「あなたは自分をどんな人間だと思いますか?」
「自分を一言で表すと何ですか?」

 就活でお決まりの質問をぶつけられるたび、胸が痛む。大学の卒業式を明後日に控えながら、内定のひとつもとれていない。一年留年したので五年間在学していたけれど、思い出のひとつもないので、自由参加の卒業式に出席するつもりもないけれど。

 三時間後に、もう一社面接がある。春先の寒さから逃れるため、ファミレスに入ってコーヒーを注文した。隣のテーブルにはカップルが座っていた。男の方が大きな声で注文をしている。

「すいませーん、クリームソーダふたつ!」

 クリームソーダ、その響きを聞いて彼女、折笠春香との戻らない日々を思い出す。

 上の空のまま受けた面接は散々だった。家に帰って、自室にこもる。僕を迎えてくれるのはかつての恋人の写真と埃を被った空っぽの金魚鉢。狭い部屋には不釣り合いな大画面高画質のテレビと、大量のDVD。

 ベッドに寝転んでスマートフォンを見る。高校時代のグループトークのポップアップ通知が来ていた。去年機種変更をしたが、ロック画面もホーム画面も待ち受けはずっと卒業式の日に彼女とふたりで撮った写真のままだ。

――私たち、別れよう。

 彼女にそう告げられて、明日でちょうど五年になる。

 折笠春香と僕が出会ったのは、僕たちがまだ制服のブレザーに身を包んでいた高校二年生の頃だった。学校を休みがちな美人。それが彼女の第一印象だった。

 オーラが違うとは彼女のことを言うのだろう。どこにいても目立つ。常に周りにはたくさんの友達がいる。水泳一筋で生きてきた僕とは住む世界の違う人間だった。

 交わるはずのなかった僕らの人生が交わったのは、二学期のこと。彼女の欠席中に行われた席替えのくじ引きがきっかけだった。僕と隣の席になって三日後に彼女は登校してきた。その日は小雨がぱらついていた。昼休み、服や髪が濡れるのにも構わず、彼女は友人たちと校庭でバレーボールを楽しんでいた。

「病み上がりなのに無理しない方がいいんじゃない?」

 僕のお節介に彼女は驚いたような顔をした。

「病気じゃないから大丈夫だよ。心遣いありがとう。増川君、優しいんだね」

 そう言った彼女の笑顔は眩しかった。これが彼女との初会話。接点が全くなかった僕の名前を憶えてくれていた。

 彼女はその後もたびたび学校を休んだ。遅刻や早退もしばしばあった。隣の席のよしみで休んだ日のノートのコピーを渡すようになった。

「ありがとう。すごく助かるよ。増川君、字綺麗だね」

 彼女とは雑談を交わすことが増えたが、彼女の事情に踏み込むことはしなかった。彼女の欠席が病気によるものなのか人間関係によるものなのか、当時の僕には予想がつかなかった。水泳のことでいつも頭がいっぱいだった僕は極端にクラスの人間関係模様に疎かったからだ。

 同じスポーツに打ち込むにしても、僕がもし仲間とともに汗を流す高校球児だったなら、チームメイトとともにワールドカップを目指すサッカー少年だったなら何かが変わっていたのだろうか。水泳のような個人競技ではなく、団体競技に励んでいればもう少し社会性が身についていたかもしれないと今更ながら思う。そうしたら、今とは違う未来があったのだろうか。

 しばらくしてまた彼女は学校を休んだ。水泳部の休憩時間に、女子部員の本宮京子に探りを入れてみる。本宮は以前春香と親しくしているのを見たことがあったからだ。

「折笠って、よく休んでるけど体弱いの?」

 本宮は僕の発言を聞いて、驚いた後大笑いし始めた。

「増川、やばすぎ! 折笠春香を知らないのはさすがに天然記念物。うちで飼ってるハムスターより世間に疎いって!」

 僕の質問を無視して笑い転げている本宮に少しイラっとした。

「春香は芸能人だよ。それも超有名女優! 今やってるドラマとか映画にも出てるし、最近はバラエティ番組にゲストで出てることも多いよ。ずっと子役やってて、うちらが小学校の時にもさ……」

