フレンドシップ・コントラクト

 僕は学校の部活に入る代わりに、週に三回、地元のソフトテニスクラブに通っている。放課後、学校から直接バスに乗って運動施設まで向かう。緩い活動だが小学生の頃から通っているおかげで知り合いも多く、中学入学時もここを辞めて部活に移るという気にならなかった。
 クラブでは練習熱心で地味な学生として通っていた。
「なーくん、どした。楽しいことでもあったか?」
 そんな僕がクラブのおじさんにそんな声を掛けられるようになったのも、椎名と友だちになってからだ。慌ててラケットを握る手に力をこめる僕を、おじさんは微笑ましそうに見守っている。なんてこった。
 クラブが終わり帰りのバスで座席についた僕は、手のひらサイズのMP3プレイヤーから伸びるイヤホンを耳に突っ込んだ。二週間後には、ピリオドの新しいシングルが発売される。疲れた身体を揺さぶられながら、今日の休み時間にも椎名とその話をしたことを思い出した。
 頬が緩みかけ、慌てて両手で抑え込んだ。これはあれだ。好きなバンドの曲が心に染みた笑顔なんだ。僕は頭の中でそう言い訳しつつ、降車ボタンを押した。

 そんなテニスクラブも、六月いっぱいで一度辞めることとなった。流石に受験勉強に身を入れないとまずい。進学後に再開するか否かはその時決めることとして、七月からは一気に自由時間が増えた。まあ、その時間を勉強に宛てる必要があるんだけど。
「そういえば、津守、真っ直ぐ帰るの」
 七月一日の放課後の教室で、肩に鞄を掛けた椎名が僕に話しかけた。
「まあね」
「なら、一緒に帰ろう」
 僕はぽかんとして、椎名を見返す。確かに彼女の家と僕の家は、方角は同じだ。
「いや、流石に……」
「どうして?」
 中三にもなって女子と二人きりで下校するなんて。恋人同士なら当然だけど、友人同士でだなんて、僕は想像していなかった。
 しかし、どうしてと尋ねられた僕は言い澱む。「そりゃ、まあ」煮え切らない僕の顔を覗き込み、椎名は不思議そうな表情を見せる。
「噂とか立てられるかもしれないし……」
「うわさ?」訝しそうに眉を寄せた彼女は、声をあげて笑った。「そんなの気にしてんの」
「そんなのってなんだよ」
「そしたら、違うって言えばいいじゃん。だって、ただの友だちでしょ。契約のこと忘れた?」
「忘れてなんかないけど」
 彼女の呆れた声音に、自分が硬派過ぎるのかと不安になる。一方で、契約書を思い出して少し安心する気持ちもある。僕らはどう転んでも、ただの友だちだ。そしてどこかに転がるつもりは、僕らのどちらにもない。俊輔みたいな奴は、背中をどついてやればいい。
 そして僕らは並んで通学路を歩いた。
 いや、やっぱり恥ずかしい。同級生の脇を通り抜ける時、僕は咄嗟に俯いてしまう。こりゃ、絶対誰かに何か言われるぞ。そんな僕の心配などどこ吹く風で、椎名は別れ道までずっと平気な顔をしていた。
 家に帰ってから、僕は明日クラスメイトに茶化される想像をして、憂鬱な気分だった。別に椎名のことは嫌いじゃないし、話していると楽しい。ピリオドについて語れる貴重な友だちだ。
 悶々と考え、僕は一つの答えに辿り着いた。そうだ、もやもやするのは、彼女に振り回されているからだ。契約書の段階から椎名のペースに巻き込まれ、なんだかんだでそれを良しとしてしまっている。もっと自分を主張しなければいけない。そして、友だちだといっても、もう少し距離を置くべきかもしれない。ちょっと寂しい気もするけれど。
 宿題に全く手をつけず、机の前で意思を固めていると、横のベッドに放っていたスマホが鳴った。メールの通知音だ。伸ばした手にスマホを取り、メールの送信元を見て心臓が跳ねる。五月の末に抽選を申し込んだチケットの販売会社からだった。
 突っ立ったまま、目当てのメールをそっとタップする。時間を置けば、不安に潰れて結果が見られない気がした。
 ――厳正なる抽選を行いました結果、チケットが「当選」いたしました。
 一斉送信の味気ない文面には、そんな文言がぶら下がっていた。
 一分前の葛藤を忘れた僕がまずしたことは、椎名に連絡を入れることだった。

「いやー、マジで感謝!」
 チケットの抽選に落選した椎名は、もう何度目になるかわからない台詞を放課後にも口にした。校門を出て歩きながら、「よくやった!」などと言って僕の背中をぽんぽんと叩く。やめろよなんて言いながら、僕もまんざらでもない気分になる。
 僕らは各々二枚ずつチケットを申し込んでいた。これは五月の申し込みの時点で、椎名と話し合って決めたことだった。当選する時は二枚同時に当選する。二人で各々二枚ずつ申し込んで、片方が外れても片方が当たれば、余りを譲ってもらえばいい。その戦略が功を奏した。勿論、僕は余った一枚を椎名に譲る。
 初夏の空気はカラッと乾いて、雲一つない青空が眩しい。
「椎名は、夏休みどっか行くの」
 もうすぐ夏休みだ。少々浮つく僕の質問に、彼女は答えた。
「別に、何も考えてないよ。今年ぐらい勉強しなきゃ」
 思わず「うっ」と僕は呻く。苦い表情を見て、椎名がけらけらと笑った。
「勉強しないと、高校行けないよ?」
 彼女が目標にしている高校は、県下で一、二を争う進学校だった。今の成績を維持できれば、十分に射程圏内らしい。それを聞いたとき、僕は素直に感心した。僕もそれなりに頑張ってはいるが、目指すのはそれよりワンランク下の高校だったからだ。現状ならば狙えるが、これから周りも部活を引退し成績を上げにかかる。油断して怠けるなよと、先日の面談で担任からは釘をさされたばかりだった。危機感の薄さを見抜かれていて、僕は素直にはいと言うしかなかった。
「なら、私がコーチングしてあげよう」
「コーチング?」
 胸を張って両腕を組み、椎名はうんうんと頷く。
「津守はきっとサボるから、私が管理してあげる」
 うへえと僕は口をへの字に曲げた。
「やだよ、監視されるなんて」
「監視じゃない、管理。コーチング」
 その場で早速、今日の夜八時にオンラインで勉強をすることが決定した。強く出られたら嫌と言えない僕に、椎名はスマホでも使える便利な通話アプリを教える。ついでに、彼女のアカウントも。
「じゃ、帰ったらよろしく」
 別れ道でひらひら手を振って、彼女は颯爽と去っていった。椎名と距離を置くどころか、むしろ日毎に縮まっている。「全く……」なんて言いつつも、僕は少しわくわくしながら帰路を急ぐのだった。
「春だなあ、七季」
 何言ってんだよ夏だぞ。僕はそう返すが、前の席の俊輔は「またまたあ」などと言う。梅雨時の席替えで椎名とは離れていたが、僕は大して気にしなかった。朝からバンドの話が出来ないのは惜しかったけど、僕らは既に隣の席というきっかけがなくても、気軽に話せる間柄になっていた。
 俊輔の言う春とは、廊下側の席にいる椎名のことだ。僕は窓際の真ん中。今度は前の席に俊輔がいる。奴は勝手に僕のシャーペンを使って、勝手に僕の机に落書きをしている。
「おい、やめろよバカ!」
