けて良かった」と言ってくれた。
 この時点では、私は心から沙弥を応援するつもりだったんだ。
 それなのに、私は……。


 沙弥が広瀬君を好きだと打ち明けてから、一ヶ月。私は彼の言動を目で追うようになっていた。親友の好きな人だし、やっぱり気になるよね。
 その日は中央委員会の後、何人かで手分けして、プリントの束をホチキスで留め冊子にする作業をしていた。思ったよりも量があって、なかなか終わらない。
 習い事や用事などで人が少しずつ減っていき……結局、後少しで終わるという時には私一人に。頑張らなきゃ!
「出来たー!」
 ようやく全て終わった時には、窓の外は薄暗くなっていた。完成した冊子の束を段ボール箱に入れる。後はこれを職員室まで持っていくだけだ。
「うっ、重っ!」
 ところが、段ボール箱が重すぎて、持ち上げることすら出来ない。先生に言って、代わりに運んでもらおうか……。悩む私に、委員会室の入り口から声が掛かった。
「大丈夫?」
 視線を向けると、広瀬君が心配そうな表情でこっちにやってきた。
「あ、広瀬君。遅いんだね、部活帰り?」
「ああ、俺はいつもこのくらいの時間。三崎こそ、遅いよな。委員会って、こんなに時間掛かるのか?」
「ううん。今日は、これを作っていたから遅くなっただけ」
 段ボール箱を指差すと、広瀬君は怪訝そうに私を見た。
「三崎一人で? 他の奴らは?」
「皆、用事があるんだって」
 すると、彼はふーっとため息を吐いた。
「お人好し」
「え、何で?」
「一人で出来ることには限りがあるんだから、もっと周りを頼れよって話。こういうことは、力のある奴に任せればいい。これ、どこまで持っていくんだ?」
 広瀬君は段ボール箱を軽々と持ち上げた。
「あっ、ありがとう……職員室まで頼んでもいい?」
「了解」
――優しいんだな、広瀬君。
 嫌な顔一つせず運んでくれる彼の横に並んで歩きながら、心の底に好意的な感情が芽生えるのを感じた。
 確かに、こんなことしてくれたら、好きになっちゃうかも……って、ダメダメ! 広瀬君は、沙弥の好きな人なんだから! それに、きっと彼は、誰にでもそうやって優しいんだよね……勘違いしないでおこう。
 頭ではそう考えているのに、胸に広がる温かな想いは収まらなかった。


 夏休みが終わり、始業式の日。
 教室に入って、久しぶりのクラスメイトとの再会を喜ぶ。沙弥が「萌花、おはよう」と駆け寄ってきて、耳元でそっと囁いた。
「今日からまた、広瀬君を見られるから嬉しいな」
 沙弥の言葉に釣られて、私は黒板前にいる広瀬君たちに目を遣った。部活で一層日に焼けた広瀬君を見た瞬間、段ボール箱を運んでくれた彼の姿が脳裏に甦って、胸が熱くなった。
「……萌花?」
 広瀬君を見つめてぼんやりしている私を、沙弥が不思議そうに呼んだ。
「あっ、ごめん。何でもないよ」
 あの日、広瀬君に手伝ってもらったことは、沙弥には言っていない。沙弥の気を悪くさせるかもしれないからっていうのもあるけど、あの思い出は私だけのものにしておきたかった。
 まだその時は、私は自分の気持ちに気付けていなかったんだ。


 九月も半分が過ぎたのに、残暑が厳しい。
 放課後、私は委員会の仕事で体育館裏の倉庫へと歩いていた。来月の体育祭に向けて、準備することがたくさんある。今日は倉庫にある備品を確認する予定だ。
 普段は通らない、校舎脇の人けのない道を歩いていると、空き地となった雑草だらけの一角に、誰かが倒れているのが見えた。
「!」
 慌てて駆け寄る。うちの学校の制服を着た男子生徒だ。
「大丈夫ですか!」
 熱中症にでもなったのだろうか。私は声を上げて、彼の傍に膝をついた。
「……」
 すると、男子生徒はもぞもぞと動き出した。良かった、意識はあるみたいだ。
「あれっ?」
 身体を起こした男子生徒を見て、私は驚いた。ここ数日欠席していた、広瀬君だったからだ。確か、家の用事があるとかで。
「……ああ、三崎か」
 どうして、広瀬君がここに? 疑問が浮かぶけど、まずは彼を助けないと! ぼんやりと私の顔を見る広瀬君に、必死で尋ねる。
「気分はどう? 保健室の先生を呼んでくるから、そこの日陰で休んでて」
 すると、広瀬君は手をひらひらと振った。
「いや、別に具合は悪くないから。ただ、寝転がってただけ」
「ここに?」
 私は狭い空き地を見回す。それは、どう考えても不自然な状況だった。まだ気温が高い中、こんな誰もいないところに一人でうずくまっているなんて……。
「ちょっと待ってて!」
 私はそう言い残して、元来た道を駆け戻った。購買の自販機でスポーツドリンクのペットボトルを買うと、再び走り出す。
「これ、飲んで」
 広瀬君の元に戻ってペットボトルを差し出すと、彼は目を見開いた。
「俺、熱中症じゃないぞ?」
「それでも、水分足りてないはずだから。まずは飲んだ方がいいよ」
 真面目に訴えると、広瀬君はフッと微笑んだ。その笑顔は、いつも彼が浮かべるものとは違って、どこか弱々しく、儚げに見えた。その夢みたいに脆く、でも綺麗な微笑みから、私は目が離せなくなった。
「お人好し」
 広瀬君は、以前私に言ったのと同じ言葉を呟く。そして、私の手からペットボトルを受け取ると、蓋を開けて口を付けた。ぐびぐびと一気に半分以上飲んだので、やっぱり喉が乾いていたみたい。
 広瀬君はペットボトルを口から離して、私の目をじっと見つめた。
「サンキュ。助かった」
 その表情は、いつも通りの凛とした印象で、さっきの消えてしまいそうな広瀬君は跡形もなくなっていた。
「どういたしまして。今日、学校来てたんだね」
「ああ。午後から授業出るつもりだったけど、結局、ダルいからサボった」
 意外だった。広瀬君は真面目な性格で、授業をサボるなんてことはしないから。
 直感だけど、何か事情があるんじゃないかなって思った。だって、こんな暑い日に、一人で空き地でぼんやりしているなんて、普通じゃないよ。
 でも、それを面と向かって聞けるほど、私たちは親しくなかった。
「そういや、三崎は何でここに?」
 不思議そうに聞かれて、私は本来の目的を思い出す。
「あ、そうだ。私、体育祭の準備で、倉庫の備品チェックに来たんだった」
「また、面倒な役目を押し付けられてるな」
 呆れ顔で言われて、私はムッとした。
「押し付けられてないよ。進んで立候補したの。誰もやりたがらなそうだから、私がやった方がいいかなって」
 すると広瀬君は、クスッと笑った。
「そっか。じゃ、そういうことにしとく。さっきのお礼に手伝うよ。二人でやれば、早く終わるだろ」
「え、でも、体調は大丈夫?」
「さっきも言ったろ、具合は別に悪くないって。むしろ、何日も部活出てないから、身体が鈍ってる」
 そう言って両腕を回す広瀬君を見ながら、彼の方がお人好しだよなぁって思う。段ボール箱を運んでもらったこともあるのに。
「ありがとう」
 だけど、私はにっこり笑ってお礼を言った。広瀬君と、もう少し一緒にいたかったからだ。
 どうしてだろう。
 どうして、広瀬君と話していると、明るい気持ちになれるのだろう。


3
 月日は流れ、十二月になった。
 あの暑い日々が嘘だったんじゃないかと思えるくらい、冬が早くやってきて、寒がりの私はニットとマフラーが欠かせない。もっと寒くなってきたら、手袋もしないと。
 私は相変わらずの学校生活を送っている……と言いたいところだけど、段々と自分の感情の変化に気付き始めていた。