 本宮はドラマのタイトルらしきものを列挙したが、どれも僕の知らないものだった。その後、僕は特に折笠春香の出演番組をチェックすることもなく変わらない日常を過ごした。

 しかし後日、春香が再び登校してきた時は非礼を詫びた。

「この間はごめん、失礼なこと言って。折笠が芸能活動頑張ってるのに、それ知らなくて」

 水泳に人生を捧げてきた僕以上に、彼女が懸けてきた芸能活動。それを知らなかったとはいえ軽視するような発言をしてしまった。僕は頭を下げた。

「えー、全然気にしてないのに。増川君、律儀だね」

 春香はあどけない顔で笑った。

「水泳、頑張ってるんでしょ? お互い頑張ろう」

 打ち込んでいるものは違えど、青春の全てをひとつのものに懸けている者同士、僕たちは通じ合うものがあった。しかし、僕は彼女に水泳の話をすることはなかった。当時僕はスランプ気味で、それを女子に話すことは男のプライドが許さなかったからだ。

 春香は他の人と芸能界の話で盛り上がっていたが、僕には仕事の話をすることはなかった。僕は相変わらず彼女の出演番組をチェックする暇もなく水泳のタイムを百分の一秒縮めることに時間を注いでいた。だから僕は彼女を芸能人として特別扱いすることもなかった。

 休み時間に交わす二、三言の会話は僕にとっての安らぎだった。頭のモヤモヤがなくなると、体も軽くなったような気がした。気づけば僕はスランプを脱出していた。

 僕たちが話していた内容は、休みの日にお父さんが渓流釣りに連れて行ってくれたとか、おばあちゃんが関西に住んでいるだとかそんな他愛のない話ばかり。それは僕らの距離を確実に近いものにしていった。
 彼女と友達の会話全てに聞き耳を立てていたわけではないけれど、印象に残っている会話がある。それがいつ頃だったかはもう覚えていないけれど、本宮を含む派手な男女グループで恋愛論を展開していた。

「私、結婚願望強い方だと思う。好きな人と恋人になれたら、すぐにでも結婚したいな。学生結婚もありだと思ってるよ」

「学生結婚って、『高校生の花嫁』みたいな? 春香がそういうの好きなのめっちゃ意外!」

 本宮は当時大人気だった少女漫画のタイトルを例示して大げさに驚いた。少女漫画には珍しく、若い世代を中心に男性にも人気だったらしいが世間知らずの僕は当然読んだことがない。そういうタイトルの漫画があることを知っていたのも、水泳部の女子が貸し借りをしているのをたまたま見たからだ。

「だよねー! 春香は仕事が恋人って言うかと思ってたー! 大女優って結婚しない人も多いしさあ」

「だって国家公認で永遠の恋人になれるんだよ。それって素敵じゃない?」

 春香はさらりと「永遠」という強い言葉を口にした。その横顔に僕は目を奪われていた。クラスメイト達は大袈裟なほどに盛り上がっていた。

「もしかして春香、すでに好きな人がいるなー? 誰? 共演してる人?」

 本宮の口から出てきた名前はおそらく有名な俳優だったのだろう。春香は首を横に振り続け、女子たちは「私も芸能人と結婚したい」と言い出し、気づけば話題は芸能界の話に移行していった。

 友達が皆去った後、春香は僕に声をかけた。

「ごめんね。うるさかった?」

「全然。折笠が楽しそうで何より」

「うん」

 春香はにっこりと笑った。眩しい。そう思った。

 春香が参加するならば、と今まで参加していなかったテストの打ち上げにも参加するようになった。

「クリームソーダ、ひとつください」

 どんな喧噪の中でも、どんなに席が離れていても春香の声はよく通った。彼女の声だけが鮮明だった。

「お疲れ様。今回数学難しくなかった?」

「そうだね。数学が一番苦手だからきつかった」

「僕は国語と英語が苦手」

 その会話がきっかけで、僕たちは勉強を教え合うようになる。春香は現代文と英語が得意科目だった。春香は真面目だったから一緒に勉強をすると捗った。

「赤点とるわけにいかないじゃない? 恥ずかしいし」

「僕も補習になって練習時間減ったら終わる」

 試験前は部活が禁止になる。その期間が僕は大嫌いだったけれど、春香と一緒に勉強をするようになってからは嫌ではなくなっていた。プールの水色一色だった高校生活に、綺麗な桜色が混ざり始めた。

