「みなさん、ご卒業、おめでとうございます」
体育館の四隅に大きなストーブが焚かれている。卒業生と一部の在校生、そして保護者が集っても、温かいとは言えない日。
高校三年生は卒業式を迎えた。
あの後、義母から聞いたのか義兄が「詩乃ごめん」と謝ってきた。
「知らなかったんだ。詩乃の卒業式と日にちがかぶってるなんて……」
「いいよ。朋美さんの誕生日でもあるんでしょ? 大安みたいだし、私のことは気にしないで。結婚式に出席できないのは残念だけど、祝う気持ちは変わらないから」
「詩乃……ありがとう」
私は最後までいい義妹を演じると決めた。家も決まったらしい。一緒に住むことがなくなれば、この気持ちも収まっていくだろう。
校長先生が壇上に立って話をしている。その後ろには『第57回卒業証書授与式』の幕が下がっている。
ステージから右側に目線を外せば、アナログの時計が止まることなく時を刻んでいる。
朝の十時。チャペルの鐘が鳴り響く頃だろうか。
「寒い……校長、話長い……」
隣に座るクラスメイトが歯を上下にカチカチ鳴らしながらブツブツなにかを言っている。誰かが咳をする音、身じろぎする音、時々ハウリングするマイクの音。
私は今日、この高校を卒業する。
感慨深くはなかった。入学してしまえば、毎日通ってときどきあるテストを受けるだけで、あとは友だちと適当に遊んだりしながら過ごしてきた。長いと思っていた三年間も、いざ卒業式を迎えてみれば案外あっけなかったなぁと思う。
卒業式は滞りなく終わった。泣く人もいれば笑う人もいて、私は特になにも思わなかった。
教室に戻ったら記念撮影会が行われ、みんな名残惜しそうに教室にとどまっていた。私もその中のひとりだった。
結婚式はもう終わっている。私は義兄から卒業し損ねた。
私と義兄はきっとそういう運命だったんだ。結ばれないし、想い合えない。結局私は墓場までこの恋心を持っていって、生涯を終えるんだ。そういう、運命。
「山本さん、いる?」
聞き慣れた声が出入り口から聞こえた。そちらを向いて、目が合う。
「岩倉くん……」
彼はズカズカと教室に入ってきた。私はその場から動けない。
「なにしてんの。行くよ」
目の前に岩倉くんがやって来た。わかっているけど、時間稼ぎで訊いてみる。
「ど、どこに」
「卒業式に決まってんじゃん!」
岩倉くんは私の手首をつかんでグイ、と引っ張った。身体のどこにも力を入れていなかった私は、されるがままに歩き出す。
「結婚式じゃなくて?」
「それはもう終わってるから。俺たちが着く頃には、二次会が始まってる。そこを、山本さんの卒業式にしよう」
つかまれた手首は痛いのに、振り払うことができなかった。左胸には「卒業おめでとう」と書かれた赤いリボン記章が揺れている。男子に引っ張られる女子、ということですれ違う人たちから「ヒュー!」という冷やかしの声が聞こえた。
「大丈夫。俺が付いてるから! その背中、ちゃんと押すから!」
岩倉くんはこちらを振り返らず、大声でそう言った。過ぎていく校内の景色が、少しだけ眩しく感じる。
桜はまだ、咲いていない。それでも春の匂いがする。
私と岩倉くんはバスに乗って駅前まで出て、そこから歩いて二次会の会場まで歩いた。先導するのは岩倉くん。スマホを見ながら歩いているので、多分ルート案内を頼りにしているのだろう。
「…………」
その間、私たちに会話はなかった。いつの間にか手も離されていた。だからいつでも逃げられる。私は義兄を卒業しないと言って、逃げられる。
「ここだ」
岩倉くんはスマホから顔を上げた。そこはこじんまりとしたイタリアンレストランで、『本日貸切』と看板が立っていた。かすかに笑い声も聞こえる。
「開けるよ?」
岩倉くんはドアに手をかけて、私に聞いてきた。頷きかけて、自分の心拍数が上がっていることに気づく。
緊張のドキドキなのか、恐怖のドキドキなのか。私にも分からないけれど。
「うん。お願い」
キュッと唇を結んで、私は岩倉くんに頷いてみせた。彼もコックリと頷いて、ゆっくりとドアを開ける。
リンリーン、と来客を告げる鈴の音が響いた。
「すみませーん、本日は貸切となっておりまして……」
開けるや否や女性のスタッフさんがすっ飛んできた。岩倉くんが「関係者です」と胸を張る。
「新婦の弟と、新郎の妹です。招待状ももらってます。大丈夫ですよね?」
「あ、これは失礼しました。どうぞ、今ビンゴゲームの最中ですが……」