 広瀬君に心引かれている。
 九月のあの日以来、彼はたまに私に声を掛けてくるようになった。「三崎、また委員会で無茶してないか?」って。「大丈夫だよー」と答えながらも、自分の心が弾んでいるのを、もう見て見ぬフリは出来なかった。
 広瀬君の優しい性格も好きだけど、あの時一度だけ見た、弱々しい笑顔も記憶に残っている。綺麗で、儚げな微笑み。彼に何かあったんじゃないかって、いまだに気になる。まあ、これに関しては、私の思い過ごしかもしれないけれど。

 そうなると、私の心を痛めるのは沙弥の存在だった。
 今でも沙弥は、広瀬君に恋してる。
 今日、沙弥は家で作ったマフィンを学校に持ってきた。チョコやキャラメルなど色々な味があって、一つずつ可愛くラッピングされている。
「わあ、美味しそう! 沙弥、お菓子作るの上手だよね」
 私は調理全般が苦手なので、女の子らしい趣味を持つ沙弥が羨ましい。スマホでマフィンの写真を撮りながらほめると、沙弥は恥ずかしそうに笑った。
「ありがとう。このピンクのラッピングは萌花の分だよ」
「可愛い~! レースがついてる」
 受け取って、しげしげと眺めていると、沙弥が頬を赤く染めて言った。
「あのね、私、広瀬君にも渡そうと思ってるんだ」
「えっ……」
 私の戸惑いに気付かない様子で、沙弥はブルーのラッピングのマフィンを手にした。
「見ているだけじゃ、好きな気持ちは伝わらないもんね。周りに人がいない時を見計らって、頑張って渡してみるよ」
 決意を込めた沙弥の言葉に、私は何も言えなくなる。
「萌花も応援しててね!」
 沙弥はニコッと笑うと、「これ、須藤さんが作ったの?」と声を掛けてきた女子たちにマフィンを配り始める。私は黙り込んだまま、自分の席に戻るとマフィンを鞄にしまった。
 今、沙弥から聞いたことを全て忘れてしまいたい。そんな思いに駆られた。

 翌朝。教室に入った私は、沙弥を見つけると足早に近寄った。昨日、広瀬君にマフィンを渡したのか、ずっと気になっていたのだ。
「おはよう、萌花」
「おはよう。あのさ、昨日……」
 すると、快活な声が私の言葉を遮った。
「須藤」
 広瀬君が沙弥を呼ぶ声に、サッと緊張が走る。彼は目を丸くする沙弥に、爽やかな笑顔を向けた。
「昨日、マフィンありがとう。美味かったよ」
「あ、ううん……あの、またお菓子作ったら、あげるね」
「本当? 楽しみにしとく」
 そう言うと、広瀬君は友達の元へ戻っていった。沙弥は顔を赤くして、嬉しそうに微笑んでいる。二人のやり取りを見ていた私の心の中に、どす黒いものが広がった。
 嫉妬だ。
 醜い感情だと思うのに、沙弥に嫉妬する自分を止められない。
――私はもう、沙弥の恋を応援するなんて出来ないんだ。
 はっきりとそう自覚して、目眩がしそうになった。


 数日間、心ここにあらずの状態が続いた。沙弥には心配されたけれど、「私も広瀬君を好きになった」だなんて、一番の親友に言えるはずがない。
 ぼんやりとしたままで、ホームルームの時間を迎えた。今日のホームルームは席替えだ。先生が教卓の上にクジの箱を置いて、順番に並ぶよう指示する。沙弥は私に手を合わせると、小声で言った。
「今回も、もし萌花が広瀬君の隣の席になったら、クジを交換してね」
 私は曖昧に頷くと、沙弥と一緒にクジ引きの列に並んだ。私も沙弥も、今まで広瀬君の隣になったことはない。まあ、そうなる確率はものすごく低いしね。
 そう考えながら、箱からクジの紙を一枚引いて広げる。黒板に書かれた座席表と照らし合わせると、一番前の席だった。あ〜あ、ツイてないな。
「あ。俺、一番前だ」
 友達とクジを見せ合っていた広瀬君が、そう言ったので驚いた。どの席だろう? 私は広瀬君たちの会話に、注意深く耳を傾けた。
「うわ、可哀想〜。広瀬、何番?」
「D1」
 心臓が大きく脈打った。その席は、私の隣だったからだ。沙弥が寄ってきて、残念そうに眉尻を下げる。
「広瀬君、一番前なんだね……私、後ろの席になっちゃった。萌花は?」
「えっと……」
 言わなきゃ。私、広瀬君の隣の席になれたよって。クジ、交換しようって。
 そう思うのに、私の口は開かない。
――そりゃ、先に広瀬君を好きになったのは沙弥だよ。
――だけどさ、それって関係ある?
――沙弥より先に広瀬君を好きになった子だって、たくさんいるんだし。
――親友だからって、好きな人を譲る理由は存在しないよね?
 私の中の本音が騒ぎ出す。
「こら、喋ってないで、早く移動しなさい」
 先生に注意されて、皆は新しい席へと移動を始めた。
「萌花、また後でね」
「あ、沙弥……」
 慌てて自分の席へと戻っていく沙弥を目で追いながら、私は何か大切なものが壊れていくのを感じていた。このまま黙っていても、すぐバレてしまうのに。
 机と椅子を抱えて、緊張しながら広瀬君の隣の席へ行く。
 広瀬君は、私が隣だと分かると笑い掛けてきた。
「三崎が隣か〜。一番前だと先生に面倒押し付けられるから、気を付けろよ」
 私は胸が高鳴るのを抑えて笑みを返す。
「そしたら、また広瀬君に手伝ってもらうから」
「ははっ、俺、頼られてんなぁ」
 二人で笑い合っていると、不意に、強烈な視線を感じた。振り返ると、後ろの席で沙弥が目を大きく見開いて私たちを見つめていた。

 ホームルームが終わり、放課後になると、気まずい空気は濃度を増した。
 今日は委員会活動がないから、いつもなら沙弥と一緒に帰っている。だけど、さっきのこともあり、彼女の元へは行きづらい。私は鞄を持って、一人で教室を出た。
 学校を出て少し歩くと、雪がちらちらと降っていることに気付いた。空気もいつもより冷たく張り詰めている。
 初雪にはしゃぐ周りの人たちから逃れるように、足早に駅を目指した。
「萌花」
 すると背後から、震える声が私を呼び止めた。その声の悲しいトーンに、思わず振り返ると、泣きそうな顔の沙弥が私を見つめていた。
「何も言わずに教室を出ていったから、びっくりして……」
 そう言ったきり、沙弥は黙り込んだ。
 ここで上手く言い訳が出来たら、どんなにいいだろう。今日は急ぎの用事があるんだ。後ね、私、勘違いしてて、広瀬君の隣の席だって知らなかったの。クジを交換出来なくて、ごめんね、なんて。
 でも、そんなのは、その場しのぎだ。今、自分の気持ちを隠しても、きっと後でつらくなる。
「向こうで話そうか」
 私たちは、校舎脇の人けのない場所へと移動した。道の傍にある小さな空き地は、冬場の今は草もまばらで、薄く雪が積もって真っ白になっている。そこは、九月に広瀬君がうずくまっていた場所だった。
――私、あの時には、すでに彼を好きだったんだ。
 思い返せば、六月に委員会の仕事を手伝ってもらった時から、広瀬君には好意的な感情を持っていた。つくづく、鈍感な自分が嫌になる。
「沙弥、ごめん」
 突然の謝罪に、彼女は目を瞬かせた。
「どうしたの、萌花……」
「私、広瀬君のことを好きになっちゃった」
 沙弥はヒュッと息を呑んだ。
「だから、沙弥と友達でいるのが苦しいの」
 言いながら、私の瞳から涙が零れ落ちた。
「……いつから好きだったの?」
「九月頃には好きになってた。……気になり始めたのは、六月くらいかな」
「半年も前じゃない! 私が広瀬君を好きって打ち明けてから、そんなに日が経ってないよ」
 珍しく声を荒らげる沙弥に、取り返しのつかないことをしてしまったと後悔する。
 沙弥は鋭い眼差しを私に向けた。
「萌花は私を出し抜くつもりだったの?」
「違うよ、沙弥。そんなんじゃない」
「だって、酷いよ。広瀬君のこと、応援してくれるって言ったよね?」
「それは……」
 自己嫌悪の感情が膨れ上がる。自分の気持ちに早く気付けていたのなら、沙弥をこんなにも傷付けずに済んだのだろうか。
 私を睨んだまま、沙弥は決定的な一言を叫んだ。
「本音で話せないなんて、そんなの友達じゃないよ!」
 身を翻して駆けていく沙弥に、私はどうすることも出来なかった。白い雪が舞う中、ただただ、小さくなっていく沙弥の背中を見つめた。