 季節は廻り、春。僕たちは二年生に進級したあとも同じクラスになった。

「大樹、おはよう。髪に花びらついてるよ」

 通学路の桜並木で彼女に声をかけられた。この頃には僕たちは名前で呼び合うようになっていた。

「春香こそ背中に花びらついてる」

「えっ、うっそー。どこどこ?」

 体や頭についた花びらを手探りで探すお互いの仕草が何だかおかしくて、顔を見合わせて笑った。

「桜って、なんかいいよね」

「分かる。いいよな」

 僕たちの間にあまり多くの言葉はいらなかった。口数の少ない僕に会話のペースを合わせてくれているのだろうか。春香の気遣いが心地よかった。

 春香は教室では常にしゃべっていた。アドバイスをもらいに来た演劇部の女子に演技とはかくあるべきかを饒舌に熱弁したり、どんなに芸能界の裏事情や人気タレントのあれこれについて質問攻めにされても千手観音が千本ノックをするように華麗に質問を打ち返したりしていた。

 新しいクラスでも春香は常に人気者だった。春の遠足のバスの席割は女子の間で春香の隣の座席の争奪ジャンケンが行われていた。女子たちの鉄壁のガードによって、男子はジャンケンの参加資格がなかった。
 体育の前後の男子更衣室はしょっちゅう春香が可愛いと言うボーイズトークで盛り上がっていた。去年違うクラスだった男子は特に、有名女優と同じクラスという特別な状況に浮足立っていた。

「折笠春香が彼女ですって言ってみたくね? なんなら、週刊誌とかにスクープされてえわ」

「バーカ、お前が芸能人に相手にされるわけがないだろ。折笠の撮影現場、イケメンしかいないんだぞ」

「夢くらい見させてくれよー」

 僕はその会話に混ざることなく、いつも黙々と着替えていた。春香が可愛いということには共感できたが、彼女を芸能人として特別視することにはいまいち共感できなかった。それはきっと僕が、教室にいる春香だけを知っていて、テレビの向こうの折笠春香を知らなかったからだと思う。

 ほどなくして、僕たちの学校は春の遠足でまだ寒さが残る山へハイキングに行った。二列になって川沿いを歩く。雪が融けて水量が増えた小川で魚が跳ねれば、小学生のようにみんながはしゃいだ。

 僕はのんびり川べりに座って、遡上する魚をぼーっと見つめていた。いくら標高が低いとはいえ東北の山ともなると、午前中は大分寒かったが、日が高くなるとだいぶポカポカして気持ちが良い。