 それを覗き込んだ僕は、慌てて消しゴムを取り出して落書きを消した。「そういうことじゃないの~?」へらへらするバカが書いていたのは、相合傘のイラストだった。津守と椎名の名前に、傘の天辺にはハートマークまで入れやがった。
 近くのクラスメイトに見られていなかったのを確認し、僕は奴からペンを取り上げる。
「ほんとにこういう話が好きだな」
「だってどう見てもそうじゃん」
「違うっつの」
 ざわつく昼休みの教室で、僕と俊輔はちらりと椎名の方角に目線をやる。彼女は僕らのやり取りなんか知る由もなく、自分の席でノートを広げていた。休み時間ぐらい騒ぎたい周囲と比べれば、彼女は一見して真面目な学生だ。友だち契約なんて突飛なことを言い出す女子にはこれっぽちも見えない。
「でもさ、七季。もしその気があるなら、さっさとした方がいいぜ」
 内緒話をするように、俊輔が声量を落とした。僕も思わず、「何が」と返す声を絞る。
「椎名さん狙ってるやつ、何人かいるみたい」
「……椎名を?」
 俊輔の言葉に僕の頭にははてなマークが浮かんだが、奴はうんうんと大きく頷いてみせた。
「二組の新谷(しんたに)とか、結構気にしてるってよ、椎名さんのこと」
 僕は新谷の顔と名前ぐらいしか知らないが、同じ陸上部に所属する俊輔が言うなら間違いないだろう。
 しかし、よりによって椎名を。理解に苦しむが、再び彼女の方をチラ見して納得する。転校生である彼女の変人ぶりを知らなければ、成績優秀で真面目な女子だと思い込むのかもしれない。
「へえ」
 僕はただ変な声を漏らした。
「だから、その気があるなら早くした方がいいと思うけどなあ」
 俊輔の言葉が、妙に不快だった。

 自宅の勉強机で居眠りする僕を、椎名の声が叱咤する。はっと頭を上げて、机上のスタンドに立てかけてあるスマホに返事をした。僕の返事がないから、寝落ちしているのに気付いたらしい。
「どしたの、まだ八時だよ。小学生でも起きてる時間」
 夏休みの課題に目を落とし、僕は大あくびをする。その気配に気付いた椎名の、呆れたため息が聞こえた。
「ちょっと走り過ぎて」
「走り過ぎって? テニスしてたの?」
「いや、ランニング」
 テニスクラブがない代わりに、僕は夕方に近所を走るようにしていた。何年もテニスをしていた僕の身体は、夏休みに何日も運動をしないことに慣れていなかった。家にこもっていると、むしょうにうずうずしてしまう。それが運動不足のストレスだと気付き、涼しくなる夕方に外を走ることにしたのだ。走っていると嘘のように苛々が去り、その開放感を求めて、僕はランニングを日課にするようになっていた。
 そんな事情を聞くと、相槌を打つ椎名は声を弾ませた。
「私もやる!」
 見なくてもわかる。彼女の目がきらきら輝いているのが。
「明日、私も誘ってよ」
「それ、本気?」
「うん」少し間が空いて、椎名は珍しく自信なさげな声を出す。「もしかして、一人の方がいい?」
「いや、たまには、話しながらとかも……いいけど」
 やった、とはしゃいだ声がする。それが妙に嬉しかった。

 午後五時前、僕らは近所の公園で待ち合わせ、周囲を軽く走ることにした。白が眩しいTシャツに、水色のハーフパンツ。頭に青いキャップを被る椎名は、如何にもこれからランニングに出ますという格好をしていた。
 水筒とタオルを公園のベンチに置いて、いざ走り出す。夕方になっても日差しは強く照り付け、僕らの肌をじりじりと焼いた。腕や首筋に日光が形になって突き刺さるような感触だ。あっという間に背や額には汗が滲む。散々汗をかいてから、家に帰って浴びるシャワーは最高なんだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
 僕は椎名の声に振り向いた。彼女は足こそ止めていなかったが、既に息を切らしていた。
「速いよ、津守!」
 顔を赤くする彼女は、亀のようなペースで走りながら僕を睨みつける。そうは言われましても、僕だって普段よりぐっと速度を落としていたつもりだ。テニスクラブの女の子も、悠々ついてこられるペースだ。
「もしかして、もう疲れた?」
 僕がにやりとすると、椎名は「むむ」とわかりやすい唸り声を漏らす。
「ちょっと、速いって思っただけ」
「まだ一キロも走ってないけど」
「別に平気だし!」
 珍しく優位に立つ僕の腕を叩こうと、椎名は手を上げる。僕はなんなくその手を避け、早歩きのようなペースの椎名に合わせた。今日は妙に静かだと思っていたけど、喋る余裕がなかっただけのようだ。持久走という、彼女の知られざる弱点を見つけてしまった。
 再び公園の入口が見え、僕は中に戻ろうと提案した。普段ならまだ半分も走っていない距離だったけど、僕らは車止めのポールの脇を抜け、公園に入った。ゆっくり歩いてクールダウンをする。椎名は両手を大きく動かして、真っ赤な顔を扇いでいた。
 大きな公園の隅のベンチに腰掛け、手にした水筒で水分補給をする。椎名は隣でごくごくと勢いよく水を飲み、ぷはーと息を吐いた。
「生き返ったー」
「椎名って、マラソン苦手なんだ」
「そんなんじゃない。津守のペースが速いだけ」
 憎まれ口を叩いて、彼女はむすっとした表情を作る。
「走ってきなよ。まだ足りないでしょ」
 悔しいながらも彼女なりに気を遣っているらしい。僕は「いいって」と笑う。
「マジでやってるわけじゃないし。汗かければ充分」
 タオルで汗を拭いながら、「ほんと?」と椎名は僕を横目で見た。
「ま、気が向いたらまた来なよ。ていうか、椎名は毎日走った方がいいかも」
「うるさいなー」
 僕らの影が、夕陽に照らされて長く長く前に伸びている。その先では、小学生たちが歓声を上げて走り回っている。鬼ごっこをしているらしい。向こうにはシーソーにブランコにすべり台。お椀を伏せた形の大きな遊具にはぽっかり口が空いていて、小さい頃よく遊んでいた僕は、その中がひんやりして涼しいことを知っている。けれど小学生たちを押しのける勇気も図々しさも持ち合わせていないから、今は汗を拭いて我慢をする。
 しばらく話をして、公園が少し静かになって、そろそろ街灯に明かりが点く頃、僕らは立ち上がった。
「あー、汗かいた、きもちわる!」
 自分のシャツの首元を掴んで鼻を近づけ、顔をしかめていた椎名は、「でも」と続けた。
「津守の言う通り、シャワー浴びたらすっごくすっきりしそう。勉強する前に寝落ちしちゃうかも」
「その寝落ちがいいんだよ」
 いつもみたいに馬鹿にされるな。そう思いながら言ったのに、椎名は馬鹿にしなかった。
「また来てもいい?」
 代わりにそんなことを言って、当然僕は頷く。ピースサインを見せる笑顔が眩しいのは、夏のせいだけではないだろう。
 僕らは三日に一回は顔を合わせ、一緒に公園の周りを走った。椎名はランニングのタイムを上げる前に、何故か公園の子どもたちと仲良くなった。僕もついでにせがまれて、一緒に鬼ごっこをする羽目になった。本当に変な女子だ。
 夏休みが終わっても、僕は週に二、三度はランニングを続けていた。
 その日、椎名は図書委員会の召集があったから、珍しく僕は先に帰宅した。少し時間を潰してからいそいそと運動靴を履き、走りに出た。
