「初香ちゃん。二人きりでデートしたくない?」

 私にそうやって耳打ちをしたのはつい先日まで恋心を抱いていた相手、真田だった。

 つい二ヶ月ほど前まで私は真田が好きだった。
 今となってはそんな恋愛感情は欠片すらも残ってはない。

 その真田はというと今も以前も私の親友、沙織に好意を抱いている。そしてその好意を向けられている沙織もまた真田に想いを寄せていた。
 だが沙織は元々恋愛関係にはとても疎く、真田の好意には気づいていなかった。
 そして私に付き添って真田の試合を観ている時、必ず視線で真田の姿を追ってしまっていることにも、沙織の中に確かにあるはずの真田への想いにも気づいてはいなかった。

 私はそんな沙織の気持ちに気づけなかった。ずっと真田を追うので精一杯だった。
『恋は盲目』とはよく言ったものだ。冷静になってみれば真田はずっと私ではなく、隣にいる沙織の姿を探していたのに……。

 私が沙織と真田の気持ちに気づくことが出来たのは秋庭のおかげだった。
 真田と幼馴染の秋庭。彼はシトラスの制汗剤を愛用する、爽やかな雰囲気の真田とは違い、ガッチリとした体型で異性よりも同性から親しまれるタイプだった。
 クラスも一緒になったことはなく、ただ真田の幼馴染としか認識していなかった秋庭の顔をまともに見たのは二ヶ月ほど前のこと。
 体育館脇の自動販売機まで飲み物を買いに行った時、体育館から出て来た秋庭が私の目を真っ直ぐと見ていった。
「真田を諦めろ」
 初対面なのにハッキリと。

「何言ってるの?」
「あいつはお前を見ていない。今も、そしてこれからも。だから無駄だ」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないわけ?」
「それは……」
 初めて秋庭が視線を逸らした。
 その時、少しだけ残念に思えた。
 私が好きなのは真田なのに、ずっとそのまっすぐな目を逸らさないでほしいと思ってしまったのだ。

 私の願い通り、再び秋庭は真っ直ぐに私だけを捉えて、そして気合を入れて爆弾を投下した。
「真田はあんたの友達が好きなんだ」
「え……?」

 あんたの友達って沙織のこと?

「なん……で?」
「……ずっと応援に行っていただろう」
「私だって!」
 応援に行っていた。……沙織と一緒に。

『一人じゃ寂しいからついて来てほしい』――そう誘ったのは私だった。
 沙織はそれからずっとついて来てくれていた。今日だってそう。

「あんたがずっと真田の応援に行っていたのは知っている。柔道場とサッカーのグラウンドは意外と近いからな。もちろん当の本人、真田だってそのことはよく知っている。だが真田の目を捉えたのはあんたじゃなかったって話だ。あいつは昔から真っ直ぐだから、一度惚れたら他なんか目もくれない。……だから無駄なことは止めて諦めろ」

 沙織は私の一番の友達で、だからこそ沙織がどんなに可愛くて、そして優しいことをよく知っていた。
 もしそれが他の子だった諦められるわけもなく、秋庭の言う『無駄』な行動を繰り返すのだろうけど……よりによって沙織なんてね……。
 あの子だったら仕方ないって、諦めるしかないって思える。
 だってもしも私が男だったら確実に惚れている。
 ファーストコンタクトで微笑まれては恋に落ち、本当に面白いって思った時には大きく笑いを咲かせ、極め付けにお弁当で胃袋を掴まれてノックアウトだ。

 付き合ってくださいを通り越して嫁に来てくださいと言ってしまってもおかしくはないだろう。

「そっか……」
 それだけを言い残して、生ぬるくなった二つのペットボトルを両手に持って沙織の待つグラウンドへと向かったのだ。

「沙織、お待た……せ」
 沙織の姿を見つけ、走り寄った。するとちょうど沙織と真田の目が合っている瞬間だった。
 秋庭の、真田が沙織に惚れているという情報の正しさが目に見えてわかる。