「もうすっかり春だね」

 後ろから声をかけられ振り返ると春香がいた。

「そうだな。山の中まで春が来てる」

 僕が答えると、春香が僕の隣にしゃがんで、川の中を指差す。

「春告魚が春を連れてきたんだよ、きっと」

 川の中では桜色の魚が悠々と泳いでいた。

「春告魚?」

「サクラマスのこと、春告魚って言うんだよ。春の訪れを告げる魚」

 僕が聞き返すと、春香は丁寧に説明してくれた。綺麗な桜色をしたこの魚たちはサクラマスというらしい。

「おばあちゃんが住んでるところでは、別の魚が春告魚って呼ばれてるみたいだけど」

「詳しいんだな」

「うん。お父さんが釣り好きだから、色々教えてくれるの」

 春香は少女のように無邪気に話す。

「生まれた川をずっと海まで泳いで下って、荒海に揉まれながらひたすら泳いで、激流を泳いで昇って春に戻ってくるの。一生のうちにどれくらい泳ぐんだろうね」

「泳ぐことが、生きることなんだろうな」

「命を懸けて泳いでるから、こんなに綺麗な色なんだね」

 春香が僕に視線を移す。その刹那、風が吹いて春香の長い髪から桜の香りがした。僕は全身で春を感じていた。

「大樹みたいだね、春告魚って」

 桜色の唇がそう言葉を紡いだ瞬間、トクンと心臓が高鳴った。胸の温かさは、春香が僕の人生の軌跡を肯定してくれた嬉しさだけではない。

 春香の目を見つめ返す。長い睫毛、綺麗な二重、大きな瞳。澄んだ水面のように透き通る
瞳に吸い込まれそうになる。

 暦に少し遅れて、僕の心に春が来た。川のせせらぎの音に混じって、恋に落ちる音が僕の心に響いた。

 恋心を自覚してからも、僕は何もしなかった。初めての恋だったからどうすればいいのかわからなかった。だから、今まで通り普通の友達として春香に接した。

 僕は春香と同じ選択授業をとっていた。ディベートの授業で、春香は常に積極的だった。筋道立てて持論を展開し、徹底的な議論を好んだ。意外な一面だ。よく通る声ではきはきと発言する春香がかっこよく見えた。

「春香みたいに自分の意見、ちゃんと言えるようになりたいよ」

「うっそー。これでも感情的にならないように自制してる方なんだけどなあ」

「感情的ではなかったから、そこは安心して」

「ほんと? よかったー。私、すぐ感情的になっちゃうからさ。売り言葉に買い言葉でつい強い言葉使っちゃうの直したいなって思ってて。学校ではイメージもあるから抑えてるんだけど」

 イメージという言葉を聞いて、有名人は他人からどう見られるかの客商売であることを思い出した。僕は時々、春香が芸能人であると忘れそうになる。

 登下校の時にパーカーのフードを深くかぶったり、伊達メガネをかけて変装しているのを見ると、「ああ、彼女は女優なんだ」と実感した。僕は自主練を含め毎日水泳部が忙しかったので春香と登下校の時間がかぶることはほとんどなかったけれど、ごくまれにそういう姿を見ると日本中の人が春香のことを知っていると思い出した。

 一学期末の大掃除の日、春香に小さな声で話しかけられた。

「面倒くさすぎない? こんな暑い日にやることないのにね」

「同感。こんな日は泳ぐに限る」

「大樹はブレないね」

「事実だろ。こんな非効率な真昼間にやるなんて時間の無駄だよ」

「そうだねー。無駄の極み! あはは、大樹にしかこんなぶっちゃけたこと言えないや」

 普通に話していたら、心臓が突然わしづかみにされた。

「だって大樹って話しやすいんだもん。なんでも言える」

 それは僕が特別だということだろうか。うぬぼれてもいいんだろうか。全身が沸騰しそうになった。こんなの、冬でも熱中症になりかねない。心臓がいくつあっても足りない。

 そんなことがあっても相変わらず告白はしなかった。彼女の特別でいられることを手放したくなかった。デートらしいデートが出来なくても、仲のいいメンバーで集まって、グループで一緒に遊びに行けるだけで充分だった。春香は僕の青春そのものだった。

 地元の夏祭りの日、少しだけ勇気を出した。クラスの大所帯で行ったのだが、あまりに大勢で固まって行動すると人の迷惑になるので、花火が始まるまでは少人数に別れて屋台を回ろうと誰かが提案した。僕は春香とふたりで屋台を回った。

 浴衣姿の春香の髪は、いつの間にかラベンダーの香りになっていた。ふたりで一緒に挑戦した金魚すくいで、僕は一匹の金魚をとった。

「すごーい! 大樹、天才」

 春香が小さく拍手をしてくれた。

「春香にあげようか?」

「うーん、お世話できないから、気持ちだけもらっとく! ありがとね」

 僕は翌日金魚鉢を買いに行った。春香と一緒にいた時にとった金魚だから、愛着もひとしおだった。大切に育てよう。気持ち悪いと分かっていながら、僕はこっそりその金魚に春香と名付けた。するつもりもない告白の練習と称して、金魚相手に「好きだ」と毎晩言った。