スッと横にずれてくれたスタッフさんの奥では、赤い蝶ネクタイをつけた男性がマイクを持って「6! 6でーす! ビンゴの人いますかー!?」と声を張り上げていた。その隣では髪の毛をガチガチに固めた義兄と、華やかな衣装に身を包んだ朋美さんが隣同士座って笑っている。
「…………」
身体が、固まってしまった。胸がキューッと締め付けられて、息ができない。外の冷たさとは打って変わって、この中は春の日差しのように暖かい。蛹が蝶に変わりそうなほどの陽気の中、氷漬けされた私は羽化できそうになかった。
どうしてここに来てしまったのだろう。じわじわと後悔が押し寄せる。来なければ見なくて済んだのに。逃げてれば、自分が傷つくこともなかったのに。現実を目の当たりにすることなんて、なかったのに。
「山本さん?」
「……り」
「え?」
「無理。『おめでとう』なんて言えない。卒業なんてできない。『バイバイ』なんて言えない!」
踵を返そうとしたら、また手首を掴まれた。痛いくらいに、しっかりと。
「『おめでとう』なんて言わなくていい。『バイバイ』だって『さよなら』だって、言わなくていい。でも、卒業はしなくちゃいけない。山本さんのためにも、お義兄さんのためにも、卒業はしなくちゃいけない」
ゆっくりと振り返ると、岩倉くんは鋭いまなざしで私を見ていた。今までとは違う瞳の色に、ドキリとする。
「ほら、行ってきなよ。山本さんの想いを、ぶつけられるのは、多分、今日しかないよ」
岩倉くんに腕を引かれ、彼の前に立たされた。和気あいあいとビンゴゲームに興じている人たちは、私と岩倉くんには気づいていないようだった。
「さぁ、行っておいで。背中は押すけど、手は貸さないよ。想いをぶつけたあとは、帰っておいで。待ってるから」
トン、と背中を押された。一歩踏み出して、義兄と目が合う。
「詩乃?」
ガタン、と義兄が立ち上がった。ざわめきが一瞬で消え、たくさんの目が私に降り注ぐ。
振り返りそうになって、我慢した。岩倉くんはちゃんと私を待っていてくれる。「ちゃんと背中を押すから」と言ってくれた通り、押してくれた。岩倉くんは私を裏切ったりなんかしない。
私は司会者の人のところまで、一直線に向かった。
体育館の四隅に大きなストーブが焚かれている。卒業生と一部の在校生、そして保護者が集っても、温かいとは言えない日。
高校三年生は卒業式を迎えた。
あの後、義母から聞いたのか義兄が「詩乃ごめん」と謝ってきた。
「知らなかったんだ。詩乃の卒業式と日にちがかぶってるなんて……」
「いいよ。朋美さんの誕生日でもあるんでしょ? 大安みたいだし、私のことは気にしないで。結婚式に出席できないのは残念だけど、祝う気持ちは変わらないから」
「詩乃……ありがとう」
私は最後までいい義妹を演じると決めた。家も決まったらしい。一緒に住むことがなくなれば、この気持ちも収まっていくだろう。
校長先生が壇上に立って話をしている。その後ろには『第57回卒業証書授与式』の幕が下がっている。
ステージから右側に目線を外せば、アナログの時計が止まることなく時を刻んでいる。
朝の十時。チャペルの鐘が鳴り響く頃だろうか。
「寒い……校長、話長い……」
隣に座るクラスメイトが歯を上下にカチカチ鳴らしながらブツブツなにかを言っている。誰かが咳をする音、身じろぎする音、時々ハウリングするマイクの音。
私は今日、この高校を卒業する。
感慨深くはなかった。入学してしまえば、毎日通ってときどきあるテストを受けるだけで、あとは友だちと適当に遊んだりしながら過ごしてきた。長いと思っていた三年間も、いざ卒業式を迎えてみれば案外あっけなかったなぁと思う。
卒業式は滞りなく終わった。泣く人もいれば笑う人もいて、私は特になにも思わなかった。
教室に戻ったら記念撮影会が行われ、みんな名残惜しそうに教室にとどまっていた。私もその中のひとりだった。
結婚式はもう終わっている。私は義兄から卒業し損ねた。
私と義兄はきっとそういう運命だったんだ。結ばれないし、想い合えない。結局私は墓場までこの恋心を持っていって、生涯を終えるんだ。そういう、運命。
「山本さん、いる?」
聞き慣れた声が出入り口から聞こえた。そちらを向いて、目が合う。
「岩倉くん……」
彼はズカズカと教室に入ってきた。私はその場から動けない。
「なにしてんの。行くよ」