 あれは恋する目だ。
 私だってさっきまであんな目をしていたはずだ。
 そしてもう一つわかってしまったことがある。同じ目を沙織もしていることに。

 秋庭だって知らないに違いない。
 きっと私だけが気づいている。

 ピーっとホイッスルの音で真田の視線が沙織から逸れると「さーおりっ!」と後ろから抱きついた。

「初香ちゃん! お帰りなさい」
「ただいまー」
「遅かったね?」
「うん、ちょっと……ね。はい、紅茶」
「ありがとう」
 そう言って微笑む沙織はやはり可愛かった。
 深窓の令嬢のような見た目で笑う姿は小動物のよう。思わず私より頭一つ分小さい沙織の頭に手が伸びる。

「沙織は可愛いなぁー。よーしよしよし」
 ワシワシワシと頭の上で手を動かしても沙織の髪はすぐに戻る、がっつりストレートだ。だから遠慮なく。

「え? 何? 何なの、初香ちゃん」
 沙織はその様子に焦ったようだったが、嫌ではなさそうで、楽しそうに声をあげた。

 沙織の細い身体をギュと抱きしめて
「……沙織は一番の友達だよ」
 と呟くと、沙織は不思議そうに
「?私も初香ちゃんが一番のお友達だと思ってるよ?」
 と返した。

「だよね!」
「うん」

 その言葉に私は腹を据えた。

 その日から私の中では真田に対する恋心の一切が消えた。引きずる余地すらなかった。
 真田への恋心と沙織の大切さを比べれば沙織の圧倒的勝利なのだから。

 それからも私は真田をよく目で追った。今までの恋フィルターがかかった目ではなく、沙織の恋人になりうる男かどうかを見極めるためだ。

 友達、というよりは家族の視点に近い。

「中途半端な男に沙織はやれない」
 シスコンを拗らせている沙織の兄たちの代役のようなポジションだ。沙織の兄たちからも認められている友達の私がやらないで誰がやる。

 真田は私が一度好きになった男だけあって、外見はいいし、成績も上の中くらい。強豪と言われる我が校のサッカー部でレギュラー入りしているだけあって運動神経も抜群だ。
 ……だがそれくらいでは沙織の恋人になることは認められない。

 最終的には中身だ。中身。
 付き合って速攻別れるなんてことがあったら、沙織の経歴と心に傷がつく。そして私か沙織の兄たちの誰かの社会的な経歴にも傷がつく。

 これはしっかり見極めなければ……!――と真田を追い続けて早一ヶ月。

 相変わらず沙織は私が真田を好いているのだと勘違いをしていた。

「初香ちゃん!今聞いたんだけどね、今度の試合はね……」
 先ほど他のサッカー部応援仲間もといサッカー部の誰かに好意を抱いている子から教えてもらったばかりの情報を嬉々として教えてくれる。
 そんな姿も可愛らしい。

「初香ちゃん?」
 気がつけば沙織の頭を撫でていて、沙織は不思議そうな目で私を見上げていた。これがよく言う、上目遣いというやつだ。

「沙織、お弁当持って行こうか」
「うん!」
 正直言って、もう真田の試合なんて見てもときめかない。一か月前が嘘のようだが、恋なんて案外そんなものなのかもしれない。初恋だったからよくわかんないけど……。
 それでも沙織が楽しそうだから。私も楽しみなのだ――主に沙織の手作り弁当が。

 試合の日、無意識のうちに真田を目で追っている沙織の隣の席から
「ちょっと飲み物買ってくる」
 と声をかけて離脱すると自動販売機へと向かった。
 目当てはロイヤルミルクティー。沙織の好きな飲み物だ。
 飲み物はたくさん持ってきたとはいえそのどれもが麦茶とスポーツドリンクだ。炎天下の中、応援するだけあってやはり熱中症対策は万全で飲み物もその一部だった。
 だがもう試合は終盤を迎えており、終わるまで残り僅かだ。帰りくらいは甘い飲み物が飲みたい。

 硬貨を入れ、そしてボタンを押すと背後からは聞き慣れた声がした。
「試合、まだ終わってないがこんなところにいてもいいのか?」
 それは秋庭の声だった。
「……なんであんたがこんなところにいるのよ」
「答えになってないな……」
「別に私がここで何してようが勝手でしょ!」
「なら俺が今ここにいようが俺の勝手だ」
 抑揚のない声で秋庭は私の上げ足を取り、そして隣の自動販売機でスポーツドリンクを買った。
 その様子からするとどうやら私と同じように飲み物を買いに来たらしかった。