 休みの日にデートに誘う勇気すらなかった。言い訳のように今まで以上に水泳に打ち込んだ。それは秋になって春香のつけている香水がベルガモットに変わっても同じだった。
 修学旅行も、クラスの有志で集まったクリスマスパーティーも、ギリギリまで参加できるかあやふやだった割には、いざ参加すればレクリエーションの中心に彼女はいた。
 春香がいるかいないかで盛り上がりが違った。春香が来なかった体育祭の打ち上げを、クラスメイトは苺の乗っていないショートケーキや炭酸の抜けたコーラにたとえた。ドラマのセリフか何かをもじった一言二言のあと、クリームソーダを片手に乾杯する春香をみんな楽しみにしていたのだ。僕はそのセリフの元ネタは分からなかったけれど、ファミレスでからあげをおいしそうにつまむ春香の横顔が見られないのは残念だと思った。

 春休みに会おうと約束することもないまま進級した。始業式の日、クラス替えの結果が掲示されている場所で声をかけられた。

「一か月ぶりだね、春告魚くん」

 冗談のような呼び方で、いたずらっぽく春香は笑った。違うよ、春を連れてきたのは僕じゃなくて君だ。

「もう春だな」

「去年を思い出すね、また同じクラスだよ」

 クールぶってはいたけれど、内心ガッツポーズをしていた。あの日の温度も、空の色まで覚えている。まだコートなしにはいられないほど寒い日の、薄雲越しの淡い青空。僕たちの新しい始まりの春。

 一、二年生の頃は教室に充満していた浮足立った空気も、三年生になると落ち着き始めた。受験という一大イベントが迫っていたからだ。僕はAO入試で私立大学を受けることにしていた。春香も受けるのは僕とは違う学校だけれどAO入試組だった。

 奇しくも僕たち二人は合格発表の時期が近かった。夏休みの中頃、僕は合格が決まった。僕は真っ先に春香に報告した。
「サクラサク」
 女の子にラインをするのに慣れていなくて、顔文字もスタンプも何もなくそれだけ送った。
「おめでとう 春告魚くん」
 可愛くデフォルメされた魚のキャラクターのスタンプとともに、春香から返信が来た。

 春香の合格発表はその翌日だった。僕と同じように「サクラサク」と告げた。
「春告魚くんが桜を呼んできてくれたのかな?」
 画面に表示されたしゃれた言い回しのメッセージから春香の声が聞こえた気がした。僕はすっかり舞い上がっていた。

 恒例の夏祭りでは最初、意識してしまって春香と目が合わせられなかった。受験生ということもあり、去年より参加メンバーが少なかったので全員で出店を回ることになったのは残念なようなほっとしたような複雑な気持ちだった。
 金魚すくいの金魚は短命だと言うが、僕が春香と名付けた金魚は一年たっても健在だった。また春香と一緒に金魚すくいをして、春香が僕に似ていると言ってくれた春告魚に一番よく似た桜色の金魚を狙ってとった。僕はそいつに大樹と名付けた。

「仲良くしろよ、僕の代わりに、さ」

 そう言って金魚鉢に放った“大樹”は早速“春香”と喧嘩し始めた。合格を祝いに我が家に遊びに来た祖父曰く、「オス同士だから縄張り争いをしているんじゃないか」だそうだ。僕が一年以上春香を重ねて愛でてきた金魚はオスだったと知って、苦笑するしかなかった。


 一足早く受験戦争を離脱した僕たちは、残りの高校生活を各々のライフワークに捧げた。僕は部活を引退しなかったし、春香はレッスンの日数を増やしたらしい。
 十月になると、春香はドラマの撮影が忙しくなり学校にはほとんど来なくなった。僕はただの友達。連絡する正当な理由がなかった。

 僕の隣にいるときの春香は普通の女の子なのに、春香がいない時に聞こえる噂話は女優としてのことばかり。

「折笠春香、卒業後はハリウッドデビューか? だってさ」

 真偽不明のネットニュースの記事についてクラスメイトは噂していた。寝耳に水だった。僕は当時、春香が出ている映画やドラマのタイトルもその役名も知らなかった。

 当たり前だけど、変わらないものなんてない。いつか、僕は春香の傍にいられなくなる。ただの友達は卒業して接点がなくなればそれで終わり。そんな現実を突きつけられた気がした。

