「――起きろって。 おーい?」

 懐かしい声が聞こえる。一気に低くなった声色は優しくて、心地よい音だと思った。
 でもごめん、もう少し寝かせて。新幹線の中で週末に提出しないといけないレポートを、乗り物酔いを起こしながら完成させたんだから。
 肩を揺する手を払うと、上から溜息が聞こえてきた。
「ったく美織、問題一つも解いてねぇじゃん。数学が得意だからって、さすがに舐めすぎじゃね? 先生に当てられても知らないからな」
「……んぇ?」
 先生? 問題? 数学?
 すごく懐かしい単語が聞こえてきた。顔を上げると目を疑った。
 高校の教室、見知った顔ばかりのクラスメイト。懐かしいブレザーの制服。担任の先生。
 そして隣には、裕の姿が。
「裕……!?」
「うるっさ……お前、授業中だぞ。静かに……って何すんだよ!?」
 黒髪に血色の良い肌、大きく開いた茶色の瞳は両親譲りだと聞いている。バスケ部で培った腕の筋肉は制服の上からでも見てわかるほど。思わず顔や耳を触ったり引っ張ったりしてみるが、確かに触覚がある。温かい体温さえも伝わってくる。
 間違いない。私の知っている安斎裕だった。
「なんで? 本物?」
「本物って……寝ぼけてんの?」
 寝ぼけていたかった。これが夢だと思いたかった。
 本当の裕は今、病院で静かに眠っているのだ。でも実際に触れて感じる体温は、夢にしてはできすぎている。記憶力が乏しい私が、想像だけでここまで再現できるとは思えない。
 夢じゃないならこれは一体……?
「どうして……ふぐっ!?」
「さっきからなんなんだよ……ったく」
 私が考え込んでいると、突然裕が鼻をつまんできた。
「ちょ、はふぁしふぇ(離して)!」
「うっせ! お返しだっての」
「ほらそこぉ! 受験が終わったからって、気ぃ抜いてんじゃねぇぞ!」
 裕といがみ合っていると、教卓から呆れた様子で先生が言う。そのついでに黒板の問題を解くように指名されてしまった。裕にはお咎めがないのは許せないけど。
 これ以上もめたところで意味はないと、諦めて立ち上がり、黒板に書かれた問題を解いていく。高校三年生レベルの数学の応用問題だ。チョークを持つ感覚にも懐かしさを感じながら書き込んでいく。
 ふと、黒板の端に書かれた今日の日付に目が留まった。
「……先生、今日は何年の何月ですか?」
(しい)()、どうした? なんかおかしいぞ? 今日は――」
 首を傾げながらも教えてくれた先生の言葉に、思わず持っていたチョークを落とす。床に白い粉が散らばって、上履きに積もっても気にする余裕なんてない。
 どうやら私は五年前――高校三年生の冬に戻ってきたらしい。