 それにしてもどれだけ買うんだ……。
 秋庭は次々に硬貨を入れてはボタンを押し、そしてペットボトルを取り出す、といった行動を何回も繰り返している。

「なんか用か?」
 ジッと見ていたからかやがて腕いっぱいにペットボトルを抱えるとこちらをジロリと睨む。

「別に……」
 居心地が悪くなり、沙織の待つ観覧席へ向けて踵を返す。
 すると
「おい!」
 と後ろから声をかけられる。

「何?」
「こんな暑い中そんなもんばっかり飲んでんじゃねえ」
 そういって腕の中にあったはずのペットボトルのうち二本をビニール袋に入れて突き出した。

「何これ?」
「スポドリ」
「いや、知ってるし」
「じゃあ聞くなよ」
 それだけ残して、秋庭は観覧席とは違う方向へと走り去った。

「いや、だから……なんであんたからこんなもんもらわなきゃいけないのよ……」
 私の声は響くことなく消えていった。

 仕方なくそれも持って帰ると足音に反応したのか前を向いていた沙織が勢いよく振り返った。
「初香ちゃん、遅いよ。もう終わっちゃったよ?」
「勝った?」
「4-2で、真田くんたちの勝ち」
「やったね」
「うん」
 コロコロと表情を変える沙織はいつも通り可愛いはずなのに、私の心を占めるのは仏頂面の秋庭だった。

 それからというもの、つい秋庭を視線で追うようになった。
 部活は違うのに登下校は幼馴染の真田と一緒で、クラスが一緒だからと移動教室まで一緒だから行動パターンはすでに知っていた。
 真田だけ見ていた時は秋庭のことなんか目の端にも入らなかったのに、今では真逆だった。
 私の隣で沙織は真田を追っていて、その真田の隣の秋庭を私は追っていた。

 けれど放課後になれば、今まで通りにサッカー部の練習を見に行って沙織と一緒に真田を応援した。
 少しだけ期待してお財布片手に自動販売機に行くと、三回に一回ぐらいは秋庭に会うことが出来た。
「まだ諦めてないのか……」
 その度に、いまだに真田のことが好きだと勘違いしている秋庭は呆れたり、諦めろと忠告してきた。
 その度に私が秋庭のこと、気になっているなんて思ってもいないみたいで悲しくなる。

 真田と沙織に進展がないのと同じように、私と秋庭との進展もあまりなかった。


 そんな日が続いたある日、沙織が一枚のポスターを持ってやってきた。
「初香ちゃん、花火大会だって! 一緒に行こうね」
 私にカラフルな面を向けながら、今から何を買おうかと迷っている沙織。沙織がこんなにはしゃいでいるのも無理はない。
 今まではずっと家で心配性のお兄さんたちと一緒にテレビ中継を見るだけだったからだ。
 そのお兄さんたちはそれぞれ留学や大学のゼミ合宿に行っていたり、卒業論文・卒業研究に追われて大学に缶詰状態になっていて今回は誰も家にいないのだという。

 ここ数日の間にお兄さんたちからそれぞれメール、SNS、電話、手紙などの方法で連絡されていたからあまり驚きはしない。

「うん」
 沙織のお兄さんたちに頼まれるまでもなく、沙織の誘いに快諾する。
 ……だが一つだけ問題があった。

 お兄さんたちからもらったメール、SNS、手紙の続きには同じ内容のことが書かれていた。そして電話の最後に付け足された言葉もそれと同じだった。
『真田君が誘ってきたら譲ってあげてほしい』

 彼らにはすでに真田の存在を報告してあった。
 沙織の思い人らしいということ。
 そして真田も沙織に好意を寄せているらしいということ。
 成績も運動神経もよく、そして何より優しい人だと。

 この二カ月ほど厳しい視線で真田を見極めた結果導き出された報告だった。彼らは私の報告を事実として受け取り、そしてその判断を下したのだった。
 シスコンをこじらせた彼らがこの判決を下すには余程の覚悟が必要だったことだろう。お兄さんたちの一人くらいは真田の身辺調査をしていても私は驚かない。
 そんな彼らが一大決心をしたのなら私はそれに従うしかなかった。

 沙織と二人で初めて花火大会に行けるかもしれない。
 だが、沙織には幸せになってほしい。
 花火大会なんて言ったらこのあたりの一大イベントで、デートにはもってこいだ。ここで誘ってこなかったら私は真田を沙織から引き離す覚悟だった。