 翌日は土曜日で、学校へ行って沙弥と会わなくて良いことに安堵しつつも、ぐちゃぐちゃな心は強い痛みを発していた。
 私も広瀬君が好きだと告げた後の、沙弥の怒りの眼差しと感情的な言葉。自業自得だと分かっていてもすごく悲しくて、胸が張り裂けそうになる。
 私は広瀬君が好き。この気持ちは変えられない。
 だけど、図々しいかもしれないけれど、沙弥と友達でいたいとも思っている。ずっと一緒にいて、いつも楽しく笑い合っていた沙弥。広瀬君を巡っては、つらくなったこともあった。だけど私は、この恋と同じくらい、友達も大切にしたいんだ。
 そう思いながらも、結局、日曜の夕方まで私は沙弥に連絡出来なかった。
「ダメだよ、私。ちゃんと謝らなきゃ」
 何度か自分に言い聞かせてから、スマホを手にする。緊張しながら沙弥に電話を掛けた。しかし、繋がらない。
「怒ってるよね、やっぱり……」
 十コールほど鳴らしてから、私は諦めて通話キャンセルのボタンをタップした。そのままではいられなくて、沙弥宛にメッセージを書く。
『沙弥とどうしても話がしたいから、連絡くれませんか』
 震える指先で送信したものの、いつまで経っても既読が付かない。寝る前まで待ってみても、何の音沙汰もなかった。
「直接言わなきゃダメかな……うん、明日学校に行ったら、すぐに謝ろう!」
 もしかしたら、沙弥に拒絶されるかもしれない。そうされたら、きっと私は傷付くだろう。けれど、このままでいるのは、もっと良くないから……私は覚悟を決めた。


 翌朝。不安と緊張で一睡も出来なかった私は、ぼんやりする頭を抱えて学校へと向かった。
 教室に入って辺りを見回したけれど、沙弥はまだ来ていないようだ。いつもなら、私より先に登校しているのに……。
 自分の席に向かうと、隣の席で鞄を開けていた広瀬君が気付いて私を見上げた。
「よう、三崎……って、どうした?」
「えっ?」
 途端に怪訝な顔をする彼に、私は一体何を言われたのか分からなくなった。
「顔。すげぇ疲れてるように見えるけど」
「あ……」
 確かに、朝、洗面所で見た自分の顔は青白くて、目の下にクマがあった。昨日眠れなかったせいだろう。
「何ともないよ。大丈夫」
 必死に笑顔を作ってみたものの、広瀬君は納得がいかないように首を傾げた。
「そうは見えねぇけどな。ま、無理に聞くのもストレスか。そっとしといてやるよ」
 広瀬君は席を立つと、友達の元へと歩いていった。
 心配してくれて嬉しい反面、疲れた顔の原因は広瀬君を巡っての沙弥とのケンカなので、何とも複雑な気持ちだ。早く沙弥と仲直りして、この胸の痛みとさよなら出来たらいいな。
 そう思いながら教室の入り口をずっと見ていたけれど、沙弥がやってくることはなかった。
「ほら、ホームルーム始めるぞ。席に着きなさい」
 担任の先生が教室に入ってきた。今日、沙弥は欠席なのだろうか。風邪でも引いたのかな? それとも、私のせいで……?
 先生は教卓の前に立つと、真面目な表情で私たちを見回した。
「出席を取る前に、大事な話がある。須藤のことだ」
 教室中がざわめいた。
 沙弥のこと?
 何だろう、嫌な予感がする。
 先生が口を開く。
「須藤が昨日の夕方、◯◯県で交通事故に遭った」
 ざわめきが大きくなった。
――事故? そんな、沙弥は無事なの?
 動揺する私たちを前に、先生は淡々と話す。
「一人で交差点を歩いていて、自動車と接触したそうだ。須藤はすぐに病院に運ばれたが……今朝、息を引き取った」
 教室に女子たちの悲鳴が響き渡った。
 私はあまりの衝撃に、声を出すことも出来ない。
 頭が現実に追い付いていなかった。
――沙弥が死んだ?
――じゃあ、もう会えないの?
――会って謝ることは出来ないの?
 視界がぐにゃりと歪んだ。意識が途切れそうになる。
「三崎!」
 広瀬君の声にハッとした。隣を見ると、彼は焦ったように私の両肩を掴んだ。その手の力強さが、私を現実へと引き戻す。
「先生、三崎が具合悪そうなので、保健室に連れていきます!」
 広瀬君は先生にそう告げると、ゆっくりと私を立たせた。皆が心配そうに私を見ている。後ろの席の女子が、「萌花ちゃん、大丈夫?」と涙目で聞いてきたけれど、何も答えられない。
 呆然としたまま、広瀬君に肩を抱かれながら廊下を歩いた。足元がおぼつかなくて、何度かふらつく。その度に、広瀬君が身体を支えてくれた。
 保健室に入ると、広瀬君が先生に事情を説明した。先生にテキパキと体調や気分について聞かれ、頭がぼんやりするとだけ伝える。横になっているように言われて、広瀬君と先生の手を借りながらベッドに横たわった。
「広瀬君、ごめんね……」
 迷惑を掛けたことを謝ると、彼は真剣な瞳をして、
「今は何も考えるな。ゆっくり寝とけ」
 とだけ言った。ベッド周りのカーテンが引かれ、広瀬君が先生に挨拶をして保健室を出て行く音が聞こえる。
「……」
 広瀬君は「何も考えるな」と言ったけれど、私の頭の中は様々な思いでぐちゃぐちゃになっていた。
 特に強く思うのは、「私のせいだ」という意識。
 沙弥は私とのことがショックで、そのせいで体調が優れなくて、事故に遭ってしまったんじゃないだろうか?
 私だって、眠れずに頭がぼーっとしていた。そんな注意不足の状態なら、車が来ても気付かず接触してしまうかもしれない。
 それとも……。
 一つの可能性に思い当たり、私はハッと息を呑んだ。
 もしかして、これは事故じゃなくて、沙弥が自ら車の前に飛び出したんじゃ……。
 親友に裏切られて、あまりにもつらかったから。
「うっ……沙弥……」
 そう思い至り、私の瞳から涙が溢れた。どちらにしろ、私のせいで、沙弥は命を落としたと思う。
 私があんな言い方をしなければ……。
 後悔しても、もう沙弥は戻ってこないのだ。絶望が心を侵食していく。
 優しかった沙弥。最後に見た沙弥が、私に怒りをぶつける姿だなんて、そんなの、嫌だよ……。
 私は沙弥の恋も一緒に殺してしまった。沙弥は広瀬君に保健室へ連れて行ってもらって恋に落ちた。さっきの私みたいに。
 私にはもう、広瀬君に優しくされる資格なんてない。
 胸の痛みを少しでも消したくて、私は瞼を閉じると深い眠りに落ちていった。


