三人のストーカーに付けられたことに気付かずに、歩き続ける姫。
なぜこんなことをしているの、私。そう思いながらも、彼女は惰性的に足を踏み出し、廊下を進む。
――まあ、暇潰しには丁度いいかもしれない。
今回のかくれんぼでは、亮という弱点がある。車椅子に頼るぐらい足が不自由のため、隠れる場所は限られているに違いない。
それに、昨日の数独の際に、恐らく頭は相当悪い方だろう。しかも、子供のみおよりもずっと。最初に彼から潰していけばあとは楽勝だ。
けれど、いくら彼女の頭が冴えていてもやる気がなければ、試合終了だ。
実際、姫が一時間を歩いていても未だに彼を見つけていない。長期入院患者の中で最も入院歴が長いとは言え、病院の構造を完全に把握したわけではない。
範囲を決めなかったのは、かなりの痛手だ。
――一番探しやすいと侮った相手が、まさかこんなにも難しいだなんて。
内心でため息をつき、進み続ける。突然、廊下の角から現れた人物とぶつかりそうになって、反射的に後ずさって顔を上げた。
「す、すみません。って、アナタは……」
そこまで言い掛けたところで、木村さんは一瞬だけ後方を見てすぐに戻した。けれど、姫はそれに気付かず、目前の相手から顔を逸らした。
赤の他人に知られるのは気まずくて、その場を去ろうとするも相手に「あ、あの」と呼び止められた。しかしそれ以降、木村さんは黙り込んでしまう。
――やっぱり止めておこう。
呼び止めたことに詫びようと思った次の瞬間、姫が彼女の言葉を待っていることに気付いたのだ。内心で「よし」と自分を鼓舞して話しかける。
「アタシは鶴喜クンの、鶴喜亮の担当看護師、木村綾乃と言います。アナタのことは、噂で知っているわ」
二人の間に短い沈黙が流れた。
しかし、彼女はその気まずさに気負いせず、続ける。
「これからも鶴喜クンのことを、よろしくお願いします」
姫の背中に一礼して、彼女とは逆方向に去って行く。それらを背中で受け止めて、姫はちょっとの間その場に留まってから歩き出した。
一方、ずっと姫の後を追っていた三つの人影が物陰から出て追跡を再開。
車椅子に乗っている患者はそう多くはないはずなのに、その中から一人だけを探し出すのは、どうしてこうも大変なんだろう。
もうすぐ夕日が沈む時間になっているのに、未だに二人を探せていない。このままだと姫が負けるのが自然ではあるが、彼女の内側には微かな焦りすらも湧かなかった。
そもそも、彼女がかくれんぼをやるのが今回が初めてで、だから最初この話が持ち出された時点でやるのに少し抵抗があった。
経験がなかった分、結果がどう転ぶかだなんて予想もつかないという不安は勿論ある。それよりも、今回ので『いつも通りの生活』が変わるのが怖かった。
かと言って、この現状を打破するのに自分一人の力ではどうしようもないというのも事実。いや、例えその力を持っていたとしても、彼女はどうもしないだろう。
それほどまでに、彼女は諦めていたのだ。自分の生活にも人生にも何もかも。
暫く歩いていると、また木村さんと遭遇した。その乱れた髪から察するに、また亮を探しているのだろう。
けれど彼女は後ろの方を見ると、顔にあった焦りがすーっと消えた。よかった、と胸を撫で下ろした次の瞬間、今度は違う焦りが顔に帯び始める。
なんだろう、と思考を巡らせて振り返ると、そこには彼女がずっと探していた二人+雅代の姿があった。
「「「あ」」」
――三人はいつの間にこんな仲良しに……。
みおが談話室に来てから雅代とは多少コミュニケーションを交わしたことがあったにせよ、二人が昨日と知り合ったばかりの亮とこんなに仲良くなった方がよっぽどショックのようだ。
けれど、ただショックを受けただけで、別にこれといった感情が芽生えなかった。元々空っぽだった心に、今更感じることなんて何一つもないのだ。
