ぃえっきしょっーーい!

十月になって急に寒くなったからかな。今日はやたらとくしゃみが出る。

「なぁ、今どき、おっさんでもそんな豪快なくしゃみしないぜ」

学食で私の前に座ってる直人が、あきれ顔で私を見てくる。

「そういうところだよ、そういうおじさんくさいところが直らないと、あんたにいつまで経っても彼氏なんかできないんだから」

私の隣に座っている麻衣が、すかさず直人に加勢してくる。

「じゃあ、どうやってくしゃみしたらいいのよ。普通、くしゃみしたら声が出るでしょ」

「クチュン、とかが正解だろ、女子大生としては」

「そんなくしゃみじゃ、鼻汁が逆流するわ」

「ハナジルとか言わない!そういうところ!」

浅井直人と末松麻衣は、大学のクラスメートだ。腐れ縁の幼なじみみたいに気兼ねなく話しているが、実は今年の四月に入学して初めて知り合った友達だ。二人とも口は悪いし、おせっかいだし、いつもはわーわー言い合いばかりしている仲だけど、実は友達になってくれて感謝している。慎重を通り越して臆病すぎる性格の私は、知ってる人が誰もいない大学での生活に入学前からビクビクしていた。麻衣と知り合ったのはクラス分けの最初の席でたまたま横に座ってたっていうよくあるきっかけだけど、麻衣が私との間を詰めるスピードは尋常じゃなかった。いきなり話しかけてきた最初の言葉は、「この後、お昼食べに行かない?」じゃなくて、「この後、お昼何食べる?」だった。私が人見知りを発動する暇なんて一秒もなかった。後で聞いたけど、麻衣が私に声をかけてきた理由は、「しっかりしてそうだからテストで役に立つと思って」だったらしい。そんなことも平気ではっきり言う裏表のなさが、一緒にいて楽なところなんだと思う。

麻衣に誘われるがままに行った学食で、私たちがランチを始めようとすると、「よっ」って言いながらいきなり向かいに座ってきたのが多分さっき同じクラスにいたくらいの認識だった直人だ。麻衣が普通に「ヤッホー」って返事するから二人は同じ高校の出身なんだって思ってたらその時が初対面だって聞いてびっくりした。高校までまともに男子と話をしたことがなかった私は密かにドキドキしていたが、直人は私が醸し出していたはずの緊張感なんて一切気にせずに、席に座ったとたんクラス分けで初めて会った人たちの第一印象をを一人でべらべら話し始めた。ちなみにどうして直人がクラスの中でいきなり私たちに話しかけてきたのかはいまだに聞いたことがない。とにかく、私たちは入学初日に友達になって、お互いの授業のスケジュールが合えばいつも一緒に学食でランチを食べている。私の大学生活が順調にスタートしたのは、多分ちょっと変わっているこの二人のおかげだ。友達になってくれてありがとうなんて絶対言わないけど。

「ねぇ、彼氏欲しいとか思わないの?見た目は悪くないと思うよ、女の私から見ても。もうちょっと色気を出したら、夏までにいい人ができたかもしれないのに」

麻衣がわざとらしくため息をつく。麻衣は今の彼氏が大学に入ってから既に三人目のスゴ腕・肉食系。その輝かしい実績を前にすると、返す言葉もない。

そこに直人がまぜっかえす。

「逆じゃん。いい人ができたら、色気が出てくるんだよ」

気持ち悪い。色気が出てきた自分を想像したら鳥肌モノだ。

「ねぇ、そういういい人、いないの?かっこいいなぁとか、一緒にいたいなぁとか人生で一度も思ったことないの?そんな人生、何が楽しいの?」

「失礼な!あるわ、そんなことくらい!あるけど、大体そういう人には彼女、いるもん」

直人が、指を鳴らして、「それだ、それが問題なんだ」と斜に構えた姿勢で、私に言ってくる。こういうキザっぽいところが最初はうざかったけど、今はただただ放置しているので気にもならない。

「鞦韆《しゅうせん》は漕ぐべし、愛は奪ふべし」

すっごいいいでしょ、この言葉、と身を乗り出してくる直人に、私と麻衣が同時に「は?」と聞き返す。三人とも文学部だが、文学への興味は直人が圧倒的で、私は普通、麻衣は全く興味が無い。

「なんて言った?せんしゅう?」

「しゅうせん。鞦韆って昔の言葉でブランコの意味なんだって。ブランコは漕ぐべし、愛は奪うべし。昨日、本屋で句集をパラパラ見てて出会ったんだ。めっちゃいいよね、この俳句」

「ごめん、全然、良さが分からないから、説明してくれる?」

と聞きながら、麻衣はスマホから目を離さない。多分、句集という言葉を生まれて初めて聞いたはずだ。

「説明ったってさ、つまり、ブランコはガンガン漕ぎなさい、そしてブランコをガンガン漕ぐみたいに、好きになった人の愛はドンドン奪いなさいってことだよ。だから、いい男に女がいるくらいであきらめちゃだめっていうこと」

あ、そういうこと、だったら分かるー、と平たい声で答えた麻衣が、急に1オクターブ上の声でヤッホー、と言いながら手を振り始めた。手を振っている相手は、私が知らない男の子だ。

「あれ?めっちゃいい男じゃん、あれも食っちゃったの、麻衣?」

直人が、得意の愛嬌いっぱいの笑顔を作って手を振ってる麻衣を冷やかす。

「食べてないよ。ジョニーね、あんまり女に興味ないみたいなんだ。イケメンなんだけどね」

「ジョニー?ハーフ?」

「ううん、違うけど、顔がジョニーっぽいからみんなにジョニーって言われてるだけ」

あ、ジョニーが来るよ、と麻衣が言ってるうちに、その男の子が私達のテーブルにやってきた。

「麻衣ちゃん、最近、サークル、来ないじゃん」

「あぁ、映研、行けてないんだぁ。ちょっと忙しくてね、ごめんごめん」

映画研究会の友達か。麻衣はいくつかサークルを掛け持ちしてるけど、その目的は男と出会うためだけだ。最近、新しい彼氏ができたばっかりで出会いは必要ないから、麻衣が映画研究会なんかに行くわけがない。麻衣は文学にも興味ないけど、映画にも興味がない。フィクション全般に興味がない。興味があるのは、リアルな恋愛だけだ。

「映画研究会で一緒の岡部涼太くん。みんな、ジョニーって呼んでるけど。こっちは同じクラスの浅井直人くんと。。。」

麻衣が私のことを紹介しそうになったので慌てて自分で名乗る。

「あ、あの鈴木です」

「鈴木うさぎでーす」

名前を言うな、直人!だからわざわざ自分で名字だけ名乗ったのに!

