突然の結婚宣言から半年。高校を卒業するまであと一ヶ月となった。三年生の二月は基本的に自由登校であるので来る人は少ない。来ても授業はなく、自習となるため卒業してないけれど教室はすでに寂しかった。
 私はといえば地元にある美容の専門学校への入学が決まっていたので、学校に来る必要など微塵もなかったのだが、家にいるのが嫌になったので校門をくぐった。

 一、二年生は授業を受けているのか校庭には誰もいない。冷たい風が頬を刺し、巻いたマフラーを口元まで上げた。
 ……とても静かだ。寒いからどの教室も窓は開いていない。大声を出す生徒もいなければ外で鳴く鳥もいない。空は薄く、空気は冷たい。

「……君たちは寒くないの?」

 花壇に咲いた名も知らぬ花に話しかけてみる。もちろん返事など返ってくるわけもなく、彼女たちはただそこに凛と咲いているだけだ。
 その強さが誰かの強さのようで、自分の眉根が中央に寄った。

「山本さん?」

 不意に後ろから呼ばれて、慌てて振り返った。そこに立っていたのは、クラスが違う同級生の男子生徒だった。

「えっと……誰だっけ?」
「うわ。一年のとき同じクラスだったのに忘れちゃったか」
「あんまりっていうか、全然話したことなかったよね?」
「うん、まぁ」
「で、誰だっけ?」
「あー……岩倉春樹(はるき)、です。以後お見知りおきを」
「岩倉くんね。ん、覚えた。もう卒業するけど」

 そういえばそんな名前だったなぁ、とぼんやり思い出す。なんとなく小骨がのどに刺さったような引っかかりを覚えたが、すぐ消えたので気のせいだろう。

「山本さんは花なんか見て、どうしたの?」
「ん? あぁ、なんとなく寂しいなぁって思って見てただけ。とくに意味なんてないけど」

 そっちこそどうしたの? と問うと、岩倉くんは小首を傾げた。

「山本さんの背中が寂しそうで、山本さんを見てた」
「……は」

 冷ややかな風が私と彼の間を通り抜けた。岩倉くんは学校指定の紺色のピーコートを着ているが、マフラーはしていない。その長い首がキュッと縮こまる。

「卒業までにさ、山本さんに伝えたいことがあって」
「…………」

 寒さのせいか、トナカイみたいに鼻を真っ赤に染め上げた岩倉くんは、色素の薄い瞳で私の目を覗き込むように真っすぐ見てきた。
 逸らしたら負けだ。瞬時にそう思った。

「なに?」
「好きです」
「なにが?」
「え……いや、君のことが」
「……誰が?」
「俺が」

 足元で枯れ葉がカサカサと舞い踊った。

「…………」

 目が乾いて瞬きの回数が多くなり、岩倉くんの動きがスローモーションに見える。
 彼はゆっくりと口を開いた。

「岩倉春樹は、山本詩乃さんのことが、一年のときから好きです。付き合ってください」

 逸らしたら負けだ。そんなことはわかっている。わかっているけど。

「~~~~っ!」
「あ、ちょ、山本さん!」

 気づけば私は、全力で岩倉くんから逃げていた。
 校門を出て、ひたすらに走る。

 なになになになに! なにが起きたのっ!? こ、こここ告白!? なんだその青春の一ページ! いらないいらない必要ない! 私には義兄がいれば他にはなにもいらないのに! どこで間違えた? 気に入られるようなことを、気づかないうちにしてしまってたってこと? マジかぁ! あー、やらかした! っていうか本当に岩倉くんと会話した覚えがない!

 駅の改札にICカードをかざしてゲートをくぐってから、立ち止まって振り返った。

「……さすがに追ってこないか」

 はぁ、と息を整えてマフラーをずらし、火照った顔に手うちわで風を送る。
 ドクンドクンと心臓の鼓動がやけにうるさい。きっと運動不足が祟っているのだろう。

『岩倉春樹は、山本詩乃さんのことが、一年のときから好きです。付き合ってください』

 ただ、驚いて逃げてしまった。きっと彼は傷ついたろう。卒業間近でこんな振られ方をするなんて……振ったのは私なんだけど。
 真っすぐと迷いなく見つめられた瞳を思い出す。小刻みに揺れた岩倉くんの瞳には、私が映っていた。誰にも言わず、内緒の恋をしている私が。

 真っすぐ伝えてくれたことはうれしいけれど、私はそんなに真っすぐ想われるような人じゃない。私にはもったいない感情だ。

 追っ手が来ないことを確認して、私はくるりと踵を返した。


***


「ただいまー」

 玄関を開けて一歩家の中に入ったところで、私は猛烈な後悔に襲われた。明らかに母や私のではない、黒のブーツが行儀よく並べられている。

「あ、おかえり詩乃ちゃん。早かったね」

 奥からひとりの女性が現れた。「げ」という声が出かかって慌てて飲み込む。

「あー、うん。忘れ物を、取りに行っただけだから」
「そっか」

 寒いでしょ、早く入りなね、と言われて私は頷いた。

 引っ込んでいく彼女を目で追って、見えなくなったところで盛大なため息が漏れる。

 義兄の婚約者が山本家に居候するようになって二週間が経過した。結婚したらうちで一緒に住むわけではなく、家が決まるまでとりあえず居候するという形をとるらしい。だから彼女は我が家に居座っている。甚だ迷惑な話だ。
 今日は平日。母は専業主婦なので毎日家にいるのが常だが、朋美さんとやらは雑貨屋さんで働いていて、基本休みは平日らしい。義兄は土日休みのサラリーマンだが、休みが合わない二人がどうやって愛を育んだのか、興味はないけれど気にはなる。
 マフラーを外しながらリビングダイニングのドアを開けると、だしのいい匂いが鼻をついた。

「お義母さん、この味噌汁、ちょっと味見していただけますか?」
「うん、いいわよ。どれどれ~……」

 義母がスキップ気味の足取りで朋美さんの横に並ぶ。
 なんでそんなに楽しそうなんだ。義母はチラリと私を見て「あらおかえり」とだけ言って、すぐ朋美さんと笑顔を交わす。
 私も朋美さんも義母とは血が繋がっていない。でも、長く一緒に住んでいたのは私の方だ。それなのに義兄の未来のお嫁さんの方がかわいがられるなんて。

 モヤモヤとしたなにかが胸の奥から湧いてきそうになって、私は二人から目を逸らした。