「巫女様、巫女様!あれは?!あれはどう書くの?!」
 道ばたの花を指しながら目を輝かせて訊ねる女の子に、私は「それはねぇ」と微笑みながら手にしている枝を動かす。
 ガリガリと枝先で地面を削り「すみれ」と文字を刻むと、私を囲んでいる童達から「おおー!」と歓声が上がった。
 そして歓声が引き潮になると、「じゃあ、あれは!?」「こっちは?!」と質問が押し寄せる。
 私はドッと押し寄せた興奮に「皆、落ち着いて」と窘めてから「一つずつ順番に書いていくわね」と答えた。
「右から順番に聞いていくけれど、自分の番を早めたいからってずるをしちゃいけないわよ」
 分かった?と確かめる様に言うと、童達から「はーい!」と元気な声が発せられる。
 私はその元気な声に、フフッと口角を緩めてから「じゃあ、貴女から」と声をかけた。
 その時だった。
「そこの女!何をしておる!」
 険のある野太い声が飛び、童達が皆ビクリと身体を竦ませる。
 サッと立ち上がって、声が飛んだ方を見てみると。二人の武士がこちらに歩み寄ってきていた。一人は騎馬に乗り、もう一人は従者として騎馬の前を歩いている。
 従者の方はあまり強くなさそうだけれど。騎馬兵の方は武具も馬具も立派だから、それなりの強さはある、と言った所かしらね。
 なかなか厄介な者に目を付けられてしまったわね・・。
 私は童達に「皆、帰りなさい」と耳打ちする様に告げてから、童達の垣根をずいとかき分けて向かってくる男達の前に進み出た。
 そして彼等の数歩前で立ち止まり、婉然と相まみえる。
「立派なお侍様方にご挨拶を」
 膝を折り、淑やかに挨拶を述べると。ふんっと頭上から荒い鼻息が降ってきた。
「貴様が件の怪しげな巫女だな」
 刺々しく言葉をぶつける騎馬兵に、私は「怪しいなど仰らないで下さいまし」とわざとらしく肩を震わせる。
「私はただの巫女。方々を練り歩き、国を旅するしがない歩き巫女にございますよ」
「・・歩き巫女?」
 騎馬兵は怪訝に眉根をよせると、「やはり怪しいな」とボソリと独りごちた。
「貴様、どこぞの間者であろう?」
「いいえ、間者などではございませぬ。申し上げました通り、ただの歩き巫女にございます」
 すらすらと流暢に嘘を吐き出し、相手の警戒心を解く様に艶然と答える。
 うん、我ながら肝が据わっていると思うわ。強者相手でも、すらすらとまことしやかに嘘を吐くのですもの。
 これくらいじゃ何の動揺にもなりはしないわね。と、内心で自分の胆力を賞賛していると。相手から「そうか」と端的に告げられた。
 思いの外すんなりと首肯された事に、少し呆気に取られそうになったが。私は笑みを繕って「えぇ」と答える。
「疑いが晴れてようございました」
「疑いが晴れた、とな?」
 騎馬兵はフッと小さく鼻で笑うと、「馬鹿を申すな」と冷淡に唾棄した。
 思わぬ返しに、私の口から「え」と小さく零れてしまう。
「調べてもおらぬのに、何の疑いが晴れると言うのだ。口先だけでは、身の潔白の証明が出来ぬだろうよ。捕縛し、尋問した後に身の潔白は掴めると言うものよ」
 なぁ?と従者の方に同意を求めると、従者の方は笑顔で「六助様の仰る通りにございますな!」と答えた。
 捕縛と言う言葉に、手から汗がじわりと生まれるが。私はグッと袖の中で拳を作り、爪で手の平の肉を鋭く抉る。
 そして崩された微笑をすぐに貼り付け直し「私を捕縛なさるので?」と問いかけた。
「何の罪があって、私は捕縛されねばならぬのでしょうか。私は歩き巫女としてこちらに参っただけにございますよ」
「口先だけの言葉なぞ信用するに足らぬわ。我が家に連れ帰り、尋問してから同じ事を言えるかどうかだ」
 ・・取り付く島も無いわね。
 けれどここで逃げたり、この者達を伸したりすれば、もっと事態は悪化してしまう。ここは越前、朝倉領。敵国で騒ぎを起こして捕まる訳にはいかないわ。
 つまり私が取るべき行動は、今は大人しく彼等に従うと言う事。
 私は内心でゴクリと固唾を飲み込んでから、ふーっと息を吐き出した。
 大丈夫よ。こんな事態は何度も経験してきて、毎度乗り越えてきたじゃない。
 どうしようかと首を竦める自分を叱咤し、奮い立たせてから、彼等と対峙した。
「分かりました。この身にかかる嫌疑が晴れますまで、どうぞお好きにして下さいませ」