「なあ、僕はどうするべきだと思う?」

 返事をしてくれない金魚に問いかける。

 クラスの有志で行われるクリスマス会も、忘年会も日程調整アンケートの欠席に丸をつけた春香。きっと、こうして会えないことが増えていくのだろう。繋がりが少しずつ薄れていく。そんなのは耐えられなかった。

 僕の中で答えは決まっていた。一世一代の勇気を出して、春香の予定が空いている日に呼び出した。

 インターネットで検索したテンプレートのプランを参考に、ごくありふれたデートをした後に、曇り空の下、川沿いを散歩する。凍っていないのが不思議なくらいに冷たい水が音を立てて流れている。隣を歩く春香の髪はバニラの香りがした。

「あのさ」

 僕は立ち止まって切り出す。何もかもが初めての恋だったから、告白の作法なんて分からなかった。

「僕は、春香が好きだ。ずっと好きだった。僕と、付き合ってください」

 春香はとても驚いた顔をしていた。心臓が壊れそうなほどドキドキしていた。返事が怖くて目を逸らした。

「大樹以外の人に告白された時は、いつも聞いてるんだ。君が好きなのは、私? それとも女優としての私? って」

「そんなの、決まってるだろ! 僕は今ここにいる春香が好きなんだよ!」

 僕が思わず声を張り上げると、春香は微笑んだ。

「うん。みんなが女優としての折笠春香しか見てなくても、大樹だけは私のこと普通の女の子として扱ってくれた」

 優しい風が雲を掃い、太陽の光が差し込む。

「みんな、私に華やかなクリームソーダを求めてる。でも、大樹の前ではありのままの私でいられた。大樹の前では、水でいられたんだ」

 川の水面が陽光を反射して煌めく。それは、着色料で染められたエメラルド色の飲み物よりもずっと美しく感じられた。

「私も、大樹が好きだよ」

 僕の人生の中で一番幸せだった季節が始まる。
 肌寒さに震えて目を覚ます。幸せだった頃の夢を見ていた。

――私たち、別れよう。

 五年前の今日、はっきりそう言われたはずなのに。

 カラカラに乾いた喉を潤すために、蛇口を雑に捻りガラスのコップに水を注ぐ。まだ波打ったままの水を一気に飲み干した。

 テレビをつけると、天気予報が流れていた。

「本日午後から夕方にかけて、雨模様となるでしょう」

 気象予報士の言葉を軽く聞き流す。画面上部に表示された時刻を見て、僕はチャンネルを変えた。

 ほどなくして春香の主演ドラマが流れだした。社会現象にまでなった漫画が原作の恋愛ドラマだ。画面の中で春香は僕以外の男と手を繋ぎ、抱き合い、キスをする。嫉妬心に駆られながらも目を離せない。そんな経験を幾度となく繰り返してきた。

 部屋中に彼女のポスターを貼り、彼女の出演したドラマのDVDは彼女の台詞を一言一句覚えてしまうほど繰り返し視聴した。あどけない子役時代のものから、僕たちが恋人同士だったわずかな期間のものまで、可能な限り買い集めた。

 普通の女の子の春香は水。名女優の折笠春香はクリームソーダ。みんなが女優の折笠春香を求める中、僕だけが普通の女の子としての春香を見ていたから、僕は春香の特別になれた。なのに、僕は特別を捨てた。