4
 目が覚めると、自分が泣いていることに気付いた。夢の余韻がサーッと引いていく。どんな内容の夢かは忘れてしまったけれど、沙弥が出てきたような気がする。
 きっと、昨日、雪が降ったせいだ。そして、広瀬君が沙弥の名前を口にしたから。
 沙弥の死から一年。
 私は以前に比べると、かなり無気力になった。あんなに頑張っていた委員会活動をサボるようになり、年明けには辞めてしまった。本当は途中で辞めることは出来ないんだけど、周りの人たちは、私が沙弥の死にショックを受けているのを知っているから、サボりの件も含めて特別に許してもらえた。
 勉強にも身が入らず、成績は落ちる一方だ。親も先生も、初めは何も言わなかったけれど、最近はよく説教されるようになってきた。
 一年経ったんだから、もう沙弥の死から立ち直らなきゃダメだって。
 前を向いて生きていかないと、沙弥が悲しむって。
 悲しむわけないじゃない。私は沙弥を傷付けたのだから。


 登校して自分の席に着くと、クラスの女子が数人、おずおずと近付いてきた。一年の時も同じクラスだった美奈ちゃんが、緊張を隠せないままに微笑む。
「萌花ちゃん、おはよう」
「おはよう……何か用?」
「あ、あのさ、沙弥ちゃんのことなんだけど」
 突然の沙弥の話題に、私は驚いて目を瞬かせた。
「沙弥ちゃんの事故から、もう一年経つでしょ? だから、沙弥ちゃんの家族にアルバムをプレゼントしようと思って……。それで今、沙弥ちゃんの写真を集めているんだけど、良かったら協力してくれないかな?」
「……ごめん、難しい」
 苦みが混じった声で断ると、美奈ちゃんは一瞬、悲しそうな顔をした。でも、すぐに取り繕うような笑顔に戻ると、
「ううん。こっちこそ、無理言ってごめんね。それじゃ」
 他の女子たちと連れ立って、そそくさと立ち去っていく。
「……」
 きっと、嫌な気持ちにさせたよね。
 二年になって、クラス替えがあったけれど、友達を作ろうとしなかった私は孤立している。普段は私に話し掛けてくる人なんていない。

 一年前、私は沙弥のお葬式に出られなかった。
 最後のお別れなんだから、行かないと後悔する。何度もそう自分に言い聞かせた。
 だけど、棺に横たわる沙弥を見て、彼女の死を実感してしまったら、きっと私の心が壊れてしまう。
 そのことを周りに伝えると、皆は理解してくれた。最も、私と沙弥がケンカしたままなのは誰も知らないから、ただ私が悲しみに暮れているだけだと思っていることだろう。
 実際は、私の心の中には、もっと複雑な感情が混ざり合っているというのに。

 放課後。英語の補習を受け終えた私は、誰もいない教室で窓の外を眺めていた。
 昨日の雪はすっかり溶けている。まるで、初めから雪なんて降らなかったかのように。
――私の苦しみも全部、雪みたいに溶けてなくなってしまえばいいのに。
 ぼんやりとそんなことを考えていたので、教室に誰かが入ってきたのに気付かなかった。
「三崎」
 突然、名前を呼ばれて、私はビクッと肩を震わせた。声がした方へ顔を向けると、そこには、広瀬君が気まずそうに立っていた。
「悪い、驚かせて」
「ううん。ちょっと、ぼーっとしていただけだから」
 昨日、広瀬君を突っぱねてしまった手前、目を合わせることが出来ない。一体、今日はどうしたのだろう。色々な人に話し掛けられる。
「あのさ、昨日、嫌な気持ちにさせてごめん」
 そう言って、広瀬君が頭を下げたので、私はびっくりして両手を振った。
「いやいや、広瀬君は悪くないから! 私の言い方がキツかっただけで」
 慌てる私を見て、広瀬君がフッと笑う。
「サンキュ。何だか一年ぶりに、お人好しの三崎を見た気がするな」
「えっ、そうかな……」
 言いながら、しまったと思う。広瀬君に優しくされる資格なんてないと思っている私は、この一年ずっと、彼のことを避けていたのに。
「……仕方ないよな」
「え?」
 不意に、広瀬君がそう呟いたので、私は首を傾げた。
「仕方ないだろ。突然、親友を亡くしたんだから。無気力になったり、周りに優しくする余裕がなくなったり、そんなの当たり前だよな」
「……そんなこと、ないよ。私、一年も引きずり過ぎだから」
 思いがけない言葉に、胸の奥がジンとした。だけど、親や先生からは、もう立ち直るように言われているのだ。ずっとこのままではいられない。
「いいんじゃねぇの、それで」
 それなのに、広瀬君は優しい顔で言う。
「そうやって少しずつ、須藤のことを受け入れていけばいいさ。無理して明るく振る舞っても、嘘の自分みたいだしな」
 そっと目を伏せる広瀬君は、何故か傷付いているように見えた。まるで、去年の秋に、校舎脇の空き地で儚げに微笑んだ時みたいに。
 そんな広瀬君を見ていたら、私の唇から素直な言葉が零れた。
「広瀬君の言う通り……今の私には、人に優しくする余裕がないの」
 広瀬君が視線を上げて私を見る。
「実はね、私、沙弥とケンカしちゃったんだ。沙弥が事故に遭う二日前、学校で」
 一年間、誰にも言えなかったことが、不思議と広瀬君相手には話せた。どうしてだろう。特別、仲が良いわけでもないのに。
 何となくだけど、広瀬君は私の気持ちを分かってくれるような気がしたんだ。
「だから、ずっと後悔してる。一生、沙弥と仲直り出来ないままなんて」
「そうだったのか……」
 広瀬君は悲しそうな顔で俯いた。
 言わなきゃ良かったかな。沙弥のことは、もうどうにも出来ないし、つらい気持ちを背負わせちゃったよね。
 謝ろうとした時、広瀬君がパッと顔を上げて私を真っ直ぐに見つめた。
「三崎はさ、何がしたい?」
「え? 何って……」
 質問の意図が分からない私に、彼はゆっくりと説明する。
「須藤と仲直りすることは、もう難しいとしても……三崎の気が済むにはどうしたらいいか考えて、実行したらどうかって話。すぐに立ち直れはしなくても、少しは変化があるかもよ」
「私の気が済むには、か……」
 そんなこと、今まで考えてこなかったな。
 ずっと、沙弥とケンカしたあの日に戻れたらって、そうしたら、大切な友達にもっと優しく出来たのにって、それだけを思っていた。
 でも、それは不可能だ。それなら、今の自分が出来る範囲で、何か行動を起こしてみたら――。
「……沙弥がどうやって死んだのか、知りたい」
 心の内に浮かんだのは、純粋な疑問だった。
 私は沙弥の死について、詳しく知ることを避けてきた。もし、私とのケンカが関係していると分かったら、心が壊れてしまいそうで……。
 でも、本当は知りたい気持ちがずっとあった。どういう状況で、沙弥は事故に巻き込まれてしまったのか。
 当時、担任は沙弥が◯◯県で事故に遭ったと言っていた。◯◯県は私たちの暮らす県の二つ隣で、そこへ行くには電車で二時間ほど掛かる。用事があって行ったのだろうか。もしそうなら、家族と行ったのか、あるいは一人で?
 そんなことすら、私は分からないままだったのだ。沙弥のお葬式に出た人なら、何か知っているのかもしれないけれど、誰も教えてはくれなかった。私が当時、深く落ち込んでいたからだろうか。
「そっか。じゃあ、ちゃんと向き合ってみたらいいよ」
「うん、そうする」
 私はしっかりと頷いた。広瀬君に背中を押してもらえて、ようやく沙弥の死に真正面から向き合えそうな気がする。
「これからどうするんだ?」
 広瀬君の問いに、私は「えっと……」と考え始める。
「まずは、沙弥の家に行ってみようかな。沙弥のお母さんとは何度か会ったことあるし、もし許可してくれたらだけど、事故の時の話が聞けたらいいなって」
「ああ、そうだな。もし迷惑じゃなかったら、俺も行っていいか?」
「えっ? いいけど……」
 どうして、広瀬君が沙弥の家に行きたがるのだろう。
 もしかして、広瀬君は沙弥のことを――。
 黙り込んでしまった私に、広瀬君は慌てたように言った。
「あ、いや、昨日、須藤のことで三崎につらい思いをさせたから、その責任を取ろうと思って。須藤の家に行って、もし三崎が上手く話せなかったり、悲しくなったりしたら、助けたいし……協力したいんだ。三崎の行動が、良い結果を生むように」
「広瀬君……」
 本当、お人好しは広瀬君の方だよ。
 この一年、ずっと彼を避けてきたのに、今でもこんなに優しくしてくれるなんて。
「ありがとう。じゃあ、沙弥の家に行く日が決まったら、連絡するよ」
 久しぶりに素直に笑えた私に、広瀬君も照れたような笑みを返す。
「分かった。そういや、三崎の連絡先、知らなかったな。交換しておこうか」
「あ、うん」
 制服のポケットからスマホを取り出しながら、私は胸が高鳴るのを感じていた。
 この一年、自分の気持ちに蓋をしてきたけれど……私はまだ、広瀬君のことが好きだった。
 だから、戸惑いもある。だって、私と沙弥のケンカの原因は、二人で同じ人――広瀬君を好きになったことなんだもの。
 だけど、親身になってくれる彼を拒絶するなんて出来なかった。
 複雑な気持ちを抱えながら、私はスマホの画面に表示された広瀬君の連絡先を見つめた。


