卒業式まであと一週間となった。今日は予行練習として、三年生は全員登校を強いられていた。
「詩乃~! 久しぶり~! 元気にしてた~?」
「うん、久しぶり。元気だよ」
久々に会う友だちとあいさつをしたりハグをしたり、珍しく少し心が踊る。同時にあぁ、もう卒業なんだと感傷に浸ったりして。
三月の体育館はスケート場並みにひんやりとしていた。床からの冷気で足先に感覚がなくなる。パイプ椅子も冷たくて、温かくなるまで時間を要した。
この高校へは、義兄が通っていたから進学しただけだった。好きな人と同じ景色が見たいがために選んだ高校。ここで授業を受けてたのかな、とか、このグラウンドで野球頑張ってたのかな、とか彼の面影を探して過ごした三年間だった。この体育館で同じように卒業式を迎えたんだろうな。そう思うと、ここに入学してよかったと思う。彼の軌跡を追えて、彼と同じ景色を見れて、幸せな三年間だった。
生徒代表が卒業証書を受け取る練習をしている。
昨日、夜に義兄が私の部屋を訪ねてきた。寝る格好をして完全無防備だった私は、慌てて身なりを整えて出迎えた。
「寝る前にごめんな」
「ううん。大丈夫。どうしたの?」
平然を装って対応したつもりだけど、もしかしたらキョドっていたかもしれない。心臓はバクバクと脈打ち、私と同じようにパジャマを着て無防備な義兄を直視できない。長年一緒に住んでいても、慣れないことはいくらでもある。きっとこれが恋というものなのだろう。
「ちょっと話があって」
部屋に入ってきた義兄は、敷いたラグの上に胡坐をかいた。小さな丸テーブルを挟んで向かい側に私も座る。
「話って?」
「あー、うん。あの、朋美のことなんだけど」
私の部屋に入ってきて話すのは婚約者のことか。私の高揚感は一気に冷めた。正座をした自分の太ももの上で、こぶしを握り締める。
「朋美さん? がどうしたの?」
「いや、あの……詩乃にはずっと紹介してなかったからさ。半年前、急に連れてきたじゃん? それで結婚するって言われるのって、妹的にはどんな気持ちなのかなって、思って」
一瞬なにを聞かれているのかわからなかった。一旦、義兄の言葉を頭の中で分解する。
確かに三年前から朋美さんと付き合ってるなんて事実、知らなかった。毎日見てれば気がつくはずなのに、変わらない義兄にすっかり安心しきっていた。それなのに突然「来年の春に結婚します」ってやってきて、今は一緒に住んでいる。
義理だけど、妹の私的には。
「……驚いたよ。なにも知らなかったから、どうして言ってくれなかったんだろうとか、あえて秘密にされてたのかなって勘ぐったりした。でも、うれしかったよ。朋美さん、すごくいい人だし、お似合いだと思う」
自分で言っていて吐きそうになった。思ってもないことを口に出すって、すごく気分が悪いことだったんだ。
義兄はそんな私の心の内を知る由もない。だから、心底ホッとしたように表情を崩した。
「よかったぁ……朋美がさ、心配してたんだよ。詩乃は俺のことが大好きみたいだから、私のこと嫌いなんじゃないかって。俺はそんなことないよって言ったんだけど、なんか自信なくしてたみたいで。ありがとな、そう言ってくれて。これからも朋美を慕ってやって」
本当は大嫌いだよって、あんな女のどこがいいのって詰め寄りたかった。どうして黙ってたのって、どうして結婚なんかするのって、聞きたい。
その衝動を全部こぶしに集めて、私は微笑んで見せた。
「うん」
それじゃ、と立ち去っていく義兄の背中に触れられたら、どれだけよかったか。行かないでって、私だけを見てって縋れたら、どれだけよかったか。
いつだって私は、義兄に対して本音で話せない。いい顔をしていい子ぶる。嫌われないために。好かれるために。
それなのに義兄は、私の知らないところで知らない人と愛を育んでいた。私の想いなど微塵も知らずに、別の人と結ばれる。
『好きな人には幸せになってもらいたいので、俺が山本さんを幸せにしたいと思います!』
岩倉くんの言葉が脳裏によみがえる。
好きな人には幸せになってもらいたい。その気持ちは私にもある。ただ彼と違ったのは、私が義兄を幸せにしたいという思いがあったかと聞かれると、頷けないことだ。好きは好きでも、岩倉くんとは違うベクトルの好き。