私はこの「うさぎ」っていう名前が大キライ。小学校で男子にからかわれて、半泣きでお母さんになんでこんな名前にしたのって聞いたときに、「私もお父さんもうさぎ年生まれだから」って言われて、本気で大泣きしたのを覚えている。気合が入り過ぎたキラキラネームもイヤだけど、こんな無気力な命名はもっとイヤだ。自他共に認める可愛げのない性格に不釣合いなこの名前がほんとにうっとうしい。いつか名前を変えてやろうって、小さいときからずっと思ってる。

「え、うさぎさんっていうの?」

ジョニーがなんだか知らないけど異常に目を輝かせてくる。
確かにジョニーって言われるだけあって、目鼻立ちがきれいだ。ハーフって言われても、そうだろうなって思うくらい。
でも、ジョニー、「うさぎ」に食いつき過ぎだ。あぁはい、とだけ返事して、思いっきり直人をにらんでやった。

「麻衣ちゃん、部長のラインみた?明日の集まりは絶対来てって言ってるよ」

ジョニーが麻衣に声をかけながら私ににこっとしてきた。名前を知られたのも恥ずかしいし、笑顔を向けられるのも恥ずかしい。思わず下を向いてしまう。

「えー、そんなの見てないよー」

麻衣が慌ててラインを見始める。麻衣は私のラインもスルーが多い。映画研究会のグループラインなんて絶対見てないだろう。ジョニーは麻衣に「じゃあ明日ね」って言った後、私と直人にもじゃあね、と声をかけて学食を出て行った。調子のいい直人は「おお、またな」と素早く返事していたが、私はどんな風に返事していいかわからず、結局小さく手をあげただけになってしまった。ぐずぐずな自分が恨めしい。

「あれあれ、ジョニー、うさぎに好反応じゃん。ねぇ、ジョニーって彼女いるの?」

「ううん、彼女いないはずだけど、ジョニーってそういうのに興味ないみたい。映研の女の子たちが誘っても全然乗ってこないんだ」

「うさぎ、いけよ、ジョニー!あいつ、うさぎに興味ありそうだったぜ!」

「名前に興味があるんでしょ、名前に。ていうか、直人、勝手に私の名前、言うなよ!」

私が直人をにらみつけていると、麻衣が私の肩にすり寄ってきた。これは私に何か頼みがあるときのサインだ。必要がない限り、麻衣は女に甘えることはない。男でも例えば直人に甘えることはない。必要な人間に必要なタイミングで甘えるだけだ。

「なになに、また何かあるの?」

「あのさ、うさぎってさ、明日の夕方空いてるよね?」

「なんで空いてる前提よ」

「だって基本、毎日空いてるじゃん」

その通りだ。

「ごめん、私の代わりに映研の集まりに行って!」

「なんでよ、なんで私が行くのよ、麻衣が行けないなら、行けないって言っとけばいいじゃん」

「それがね、なんか『とても大事なことを決めるので必ず来てほしい』って部長が書いてきてるの。気まずいじゃん、そんなときに行ってないと。ただでさえ十五人くらいしかいないのに。代わりで行ってくれてたら目立たないから」

「目立つでしょ、十五人しかいないのに知らない子が来てたら」

「うさぎ、行けよ!ジョニーと仲良くなるチャンスじゃん!」

関係ない直人がけしかけてくるから、もう一度にらんでやる。

「ねぇ、お願い。さっき夏が終わる前にハーゲンダッツ食べたかったなぁって言ってたよね。私がおごる!明日おごるから」

ハーゲンダッツは確かに食べたい。

「明日の夕方、彼氏と会うんだ。付き合い始めて一か月も経ってないのにドタキャンできないじゃん。今が大事なの、わかるでしょ」

「あ、それ、多分、うさぎは分かんないと思うよ。男と付き合ったことないから」

「それくらい分かるわ!分かったから行くよ!絶対、ハーゲンダッツだよ!」

***

ーー 西館の203教室だから 部長には代わりの子が行くって言っておいた ジョニーにも言ったし じゃあよろしく!

麻衣は結局、今日は大学に来なかった。代わりに短いライン一本きり。ハーゲンダッツはどうなった?昨日、直人の言葉にカチンときて、反射的に行くと言ってしまったことを激しく後悔する。

集合時間は午後四時。まだ始まるまで十五分もあるけど、もう西館の前まで来てしまった。西館なんかほとんど行ったことなかったけど、実は昼休みに203教室がどこにあるか下見したからあと一分で教室には着いてしまう。遅刻は絶対したくなかったけど、かといって知らない人ばっかりの教室でぽつんとしてるのも気まずい。仕方がないから西館の入り口からちょっと離れた中庭で時間をつぶすことにした。朝からこの集まりのことが憂鬱で気がつかなかったけど、空を見上げると今日はきれいな秋晴れだ。ポコポコと浮かんでいるうろこ雲を見ていると深呼吸したい気分になる。

「うさぎさん?」

深く息をしたところで声をかけられたのでびっくりして横隔膜がつりそうになった。
振り返ると、ジョニーだ。美術の教科書に出てた古代ギリシャの彫刻みたいなこの顔は、一回会えば忘れない。

「早いね!来てくれてありがとう」

ううん、っていう声が声にならない。手だけ小刻みに振ってる気味の悪い女の子になってしまっている。

「203教室だけど一緒に行く?いいかな?」

ジョニー、顔は濃い目で男性的だけど、話し方はどことなく中性的だ。

「麻衣ちゃんと同じクラスだったら文学部でしょ?じゃあ西館、あんまり来ないよね?203教室って言われても分からないでしょ?」

まさか昼休みに下見してたとは言えない。どれだけ小心者なんだって思われる。

「う、うん。あの、学部は?」

「僕、経済学部。でも経済なんか全然興味ないんだ。文学部にすればよかった。転部しようかな」

ここが203教室、と言われて入ると十人くらいはもう座っていた。見知らぬ顔の私がジョニーと一緒に入ってきたから、一斉に注目を浴びたような気がする。むしろ先に一人で教室に入っておけばよかったかな。でも、それだと関係ない子が間違えて教室に入ってるみたいだし。そもそもサークルの集まりに代理が行く、っていうのがおかしいんだ。麻衣のせいだけど、けしかけた直人はもっと悪い。

「部長にあいさつしとく?」

教室に入って誰が部長なのかはすぐに分かった。教壇のところに座っているファッションなのかただ散髪してないのかわからないけどとにかく髪がすごく長いあの男の人に違いない。人を見かけで決めたらいけないけど、いかにもマニアックな映画を見てそうな感じの人だ。