 笑顔で告げると、騎馬兵は意地悪く口角を上げ「よし」と満足げに頷く。
「では、その言葉通り。好きにさせてもらおう」
 冷笑混じりに言うと、くいっと顎で私を連れる様に従者に指示を出した。
 従者は主人の意にすぐ応え、ひょいひょいと足軽に歩み寄ってくる。
 けれど、その手が私に届く手前。ドオオンッと言う爆発音が後ろから飛び、ぶわっと生まれた砂塵が私達を襲った。
 その瞬間、私はハッとする。
 これは、まさか。いいえ。そんなまさか、よね・・。
 じわじわと込み上げる感情が、目の前の脅威を忘れさせ、パッと慌てて身体を振り返らせた。
 腕を顔の前で掲げて砂塵を防ぎ、細めた目で砂煙の中心に目を懲らす。
 けれど、視覚よりも先に聴覚が悟った。
 リィンリィンと朗らかに鳴る鈴の音が、「退け、人間共」と淡々とした声が、私の疑念を拭っていく。
 やはり私の勘違いなんかではなかったわ。
 この声は、この音は・・。
 徐々に晴れていく視界と共に、私の胸に喜びや嬉しさがぽんっぽんっと軽やかに咲いていく。
 そして砂煙を破る様に、彼が、いばなが現れた。
「俺の道の邪魔だ」
 いばなは唖然とする私を一瞥もせずに通り過ぎると、彼等の少し手前で止まる。
 騎馬兵達は突然現れたいばなに顫動し「お、鬼」と、蒼然と呟いた。
 いばなはその呟きを聞くと「おい」と、声を更に低くさせる。
「人間共、いつまでそうしているつもりだ。さっさとそこを退け、殺すぞ」
 バキバキッと手の骨を鳴らし、ウウと地を這う様な唸り声をあげた。
 すると急激に辺りの空気が凍え、大地がぶるぶると顫動する。びゅおおと不気味に風が吹き、どこかから来た暗雲が天色の空をぶわりと覆っていった。
 い、いばなが怒っている・・。
 彼の背から伝わるものに、私の肌がぶわりと一気に粟立つ。
 背中越しの私でコレならば、彼の怒りを真っ正面から受け止めている彼等は私以上のものに襲われているはず・・。
 きっと耐えられないのでは?と思った矢先、騎馬兵達は泡を食う様にして逃げ出した。馬で我先にと逃げる主を従者が「ろ、六助様ぁ!待って下さいよぉ!」と泣き言を零しながら、おぼつかない足取りで追っていく。
 そうしてわたわたと、バタバタと遠のいていく背に、いばなはふんっと大きく鼻を鳴らした。
「つまらん小物共め」
 冷淡に唾棄すると、彼はくるりとこちらを向く。
 その顔を見た瞬間、覆われていた恐ろしさが一気に晴れ、温かな光に包まれた。それに胸がドキリと高鳴った・・気がする。
 私はそれらを全て奥に仕舞い込む様に小さく息を飲んでから「あ、あの」と声をかけた。
「助けて」
「自惚れるなよ。俺はお前を助けたのではない、俺の行く道に邪魔が入っただけの事だ」
 私の言葉をバッサリと遮り、彼はひどくぶっきらぼうに告げる。
「運が良かったな、女」
 フッと冷笑を零し、スタスタと歩き出した。
 俺の行く道に邪魔が入った、と言っているのに。そちらを行かずに、こちらに戻ってくる。そう、彼は道を引き返してくるのだ。
 ・・やはり彼は助けに来てくれたのだわ。どこかから私の危機を見つけ、そこから駆けつけてくれたのよね。
 彼の優しい矛盾に胸が温かくなり、私の顔が柔らかく綻ぶ。
「おい、何を笑っている。何もおかしい事はないぞ」
 ムッと怪訝な顔で言われるけれど、その顔ですらも愛おしさが沸々と湧き、顔の綻びを広げてしまった。
「今すぐその間抜け面を辞めろ、不快極まりない」
 私は物々しい諫言に「申し訳ありません」と答えてから、自分の中でぽわぽわと浮かぶ感情を奥歯で噛み潰す。
 そして目の前で立ち止まり、眉を顰めている彼をまっすぐ見つめた。
 助けてくれた礼を述べたいけれど。まっすぐ礼を述べては、きっと彼は受け取らない。それでまた喧嘩になって、足早に去ってしまうかもしれない。
 ここは彼に合わせよう、折角ここで出逢えたのだから。
「では・・折角ですから、この幸運を貴方に分けてあげましょう」
 艶然と告げると、目の前から「・・は?」と呆気に取られた声が零れる。
「お前、何言って」
「貴方に分けても、きっとまだ沢山あります。なんせ身の危機を免れた上に、ずうっと会いたかった方と会う事が出来、面と向かって話せる様になった程の幸運ですからね」