「……ここらが、潮時なのかも」
残り香さえも連れて出て行ったドアを、私はじっと眺めていた。
***
卒業式の予行練習が終わった放課後、私は岩倉くんを靴箱で待ち伏せした。彼は私を見るなり「山本さん!」と声を上げ、音を立てて近づいてきた。
「もしかして俺を待ってた?」
「まぁ……っていうか、岩倉くんって犬みたい。こっちに来るときしっぽが見えた」
「飼い主が山本さんなら、しっぽどころか全身振りながら近づくけどね」
「ヤダ。飼わない」
「ガーン!」
百面相の岩倉くんが少しだけ面白い。思わずクスッと笑うと、岩倉くんはニコニコして「どうしたの?」と首を傾げた。
「俺と付き合ってくれる気になった?」
「ううん。義兄を卒業する気になった」
靴箱から一歩外へ踏み出した。寒さは相変わらずだが、太陽は温かい。
「結婚式で、義兄を卒業する。二人の幸せそうな顔を目の当たりにして、それで終わりにする」
長かった片想いに終止符を打つのは、正直怖い。ずっと想い続けて、もはや生きる糧とまでなっていた存在を、自分から手放すのだ。もちろん葛藤はあった。この恋心は墓場まで持っていくんじゃなかったのか、と自分で自分に問うて前に行くか後ろに行くか右に行くか左に行くか散々迷った。散々迷って出した結論が、義兄からの卒業だった。
「……よく決断したね」
「うん。半分は岩倉くんのおかげ」
「え?」
「君が、私を好きになってくれたおかげ」
「……山本さん」
歩き出した私の後を、追いかける音がする。私は学校からも卒業して、好きな人からも卒業する。卒業シーズンにはうってつけの二大イベント。
「でもさ、山本さん」
「うん?」
「姉貴らの結婚式、俺らの卒業式とかぶってるよ」
「……は?」
足が止まった。同じように歩を進めていた生徒たちにどんどん追い越されていく。
「あれ? 聞いてない? 卒業式と結婚式、同じ三月十日にするんだよ」
「なんで」
「姉貴の誕生日が三月十日なんだよ。ちょうど大安だし、その日がいいってなったんじゃない?」
「え、じゃあ、私たち、結婚式に参列できないの? 晴れ姿、この目で見られないの?」
「まぁ、そういうことになるね。結婚式は午前中だし、卒業式も午前中だし、まぁ内々でやる結婚式だから披露宴はやらないみたいだけど、午後は友人らを招いて二次会はやるって言ってたから、それには出席できるんじゃないかな……って山本さん?」
「ごめん、走るわ。またね、岩倉くん」
私は彼の返事を待たずして駆け出した。
どうしてそんな大事なこと、私に言わないの? 確かに日にちを確認しなかった私にも非があるかもしれないけど、まさか卒業式とかぶってるなんて誰が思う? もしかして私の卒業式の日、知らない? 義兄はそんなに私のこと、興味ない?
「ただいま!」
玄関を開けてドタドタと廊下を歩いて、リビングダイニングのドアを開けた。
「あら、詩乃ちゃん。おかえり」
義母が柔和な笑みで私を出迎える。今日はみんな仕事で家にいないらしい。
私は乱れた息も整えず、義母に訊いた。
「お兄ちゃんたちの結婚式って、私の卒業式とかぶってるって、本当っ?」
義母は一瞬キョトンとしていたが、すぐ目尻にしわを作った。
「そうみたい。朋美さんの誕生日だし大安だからって、半年前から予約してたみたいよ? 詩乃ちゃんはずっと『卒業式には来なくていいよ』って言ってたから、私とお父さんは結婚式の方に行くけど……聞いてなかった?」
頭がガンガンした。上がった息と、悪気のない義母の言葉が私の身体に突き刺さる。
確かに以前、卒業式に来なくていいとは言った。もう高校生だし、卒業式の後は友だちと帰るから来てもつまんないと思う、と突き放したのは私だ。別に本当は来て欲しかったわけじゃない。そうじゃなくて、どうしてそんな大事なことを、私に隠してたのかということだ。義母も父も義兄も。
「これじゃ卒業できないじゃんっ」
「なに? 詩乃ちゃんどうしたの……」
「ううん。なんでもない。結婚式ってコース料理でしょ? いいなぁ、私も食べたかった」