「高橋さん、今日、麻衣ちゃんの代わりに来てくれているうさぎさんです」

「あ、あの鈴木です」

ジョニー、いきなり名前で紹介するのはやめてほしい。

「え、うさぎさんですか?それとも鈴木さんですか?」

「。。鈴木うさぎです」

鈴木さん、うさぎさん、鈴木さん、うさぎさん。。。頭をかきむしりながら高橋さんが念仏のように繰り返す。大丈夫かなこの人、と思って見ているといきなり顔をあげて、びっくりするくらい大きな声を出した。

「うさぎさんだ!」

別にどっちで呼んでくれてもいいけど、そんな大々的に宣言しなくていい。後ろからくすくす笑いが聞こえてくる。

「うちは見ての通り十五人くらいの弱小サークルですが、こんなに少なくても鈴木さん、っているんです。やっぱり、鈴木って名前は偉大だ。日本で一番多い名字ですよね?違いましたか?」

多分、一位は佐藤さんだ。でもそんなことはどうでもいい。ただただ早くこの教室から出ていきたい。

「そういうことなので、うさぎさんのことはうさぎさんと呼ぶことにします。今日からよろしくお願いします」

丁寧に頭を下げられたので、慌ててよろしくお願いします、と答えて席に着いた。隣の席に座ってくれたジョニーが「ちょっと変わってるけど、悪い人じゃないから」と笑いながらささやいてきた。百人中百人がこの人を形容するときにはそう言うだろう。時間なのでそろそろ始めます、と言いながら高橋さんが教壇から立ち上がった。

「えー、今日はすごく大事な話があるんだけど、その前にもっと大事な話があります。今日から我々に新しい仲間が加わってくれました。うさぎさんです!」

どうしよう。呼び方なんかほんとにもうどうでもいい。さっき「今日からよろしく」って言われた時もいやな感じがしたんだけど、なんか私、入部することになってるの?ジョニーも隣でイエーイと言いながら笑って拍手している。他の人たちもみんな笑顔で拍手だ。もう引き下がれない。立ち上がって、よろしくお願いします、とだけあいさつした。

「しまった、僕は今、大事なことを言い忘れました」

突然、高橋さんがまた頭をかきむしり始めた。何かとてつもないことをしでかしたかのように顔が歪んでいる。

「今、僕は何の説明もなくうさぎさんって言ってしまって、なんだ高橋、なれなれしいな。こいつもしかしたらこの女性に気があるんじゃないか、って思った人がいるかもしれない」

恐る恐る周りを見てみるとみんな下を向いて笑うのをこらえている。そうだよね、この人、相当変わってるよね。

「断じて、僕はうさぎさんに気があるわけではありません!うさぎさんは本名が鈴木うさぎさんです。我々にはすでに鈴木のぞみさんという仲間がいるので区別するためにうさぎさんのことはうさぎさんと呼ぶことにしただけです」

待てよ、でもそれなら鈴木さんのことものぞみさんと呼ぶべきなのか、と壇上で高橋さんが一人で考え始めた。おそらく鈴木のぞみさんであろう人が半笑いで、私は鈴木でいいです、と声をかける。人生でこれほど鈴木さんと呼ばれる人のことをうらやましく思ったことはない。でも何より名前の話をもう終わらせてほしい。この五分くらいの間に十回以上うさぎさんと呼ばれたので、頭から耳が生えてきそうな気がする。

「そうですか、わかりました。じゃあ鈴木さんは鈴木さんで。で、うさぎさんはうさぎさんで。それでは、次の大事な話を皆さんにします」

高橋さんがより一層、神妙な顔つきになった。ジョニーも隣でちょっと姿勢を直している。事情が一切分かっていない私もつられて少し緊張する。

「単刀直入に言います。来週、学園祭がありますが、その中のサークル対抗歌合戦の司会を我々、映画研究会が担当することになりました」

部員のみんなが口々にえーっ、来週だよね、と驚いている。

「そう。来週なんです。実は本当に申し訳ないことに先月から映研がやることに決まっていました。僕がくじに負けてしまった。申し訳ない。でも僕は責任を取って自分でやろうと思っていたのですが、実はこの一か月で僕にすごくいい曲ができてしまって。。いや自分で言うのも何なんですが、本当にいい曲が僕に降りてきて」

部長ってギターも趣味で自分で歌を書いたりしてるんだ、とジョニーが小声で私に教えてくれた。確かに違和感はない。道端でギターケースの前で絶叫している姿がありありと目に浮かぶ。

「実行委員会に司会と出演とどちらもやっていいか、と聞くとそれはだめだと。過去にそういうサークルがあって滅茶苦茶になったから司会と出演者は分けてほしいと。さらに実行委員会から可能であれば司会は一年生にやってもらいたい、今年はコロナ明けでフレッシュな感じが欲しいので、と言われました」

部員がざわめき始める。多分、二、三年生の人たちはほっとした感じになっていて、顔を見合わせている人たちはきっと一年生だ。

「申し訳ない!僕はどうしても今年は自分で歌いたい。ほんとに申し訳ないが、一年生で司会をやってほしい。男女二人のペアがいいと実行委員会に言われてるので、ぜひそうしてほしい」

「ちょ、ちょっと待ってください、一年生の男って僕だけじゃないですか!」

ジョニーが立ち上がる。

「ジョニー、そうなんだ。君だけなんだ。でも君には華がある。僕が言うのもなんだけど、君は適任だ。多分、みんなもそう思ってる」

周りのみんながうなづいている。ジョニーがちょっとかわいそうだけど私もそう思う。

「で、女性の方だけど、もう日がない。やりたい人もいないだろうから今日この場でじゃんけんで決めてもらえないだろうか?青木さん、北野さん、中野さん、あとうさぎさん」

思わず私も立ち上がってしまった。

「わ、私もですか?」

「もちろん。今日から仲間に入ってもらったのだから、うさぎさんにもぜひじゃんけんに入ってもらいたい」

***

「はい、うさぎさん、ハーゲンダッツですよん」

麻衣が生協で買ってきたハーゲンダッツを私の目の前に置いたらしい。重力に抗う気力も消え失せてただただうなだれた頭をちょっとだけ上げると一応私が大好きなグリーンティーを買ってきている。でもそんなことでは到底許されない。ていうか、今日は曇り空で肌寒い。せめて快晴だった昨日だったらもっとおいしく食べれたのに。
そう、昨日はあんなにいい天気だった。映研の集まりは憂鬱だったけど、うろこ雲を見てほっこりした気分になったりしていた。気づいてなかったけどあの時私は幸せだった。中庭で深呼吸していたあの時に戻りたい。あの時の私に「じゃんけんは絶対グーを出すんだよ」と教えてあげたい。