5
 週末、私と広瀬君は沙弥の家へと向かった。会うのはもう一年ぶりだったけれど、沙弥のお母さんは私たちの訪問を快く受け入れてくれた。
 広瀬君とは午後二時に、沙弥の家の最寄り駅で待ち合わせしている。
「三崎」
 改札を出ると、すでに待っていた広瀬君が片手を上げた。
「あ、ごめん。お待たせ」
「遅刻してねぇから、気にするなよ。俺が早く着き過ぎただけだし」
 初めて見る広瀬君の私服姿が、何だか新鮮でカッコいい。胸がときめきそうになって、不謹慎だと思い直す。今日は沙弥の事故の話を聞きに行くのに。
 沙弥の家までは、駅から歩いて十分ほどだ。去年は何度も通った住宅街に懐かしさを覚える。しかし、沙弥の家が見えてくると、私の心にサッと緊張が走った。
「大丈夫か?」
 私の表情が強張っていたのだろう、広瀬君が気遣わしげな視線を送る。
「うん、大丈夫。ここで引き返したら、きっと後悔する」
 私は早足で歩くと、沙弥の家の門前に立った。ゆっくりと深呼吸してから、チャイムを鳴らす。
「はい」
 インターホンからおばさんの声がした。
「こんにちは。約束していた、三崎と広瀬です」
「いらっしゃい。今開けるわね」
 程なくして、家のドアが開く音がした。門から出てきたおばさんの姿を見て、私は息を呑んだ。
 電話やインターホン越しの声は明るかったのに、おばさんの見た目は酷くやつれていた。頬がこけ、顔色も悪い。それに、かなり痩せたみたいだ。ふっくらとした体型だったのが、今は見る影もない。
――おばさん、沙弥が死んで、相当ショックだったんだな……。
「萌花ちゃん、久しぶり」
 だけど、私に向けられたおばさんの表情は、今まで通りの優しげなものだった。
「広瀬君は、沙弥のお葬式に来てくれたわよね。ありがとうね」
「いえ。今日は俺までついてきて、すみません」
「あら。いいのよ」
 二人のやり取りにハッとした私は、思わず頭を下げていた。
「ごめんなさい。沙弥のお葬式にも、お線香をあげにも来れなくて」
 申し訳なさでいっぱいになりながら、頭をより深く下げる。
「気にしないで。萌花ちゃんのお母さんから、萌花ちゃんがすごく落ち込んでいるって聞いて、ずっと心配していたのよ」
 おばさんは私たちを家へ招き入れると、仏間へと案内した。和室に足を踏み入れる。仏壇の傍に並ぶ遺影の中に、ひときわ若い沙弥の写真を見つけた。
「……」
 ゴクリと唾を飲み込む。私は沙弥の死を決定付けるものから、ずっと目を背けていた。沙弥がこの世界にいないのは、理解しているはずなのに、私は今この瞬間、ようやく彼女の死を実感した。
「須藤、お線香あげられそうか?」
 広瀬君の声にハッとする。少しの間、沙弥の遺影をぼんやりと見つめていたようだ。
「ごめん、大丈夫」
 私は仏壇の前の座布団に座ると、昨日母に教わった通りにお線香をあげた。隣では、広瀬君が真面目な顔で正座している。
 おりんを鳴らして手を合わせ、目を閉じた。心の中で沙弥に何を言えば良いのか、全然分からない。結局、何も考えずに、閉じた瞼にぎゅっと力を入れた。
「良かったね、沙弥。萌花ちゃんが来てくれて」
 沙弥の遺影に掛けられたおばさんの言葉に、胸がズキンと痛む。沙弥は私の来訪を歓迎しているのだろうか。
『本音で話せないなんて、そんなの友達じゃないよ!』
 最後に聞いた沙弥の叫びが心に蘇る。沙弥は私になんて、会いたくなかったよね……。

 リビングに通された私たちは、そこでおばさんから沙弥の事故の話を聞くことになった。
「道幅の割に車通りの多い交差点だったのよ。沙弥が横断歩道を渡ろうとして、無理に曲がってきた車と接触したそうなの」
「そうだったんですか……」
 沙弥が事故に遭ったのは夕方の五時頃だった。冬場なので薄暗く、街灯も少ない通りで、完全に運転側の不注意だったらしい。
 そして、おばさんの口ぶりから、事故当時は沙弥ひとりだったことが分かった。
「ねぇ、萌花ちゃん。知っていたら教えてほしいんだけど」
「えっ、何ですか?」
 突然の問い掛けに、私は思わず姿勢を正した。もしかして、私と沙弥のケンカに関わる話だろうか?
 しかし、おばさんが聞いてきたのは、意外なことだった。
「沙弥って、◯◯県にお友達がいるのかしら?」
「え……?」
 きょとんとする私に、おばさんは続けて説明する。
「事故の日、沙弥はお昼を食べてすぐにひとりで出掛けたんだけど、家を出る時にこう言ったのよ。『友達と会ってくる』って。私てっきり、萌花ちゃんに会いに行ったんだと思っていたの。そうしたら、夕方、警察から『◯◯県で娘さんが交通事故に遭った』って連絡が来て……。沙弥が◯◯県にお友達がいるって話は聞いたことがないし、お葬式にも、そのお友達らしき人は来なかったから、ずっと気になっているのよね」
 私は瞬きを繰り返した。
 それは私も気になっていた。どうして沙弥は、電車で二時間も掛かるような場所に行ったんだろうって。
 でも、沙弥が◯◯県に友達がいるなんて、聞いたことがない。それどころか、◯◯県に関する話題が出たこともなかった。
「ごめんなさい。そんな話は、今まで聞いたことがないです」
 申し訳なく思いながら言うと、おばさんは笑って片手を振った。
「いいのよ。どうしても知りたいってわけじゃないから。どのみち、沙弥はもう帰ってこないんだもの」
 おばさんの最後の言葉が、私の心を深く抉る。その痛みに気付かないふりをして、私はバッグから封筒を取り出した。
「あの、これ、私のスマホに入っている沙弥の写真です」
 おばさんは微笑んで封筒を受け取る。
「あらまあ、ありがとう。わざわざプリントしてくれたのね」
 この前、クラスメイトの美奈ちゃんに、沙弥のアルバムを作りたいから写真のデータが欲しいと言われた。その時は、咄嗟に断ってしまったけれど……確かに、沙弥の写真を渡せば、沙弥のご両親は喜んでくれるかもしれない。そう思って、私はスマホに入っていた沙弥の写真を、全てプリントした。アルバムを作る時間はなかったから、ただ写真を封筒に入れてきただけだけど。
 おばさんは目を細めて写真を一枚ずつ眺めると、静かに涙を流した。
「どの写真の沙弥もニコニコしているわ。沙弥が楽しい高校生活を送れたのは、萌花ちゃんのおかげね」
「そんな……」
――おばさん、そんなことないんです。
――私は沙弥を傷付けたんです。
――沙弥が事故に遭ったのも、もしかしたら私のせいかもしれないんです。
 否定の台詞が、次から次へと頭に浮かぶ。
 でも、その言葉を泣いているおばさんに投げつけるわけにはいかなくて、私は唇を強く噛み締めた。

