その翌日から、私の日課が少しずつ形成される。
昼時は歩き巫女として時を過ごし、逢魔が時の近くになると天影様から与えられた宝玉を頼りに百鬼軍の元に赴いた。
武田家お抱えの間者として、そして千代と言う一人の女としても、頭目であるいばなを深く知る為に。
けれど、頭目であるいばなに会えたのは、始めの一日だけだった。
・・まぁ「会えた」と言っても、数分だけ。
彼は天影様に「お前の仕業だな!」と憤激してから、「二度と会うものか!」とやってきた私に唾棄して、どこかに去ってしまったのだ。
それからは、その宣言通り。彼は頑として私の前に現れない。
会って欲しいと天影様経由で頼み込んでも、手土産を持って訪れても現れない。時折、ゴゴゴッと大地が揺れる程の怒気が伝わるので、近くに居るには居るのだろうけれど。姿を見せる事はないのだ。
とんだ無駄足ばかり食い続けている、と思われるかもしれないけれど。決して、そんな事はない。
実を言うと、いばなに拒絶された後は、いつも天影様とお喋りに興じているのだ。
訪れて二日目、すごすごと帰ろうとしていた私に「苦労して参ったのですから、私とお話でもいかがです?」と、天影様が仰って下さり、爾来、私達は言葉を交す仲になった。
いつもいばなについてか、私の身の上話をしている。偶に、百鬼軍の事や妖怪についての時もある。(こうなると、やはり天影様は全てを見透かしていると思わざるを得ないのよね)
故に、そこから、いばなについて知った事が沢山あるのだ。
例えば、いばなは父親譲りの酒豪で、母親譲りの豪腕である事。あまり良く思っていない、兄君が一人居る事。
そして百鬼軍の面々は、いばなに挑んで返り討ちにされた者や、崇敬している者達で構成されていると言う事。いばなの気分で進んでいるから、これと言った目的地はなく、北上している意もないと言う事など。
依然として本人との距離は遠いままだけれど、その道を辿る為の光を集める事が出来ているのだ。
だから決して無駄足なんかではない。
・・けれど、これがずっと続くのは嫌だとは思うわ。
拒否され続けるのが虚しいし、悲しいと言うのもある。紫苑ではないと死の証明を乗り越えて、認めさせたはずなのに何故「私」が拒絶されるのかと言う怒りも、勿論ある。
でも一番の理由は、天影様からではやはり彼に深く踏み込む事が出来ないし、彼に近づく事も出来ないからだ。
天影様もそれを分かっているから、肝心な部分を「いつか、いばなから聞いた方がよろしいですよ」と、曖昧模糊にするのだと思う。
だから彼と私の間にある壁を壊して内側に踏み込むには、やはり彼の目の前で壊すのが最善と言う事なのだ。
あぁ、早くこの状態が解けます様に。そして互いの目を見て、沢山の言葉が交わせます様に。その為に、早く彼の薬が効いてくれます様に。
なんて思うのは、自分勝手が過ぎる・・わよね?