「知り合いと目が合っただけなのに下郎が手を振ったから気付かれました。全く、一体どうしてくれましょう」
「もう、お兄ちゃんのせいで気付かれちゃった……」
「二人とも、今日はやけに私への当て付けが激しくナイ? でも、そういうの嫌いではないゾ! むしろ、いつでもウェルカム! さあ、どこからでも掛かってきてらっしゃい、お嬢さん方!」
三人の責任の押し付け合いが二人の耳にも届いた。
くすくす、と笑う木村さんとは対照的に姫は無表情のまま。そんな彼女を見て、木村さんは顔を曇らせた。気持ちを切り替えるように、三人の方へと向かう。
「はいはい、もう十分遊んだでしょ? 部屋に戻るわよ~」
「いやだあぁ! 私はまだまだ遊びた――」
「食後のデザート、没収するよ?」
「というわけで、また明日遊ぼうな、みおちゃん!」
「手のひら返しが早いのでございますね」
「うん! バイバイ、お兄ちゃん、マイターお姉ちゃん」
いつの間にか、それぞれが告別を済ましていた。
自分だけが蚊帳の外に置かれたことに気付いた姫は、眩しすぎる集団を視界から外れるように、背中ごと向けて俯いた。
ダメだ。このままでは――『いつもの』日常が乱れてしまう。
そんな戒めの言葉が彼女の心に浮かんだ時、車輪が視界に入ってきて思わず顔を上げると、
「また明日、姫」
別れを告げられて、木村さんと一緒に離れていく亮。
遠ざかっていく二人の背中をぼんやりと見つめて、姫は「また明日、か」とポツリ。
だけど、その言葉を噛み締めることもままならず、彼女の細身に冷気が襲い掛かってきた。今まで硬く引き締まっていた表情が歪んで、細い喉から雅代の名を絞り出すのに精一杯。
「ま、雅代ッ」
雅代がハッと現れ、さっと彼女の元へ駆け寄り、「失礼いたします」と抱き上げ、病室へと運ぶ。
姫の蒼白な頬から滲み出た脂汗は、これが一刻をも争う事態であることを告げている。そして、この症状こそが、姫が長年患ってきた病気の前兆にすぎないのだ。
なぜこんなことをしているの、私。そう思いながらも、彼女は惰性的に足を踏み出し、廊下を進む。
――まあ、暇潰しには丁度いいかもしれない。
今回のかくれんぼでは、亮という弱点がある。車椅子に頼るぐらい足が不自由のため、隠れる場所は限られているに違いない。
それに、昨日の数独の際に、恐らく頭は相当悪い方だろう。しかも、子供のみおよりもずっと。最初に彼から潰していけばあとは楽勝だ。
けれど、いくら彼女の頭が冴えていてもやる気がなければ、試合終了だ。
実際、姫が一時間を歩いていても未だに彼を見つけていない。長期入院患者の中で最も入院歴が長いとは言え、病院の構造を完全に把握したわけではない。
範囲を決めなかったのは、かなりの痛手だ。
――一番探しやすいと侮った相手が、まさかこんなにも難しいだなんて。
内心でため息をつき、進み続ける。突然、廊下の角から現れた人物とぶつかりそうになって、反射的に後ずさって顔を上げた。
「す、すみません。って、アナタは……」
そこまで言い掛けたところで、木村さんは一瞬だけ後方を見てすぐに戻した。けれど、姫はそれに気付かず、目前の相手から顔を逸らした。
赤の他人に知られるのは気まずくて、その場を去ろうとするも相手に「あ、あの」と呼び止められた。しかしそれ以降、木村さんは黙り込んでしまう。
――やっぱり止めておこう。
呼び止めたことに詫びようと思った次の瞬間、姫が彼女の言葉を待っていることに気付いたのだ。内心で「よし」と自分を鼓舞して話しかける。
「アタシは鶴喜クンの、鶴喜亮の担当看護師、木村綾乃と言います。アナタのことは、噂で知っているわ」
二人の間に短い沈黙が流れた。
しかし、彼女はその気まずさに気負いせず、続ける。
「これからも鶴喜クンのことを、よろしくお願いします」
姫の背中に一礼して、彼女とは逆方向に去って行く。それらを背中で受け止めて、姫はちょっとの間その場に留まってから歩き出した。