 門の外まで見送ってくれたおばさんに頭を下げて、沙弥の家を後にした。
 沙弥の死から逃げずに向き合うことで、何か変化があれば――。そう思って、おばさんから事故の話を聞いたけれど、正直、私の重い心は晴れないままだ。
 焦ってもどうにもならないのは分かっている。でも、分からないことが多くて、すごくもどかしい。沙弥が遠出した目的とか。沙弥が会いに行った友達は誰か、とか。
 ケンカする日まで、私と沙弥は一番の親友同士だと思っていた。だけど、何でも話し合っているようで、お互い知らないこともあるのだ。沙弥が私の秘めた恋心に気付かなかったように。
「三崎」
 隣を歩いていた広瀬君が、おもむろに口を開いた。
「次はどうするんだ?」
 その質問に、私は首を傾げる。
「どうって……どうもしないよ?」
 沙弥の家への訪問は終わった。おばさんから話も聞けたし、もう他にやることはないんじゃない?
 なのに広瀬君は、納得出来ないような顔をしている。
「本当かよ。俺には、三崎はまだやり切っていないように見えるけどな」
「え、何を?」
「須藤がどうやって死んだのかを知ること」
 私は言葉を失った。
――何でそんなこと言うの?
――私、精一杯、沙弥の事故について知ろうとしたよ?
 つい、苛立った口調になった。
「そりゃ、知りたいよ。沙弥が何で遠くに行ったのか、誰に会いに行ったのか。でも、知る術がないじゃない。沙弥のスマホでも見たら、もしかしたら分かるのかもしれないけど、私にそんな権利ないし」
「それなら、三崎はどうしたい? どうしたら気が済む?」
 落ち着いた声で、ゆっくりと広瀬君が聞いた。
「……」
――私は、どうしたい?
 以前も教室で、広瀬君に掛けられた質問。
 私は俯いた。足元に視線を遣って、その問いの答えを探す。
「……私、沙弥の事故現場に行ってみたいな」
 目線を下に向けたままで、私はぽつりと言った。
「行って何が分かるわけでもないけど、でも、見てみたい。沙弥がどんな場所で命を落としたのか」
 不謹慎な答えかもしれなかった。だけど、今の私は少しでも知りたかった。あの日の沙弥のことを。
「じゃあ、今から行くか」
「えっ」
 思いがけない言葉に、私はパッと顔を上げた。
「あ、この後予定あったか?」
「ううん、ないけど。急だね」
「決めたらすぐ行動した方がいいだろ。今の気持ち引きずったまま家に帰るの、つらいだろうし」
 広瀬君の言う通りかもしれない。このまま帰宅したら、また一人でぐちゃぐちゃと考え込んでしまう。
「そうだね。行こう」
「おう。遠いけど、乗り換え一回でいけたよな、確か。じゃ、須藤の母さんに、事故の詳しい場所教えてもらおうぜ」
 道を引き返す広瀬君は、当然のように一緒について行くつもりのようで。
「ねえ、広瀬君」
 私は思わず、そんな彼を引き止めていた。
「ん?」
「あの、どうしてここまでしてくれるの?」
 広瀬君がこんなに協力的なのが不思議だった。私たちはただのクラスメイトで、特に親しいわけじゃないのに。
 彼は逡巡するように視線を泳がせたが、やがて、私の目をしっかりと見て言った。
「実は、俺も去年、友達を亡くしたんだ。病気で」
「えっ……」
 思ってもみない言葉に、私は目を見開いた。
「友達っていうか、幼なじみだな。近所に住んでて、幼稚園の頃から仲が良かった。高校は別々になったけど、しょっちゅうお互いの家に行ってたよ。そいつも部活でサッカーやっててさ。上手くなってレギュラー入りして、一緒に大会で戦えたらって、俺もあいつも頑張ってたんだ」
 広瀬君の瞳は優しくて、でもどこか寂しそうだった。儚げな微笑み。
 私は不意に、去年の九月の出来事を思い出した。校舎脇の人けのない空き地でうずくまっていた広瀬君。確か、家の用事で数日学校を休んでいたっけ。
 あの日。今みたいに弱々しく微笑んだ広瀬君は、いつもと様子が違っていた。もしかして、幼なじみを亡くした直後だったんじゃ……。
「ごめんね。そんなつらいことがあっただなんて、知らなくて」
 申し訳ない気持ちでいっぱいの私に、広瀬君は苦笑して片手を振った。
「謝らなくていいって。俺、学校の奴らには誰にも言ってねぇし。友達にも、先生にも」
「あ、そうだったんだ」
 男友達の多い広瀬君のことだから、てっきり仲の良い人は知っていると思ってたのに。でも、もし話していたら、私の耳にも入っていたかな。
 広瀬君は私からフッと目を逸らすと、悔しそうに呟いた。
「俺、すっげー後悔しててさ」
「えっ?」
「そいつ、昔から健康だったし、病気が見つかって入院した時も、すぐに回復するんだとばかり思ってた。一度見舞いに行った時も、元気そうだったしさ。だから、あまり気にしてなかった……まさか、突然病状が悪化して、あっさり亡くなるなんてな……」
「そんな……」
 またすぐに会えると思っていた友達が、いきなりこの世界から消えてしまう。その戸惑いと空虚感は、私もよく知っていた。
 死の衝撃は、残された者の心に大きな穴を開ける。穴は底が見えない程に深くて、一生を掛けても埋められない気がする。
 数日前、広瀬君が私に言ったことを思い出す。
「仕方ないだろ。突然、親友を亡くしたんだから。無気力になったり、周りに優しくする余裕がなくなったり、そんなの当たり前だよな」
「そうやって少しずつ、須藤のことを受け入れていけばいいさ。無理して明るく振る舞っても、嘘の自分みたいだしな」
 あの言葉は、広瀬君自身の経験からくるものだったのだ。きっと彼も、幼なじみを亡くして無気力になったり、それを隠そうとして、嘘の自分を演じたりしたのだろう。
 広瀬君が視線を私に戻す。優しい眼差し。
「だから、三崎のことを放っておけないんだよ。気持ちが分かる……なんて言ったら傲慢かもしれないけど、友達が死んだら、落ち込み続けるのは普通だと思うから」
「広瀬君……」
「でも、須藤の死から逃げたままなのは良くないよ。俺もつらかったけど、あいつの親御さんが落ち着いた頃に会いに行った。それで、あいつが病院で書いてた日記とか見せてもらって、当時の気持ちを知って……何とか、あいつの死を受け止められたんだ」
 温かく微笑む広瀬君から、死んだ友達を大切に想う気持ちが伝わる。
「そっか、それは良かった……って言い方は、不謹慎かな」
「いや、俺も良かったと思う。だから、三崎もとことん須藤に向き合えよ」
「うん」
 私はしっかりと頷くと、広瀬君と共に沙弥の家へと引き返した。