「毎日こんな事をし続けるよりも面と向かって会った方が幾分も良いと、私は思うけどね」
下から聞こえた艶やかな声に、俺は苦々しく舌を打った。
そして俺が言葉を発する前に、奴はとんとんと軽やかに飛びながら枝を移り、俺が居る枝にストンッと着地する。
枝の上に奴は平然と立ち、俺を一瞥する事もなく俺が眺めていたものに目を向けた。
いや、もの・・ではない。地面に枝で文字を書き、その文字を眩い笑顔で人間のガキ共に教えている女。千代とか言う女だ。
「いばな、これで彼女ときちんと向き合っているつもりかい?眺めているだけでは何もならないし、何の始まりにもならないものだよ。あぁ、そうだ。思い返せば、君、平安の世でも」
「何をしに来たんだよ、てめぇは!」
滔々と語る天影の言葉を荒々しく遮り、「さっさと戻れ!」と怒りをぶつける。
けれど天影は飄々とした笑みを浮かべたまま「言うべき事を言ったら戻るとも」と、ひょいと俺の怒りを躱した。
俺は苦々しい顔でチッと大きく舌を打つ。
クソ・・コイツには怒るだけ無駄だ。どれだけ言おうが、何をしようが、全く効かねぇ。どれだけ手を伸ばしても掴めねぇ雲、いや、そんな雅なものじゃねぇな・・。
コイツは狸だ。忌々しい青狸だ。
恨みがましい目でジトッと射抜くと、天影は「酷い眼差しだなぁ」とわざとらしく肩を竦めた。その様に、自然とチッと舌が打たれる。
天影はその音にフフと蠱惑的な笑みを零してから「いばな」と、言葉を紡いだ。
「君はあの子に百夜参りならぬ百夜通いでもさせるつもりかい?今は平安の世ではないのだから、通う文化なんてとうに廃れているのだよ。最も、それ以前に立場が逆じゃないかい?と言う突っ込みもあってだね」
「だからてめぇは何を言いに来たんだよ!」
そんな下らねぇ事を言いに来たんだったら、この場で殺すからな!と、吠えるが。
天影はそんな脅しを歯牙にもかけず「じゃあ率直に言うよ」と、安穏と答えた。
「彼女は紫苑ではないのだから、君が彼女を邪険に扱う理由はないはずだ。いつまでそうしてへそを曲げて、向き合おうとしている彼女に不誠実を働くつもりなんだい?」
柔らかな口調ではあるものの、声音ががらりと変わり、淡々且つ物々しく言葉をぶつけられる。
俺は返答に詰まってしまうが。天影は容赦なく言葉を継いだ。
「いいかい、いばな。紫苑は五百年以上も前に亡くなっているんだ、五百年以上も前の話なんだよ。君は紫苑が自分みたいに長い時を存え、再び巡り会ったとでも思っているのかい?いい加減、君は紫苑の亡霊から離れるべきだよ」
「・・黙れ!」
刺々しい言葉に押さえられていた言葉が荒々しく吐き出されると、胸の鈍痛が更に痛み出した。
俺はグッと奥歯を噛みしめてから、「分かってんだよ」と吐き捨てる。
「アイツはとうの昔にくたばった、んな事は分かってんだよ。けどよ、アイツの面を見ると紫苑が重なる。同じ顔で、同じ声で、同じ霊力だぞ。そんなアイツを紫苑じゃねぇと思えなんざ・・無理な話だろ」
ぐしゃりと前髪を握りしめ、ゆっくりとしゃがみ込む。右耳からりぃんりぃんと鈴が小さく鳴り、己の虚しさを強調した。
すると天影から「なんだ、そう言う事か・・」と静かに吐き出される。
俺はその呟きに、キュッと眉根を顰めて見上げると。天影はあの女を一瞥してから、俺を見つめた。
「あのね、いばな。何度も言う様だけれど、彼女は紫苑とは別の女性なのだよ。紫苑と似ていると言うだけの理由で、彼女が紫苑と同じ道を行くと思うかい?」
ニヤリとした微笑を浮かべながら訊ねる天影。
俺は、その笑みに顔を露骨に歪め「・・何が言いてぇんだ」と訊ね返す。
「フフフ。それは毎日毎日彼女を眺めて、私と彼女の話を盗み聞いている君ならばよく分かるんじゃないのかな。彼女は紫苑と瓜二つだけれど、その人となりは全く違うと言う事が」