 だが放課後、真田はやってきた――私の元に。
 そしてそっと耳打ちした。

「初香ちゃん。二人きりでデートしたくない?」
「はぁ?」
 私は真田のささやき声と正反対に声を荒げ、そして私よりも背の高い真田のシャツに掴みかかる。
 花の女子高生のとる態度としては完全アウトかもしれないが、ここで蹴りやパンチを入れなかったことは評価してほしい。それだけ私は頭に来ていた。
 沙織の恋人候補に認めた矢先にこんなことを言われて頭に来ない方がどうかしている。

「舐めてんの?」
「ちょっ、ま、とりあえず手を放して話聞いて」
「釈明があるなら今すぐ話せ」
 初恋の人だからと言って容赦は欠片もない。
 沙織のためなら鬼にでも何でもなってやる覚悟だ。


「初香ちゃんは秋庭と二人きりでデートしたくないですか!」
 早口で言い放たれた爆弾発言に思わず手が緩む。
「へ?」
「はぁ……はぁ。初香ちゃん、秋庭のこと好きでしょ? 初香ちゃんが秋庭と二人きりになるの協力するから、俺と沙織ちゃんと二人きりになるの協力して」
 解放された首元を直し、切らした息で必死の弁明と、そして私に協力を仰ぐ。

 バカなの?
「……普通に沙織を誘いなさいよ」
「遠回しに断られた。初香ちゃんに聞いてみないとって……。だから初香ちゃんから沙織ちゃんに一緒に行こうって言ってくれない? 俺は秋庭を誘うからさ」

 沙織……。

「……わかった。沙織には私から言っておく」
「よろしくね」


 これは沙織のお兄さんたちとの約束を守ったから了承したのであって、決して私一人の感情で動いたわけではない。……そうなのだけど、秋庭と一緒に花火大会に行けるなんて思ってもいなかったから嬉しさは隠せなかった。

 教室に帰ると、私の帰りを待っていてくれた沙織はいち早く私の嬉しさを隠せていない気持ち悪い顔に気づいた。

「初香ちゃん、何かいいことあった?」
「え、あ、うん。真田が四人で花火大会に行かないかって」
「あ、私も聞かれた! だからね、初香ちゃんに聞こうと思って」
「私はいいけど、沙織は? どう?」
「私は初香ちゃんがいいなら大賛成だよ!」
「じゃあ放課後にでも返事しに行こうか」
「うん!」



 そして決まった花火大会ダブルデート。いや、そう思ってるのは多分私と真田だけだけど、それでも一応ダブルデートなのだ。

 当日の天気予報では降水確率40パーセント、なんて中途半端な数字を示していたけど、空を見る限りは多少雲があるだけで雨の心配はなさそうだ。
 夕方からは沙織と二人で浴衣を来て、早く約束の時間にならないかとはしゃいだ。
 カチコチとゆっくりと進む時計の針が妬ましく、けれど止まってしまえばいいとさえ思ってしまう。
 沙織の幸せと私の可能性、その両方を片方の受け皿に乗せて天秤にかけた。もちろんあの選択は間違ってなかったはずだ。だが今更になって胸がざわめく。

「初香ちゃん、そろそろ行こうよ」
「うん、そうだね」
 止まれ、止まれ。
 大きくなるざわめきを必死で抑えながら沙織と手を繋ぐ。

 小学校で出会った時からずっと一緒だった沙織。私がその手を握るのはきっと今日で最後になる。
 だってこの場所は真田のものになるから。


 待ち合わせは鳥居の下の石段で、そこにはすでに真田と秋庭の姿があった。
 二人のリアクションは真逆で、沙織の浴衣姿に見惚れる真田と、私がこの場にいることが信じられないと隠そうともしない嫌そうな顔。
 もちろん口を開いて出た言葉も違う。
「可愛い……」
 簡潔に、けれども嬉しい言葉をかけたのは真田。

「なんでいるんだ……!」
 私の手を引き、口を耳元に寄せて話すのが秋庭だ。

 秋庭の顔と言ったら本当に嫌そうだった。今までで見た中で一番。それはもうここに来たことを軽く後悔する程度には。
「別にいいでしょ……」
 そう返す言葉も弱くなる。
 浴衣を着てオシャレして、可愛いって言ってくれるかななんて少しだけ期待していた分、テンションは急降下する。
 普通に考えれば秋庭が私の浴衣姿を褒めるわけなどないんだけどさ……。でもこんなに嫌がられるとはつゆにも思わなかった。

