季節は廻り、春。僕たちは二年生に進級したあとも同じクラスになった。

「大樹、おはよう。髪に花びらついてるよ」

 通学路の桜並木で彼女に声をかけられた。この頃には僕たちは名前で呼び合うようになっていた。

「春香こそ背中に花びらついてる」

「えっ、うっそー。どこどこ?」

 体や頭についた花びらを手探りで探すお互いの仕草が何だかおかしくて、顔を見合わせて笑った。

「桜って、なんかいいよね」

「分かる。いいよな」

 僕たちの間にあまり多くの言葉はいらなかった。口数の少ない僕に会話のペースを合わせてくれているのだろうか。春香の気遣いが心地よかった。

 春香は教室では常にしゃべっていた。アドバイスをもらいに来た演劇部の女子に演技とはかくあるべきかを饒舌に熱弁したり、どんなに芸能界の裏事情や人気タレントのあれこれについて質問攻めにされても千手観音が千本ノックをするように華麗に質問を打ち返したりしていた。

 新しいクラスでも春香は常に人気者だった。春の遠足のバスの席割は女子の間で春香の隣の座席の争奪ジャンケンが行われていた。女子たちの鉄壁のガードによって、男子はジャンケンの参加資格がなかった。
 体育の前後の男子更衣室はしょっちゅう春香が可愛いと言うボーイズトークで盛り上がっていた。去年違うクラスだった男子は特に、有名女優と同じクラスという特別な状況に浮足立っていた。

「折笠春香が彼女ですって言ってみたくね? なんなら、週刊誌とかにスクープされてえわ」

「バーカ、お前が芸能人に相手にされるわけがないだろ。折笠の撮影現場、イケメンしかいないんだぞ」

「夢くらい見させてくれよー」

 僕はその会話に混ざることなく、いつも黙々と着替えていた。春香が可愛いということには共感できたが、彼女を芸能人として特別視することにはいまいち共感できなかった。それはきっと僕が、教室にいる春香だけを知っていて、テレビの向こうの折笠春香を知らなかったからだと思う。

 ほどなくして、僕たちの学校は春の遠足でまだ寒さが残る山へハイキングに行った。二列になって川沿いを歩く。雪が融けて水量が増えた小川で魚が跳ねれば、小学生のようにみんながはしゃいだ。

 僕はのんびり川べりに座って、遡上する魚をぼーっと見つめていた。いくら標高が低いとはいえ東北の山ともなると、午前中は大分寒かったが、日が高くなるとだいぶポカポカして気持ちが良い。

「もうすっかり春だね」

 後ろから声をかけられ振り返ると春香がいた。

「そうだな。山の中まで春が来てる」

 僕が答えると、春香が僕の隣にしゃがんで、川の中を指差す。

「春告魚が春を連れてきたんだよ、きっと」

 川の中では桜色の魚が悠々と泳いでいた。

「春告魚?」

「サクラマスのこと、春告魚って言うんだよ。春の訪れを告げる魚」

 僕が聞き返すと、春香は丁寧に説明してくれた。綺麗な桜色をしたこの魚たちはサクラマスというらしい。

「おばあちゃんが住んでるところでは、別の魚が春告魚って呼ばれてるみたいだけど」

「詳しいんだな」

「うん。お父さんが釣り好きだから、色々教えてくれるの」

 春香は少女のように無邪気に話す。

「生まれた川をずっと海まで泳いで下って、荒海に揉まれながらひたすら泳いで、激流を泳いで昇って春に戻ってくるの。一生のうちにどれくらい泳ぐんだろうね」

「泳ぐことが、生きることなんだろうな」

「命を懸けて泳いでるから、こんなに綺麗な色なんだね」

 春香が僕に視線を移す。その刹那、風が吹いて春香の長い髪から桜の香りがした。僕は全身で春を感じていた。

「大樹みたいだね、春告魚って」

 桜色の唇がそう言葉を紡いだ瞬間、トクンと心臓が高鳴った。胸の温かさは、春香が僕の人生の軌跡を肯定してくれた嬉しさだけではない。

 春香の目を見つめ返す。長い睫毛、綺麗な二重、大きな瞳。澄んだ水面のように透き通る
瞳に吸い込まれそうになる。

 暦に少し遅れて、僕の心に春が来た。川のせせらぎの音に混じって、恋に落ちる音が僕の心に響いた。