俺はぎくりと強張ってから、天影からフッと目を逸らした。
・・あぁ、そうだよ。
あの女は、紫苑と全く違う。紫苑はもっと物静かで嫋やかで、楚々とした女だった。
何を言うにも丁寧で、食ってかかる事もなく、食い下がり続ける女でもなかった。
あんなじゃじゃ馬でも、勝ち気な女でもなかった。
だからあの女は・・紫苑じゃない。
別の女だ。千代と言う名の一人の女だ。
俺はキュッと唇を堅く結び、あの女の方に目を向ける。
すると隣から「いばな、大丈夫だよ」と、柔らかな声が降りかかった。
「安心して、彼女と向き合えば良い。彼女は紫苑と同じ道を行く事はないだろうから、何も怖がらなくて良いのだよ」
俺はその素っ頓狂な言葉に「ハッ?!」と声を上げて、天影を睨めつける。
「怖がる?!なに間の抜けた事を抜かしてやがるんだ、てめぇは!」
声を荒げて食ってかかるが、天影は俺の言葉を無視して飄々と言葉を続けた。
「あの子は頑丈だし、逞しいからね。ちっとやそっとの事では君を切り離さないよ。君に傷つけられても、おめおめと泣く事もしないで、俄然やる気に満ち溢れるのが良い証拠だ」
そんな子だから、君も私も惹かれるのだろうね。と、天影はフフと口元を袖で隠しながら上品に笑う。
「さっきから、なに素っ頓狂な事をぬかしてんだよ!てめぇは!」
「全く、本当に君と言う奴は仕方のない奴だなぁ」
天影は哀れんだ様な眼差しを俺に向けてから、「いつまでもそんな風でいられると思ったら、大間違いだからね」とわざとらしく肩を竦めた。
「幾ら健気で良い子でも、愛想を尽かす時は尽かすものだよ。それに彼女はまこと良い女性だからね、恋情を抱いている男も多いはずだ。分かるかい?横柄で野蛮で甲斐性無しの鬼《きみ》なんか、勝負の土俵にすら立たせてもらえないかもしれないと言う事で」
ブチブチッと血管がはち切れる音がするや否や、俺は「ぶっ殺す!」と素早く作った拳を天影めがけて思いきり振り抜いていた。
だが、風を切る俺の拳が当たる寸前で、奴はひらりと飛び上がる。
そしてスタッと軽やかに上段の枝に着地すると「ほら、そういう所だよ」と、呆れながら言った。
「頼むよ、いばな。この私に、あの子に君は勿体無いと思わせないでくれ」
はぁとため息を吐き出して、わざとらしく頭を抱える天影。
俺はそんな天影に「いつまで好き勝手抜かしてんだ、さっさと降りてこい!」と、憤激する。
「そうも殺気立っている君の元においそれと降りるほど、私はうつけじゃないよ」
「ぐちゃぐちゃ抜かし続けるたぁ、良い度胸だ。その度胸に免じて最期の言葉くらいは・・」
バキバキと手の骨を鳴らし、奴を抹殺する準備をしていたが。俺の視界の端にある光景が入ると、全ての神経がそちらに向いた。
その刹那、俺はダンッと力強く枝を蹴り上げ、空に向かって大きく飛び上がる。
バキバキッと嫌な音が後ろで弾けたが、そんな事は全く気にも留めなかった。
そして天影の事も一瞬にして俺の中から綺麗に一掃された。
俺の頭は「急げ」と言う言葉でいっぱいで、身体がその指令に対して従順に動いていただけだった。
「巫女様、巫女様!あれは?!あれはどう書くの?!」
道ばたの花を指しながら目を輝かせて訊ねる女の子に、私は「それはねぇ」と微笑みながら手にしている枝を動かす。
ガリガリと枝先で地面を削り「すみれ」と文字を刻むと、私を囲んでいる童達から「おおー!」と歓声が上がった。
そして歓声が引き潮になると、「じゃあ、あれは!?」「こっちは?!」と質問が押し寄せる。
私はドッと押し寄せた興奮に「皆、落ち着いて」と窘めてから「一つずつ順番に書いていくわね」と答えた。
「右から順番に聞いていくけれど、自分の番を早めたいからってずるをしちゃいけないわよ」
分かった?と確かめる様に言うと、童達から「はーい!」と元気な声が発せられる。