 ニコリと微笑むと、もう一度彼から「は」と零れた。
 そして目の前で顔が、ころころと百面相の様に変わる。
 私はクスッと笑みを零してから、百面相をしながら固まる彼の手を取った。
「ここは人里、急いで山の方に参りましょう!さ、早く!」
「・・おっ、おい!待て!何をするつもりだ!」
「言葉を交すだけですよ!幸運を分けるには、そうするのが一番ですから!」
「この俺がそんな下らぬ事に興じると思うか!」
 ぎゃあぎゃあと喚きながらも、彼は私の手に引っ張られていった。
 こんな力、容易に解けてしまうだろうに。こんな無礼に走る私なんか、容易に殺せてしまうだろうに。
 彼はそうしなかった。
 どうしてなのかは、分からないけれど。きっと、私はようやく許されたのだ。
 彼への道を歩む事を。心に近づいていく事を。
 ここからよ、と私は喜色が広がった笑みで大きく一歩を踏み出した。
・・・
「あの・・これでは距離が遠すぎやしませぬか」
 首をまっすぐピンと伸ばした苦しい状態で声を発し、目線の先に居る彼に投げかける。
「遠くない」
 彼はピシャリと告げると、座っている木の枝の上でふんと鼻を鳴らした。
 ・・まるで、木の上で寝そべりながら人間を威嚇する猫を見ている様だわ。
 私は垂直にしていた首を戻してから、小さくため息を吐き出す。
 単に人目を気にしてなのか、大っぴらに鬼の手を引く巫女の私を慮ってなのかは分からないけれど。彼が私を攫う様にして抱きかかえ、この森の中にひとっ飛びしてくれた所までは良かったのに・・。
 大空を舞った高揚感と共に、もぞもぞとくすぐったい様な気持ちで満たされていたのに・・。
 森に着くや否や、私を太い木の根に下ろすと、彼は逃げる様にバッとその木の枝に飛び乗ってしまったのだ。
 ようやく一歩を踏み出す事を許されたと舞い上がった喜びが、泡沫に消えていった。
 その哀しさたるや、虚しさたるや・・。
 私はのしかかる落胆に再び嘆息してしまうが。その息を誤魔化す様にぶんぶんと軽く頭を振った。
 いえいえ、でもこうして面と向かえる様になったのよ。つまり少しは許された、と言う事じゃないの?今までの拒絶と比べたら、この状況は奇跡に近いものね。
 そうよ、そうよ。落ち込む事ないわ。今はこれだけの距離でも、その距離を少しずつ縮めて行けば良いのよ。焦らず、逸らず、着実に歩いていけば、きっと深淵に近づく事が出来るわ。
 私は「よし」と己を鼓舞してから、首を垂直にして見上げる。
「では、このままで良いので話を聞いて下さりますか?」
 艶然と問いかけると、木の上の彼は不遜に鼻を鳴らし「俺に何の話があると言うのだ」と言った。
「お前が言葉を交したいのは、青狸の方だろうよ。毎日毎日言葉を交し続け、下らん事を聞いているではないか」
 渋面を作りながらぶっきらぼうに吐き出すいばなの前で、私は「青狸・・?」ときょとんとしてしまう。
「あの、青狸と言うのは。まさか、とは思いますが・・天影様の事、ですか?」
 まさかと言う思いを強く抱きながら訊ねると、すぐに「奴以外に誰がいる」と憮然と吐き捨てられた。
 あの、崇高で麗しい青鬼の天影様を青狸呼びなんて・・とんでもないわね。
 立場的には彼が頭目で、天影様が副頭目だから不敬でも何でもないのかもしれないけれど。天影様を蔑称で呼んだ方が不敬で、重罪な感じがするのよね・・。
「お前、俺に喧嘩を売っているのか」
 頭上からの物々しい突っ込みで、私はハッと我に帰った。
 そして急いで固まっていた表情を繕って「いいえ、そんな事は」と答えるが。見上げた先のいばなは「嘘をつけ」と、ピキピキと苛立ちを放っていた。
「心の中でだらだらと、天影の方が良いとか何とか述べていただろ」
「・・いいえ、そんな事は」
「詰まってるじゃねぇか!」
 激しい突っ込みに、私は「良い悪い云々を述べていた訳ではありません」と宥めてから「天影様の話ではなくて」と強引に話題を変えた。
 そして奪われかけていた自分の流れを取り戻し「私が話をしたいのは、貴方の事ですよ」と、その流れに相手をぐいっと無理やり乗せる。
 いばなは私の目を見てから、「だから」とため息交じりに言葉を吐き出した。
「俺について話す事は何もないし、聞く事もないだろう。あの青」
「いいえ、沢山ありますとも」