 同じ学区で同じ方角に家がある僕らの生活圏は近いから、途中で椎名を見かけるのに何の不思議もない。
 けれど、僕は気付いてもらおうと上げかけた右手を引っ込めた。慌てて道を戻り、近くの自販機の影にまで隠れる。
 二車線の道路を隔てた向こうの歩道を歩くのは、充分に見慣れた椎名の後ろ姿だ。さっき横顔が見えたから、間違いない。
 そして彼女の隣を歩いている男子が一人。ちらりと見えた顔は、俊輔と同じ陸上部で二組の新谷のものだ。何故、と考える必要はない。椎名に気のある彼は、僕という邪魔者がいないのに気付いて椎名に声を掛けたんだ。
 何を話しているかなんて、聞こえるはずがない。新谷は特にイケメンというわけではないけど、背が高くて堂々としている。今もしきりに話しかけ、会話をリードしている、ように見える。
 何だか胸の奥がもやもやして気分が悪い。自分が隠れているのも気に食わない。僕と椎名は間違いなく友だちで、それ以上でも以下でもない。だから新谷が椎名に接近するのを拒めるはずがないんだけど、嫌悪感と焦燥感が心の中に湧いていた。その感情に気が付いて、僕は自分に失望する。友だちである椎名を独り占めしたいと思う自分のわがままさから、自己嫌悪に陥る。
 何もできず、僕はその場を離れた。自分のストーカー行為には耐えられなかった。
 家まで走って帰ってみたけど、いくら汗をかいても、心に被さる灰色の雲は晴れてくれなかった。

 翌日からも、椎名の態度に変化はなかった。僕はそれとなく、「昨日の委員会、長引いた?」なんて聞いてみる。
「そうでもないよ。あ、帰り道、新谷くんて人に話しかけられた」
 どきりとしたが、椎名の話は他愛なく、どうやら昨日は世間話をして帰っただけらしい。ふーんと、僕は興味津々のまま、興味なさげな声を漏らした。
 二学期に入ると、僕らは放課後によく図書室で勉強をするようになった。やっぱり椎名は成績優秀なだけあって、僕が問題に悩むと的確に解説してくれる。
「津守、帰ってちゃんと復習しなよ。じゃないと頭に入らない」
「はいはい」
「十二月になったらライブ行くんでしょ。そのために頑張りなさい」
 まるで母親のようなことを言う。仕方なく、僕はシャーペンを握り直した。
 しかし、ライブという言葉を聞いて、僕の頭はそれらを連想してしまう。当日は、会場限定グッズが販売される。ホームページでチェックした限りどれも割高で、何を買うにしても財布に大打撃を被る。そもそものチケット代が、既に大きな痛手だ。けれどせっかくなら、悔いのないようにしたい。
「お金が欲しいなあ」
 唐突な僕の台詞に、椎名が吹き出した。
「なに、いきなり」
「いや、ライブでグッズ出るじゃん。いろいろ欲しいんだけど、絶対お金足りないからさ」
「そんなこと考えてたの?」
 真っ白な僕のノートを見て、椎名が呆れた顔をする。しかし、すぐに真顔になって彼女も考え始めた。僕と同じくグッズはチェックしていたらしい。そして彼女も金持ちのお嬢様ではなく、僕と同じ一般家庭の中学生で、同じぐらいのお小遣いでやりくりしていた。
「……確かに、痛いね」
 シャーペンの頭を頬につけながら、椎名はやがてため息交じりに言った。
「まあ、高校入ってバイトしたら、遠征とかできるかもだし」
「でも、初参戦は今回だけなのになあ」
 図書室にチャイムが鳴り響く。僕らは口々にないものねだりをしながら、帰り支度を始めた。
 夏休み前と比べて随分薄暗くなった帰り道、椎名が突然僕の肩をばしばしと強く叩いた。
「痛いって!」
「これ、これ見て!」
 僕の訴えになんて聞く耳持たず、彼女は興奮しながら左手側の塀を指さした。肩をさすりながら、なんだよと愚痴りつつ、僕も目を向ける。コンクリート塀には、破れかけた一枚の紙が貼り付いていた。
 可愛い猫の写真の上に、「探しています」の文字。いなくなったペットを探しているようだ。猫の特徴や飼い主の電話番号が細かく記載されている。
「なに、この猫見たってこと?」
「違うって、ほら、こういうのって見つけたら謝礼貰えるじゃん」
「らしいね」
「あーもう! だから、ペットを探してお金もらえば、グッズ買えるよね?」
 なるほど、そういうことか。思わず目を丸くした僕を見て、椎名は不敵に笑う。
「私って賢いなあ」
「動機、不純すぎない?」
「じゃあいいや。二人で見つけたら山分けしようと思ってたのに」
 わざとそっぽを向く彼女に、僕は慌てて「わかったってば」と返した。もう完全に振り回されている。だけど当初より嫌な気がしないのは確実で、僕らはペット探しに乗り出すことになったのだった。
 椎名は早速、翌日には一つのホームページを調べてきた。学校で堂々とスマホを使うと没収されるから、放課後の公園のベンチで相談をする。椎名のスマホの画面には、迷子のペットの写真が上から下へずらりと並んでいた。目撃情報を求める飼い主や、ペットを保護した人たちが情報を交換するページだ。こんなにも誰かのペットが行方不明になっているとは想像したこともなかった。
「全国にこんなにいるんだ」
「驚きだよね」
 僕らの住む県で彼女が検索をかけると、百三十件もヒットした。更に市内、町内へと範囲を狭めていく。僕らは一件の捜索願に目星をつけた。
「へえ、フェレット飼ってる人がいるんだ」
 椎名は実物を見たことがないと言い、それは僕も同じだった。五日前に、この公園を含む町内の家から、白いフェレットがいなくなったらしい。写真には、ペット用のハンモックから興味津々の顔でカメラを見つめる可愛らしいフェレットが写っている。さぞ飼い主は心配していることだろう。
「よし、この子を探そう」
 椎名が器用にパチンと指を鳴らした。あまりに不純な動機により、僕らはフェレットを探すことにした。
「でも、どうやって」
「うーん。飼い主に聞きに行くわけにはいかないかな」
「それは、ちょっと難しいんじゃない」
 思案したけど、目撃したわけでもないのに、悲しんでいる飼い主にペットについて突然尋ねるのは良心がとがめる。捜索に至る全うな理由があればいいのだが、謝礼目当てだなんて口が裂けても言えない。あそこで見かけて、なんて嘘を吐くのも気が引ける。
「……よし」
 僕と違い、椎名は何かを思いついたらしい。勢いよく立ち上がると、僕を置いてすたすたと歩き出した。
 慌ててついて行くと、彼女はブランコの周りに群がっている子どもたちに声を掛けた。
「おーい、ちょっとちょっと!」
 既に顔見知りになっている小学三、四年生ぐらいの彼らは、彼女の呼びかけにわらわらと集まってくる。あっという間に七、八人の人だかりができた。
「みんなさ、暇だったら探偵ごっこしない?」
 探偵ごっこ? 子どもたちの半分が目を輝かせ、半分が不思議そうに首をひねる。まさかと思ったが、そのまさかだった。
「このフェレットに見覚えのある子、いる?」
 なんてこった。謝礼目当てに、子どもたちを使って人海戦術を行おうとしている。けれど、他に案のない僕は、呆気に取られてそれを見ているしかない。
