俺は、ある一帯をジッと見つめていた。そのどこかに居るであろう奴の姿を探す為に。
だが、一向に俺の目は奴を捉えない。
俺はチッと大きく舌を打った。
「・・遅かったか」
俺が憮然と呟くと、横にいる天影が「これは雲行きが怪しくなってきたね」と同じ声音で言う。
「どうする?いばな」
「どうもこうも、殺す一択だ。いつまでも千代の周りをうろちょろとさせる訳にはいかねぇだろう」
顔色を窺う様に尋ねる天影に向かって唾棄する。
天影は俺の言葉を聞くと、「そうだね」と朗らかに首肯するが。その声音は凍てつき、鬼らしい邪気が込められていた。
「此度こそは、と言う感じかな」
「あぁ、此度こそは確実に仕留めてやる」
俺は力強く首肯してから、天影を見据える。
「天影。お前にも思う所はあるだろうし、反対したい心もあるだろうが」
「まさか、そんな事は思っていないよ」
まごつく言葉を遮ると、天影はフッと顔を柔らかく綻ばせた。
「私はいつも通り、君の擁護に徹する。それが私のやるべき事さ」
俺は呆気に取られながらも「本心か?」と確認を取る。
滅多に本心を見せない奴だから、こう尋ねても本心を明かさないと分かっているが。今は天影の本心に少しでも触れねばならない。
此度の事は、俺だけの問題ではないのだから。
俺は細められた瞳をまっすぐ見据えた。
すると天影は「本心だよ」と、まっすぐ射抜き返しながら答える。
「その心がない訳ではないよ、勿論ね。けれど、この件に関しては君がやるべきだと私は思う。もし、私の番が回ってくるとすれば・・それは君に何か起きた時か、私がそうせざるを得ない時だよ。まぁ、そんな時は万が一と言う感じだろうけれどね」
フフと微笑みながら言葉を紡ぐと、「だから、いばな」と真剣な面持ちで告げた。
「君がこの因縁を断ち切って欲しい」
あまり見せる事もなく、少ししか見る事が出来ないはずの天影の本心。
俺は「あぁ」と強く頷いてから、かくしにある千草色をした陽の勾玉を強く握りしめた。
「今度こそ、俺が奴を殺す」
「・・頼むよ、いばな」
夜と言う闇が太陽と言う光を追いやり、自らの世界を徐々に強めていく。
そんな宵が深まる頃合いになっても、いばなは来なかった。
もう来ていてもおかしくないはずなのに・・。
私はキュッと胸元の勾玉を握りしめてから、囲炉裏に薪をぽいっと入れ、火吹き竹でフーッと息を吹きかけた。
すぐにパチパチッと大きく上がる火、ポロポロと炭と化して崩れる木。
・・なんだか嫌な予感がする。
まさか、いばなの身に何かあったのでは?
パチパチと虚しく響く音が、胸中の漠然とした不安をかき立てた。
丁度その時、ドンドンッと激しく戸が叩かれる。
私はその音にハッとし、ざわりと騒ぐ胸を押さえながら「ただいま」と戸の方に駆け寄った。
ガラリと戸を開け「はい」と答える前に、「大変な事になったぞ!」と徳にぃ様が前のめりに飛び込んでくる。
こんな時間に来訪する事はない人物に、私は「徳にぃ様?!」と目を丸くしてしまう。
だが、彼の異常な荒ぶり様を見ると、その驚きは直ぐさま落ち着いた。
冷静沈着な徳にぃ様が、こんなにも取り乱しているなんてただ事ではないわ。と、私は息を飲んでから「どうなさったのです?」と問いかける。
すると徳にぃ様は、歯がみしながら「やはり奴等を信用すべきではなかったのだ」と、唾棄した。
その憎々しい一言で、私の胸中の不安がざわざわと大きく唸る。
「・・どういう事です?」
「我らの親方様を奴が殺したのだ!千代、お主が招き入れたあの鬼だ!百鬼軍の頭目が、親方様を殺したのだ!」
何を言われたのか、私は全く分からなかった。と言うよりも、まるで耳に入ってこなかった。
全ての言葉が信じられなかった。
徳にぃ様、いばなが親方様を殺したと仰った?
ぼんやりとした頭の中で疑問を並べると、数刻前の「あの時」が自分の色を取り戻す様に思い起こされる。
あぁ、そうよね。そんな悍ましい事、いばながするはずがないわ。
何かの間違いだと分かると、ガチガチに強張っていた状態もゆるゆると崩されていく。
そして私はふうと息を吐き出してから、荒ぶる徳にぃ様と対峙した。
「何かの間違いですよ、きっと親方様も」
「間違いな訳があるか!私はこの目で見たのだぞ!」
私だけではない!と、徳にぃ様は私の言葉を遮って、自分の怒りを吐き散らす。
「若様や父上、土屋殿と栗原殿も見た!奴が青鬼と共に、親方様の枕元から飛び去っていく様をな!」
若様を始めとした、親方様を支える二十四将の数名の方々も見たとなると、嘘だと思っていた話が急に真実味を帯び始めた。
つい先程、我に帰ったばかりだと言うのに。再び私は茫然とした自分の世界に佇んでしまった。
違う、違う、違う。そんな事ないわ。嘘よ、嘘。何かの間違いよ。
いばなが親方様を殺すはずないもの、ましてや青鬼・・天影様と共に殺すなんて、絶対にあり得ないわ。
私は真実味を帯びて迫ってくる話を強く否定し、この世界を出ようと強くもがく。
けれど、そんな私の努力を無下にする様に、徳にぃ様が追い打ちをかけてきた。
「我らが親方様の元に駆けつけた時には、親方様はすでに冷たくなっておられた!奴等が寝首をかき、殺したのだ!そう言う他あるまい!」
「・・う、嘘です」
彼がそんな事、する訳がありません。と、か細く答えると、目の前から「千代!」と力強く怒鳴られる。
それは、今まで一度も聞いた事がないと言う程の怒声だった。
「お主は親方様を殺した者共の肩を持つのか?!いい加減にせよ!このままでは、従犯として主を捕らえ、奴等と共に処刑する事になってしまうぞ!」
徳にぃ様は物々しく叫ぶと、「我々は、奴等の討伐に向かっている」と低い声音で呟く様に告げる。
「同時に、親方様を殺した奴等を招き入れたお主にも嫌疑がかかっておる。中には、親方様を殺した者を招き入れた咎を死して贖うべきだと言う声もあるのだ」
だから私は早馬を飛ばして、ここに来た。と、力強く私を射抜いた。
その真剣な眼差しで、死の手が自らの肩にかかっている事を理解する。
いばなの身を案じる場合ではなかったのだ。
このままだと私も徳にぃ様等忠臣に捕らえられ罰せられてしまう。今までの功績があろうと、情をかける程に長きに渡る親交があろうと、これは救いようが無い。
私達の絶対的支柱を失した代償は、なにものにも変えられないのだから。
私はギュッと袖の中で拳を作り、自らにヒタと寄り添う死の恐怖を誤魔化した。
すると徳にぃ様が「千代」と慰める様に、私の名を呼んだ。
「奴等は死あるのみで救いようが無いが。まだお主は救える。千代、主の手で奴等を殺すのだ」
あまりにも非情で残忍な言葉に、私は大きく目を見開いて息を飲む。
「・・私が、彼等を?」
「招き入れたお主自身が奴等を殺すか、捕らえるのだ。さすれば、お主が悪い訳ではなかったと重鎮等にも思われ、お主の死は免れると言う事になる」
これしか手立てはあるまい!と、徳にぃ様は名案だとばかりに目を爛々とさせて答えた。
あまりにも残酷な条件に、私は呆然と立ち尽くしてしまう。
そんな残酷な事、私には出来ない。いばなや天影様を殺すだなんて、絶対に出来ないわ。
だって、いばなは私の愛する人で、結婚の約束を交した人。天影様は、優しい恩人の様な人。
どちらも私にとっては愛おしくて、かけがえのない存在。失いたくない、大切な存在よ。
だからそんな二人を殺すなんて、絶対に嫌。私には絶対に出来ない。
けれど・・残念な事ながら、もう嫌だなんだと喚く立場にないのだ。分かっている、そんな事。無論、そうしなければ自らの命が消えてしまう事も分かっている。
私の内で、想いと理性がガツガツと激しくぶつかり合う。
「絶対に嫌だ」「殺すしかない」「絶対出来ない」「そうする他に手立てはない」
膨大な言葉が己の中に羅列し、私をひどく苦しませた。
そして苦悶する私を歯牙にもかけず、徳にぃ様は怜悧的に告げる。
「何を悩む事があるのだ、千代。親方様を殺されたのだぞ。我らの主君を奴等は手にかけた、卑怯にも寝首をかいたのだ。そんな奴等に情をかける余地などなかろう」
徳にぃ様の言葉が、胸に深々と突き刺さった。
そうだ、徳にぃ様の仰る通り。
親方様が殺された。私にとって、一番心を傾けねばならぬ所はそこじゃないのか。
ググッと丸めた指が更に丸まり、爪が手の平の肉を深々と抉る。
父親の様に慕っていた大切な主君を殺されたのは、他でもない私のせいなのだ。
罪悪感と忸怩、後悔がじわじわと全身に広がっていく。それに怒りが重なり、まるで灼熱の溶岩が溶けた様にどろどろと内側を這いずった。
そして、それは「分かりました」と言う言葉を口の方に押し上げていく・・が。
「いつも勝手な解釈をして先走る!とんだ阿呆だ、お前は!」
突然いばなの怒声が脳内にビリビリと轟いた。
その言葉で、私はハッとする。
勝手な解釈?いばなは、これが勝手な解釈だと言うの?また私が何も見えていないと言うの?
私はガンガンと響く怒声にキュッと眉根を寄せた。
いばなが殺したと思っている事が間違いだと言うの?
でも、徳にぃ様だけではなく、他の忠臣の方々も目にしているのよ。貴方が殺した、と言う所を。
いばなの怒声に怪訝をぶつけると、胸元がボッと熱くなった。その熱さに目をパッと落とすと、勾玉の千草色が明滅していた。
まるで「お前の目では見ていないだろう」と、強く憤る様に。
私はキュッと勾玉を握りしめ、唇を真一文字に結んだ。
そうね。確かに、その通りだわ。私は何も見ていない。親方様が逝去なさった姿も見ていなければ、逃げ出すいばなと天影様の姿も見ていない。
ただ話を聞いただけだ。
その事に気づくや否や、私の内で「あぁ、もう!」と落胆と怒りが混ざった声があがる。
全く!なんて私らしくもない事をしようとしていたのか!
