キッカケはほんの些細なことだった。
 みおは病気のせいで、学校に行く機会は滅多にない故に年相応の友達はほとんどない。苦痛な治療を耐え、苦手な薬を飲んでも病気が悪化する一方。
 それでも、いつか治るという大人の甘言を無邪気に信じて、入退院の日々を繰り返していた。
 そうやって繰り返していくうちに、退院が減り、入院の方が増えた。ほとんどの生活が病院詰めになったとしても、学友に忘れられたとしても、みおは絶やさず笑顔を浮かべていたのは、大好きな両親にはそうしていて欲しいからだ。


 そんな生活が続く中、みおの体力がある程度まで回復して、院内で自由に動き回れるようになった。
 彼女が院内をぶらぶらしたら、自販機にある炭酸飲料を発見して、それを欲しがりそうに眺めていた。医者からは食事制限こそはされてないが、身長的に押せなかったのだ。周囲に人がほとんどいなく、力を借りたくてもできず、途方に暮れた。
 そんな時にふと現れたのは、姫だった。
 当時、そこの自販機は院内で唯一だったため、缶コーヒーが大好きな彼女にとっては致命的。けれど、彼女はそのことに全く気にすることはなく、ただ淡々とあそこに足を運んでいた。
 雅代が傍にいなかったのは、当時の彼女は屋敷のことで多忙だったからである。

「……これ、欲しい?」

 淡々と聞いてくる姫のことを怖がりながらも、こくりと頷くみお。
 医療関係者や家族以外の人とあまり関わりがなかった彼女にとって、姫の存在が異世界からやってきた者と同等だ。
 だから、初めて接触してきた患者である姫のことをちょっと警戒した。

「……はい」

 生気のない目で二つの飲み物を買い、炭酸飲料をみおに手渡す。みおがたどたどしく礼を言ったが、気にしないとばかりに姫は離れる。
 瘦せ細った背中を見送ると、ふとみおの胸がきゅっと締め付けられるのを感じて。なんとなく、そこに片手を寄せた。

 彼女を見ていると、なんだか切なくなる。
 今まで味わったことのない感覚に、みおは戸惑い気味になりつつも、姫の姿が見えなくなるまで見送った。




 それから数日後。偶然目の前を通り過ぎた姫を見掛けて、慌てて身を潜めた。
 もし視界に入れられたら、またあの不思議な感情が戻る、という至ってシンプルな理由で。しかし、なんでと自問すると、やはり答えが出てこない。

――もしかして、お姉ちゃんのことをもっと知ったら分かるかな。
 淡い期待と共に、みおは壁からひょっこりと顔を出す。白い長髪を揺らしながら歩く姫の後ろ姿に、「よし」と自身を奮い立たせて後を追うことにした。

 しかし、いくら時間が経っても、みおはただ尾行するだけで、話しかけることすらなかった。後方からずっと「じ~~」という子供の声がしたから、とっくに姫にバレていた。
 だけど姫が振り返ると、視線の先にある可愛らしい三角帽子が物陰の後ろに逃げられてしまうから、仕方なく気付かぬフリをすることにした。

 暫く膠着状態が続いていくうちに、姫は急に歩みを止まらせた。それに驚かされたみおは、咄嗟に壁の後ろに身を隠す。彼女は心中で姫が歩き始めると願うも、姫は立ち止まるまま。
 沈黙が続く中、みおは姫の様子をチェックするように、少しだけ顔を出す。依然として立ち尽くす姫の背中からすぐに顔を背けて隠れると、

――もしかして、みおを待っている?
 という可能性が頭によぎり、横目でもう一度確認する。視界の中に姫を捉えて、一度深呼吸。よし、と自分を鼓舞して物陰から出た。

「お、お姉ちゃん!」

 緊張のあまり、声が少し上擦ってしまった。だけど、姫はとくに反応を示さず、ただ背中を見せているだけ。

「みお、お、お姉ちゃんの友達にな、りたいでしゅ!」

「……物好きね」

 その台詞と共に振り返ってくる無表情に、みおは小首を捻った。

「うん? ものすきって?」

「……変な人ってことよ」

「うん?? つまり、それはいいことなの? 悪いことなの?」

「……まあ、いいことなんじゃない」

「へへへ、そっかぁ~」

 それが嘘だと知らずに、みおは顔を綻ばせた。
 だけど、嘘を吐いた張本人は相も変わらず無表情のままだから、みおはすっかりそれを信じ込んでいた。
 再び歩き出す姫の横で、みおに右手を握られるも無反応。
――もしかして、手を繋ぐの嫌だったのかな。

 そんな不安がみおの心中をかすめた次の瞬間、繋いだ手に僅かばかりの力が込められた。その優しさに触れた彼女は、無表情の顔を仰いでは顔を綻ばせる。

――もっとお姉ちゃんを笑顔にしたい!

 誓いの代わりに、みおもぎゅっと握り返し、そのまま姫と一緒に談話室に行った。
 初めて訪れる場所に目を輝かせて室内を見回すみおの横をすり抜けて、窓辺にある椅子に腰を下ろす姫。

「よいしょ、よいしょ」

 みおは自力でスツールを持ち上げ、姫の対面に置いて腰掛けると、待ちきれないとばかりに、一方的に積もる話を聞かせた。例え相手から相槌が返ってこなくても、みおは楽しげに喋り続けた。
 それはまるで、二人の短い友情が一分一秒でも長く続く、と祈りを込めるように。


 みおが一通り話し終えると、幼い顔には似合わぬ翳りが浮かんだ。

「なんかね。目を離したら消えるんじゃないか……そんな気がしたの。お姉ちゃんからは」

「……そうか」

 そうとだけを呟いて、亮も僅かばかり顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻した。
 『エンターテイナーたる者、常に笑顔でいなければならない』、と昔の教訓を思い返して。