私はその元気な声に、フフッと口角を緩めてから「じゃあ、貴女から」と声をかけた。
その時だった。
「そこの女!何をしておる!」
険のある野太い声が飛び、童達が皆ビクリと身体を竦ませる。
サッと立ち上がって、声が飛んだ方を見てみると。二人の武士がこちらに歩み寄ってきていた。一人は騎馬に乗り、もう一人は従者として騎馬の前を歩いている。
従者の方はあまり強くなさそうだけれど。騎馬兵の方は武具も馬具も立派だから、それなりの強さはある、と言った所かしらね。
なかなか厄介な者に目を付けられてしまったわね・・。
私は童達に「皆、帰りなさい」と耳打ちする様に告げてから、童達の垣根をずいとかき分けて向かってくる男達の前に進み出た。
そして彼等の数歩前で立ち止まり、婉然と相まみえる。
「立派なお侍様方にご挨拶を」
膝を折り、淑やかに挨拶を述べると。ふんっと頭上から荒い鼻息が降ってきた。
「貴様が件の怪しげな巫女だな」
刺々しく言葉をぶつける騎馬兵に、私は「怪しいなど仰らないで下さいまし」とわざとらしく肩を震わせる。
「私はただの巫女。方々を練り歩き、国を旅するしがない歩き巫女にございますよ」
「・・歩き巫女?」
騎馬兵は怪訝に眉根をよせると、「やはり怪しいな」とボソリと独りごちた。
「貴様、どこぞの間者であろう?」
「いいえ、間者などではございませぬ。申し上げました通り、ただの歩き巫女にございます」
すらすらと流暢に嘘を吐き出し、相手の警戒心を解く様に艶然と答える。
うん、我ながら肝が据わっていると思うわ。強者相手でも、すらすらとまことしやかに嘘を吐くのですもの。
これくらいじゃ何の動揺にもなりはしないわね。と、内心で自分の胆力を賞賛していると。相手から「そうか」と端的に告げられた。
思いの外すんなりと首肯された事に、少し呆気に取られそうになったが。私は笑みを繕って「えぇ」と答える。
「疑いが晴れてようございました」
「疑いが晴れた、とな?」
騎馬兵はフッと小さく鼻で笑うと、「馬鹿を申すな」と冷淡に唾棄した。
思わぬ返しに、私の口から「え」と小さく零れてしまう。
「調べてもおらぬのに、何の疑いが晴れると言うのだ。口先だけでは、身の潔白の証明が出来ぬだろうよ。捕縛し、尋問した後に身の潔白は掴めると言うものよ」
なぁ?と従者の方に同意を求めると、従者の方は笑顔で「六助様の仰る通りにございますな!」と答えた。
捕縛と言う言葉に、手から汗がじわりと生まれるが。私はグッと袖の中で拳を作り、爪で手の平の肉を鋭く抉る。
そして崩された微笑をすぐに貼り付け直し「私を捕縛なさるので?」と問いかけた。
「何の罪があって、私は捕縛されねばならぬのでしょうか。私は歩き巫女としてこちらに参っただけにございますよ」
「口先だけの言葉なぞ信用するに足らぬわ。我が家に連れ帰り、尋問してから同じ事を言えるかどうかだ」
・・取り付く島も無いわね。
けれどここで逃げたり、この者達を伸したりすれば、もっと事態は悪化してしまう。ここは越前、朝倉領。敵国で騒ぎを起こして捕まる訳にはいかないわ。
つまり私が取るべき行動は、今は大人しく彼等に従うと言う事。
私は内心でゴクリと固唾を飲み込んでから、ふーっと息を吐き出した。
大丈夫よ。こんな事態は何度も経験してきて、毎度乗り越えてきたじゃない。
どうしようかと首を竦める自分を叱咤し、奮い立たせてから、彼等と対峙した。
「分かりました。この身にかかる嫌疑が晴れますまで、どうぞお好きにして下さいませ」
笑顔で告げると、騎馬兵は意地悪く口角を上げ「よし」と満足げに頷く。
「では、その言葉通り。好きにさせてもらおう」
冷笑混じりに言うと、くいっと顎で私を連れる様に従者に指示を出した。
従者は主人の意にすぐ応え、ひょいひょいと足軽に歩み寄ってくる。