 僕の手から零れ落ちた春香の面影を探して、金魚鉢いっぱいのクリームソーダを飲むかのように無機質な画面の中に女優としての春香を求めた。

 クリームソーダの中で魚は生きていけない。春香が愛してくれた僕はあの日死んだのだ。

 僕のスマートフォンが震える。高校時代のクラスのグループトークに本宮京子がメッセージを送信していた。すぐにそのメッセージにリプライがついた。

「春香のウェディングドレス姿、綺麗だったよね」

「春香、高校の時から早く結婚したいって言ってたよね」

 いくら思い出したところで、幸せな日々は帰って来ないし、あの日をやり直せるわけではない。それでも、僕は五年前を思い出してしまう。

 僕が春香と恋人同士になってからも、僕たちがお互い忙しいと言う事実は変わらなかったが、何とか時間を作ってデートをした。

 スキャンダルやゴシップになるのが嫌だったので、付き合っていることは誰にも言わなかった。僕たちは友達同士だった頃のように振る舞った。

 人が多い目立つところでデートは出来なかった。万が一のことがあると嫌だったので、家に呼ぶこともしなかった。それでも、僕が春香に告白した川沿いを一緒に散歩しているだけで幸せだった。

 家に呼べない代わりに、あのときの金魚はまだ元気だと写真を見せた。いくら恋人になったと言っても、二匹に付けた名前は言えなかった。

 金魚はいつか死ぬし、芸能界の人気は移り変わる。変わらないものなんてない。人の心も変わってしまうかもしれないことが怖かった。僕は川沿いで一度弱音を吐いたことがある。僕は春香と釣り合う人間だとは思えなかったからだ。そのときも春香の言葉を聞けば自然と永遠を信じられた。永遠なんてないと誰より知っているはずの春香は僕に永遠という名の夢を見せてくれた。

 手を繋ぐだけで精一杯だった。指先同士が触れるだけで胸がいっぱいだった。何を血迷ったのか、バニラの香りのする髪に一度だけ触れたことがある。

「春香の髪、いい匂いがする」

「ほんと? 香水とか使ってないんだけど」

 春香は少し考えて答えた。

「もしかしたら、寝る時に枕元でアロマディフューザー使ってるからその香りが移ったのかも」

「そうなんだ」

「うん。冬はバニラの香りのエッセンス使ってるんだ。春は桜の香り」

 またひとつ、春香の新たな一面を知れたことが嬉しかった。

 学校も自由登校期間に入ってなかなか会えない分、会える時間が大切だった。三月になって、僕たちは河原でお花見をする約束をした。春がすぐそこまで来ていた。

 約束の日は三月二十五日。卒業式の翌日だ。付き合い始めて、もう少しで三か月。少し早いけれど、僕は記念にプレゼントを買って張り切っていた。

 卒業式の日、みんなが泣いていた。僕は泣かなかった。春香とクラスメイトではなくなっても、恋人同士だから。これからもずっと一緒にいられると信じていたから。学校が離れたくらいで何も変わらないのに大げさだと思っていた。

 「三年A組の友情は永久不滅」と普段から耳にタコができるほど言っていたくせに、どうしてクラスメイトではなくなることがみんなそんなに悲しいのだろう。友達ならば、好きな人ならばいつでも会えばいいのに。

 校長の話は相変わらず長かった。大人としての自覚だとか、節目だとかそんなあ話をしていたけれど、あくびをかみ殺すのに必死でちゃんと聞いてはいない。それより僕は翌日のデートのことで頭がいっぱいだった。

 しかし、待ちに待った花見の日、突然雨に降られた。二人とも傘を持っていなかったので、急遽普段は絶対に行かない僕の家で雨宿りをした。幸いにも両親は仕事で家にいなかったので、息子に彼女ができたと大騒ぎされることはなかった。
 仕切り直しだ。僕は翌週の都合のいい日を提案した。ちょうど桜が満開になる日を選んだ。

「ごめん、来週は食事会が入ってて」

 春香の言葉に冷や水を浴びせられたような気持ちになる。

「何だよそれ。仕事ならいいけど、食事会なら断ってほしいんだけど」

 多忙なのはお互い様だ。春香は僕が練習や試合でなかなか会えなくても文句を言うことはなかったし、僕はもちろん春香が撮影やそのための稽古を理由に直前でキャンセルになっても責めなかった。でも、食事会はさすがにナシだ。

「仕方ないじゃない。仕事の関係の人との食事会なの」

「食事会だろ? セリフ合わせとか打ち合わせじゃなくて、飯食うだけだろ。ていうか、そういう場ってたぶん酒出るだろ。春香は酒飲まないにしてもさ、彼氏としては彼女が酒飲んでる男と一緒にいるの嫌なんだけど。僕、不安なんだよ。分かってよ、頼むから」