「花火の打ち上げまで時間あるから適当に回ろうか」
 不機嫌の秋庭とテンションだだ下がりの私と対極に沙織の浴衣姿を拝めた真田は試合で点数を取った時よりはしゃいでいた。

「そうだね。あ、初香ちゃん、わたあめ、わたあめあるよ!」
 そして沙織は初めての屋台に子どものように目を輝かせていた。

「沙織、私買っ「俺が買ってくるから待ってて」
 いつものように買ってくるから待っていてくれと私が言うよりも早く真田が沙織を制して店へと向かう。

 ああ、そうだ。今日は真田がいるんだ。

「はい、沙織ちゃん」
「ありがとう」
 その姿は沙織の恋人候補の行動としては褒められるべき行動なのに、役目を取られてしまったことに苛立ちと悲しさを覚える。

「はい、初香ちゃんも」
「あ、ありがとう」
 けれど真田はそんなことも知らずに協力者の私にまでわたあめを渡してくる。
 これは好意と取るべきかはたまた協力を承諾したお礼と取るべきか……。

 真田と沙織が二人きりになる代わりに私と秋庭も二人きりになる、というのは秋庭の態度からして無理そうだけど何とか決行しなければならなさそうだ。

 そう悩んでいるうちに花火の打ち上げ時間は刻一刻と近づいてきた。それに伴っていい場所を確保しようと人々がたくさん押し寄せる。
 初めは何とか他の三人について行くことが出来ていた。けれど浴衣だからと慣れない下駄を履いているせいか思うようには進めない。
「すいません、すいません」
 人を避けて進んで行くと目の前にはもう三人の姿はなかった。
「沙織!沙織―」
 どこにいるの?と叫ぶと遠くで「初香ちゃん、初香ちゃん」と沙織が私を呼ぶ声がした。
 けれどそれはあまりにも遠く、いつの間にか聞こえなくなってしまった。

「わ、あ、すいません」
 人混みの中に紛れて一人、流れに背いて人探しをする私はとても邪魔だ。よくぶつかるわ、舌打ちされるわで散々だ。

「何してんだろ……」
 はあっと深いため息が自然とこぼれた。
 疲れたなぁ……。そう思い脇道に避けると屋台の裏手に石段を見つけた。
 普段はあまり来ないから気づけなかったが、近隣住民にはちょうどいい休憩スポットとして知られているのだろう、ちょくちょくとそこに腰掛けている人たちが目に入る。
 そこに腰掛け、足をふらつかせる。そして巾着から取り出した携帯片手に悩んだ。

 連絡をするべきか否か。

 私一人ではあるが『打ち上げ花火の少し前に分かれよう』と真田と打ち合わせした通りにはなっている。
 今さら連絡したところで、最悪沙織たちは打ち上げ花火を見れずに終わってしまう。だからといって二人きりと三人じゃムードも何もが変わってしまう。

 はぁ……。
 不測の事態だったとはいえ最悪のタイミングで分かれたものだと呆れてしまう。

 せっかくの花火大会なのに……。

「ねぇ、ひとり?」
 石畳に向かってため息をついていた私の頭に降り注いだのは聞き覚えのある声だった。

「伊織さん……卒業論文は終わったんですか?」
 沙織のお兄さんの伊織さんだ。
 確か彼は卒業論文に追われ学校の図書館に缶詰状態で今年の打ち上げ花火中継は見られないと言っていたはずだがなぜここにいるのだろう?

「あれね、嘘」
 なんてことないように伊織さんはネタをバラす。

「え?」
「俺だけはいつも通り予定を空けてた。もう沙織も初香も高校生だしお祭りに連れて行ってもいいかなーなんて兄さんたちと話してる時にさ、連絡をもらったんだ。まさか沙織に好きな人が出来るなんて思ってもなくてさ……嫌、だったんだけど、香織さんがそろそろ妹離れしなさい!って煩くて」
「で許したけど、やっぱり心配で見に来た……と。沙織なら一緒じゃないですよ。……はぐれちゃいました」
「知ってる。会ってきたもん」
「え?」
「いやぁ、遠目から見ても二人は良い雰囲気だったから話しかけなかったのに沙織は天然だから俺を見つけたら走り寄ってくるんだもん。可愛かったなぁ。あ、写真は撮ったから後であげるよ」
 こんな時でもやはりシスコンは健在なのかと呆れながらも、ありがたくその申し出を受け取る。
 出かける前に沙織の浴衣姿のピンバージョンとツーショットは撮ったのだが、それはそれ、これはこれだ。