「これから大学にいる間、毎日買ってきてよね」

「さすがに悪いなとは思うけどさ、でもさ、うさぎもよくないよ。私だったら絶対言うよ、『私は代理ですから』って。だって、私、代理を頼んだだけじゃん。映研に入ってくれなんて言ってないじゃん」

分かっている。悪いのは私だ。あの長髪ボサボサ部長が「新しい仲間」なんてほざいたときにちゃんと代理です、って言わなきゃいけなかった。その上、運まで絶望的に悪い。分かってるから八つ当たりしたくなる。

「ていうかさ、こんなラッキーなことないぜ。だって入部即、イケメンジョニーと二人で歌合戦の司会だぞ。ステージ上でさ、二人の気持ちがどんどんどんどん近づいてさ、これこそ正にラブチャーンス!」

「殺すぞ」

本気だ。そもそもお前がけしかけたからこんなことになったんだ。考えてみたら一番悪いのは直人だ。

「いや、俺は断言するね。一年後、いや半年後、うさぎは俺たちにハーゲンダッツをおごることになる。『ジョニーと付き合えたのって、麻衣と直人のおかげだよ』って」

ふざけんな!って叫んだ次の瞬間、麻衣がヤッホーと男向け専用の声を出した。慌てて振り向くと、やっぱりジョニーがこちらに歩いてきている。

「あ、やっぱりうさぎさんだ!ねぇどうする、やばいよね」

よかった、とりあえず私の罵声は聞こえていなかったらしい。

「ジョニー、ここに座れよ。来週、歌合戦で司会やるんだろ?」

「そうなんだよー。なんか盛り上がる方法ってあるのかな?僕、そういうの苦手なんだ」

「よーし、じゃあ今から作戦会議しようぜ」

「ありがとう!直人くん、そういうの得意そうだもんね」

直人とジョニーはいつの間にそんなに仲良くなったんだ?それとも二人とも異常になじむのが早いだけなのか?もしかしてなじんでないのは私だけ?そして、なんでジョニーはそんなに司会に前向きなんだろう?いろいろ今の事態に着いていけていないから、とりあえず冷たいハーゲンダッツを食べて頭を冷やすことにする。

「やっぱさ、つかみは名前だよな。まずジョニーはジョニーって自分で名乗るじゃん」

「分かった、いいよ。ジョニーね」

「おい、名前をネタにするのは絶対いやだからな」

思いっきりドスの効いた声ですごんでやる。内弁慶な私の汚い言葉遣いがジョニーにばれるのはいやだけど、もうそんなことは言ってられない。

「何でだよ。何のためのそのファニーな名前だよ。ここは当然『うさぎだぴょん!』だろうが。こんな便利なつかみないぞ」

「痛い子、って思われるだけに決まってるだろ」

「いいんだよ、痛くって。ステージの上だぞ。キャラだろうが、キャラ」

「キャラじゃないわ、こちとら、本名じゃ」

向かいでジョニーが爆笑している。

「やっぱ、うさぎさんって面白いんだね。麻衣ちゃんが『うさぎは猫かぶるのやめたら面白いから、映研にも合うよ』って言ってたんだ」

「え、それいつ言ってたの?」

「うさぎさんが入部してくれる前の日」

「麻衣!あんた、初めから私を映研に入れるつもりだったの!」

ジョニー、私そんなこと言ってないよー、と麻衣がジョニーにあわてて甘え声を出す。

「ま、とにかく、うさぎは『うさぎだぴょん』な。恥ずかしがるなよ、振り切っていけよ」

その後も直人が繰り出す珍案にあきれたり腹を立てているうちに、結局収拾がつかないまま時間切れで私たち四人はそれぞれの授業に向かった。授業に出ても学園祭のことが気になって先生が言ってる内容なんて一ミリも頭に入ってこない。ただ座っているだけの授業が終わって大学から帰るころには外は曇り空から雨になっていた。私の涙雨かもと思いながらとぼとぼ駅に向かって歩いていると、後ろから走ってくる足音がする。

「うさぎさん、帰るところ?」

今、私のことをうさぎさん、と呼ぶのはジョニーしかいない。

「ねぇ、うさぎさんってどっち向きに帰るの?」

「え、どっち向きって、井の頭線」

「あのね、すっごいいきなりなんだけど、もしかして三鷹近辺に住んでる?」

いきなりすぎる。確かに私は生まれも育ちも東京都三鷹市だけど、なんでそんなことを聞いてくるのだろう?で、なんで知ってるんだろう?

「そうだけど、なんで?誰かに聞いた?」

「そう。誰かに聞いたんだ」

ジョニーがいたずらっぽい顔で私に笑いかけてきた。昨日、今日でだいぶ慣れてきたと思ってたのに、また急に恥ずかしくなる。慌てて伏せた目を恐る恐るもう一度上げてみると、まだまっすぐな視線が私を向いている。逃げ出したいくらい恥ずかしいけど、実はこのまま一緒に歩きたい気もちょっとしている。でも駅が目の前だ。

「あ、あの、どっち?」

「僕、東なんだ。千葉の方」

そっか。ちょっと残念な気もしたけど、これ以上電車まで一緒だと多分耐えられない。じゃあって言いかけると、ジョニーがまた私に笑いかけてきた。

「ねぇ、僕のこと、みんなみたいにジョニーって呼んでくれる?」

「あ、あ、そっか、そうだね、分かった。そうする」

「あと、僕はうさぎちゃんって呼んでいい?」

「え、いや、いいけど、別にうさぎ、だけでもいいよ。麻衣も直人も呼び捨てにしてるし」

「ううん、うさぎちゃんがいいよ。かわいいじゃん」

「。。大嫌いなんだけど、この名前」

「なんで?絶対かわいいよ、うさぎちゃん」

体中の血液が一気に駆け上がってきた。絶対、私の顔は真っ赤になってる。そう、ジョニーは名前がかわいいって言ってるんだ、名前が。落ち着け、私がかわいいんじゃない。

「あのさ、歌合戦が終わったらゆっくり話したいんだけどいいかな?」

もう限界だ。血が頭から吹き出るかもしれない。うん、わかった、じゃあねって言い残して、逃げるように井の頭線の乗り口に走っていった。改札口の前まで来てこっそり後ろを向くとジョニーの後ろ姿が左向きに消えていった。なんで逃げちゃったんだろうって井の頭線の電車の中でずっと後悔していた。