私は痛い程知っているじゃない!この世の全ては玉石混淆。玉を掴むには、自ら動かなければならないと言う事を!
それに何より、私は間者よ。きちんと正しい情報を掴むまで動くのが、私の役目と言う物でしょう・・!
私は手の平に鬼火の熱を刻みつけてからソッと離し、目の前の徳にぃ様を見据えた。
「徳にぃ様。恐れながら申し上げます、私を検分に出させて下さいませ」
目の前の徳にぃ様は、淡々と告げられた言葉に愕然とする。
「まだ奴等の肩を持つのか?!」
いい加減、目を覚ませ!と怒鳴られるが。私は「いえ」と泰然と首を振った。
「肩を持っている訳ではありませぬ。真実を知る為に申し上げているだけにございます」
「親方様は奴等に殺されたと言うのが真実だ!」
「己が目で見て、己が手で調べ上げなければ、それが真実だとは言えませぬ」
毅然と言葉を紡ぎ、怒りと驚きに震える徳にぃ様を冷静に射抜く。
「己が手で掴んだ真実は何であれ受け入れる所存。彼が殺したと言う真実であれば、彼は私の手で殺します。それがけじめと言うものでしょう」
ですが、と物々しく強調する様に言葉を一度区切った。
「彼が殺していないと言う真実であれば。私は絶対に彼を殺しもせぬし、殺させもしませぬ!」
憤然と宣誓すると、徳にぃ様も「他に下手人がいるとでも思っているのか!」と怒声を張り上げ返す。
「それとも何か!お主は我らの誰かを疑うつもりか!幼少から共に育った私や、お主を娘の様に可愛がる方々は悍ましい妖怪共よりも信じられぬと申すのか!」
「これは、信じる・信じないの話ではありませぬ!何が真か、嘘か、見極める必要があると言う話にございます!」
「だから何度言えば分かる!奴が殺した、いばな童子が親方様を殺したのだ!」
そうだと言って聞かない徳にぃ様に「だからそうではなく!」と強く窘めようとしたが。
私はそう声を張り上げる前に「待って下さい」と、怪訝に眉を顰めた。
「徳にぃ様。どうして彼の名を・・いばなの名を知っているのです?私は、徳にぃ様の前で彼の名を呼んだ覚えも、教えた覚えもありませんのに・・」
私の疑問に、徳にぃ様は一瞬ハッとした顔になったが。すぐに「当然、知っておるとも」と憮然として答えた。
「奴の名は、日の本全土に轟いておるではないか」
「・・いいえ。百鬼軍頭目や、平安の赤鬼と言った二つ名ばかりで、彼のいばなと言う「名」は全く聞こえませぬよ」
徳にぃ様は私の言葉に、うっとした顔で言葉に詰まる。
私はそんな彼を前に、淡々と言葉を紡ぎ続けた。
「私は百鬼軍を探る為に、近辺の人間達から話を聞いて回ったものですが。皆、名を知らずに頭目の赤鬼と呼んでおりました。百鬼軍の面々もお頭と呼び、彼の名を呼ぶ者は一人も居りませぬ。他の妖怪は、平安の赤鬼や蔑称で呼ぶ事が多いといばなは話していました。故に、いばなの名が広まる訳がないのです」
それにも関わらず。と、私は独りごちる様に言う。
「徳にぃ様は彼の名を呼んだ、それもいばな童子と正確に」
目の前の徳にぃ様はたじろぎ「それは」と口をまごつかせた。
そして必死に弁解を考えるが、良いものが出なかったのだろう。チッと大きく舌を打ってから、「ええい!」と声を張り上げた。
「名を知っているからなんだと言うのだ、そんなにおかしい事ではなかろう!今おかしいのは私ではない。千代、お主だ!」
逆上して怒鳴る姿に、私の抱く猜疑が強まっていく。
徳にぃ様は、逆上なぞ絶対にしないお方。確かに、意固地な面があるものの。冷静に言葉を詰めて言いくるめるのが、彼の戦法だ。言い合う相手が私と来れば、説教じみた言葉ばかりを繰り出し、最終的には弱々しく折れてくれる。
私はキュッと唇を結び、力強く彼を睨めつけた。
「今、千代の前にいるのは、本当に徳にぃ様ですか?」
猜疑を露わにぶつけると、目の前の彼は「何を馬鹿な事を!」と憤激する。
「この私の存在までも疑うとは!お前はどこまで奴等に惚けさせられているのだ!」
目を覚ませ!と、彼は手を私の肩にガッと伸ばした。
だが、彼の手が私の肩に触れようとした刹那。バチバチッと青い火花が迸り、彼の手が私から、否、いばなの鬼火が宿された勾玉から弾かれた。
彼は「ウッ!」と慌てて手を引っ込め、軽く火傷を負った右手を庇う様に左手で包む。
その光景に、私はハッとした。
いばなは言っていた、妖怪が私に触れようとしたら弾かれる様になっていると。
私は「やはり」と敵意を確かなものにして、目の前の存在と対峙した。
「貴方、誰」
居丈高に言葉をぶつけ、「人間でもないわよね」と正体を明かす様に威圧を込める。
すると、徳にぃ様の姿をした誰かは口角をニヤリと意地悪く上げた。その不気味な笑みに、嫌でも全身の毛がゾクッと総毛立つ。
「そうか、そうか。今の其方は、随分理智的なのだなぁ」
声が徳にぃ様ではなくなり、誰か別の声に変わった。蠱惑的ながらも、恐ろしい程冷たい声をしている。
私がその声に戦慄していると、その誰かはニタリと目を細めてカラカラと笑い出した。声に含まれる狂気が、空気を震撼させていく。火ですらも怯え、しゅうと小さくなっていく。
「このまま同じ道を辿らないならば、此度こそ私の望む道に進んでくれるな?紫苑よ」
・・私の事を紫苑と呼んだ。つまり、徳にぃ様に変わっている誰かは平安を生きた妖怪と言う事よね。
なんて冷静に考える自分も居たけれど。そんな自分はあまりにもちっぽけ、ほとんどの私は恐怖に怯えて顫動していた。
身体の震えが全く止まらない。十八と生きてきて、これ程までに恐怖を覚えた事はないわ・・。
私はギュッと奥歯を噛みしめ、震える指で熱く燃える勾玉を握りしめた。
「貴方、誰」
震える声で、もう一度同じことを問う。
すると目の前の誰かは「この私を忘れたのか?」と、わざと大仰に笑った。
「忘れる訳があるまいよ!紫苑、其方は覚えているとも。私は他の誰よりも其方を深く愛し、其方だけを見ていた男なのだから。忘れやしないだろう?」
そうだろう?と、蠱惑的な笑みを向けられるが。気管が一気に締められ、ヒュッとか細い呼吸が零れた。ゾクゾクッと身体の芯から震え上がり、ぶわりと肌が粟立つ。
駄目、ここで怯んではいけないわ!と、己を力強く鼓舞し、襲いかかる恐怖を飲み込もうとするけれど。恐怖が軽々と堤を凌駕してくる。
これは、それ程までの圧倒的恐怖だ。
「さぁ、申してみよ。その愛らしい口で、愛しい私の名を囀ってみよ」
目の前の誰かが手を広げながら、じりじりと詰め寄る。
逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。
頭の中で警鐘がカンカンと幾度も打たれ、「急いで!」と切羽詰まる。
けれど、それは全て頭の中だけの話。今の私は蛇に睨まれた蛙の様に、ただその場で顫動するしか出来なかった。
悍ましい恐怖が一歩、一歩と近づいてくる。
あと数歩で、私にその手が触れると言う距離にまで迫った刹那。
ドガァァァァンッと凄まじい爆発音と共に、天井がガラガラと崩れ落ちる。
その瓦礫の山は囲炉裏の上に降り積もり、囲炉裏を完全に破壊した。ばふんっと灰を撒き散らかし、もくもくと灰色が上から降ってきた何かを包み込む。
けれど、その「何か」が見えない訳ではなかった。ぽっかりと大きく空いた穴が外の月の光を煌々と射し込み、煙の中に影を現せる。
影だけでも分かる、その姿。
じわじわと嬉しさが込み上げ、私の中の恐怖がゆるゆると瓦解していくのが分かる。
「いばな」
私がその名を呟くと、それに応える様に影がゆらりと動き、りぃんりぃんと小さな鈴の音が鳴り響いた。
煙が徐々に落ち着いていくと、いばなの姿を露わにする。
月光を背負い、瓦礫の山の上に立つ姿は、まるで鬼神が現れたかの様な神々しさだけれど。そんな神々しさを霞ませる程に、いばなは烈火に身を燃やしていた。
轟々と猛る青い炎が背後に見え、バチバチッと青い雷が無数に迸る。
その凄まじい激怒に、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「・・いばな?」
自分の知らないいばなが現れた気がして、彼を呼ぶ声が震えてしまう。
すると「おぉおぉ」と、素っ頓狂な笑みが後ろから発せられた。
私がその声の方をパッと向くと。徳にぃ様の振りをした誰かは、パタパタと顔の前で手を煽ぎながら朗らかに笑っていた。
「相も変わらず粗暴な奴よのぉ」
突然ドンッと言う音が弾け、びゅおっと私の耳元で風が切る音がした。ゴウッとその突風に煽られ、髪がぶわっと視界に広がる。
何事かと振り返ろうとしたけれど。そんな事をする間も無く、いばなが目の前に現れていて、徳にぃ様の振りをした誰かに刀を抜き、襲いかかっていた。
いばなの刀が素早く振り下ろされ、徳にぃ様の脳天に鋭い切っ先が迫る。
私は「いばな、辞めて!」と、慌てていばなを止めようとしたが。