 子どもたちは椎名のスマホを覗き込み、口々に可愛いを連呼する。迷子になっていることを知り、可哀想と同情する優しい子までいる。
「おれ、隊長やりたい!」
 右手を上げた子を、椎名はびしりと指さし宣言した。
「よし、まさくんを隊長に任命しよう!」
「ほうしゅうは?」
「うまい棒のコンポタ味! このフェレットちゃんはきっと近くにいるから、みんな、遠くに行ったら駄目だよ」
 子どもたちはわいわい騒ぎながら、楽しそうに作戦を立て始めた。親に聞いてみると言い出す子もいる。
「さて」椎名は突っ立っている僕を振り向く。「なんて顔してんの、津守」
「呆れてるんだよ」
「失敬な。ただの情報収集の手段だよ」
 そう言って、彼女は腰に両手を当てて満足げな顔をした。

 翌日、更に翌々日、僕らは帰りに公園で子どもたちから話を聞いた。有益な証言はなかなか現れなかったけど、土日を挟んだ週明け、一人の女の子がうまい棒を頬張りながら教えてくれた。迷子のフェレットの飼い主は、彼女の伯母らしい。従兄弟を連れてもうすぐ公園に来るから、会わせてくれるそうだ。
「姪っ子のお友だちなら、そうそう怪しまれないよね」
 ふふふと椎名が笑う。そりゃあ赤の他人がいきなり電話をかけるより、姪っ子から話を聞いてと切り出した方が全うに決まっている。どうやらこの場で苦い顔をしているのは僕だけのようだ。
 幼児を連れてやって来た三十代中頃の伯母さんは、フェレットの話を持ち掛けるとため息をついた。
「この子の良い友だちだったのに」
 視線の先で、男の子は従姉妹たちと砂場に山をこしらえている。
「ケージの掃除をしてる間、部屋に出してたんだけど、窓が開いてたのよね。そこから庭に出て逃げちゃったんだと思うの」
 ふむふむと頷く僕らを見て、首を傾げる。その様子を見て、椎名が先手を打つ。
「みいちゃんからフェレットのお話を聞いて、ちょっと気になったんです。フェレットを飼ってるっていう人、周りにもいなくって。……ねえ、みいちゃん」
 椎名が声を掛けたが、事前に話を合わせていた当のみいちゃんは、砂場遊びに夢中になっていた。うーんと生返事をしながら、スカートが汚れるのも構わず、プリンの空き容器に砂を詰めている。
「流行ってはいるけど、まだ珍しいわよね」うんうんと伯母さんは頷く。「事故なんかに遭ってなかったらいいんだけど……見かけたら教えてね」
 電話番号を教えてくれ、僕らはそれとなく質問を重ねた。フェレットの名前や好きな食べ物等を聞き取り、頭の中にメモを取る。
 みいちゃん達と別れてから、僕は自分の記憶と椎名の記憶から照合した話をノートにまとめた。フェレットのシロちゃん。好物はソーセージ。人懐こく、好奇心旺盛。夜行性で、一日のほとんどを寝て過ごしている。
「もうちょっと有力な手がかりが欲しいな」
「しょーがない。あとは足で探すしかないね」
 僕のぼやきに、椎名は自分の足をぽんぽんと叩いた。

 またしても、子どもたちから有益な情報が上がった。
 学区を隔てる川の土手で、友人が白い生き物を見たらしい。最初は蛇かと思ったが、毛むくじゃらの動物には丸い耳がついていて、ぴょこんと跳ねながら草地に消えていったそうだ。
「これはシロちゃんに間違いない!」
 興奮する椎名と共に、僕らは川原に向かった。教わった橋の下には草がぼうぼうと生い茂り、蛇がいてもおかしくない様相だった。そこにいるかもしれないフェレットを、僕らは探している。
 途中のスーパーで割り勘して買ったソーセージをちぎり、数か所に分散して仕掛ける。食べている現場を目撃できなくとも、数日続ければ、餌を貰える場所としてシロちゃんが認識するかもしれない。僕らは手分けしてソーセージを仕掛け、張り込みを続けた。
「警部、シロちゃんは見つかりましたでしょうか」
 仕掛けた餌を見回り、同じように戻って来た椎名に敬礼すると、彼女は顔の前で腕をクロスしてばってんを作った。
「津守、これは長いヤマになるぞ」
「餌はなくなっていましたが、向こうでカラスがソーセージを食べていました」
「不届き者め……ソーセージは高いのに」
 仕掛けた餌は、翌日にはいつもなくなっていた。シロちゃんならいいのだが、恐らく横取りの犯人は猫やカラスだろう。それでも僕らは熱心に白いフェレットの姿を探した。
 張り込みから四日目、フェレットのシロちゃんが見つかった。
 だがそれは僕らの手柄ではなく、みいちゃんの話では、朝に伯母さんが窓を開けると庭にシロちゃんがいたそうだ。自力で戻って来たシロちゃんは、毛皮こそ汚れていたものの怪我もなく、もりもりと餌を食べたらしい。みいちゃんは、中学生のお友だちにも伝えておいてと言伝を頼まれたのだという。
 僕らはその日も、川原に向かった。
 ごろごろ転がる石の上に僕は腰掛け、椎名は拾った小石を思い切り川に投げ込んだ。石は水を切ることもなく、どぽんと音を立てて水中に沈んでいった。
 さぞがっかりしているだろうと思ったが、振り返って歩いてくる椎名の表情はさっぱりしていた。
「ま、見つかってよかったよ」
 それは強がりには見えなかった。
「僕らで手柄を立てたかったなあ。結局、野良猫に餌をやってただけだったし」
「しゃーないね。でも、一つでもシロちゃんが食べてるかもしれない。そんなら助けになったんじゃない?」
 うまい棒代とソーセージ代を足すと明らかに赤字なのに、椎名は全く気にしていない様子だ。
「悔しくなさそうだね」
 訝しげな僕の視線に気付くと、椎名はいたずらっぽく口角を上げて微笑んで、草地に腰を下ろした。
「確かに悔しいけど、見つかったんなら本望だよ。私もペット飼ってたことあるから」
「へえ、知らなかった。まさかフェレット?」
「違う違う。インコ。セキセイインコのハルちゃん」
 鞄から出したスマホを操作して僕に見せる。水色の毛色をしたインコが、差し出された人差し指に行儀よく止まっている。
「可愛いね」
「うん。間違いなく、世界一可愛いインコ」
 嬉しそうに、椎名は指先でその頭を撫でる。しかし実際には、画面の中の画像が上下に揺れるだけだ。それでも彼女にとっては可愛くて仕方のない子なんだろう。
 僕はインコの寿命を知らないけど、椎名の話し方から、もうハルちゃんがいないことはわかる。ペットを飼ったこともないし、掘り下げていい話題なのかもわからない。そんな僕の葛藤を読んだのか、椎名は「もういないよ」と言った。
「寿命?」
 僕の疑問に、椎名は黙ってかぶりを振った。微笑んだまま、スマホの写真をじっと見つめている。
「殺されたの」
「こっ……」
 物騒な言葉に、僕の思考が一瞬フリーズする。人間でなく、ペットが殺される? インコ目当ての殺人鬼(もしくは殺鳥鬼)なんて、聞いたことがない。
 仮説として、僕は椎名がふざけているのだと思った。
 しかし、十秒が経っても二十秒が経っても、椎名は「なんちゃって」とは言わない。興味と沈黙に耐えきれず、僕は「どういうこと」と問いかけた。
 彼女はじっとスマホの画面に視線を落としている。その表情は、いつの間にか硬く強張っていた。ほんのわずかな変化だけど、いつも一緒にいる僕は、難なく察することができた。