6
 沙弥のお母さんから事故現場を教えてもらった私たちは、電車に乗って遠くの県を目指した。
 車窓を流れる景色が、段々と見慣れない街並みに変わっていく。
「広瀬君は、◯◯県に行ったことある?」
 隣に座る広瀬君に尋ねる。
「部活の試合で、何度か」
「そうなんだ。私は家族との旅行で通り過ぎたことがあるくらいかな」
「わざわざ行かねぇよな。ってことは、須藤は本当に友達に会いに行ったっぽいよな」
「うん。気になるよ。もしかしたら、そのお友達は、事故のことを知らないかもしれないよね。その人にも会えたらいいんだけど……」
「そうだな」
 でも、沙弥の友達が誰なのかを知る手立てはない。
 それきり、私たちは黙り込んだ。
 車窓越しに見える空は、濃いグレーのどんよりとした雲で覆われている。そういえば、今日は夕方から雨だっけ。折り畳み傘、忘れてきちゃったな。
 広瀬君は、私が沙弥を亡くした気持ちが分かると言った。だけど実際、私と広瀬君では親友に対する想いが違う。
 病気の幼なじみを気に掛けなかったのを悔やむ広瀬君。
 沙弥を裏切ってケンカ別れしてしまった私。
 お互いに後悔の念を持ってはいるけれど、客観的に見て、広瀬君を責める人はいないと思う。一方の私は、非難されても仕方がないことをしている。
 もし私が、沙弥とのケンカの理由を広瀬君に告げたとしたら、彼は私を嫌いになるだろうか。
 肝心なことを何も言わずに、今もこうして広瀬君に味方になってもらっている卑怯な自分のことが、私は心底嫌いだ。
――事故に遭って、命を落とすべきだったのは、沙弥じゃなくて私なんじゃない?
――今、広瀬君の隣にいるべきなのは、私じゃなくて沙弥なんじゃない?
――ねえ、沙弥。そうだよね?


 電車で二時間掛けて、私たちは沙弥の死んだ街へと降り立った。郊外の駅で、駅前にスーパーといくつかの飲食店がある他は、畑と住宅地が広がっているだけの寂しい場所だ。
 駅前のスーパーで、事故現場に供えるお花を買った。仏花ではなく、沙弥のイメージで選んだ白のミニブーケにした。
 私がお花を選んでいる間に、広瀬君がスマホのマップアプリで場所を調べてくれていた。
「事故があった交差点までは、ここから歩いて五分くらいだな」
「近いんだね。夕方だから、帰るところだったのかな」
 広瀬君がいてくれて良かったと思う。彼がいなければ、私はもっと感情的になっていたかもしれない。広瀬君の目があったから、私は沙弥のお母さんと冷静に話せたし、何より、彼の提案がなかったら、こうして事故現場に来ることはなかっただろう。
「広瀬君」
「どうした?」
「ありがとう」
 素直にお礼を言うと、広瀬君は目を丸くした。
「何だよ、急に」
「お礼を言いたくなったの」
「あー……」
 自分で言っておいてアレだけど、ちょっと照れくさいな。広瀬君も、何だか恥ずかしそうにしているし。
「やっぱ、三崎はバカ正直な方がいいな」
 私の肩を軽く何度か叩くと、広瀬君は唐突に歩き出した。慌ててついていきながら、嬉しさが胸いっぱいに広がるのを感じる。
 もし、沙弥の死を受け入れられたら……その時は彼に話したい。
 私と沙弥は、困っている人を放っておけない、優しいあなたを好きになったんだよって。


 沙弥のお母さんが言っていた通り、事故現場は車の多い交差点だった。トラックなどの大型車が次々と道路を走る様は、迫力があって結構怖い。一方で人通りは全然なくて、街灯もまばらだ。確かに、夕方の暗い時間なら事故が起きやすいだろう。
 とはいえ、事故から一年近く経っているので、この場所から沙弥の死を感じ取るのは難しい。
 でも、事故現場がどこかは分かりやすかった。沙弥に対する物だろう、交差点脇の歩道にお花が供えられていたからだ。近付いてみると、最近供えられた物のように見えた。近隣の人が供えたのだろうか。
「沙弥」
 お供え物の隅に、買ってきたばかりの花をそっと置いた。
「沙弥、来たよ」
 沙弥の家で遺影に話し掛けることは出来なかったのに、何故だかここでは言葉が口をついて出た。
「私なんかとは、会いたくないかもしれないけど、」
――でも、沙弥の好きな広瀬君を連れてきたから、それで許してね。
 後半の言葉は、心の中で呟いた。
「三崎、須藤は三崎に会いたくないなんて、思ってないだろ」
 何も知らない広瀬君に微笑んでみせてから、私はしゃがみ込んで手を合わせた。
 沙弥の家にも、事故現場にも沙弥はもういないのに、私は一体、何に向かって手を合わせているんだろう。
 そう思いながら目を開けて、立ち上がった時だった。
「あの……」
 背後から遠慮がちな声が聞こえた。振り返ると、そこには二十歳くらいの見知らぬ女性が立っていた。手には仏花のアレンジメントを持っている。
 私と広瀬君を交互に見てから、その女性は続けた。
「あなたたち、沙弥ちゃんのお友達ですか?」
 この人、沙弥を知っている? 戸惑っていると、広瀬君が一歩前に進み出た。
「俺は須藤のクラスメイトの広瀬です」
 私も慌てて名乗る。
「沙弥の友達の三崎です」
「もしかして、萌花ちゃん?」
 女性の言葉にハッとする。この人は、沙弥だけでなく私の名前も知っているようだ。じゃあ、この人は……。
「ごめんなさい、私は怪しい者じゃないんです」
 驚きのあまり返事が出来ない私を見て、女性がバッグからスマホを取り出した。操作してから見せられた画面には、SNSのアカウントが表示されている。
「私、沙弥ちゃんのSNS友達で、本田絵美里っていいます」
 そう言って、目の前の女性――絵美里さんが頭を下げた。
「SNS?」
「ほら、沙弥ちゃん、お菓子作りが得意でしょう? SNSに作ったお菓子の写真を投稿していて、私がフォローした縁で仲良くなったの。私もお菓子作りが趣味だから」
 絵美里さんのスマホを見ると、確かに沙弥のアカウントと相互フォローしている。
「じゃあ……事故の日に沙弥が会いに行ったのは、絵美里さんなんですか?」
「ええ。沙弥ちゃんは、悩みを相談しに私に会いに来たのよ」
 そうだったんだ。じゃあ、その悩みって……。
「それって、私とケンカしたことですか?」
 震える声で聞くと、絵美里さんは広瀬君に視線を遣った。
「ごめんね、萌花ちゃんと二人で話してもいいかな?」
「分かりました。三崎、俺、駅前のファミレスにいるから、話が終わったら連絡して」
「うん、ありがとう……」
 広瀬君には悪いけど、確かに沙弥とのことは彼の前では話しづらい。
「じゃあ、近くの喫茶店で話しましょう。あまりお客さんが来ない店だから、話をするには丁度いいわ」
 絵美里さんに連れられて、私は喫茶店へと向かった。