引きつる笑顔を義母に向けて、私は二階の自室にこもった。
「詩乃~! 久しぶり~! 元気にしてた~?」
「うん、久しぶり。元気だよ」
久々に会う友だちとあいさつをしたりハグをしたり、珍しく少し心が踊る。同時にあぁ、もう卒業なんだと感傷に浸ったりして。
三月の体育館はスケート場並みにひんやりとしていた。床からの冷気で足先に感覚がなくなる。パイプ椅子も冷たくて、温かくなるまで時間を要した。
この高校へは、義兄が通っていたから進学しただけだった。好きな人と同じ景色が見たいがために選んだ高校。ここで授業を受けてたのかな、とか、このグラウンドで野球頑張ってたのかな、とか彼の面影を探して過ごした三年間だった。この体育館で同じように卒業式を迎えたんだろうな。そう思うと、ここに入学してよかったと思う。彼の軌跡を追えて、彼と同じ景色を見れて、幸せな三年間だった。
生徒代表が卒業証書を受け取る練習をしている。
昨日、夜に義兄が私の部屋を訪ねてきた。寝る格好をして完全無防備だった私は、慌てて身なりを整えて出迎えた。
「寝る前にごめんな」
「ううん。大丈夫。どうしたの?」
平然を装って対応したつもりだけど、もしかしたらキョドっていたかもしれない。心臓はバクバクと脈打ち、私と同じようにパジャマを着て無防備な義兄を直視できない。長年一緒に住んでいても、慣れないことはいくらでもある。きっとこれが恋というものなのだろう。
「ちょっと話があって」
部屋に入ってきた義兄は、敷いたラグの上に胡坐をかいた。小さな丸テーブルを挟んで向かい側に私も座る。
「話って?」
「あー、うん。あの、朋美のことなんだけど」
私の部屋に入ってきて話すのは婚約者のことか。私の高揚感は一気に冷めた。正座をした自分の太ももの上で、こぶしを握り締める。
「朋美さん? がどうしたの?」
「いや、あの……詩乃にはずっと紹介してなかったからさ。半年前、急に連れてきたじゃん? それで結婚するって言われるのって、妹的にはどんな気持ちなのかなって、思って」
一瞬なにを聞かれているのかわからなかった。一旦、義兄の言葉を頭の中で分解する。
確かに三年前から朋美さんと付き合ってるなんて事実、知らなかった。毎日見てれば気がつくはずなのに、変わらない義兄にすっかり安心しきっていた。それなのに突然「来年の春に結婚します」ってやってきて、今は一緒に住んでいる。
義理だけど、妹の私的には。
「……驚いたよ。なにも知らなかったから、どうして言ってくれなかったんだろうとか、あえて秘密にされてたのかなって勘ぐったりした。でも、うれしかったよ。朋美さん、すごくいい人だし、お似合いだと思う」
自分で言っていて吐きそうになった。思ってもないことを口に出すって、すごく気分が悪いことだったんだ。
義兄はそんな私の心の内を知る由もない。だから、心底ホッとしたように表情を崩した。
「よかったぁ……朋美がさ、心配してたんだよ。詩乃は俺のことが大好きみたいだから、私のこと嫌いなんじゃないかって。俺はそんなことないよって言ったんだけど、なんか自信なくしてたみたいで。ありがとな、そう言ってくれて。これからも朋美を慕ってやって」
本当は大嫌いだよって、あんな女のどこがいいのって詰め寄りたかった。どうして黙ってたのって、どうして結婚なんかするのって、聞きたい。
その衝動を全部こぶしに集めて、私は微笑んで見せた。
「うん」
それじゃ、と立ち去っていく義兄の背中に触れられたら、どれだけよかったか。行かないでって、私だけを見てって縋れたら、どれだけよかったか。
いつだって私は、義兄に対して本音で話せない。いい顔をしていい子ぶる。嫌われないために。好かれるために。
それなのに義兄は、私の知らないところで知らない人と愛を育んでいた。私の想いなど微塵も知らずに、別の人と結ばれる。
『好きな人には幸せになってもらいたいので、俺が山本さんを幸せにしたいと思います!』
岩倉くんの言葉が脳裏によみがえる。
好きな人には幸せになってもらいたい。その気持ちは私にもある。ただ彼と違ったのは、私が義兄を幸せにしたいという思いがあったかと聞かれると、頷けないことだ。好きは好きでも、岩倉くんとは違うベクトルの好き。
