裕を見送ってから学校に行くと、なぜか川瀬さんが私のクラスの教室に入ってきた。
別のクラスなんだからそっちに行けばいいのにと思いつつ視線を逸らそうとすると、川瀬さんはいつかのようにまっすぐ私のほうへやってくる。
「おはよう、椎野さん。私のクラスの教室、二年生が使っているからこっちきたんだけどいいよね?」
「ど、どうぞ……」
決定権、私にないのでお構いなく……と喉まで出かかったところで、川瀬さんが問答無用で私の隣の席に座った。
私以外誰もいないのだから、もっと広々と使ってくれていいんだよ?
「ねぇ、真面目に勉強するのもいいんだけどさ、ちょっと話そうよ」
「話すって……川瀬さん、受験は終わったの?」
「ああ、私は就職組だから。とっくに内定もらっていて、卒業した後に本格的に始まるの」
そう言ってにっこりと笑みを浮かべる。以前は本当に接点がなくて会釈すらした覚えがないのに、どうしてここまでまとわりつかれるのか、不思議で仕方がない。
「そんなことより、裕のことなんだけど」
ああ、またこの話か。思わず顔を背けると、川瀬さんが正面に回り込んできた。
「私、裕に振られたの」
「……え?」
思わずバッと顔を上げると、川瀬さんと目があった。心なしか、目元が赤い。
「振られたって、いつ……?」
「アンタに裕の物忘れが激しくなっていることを伝えた翌日。ここで話したら、なんて言われたと思う?」
わからない、と首を横に振れば、川瀬さんは大きな溜息をついた。
「『ごめん、誰だっけ?』だって。わかってはいたんだけどさ、その後に『大切な人がいる』って怒涛の追い込み。本当、裕って女心がわかってないよねぇー」
「…………」
川瀬さんが受けた仕打ちに言葉を失う。記憶の一部が無くなって、川瀬さんのことを覚えていないことは一度置いておくにしても、初対面の相手と認知して真っ向からフラグをへし折るなんて加減を知らなすぎる。
そういえば、昔から女の子に告白されても興味ないっていう理由で片っ端から振っていたっけ。そう考えたら、記憶うんぬんの話ではなく、裕ならやりかねないと納得してしまった。
「その大切な人って誰って聞いたら、やっぱり椎野さんのことだった。でもね、告白はしないって言うのよ」
「え?」
「これでもめちゃくちゃ薦めたのよ? でもしないの一点張り。せっかく私がお膳立てしてあげているのにさぁ」
「…………」
「それで? ここまで聞いておいて、椎野さんもしないって言わないよね?」
「……しないよ」
五年後に裕がいなくなることを知っている私に、告白なんてできるわけがない。
病気であることを打ち明けてくれたことで、少しだけ未来が変わった今があるが、裕の病気は着々と進行している。
これは同伴した晶子おばさんが担当医師から聞いた診察結果だ。
だからどれだけ私が裕に関わったところで、できることは限られている。
一日でも、一秒でも長く生きてくれるだけでいい。それだけでいいから。
「私は、自分の好きな生き方をする裕が好きだから。だから言わない」
最期の日を迎えたあとも、この想いは蓋をすると決めた。その決意は変わらない。
川瀬さんはむっとした顔で睨んだ。
「アンタたち、本当にむかつくくらいお似合いね」
「でしょう? 嘘をつくのはお互い得意なの」
嘘をつくのも、現実から目を逸らすのも、今の私ができる精一杯。
皮肉にそう言うと、川瀬さんは呆れたように溜息をついたあと、どこかすっきりした顔で笑った。