いばなの刀は徳にぃ様の脳天を貫く事もなく、身体を斬り裂く事もなかった。それどころか、徳にぃ様に届く事すらなかったのだ。
突如虚空に現れた、紫色の九字にバチバチッと刃が防がれる。
私は、そのあり得ない光景に目を見張った。
「・・ドウマン」
現れた禍々しい九字の名を唖然として呟くと、徳にぃ様の内にいる誰かは「やはり忘れてはおらぬではないか!」と歓喜の声を上げる。
「いつまで経っても、この私を想ってくれている証だ!」
嬉々として言葉を並べる彼に、いばなは「気色悪い事をぬかすな!」と吠え、グッと刃を押し込んだ。
「いばな童子よ、今は貴様の様な下衆と言葉を交しておらぬ」
「黙れよ、下衆以下」
凍てつく程の声音で暴言をぶつける。
すると突如刀を防いでいた九字が鈍く光り、悍ましい形をした紫色の手がぶわっといばなに襲いかかった。
いばなは直ぐさま飛び退き、大きく距離を取る。
そしてストンッと私を背に庇う様にして立つと、「よくもコイツの前に現れる事が出来たものだな。道満」と、憎々しげに声をかけた。
私は「まさか道満って」と、いばなの背に向かって弱々しく声を発する。
「平安の世を生きた大陰陽師で、かの安倍晴明公の好敵手だったと言う、蘆屋道満の事?」
いばなは肩越しに「そうだ」と苦々しく肯定してから「まぁ」と、すぐに言葉を継いだ。
「晴明の方が幾分も上手だったし、コイツは陰陽師と言うよりも最悪の呪詛師だ」
「呪詛師?!」
「あぁ、粘着質で根暗な野郎だからな。人を呪い、人を駄目にする事に関しちゃ晴明よりも少々長けていた」
いばなが唾棄する様に言うと、前の道満から「紫苑の前で私を貶めるのはよさぬか、いばな童子よ」と笑顔で訂正が入る。
「私は晴明と肩を並べる程の存在、いや、今は晴明以上と言えよう」
道満は口元を緩く綻ばせながら、とんと手を胸に当てて言った。
「肉体は死しても、魂は死さず、こうして現世に留まれる。これはあの晴明でも出来ぬ事であったのだが、見事私は成し遂げてみせた。どうだ、紫苑。これで私が日の本一の陰陽師であると分かったであろう?」
道満は鼻高に告げると、いばなの後ろに守られている私をしかと見据える。恐ろしいと感じる程の、満面の笑みで。
「いやはや、愛の力は偉大であると言うのは真だな。私が晴明を越える存在となったのも、こうして魂だけとなっても生きる事が出来る様になったも、全て其方のおかげだからのぉ」
「・・私のおかげ?」
怪訝に首を傾げて彼の言葉を繰り返すと、「左様」と、まるで耳元で囁く様に答えられた。遠くに居るはずなのに、彼の恐ろしく冷たい声がすぐ横からうねうねと入り込み、耳の奥まで進んで来る。
「其方と再び逢瀬を重ねて深く愛し合う為だと思えば・・私はどんな苦行にも耐える事が出来、努力を重ね続ける事が出来たのだからな」
私はゾクゾクッとした恐怖と寒気に襲われた。
安心出来る人のすぐ後ろにいると言うのに、怖くて堪らない。
さっきから一方的な愛が重すぎて、恐ろしい。紫苑と言う女性はどうだか分からないけれど、きっと彼女も同じ事を思うだろう。
彼を前にすると、底なし沼に引きずられそうな感覚に陥るだけで、愛なんて微塵も生まれてこない。
ただひたすら「恐ろしい」。
するとそんな私の恐怖を払う様に、いばなが「いい加減にしろ!」と、ドンッと力強く床を踏み抜き、床の木板をバキバキッと破壊した。
「相も変わらず、気色悪い思考だな!それにさっきから紫苑、紫苑と連呼しやがって!てめぇが紫苑の名を呼ぶんじゃねぇ!」
猛々しい怒りを道満にぶつける。それなのに、怒りを向けられていない私の胸がズキズキと痛んだ。
・・多分、胸元に入った一文字の古傷が痛んでいるのだろう。
唐突な痛みに顔を小さく歪ませてしまうけれど。そんな私を歯牙にも掛けず、前の会話はぽんぽんと続いていた。
道満が「随分と醜い嫉妬を見せるものだな、いばな童子よ」と、カラカラと笑いながら言う。
「愛おしい女の名を他の男が呼ぶのは嫌か?」
「てめぇがそう易々と名を呼べる女じゃねぇから言ってんだよ」
「私が易々と名を呼べる女ではない、か。では、貴様の方こそどうだ?いばな童子よ。貴様は、紫苑の名を易々と呼べる男であるのか?」
全く、馬鹿も休み休み言って欲しいものよ。と、道満はわざとらしく肩を竦ませ、意地悪く目を細める。
「紫苑に封印された哀れな男、それが貴様であろうて」
ニヤリと意地悪く告げられた真実に、私は愕然としてしまう。
「いばなを封印したのは・・紫苑?」
ボソリと独りごちる様に驚きを吐露してしまうと、道満が「そうだとも」と強く首肯する。
「其方が其奴をその手で封印したのだ。故に、約五百年と言う長い月日を、其奴は其方の封印の中で眠り続けていたのだぞ。応仁の戦火で封印が焼けなければ、其奴はこの現世に現れる事はなかったであろうな。全く、運だけは良い男よ」
今の今まで踏み込んで来なかった、否、踏み込めなかった話が次々と明かされていく。思いがけない形で知ってしまった事実に、私は呆然としてしまった。
「・・どうして、紫苑がいばなを?」
「ようやく目が覚めたのであろう。誑かされていただけだ、と」
道満は朗らかに笑いながら答えたが。目の前のいばなが「よくもそんな事をまことしやかに言えるものだな!」と食ってかかった。
「俺と紫苑をいがみ合わせ、紫苑に俺を殺す様に仕向けたのはお前だろうが!道満!」
新たな告発に、私は「えっ?」と驚きを発してしまう。
いばなはその驚きに答える様に「全て、てめぇの最低最悪の思惑だよなぁ?!」と、声を張り上げた。
「お前は自分が紫苑の隣に居座る為に、俺達の仲を引き裂く為に晴明を殺した!晴明は紫苑にとっちゃ命と同等に大切な存在だったからな。そんな奴を俺が殺したと唆せば、人を信じて疑わねぇ紫苑は簡単に自分の元に落ちる。更に殺気立つ紫苑を俺にぶつけさせれば、俺にも紫苑に裏切られたと言う怨念が抱かせる事が出来る!てめぇにとっちゃ、一石二鳥に進む上手い手だったって訳だ!」
怒髪天を衝きながら語られる過去の全てに、私は「そんな」と絶句してしまう。
それと同時にハッとして、気がついた。
「まさか、此度も!」
絶叫する様に声をあげると、「そうだ!」と目の前から力強い肯定が飛ぶ。
「武田を呪詛で殺し、自分の存在をわざと大っぴらにして俺達を誘う。そうしてまんまと釣られた俺達を家臣等と鉢合わせれば、憎しみが生まれる場が誕生だ!そして俺達を討伐する為に家臣共を躍起にさせ、てめぇは千代の元に駆けつけ俺を殺せと唆す!」
てめぇの姑息な手は昔と変わらねぇなぁ!と、バッと切っ先を突きつける様に刀を掲げ、いばなは煮えくり返る怒りをまっすぐ道満にぶつけた。
すると道満はわざとらしく口元を綻ばせてから、「姑息な手?」と首を傾げる。
「違う、違うぞ。いばな童子よ、これは姑息ではなく最善の手法と言うもの。如何せん、紫苑をこちらの物に容易く出来るし、歪み合わせれば二度と結ばれようと言う気には・・ならぬであろう?」
愛は容易く憎悪に変わるからの。と、道満は囁く様に答える。
一切悪びれず、堂々と言ってのける姿に、私は言葉を失ってしまった。
あまりにも卑怯で、自分勝手で、惨たらしい策を実行したと言うのに。何故、そうもあっけらかんと出来るのか分からない。
だからこそ。だからこそ彼は恐ろしくて、悍ましいのだ・・。
ゴクッと固唾を飲み込むと。道満は「紫苑」といやらしい声音で呼んだ。
「何故、この私をそんな目で見る?全ては其方の為ぞ!私と再び愛を交わせる様に」
「だから気色悪ぃ事を抜かすな!」
胸に手を当てて熱弁する道満の言葉を遮り、いばながバッと駆け出す。
「平安の亡霊の分際で、今世をぐちゃぐちゃとかき乱すんじゃねぇ!」
全ての怒りをぶつけんと、いばなはバッと素早く刀を振り下ろしたが。
道満が何やらぶつぶつと呟いた刹那、いばなの刀が突然木っ端微塵に砕け散った。
そしてその破片達がふわふわと浮かび、シュッシュッと礫の様に次々と襲いかかる。
いばなの身に、そして私の身にも。
広範囲且つ、直射や曲射と言った変化が付いた攻撃。
身を守る呪を展開させようとしたが、すでに破片の数々は私達の眼前に迫っていた。
身の危機と言う切羽詰まった焦りが、己の冷静をがぶりと喰らう。
更に煩雑とした脳内が行動の最善をもたつかせ、最善を行こうとしている私を後手に回らせた・・けれど。
突然、視界がボッと千草色に染まった。
思わぬ出来事にぎょっと目を見張ると、大きく開かれた視界が鮮明に「今」を映す。
なんと私の全身が千草色の火に包まれ、火だるまとなっていた。そして私を包む火が、迫っていた脅威を次々と飲み込み殺して行く。
余程の高熱なのだろう、飲み込まれた瞬間に飛び込んできた物は全てジュッと跡形もなくなっていた。
けれど不思議な事に、火に包まれている私はそんな灼熱を一切感じない。感じるのは、ぽかぽかと居心地の良い温かさだけだ。
これは、この温かい火は、いばなの鬼火だわ!