 もし辛いなら言わなくていい。僕がそう言いかける直前に、椎名はようやく口を開いた。
「小六の時、当時の友だちが遊びに来たの。三人。それで一階で遊んでたんだけど、一人がトイレ貸してって言い出して、部屋を出た。でもなんか嫌な予感がして……二階で足音が聞こえた気がして……トイレは一階だったから。私も廊下に出たら、その子が階段から下りてきた。それではっとして二階の部屋に上がったら、ハルちゃんの鳥かごと、窓が開いてたんだ。ハルちゃんはいなかった」
「それって、その子が逃がしたってこと」
 椎名は大きく頷いた。
「でも、その子、何もしてないって言ったんだよ。迷って二階に上がっただけだって。私の部屋になんか入ってないって。嘘だ、絶対嘘なんだ。私は取り乱しちゃったけど、その子が笑いながら言ったのを覚えてる。青い鳥なのに、幸せ運ばないんだって。私、その子にハルちゃんの話なんてしたことないから、青い鳥だなんて知ってるはずがないのに」
 椎名は少し声が大きくなっていたのに気付き、自分を落ち着かせるように息を吐いた。いつの間にか暗転していた画面を操作する。スマホには再びハルちゃんの写真が浮かぶ。
「私、あちこちに貼り紙して、ずっと探したよ。ハルちゃんは部屋から出たことのない箱入り娘だったから、野生でなんて生きられないから。……でも、見つかったのは一枚の羽だけだった。ある日、私の部屋に、青い羽根が一枚だけ風に流れて入ってきて、私にはわかった。ハルちゃんは、死んじゃったんだって」
 声を震わせる椎名に、僕はポケットティッシュを取り出して差し出した。彼女はスカートの膝にスマホを置いて、受け取ったティッシュで目元を拭う。僕はその隣に腰を下ろした。
「いたずらにしては、あんまりだね」
「いたずらなんかじゃない!」
 濡れた目できっと僕を見て、椎名は言い切る。
「あいつが、ハルちゃんを殺したんだ。ハルちゃんはなんにもしてないのに、私をいじめたいからって、犠牲にしたんだ」
「椎名をいじめるため?」
「うん」こっくりと頷き、きっぱりと言った。「私、前の学校でいじめられてたの」
 僕は驚いた。彼女は確かに変わった女子だけど、それは決していじめに至るものではない。多少浮いていても、必要とあらば普通に周囲と会話をし、授業も生活もそつなくこなす。
 だが、転校前は小学生の頃からいじめられていたらしい。親友へのいじめに加担しなかったのがきっかけだという。それでもお人好しだった椎名は、自分をいじめる嘗ての友人をまだ友だちだと認識していた。一度は、ずっと友だちだよと約束した友人たちだった。だから、珍しく彼女たちの遊びに誘われたのに喜び、家に上げてしまったのだ。そして、大事な家族を失ってしまった。
「一生友だちなんて台詞、信じた私が馬鹿だった。結局私は転校して逃げたから、負けなんだよね」
「別に、負けなんかじゃないよ」
 僕の台詞に、気休めなんて言うなと彼女は視線で訴える。けど、気休めを言っているつもりは、僕には全くない。
「それは、椎名が負けだと思ってるからだ。それに、これからそいつらを見返してやればいいじゃん。関わる必要もないけど、そいつらが悔しがるような立派な人間でいればいいと思う。僕にはそもそも椎名が負けてるようにも見えないし」
 椎名が僕に友だち契約を結ばせた理由がわかった。期間限定で、絶対に約束を破らない契約上の「友だち」。一生友だちという紙のように軽い口約束で結ばれることなど、彼女は懲り懲りなのだ。
 椎名は僕を見て、薄く微笑んだ。西日に頬が照らされている。悲しそうな、なのに嬉しそうで幸せそうな、不思議な表情だ。
「ありがと。津守と契約してよかったよ」
 照れ隠しなのか口元を擦り、おまけのようにわざと口を尖らせる。
「もし破ったら、罰金五十万だからね。覚えといてよ」
「破らないって。ていうか高いなあ。五十万あったら余裕でグッズ買えるし」
「津守が規約違反をしたら、私はグッズ買い放題ってわけだね」
「破ってほしいのかほしくないのか、どっちだよ」
 可笑しそうに白い歯を見せて笑い、「冗談冗談」と椎名は立ち上がった。「じゃ、帰ろっか」
 僕も立ち上がり、椎名に続いて土手の斜面を上った。並んで歩くことは、今はもう少しも恥ずかしくはなかった。
 親にも、たまにはいいんじゃない? と言われるほどに勉強を頑張り、僕らは遂にライブ当日を迎えた。奇しくも終業式と同日なので、心置きなく楽しむことができる。十七時会場、十八時開演の会場に僕らは十六時には着いたが、既に会場前の広場には多くの人がいた。普段は全く興味のない会館が、妙に偉大な建物のように見えた。
「ほれほれ、早く並ぼう」
 広場にはグッズを販売するテントが設営されていて、大勢が並んでいる。椎名に袖を引かれて、僕も列に並んだ。ピリオドは二十代半ばの男三人で構成されたロックバンドで、グッズもシンプルなものが多い。僕もあまりごてごてした物が好きじゃないから、許されるなら買い漁りたい。だけどそれは、自分でお金を稼げた暁の楽しみにして、今日は椎名と同じリストバンドを一つだけ購入した。
 列から離れると、椎名は早速ビニール袋からリストバンドを取り出した。
「付けるの? なんかもったいなくない」
 これは保存用になると考えていた僕に、彼女はわかってないなと人差し指を立てた。
「ライブにはグッズを付けて臨むものだよ。……ほら」
 彼女が視線をやる先に目を向けると、高校生ぐらいの男子が二人で歩いていた。どちらも、グッズ売り場にあるのと同じ、会場限定のパーカーを着ている。買ってすぐに着替えたようだ。よく見ると、鞄にストラップをつけていたり、僕らと同じリストバンドを手首に巻いているファンの姿がある。
「津守もさっさと付けなきゃ。盛り上げるためのグッズだよ」
 なるほど、そういうものなのか。大人しく自分のリストバンドを取り出す。なんだかんだいって、椎名はライブというものをきっちり予習していたらしい。
 会場が開き、開演まで長い時間だったけど、僕らはちっとも退屈しなかった。二人でライブへの期待を話し合っているだけで楽しかったし、周囲にも目を輝かせているファンがたくさんいた。自分と同じものが好きな人がこれだけ集まっているなんて、例え相手が知らない人であっても無性に嬉しくなる。もこもこした左手首のリストバンドに触れて、行列に並んで、ライブに来たのだという実感を確認する。
 一階は立見席で、二階が椅子席の満員御礼で千五百人規模。ブロックごとに位置がおおむね決まっていて、僕らに当てられてのは一階の右寄り、可も不可もない場所だ。
 会場には人が詰まっているが、一応列になっている。
「椎名、前見える?」
 僕の方が少しだけ背は高い。それでも前の人の頭が視界に入る。けど椎名はちょっと背伸びをして、「大したことないよ」と言った。
「多分、始まったら列なんてぐちゃぐちゃになるし。最前列じゃないから、しょうがないよ」
「そういえばそうか」
 納得した僕の左手を、椎名の右手がぎゅっと握った。