***

時間ってなんでこんなに平等なんだろう。待ち遠しい予定は今すぐにでも来てほしいのになかなか来てくれない。来てほしくない予定は何なら永遠に来なくてもいいのにしっかりやってくる。ちょっとは気を使って加減してくれたらいいのに。学園祭なんかマジで中止になってほしかったけど十月は台風が来るには少し遅すぎるし、大雪にはだいぶ早すぎる。絶対ダメなんだけど何か未知の病気がもう一度流行すればいいとまで思ったけど、そんな病気が都合よく急に現れるわけもない。

先週末にまた映研の集まりがあるというので仕方がないから行ってみた。入学した時からもともとサークルなんかに入る勇気はなかったけど、入ったら入ったで今度はサボる勇気がない。つくづく自分の意気地のなさがいやになる。恐る恐る例の203教室に入ってみると、私の不遇ポイントがたまりすぎてるからか、私が教室に入った瞬間、みんながうさぎさん、うさぎさんと寄ってきてくれた。一年生女子の三人からは「この後、大学近くのカフェに行こうよ」とお誘いまで受けてしまった。このサークルに入ってよかったとまではまだとても思えないけど、何かいつもと違うことが起きるときはイヤなことだけじゃなくていいこともあるんだな、ってちょっとだけ思った。
私は大学で話ができるような先輩もいなかったから、学園祭のサークル対抗歌合戦、っていうのがどんなイベントなのか全然知らなかった。恐る恐る映研の先輩方に聞いてみると、大体の出演者がウケ狙いで出ているお祭りのような雰囲気らしい。

「うちの部長みたいにガチで歌うつもりの人なんかほとんどいないから」

「だから、別に司会の人が頑張って盛り上げようとかしなくても、勝手に出演者が盛り上がってるから大丈夫だよ」

「酔っ払いの宴会みたいだよね」

酔っ払いの宴会の中でしらふのジョニーと私が二人で壇上に突っ立っているのはそれはそれで辛そうだ。

「あの、どれくらい人はいるんですか?」

「あぁ、人はまぁまぁ入ってるよ。各サークルが応援に来るし、講堂の八割くらい埋まっているかな」

そんな話を聞いていた後の学園祭当日。舞台袖からこっそり客席を見てみると、まだ始まってないのにもう半分くらいは人が座っている。

「どう?人、いっぱい?」

私の後ろからジョニーも顔を出してきた。後ろ側だけど、ジョニーとの距離が近づいてちょっと緊張する。今日の衣装は実行委員会もちということで、事前に私たちの希望を聞かれていた。ジョニーが直人の意見を聞こうっていうので、いやいや聞きに行くと、「ジョニーはアイドルっぽい金色のスーツとかじゃない?うさぎは絶対うさぎのバニーガールだろう」。私はガチでいやだったのでうさぎの耳だけにしたけど、ジョニーは素直に従って、今日は金色のスーツを着ている。他の男子だったらただの面白になるだけだけど、ジョニーが着ると普通にかっこいい。これが直人の狙いだったのかどうだかわからないけど。

「どうかな?盛り上がってくれるかな?」

「先輩はみんな酔っぱらってるって言ってたけどね」

いよいよ開始直前になった。もうどうでもいいやと思いながらうさぎの耳を着ける。こんなことならいっそのこと、顔が見えないうさぎの着ぐるみでも着ればよかった。

「あー、うさぎちゃん、かわいい!」

ジョニーは何でもほめてくれるけど、どう見ても華があるのはジョニーの方だ。私は二時間、ひっそりとジョニーの横に立ってればいいや。そう思って舞台袖で待機していると、突然ジョニーが耳元でささやいてきた。

「ねぇ、うさぎちゃん、ステージに出ていくとき、手をつないでもいい?」

「え、え、なんで?」

「そっちの方がなんか客席が盛り上がるかなって思って。それに僕も安心できるし」

開始です、司会のお二人、よろしくお願いいたします、の声がかかった。ジョニーの手が横から出てきたので考える暇もなくその手をつないだ。ステージの真ん中まで進んでいってスポットライトが当たると緊張感がマックスになる。隣でジョニーが小声で、行くよ、と声をかけてきた。

「皆さん、こんにちは!今日、司会を務める映画研究会のジョニーでーす!」

すごい、ジョニー。完全にやりきってる。左手を上げながら王子様ポーズだ。客席からは一斉にジョニー、ジョニーと声がかかる。覚悟を決めた。私も振り切るしかない。

「同じく映画研究会の、うさぎだぴょん!」

あーすべった、と思った次の瞬間、客席から一斉に笑い声とうさぎちゃーんの掛け声がかかった。横でジョニーがイエーイと叫んでいる。よかった。まだ何も終わってないけど、さっきの吐きそうな緊張感が一気に解けた気がした。

***

明太子スパゲティをトレイにのせて、学食の向かって左側、奥の席についた。いつもの席でいつものメニュー。週のうち、三回は明太子スパだ。たまには違うパスタにしたら、と直人によく冷やかされる。パスタも男も試してみなきゃわからないよ、と麻衣は私には縁遠い哲学を披露してくれる。単に新しいメニューに挑戦して失敗するのが嫌なだけなんだから放っておいてほしい。ランチを選ぶときにまで自分の臆病さにうんざりしたくない。でも今日はそんな突っ込みを入れてくる直人も麻衣も大学に来ていない。朝から感じていたちょっと寂しい気持ちが、一人でパスタを食べていると余計に増幅されてしまう。

学園祭が終わって二日が経つ。もともと学園祭当日、大学に来るつもりすらなかった。なのに想像もしない形で参加する羽目になって、でもそれが終わると何だか寂しい気持ちがしてくる。そういえば学食に座ってる人みんながそんな気持ちになっているようでなんだか変に静かだ。気が付けば十月も終わりになって太陽の光もおとなしくなっていて、それすらなんだか寂しい。宴のあと、ってこんなことを言うのかもしれない。

映研の先輩が言ってた通り、出てくる出演者みんな、お酒が入ってるのかどうかはともかくものすごいハイテンションでステージに上がってくるので、司会の私たちが無理して盛り上げる必要なんか全然なかった。みんなハロウィンの予行演習みたいに奇抜な格好で現れるので、これだったら私がバニーガールになってても違和感なかっただろうなって途中で少し思った。そんな中で普通のTシャツ・ジーパンで誰も知らないオリジナル曲を熱唱した高橋部長は、ある意味で一番目立ってた。歌い終わった後は感情が高ぶったのか、ジョニーと私にありがとう、ありがとう、君たちのおかげだと泣きながら握手をしてきて、出演者の中でたった一人の知り合いだったけど、出演者の中で一番絡みづらかった。