いばなが守ってくれている。その事実に気がつくと、こんな時だと言うのに胸に嬉しさやらが込み上げてきてしまった。
だが・・。
「私の目の前で、よくもそんな真似を」
道満からおどろおどろしい声が発せられたと思えば、私を包んでいた鬼火がべりべりと剥がされ、彼の手中で消されてしまう。
「まるで自分の物だと言わんばかりだな、いばな童子よ」
「実際そうだからな」
いばなは淡々と打ち返すと、「理解してねぇのはてめぇだけだ」と吐き捨てる。
「この女が俺の女だと言う事も、紫苑ではない別の女だと言う事もな」
「紫苑ではない別の女、だと?」
道満はわざといばなの言葉を繰り返して強調し、フッと嘲笑を飛ばした。
「封印されたからか?少し見る間に阿呆に拍車がかかっているぞ、いばな童子よ」
道満はせせら笑うと、後ろに居る私に向かって蠱惑的な笑みを向ける。
「生まれ変わりを別の女だと申すとは、愚かにも程がある。のう、そうは思わぬか?」
「私が、紫苑の生まれ変わり?」
ボソリと独り言つ様に零すと、道満は満面の笑みで「そうとも」と強く頷く。
「同じ魂が故に同じ顔、同じ声、同じ霊力を持っているのだよ。これで別人と言えようか?否、言えやしないとも」
・・私が、紫苑の生まれ変わりだった。
艶然と告げられた言葉に、私は呆然としてしまう。
けれど上からストンと落ちて、空いた穴にピタリと填まる欠片の様に「嗚呼、やはり」と、冷静に受け止める自分もいた。
そんな自分が居る事に、また「やはり」と思う。
本当は始めから気がついていたのだ。姿は見えずとも、常に誰かの渦中にいる紫苑とは自分の前身の事ではないかと。
しかしそれを今の今までうやむやにし、遠ざけていたのだと。
私は唇をキュッと一文字に結んだ。
いばなや天影様、百鬼軍の面々と紡いだ絆は、前身である紫苑の延長だったのだろうか・・。
私の前身が紫苑であったから、今の私がこうなれたのだろうか・・。
嫌な想いがぐるぐると渦巻き、後ろ向きな考えばかりが並ぶ。
そんな事は無いと強く否定したいのに、声を上げる自分が後ろにドンドンと引きずられてしまい、抗う声が小さくなっていく。
もう、私一人では、この想いを止められなかった。
私、一人・・では。
「道満よ。生まれ変わりだから同じ女だと見る方が、愚鈍極まりないぞ」
ズバッと唾棄する様な言葉に、私の全てがハッとさせられる。
「この女のどこをどう見れば紫苑と見る事が出来るのか、教えて欲しいものだな。紫苑は、こんなにも強情で勝ち気で喧嘩っ早くて男勝りで」
突然流暢に流れ出した私への誹りに、思わず「いばな!」と怒声を張り上げて彼の言葉を遮る。
いばなは親指だけを私に向けて「紫苑はこんな風に食ってかからねぇぞ!」と、反省の色を一切見せずに声を張り上げた。そして何事もなかったかの様に「良いか、道満」と、しかつめらしく言葉を継ぐ。
「この女は紫苑でも誰でもない、千代と言う別の女だ。何度も真っ向からぶつかった末に惚れた、大切な女だ」
何度も真っ向からぶつかった末に惚れた、大切な女だ・・。
頭の中で、何度もその言葉が反芻する。
大きく、温かく、苦悶してのたうっていた私をふわりと優しく包み込んだ。
その温かさにじわりと目から喜びが込み上げ、ポロリポロリと静かに頬を伝う。
震える唇で「いばな」と愛おしい彼の名を呼ぶと、いばなは肩越しにチラと一瞥してから道満と対峙した。
「てめぇと言う害悪には邪魔をさせやしねぇ。もう二度と、だ」
物々しく言葉をぶつけ、「来いよ、亡霊」と拳を掲げて挑発する。
「今ここで、てめぇの下らねぇ筋書きを・・いや、平安から続く因縁をぶっ壊してやる」
いばなの研ぎ澄まされた妖気が、バリバリッと青い雷となって空気中に迸った。
威嚇にしてはあまりにも強大で、外の妖怪達が泡を食い逃げる声がこちらにまで聞こえる。
守られる様にして彼の後ろに立つ私でも、今のいばなの妖気には萎縮してしまう。
けれど、一人だけは違った。
まるで場の空気が読めていない痴鈍の様に、道満は呵々大笑とする。
その笑いは、狂気でしかなかった。いばなの妖気とはまた違った恐怖が、いばなの妖気を乗っ取りながら広がっていく。
「やはり貴様は救いようがない阿呆ぞ、いばな童子!筋書きを壊すも何も、とうに貴様は私の手の平の上!今更壊そうと足掻いた所で遅いわ!」
ハハハッと手を広げて叫ぶと同時に、彼の影から真っ黒の異形の手がニュッと幾本も伸びた。
闇から伸びる手は、いばなをこちらに引きずり込まんと素早く襲いかかる。
いばなはバッと飛び退いたが、その手はにゅるんと蛇の様にうねり、再び襲いかかった。
私はその闇に向かって五芒星を描き、「清浄!」と声を張り上げた。
聖なる白の輝きを纏った五芒星が、闇の中に大きく現れ、伸びる無数の手がボロボロと光の中で消えていく。
「相変わらず其方の霊力は凄まじく、そして美しいの」
道満が目をやや見開きながら、私に賞賛を送った。
私は貰っても何一つ嬉しくない心からの賞賛を無視し、目の前にストンと降り立ったいばなを慮る。
「いばな、大丈夫?」
「無論だ」
いばなは唾棄する様に答えてから体勢を整えた。
「悪いが、千代。俺を阻む雑魚共を頼む。俺はその間に奴を殺すから」
奴を殺すと言う残忍且つ真剣な言葉に、私は「駄目!」と噛みつく。
「身体は徳にぃ様なのよ!徳にぃ様は操られているだけなの、絶対に傷つけないで!!」
「側の事なぞ知るか!内に宿る奴を引きずり出すには、心の臓を止めるしかないのだぞ!」
「そんなの嘘よ!絶対、他に方法があるはずだわ!」
悲痛な声で食い下がると、「これは禁忌の呪での」と蠱惑的な声が口を挟んできた。
「私が外に出ぬ限り、この者は自我を取り戻す事はない。しかし肉体のない私は得られた肉体を容易に捨てようとは思わぬからな。私がこの肉体を不要とするまでは永遠にこのまま。故に、いばな童子の言う通り。肉体の自我を取り戻させたければ、私にこの身体を不要と思わせねばならぬ」
道満は鼻高々に術の破り方を明かすが、「それにしても」と少々顔を曇らせる。
「おかしいの。何故、貴様がこの呪を破る方法を知っておる?」
「てめぇに教える義理はないが。博識の青狸が横に居るおかげだろうな」
道満の投げかけに、ぶっきらぼうに答えたいばな。(相変わらずの蔑称に「またそんな呼び名を・・」と、私は渋面を作ってしまう)
道満は「青狸?」と怪訝な顔をして呟いてから、「まぁ良い」と尊大に言った。
「では、その博識の青狸とやらはこの話も知っているかの?」
「・・何の話だ?」
含み笑いで投げかけられる疑問に、いばなは警戒を剥き出しにして答える。
道満はその声にくっくっと喉を鳴らしてから「あの夜の事」と囁く様に言った。
「貴様を封印した後の紫苑の事よ。いばな童子よ、貴様は紫苑の最期を知っておらぬだろう?」
「・・天然痘にかかって死んだのだろ」
苦々しく打ち返すいばなの言葉で、前身の死を知ると言う、何とも不思議な感覚に私は陥ったが。
道満は「ハッ?!」と嘲笑を飛ばし、「天然痘?!」と大仰に驚いた。
「博識の青狸とやらは、まこと博識か?私から言わせれば、その者は博識ではない!げに見事に見ぬ京の物語を語る者ぞ!」
「・・何だと?」
「いやはや、恐ろしい話ではないか!世を震わせる程の赤鬼が二枚舌を持つ狸に化かされるとは・・クックッ、げに滑稽!」
いばなだけではなく、天影様の事まで侮蔑し始める道満。
大切な二人を目の前で嘲罵され、私はムッと嫌悪と怒りを露わにして道満を睨めつけた。勿論、いばなも「おい」と滾る苛立ちをぶつける。
「回りくどく言ってねぇで、端的に話しやがれ」
けんもほろろにぶつけるが、道満の笑みは崩れる事はなかった。
それどころか「では、端的に教えてやろうぞ」と上から目線の物言いで答え、益々邪悪と化した笑みを見せつける。
「いばな童子、紫苑は天然痘にかかって死んだのではない」
「・・何だと?」
今まで信じていた話に初めて大きくヒビが入った。それを生まれた動揺が大きく枝を広げていく。
道満はぐらりぐらりと揺らぐ彼を煽る様に「誓って嘘ではないぞ」と、呆れた顔を見せた。
「知っているであろう?あの時、私は紫苑の側に居た。つまり最期の時も、私はその場にいたと言う事よ」
ニヤリと口角を上げて告げると、意地悪く細められた目が私にゆっくりと向く。
「其方の一度目の死はあまりにも悲しく、哀しく、そしてあまりにも愚かであった」
私は「・・愚か?」と、キュッと眉根を寄せた。
「そう、其方は愚かであった。あれを愚かと言わずして何と言うのか・・」
道満は顎に手を添えながら、遠い過去を眺める様に遠い目で答えた。
するといばなが「何度も言わすな!」と、怒髪天を衝く。
「ぐちゃぐちゃ言わず、さっさと言え!」
荒々しい怒りがぶつけられるが。道満は「真実をそう易々と明かしてしまうのは、味気がないであろう?」と、いばなの怒りをひらりと躱した。
そして掴みかかろうと伸びるいばなの手が、自身の胸元に達する直前で「紫苑が亡くなったのは、貴様を封印した直後だ!」とわざと声を張り上げる。
伸びていた手がピタリと虚空に留まり、いばなの中に刻まれたヒビがバキバキと嫌な音を立てた。
「貴様を封印した紫苑はその後すぐに、懐刀を手にし、封印された貴様の前で自刃したのだ!」
あまりにも衝撃的であまりにも凄惨な真実に、私は絶句してしまう。
どんな思いで、彼女が自刃したのか。どうして彼女が自刃と言う道を選んだのか。
それが分からないいばなでも、それを読めない私でもなかった。
紫苑はいばなを愛していた。
だから彼女は、いばなの前で自刃する道を選び、進んだ。紫苑の中では、抱かされた憎しみよりも、抱き続けた愛の方が大きかったのだ。
筆舌に尽くしがたい苦痛が容赦なく襲う。
でも、その時の紫苑の心はこんな痛みでは済まなかったはずだわ・・。
私はズキズキと痛む胸元に拳をギュッと強く押し当て、襲ってくる苦痛を奥歯できつく噛みしめる。
憎悪と愛が入り乱れる苦しさ、もう二度と愛する者に逢えない辛さ、今世では結ばれる事がなくなったと絶望する悲しさ。
紫苑、貴女の痛みは想像を絶するものだわ。
同時にそれらを全て抱えなくてはいけなかった貴女を思うと、本当に胸が張り裂けてしまいそうになる。
・・けれど、ごめんなさい。今は貴女を想っている場合ではないの。
貴女の想い《いたみ》も、今の私には足枷になってしまう。
ただ、怒りだけを抱かせて。その怒りを貴女の道を歪ませた邪悪を祓う為に使わせて。
そして前身である貴女の無念を後身である私が、いばなと共に必ず晴らすから。
私は目の前に居る憎い仇をキッと強く睨めつけた。
「絶対に貴方を許さないわ、蘆屋道満!親方様の敵、そして紫苑の敵。必ず私が討ってやる!」
「怒る顔もげに愛らしいの」
とんちんかんな事を口にされ、煮えたぎる怒りが更に高温になり、バァンッと激昂しそうになるが。「しかし」と続く言葉が、私の怒りを少々制する。
「其方一人ではどうする事も出来まいよ」
「私は独りじゃないわ!」
「立ち向かう姿は二つでも、今の其方は一人と変わりあるまい」
道満は意地の悪い笑みを見せつけてから、いばなを指差した。
嫌な予感に急き立てられ、バッといばなの前に躍り出ると。いばなの目は虚ろになり、口からはぶつぶつと弱々しい言葉が並べられていた。
蚊の鳴く様な声が紡ぐ言葉はどれもこれも悔恨に塗れていて、奥底に眠っていた紫苑への想いが次々と表に溢れ出す。
「だからあの時・・俺の身体に・・紫苑、お前が・・」
「いばな、いばな!しっかりして!」
目の前で切羽詰まった声を張り上げ、いばなの身体を揺さぶったが。いばなは依然として遠い過去に囚われたままだった。
いつもなら私の声にすぐ反応してくれるのに、目の前で泣きそうになっていたら必ず助けてくれるのに・・。
「いばな!しっかりして、お願い!お願いだから、元に戻って!いばな、いばな!」
どんどんと彼の名を呼ぶ声が悲痛になっていく。
それでもいばなは遠い昔から戻らなかった。
紫苑が隣にいる今のいばなには、先に居る私の声は届かない。
遠すぎる・・。
嗚呼、分かっていたはずなのに。いばなもずっと紫苑を愛していた事なんて。最期まで苦しみ、悲しみ、酷薄な運命を嘆いたのは紫苑だけではなかった事なんて。
分かっていたはずなのに、分かっていたはずなのに・・!