 今思えば、僕は異常なほど嫉妬深かった。当時僕はまだ十八歳だったから、酒という未知のものに対して恐れを抱いていたというのもある。春香は不機嫌な僕に対して明らかに困惑していた。

「だから、これも仕事の一環なんだって。芸能界では人と人との繋がりってすごく大事なんだよ」

「そんなの、実力でねじ伏せろよ! 人生懸けてお芝居やってきたんだろ? コネなんかに頼らないで、芝居で勝てよ」

 僕は駄々をこねた。幼い僕は、社会の仕組みなんて分からず、水泳と同じように実力さえあればチャンスがあって正当に評価されるものだと信じていた。

「何も知らない癖に勝手なこと言わないで! 私が大樹の水泳のことで文句つけたことある? 大樹も私の仕事のことに口挟むのやめてよ」

 珍しく春香が怒った。それはぐうの音も出ないほどの正論で、僕はひっこみがつかなくなった。

「僕と仕事、どっちが大事なんだよ」

 僕の発言は頭の悪い子供そのものだった。春香は僕に呆れたのだと思う。

「理解してくれないなら、もういい」

 春香は立ち上がり、家に帰ろうとする。制止しようと手を伸ばすと振り払われた。謝らなきゃ、そう思ったのに、拒絶されたショックで声が出なかった。

「私は大樹の前では普通の女の子でいられて居心地よかったけどさ、大樹は私と付き合ってると理解できないこととか不安になることばっかりだと思うんだよね。それだと、大樹は辛いだけでしょ」

 春香は悲しげな目で僕の目を見て、はっきりと言った。

「私たち、別れよう」

 春香は僕の返事を待たずに出て行った。これが僕たちの最後の会話。


 付き合っていた頃のことを思い出していた。

 ドラマは終盤に差し掛かり、結婚式のシーンへと移る。ウェディングドレスを身にまとった春香が、相手役の男とキスをして永遠の愛を誓う。僕らが高校生の頃ベストセラーだった漫画『高校生の花嫁』が原作のこのドラマは驚異的な視聴率をたたき出した。

 春香は幼い頃から無常の世界に身を置いていた。世間に飽きられて、スキャンダルに潰されて、あるいは才能の限界を突きつけられて昨日まで隣にいた人が次々と消えていくのが芸能界だ。

 ドラマが終わると次はバラエティ番組の時間だ。春香が司会や他のゲストから口々におめでとうございますと祝われている。

「ありがとうございます。自分はとても幸せ者だと思います」

 マイクを持った春香は、とても幸せそうな顔をしていた。

「自分の一番の長所をあげるとするなら、人との縁に恵まれたところだと思います」

 ドラマや映画のDVDは手に入れやすいが、バラエティ番組の映像はなかなか手に入れづらい。録画しておいてよかった。春香の映っている映像はどんなものでも愛おしい。

「ほんと、酷い話だよね。こんなのってないよ」

 また、クラスのトークルームに新たなメッセージが投下されていた。一瞬目を離したすきに、過去の映像の振り返りからスタジオへと画面が切り替わる。

 黒い服を着た芸能人が次々と春香を語る。

「演技に一切の妥協をしないストイックな方でした。台本の解釈の違いで口論になったことも幾度となくありますが、彼女の姿勢は尊敬していました」

 僕と同い年くらいの女優がそう語った。

「言葉をとても大切にしている人でした。だから彼女の演技は重みがあったのだと思います」

 僕より少し若い俳優が語った。

「芝居の世界に生まれて、芝居の世界を生きて、芝居の世界に骨をうずめたとでもいうのでしょうか。女優になるために生まれてきたような、天性の才を持った方でした。本当に惜しい方を亡くしました」

 大御所らしき人が語った。彼の言葉を聞いて、スタジオにいる何人かが涙を流した。

 テロップには「折笠春香さんを偲んで」と書かれている。春香が十八歳の若さでこの世を去って、今日でちょうど五年になる。