「けど、はぐれないでね」
 そう言って笑った椎名の笑顔に、僕の心臓が跳ねた。それはライブ前の興奮とは種類が違っていて、手のひらに感じた熱が、手を離されてもそこに残っている気がした。こういう風に触れられたのは、手を握るなんてことは、出会ってから九ヶ月で初めてのことだった。
 会場の照明が徐々に暗くなり、ステージに誰かが現れる。その誰かが手を振ると、会場から歓声が上がった。
 スポットライトが当たる。ミュージックビデオや雑誌の写真で目にする、ピリオドの三人がいた。彼らはテレビへ番組の露出はしておらず、詳細を明かさないミステリアスさでも知られている。実在を疑ったことはなかったけど、生身の本人が実際目の前に現れるのは、却って非現実感さえ覚えてしまう。
 曲が始まった。僕が毎日プレーヤーで聞いている曲だ。だが、実際にステージから流れる声や楽器の音色は、イヤホンから聴くのとは全く別物だと知った。空気が全て音楽という塊になり、僕らの周りを支配していた。耳だけでなく、目から、皮膚から音を感じる。ボーカルの歌声が頭を貫き、人々の興奮が熱気となって渦を巻く。
 僕らもリストバンドを付けた腕を上げたり跳ねたりした。重厚で繊細な音楽の一つになれる気がして、楽しくて心地よい。皆の視線はステージに釘付けになり、列はすっかり乱れている。
 はぐれないよう、跳ねる椎名に少しだけ身体を寄せる。彼女が一度ちらりと満面の笑みをこっちに向けた。歌詞をなぞる口が違う動きをし、「楽しいね」と形作った。僕は頷いた。
 ステージに集中しないともったいない。それなのに、僕の視線は何度も椎名の横顔に向いた。興奮に頬を赤くして、曲の合いの手の部分で声を張り上げて、全身で「ファン」を表現している。心の底から会いたかったのだと、全ての仕草が語っている。
 僕はピリオドが好きで、努力で人気を博した彼らを尊敬している。僕には人生周回しても手の届かない天上人だと思っている。
 そんな彼らに羨ましさを感じたのは、この夜が初めてだった。

 ライブが終了した二十時、僕らは大勢の観客と共に会場を後にした。誰もが興奮気味に会話を交わし、出入口には記念に看板を撮影する人が集まっていた。僕らもそれに乗じて、数枚だけスマホのシャッターを切った。
 椎名は電車で、僕は自転車で会館を訪れていた。僕も電車にしておけばよかったと悔やむ。そうすれば、帰りの電車でも感想をお喋りすることができたのに。
 余韻を楽しみたい気持ちは、椎名も同じだったらしい。歩いて帰ると彼女は言い出した。自転車で来たことを僕はいっそう悔しく思う。
「でも、流石に歩いて帰るのは遠いよ。椎名、体力ないんだし」
 僕の言葉に彼女は不満顔を見せるが、持久力のない彼女が二時間も跳ね回っていたのだ。今はテンションが上がっていても、徐々に疲れを感じてくるに違いない。
「じゃあ後ろ載せてよ。私重くないから」
 椎名が自転車の荷台をぽんぽんと叩いた。家は同じ方角だし、それはいい考えだと僕も思った。
「あれ、でも契約書に犯罪はしないって書いてなかったっけ」
「あ、そっか。道交法違反だ」
 ふざけたつもりだったのに、荷台を握っていた彼女は、あっさりその手を離してしまった。僕は自分のパッとしない記憶力がこんな所で発揮されたことに、更に後悔を重くした。だけど、今更冗談だと言うわけにもいかない。
 僕らは一駅分だけ歩いてから別れることにした。
 曲のアレンジからMCの内容まで、ライブについて語り合う。あそこがかっこよかった、ここに感動した。話は尽きることがない。
「ねえ、聞いてる?」
 それでも幾度となく上の空になり、叱られてしまうのは、ライブと同じく、もしかするとそれ以上に心が動くことがあったからだ。
 椎名と、もっと一緒にいたい。
 僕はそう思う自分に気付いていた。ライブの前に手を握ってくれた時から。いや、実はもっと前からそう思っていたのかもしれない。けれどここまではっきりと自分の気持ちを認識したのは今日が初めてで、ライブ中はピリオド以上に彼女の横顔に見惚れてしまっていたのだ。
 これは充分、そういう想いだ。友達以上の関係まで踏み込みたい。素直に自分の感情を吐露して、受け入れてもらいたい。椎名が好きなのだと言って、理由がなくても一緒にいて、意味もなく手を握りたい。
 自転車を押す僕の心臓は、ライブ中より遥かに鼓動を激しくしていた。椎名は僕の反応が悪いから、不思議で不満げな顔を見せている。僕が本心を言ったらどんな表情をするだろう。椎名が好きで、付き合いたいと言えたら、どんなに楽だろう。
 カラカラとタイヤの回る音が頭の中に戻ってきて、僕は笑った。
「ごめん、なんか疲れてぼーっとしてた」
 それが重大な契約違反だと、僕は知っている。椎名が友だち契約を結ぶようになった経緯も知っている。破ってしまえば、彼女は誰かに近づくことも二度とできなくなるかもしれない。だから決して、それを破るわけにはいかない。五十万円払ってもいいとさえ思っても、実行してしまえば僕は僕を許せなくなる。
「なーんだ。津守、人のこと言えないじゃん」
 椎名がけらけらといつも通り笑った。その笑顔を見られるのが嬉しくて、なのに胸の奥がぎゅうっと苦しく窄まるのを感じた。
 年が明け、受験真っ只中の空気がいっそう密度を増した。昼休みは大半の生徒が机に向かうようになり、僕もその中の一人だった。
 寒さに手をこすり合わせながら自習のため早めに登校すると、教室の席は既に半分ほど埋まっていた。自分の席に着いて鞄の中身を移していると、席替えで離れた席にいたはずの俊輔がやって来て、勝手に僕の隣に座った。
「なあ、七季。ちょっと聞きたいことがあんだけど」
 やつは何故か声を潜めている。聞き取り辛くて、「なに」と僕は素っ気なく返事をする。
「椎名さんとは、進展ないの?」
「しつこいなあ。いつも言ってるだろ、何もないってば」
 ノートと筆箱を机に置き、ため息交じりに返した。朝っぱらから、からかいに来たのか。
 そう思ったけど、俊輔はいつものように笑わず、尚も僕に耳打ちする。
「新谷、今日の昼休み、椎名さんに告るって」
 カシャンと音を立てて、僕が手にしたシャーペンが床に落ちた。慌てて拾い俊輔を見ると、やつはいたって真剣な顔をで僕の顔を見ていた。アホな冗談ではなさそうだった。
「それ、マジ……?」
「マジだよ。だから、七季に最後に確認してほしいって頼まれたんだ。もし二人が付き合ってるなら、やめとくって」
 でも、違うんだろ。俊輔が続ける言葉に、僕は何も言えない。黙っていると、それを肯定と解釈した俊輔は、苦い顔をした。
「俺も、どっち応援したらいいのかわかんねえよ。新谷にも成功してほしいし、そんで七季が落ち込むのも嫌だし、その逆もあれだし」
 俊輔はバカだが人の良いやつだ。僕のために新谷に嘘を吐くことも考えているらしい。けど、それも良心がとがめる。椎名は一人きりだからどちらかを選ばざるを得ないし、そもそも彼女の気持ちがどちらかに向くとも限らない。皆仲良くできればいい、そんなことを俊輔は思っているのだ。