私の胸がズキンズキンと今までにない程痛み始め、「う、あ」と苦しみもがく声が吐き出される。
それでも、いばなには何も届かなかった。
「・・いばな、お願い。戻って来て、私の声を聞いて」
段々と視界が歪み、震える声も掠れてくる。彼を揺する力も、徐々に弱々しくなってしまう。
「嘆かわしいの、嘆かわしいの。其方はそこに居ると言うのに、愚か者は其方をちいとも見ておらぬ。嘆かわしいの、嘆かわしいの」
朗らかな声が茶々を入れてきた。
私はその声にバッと振り向き、生まれて初めての激情を孕んだ目でしたり顔をする仇を睨めつける。
「もうこれ以上、貴方の好きにはさせない!私が貴方を倒す!」
涙を振りまきながら力強く宣誓し、五芒星を描くと共に「悪しき闇を祓いたまえ!」と声を張り上げる。
「六根清浄急急如律令!!」
「剥魂閻浮《はっこんえんぶ》!」
私の怒声に道満の声が重なった。
聞いた事のない呪に眉根を顰めた刹那、五芒星が道満の足下にぶわっと現れ、円筒にそびえ立つ眩い光の中に道満を閉じ込める。
するとすぐに聖なる白の世界の中で、ドサッと邪悪の影が膝から崩れ落ちた。
それと同時に、聖なる白の光がゆっくりと消え、中の存在を解放していく。
・・何かの呪が重なったから、破られるか、消されるかを予想していたけれど。そうはならなかった。
私の呪の方が強かったから、と言う事なの?
予想していた事態が何も起きず、私は怪訝に眉根を寄せた。
私の力が上回っていたと言う事ならば喜ばしい事だし、これで一件落着と安堵出来るけれど。最期に道満が唱えた呪は聞いた事のない、禍々しい呪だった。
本当に、こんな呆気ない終わりになるものだろうか・・。
蠢く不穏を肌で感じながら、倒れて動かなくなった身体をジッと見つめた。
すると突然いばなの身体がぐらりと前のめりに揺れ、ドサッと地面に突っ伏した。
「いばな?!」
思わぬ事態に目を剥き、私は慌てていばなの横に膝を突く。
「いばな!どうしたの、いばな!?」
声を張り上げて揺するが、いばなは返答しなかった。
さっきは過去に意識が囚われていたからだけれど。今は、その囚われている意識すらない・・!完全に気絶している!
何故、突然こんな事に?!と、いばなの顔の横で狼狽していると。後ろから「うう」と小さな呻き声が漏れた。
その声にバッと反応して見ると、微塵も動かなかった身体がゆっくりと起き上がり、頭を抱えながら「なんだ・・一体」と、弱々しい声で独り言つ。
私はその独り言に、目を大きく見開き、慌ててそちらに駆け寄った。
「徳にぃ様!徳にぃ様なのですね?!」
戻って来た徳にぃ様に歓喜を浴びせると、徳にぃ様は目を何度も瞬きながら「千代・・?」と私の名を呼ぶ。
「何故お主が?・・いや、ここはお主の家か・・いや、待て。何故、私はお主の家に居るのだ?」
頭を抱えながら辿々しく混乱を吐き出す徳にぃ様に、私は「覚えていらっしゃらないのですか?」と少々目を丸くして答えた。
すると徳にぃ様は私の問いかけに狼狽しながら、「その様だ」と胸の内を明かす。
「私の中に大きな空白がある様で、何が何だか・・まるで覚えておらぬし、何も分からぬ。お主をあの鬼から引き止めた後から、今までの事が・・どうも記憶にない」
私を引き止めた後から今まで頭にない。と、言う事は道満が入ったのは、私と別れた直後。そして出て行ったのは今さっきと言う事になる。
・・私が祓ったから徳にぃ様が解放された?
心の臓を貫かずとも、清浄の呪で邪悪が全て祓いきれたと言う事、よね・・?
釈然としない現実が、ざわりざわりと嫌な予感をさざめかせる。最悪が蠢動する音が、耳元でぞわぞわと聞こえた。
・・まさか、まさかあの呪は!
私がパッと彼の方を見ると、丁度床に伏せっていた身体がむっくりと起き上がった。
私はその顔を見た瞬間、「そんな」と絶句する。
「これで、其方と愛を交し合えるの。紫苑」
あの禍々しい笑みが、あの悍ましい狂気が、愛しい彼の内側から発せられた。
「・・そんな」
私は彼の前で閉口すると、目の前の彼は「どうしたと言うのだ?」と、ニヤリと目を細めた。
「もっと愛らしい目で射抜いてくれても良かろうて」
いばなの顔なのに、いばなではない禍々しい笑みがクックッと零される。
「・・いばなを返して」
絶望に陥りながらも、私は己を奮い立たせて彼の内に入った道満に食い下がった。
「そう深く考えずとも良い。今の私は其方の愛する存在、其方は私に愛を注ぐべきであろう?無論、私も其方に深い愛を与えよう」
・・何を言っているのか、全く分からないわ。
愛しい存在、だけど、今の彼は愛しい存在ではないのに。どうして愛を注ぐべきなんて言えるのか、分からない。
やはりこの人は、狂っている。とんでもない程に。
呆然とする心の内で、訥々と言葉が並ぶ。色々と気持ちが入り乱れているせいか、並ぶ言葉はどれもこれも端的だった。
どんどんと内で溜まっていく言葉、けれど外に出るのはただ一つ。
「いばなを返して」
同じ事を剣呑に繰り返す私に、彼の口から呆れたため息が吐き出された。
「ようやく私が入れるまでに精神を弱らせたのだ、返す訳があるまいよ。私は其方を想い、其方と愛を交す為にこの器を選んだのだぞ。まこと嫌な器であったが、其方と愛を交す為に仕方なく入ったのだ」
そこの器では駄目だったからな。と、彼は徳にぃ様に冷笑を向ける。
「そこの者は其方を一人の女性として愛しく想っていたし、其方を揺さぶるに丁度良い器であった。上手く行けば想い合えると思ったが、やはりこの器でないと駄目であった様だ」
かくんと首を傾げながら告げると、りぃんりぃんといばなの鈴が鳴った。
私の中でブチッと何かが弾ける。
「・・ち、千代。私は、私は」
「分かっております」
羞恥に苛まれた声を力強く遮って答えてから、私は目の前の彼を睨めつけた。
もう私の中に絶望に打ちひしがれる「私」は、どこにも居ない。
徳にぃ様の想いを踏みにじられ、いばなを弄ばれ、ようやく絶望と言う棘から解放されたのだ。
「徳にぃ様のせいではなく、貴方だから駄目だったのです。人の想いを踏みにじり、人の想いを貶す貴方だから駄目だったのですよ」
「・・今、何と?」
「貴方がいばなに入ろうが、他の誰に入ろうが、私が貴方自身を愛すなぞ絶対にあり得ませぬ。そう申し上げました」
毅然として告げると、目の前の顔がぐにゃりと絶望に歪む。
「聞き間違いかの?今、其方は、私とは想い合わない。そう申したのか?」
「驚く事は何もないでしょうに。私の大切な者を貶し、踏みにじり、弄ぶ存在なぞ誰が好きになりましょうか」
ふんと鼻を鳴らして告げると、突然彼がぶるぶると震えだした。
「私は、私はこれほどまでに其方を想っているのに!どうして其方は、此度も私に想いを返してくれぬのだ!どうして私ではなく、こんな奴に懸想をするのだ!どうして私だけを踏みにじるのだ!」
悲痛な顔で痛切な声で訴えだす道満。
私はそんな彼を凍てついた目で射抜きながら「貴方はまるで駄々をこねる童の様」と冷淡に告げる。
「振り向いて、振り向いてと喚くだけ。貴方は正面から想い人を振り向かせようとする事もなく、周りを無理やり刮いで、想い人を強引に孤立させようとしているだけ。それで想いを返して欲しいなんて、図々しいにも程がある」
冷徹に唾棄すると、目の前の彼が「なんて事を言うのだ!」と絶叫した。
「私の想いを無下にするばかりか、この私を侮蔑するのか!」
私の言葉が想像以上に彼の理性を抉り、内に秘める狂気を全開にさせる。
けれど、私はそれに怯む事もましてや臆す事もなかった。
「その痛み、その怒り、元を辿れば全て貴方が蒔いた種。こちらを責めるのは筋違いと言うもの」
いえ、初めから貴方は筋違いでしたが。と、肩を竦めて冷笑を零す。
その笑みに、目の前の彼は「よくも、よくも」と怒りに震えだしたが。突然スッと冷静になり、ピタリと震えを止めた。
その恐ろしいまでの切り替えの速さに、私は並々ならぬ不気味さを覚える。
警戒心を一気に高め、彼の一挙手一投足を見逃さない様に目を大きく開いた。
そして大きく見開いた双眸が、彼の不気味な笑みを鮮明に映してしまう。
「・・良い、良い」
ゾクゾクッと総毛立つ様な声が発せられ、道満はトンといばなの胸を指先で軽く叩いた。
「今の其方は、此奴に毒されておるだけだからの」
トントンといばなの胸を叩く道満に、不穏がぶわりと波を打つ。
私はグッと拳を作って沸き立つ恐怖と不穏を押さえ込み、「・・いばなの身体を弄ばないで」と剣呑に言った。
「私にとって毒なのは貴方。だからいい加減、いばなを返して」
「ふむ、やはり此奴に毒されすぎておるわ。この私が直々に其方の目を覚まさせてやろう」