けれど、その手が私に届く手前。ドオオンッと言う爆発音が後ろから飛び、ぶわっと生まれた砂塵が私達を襲った。
その瞬間、私はハッとする。
これは、まさか。いいえ。そんなまさか、よね・・。
じわじわと込み上げる感情が、目の前の脅威を忘れさせ、パッと慌てて身体を振り返らせた。
腕を顔の前で掲げて砂塵を防ぎ、細めた目で砂煙の中心に目を懲らす。
けれど、視覚よりも先に聴覚が悟った。
リィンリィンと朗らかに鳴る鈴の音が、「退け、人間共」と淡々とした声が、私の疑念を拭っていく。
やはり私の勘違いなんかではなかったわ。
この声は、この音は・・。
徐々に晴れていく視界と共に、私の胸に喜びや嬉しさがぽんっぽんっと軽やかに咲いていく。
そして砂煙を破る様に、彼が、いばなが現れた。
「俺の道の邪魔だ」
いばなは唖然とする私を一瞥もせずに通り過ぎると、彼等の少し手前で止まる。
騎馬兵達は突然現れたいばなに顫動し「お、鬼」と、蒼然と呟いた。
いばなはその呟きを聞くと「おい」と、声を更に低くさせる。
「人間共、いつまでそうしているつもりだ。さっさとそこを退け、殺すぞ」
バキバキッと手の骨を鳴らし、ウウと地を這う様な唸り声をあげた。
すると急激に辺りの空気が凍え、大地がぶるぶると顫動する。びゅおおと不気味に風が吹き、どこかから来た暗雲が天色の空をぶわりと覆っていった。
い、いばなが怒っている・・。
彼の背から伝わるものに、私の肌がぶわりと一気に粟立つ。
背中越しの私でコレならば、彼の怒りを真っ正面から受け止めている彼等は私以上のものに襲われているはず・・。
きっと耐えられないのでは?と思った矢先、騎馬兵達は泡を食う様にして逃げ出した。馬で我先にと逃げる主を従者が「ろ、六助様ぁ!待って下さいよぉ!」と泣き言を零しながら、おぼつかない足取りで追っていく。
そうしてわたわたと、バタバタと遠のいていく背に、いばなはふんっと大きく鼻を鳴らした。
「つまらん小物共め」
冷淡に唾棄すると、彼はくるりとこちらを向く。
その顔を見た瞬間、覆われていた恐ろしさが一気に晴れ、温かな光に包まれた。それに胸がドキリと高鳴った・・気がする。
私はそれらを全て奥に仕舞い込む様に小さく息を飲んでから「あ、あの」と声をかけた。
「助けて」
「自惚れるなよ。俺はお前を助けたのではない、俺の行く道に邪魔が入っただけの事だ」
私の言葉をバッサリと遮り、彼はひどくぶっきらぼうに告げる。
「運が良かったな、女」
フッと冷笑を零し、スタスタと歩き出した。
俺の行く道に邪魔が入った、と言っているのに。そちらを行かずに、こちらに戻ってくる。そう、彼は道を引き返してくるのだ。
・・やはり彼は助けに来てくれたのだわ。どこかから私の危機を見つけ、そこから駆けつけてくれたのよね。
彼の優しい矛盾に胸が温かくなり、私の顔が柔らかく綻ぶ。
「おい、何を笑っている。何もおかしい事はないぞ」
ムッと怪訝な顔で言われるけれど、その顔ですらも愛おしさが沸々と湧き、顔の綻びを広げてしまった。
「今すぐその間抜け面を辞めろ、不快極まりない」
私は物々しい諫言に「申し訳ありません」と答えてから、自分の中でぽわぽわと浮かぶ感情を奥歯で噛み潰す。
そして目の前で立ち止まり、眉を顰めている彼をまっすぐ見つめた。
助けてくれた礼を述べたいけれど。まっすぐ礼を述べては、きっと彼は受け取らない。それでまた喧嘩になって、足早に去ってしまうかもしれない。
ここは彼に合わせよう、折角ここで出逢えたのだから。
「では・・折角ですから、この幸運を貴方に分けてあげましょう」
艶然と告げると、目の前から「・・は?」と呆気に取られた声が零れる。
「お前、何言って」