そんな嵐のような時間が終わったから、反動で寂しい気持ちがしてるのかもしれない。でも寂しいのは多分もう一つ理由がある。それはきっとあの後ジョニーと会ってないからだ。歌合戦が終わって実行委員会の人から打ち上げに誘われたのだが、人見知りの私にはハードルが高すぎて断ってしまった。人当たりのいいジョニーは打ち上げに行って、その時にまたね、と別れたきりだ。考えてみたら連絡先も知らないからジョニーと話すには大学で偶然会うしかない。だから、今日は麻衣も直人もいないのがわかっているのにあえて学食に来てみた。さっと見渡したけど、ジョニーはいない。もしかしたらこの後来るかもしれないから、ちょっとゆっくり目に明太子パスタを食べてみる。

ジョニーについて気になっていることはたくさんある。最初に会ったとき、直人も言ってたけど、確かにジョニーは私に興味がありそうだった。名前に興味があっただけかもしれないけど、とにかく興味がありそうだった。その後も気さくに話してくれるし、優しいし。でもそれは私だけじゃなくて誰にでもそうなのかもしれない。そうだとしても「歌合戦が終わったらゆっくり話そう」って言ってたのは何なんだろう。麻衣はジョニーは映研の女の子の誘いに乗ってこないって言ってた。でも私はむしろ誘ってくれてる。なんでだろう。

一番気になって仕方がないのは、あの日ステージに向かう時に手をつないだことだ。ジョニーのことを思い出すたびに、あの日の手の感触を思い出してしまう。司会の緊張だけでもすごかったのに、いきなり手をつないだりしたから、もしかして私、手汗がやばかったかもしれない。ジョニーは手をつなぐと落ち着くなんて言ってたけど、私は卒倒するかと思った。コーコーセーかよ、と自分で自分に突っ込むが、高校生の時に恋愛どころかまともに男の子を好きになったりしていないのだから仕方がない。ジョニーの手の感触を思い出しているうちに思わずパスタを丸めるフォークをぎゅっと握り締めてしまって、私何やってんのと思わず苦笑いしてしまう。

「あー、うさぎちゃん、何か思い出し笑いしてるの?」

へっ、と変な声が出てしまった。目の前にジョニーだ。

「うさぎちゃん、一人?座っていいかな?」

何なら待ち構えていたくせに、いざジョニーが目の前に座るとまた心拍数が跳ね上がる。

「歌合戦、楽しかったねー」

「う、うん、まぁ終わってみたらね」

「うさぎちゃんの『うさぎだぴょん』、めっちゃ受けてたもんね」

「ジョニーがその前に思いっきりやってくれたからだよ」

「そう、直人くんにね、『この衣装で王子様のポーズしたら、絶対受けるから』って言われてたから。すごいよね、直人くん」

直人がすごいとは思いたくないけど、ともかく出だしがスムーズにいったのは事実だ。

「王子様ポーズ、よかった」

「だって、僕、王子様だもん」

ジョニーは冗談っぽく言ってるけど、ほんとに似合ってたからあまり冗談に聞こえない。

その後、学部のこととか、映研の他の人のこととか、いろいろなことを話した。知り合ってすぐに歌合戦の司会が決まって、その後歌合戦の話しかしてなかったので実は普通の話をまだしたことがなかった。気が付けば、授業が始まる時間が近くなってきていた。

「あー、こんな時間だ。うさぎちゃん、この後授業?僕は出なくてもいいやつなんだけど」

「あ、うん、私も出なくていい」

ウソだ。第二外国語の中国語だから出席が取られる授業だ。大学に入ってから授業をサボったことなんて一回もないのに、とっさに「出なくていい」なんて言う自分にびっくりした。でも、「ほんと、じゃあもうちょっと話していい?」と嬉しそうに言うジョニーを見ると中国語の一回や二回なんてどうでもよくなる。麻衣なんかもう五回はサボってるし。

「あのさ、前に三鷹に住んでる?って聞いたでしょ?」

そう。それも気になっていたことの一つだ。なんでそんなことを知ってるんだろう?

「ねぇ、もしかして、中村彩夏って子、知ってる?」

「彩夏なら、高校の友達だけど」

「やっぱり!僕ね、あやちゃんと中学のとき、友達だったんだ。あやちゃんがまだ千葉にいたとき」

そういえば、彩夏から中学の途中まで千葉に住んでたって聞いたことがある。

「僕、転校してからもあやちゃんとラインで時々やり取りしててね、高校の仲良しがうさぎちゃん、って名前だって知ってたんだ。で、うさぎちゃんが高校がある三鷹に住んでるってのも覚えてたから、もしかしたらそうかなって思って」

だから、私の名前に、異常に食いついてきたのか。。。

それから、気が付けば一時間くらい、ずっと二人で彩夏の話をしていた。

ジョニーと彩夏が仲良くなったきっかけは、中学のとき、二人ともタロット占いにはまってたから、らしい。
彩夏からタロットの話を聞いたことは一度もないので、多分、黒歴史なんだな。
今度、彩夏に聞いてみるわ、って言うと、ダメだよ、怒られるからぁ、と言いながらジョニーが目の前で顔を真っ赤にしている。

私の名前を覚えてるくらいだから、彩夏のエピソードは細かいことでも、よく知ってる。
高一の運動会で、彩夏がリレーのバトンを落としたこととか、高二の秋に北海道に行った修学旅行で外国人にナンパされた話とか。
よく覚えてるねぇって言うと、また顔を真っ赤にする。

かわいいな、ジョニー。
男の子と話してて、かわいいって思ったの、初めてだ、多分。
例えば、直人も実はそこそこのイケメンのはずだが、奴と話していて、かわいいとか思ったこと、一度もない。
心が揺れる。何なら痛い。ジョニーの興味は彩夏だったんだ。

「でもね、その修学旅行が終わったくらいからはあんまり知らないんだ。あやちゃんからラインが返ってくるのが遅くなってきたから、僕からもあんまり送らないようにしたんだよね」

彩夏、わかりやすいな。

ちょうど修学旅行が終わったくらい、高二の秋から彩夏は彼氏ができた。最近は聞いてないけど、多分今でも続いてるはずだ。

「ねぇ、あやちゃんって、彼氏いた?高校のとき?」

ジョニーが、まっすぐな目で私に聞いてくる。多分、これが一番私に聞きたかったことだ。

「うーんどうかな?いなかったと思うよ」

なんで、嘘ついちゃったのか、わからない。でもなんとなく、そんなふうに答えてしまった。

***

学園祭が終わって一か月が経った。十一月も終わりになるとキャンパスに流れる空気も電車や町の雰囲気もすっかり冬めいてくる。寒いのは嫌いなんだけど、まだ今くらいの寒さだったらかわいい冬服も着ることができて楽しいくらいの気持ちでいられる。
クリスマスなんてこれまで全然興味なかったし、今も別に何か予定があるわけじゃないんだけど、今年はなんとなくそわそわしている感じがする。クリスマスに彼氏とどこに行くかとか、何をプレゼントするかとか、何をプレゼントされるかとか、そんなことで頭がいっぱいの麻衣が近くにいるからかもしれない。すっかり仲良しになった映研の女の子たちが世の中の普通の女子らしく特に彼氏がいなくてもけなげにクリスマスを楽しみにしているからかもしれない。

