新しい病院は、前のところとは電車で五駅離れていた。でも、自宅や高校を走る路線バス上にあるので、前より近くなった。やった、毎日来られる。

 二〇五号室。ここが新しい夏希の部屋。

「す~~~、は~~~~」

 どうにも心臓が飛んでいきそうで、ドアの前で思い切り深呼吸をした。隣で五月さんが笑う。そうか、笑っていられる状況なんだ。

 五月さんが軽くノックしてドアを開けた。

「ただいま。類君連れてきたよ」

 中には女性が一人立っていた。何度も挨拶をしたことがある、夏希のお母さんだ。

「まあ、ごめんなさいね。忙しいところをいきなり」
「いえ、こっちこそ助かりました。夏希がここにいるって知らなかったから」

 本当に知らなかった。良い意味で驚かされた。

「さっきね、目を覚ましたの。夏希、類君が来てくれたよ」

 お母さんの言葉に押されて、恐る恐るベッドに向かう。足が震えている。

 ベッドにはこちらに目を向ける夏希が寝ていた。
 どきんと心臓が跳ねる。

 夏希だ。

 生きている夏希だ。

「なつき」

 声も震えていた。情けない。

 でも、仕方がないじゃないか。それだけ嬉しいんだ。

「るいくん」

 掠れた声が返ってきた。きっと久しぶりに喋るから。僕たちは沢山話をしたけれども、あれは夢物語の一部だった。

 もしかして、あの夏希は僕が見た幻だったのだろうか。そんな不安を、夏希の言葉が噴き飛ばしてくれた。

「ただいま。今度はこっちでよろしくね」

 そう言って夏希がふんわり笑った。

 ただいま。ただいまだって! やっぱり夏希はいたんだ。

「おかえり」

 僕も精いっぱいの笑顔で答えた。

 病院に戻ってきた夏希は、もう僕の家には来られないし部活も見られないし、海なんてもってのほかだけれど、僕の前で息をしている。それだけで十分だ。

 それから僕たちは面会時間が終わるまで話に花を咲かせた。第二志望に受かったことを伝えたら、夏希のお母さんも五月さんもとても喜んでくれた。なんだか、家族の一員になった気分だ。

 これから夏希は夕食らしい。起きてすぐには食べられないから、おかゆだって頬を膨らませていた。

「またアイス食べられるよ」
「そうだね」

 翌日、さっそくアイスを買って病院に駆け込んだ。夏希は食事制限が無いので、食べ物を何でも持ち込んでいいらしい。もちろん看護師さんのチェックは入るけれども。

 保冷バッグに入れられたアイスはまだとても冷たい。夏希には万全な状態で食べてもらいたいのだ。
 急いでドアを開けたら笑われた。

「どうしたの」
「アイス買ってきた」
「え!」

 少しクマのある瞳が見開かれる。僕はしてやったりと笑い返した。

「買ってきてくれたんだ。ありがとう」
「僕のもあるから、一緒に食べよ」

 僕のどころか五個も買ってきてあるので、残りは部屋にある小さな冷蔵庫に仕舞った。一緒にいる夏希のお母さんにも一つ渡そうとしたら、お礼とともに後で食べると言われた。

「夏希ね、朝からそわそわしてたの。類君がいつ来るんだろうって」
「もうッ言わなくていいのに」
「はは、走ってきてよかった」

 無機質な匂いの部屋に甘い香りが漂う。

 ゆっくり食べているのを見て、カップ入りのアイスにして正解だったと思う。

 他に食べたい物はないか。見たいものは。

「あの、外に出たりはしてもいいんですか?」

 夏希のお母さんに聞いてみると、中庭までなら大丈夫と言われた。すぐ夏希に振り向く。

「今日はまだ寒いけど、明後日くらいはだいぶあったかくなるんだって。そしたら、一緒に中庭出てみない?」
「うん、行きたい」

 可愛い。今すぐにでも外に連れていきたい。でも、我慢だ。

 今日は大人しく折り紙をした。指先の運動になるらしい。夕方には五月さんも来て、一緒にトランプをした。すごい平和。

 翌日も午前中から夏希のところへ行った。受験の終わった高校三年生は時間があるのだ。しかも、大学が実家から通える距離だから余計に。

 目を覚ましてから六日、僕は夏希に言った。

「明日、卒業式でしょ。夏希の卒業証書をもらってくるから、一緒に卒業しよ」
「うん」

 夏希の呼吸が浅い。このまま別れて家に帰るのが怖かった。

 でも、僕には夏希の分も卒業式に出席するという重大な任務がある。

「また明日」
「うん、また明日」

 僕は彼女のか細い両手をそっと握りしめてから病室を出た。

 明日、僕たちは高校を卒業する。