道満はいばなの顔でフッと笑うと、バキバキと指の骨を鳴らした。
「いばな童子に殺されれば、目も覚め、その恋心も泡沫に消えるであろうよ。そして其方は理解する、いばな童子と結ばれる事はあり得ないのだと」
ずっと蠢動していた最悪が目の前にぬるりと顕現し、ゆらりゆらりと私の方に歩み寄ってくる。
「千代に手を出すな!」
徳にぃ様が声を張り上げ、シャッと刀を引き抜き、止めにかかるが。道満は「其方に用はないぞ」と底冷えした声で告げてから、徳にぃ様を吹っ飛ばした。
「徳にぃ様!」
私が悲痛な声で叫ぶと同時に、徳にぃ様はドンッと強く壁に背を打ちつけ、その場で伸びてしまう。
そして視線をパッと前に戻すと、いばなの身体を乗っ取った道満の手には徳にぃ様から奪った刀が握られていた。
「これで邪魔者はおらぬ」
道満はフフと蠱惑的に告げると、私にわざと刀を見せつける様に構える。
「紫苑よ、私に想いを返すならば生かしてやろう。だが、返さぬと言うのならば今世はこれで終いだ。来世でまた想い合おうぞ」
案ずるな、私は何度でも其方を見つけ出してみせよう。と、道満は口元を柔らかく綻ばせて刃を私の喉元に突きつけた。
・・今のいばなは、いばなじゃない。
そう分かっているけれど。いばなに殺されかけ、死を目の当たりにするのはこれで三度目ね。
でも、それを目にする度に、いばなが助けてくれた。
本気で殺す気でいて、本気で殺されると思った所から、私達は始まった。そんな私達の終わりが、始まりと似た様な形だなんて実に私達らしい。
「何を笑っておるのだ?」
怪訝に問いかけられる言葉で、私はようやく自分の口元が緩んでいる事に気がついた。
私はフフと笑みを零してから「先に見つけるのは、貴方じゃないわ」と囁く様に告げる。
そして見据えた、私の愛しい人を。
「私達は何度も引き裂かれる運命かもしれないけれど、必ず出逢って恋に落ちる運命にもある。だからいばな、来世でまた逢いましょう。私はこの糸をたぐり寄せて貴方を探すから、貴方も私を探して。そして出逢ったら、またそこから、共にこの糸を紡ぎましょうね」
何の後悔もない。と言う様に、ニコリと彼に笑顔を見せる。
「・・残念だ」
嘆かわしいと言わんばかりの顔で吐き出される憐憫に、私は「残念な事は何もないわ」と満面の笑みで堂々と言い返す。
「また新たな形で、いばなと出逢える楽しみでいっぱいよ。だから早く、この身にその刃を貫いて欲しいわ」
胸を躍らせながら答えると、目の前の顔に影が落ちた。
「・・これ以上、哀れで愚かな其方を見ていられぬ」
道満は底冷えした声で冷淡に告げると、ゆっくりと刀を掲げる。ぽっかりと空いた天井から射し込む仄かな月光を受けて、キラリとその刀身が光った。
私は大きく手を広げて、その刃を正面から堂々と待ち受ける。
私はいばなを愛している、それはもう言葉にし尽くせぬ程に。
だから結ばれる為の足がけとなるならば、喜んでこの命を終わらせる。悔いも未練も何もないわ。
私はフフッといばなに向かって微笑んだ。
「いばな、三度目の私はどんな人柄になるか分からないけれど。私の愛は永遠に変わらないから、私の愛を忘れないでいて。約束よ」
言い切ると同時に、鋭い切っ先が振り下ろされる。
私はゆっくりと目を閉じた。
その時だった。
「・・いい加減。一方的に、物を言うのはよせ」
・・・
「この、阿呆め」
苦しみに冒されていながらも、聞き間違う事のない愛しい声に、私の目がカッと大きく開いた。
私を斬ろうとしていた刃が、私の眼前でカタカタと震えながら止まっている。その刀にハッとしてから、いばなを見ると顔から禍々しさが消えていた。
「いばな!」
元に戻った彼に歓喜するが。いばなは少し弱々しく口角を上げただけで、すぐに苦しげな呼吸を繰り返し、苦悶に表情を歪ませた。
そしてその顔に禍々しさが半分戻り、「馬鹿な」と道満が驚きの声を零す。
「貴様はもう壊れていたはずだぞ」
「・・亡霊と言えど、てめぇは人間だ。人間が、俺の魂を乗っ取れる訳がないだろう。大うつけめ」
道満の声といばなの声、二つの声がいばなの一つの口から飛び出した。
元に戻ったと思ったけれど、完全に元に戻った訳じゃないのだわ!
今、肉体を取り戻そうといばなが内で道満と戦っている!だから早く内から道満を追い出さないと!
「待ってて、いばな!今私が道満を祓って」
「待て」
私の切羽詰まった声を苦しげな声が制する。
私はその声にピタと止まると、目の前のいばなから柔らかな笑みが零された。
「初めて、一度で、俺の言う事を聞いたな」
この切羽詰まった状況下で、あまりにも素っ頓狂な言葉が目の前からかけられる。
私は思わず「いばな!今はそんな事を」と、声を荒げてしまうが。「言っている場合じゃねぇ」と、いばなが冷静に先を取って言った。
そして苦悶に顔を歪ませたまま「良いか、これからは、黙って聞け」と、ぶっきらぼうに言われる。
その弱々しい懇願に、怒りがすぐに沈静され、私は素直に首肯した。
いばなはその頷きを見てから、「千代」と私の名を力強く呼ぶ。
「此度は俺が先に逝く」
突然告げられた別れの言葉に、私は言葉を失ってしまった。
まさかそんな事を言われるとは、夢にも思っていなかったから。
けれど、閉口する私を前にいばなはどんどん言葉を紡ぎ続けた。
「お前の良さの一つだ。何が起きても着丈で、頑丈な所。それがあるから、何も心配はしてねぇ。後追いもしねぇだろうし、元気なままで天寿を全うすると思う」
「辞めて」
ようやく言葉がボソリと吐き出されると、一気に熱を持った目頭からボロボロと涙が零れ落ちる。
「もう、それ以上言わないで。辞めて」
歪む視界でいばなを見つめながら、剣呑に言葉をぶつけた。
いばなから呆れ混じりに「俺の話を最期まで聞けと言ったはずだ」と吐き出されるが。私はすぐさま「嫌!」と強く食い下がった。
「絶対に嫌!聞かない、私は何も聞かないから!」
「さっきまで一人べらべらと勝手に喋っておいて。それは虫が良すぎるだろう」
「私がそれを最後まで聞いたら、いばなはどうするのよ!そんな恐ろしい事、絶対にさせないわよ!」
「お前は、俺にもう一度目の前で惚れた女を失えって言うのか!?二度とごめんだぞ、そんな事!」
いばなが怒声を張り上げると、突然「うぐっ」と苦しげな呻きが漏れ、いばなの身体から禍々しい九字が大きく浮かび上がった。
そしていばなの顔が禍々しく歪み「私に隙を与えてくれたとしか思えぬわ」と、悍ましい声が発せられる。
「だが、これで邪魔が消えた。今度こそ、二人で静かに来世を誓い合える」
いばなを乗っ取った道満はニタリと口角を上げると、止まっていた刀をゆっくりと掲げた。
「また来世で逢おう、紫苑よ」
刀が風を切る音がした・・そうかと思えば、ドシュッと肉を抉り抜く嫌な音が弾ける。
そして私の顔にピシャッピシャッと温かい液体が飛んできた。
閉じる事を忘れてしまった眼が目の前の全てを映してしまい、私は絶句する。
私を斬るはずだった刀がいばなの胸を貫いていた事に、いばなの身体からボタボタッと血が吹き出し、私といばなの近辺でまだらに並んでいる事に。
弱々しい手つきで刀を奥まで押し込み、ゆっくりと引き抜いて投げ捨てるいばなに。
私を柔らかな笑みで見下ろすいばなに。
直ぐさま脳がこれは悪い夢だ、と強く言い聞かせてくれるが。涙がピタリと止まり、鮮明となった双眸のせいで、それが容赦なく潰されてしまう。
茫然自失となる私の前で、いばなの口からゴフッと血が溢れ、そして驚きが零された。
「完璧に支配していたと言うのに、何故・・」
「驚く事でも、ねぇ、よ。お前の魂より、俺の想いが、強かった、だけの、話だ・・」
ふらりふらりとたたらを踏んでいたいばなの足が、大地をグッと力強く踏みしめた。
そして「五百年に渡る因縁の蹴りを付ける時が来たな!」と、喀血しながら叫ぶ。
「蘆屋道満、俺と共に地獄へ逝こうじゃねぇか!」
「・・誰が貴様なんぞと、逝くものか!」
道満が初めて声を荒げ、印を結ぼうとするが。内のいばなが強く拮抗し、印を結ぼうとしている手を阻んだ。
「貴様、いい加減にしろ!」
「これ以上、てめぇの好きにさせるか!」
ギチギチと拮抗していた手が急に鋭く向きを変え、胸を抉る刀傷にドスッと突っ込む。
「いばなっ!!」
悲鳴をあげ、彼の名を叫んだ刹那。貫いた手がシュッと引き戻り、私の目に歪な風穴を見せつける。
「・・い、いばな」
呆然としながら彼の名を呼ぶと、目の前の顔が柔らかく蕩けた。
「千代」
いばなは「私の名」を囁く。
そしてブツリと糸が切れた、彼を支えていた糸が。
私達を結んでいた糸が。
切れた。
「いばなぁぁぁぁぁぁっ!」
自分の口から出たとは思えぬ程の絶叫が発せられる。