「貴方に分けても、きっとまだ沢山あります。なんせ身の危機を免れた上に、ずうっと会いたかった方と会う事が出来、面と向かって話せる様になった程の幸運ですからね」
ニコリと微笑むと、もう一度彼から「は」と零れた。
そして目の前で顔が、ころころと百面相の様に変わる。
私はクスッと笑みを零してから、百面相をしながら固まる彼の手を取った。
「ここは人里、急いで山の方に参りましょう!さ、早く!」
「・・おっ、おい!待て!何をするつもりだ!」
「言葉を交すだけですよ!幸運を分けるには、そうするのが一番ですから!」
「この俺がそんな下らぬ事に興じると思うか!」
ぎゃあぎゃあと喚きながらも、彼は私の手に引っ張られていった。
こんな力、容易に解けてしまうだろうに。こんな無礼に走る私なんか、容易に殺せてしまうだろうに。
彼はそうしなかった。
どうしてなのかは、分からないけれど。きっと、私はようやく許されたのだ。
彼への道を歩む事を。心に近づいていく事を。
ここからよ、と私は喜色が広がった笑みで大きく一歩を踏み出した。
・・・
「あの・・これでは距離が遠すぎやしませぬか」
首をまっすぐピンと伸ばした苦しい状態で声を発し、目線の先に居る彼に投げかける。
「遠くない」
彼はピシャリと告げると、座っている木の枝の上でふんと鼻を鳴らした。
・・まるで、木の上で寝そべりながら人間を威嚇する猫を見ている様だわ。
私は垂直にしていた首を戻してから、小さくため息を吐き出す。
単に人目を気にしてなのか、大っぴらに鬼の手を引く巫女の私を慮ってなのかは分からないけれど。彼が私を攫う様にして抱きかかえ、この森の中にひとっ飛びしてくれた所までは良かったのに・・。
大空を舞った高揚感と共に、もぞもぞとくすぐったい様な気持ちで満たされていたのに・・。
森に着くや否や、私を太い木の根に下ろすと、彼は逃げる様にバッとその木の枝に飛び乗ってしまったのだ。
ようやく一歩を踏み出す事を許されたと舞い上がった喜びが、泡沫に消えていった。
その哀しさたるや、虚しさたるや・・。
私はのしかかる落胆に再び嘆息してしまうが。その息を誤魔化す様にぶんぶんと軽く頭を振った。
いえいえ、でもこうして面と向かえる様になったのよ。つまり少しは許された、と言う事じゃないの?今までの拒絶と比べたら、この状況は奇跡に近いものね。
そうよ、そうよ。落ち込む事ないわ。今はこれだけの距離でも、その距離を少しずつ縮めて行けば良いのよ。焦らず、逸らず、着実に歩いていけば、きっと深淵に近づく事が出来るわ。
私は「よし」と己を鼓舞してから、首を垂直にして見上げる。
「では、このままで良いので話を聞いて下さりますか?」
艶然と問いかけると、木の上の彼は不遜に鼻を鳴らし「俺に何の話があると言うのだ」と言った。
「お前が言葉を交したいのは、青狸の方だろうよ。毎日毎日言葉を交し続け、下らん事を聞いているではないか」
渋面を作りながらぶっきらぼうに吐き出すいばなの前で、私は「青狸・・?」ときょとんとしてしまう。
「あの、青狸と言うのは。まさか、とは思いますが・・天影様の事、ですか?」
まさかと言う思いを強く抱きながら訊ねると、すぐに「奴以外に誰がいる」と憮然と吐き捨てられた。
あの、崇高で麗しい青鬼の天影様を青狸呼びなんて・・とんでもないわね。
立場的には彼が頭目で、天影様が副頭目だから不敬でも何でもないのかもしれないけれど。天影様を蔑称で呼んだ方が不敬で、重罪な感じがするのよね・・。
「お前、俺に喧嘩を売っているのか」
頭上からの物々しい突っ込みで、私はハッと我に帰った。
そして急いで固まっていた表情を繕って「いいえ、そんな事は」と答えるが。見上げた先のいばなは「嘘をつけ」と、ピキピキと苛立ちを放っていた。
「心の中でだらだらと、天影の方が良いとか何とか述べていただろ」
「・・いいえ、そんな事は」