 絵美里さんは大学生で、二十一歳とのことだった。
 沙弥とは何度かメッセージを送り合ったことはあるけれど、直接会ったのは事故の日が初めてだったらしい。
 人けのない喫茶店で、事故当日の沙弥の行動を聞いた。
「事故の前日から、沙弥ちゃんと、萌花ちゃんのことで相談のメッセージをやり取りしていたのよ。身近な人には相談出来ないって。でも、自分の気持ちを文字で表すのが難しかったみたいで……。だったら、直接会って話をしようってことになったの。私が夜からバイトだったから、悪いけど遠くまで来てもらったのよね」
「そうだったんですか。だから、沙弥はここに来たんですね」
「急だったけど、沙弥ちゃんがあまりにもつらそうなのが伝わってきたから」
 沙弥はそこまで追い詰められていたのか。胸にズキッと痛みが走った。
「ごめんなさい。私に会いに来なければ、沙弥ちゃんは事故に遭わなかったのに」
 絵美里さんが突然頭を深く下げたので、私は面食らった。
「沙弥ちゃんと別れた後、私はすぐにバイトに向かったから、彼女を一人にしてしまったの。その帰り道で、沙弥ちゃんは事故に遭ったのよ……。駅まで送っていればって、すごく後悔してる」
「絵美里さん……」
「私もずっと、自分を責めているの。本当なら、沙弥ちゃんのご家族や萌花ちゃんに、きちんと説明しなければならないのに。私のせいなんですって」
 苦しそうに顔を歪める絵美里さんに、私は慌てて首を振った。
「絵美里さんのせいじゃないですよ! むしろ、相談出来る相手がいて、沙弥も救われたと思いますから」
 この人も苦しんでいたのか……。でも、自分を責めないでほしい。沙弥を助けようとしてくれたのだから。
 絵美里さんは小さな声で「ありがとう」と言うと、顔を上げて目尻の涙を拭った。
 少しの間を置いてから、私は話を進める。
「じゃあ、絵美里さんは、私と沙弥のケンカの原因も知っているんですね?」
「ええ。さっきの男の子――広瀬君とのことよね」
「はい……私は、沙弥を裏切ってしまったんです」
 初対面の人が自分のプライベートについて知っているという状況は、すごく気まずかった。
「あの、私は今日、広瀬君とここに来ましたけど、別に仲が良いわけじゃないんです。広瀬君も友達を亡くした経験があるから、クラスメイトとして心配してくれているだけで」
 取りあえず、それだけは言っておきたかった。さっきの状況では、私が広瀬君と付き合っていると勘違いされそうだったからだ。
「そうかしら」
 それなのに、絵美里さんは困ったように微笑む。
「あのね、萌花ちゃん。沙弥ちゃんは、こう言っていたのよ。『広瀬君が好きなのは、萌花だって分かってた。それなのに、認めることが出来なかった。萌花にも酷いことを言ってしまった。本当につらい』って」
「……え?」
 沙弥は何を言っているのだろう。広瀬君が私を好きだなんて。
 戸惑う私に構わず、絵美里さんは言葉を続ける。
「沙弥ちゃんは、こうも言っていたわ。『広瀬君が萌花に向ける視線は、他の人に対してよりも優しいの』、『彼はよく萌花に声を掛けているの。席替えで隣の席になった時も、すごく嬉しそうだった』って」
「そんな……きっと、沙弥の思い込みですよ」
「本当のことは私にも分からないわ。でも、さっきの広瀬君は、確かに萌花ちゃんを優しい目で見ていたわね」
 絵美里さんまで、そんなことを言わないでほしい。
 気持ちが揺れ動いてしまう。
 私は今でも、広瀬君が好きなのだから。
「萌花ちゃん」
 絵美里さんが微笑んで私の瞳を覗き込む。
「沙弥ちゃんは、萌花ちゃんの恋を応援するつもりだったのよ」
「え?」
「『次の日に学校に行ったら、真っ先に萌花に謝る! そして、萌花と広瀬君が仲良くなれるように協力する! 弱い自分からは、もう卒業!』って、力強く言ってたのよ」
「沙弥……」
「だから、萌花ちゃんも、自分を責めないで」
 沙弥と絵美里さんの言葉が、私を泣かせる。
――ああ、私、何で忘れていたんだろう。
――そうだよ。
――沙弥はそういう子だよ。
――優しくて、意外と行動力があって、すごく素敵な友達なんだよ。
――沙弥が私を恨むだなんて、そんなことあり得ないよ。
 目からポロポロと涙が零れて止まらない。
 沙弥の死からずっと、私の心は鉛のように重たかった。
 でも、沙弥の本心が知れた今、私の口から彼女への言葉が自然と漏れ出る。
「……私、沙弥のことが大好きでした」


 駅前のファミレスに入ると、窓際の席にいた広瀬君が片手を上げた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「それは全然いいけど……大丈夫か?」
「え?」
 広瀬君は私の顔を手で指し示す。きっと、泣き腫らして目が真っ赤になっているのだろう。
「休んでから帰るか?」
「ううん……でも、ちょっと歩きたいかな」
「分かった」
 店を出た私たちは、駅前通りを歩いた。小さな公園を見つけて、ベンチに並んで腰掛ける。
「須藤のこと、何か分かったか?」
「うん。沙弥ね、私のこと怒ってなかったって」
「当たり前だろ。友達なんだから」
 広瀬君の真っすぐな言葉が嬉しい。
「あのね、広瀬君」
「ん?」
「沙弥とのこと、聞いてもらってもいいかな?」
 だからだろうか、素直にお願いすることが出来た。
「ああ、勿論」
 穏やかに頷く広瀬君に、私は勇気を出して言った。
「私も沙弥も、優しい広瀬君のことが好きなの」
「……え?」
 ぽかんと口を開ける彼に、私はゆっくりと話し出した。
 広瀬君を巡って、沙弥とケンカになったこと。
 沙弥が死んだのは、自分のせいだと思っていたこと。
 だから、広瀬君を殊更避けていたこと。
 だけど、私だけでなく沙弥も、お互い仲直りするつもりだったと知ったこと。
「そうだったのか……」
 真面目な顔をする広瀬君を見て、急に不安になる。私、彼を嫌な気持ちにさせちゃったかな?
「俺さ」
 不意に、広瀬君が話し出した。
「三崎の気持ちにも、須藤の気持ちにも、全然気付けてなかった。ごめんな」
「あ、別に広瀬君が謝ることじゃないよ!」
「いや、だって、それなら俺が今日、三崎と一緒にいたの、まずかったんじゃないか? 却ってつらい思いさせただろ」
「それは……私が決めたことだから」
 広瀬君は何も悪くない。
「いや、まずいよ。俺、ずっと三崎のこと見てたのに、三崎の気持ちに気付けなかったなんてさ」
「え……」
 それって、どういう意味?
 固まってしまった私を見て、広瀬君は目元を仄かに赤く染めた。
「お人好しで頑張り屋な三崎のこと、俺、一年の時からずっと見てた。あいつを亡くして投げやりになってた時も、三崎が変わらず親切にしてくれたから、このまま腐ってちゃダメだって思えたんだ」
 そう言って、広瀬君は俯いた。
「だから、須藤が死んで、三崎が人が変わったようになって、俺、すげぇ心配だった。避けられているのも気になってたし。だから、こうして近付いた。三崎にまた笑ってほしかったから」
「広瀬君……」
 私の方こそ、広瀬君の好意に気付けなかった。沙弥だけが彼の気持ちを知っていたのか、すごいな。
「なあ、三崎。須藤のことで区切りを付けるのは、まだ難しいかもしれないけど」
 広瀬君がふわりと優しく微笑む。
「これからは、未来の自分を考えて生きてほしい」
「……うん」
 気付けば、チラチラと細かい雪が降っていた。絶望を呼び起こす白い雪。今は私の心の傷を優しく癒すように見える。これからは、雪を好きになれそうだ。
 今日、この瞬間、私は弱い自分から――過去に縛られる自分から卒業する。