そして今の今までガチガチに固まっていた身体がバッと動いた。
「嗚呼、嘘よ、嘘よ!いばな、いばな、いばなっ!」
半狂乱のまま彼の元に駆け寄り、彼の顔を見つめながら何度も彼を揺さぶる。
すると突然、ぶわっと彼の身体から黒い霧が溢れ出した。
「これは、其方の自業自得ぞ」
黒い霧から憎い敵の声がすると、その霧は徐々に人の形を取り、見た事もない人間の容姿に変わって行く。
誰かなんて考える間でも無かった。
この男こそ、私達の憎い仇。蘆屋道満だ。
道満はいばなを見下ろしてから、私を冷めた目で射抜く。
「其方が私に想いを返さなかったから、こうなったのだからの」
どこまでも自分勝手で、どこまでも浅はかな言葉に、私はギリリッと音が鳴る程強く歯ぎしりし、「道満!」と声高に叫んだ。
だが、その次の瞬間。道満の身体にぶわっと大きな五芒星が二つ現れ、道満の身体を覆う様にビタンと重なった。
道満は身体の自由を奪われ、うぐううっと呻き声をあげながら暴れるが。その五芒星はびくともしなかった。
私は突如現れた五芒星に唖然とし、困惑してしまう。
何故なら、この五芒星の持ち主は私ではなく、私以上の強い霊力を持った人の物だからだ。
「誰の・・五芒星《セーマン》なの?・・」
困惑しながら独りごちると、「貴女が手を下す必要はないですよ」と、耳馴染みのある艶やかな声が後ろからかかる。
私はその声にハッとして見ると、開かれた引き戸の闇夜から天影様がスッと現れた。
「これは私から始まった因縁なのですから・・全く、私は愚かでしたよ。他ならぬ私自身が終わらせなくてはいけないものだったと言うのに・・」
天影様は独りごちながら、こちらに進んで来る。
私はそんな天影様に釘付けになってしまったが。後ろから突然上げられた素っ頓狂な声のせいで視線がパッと逸らされてしまう。
「ま、まさか、まさかお前か!お前なのか、晴明!」
くるりとひっくり返りながらも、驚きや恐れがしかと込められた声に、私は「えっ?!」と愕然とする。
だが、天影様はそれらに一切反応せず、「晴明、か。随分と久しい響きだよ」と物憂げに独りごちた。
そして私の横で止まってから、「やぁ、道満」と自身に戦く彼と対峙する。
「随分と久しいね。いや、幾度も見かけはしたけれども。こうして面と向き合うのはあの時以来、だからね」
飄々とした問いかけに、道満は「ば、馬鹿な。馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!」と喚き散らした。強い戦慄と衝撃が走った身体をガタガタと大きく震わせながら。
「俺はあの時、確かにお前を殺した、殺したはずだ!それなのに、何故!何故、お前もこの世を生きているのだ!」
「君と同じだよ、道満。私も禁忌に堕ちたから、こうなっているのだよ」
天影様のサラリとした告白に、道満は初めて静かに困惑した。「俺と同じ?」とボソリと呟き、彼の言葉を噛み砕こうとしているが。まるで理解出来ないらしく、その困惑が強まっていく。
すると私の横から「あぁ。厳密に言えば、君と同じとは言えないかな」と、フフッと蠱惑的な笑みが零された。
「私の術は、泰山府君の術と言ってね。君の術の上位互換と言うものかな。ほら、その証として・・魂だけの形だけではなく、私は肉体も手に出来ているのだよ」
天影様は朗らかに言うが。すぐにスッと顔に影が落ち「こうなるまで、色々と苦労したのだよ」と物憂げに自らの胸に、ドクンドクンと鼓動を打つ心臓の上に手を当てる。
「やはり生と言うのは、誰も立ち入る事が出来ない神秘の領域だからね。難しかったよ、こうなるにも、こうなる前も」
耳奥にしかと残る様な最後の言葉に、道満は「分かっていたのか?」と尋ねた。
「お、俺に殺されると言う事を」
底が見えない沼を前にした時の様な漠然とした恐怖に塗れた問いかけ。
天影様はその問いに、微笑を浮かべた。
まるで菩薩の様な柔らかな微笑み、けれど、ひとたび見れば己を見失ってしまうかの様な残酷な微笑。
そして・・問いの答えとしても、充分明らかなものだった。
五芒星に囚われた道満は、彼をまっすぐ見つめながら同じ言葉を弱々しく呟く。「馬鹿な」と。
天影様は「君が嘆く事はないよ、道満」と、諭す様に声をかけた。
「嘆く立場にあるのは、私の方さ。全てを分かっていながらも、それを防ぐ事は愚か止める事すらも出来なかったのだからね。我ながら救いようがない程に愚鈍、遅鈍だと思うとも」
フッと弱々しい自嘲を零し、チラと倒れたいばなを一瞥する。
「だから此度こそは、君よりも迅速に動くとするよ」
それに、こんな煮え湯は二度と飲みたくないからね。と、いばなから目を道満にスッと移して細めた。
今まで静かに五芒星の中で囚われていた道満が、その目に射抜かれて、再び激しく暴れ出す。
「よ、よせ!辞めろ!辞めるんだ、晴明!」
「この戦乱の世を生き抜く為にはね、よせと言われてもやり遂げる非情な心を持っていないといけないのだよ。道満」
にべもなく淡々と答えると、ガタガタと震える様に暴れる道満は「お、俺達は平安の人間じゃないか」と悲痛な声で訴えだした。
「そ、それに俺はお前の友でないか?な?そうだろう?思い出せ、俺はお前の良き友であったはずだ。互いの力を競い合いながらも、互いに認めていたじゃないか」
命の危機を切に感じ取ったのか、道満は天影様もとい晴明様に諂い始める。
幾度も「良き友であった」と主張し、口角を緩やかにあげて阿っている様に、私は閉口してしまった。
ここまでなりふり構わず己ばかりを大切にする人間の姿は、それほどまでに醜い・・。
散々己の都合で命を弄び、他を好き勝手に蹂躙していたと言うのに。己の命に死がかかりそうになった瞬間、こんな風に全てを水に流そうとするなんて。
どこまで自分勝手な男なの・・?
並々ならぬ怒りやら憎悪やらが綯い交ぜになる心中が、彼を見る目を凍てつかせていく。
けれど、天影様は違った。
依然として変わらぬ笑みを浮かべて「そうだね」と、朗らかに言う。
その言葉に、道満は顔を輝かせ「そうだろう?!」と声高に答えた。
「だからこんな事をするべきではない!俺はお前の友」
「だった、ね。今は君と私の間には、何もないよ」
意気揚々とし始めた言葉をバッサリと冷淡に遮られると、「え?」と可笑しな形に顔が歪む。
天影様はクスリと笑ってから「当たり前だろう?」と、哀れみながら言葉を継ぐ。
「今の私は晴明ではなく、鬼の天影だからね。蘆屋道満なんて言う人間と友情を咲かせた事は一度もないよ」
「・・だ、だが」
「君は過去に囚われ過ぎだ」
天影様は辿々しい言葉をピシャリと打ち落とし、「あの時から変わらないものなんて、何一つないよ」と、淡々と告げる。
「時が滔々と流れる、とはそう言う事だからね。逆流する事もないし、止まる事もない。サラリサラリと流れていく。だからね、道満。君もいい加減、前を向いて歩むべきだ・・いや、君も変わる時が来たんだよ」
天影様はスッと顔の前で刀印を結んだ。
道満はヒッと息を飲み、「よせ!辞めろ!」と吠えながら憎悪を孕んだ目で天影様を射抜く。
だが、天影様は止まらなかった。
「蘆屋道満。過去に囚われし、哀れな亡霊よ。徒に他人を嬲り、利己的な理由で数多の命を殺めたお前には、さぞや重い罪が下されよう」
まるで謳う様に告げると、五芒星がかーっと眩く光り始める。それと同時に、五芒星に覆われている道満が「うがあああっ!」と酷く苦しみ出した。
そして天影様がスッとその印相を斬る。
「さようならだ、かつて友であった者よ」
どこか哀しげに言い終えると、バシュッと五芒星が消えてしまった。
星が消え去った衝撃波がぶわりと生まれ、天影様の髪をふわりとたなびかせる。
天影様は乱れた髪を払いながら、「さて」と唖然とする私の方を振り向いた。
「次は貴女方ですね」
天影様はフフと微笑むと、私と対面する様にいばなの傍らに膝を突く。
私は近づく端正な顔を見つめながら「あの」と、弱々しく声をかけた。
すると天影様は「ご安心を」と、ふわりと温かな笑みを浮かべる。
「五百年越しに重なった滝川の水がまた岩に裂かれてしまうなんて事、この私がさせません。まだまだ共に時を流れてもらわねば」
天影様は私を優しく宥める様に言ってから、サッと袖の中から見た事もない札を引き抜き、淡々と唱えた。
「玄武召喚急急如律令」
玄武と言う伝説の四神の名に愕然としていると、ぼふんと煙を立てて艶やかな女性が現れる。肩と胸が大きく開いた黒衣の服を纏っているが、その佇まいは美しい女神の様だった。
「玄武、只今参上仕りましてございまする」
現れた女性は鈴を転がす様な声で名乗る。
こ、この女性が・・四神の一角を担う、玄武様・・なの?