「ありがとうございます。って二人?」
「そう、二人。四人で行くって言ってたのにおかしいなと思ったらさ、はぐれた初香をもう一人が追っていったって聞いたんだ。それは邪魔しちゃ悪いなと思って帰ろうと思ったら初香、一人で泣いてるんだもん」
「泣いてません」
 泣きそうだったけど、ギリギリ涙はいないのだ。

「泣いてるよ。だったらお兄さんとして声かけてやらなきゃなーって思うじゃん?」
「泣いてませんけどね」
「初香は沙織と香織さんの次くらいには可愛んだからさ」
 伊織さんたち兄弟の中で一に妹の沙織ならば、二には彼らの母で絶世の美女の香織さんなのだ。
 その人たちの次に可愛いとは伊織さんなりの最大のお世辞だ。

「私はそんなに可愛くないですよ……。浴衣だって褒めてもらえなかったし……」
「そうなの? 沙織と色違いの、可愛いのに……。あ、そうだ。これあげる」
 ナップザックからお茶を取り出した伊織さんは私の頬にペタッとくっつけた。
「まだ冷たいから」
「ありがとうございます、ってははっ」
 受け取って、ラベルを見たらついつい笑いが出てしまった。

「え、何?」
 それはロイヤルミルクティーだった。沙織が好きなブランドの。伊織さんは紅茶自体飲まないのだ。もちろん沙織が好きなブランドのロイヤルミルクティーとはいえ飲むはずがない。
 それなのにいつも持ち歩いているあたりやはり伊織さんは伊織さんなんだと思ってしまう。

「伊織さんはやっぱりいつも伊織さんだと思って」
「? 俺は俺だよ?」
 意味がわからないといったように首を傾げながら伊織さんは自分の分の玄米茶を取り出して飲んだ。
「ぷはぁ、やっぱり玄米茶はいいね」
「伊織さん、おじさんみたいですよ」
「俺まだ花の22なんだけど」
「キリ悪くないですか?」
「いいの、まだピッチピチなの!」
「ははは」

 ふと屋台の間をゆっくりと歩き去る秋庭の姿が視界の端に映り込んだ。
 人を縫うようにしてスタスタと歩く姿は誰かを探している様子ではなく、ただ家路につこうとしているように見えた。

 秋庭は私を探してくれてはいなかったのだ。

 伊織さんが沙織から聞いたという言葉は真田と沙織を二人きりにするための方便なのだろう。

 期待、してたわけじゃないんだけどな……。
 再び視線を石畳に移すと、それはいきなり明るく変わった。

「わぁ!」
「綺麗ね」
 そして遅れて屋台の向こう側からは歓声が聞こえてくる。
 顔を空へと向けるとそこには大輪の花が次々と咲いていた。


「綺麗……」
 空の花畑にそう呟くと後ろから優しく抱きしめられた。

「俺にしとけばいいんだよ」
 耳元で悲しそうに囁かれる。
 すると堪えていた涙がポロポロと落ちていった。

「俺だったら浴衣、可愛いって言ってあげれる。……だから、さ、行かなくていいよ。傷つかなくて、いいんだよ」
「……」
 伊織さんはきっと初めから気づいていたんだろう。
 だから一人きりの私を迎えに来たのだ。

「そうだ。初香、かき氷買ってあげる。それに焼きそばとラムネも。だから家に帰って二人で食べよう」
 伊織さんは極度のシスコンで、そして妹の友達の私にも甘いから。だからこんな日だって存分に甘やかしてしまうのだ。

「それは……楽しみですね」

 私はこの夏、二つの失恋をした。
 そしてそのどちらも打ち上げ花火のように咲いてはすぐに消えていった。

「二人きりでデートしたくない?」
 渡された暗号を解くことはできなかった。だからその先に進めたのは真田だけだった。
 彼は私を取り残して進もうとする。


 だから私はカラフルな大輪の花から目を背け、私はいつもの場所へと帰っていくのだった。