一方、ずっと姫の後を追っていた三つの人影が物陰から出て追跡を再開。
車椅子に乗っている患者はそう多くはないはずなのに、その中から一人だけを探し出すのは、どうしてこうも大変なんだろう。
もうすぐ夕日が沈む時間になっているのに、未だに二人を探せていない。このままだと姫が負けるのが自然ではあるが、彼女の内側には微かな焦りすらも湧かなかった。
そもそも、彼女がかくれんぼをやるのが今回が初めてで、だから最初この話が持ち出された時点でやるのに少し抵抗があった。
経験がなかった分、結果がどう転ぶかだなんて予想もつかないという不安は勿論ある。それよりも、今回ので『いつも通りの生活』が変わるのが怖かった。
かと言って、この現状を打破するのに自分一人の力ではどうしようもないというのも事実。いや、例えその力を持っていたとしても、彼女はどうもしないだろう。
それほどまでに、彼女は諦めていたのだ。自分の生活にも人生にも何もかも。
暫く歩いていると、また木村さんと遭遇した。その乱れた髪から察するに、また亮を探しているのだろう。
けれど彼女は後ろの方を見ると、顔にあった焦りがすーっと消えた。よかった、と胸を撫で下ろした次の瞬間、今度は違う焦りが顔に帯び始める。
なんだろう、と思考を巡らせて振り返ると、そこには彼女がずっと探していた二人+雅代の姿があった。
「「「あ」」」
――三人はいつの間にこんな仲良しに……。
みおが談話室に来てから雅代とは多少コミュニケーションを交わしたことがあったにせよ、二人が昨日と知り合ったばかりの亮とこんなに仲良くなった方がよっぽどショックのようだ。
けれど、ただショックを受けただけで、別にこれといった感情が芽生えなかった。元々空っぽだった心に、今更感じることなんて何一つもないのだ。
「知り合いと目が合っただけなのに下郎が手を振ったから気付かれました。全く、一体どうしてくれましょう」
「もう、お兄ちゃんのせいで気付かれちゃった……」
「二人とも、今日はやけに私への当て付けが激しくナイ? でも、そういうの嫌いではないゾ! むしろ、いつでもウェルカム! さあ、どこからでも掛かってきてらっしゃい、お嬢さん方!」
三人の責任の押し付け合いが二人の耳にも届いた。
くすくす、と笑う木村さんとは対照的に姫は無表情のまま。そんな彼女を見て、木村さんは顔を曇らせた。気持ちを切り替えるように、三人の方へと向かう。
「はいはい、もう十分遊んだでしょ? 部屋に戻るわよ~」
「いやだあぁ! 私はまだまだ遊びた――」
「食後のデザート、没収するよ?」
「というわけで、また明日遊ぼうな、みおちゃん!」
「手のひら返しが早いのでございますね」
「うん! バイバイ、お兄ちゃん、マイターお姉ちゃん」
いつの間にか、それぞれが告別を済ましていた。
自分だけが蚊帳の外に置かれたことに気付いた姫は、眩しすぎる集団を視界から外れるように、背中ごと向けて俯いた。
ダメだ。このままでは――『いつもの』日常が乱れてしまう。
そんな戒めの言葉が彼女の心に浮かんだ時、車輪が視界に入ってきて思わず顔を上げると、
「また明日、姫」
別れを告げられて、木村さんと一緒に離れていく亮。
遠ざかっていく二人の背中をぼんやりと見つめて、姫は「また明日、か」とポツリ。
だけど、その言葉を噛み締めることもままならず、彼女の細身に冷気が襲い掛かってきた。今まで硬く引き締まっていた表情が歪んで、細い喉から雅代の名を絞り出すのに精一杯。
「ま、雅代ッ」
雅代がハッと現れ、さっと彼女の元へ駆け寄り、「失礼いたします」と抱き上げ、病室へと運ぶ。
姫の蒼白な頬から滲み出た脂汗は、これが一刻をも争う事態であることを告げている。そして、この症状こそが、姫が長年患ってきた病気の前兆にすぎないのだ。