そんな周りの子たちにちょっとつられてる感じはあるけど、でもやっぱり私にとってクリスマスはそこまで楽しみというわけでもない。とりあえず私にとっての今の季節の一番の楽しみは温かいドリンクだ。夏のアイスもいいけど、冬にほっこり飲めるコーヒーや紅茶は最高だ。今日は三限目で授業は終わりだったので、学食でココアを注文してみた。前から飲んでみたいと思って目をつけていたメニューだ。

ココアを飲みながらぼうっとしていると、後ろからよぉという声が後ろからした。
振り向かなくても分かる。直人だ。

「なになに、がっかりした顔で見てくるじゃん、ジョニーじゃないからがっかり?」

なんでだよ、って返した声が自分でも妙に張り過ぎてて言った瞬間、しまった、と思った。

学園祭が終わってから、ジョニーとは学食で顔を合わせる度に、長話する仲になっている。ようやく地の私もちょっとは出せるようになってきた。
彩夏のこともちょっと話すけど、ほとんどは授業の話とか映研の他の人たちの話とか、他愛もない話だ。

確かに、学食に来るたびに、ジョニーいるかなって思っちゃってる。
自分でも分かってる。
それを直人が、遠慮なくぐさっと突いてくるから、つい大きな声になっちゃった。

「うさぎ、なんか、メイクが変わってない?」

こいつ、ホント、男のくせにいろいろと細かいことに気が付くな。

大学に入ったころからメイクを変えてみたいな、デパートのコスメ売り場に行ってみたいなって思っていた。でも一人でそんなところに行くなんて私のノミの心臓には負担が重すぎる。麻衣に言えば連れて行ってくれるのは分かってるけど、麻衣は関係性が近すぎて逆に恥ずかしい。うさぎ、色気づいたなって冷やかされるのも嫌だし。でも先月、映研の女の子の友達ができてその中の一人が女子力高めの子だから、思い切って頼んでみたら喜んで連れて行ってくれた。売り場のお姉さんにアイシャドウとマスカラをしてもらったら軽く舞い上がってしまい、選んでもらったリップをつけたら「ホントに私?」ってなっちゃった。迷わず全部、買ってしまった。

でもそれを直人に気づいてもらう必要は全くない。こいつにどう見えようと気にもならない。ただ、そういう気を使わなくていい男友達がいるのは便利だなとは思う。ちょうどいい機会だから、メイクのことはスルーして私が気になっていることを直人に聞いてみる。

「ねぇ、ちょっと質問があるんだけど」

「ジョニーのこと?俺、何にも知らないよ」

「違う、ジョニー、関係ない。バイト先の男の子が話してたこと」

ウソ。がっつり、ジョニーの話。

「中学くらいに好きだった女の子のことって、大学生になった今、どれくらい気になると思う?」

「え、付き合ってた子?付き合ってない子?」

「付き合ってなくて、でも高校になってもずっと好きだった子」

「高校でも好きだったくらいなら、今でも好きなんじゃない?他に好きな子ができてなかったら」

「ふーん。じゃあ、その今でも好きな子になんかのきっかけで再会して、その子に彼氏がいたとしてさ、直人ならどうする?告白する?」

やけに具体的だな、と言いながら直人がちょっと考える。

「するかな。前にさ、いい俳句見つけたって言ったじゃん。ブランコは漕ぐべし、愛は奪うべし。せっかく会えたんだろ。じゃあ、言わなきゃ、もったいないじゃん」

そっか。やっぱ、彼氏がいても言いたいのか。

すると、直人の「おっ」という声と同時に、「ヤッホー」という聞き慣れた声が私の後ろから聞こえてきた。ジョニーだ。

直人が、じゃあ俺、次の授業に行くわ、と言って席を立つ。直人は基本的に四限目以降に出席しなければいけないような授業はないはずだ。奴なりに気を使ったらしい。
ニヤニヤしながら、小さな声で私に「漕ぐべし、漕ぐべし」と言い残していった。さっきの話、ジョニーのことだってばれてたかもしれない。別にいいけど。

あー、ココアおいしそうだね、僕もココアにすればよかった、と言いながらジョニーが私の前に座って、持ってきていたペットボトルの紅茶のふたを開けた。ちょっと濃いめのミルクティー。明日、私もこれにしよう。

「ねぇ、うさぎちゃんって、クリスマスはなんか楽しい予定とかあるの?」

「あるわけないじゃん、むかーしからずっとないわ。ジョニーは?」

「僕もないよー。なんかさ、映研のみんなでなにかやろうか?」

「あーいいねー。でも、クリスマスとかイブの当日にやるの?」

「どうしよう、僕はいいけど、それじゃ来れない人もいるもんね」

「間違いなく麻衣は来ないね」

そういえば、高校の時も友達でささやかなパーティーやってた時、彩夏は来てなかった。今の麻衣と同じだ。彩夏、クリスマス、楽しそうだった。

「私はほんとにクリスマスに楽しい思い出なんてないけどさ、ジョニーはなかったの、そういうの?」

「ないない。ずーっと寂しいクリスマス」

ということはやっぱりずっと彩夏のことが好きだったんだな。
ジョニーに話を聞いてから、彼氏と今どうなってるか彩夏に聞こうかって思ってたけど、いきなりそんなことを聞くのも変だから結局聞けていない。
彼氏いない、ってジョニーに嘘をついたことがずっと気になっていた。思い切って、あのさ、彩夏のことなんだけどさ、って切り出すと、ジョニーがなになに、って目を輝かす。