「……ここらが、潮時なのかも」
残り香さえも連れて出て行ったドアを、私はじっと眺めていた。
***
卒業式の予行練習が終わった放課後、私は岩倉くんを靴箱で待ち伏せした。彼は私を見るなり「山本さん!」と声を上げ、音を立てて近づいてきた。
「もしかして俺を待ってた?」
「まぁ……っていうか、岩倉くんって犬みたい。こっちに来るときしっぽが見えた」
「飼い主が山本さんなら、しっぽどころか全身振りながら近づくけどね」
「ヤダ。飼わない」
「ガーン!」
百面相の岩倉くんが少しだけ面白い。思わずクスッと笑うと、岩倉くんはニコニコして「どうしたの?」と首を傾げた。
「俺と付き合ってくれる気になった?」
「ううん。義兄を卒業する気になった」
靴箱から一歩外へ踏み出した。寒さは相変わらずだが、太陽は温かい。
「結婚式で、義兄を卒業する。二人の幸せそうな顔を目の当たりにして、それで終わりにする」
長かった片想いに終止符を打つのは、正直怖い。ずっと想い続けて、もはや生きる糧とまでなっていた存在を、自分から手放すのだ。もちろん葛藤はあった。この恋心は墓場まで持っていくんじゃなかったのか、と自分で自分に問うて前に行くか後ろに行くか右に行くか左に行くか散々迷った。散々迷って出した結論が、義兄からの卒業だった。
「……よく決断したね」
「うん。半分は岩倉くんのおかげ」
「え?」
「君が、私を好きになってくれたおかげ」
「……山本さん」
歩き出した私の後を、追いかける音がする。私は学校からも卒業して、好きな人からも卒業する。卒業シーズンにはうってつけの二大イベント。
「でもさ、山本さん」
「うん?」
「姉貴らの結婚式、俺らの卒業式とかぶってるよ」
「……は?」
足が止まった。同じように歩を進めていた生徒たちにどんどん追い越されていく。
「あれ? 聞いてない? 卒業式と結婚式、同じ三月十日にするんだよ」
「なんで」
「姉貴の誕生日が三月十日なんだよ。ちょうど大安だし、その日がいいってなったんじゃない?」
「え、じゃあ、私たち、結婚式に参列できないの? 晴れ姿、この目で見られないの?」
「まぁ、そういうことになるね。結婚式は午前中だし、卒業式も午前中だし、まぁ内々でやる結婚式だから披露宴はやらないみたいだけど、午後は友人らを招いて二次会はやるって言ってたから、それには出席できるんじゃないかな……って山本さん?」
「ごめん、走るわ。またね、岩倉くん」
私は彼の返事を待たずして駆け出した。
どうしてそんな大事なこと、私に言わないの? 確かに日にちを確認しなかった私にも非があるかもしれないけど、まさか卒業式とかぶってるなんて誰が思う? もしかして私の卒業式の日、知らない? 義兄はそんなに私のこと、興味ない?
「ただいま!」
玄関を開けてドタドタと廊下を歩いて、リビングダイニングのドアを開けた。
「あら、詩乃ちゃん。おかえり」
義母が柔和な笑みで私を出迎える。今日はみんな仕事で家にいないらしい。
私は乱れた息も整えず、義母に訊いた。
「お兄ちゃんたちの結婚式って、私の卒業式とかぶってるって、本当っ?」
義母は一瞬キョトンとしていたが、すぐ目尻にしわを作った。
「そうみたい。朋美さんの誕生日だし大安だからって、半年前から予約してたみたいよ? 詩乃ちゃんはずっと『卒業式には来なくていいよ』って言ってたから、私とお父さんは結婚式の方に行くけど……聞いてなかった?」
頭がガンガンした。上がった息と、悪気のない義母の言葉が私の身体に突き刺さる。
確かに以前、卒業式に来なくていいとは言った。もう高校生だし、卒業式の後は友だちと帰るから来てもつまんないと思う、と突き放したのは私だ。別に本当は来て欲しかったわけじゃない。そうじゃなくて、どうしてそんな大事なことを、私に隠してたのかということだ。義母も父も義兄も。
「これじゃ卒業できないじゃんっ」
「なに? 詩乃ちゃんどうしたの……」
「ううん。なんでもない。結婚式ってコース料理でしょ? いいなぁ、私も食べたかった」
引きつる笑顔を義母に向けて、私は二階の自室にこもった。