「……言っといてくれよ。僕らはただの友だちだって」
 ちらりと席に目をやったが、椎名はまだ来ていない。
「ほんとにいい? それで」
「椎名が何を、誰を選ぶかわからないけど、僕に人の気持ちを止める権利なんかないよ。今まで通りでいるだけだ」
 本当は、とても苦しかった。殊勝な態度を貫きたいものの、僕は上手く笑うことさえできないまま、俊輔に小声で返事をした。彼は少し黙った後、「わかった」と呟いて、教室を出て行った。

 放課後、一緒に図書館で勉強をし、いつも通りに帰路に着く。椎名の様子に変わったところは何もない、ように見える。
「津守、何か隠してない?」
 だから椎名の台詞に、僕は大袈裟なほど肩をびくつかせてしまった。到底、誤魔化し切れないサイズの動揺だ。
「な、なにが?」
「例えば……私との仲を誰かに探られたりとか」
 俊輔とのやり取りが完全にバレている。ということは、新谷が椎名に告白したのを僕が知っていることも。
「……なんて、返事した?」
 僕の台詞に、椎名は目を丸くして笑い出した。呆気にとられる僕の顔を指さす。
「カマかけてみただけなのに。やっぱり知ってたんだ」
「騙したな!」
「騙してなんかないよ、人聞きの悪い。新谷くんが、津守とは付き合ってないって聞いた、って言ってたから。津守が誰かにそう話したってことでしょ。誰? 仲良しの大倉俊輔くん? そういえば、彼も陸上部だったよね」
 やられた。僕は半開きの口をやっとこさ閉じる。なんだか気まずくなってしまい、明後日の方向に視線を飛ばす。
「いや、そういうの聞いてもいいか、わからなかったから……」
「なんでよ。気になったなら聞けばいいじゃん。どうだったって」
 にまにましながら僕に顔を近づけてくる。僕は逃げるように一歩離れ、どうやっても彼女には敵わないことを実感する。ため息を吐いて、絞り出した。
「……どうだった」
「ほんとに知りたいのかなあ」
「そりゃそうだろ。もしオッケーしてたら、こんなの、よくないし」
 自分で言ってはっとした。椎名は、付き合う相手がいるのに、別の男子と二人きりで放課後を過ごす真似をするような子じゃない。
 僕の視線に、彼女は小さく舌を出した。
「私、あんまり知らない男子と付き合う気になんてなれないし。だから、断ったよ。それなら、友だちになってくれって言われたけど。……あ、これ内緒ね」
「そっか……」
「安心した?」
 友だちという言葉に危機感を覚えたが、僕の胸の中は安堵に満ち溢れていた。それでも彼女の得意げなにやにや顔にはムッとする。
「からかうなよ」
「はいはい、ごめんなさい」
 冷え切った二月の木曜日。僕らは互いに白い息を吐きながら、別れ道でまた明日と手を振った。椎名のマフラーの赤色が、薄暗い夕刻の中に映えていた。
 雲の広がる土曜日だった。
 気晴らしに少し遠い図書館に出かけ、弁当を食べて帰っていたところで、激しい雨が降ってきた。雨は夜からだと聞いていたのに。ひええ、と僕は変な声を零しながら、急いで帰り道を走る。あっという間に出来た水たまりが、足の下で飛沫を上げて弾ける。髪を伝い、うなじに入り込んだ雨粒の冷たさに、ぶるりと身体が震える。
 近道に通りかかった公園に、既にひと気はなかった。みんな逃げ足が速い。冷え切った天気の悪い日だから、そもそもあまり人もいなかったんだろう。
 そこで僕は、見覚えのある赤色を見つけた。
 お椀を伏せたドーム型の遊具の中には、椎名がいた。
「津守?」
 彼女は僕を見て驚きの声をあげる。
「椎名、どしたの、こんなとこで」
 僕も中に一歩入ったところで、本当に椎名がいたことに驚いた。ちらりと見えた赤色は、彼女が登下校時にいつも巻いているマフラーの色だった。もこもこのダウンジャケットを着てマフラーを巻き、二月の雨の中、彼女は遊具の壁面に背中をつけてしゃがみ込んでいた。
 手招きされて、そばに寄って、隣にしゃがむ。椎名はイヤホンを外すと、両手に持っていたスマホを操作し、見ていた動画を一時停止した。
 なんだか、見てはいけない彼女の姿である気がした。
 それは、見過ごしてはいけない姿でもある気がした。
「雨宿り?」
 僕が訊くと、「そんなとこ」と彼女は嘘を吐く。一瞬見えたスマホ画面のシークバーは終わりの方を指していて、彼女がついさっき飛び込んできたのだとは思えなかった。
「……久しぶり、津守」
「久しぶりって、昨日も教室で会ったじゃん」
 僕は軽く笑う。昨日の放課後は、椎名が用事だというので一人で帰った。それでも、久しぶりという言葉はあまりに不似合いだ。
「なんとなく、言いたかった」
 僕に釣られて笑わず、椎名はぽつんと呟いた。まさにぽつんという表現が似合う、心細い呟きだった。
「何見てたの」
 彼女がスマホの画面を明るくして僕の方に向ける。それは、テレビ番組や映画を一気見することのできるサブスクの画面だった。中央に貼りついた一時停止マークの上には、つい先日、三話目が放送された、今期のドラマのタイトルが載っている。このドラマの主題歌にピリオドの新曲が起用され、僕らは共に喜んだ。
「曲だけ聴きたいんだけど、でもせっかくだから、一話から見てるの」
「僕も家で録画して、主題歌だけ聴いたんだけど。中身面白い?」
「まあまあかな」
 椎名がイヤホンの片方をつまみ、僕に向ける。途中から見てもわからないよ。そんな無粋な言葉は言わず、僕は黙って受け取ったイヤホンを右耳につける。もう片方を椎名が左耳につけ、再生ボタンに触れた。
 案の定、途中から見ても何もわからない。よく知らない、大学生風の美男美女カップルが、何ごとか揉めている。それでも僕らは、黙って画面を見つめる。
 聞き覚えのあるイントロが流れ、ピリオドの曲が流れ始めた。音は小さく、更に片耳しかイヤホンをしていないから、体内の鼓動にもかき消されそうなほどだった。
「……津守だけだ」
 だから、椎名が再びぽつりと落とした声も聞き取ることができた。
「私と友だちになってくれるのは、津守だけだ」
「なに、いきなり」
 意味深な言葉に首をひねると、俯き加減の椎名はきゅっと唇を横に引く。もともと肌が白いせいか、顔も手も、この空気に凍えてしまいそうに見える。その手を握って温めたい衝動を、僕は堪えなければならない。
「……新谷くんとは、友だちになれなかった」
 昨日の放課後の用事は、新谷に契約書を渡すことだった。椎名は僕にサインさせたのと同じ書類を、新谷に見せたらしい。
 だが、彼はそれを一笑に付した。冗談だと思ったんだろう。最後まで本気にしなかったらしい。
 新谷の気持ちはわかる。僕も最初、そう思ったから。
 だけど、新谷は椎名の瞳をきちんと正面から見たのだろうか。彼女の真っ直ぐな眼差しを目の当たりにして、尚も冗談だと捉えて笑ったのか。
 彼女が、独りぼっちで雨宿りをしていた理由が、わかったような気がした。
 いつの間にか音楽は消え去り、画面の中で俳優が至近距離で向き合っている。歩道橋の上で雨に打たれるという、古臭いシチュエーション。何を言っているのか、よく聞き取れない。