目の前に突如現れた女性に困惑の様な、嘘か真か疑る様な、言葉に言いがたい感情を抱いてしまうが。平然としていないのは、私だけだった。
「悪いのだけれど、もう一度あれを頼むよ。玄武」
「承知致しました」
玄武様は艶然と首肯すると。ふんわりと広がった袖の衣が、しゅるしゅると腕に巻き付く黒い大蛇に変わり始めた。
突然現れる大蛇に私は戦いてしまうけれど。大蛇は平然といばなの顔の前までうねうねと進み、口元に到達するとガパッと大きく口を開けた。
そしていばなの口に向かって、ビチャビチャッと黒い血を吐き出す。そればかりか、吐き出された血が、全ていばなの口の中にどろりどろりと勝手に入り込んで行った。
異様で異常な光景に目を剥き、「あの!」と声を上げしまうが。天影様が「大丈夫です」と私を優しく宥める。
「玄武の血には癒しの力がありましてね。玄武の血を飲むと、どんな状態からでもたちどころに元に戻るのですよ。妖怪相手であれば、その効果はすぐ現れましょう」
天影様は柔らかく微笑んで言った。
私は天影様の言葉に困惑しながらも、いばなの身体に目を落とすと。胸にぽっかりと空いた不自然な風穴が、ぼこぼことひとりでに塞がっていく。
驚き固まって、瞬きを一つした時には、もうすでにその穴は綺麗にがちりと塞がっていた。
・・傷どころか、傷跡すらもないわ。
私は恐る恐る風穴があった場所に手を伸ばし、そっと触れた。
私の指先がいばなの胸板にとんとぶつかり、ゆっくりと降りる手の平が私に伝える。
ドクン、ドクンと力強く打つ、いばなの鼓動を。
私はその音にハッとし、いばなの方に顔を向けた。
刹那、私の視線と彼の視線がピタリと重なり合う。
「・・い、いばな」
「変な手つきで触ってくれるな、妙な気分になるだろうが」
はぁとため息混じりに吐き出される、その言葉に。いつものぶっきらぼうな声に。
私の言葉に反応してくれる、目の前の愛おしい人に。
一気に視界がぶわっと滲み、歓喜が込み上げた。
「いばなっ!」
「うおっ!」
ガバッといばなに飛びついた私の耳元で、ドンッと木に頭を打ちつける鈍い音と、「いっ」と言う短めの呻きが聞こえたが。私はそんな事を気にも止めずに、ただぎゅううっと愛しいいばなを抱きしめた。
すると私の背に腕が回され、ギュッと強く優しい力が私を内に閉じ込める。
その力が言葉に出来ぬ程に嬉しくて、この温かさが言葉に出来ぬ程幸せで。
私は彼の肩に顔を深く埋め、彼を抱きしめる力を更に強めた。
いばなは、そんな私をスルッと横抱きするのと同時に上半身を起こす。
私は少しでも引き離されるものかと首に強くしがみつき、「いばな」と彼の名を呼んだ。
「もう、遠くに行かないで。もう、遠くに行こうとしないで」
「・・あぁ、悪かった」
いばなは私の耳元で囁く様に謝ってから、強く抱きしめ返す。
私は「本当よ」と剣呑に打ち返すが。身体は彼の内に潜り込む様に寄り添い、口元は柔らかく綻んでいた。
「今度こそ、完璧に重なり合いましたね」
背後から聞こえる蠱惑的な声で、私はハッと我に帰った。
す、すっかり二人の世界だったけれど。天影様も玄武様も、目の前にいらっしゃるんだったわ・・!
羞恥がかーっと沸き立ち、私はいばなからパッと離れようとしたが。いばなに軽く押さえ込まれ、私は彼の腕の中に収められたまま天影様と向き合う形になってしまった。
天影様は顔色一つ変えず、柔らかな微笑を称えたままだったが。目の前でずっと想いを交し合う私達を見ていた、と言うのは明白だった。
冷静が更に羞恥を増幅させ、私はいばなの腕の中で激しく身悶える。せめてもの救いは、玄武様がいつの間にかいらっしゃらなかった事だ。
けれど、そうであっても内の私の煩悶は止まらない。
それに比べて、外も内も平然としているいばな。
何故この凄まじい羞恥に襲われないのか、堂々たる平常心を保っていられるのか。私は不思議で仕方なかった。
私からそんな風に思われている事にも微塵も気がついていない、いばなは泰然と天影様だけを見据え「天影」と、ゆっくりと彼の名を呼んだ。
「・・その、なんだ・・」
「辞めてくれるかな」
天影様はいばなの歯切れ悪い言葉を遮って朗らかに言うと、「私は己がすべき事をしただけだからね」と大仰に肩を竦めた。
「君が謝すべき相手は私ではないと思うよ。君は愚かにも一人でさっさと長い眠りにつこうとしたのだから、まずそれを彼女に深く謝るべきじゃないのかな」
柔らかな微笑を称えて告げる天影様。
いばなは少し目を丸くして固まっていたが。ゆるゆると表情を崩し「そうだな」とぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、お前には無しだ」
「あぁ、そうしてくれるとありがたい。心の底から助かると言うものだよ。如何せん、君に謝されるなんて天変地異の前触れかとしか思えないからね」
「・・てめぇは、俺をおちょくらねぇと物が言えねぇのか?」
いばなの額にピキピキッと血管が浮かび上がるが、天影様は無視して私にスッと視線を移した。
「言い忘れておりましたが。太郎殿の事も心配しないでよろしいですよ。ここに来る前に、私が彼を死から呼び戻しておきましからね。大事ありませんよ」
サラリと告げられた衝撃的な言葉に、私は「真にございますか?!」と愕然として答える。
天影様は「えぇ」と朗らかに首肯した。
「私達を殺そうと躍起になっていた者達も鎮めておきました。今は、何事もなかったかの様に日常を送っていますよ。ですから、貴女を捕縛する事もありませんでしょう」
全てが無事。そう分かった瞬間、私は大きすぎる安堵でいっぱいになる。
全身の力がドッと抜け、自分の力では身体を支えられなくなってしまったが。いばながギュッと支えてくれた。
「そ、そうですか。良かった、良かった・・親方様、良かった」
いばなの腕の中にもたれかかりながらボソリと呟き、天影様に頭を下げる。
「色々とかたじけのうございます、天影様」
「私は道満に歪められた物を元ある形に戻しただけですから、謝される程の事ではありません」
天影様は謙遜しながら答えると、「此度こそ、平穏無事に終わって良かったです」と感慨深そうに言った。
そう独り言つ天影様の顔は、とても嬉しそうで・・とても哀しそうだった。
どんな想いが天影様の心中に広がっているのか、私には全てを読み取る事が出来ないけれど。
天影様が今まで歩んできた長い道のりを思えば、経験してきた辛酸を思えば、その心に広がっているものが垣間見えた気がした。
並々ならぬ想いを感じ取った私は「天影様」と声をかけようとしたが。その前に、「いや」と怪訝な声が飛んだ。
「あれは、無事なのか?」
いばなの不穏な指摘に、平穏無事だと思っていた私はハッとある事に気がつく。
まだ平穏無事を取り戻せていない人が、目の前に居る事に・・。
「と、徳にぃ様!」
それから間も無く、天影様のおかげで倒れていた徳にぃ様にも、ようやく平穏無事が訪れたのだった。
あの大騒動から二日後、私は躑躅ヶ崎を発つ事になった。
カランコロンと下駄の鈴を鳴らしながら城門に向かって歩いていると。「千代」と後ろからかかる声に、私の足が止められた。
私はゆっくりと振り向き、声の主である徳にぃ様を見据える。
「もう、行くのか」
憮然とした面持ちで投げかける彼に、私は「相変わらず耳がお早いですね」と小さく肩を竦めてから「ええ」と笑顔で首肯した。
「親方様の折角のご厚意を無下にする事は出来ませんから。これからは、親方様が仰って下さった通りに生きようと思いまする。無論、親方様を支える事は辞めませんよ?親方様が天寿を全うされる、その時までは武田家家臣の千代でおります・・まぁ、これからは今まで通りとはいかず、微力ながらとなってしまいますがね」
「・・左様か」
笑顔で答える私の前で、徳にぃ様は相変わらず暗い面持ちのまま。
私はその表情に唇をキュッと哀しく結んでから、「徳にぃ様」と彼の手を取った。
「千代は幸せ者です。徳にぃ様の様な優しい兄君の妹になれて、徳にぃ様の様な殿方にこんなにも想ってもらえて・・千代はまこと幸せ者です」
キュッとその手を包む力を強めると、徳にぃ様の手が私の手をふわりと優しく包み込む。
そしてまっすぐ私を見つめながら、「千代」といつもの様に朗らかに名を呼んだ。
「もっとお前は幸せにならねばいかん。そうならねば、私が許さぬぞ。どこに行こうとも、これから先もお前は大切な女性なのだからな。幸せになれぬと思ったら、いつでもここに帰って参れよ」
私の多幸を切に願う瞳にまっすぐ射抜かれる。
私の顔はどんどんと幸せに綻び、「はい」と答える言葉が喜びで震えた。
「良いな、千代。必ず、必ず幸せになるのだぞ」
「はい、徳にぃ様」
私が強く頷くと、徳にぃ様はいつもの様に「良し」と答えてからゆっくりと手を離した。
そしてその先を託す様に、徳にぃ様はジッと私の後ろを見つめる。
その視線に促されて、くるりと振り返ると・・。
そこには私の愛しい人が、いばなが立っていた。
私はそんな彼にフフと微笑んでから、徳にぃ様に向き直る。
「では、これで失礼仕りまする。徳にぃ様」
「あぁ、達者でな」
「徳にぃ様も、お体にはお気を付けて。そして武功をどんどんとあげ、その名を日の本全土に轟かせて下さいませね」
「勿論だとも」
徳にぃ様の柔らな微笑を見てから、私はゆっくりと前を向き、そうして一歩ずつ確かな足取りで彼の元に向かった。
一歩、一歩と前に進んで行くと。その空いた距離を縮める様に、いばなから手が差し伸べられた。
私はその手に喜色を浮かべてから、自分の手をその手に向かって伸ばす。
そうしてゆっくりと重なると、二つの手がキュッと絡み合った。
「来るのが遅いぞ」
「それは謝るわ、ごめんなさい。けれど、いばな。これでも大分急いだ方なのよ?」
「でも、遅い」
ぶすっと膨れるいばなに、私は「そこまでへそを曲げる事ないでしょう」と皮肉を放ってしまいそうになったが。
その横顔の愛おしさから、もう離れないと言う様に強く絡み合う手から伝わる幸せから、それはかき消された。
私は柔らかく口元を綻ばせながら「もう良いじゃない」と答える。
「もう私は貴方の元に居るのだから」
いばなは思わぬ返答に、もごもごと言葉を詰まらせてからふんと鼻を鳴らした。
「・・では、許してやろう」
いつも通り、尊大な一言に私はぷっと吹き出してしまう。
いばなはチッと小さく舌を打ってから、私の手を引いて歩き出した。
ああ。やはり、これからも私達はこうやって共に歩んでいくのだろう・・。
共に凄まじく不器用だから、進んで歩む道は須く険しいものかもしれない。幾度も茨が邪魔をし、互いにボロボロに傷ついてしまうかもしれない。
けれど、どんな道であれ、その道が二つに割れる事は決してない。
これから先ずっと、永い一本道を二人で共に歩み続けていく。
・・いいえ。もしかしたら、いつかは二人の道の幅が広がって、隣を歩く者が増えるかもしれないわね。
まぁでも、それはきっともう少し先の道の話よね。
今は、まだ二人きり。
私達は、ようやく隣を歩み始めたばかりなのだから。
了