目の前に岩倉くんがやって来た。わかっているけど、時間稼ぎで訊いてみる。
「ど、どこに」
「卒業式に決まってんじゃん!」
岩倉くんは私の手首をつかんでグイ、と引っ張った。身体のどこにも力を入れていなかった私は、されるがままに歩き出す。
「結婚式じゃなくて?」
「それはもう終わってるから。俺たちが着く頃には、二次会が始まってる。そこを、山本さんの卒業式にしよう」
つかまれた手首は痛いのに、振り払うことができなかった。左胸には「卒業おめでとう」と書かれた赤いリボン記章が揺れている。男子に引っ張られる女子、ということですれ違う人たちから「ヒュー!」という冷やかしの声が聞こえた。
「大丈夫。俺が付いてるから! その背中、ちゃんと押すから!」
岩倉くんはこちらを振り返らず、大声でそう言った。過ぎていく校内の景色が、少しだけ眩しく感じる。
桜はまだ、咲いていない。それでも春の匂いがする。
私と岩倉くんはバスに乗って駅前まで出て、そこから歩いて二次会の会場まで歩いた。先導するのは岩倉くん。スマホを見ながら歩いているので、多分ルート案内を頼りにしているのだろう。
「…………」
その間、私たちに会話はなかった。いつの間にか手も離されていた。だからいつでも逃げられる。私は義兄を卒業しないと言って、逃げられる。
「ここだ」
岩倉くんはスマホから顔を上げた。そこはこじんまりとしたイタリアンレストランで、『本日貸切』と看板が立っていた。かすかに笑い声も聞こえる。
「開けるよ?」
岩倉くんはドアに手をかけて、私に聞いてきた。頷きかけて、自分の心拍数が上がっていることに気づく。
緊張のドキドキなのか、恐怖のドキドキなのか。私にも分からないけれど。
「うん。お願い」
キュッと唇を結んで、私は岩倉くんに頷いてみせた。彼もコックリと頷いて、ゆっくりとドアを開ける。
リンリーン、と来客を告げる鈴の音が響いた。
「すみませーん、本日は貸切となっておりまして……」
開けるや否や女性のスタッフさんがすっ飛んできた。岩倉くんが「関係者です」と胸を張る。
「新婦の弟と、新郎の妹です。招待状ももらってます。大丈夫ですよね?」
「あ、これは失礼しました。どうぞ、今ビンゴゲームの最中ですが……」
スッと横にずれてくれたスタッフさんの奥では、赤い蝶ネクタイをつけた男性がマイクを持って「6! 6でーす! ビンゴの人いますかー!?」と声を張り上げていた。その隣では髪の毛をガチガチに固めた義兄と、華やかな衣装に身を包んだ朋美さんが隣同士座って笑っている。
「…………」
身体が、固まってしまった。胸がキューッと締め付けられて、息ができない。外の冷たさとは打って変わって、この中は春の日差しのように暖かい。蛹が蝶に変わりそうなほどの陽気の中、氷漬けされた私は羽化できそうになかった。
どうしてここに来てしまったのだろう。じわじわと後悔が押し寄せる。来なければ見なくて済んだのに。逃げてれば、自分が傷つくこともなかったのに。現実を目の当たりにすることなんて、なかったのに。
「山本さん?」
「……り」
「え?」
「無理。『おめでとう』なんて言えない。卒業なんてできない。『バイバイ』なんて言えない!」
踵を返そうとしたら、また手首を掴まれた。痛いくらいに、しっかりと。
「『おめでとう』なんて言わなくていい。『バイバイ』だって『さよなら』だって、言わなくていい。でも、卒業はしなくちゃいけない。山本さんのためにも、お義兄さんのためにも、卒業はしなくちゃいけない」
ゆっくりと振り返ると、岩倉くんは鋭いまなざしで私を見ていた。今までとは違う瞳の色に、ドキリとする。
「ほら、行ってきなよ。山本さんの想いを、ぶつけられるのは、多分、今日しかないよ」
岩倉くんに腕を引かれ、彼の前に立たされた。和気あいあいとビンゴゲームに興じている人たちは、私と岩倉くんには気づいていないようだった。
「さぁ、行っておいで。背中は押すけど、手は貸さないよ。想いをぶつけたあとは、帰っておいで。待ってるから」
トン、と背中を押された。一歩踏み出して、義兄と目が合う。
「詩乃?」
ガタン、と義兄が立ち上がった。ざわめきが一瞬で消え、たくさんの目が私に降り注ぐ。
振り返りそうになって、我慢した。岩倉くんはちゃんと私を待っていてくれる。「ちゃんと背中を押すから」と言ってくれた通り、押してくれた。岩倉くんは私を裏切ったりなんかしない。
私は司会者の人のところまで、一直線に向かった。