 それでも、彼と彼女がこれからどうするのか、想像がついた。
 僕が椎名に顔を向けると、彼女も僕の方を向いた。ここに来て、今日初めて椎名の顔をきちんと見た。それは今までにないほど近く、マフラーで互いの口元が覆われていなければ、吐息さえかかる距離だった。
 僕は、何も言わなかった。椎名の濡れた瞳に、自分の姿を見つけただけだった。
 友だち契約が終わるまで、あと一ヶ月。
 雨はしばらく止まなかった。
 三月十三日、僕らの卒業式の日。
 春の訪れを感じる晴天が広がっていた。僕も椎名も、互いの志望校に合格していた。春から違う高校に通うことになる俊輔とは、また四月に遊びに行く約束をした。教室では多くのクラスメイトが涙ぐんでいて、僕ももらい泣きしてしまいそうだった。長いようで短い三年間だった。
 そして一人、また一人と学校を去っていく。
 僕と椎名も、いつもと変わらず並んで校門を出た。正門脇の桜はまだ咲いていない。けど、来月の入学式の日には満開となるだろう。僕らは、否が応でも変わっていく。そんな仕組みが出来上がっている。
「じゃあ、消すね」
 いつもの公園にやって来て、ベンチに荷物を置いた椎名が立ったままで言った。
 僕らも、変わってしまう。
 向かいで返事をしない僕を見て、椎名がどうしたのという顔をする。彼女がスマホに置いている指を数回動かすだけで、僕との連絡手段は絶たれてしまう。中学校を訪れても彼女はいないどころか、もう僕の席さえ存在しない。並んで歩くことも、彼女と会って話をすることも出来なくなる。
「……契約延長って、出来ないかな」
 僕の言葉に、椎名はふっと笑って自分の鞄を探った。取り出したクリアファイルには、昨年の四月に僕が署名した、友だち契約書が入っている。そこにはしっかり、三月十三日の契約満了日の記載がある。そして「契約の更新はしないものとする」という文言も。
 彼女はきっと、新しい高校では友だち契約なんて結ばないだろう。普通の女の子として契約のいらない友だちを作って、普通の生活を歩む。
「津守のおかげで、友だちをまた信じてみようって思えた」
 この一年は、友人をもう一度信じられるか否かを決める、彼女にとって勝負の時間だったんだ。契約を結んだ僕が決まり事を全て守り、一年間友だちでいたから、彼女はもう一度友人を信じることにした。それは僕の誇りでもある。
 だけど、こんなのあんまりだ。僕の気持ちは、津守と一緒にいたい気持ちは、どこに持っていけばいいんだ。
「勝手すぎるよ」
 僕の呻き声に、椎名の顔が歪んだ。
「こんなの、勝手すぎるよ。僕は、本気で椎名の友だちだったのに」
 卒業式でも泣かなかった彼女の瞳から、涙が零れ落ちた。
「こんな紙切れ一枚で、僕の気持ちを全部収めようっていうのかよ」
 僕は必死で泣くのを堪えた。椎名も同じ気持ちなのを、痛いほど理解していた。これからもずっと友だちでいたい。何でもない時間を一緒に過ごして、他愛ない話に笑い転げたい。この気持ちを、たった一枚の契約書に集約できるはずがない。
 同時に僕らは理解している。契約違反をした途端、僕らの根幹が崩れてしまうことを。五十万円を払ったところで到底修復できない崩壊が、僕らを襲うことを。そうなれば、椎名は高校生になっても同じ契約書を作らなければならないのだ。
「ごめん、津守」
 のみ切れない涙をぽろぽろと頬に零しながら、椎名が謝る。僕は鼻の奥がツンとなるのを感じ、奥歯を強く噛み締めて我慢する。下手に喋れば、泣いてしまいそうだった。
 スマホを取り出し、同じアプリを立ち上げ、椎名唯の名前に触れる。椎名は、津守七季の名前に触れる。オプションを選び、削除の文字をタップする。

 ――本当に削除しますか?

 ポップの表示に、僕らは顔を見合わせた。僕が頷くと、椎名も黙って頷いた。
 「はい」を選択すると、互いの名前は友だち一覧から跡形もなく姿を消した。あまりにあっさりした幕引きには、余韻さえ残らなかった。
「今まで、ありがとう」
 椎名は震える声で言って、ぺこりと頭を下げる。僕らはただの元クラスメイトで、もう友だちではない。
「元気でね」
 鞄を手に取り、椎名は最後にそう言って、踵を返す。
 こんなの、あんまりだ。僕は、こんな終わりのために、契約を結んだわけじゃない。
「椎名さん」
 一歩踏み出しかけた彼女の背に、僕は声を掛けた。もう彼女を呼び捨てにする権利はない。泣き腫らし、未だに潤んだ瞳が僕の方を振り向く。
「きみは、わがままだ。僕の想像を超えた、とんでもないわがまま女子だ」
 悲しい瞳が伏せられる。僕はなおも続ける。
「一年間、本当に振り回されてきた。それは楽しくもあったけど、最初は困惑した。きみは、僕を何度も困らせた」
「ごめん……」
「けど、僕はやり切った。椎名唯の友だちを卒業した」
 鞄から取り出したそれを、僕は項垂れる彼女に差し出す。
「だから、一度くらい僕にもわがままを言わせてほしい」
 今日は二重の卒業式。僕らは中学校を卒業し、次に進んでいく。同時に友だちを卒業したのなら、次に進んでもいいのでは。
 一枚の紙を受け取った彼女は、中の文字を見て目を丸くした。
「僕のわがままだから、断ってくれてもいい。だけど、これを言い出す権利ぐらい、僕にもあると思う」
 僕の頭はすっかり涙が引っ込むほど、熱くなっている。柄にもないことに、脳の水分が蒸発してカラカラになって、気絶してしまいそうだ。
 恋人契約書。彼女が手にした紙に、僕はそう記入していた。
「もう友だちでいられなくても、僕はきみと一緒にいたい。嫌になればいつでも解約してくれていい。だから、どうか一度、サインしてください」
 僕は深く頭を下げた。同時にぎゅっと瞼も強く瞑った。彼女の顔なんて見られない。恥ずかしくて恥ずかしくて、このまま地面に頭を突っ込んで埋もれてしまいたい。
「……顔、上げて」
 聞き慣れた声が降ってきて、恐る恐る頭を上げた。
 彼女の瞳から、再び涙が零れていた。薄い唇が、ゆっくりと動いて言葉を紡ぐ。
「どこにサインしたらいい?」
 頭を下げたくせに、僕は「いいの?」なんて間抜けた言葉を返してしまう。彼女は頷いた。
「何も、規約が書かれてないけど……」
「それは、一緒に決められたらと思って」
 もう一度頷いた彼女の顔が、次第に赤くなっていく。滅多に見せない恥ずかしげな様子で、「じゃあ」とおずおず切り出した。
「名前で呼び合う……っていうのは、どう?」
 もちろん、僕に不都合のあるはずがなかった。「ありがとう!」と声をあげて思わず彼女の両手を握る。僕の手を握り返す彼女の手は、小さくて温かくて、いつまでも握っていたいと思う。
 少しの間、真っ赤な顔で見つめ合った後、どちらからともなく笑顔を零した。
「よろしく、唯」
「……よろしく、七季」
 僕らはベンチに腰掛け、消したばかりの連絡先を交換し合う。ふと見上げると、頭上にせり出す桜の枝では、蕾が一足早く花びらをのぞかせていた。最高の卒業の日だと、僕は思った。

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