 私はうんざり口調で続く言葉を遮り、ニコリと上に居る彼に笑顔を向ける。
「天影様からでは知った事にはなりませぬ。故に、貴方を知るには貴方から、と言う事です」
「・・は」
 予想だにしなかった言葉だったからか、それとも単に返す言葉が見つからなかったのか。
 彼は一言発すると、もごもごと口ごもり、返答を詰まらせていた。
 そして二、三度目をぐるりと回してから「意味が分からん」と吐き出す。
「何故、そうまでする必要があるのだ」
「貴方を知りたいからと言う事の他に理由はありませぬ」
「・・答えになっておらんぞ」
 憮然として答えられるけれど。私は「そう言うものです」と、あっけらかんとしていた。
「今、貴方が何故と知りたい様に、私も貴方を知りたいだけなのですよ」
 そう。これは間者として、ではなく、千代としての話。だからただ単純に、彼の事が知りたいのだ。
 一体いつからこんな考えになってしまったのかは、自分では分からないけれど・・。
 私は顔を綻ばせながら泰然と告げると、「では、こうするのはどうでしょう」とパチンと両手を合わせた。
「毎日一つずつ、互いに質問をしあって答えるのです。さすれば、私は貴方を知る事が出来るし、貴方も私を知る事が出来ますでしょう?」
「・・俺は別に。お前の事なぞ知りたくない」
 秒で提案を無下にする酷薄な言葉が上から飛んでくるが。私は貼り付けた笑みを崩さずに「では、貴方はこういう理由で質問なさったらよろしいです」と、泰然と言葉を継いだ。
「私が紫苑と言う女性ではない。と、より思い知る為に」
 紫苑と言う名で彼が分かりやすい程にピキリと強張る。
 そこで私は「やはり」と分かってしまった。
 まだ私の事を紫苑として見ているのだ、と。
 少し膨らんだ袖の中でキュッと拳が作られる。
 けれど、私の顔は柔らかな笑みを称えたままだった。
 ・・本当に、間者としての訓練を受けていて良かったわ。痛みだけではなく、心ですらも完璧に隠せる事が出来るのだから。
 私はそのまま「どう転んでも、互いに利がありましょう?」と、言葉を続けた。
「ですから、私が百鬼軍の方に赴いた時に質問を交し合いましょう」
 有無を言わさぬ笑みで告げる。
 すると上から「良かろう」と尊大な言葉が降ってきた。
 思いがけない答えに、細めていた目が大きく開かれる。
 彼は立てている片膝に頬杖を突いて、私をまっすぐ射抜いていた。
「面倒だが、乗ってやろう」
 これで満足か。と、彼はぶっきらぼうに告げる。
 はぁと呆れ交じりに上がった白旗に、私は「はい」と笑顔で答えた。
 そうしてその日から、私はいばなと面と向かって言葉を交わせる様になった。
 始めは本当にぎこちなくて、すぐに沈黙が降りてしまっていた。それに、お互いすぐに食ってかかる性格のせいで、自然と喧嘩に発展する事もしばしば・・。
 それだから天影様が間に入ってくれて、私達の場を上手い事回してくれていた。
 けれど、ある日。いばなが「お前がいると憤懣とさせられるだけだ!お前は消えろ、天影!」と怒髪天を衝いて、天影様を場から弾いてしまった。
 私は怒るいばなを宥め、天影様に「居て下さい」と頼み込んだのだけれど。天影様は飄々と「分かったよ」と素直に下がってしまい、以降、本当に私達の間に居なくなってしまった。(正直、私としては「味方且つ救いの存在が・・!」と、実に惜しく思ったのだけれど)
 そうして天影様なしで二人だけで言葉を交すと、やはり始めは激しく衝突したものだけれど。時間を共に重ねる度に、少しずつ互いの事が分かってきて、少しずつ衝突も減っていった。
 だが、私達の間の変化は、それだけではない。
 二人の間の距離が、一番変わっていった。勿論、良い方向に。
 始めは、私が彼を見上げていた形だったけれど。徐々にその形が緩やかに変わって行って、今では地に足がついた状態で、人二人分程空いた距離で、言葉を交す事が出来ているのだ。
 でも・・まだ「心」の距離は遠いと思う。
 未だに彼は私の事を千代と呼ばないし、その瞼裏に紫苑が居て、紫苑を見ているのが分かるもの。
 いつだって、歩いて距離を縮めるのはこちら側。
 彼は頑としてその場から動いていないから、これでは互いに距離が縮まっているとは言えないわよね・・。