「実は高校のとき、彼氏いたんだよね」

そっか、やっぱりそうだよね、そりゃいるよね、とジョニーがちょっと伏し目になりながらつぶやく。
こうやって悲しそうになるの分かってたから、ずっと言えなかったんだ。

「今でも、続いてるの?」

「そう、みたいだね」

少なくとも夏休みに高校の友達で会ったときにはまだ続いてた。

「そっか。でも決めた。僕、あやちゃんに会おうってラインする」

吹っ切れたように、ジョニーが明るい笑顔になって、私に話してくる。

もうあやちゃんのことはいいや、って言うかなってちょっとだけ思ってた。
直人が言うとおりか。やっぱ、あきらめたりしないんだな。
胸がざわざわする。

「知ってる?僕って、あやちゃんの『白馬の王子様』なんだよ」

え?つい、半笑いになって聞いてしまう。

「あのね、中学のとき、お互いがお互いのどんな存在なのかって、タロットで占ったとき、あやちゃんが引いたカード、『カップのナイト』だったんだ。白馬に乗った王子様。それがあやちゃんにとっての僕」

すごいね、って言っただけで笑うのを止められなくなった。
だから僕は王子様だって、学園祭の時言ったでしょ、本当なんだからねと言いながらジョニーも笑っている。

「今でも僕が『白馬の王子様』だって信じてるわけじゃないけど、でも、あやちゃんが引っ越していったとき、絶対いつかもう一度あやちゃんの前に現れようって決めてたんだ。それがあやちゃんの『白馬の王子様』の役目だって。いつにしようってずっと思ってたけど、こうやってうさぎちゃんに会ったのも運命だと思うから、今がそのタイミングだなって」

白馬の王子様、か。笑っちゃったけどなんか、似合うな、ジョニー。
彩夏がうらやましい。こんな風に思われて。

「告白、するんだ?」

当たり前のことを、でも一応聞いてみる。

「そうだね。。。でも、どうかな?だめだよね、彼氏いるもんね」

聞くな、ジョニー。
そんなの聞かれたら、励ますしかないじゃん。

「言わなきゃだめだよ!ブランコは漕ぐべし、愛は奪うべし!」

「え?ブランコ?」

「そうだよ、ブランコって漕ぐしかないじゃん。それと同じで好きになった子の愛は奪うしかないの!」

直人が恨めしい。こんな時にジョニーを励ますピッタリの言葉を教えてくれてて。

「そうだよね、やってみる!でも、もしダメだったら、うさぎちゃん、慰めてね」

いつもの私なら、オッケー任せろ、とかふざけて答えるところなのに。
笑うだけで、なんにも言えなかった。
もしダメじゃなかったら。それを考えると泣きそうになって、泣くのをこらえるのに必死でなにも言えなかった。

***

さっきまでは、ベッドに座ってたけど、もう座ってなんかいられなくなった。
音楽を聞いてもうるさいだけだし、動画を見ても頭に入ってこない。
何やってても落ち着かないから、動物園のクマみたいに、ひたすら部屋の中をうろうろしてる。
机の上のスマホをちらちら見ながら。

今、ジョニーが彩夏と会ってる。
三時から渋谷で、の約束だったから、もう会ってから一時間以上、経ってるはず。

ーー もしダメだったらすぐに連絡するから笑

昼過ぎにジョニーから来たライン。
ダメ、ってなったらすぐに渋谷に行くつもりだ。化粧もしっかり仕上げてるし、服も着替えてる。

でも、ダメってことになんかならない。そんなこと、わかってる。

夏休みに彩夏と会ったとき、彼氏とまだ続いてるって言った後、「でも、倦怠期かも~」って言ってた。
ホントかそうなのかわかんないけど、でも付き合いだして2年以上経ってるから、ホントにそうかもしれない。

それに、転校して以来久しぶりにジョニーに会って、彩夏、多分びっくりしてるはず。
だって、ジョニー、かっこいいもん。そりゃ、中学のときもかっこよかっただろうけど。
悪いけど、今の彩夏の彼氏より、全然かっこいい。
しかもかわいいし。
白馬の王子様だし。

ジョニーから、あやちゃんと会う約束できたって聞いてから、何度も彩夏にラインしようかって思った。
でも、できなかった。余計なこと、言っちゃいそうだったし。
どうせ何を言っても、意味ないの、わかってる。
うまくいく二人は、どうやったってうまくいくはず。

なんで化粧なんかしちゃったんだろう。なんで服までばっちりにして、私、待ってるんだろう。

ーー ダメだったら付き合ってね笑

ジョニーから今日来た二通目のライン。

わかってる。付き合って、っていうのは、今晩、渋谷で付き合って、っていう意味だって。
でも、こんなこと言われたら、違うこと、期待しちゃうじゃん。
バカだな、私。こんなバカになっちゃうんだ、 誰かを好きになったら。

直人が言ってた言葉がここ数日、ずっと頭から離れない。ブランコは漕ぐべし、愛は奪うべし。波風立たないようにひっそり生きてきた私の人生は二か月前からすごく変わった。映研に入って、学園祭で司会をやって、ジョニーと仲良くなって。臆病者の私には嵐のような二か月だったけど、実はすごく楽しくて。でも、まだ自分ではブランコを漕いでいない。誰かにブランコを押されてただけだ。

どうせジョニーと彩夏はうまくいく。もうすぐ、ジョニーから「うまくいったよ」ってラインが来る。でも、この短かった片思いが終わる前に一回だけでも自分でブランコを漕ぎたい。漕がなきゃいけない。
何度も何度もスマホに文章を書きこんでは消すのを繰り返して、迷いに迷って、結局一番言いたい言葉だけが画面上に残った。

ーー ジョニーに会いたい

送信ボタンを押した次の瞬間に死ぬほど後悔してベッドにへたり込んだ。

どれくらい経っただろう。突然、スマホが鳴った。

ーー 楽しかったー

ジョニーからのライン。思わずぎゅっと目をつむる。

ーー 思い出話

ーー 二人で中学の思い出話ばっか笑 最後はうさぎちゃんの話笑

しばらく間があく。スマホを持つ手が震える。

ーー 僕もうさぎちゃんに会いたい

涙があふれてきた。なんてこと言ってくれるんだ。せっかくデパコスで仕上げた化粧が台無しじゃんか。

ーー 今、どこ?

ーー ヒカリエ

ーー 30分で行く

ちょっと出てくる、ご飯いらない、と言い残して、家を飛び出た。

今年の冬は寒くなるのが早くて、クリスマスまで一週間もあるのに昨日積もった雪がまだ道端に残っている。どうせならクリスマスまで残っていてほしい。もしかしたら人生で一番楽しいクリスマスになるかもしれないから。
周りはもう暗くて寒い。吐く息は白いけど、体は信じられないくらい熱くなっている。
ホントは走りたいんだけど、髪がぐちゃぐちゃになるのはイヤだから、必死で早足でこらえてる。
コートに突っ込んだ手の平に、ステージでつないだジョニーの手の感触がよみがえってくる。

待ってろ、ジョニー。



鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女 1952年「白骨」所収