「詰まってるじゃねぇか!」
激しい突っ込みに、私は「良い悪い云々を述べていた訳ではありません」と宥めてから「天影様の話ではなくて」と強引に話題を変えた。
そして奪われかけていた自分の流れを取り戻し「私が話をしたいのは、貴方の事ですよ」と、その流れに相手をぐいっと無理やり乗せる。
いばなは私の目を見てから、「だから」とため息交じりに言葉を吐き出した。
「俺について話す事は何もないし、聞く事もないだろう。あの青」
「いいえ、沢山ありますとも」
私はうんざり口調で続く言葉を遮り、ニコリと上に居る彼に笑顔を向ける。
「天影様からでは知った事にはなりませぬ。故に、貴方を知るには貴方から、と言う事です」
「・・は」
予想だにしなかった言葉だったからか、それとも単に返す言葉が見つからなかったのか。
彼は一言発すると、もごもごと口ごもり、返答を詰まらせていた。
そして二、三度目をぐるりと回してから「意味が分からん」と吐き出す。
「何故、そうまでする必要があるのだ」
「貴方を知りたいからと言う事の他に理由はありませぬ」
「・・答えになっておらんぞ」
憮然として答えられるけれど。私は「そう言うものです」と、あっけらかんとしていた。
「今、貴方が何故と知りたい様に、私も貴方を知りたいだけなのですよ」
そう。これは間者として、ではなく、千代としての話。だからただ単純に、彼の事が知りたいのだ。
一体いつからこんな考えになってしまったのかは、自分では分からないけれど・・。
私は顔を綻ばせながら泰然と告げると、「では、こうするのはどうでしょう」とパチンと両手を合わせた。
「毎日一つずつ、互いに質問をしあって答えるのです。さすれば、私は貴方を知る事が出来るし、貴方も私を知る事が出来ますでしょう?」
「・・俺は別に。お前の事なぞ知りたくない」
秒で提案を無下にする酷薄な言葉が上から飛んでくるが。私は貼り付けた笑みを崩さずに「では、貴方はこういう理由で質問なさったらよろしいです」と、泰然と言葉を継いだ。
「私が紫苑と言う女性ではない。と、より思い知る為に」
紫苑と言う名で彼が分かりやすい程にピキリと強張る。
そこで私は「やはり」と分かってしまった。
まだ私の事を紫苑として見ているのだ、と。
少し膨らんだ袖の中でキュッと拳が作られる。
けれど、私の顔は柔らかな笑みを称えたままだった。
・・本当に、間者としての訓練を受けていて良かったわ。痛みだけではなく、心ですらも完璧に隠せる事が出来るのだから。
私はそのまま「どう転んでも、互いに利がありましょう?」と、言葉を続けた。
「ですから、私が百鬼軍の方に赴いた時に質問を交し合いましょう」
有無を言わさぬ笑みで告げる。
すると上から「良かろう」と尊大な言葉が降ってきた。
思いがけない答えに、細めていた目が大きく開かれる。
彼は立てている片膝に頬杖を突いて、私をまっすぐ射抜いていた。
「面倒だが、乗ってやろう」
これで満足か。と、彼はぶっきらぼうに告げる。
はぁと呆れ交じりに上がった白旗に、私は「はい」と笑顔で答えた。
そうしてその日から、私はいばなと面と向かって言葉を交わせる様になった。
始めは本当にぎこちなくて、すぐに沈黙が降りてしまっていた。それに、お互いすぐに食ってかかる性格のせいで、自然と喧嘩に発展する事もしばしば・・。
それだから天影様が間に入ってくれて、私達の場を上手い事回してくれていた。
けれど、ある日。いばなが「お前がいると憤懣とさせられるだけだ!お前は消えろ、天影!」と怒髪天を衝いて、天影様を場から弾いてしまった。
私は怒るいばなを宥め、天影様に「居て下さい」と頼み込んだのだけれど。天影様は飄々と「分かったよ」と素直に下がってしまい、以降、本当に私達の間に居なくなってしまった。(正直、私としては「味方且つ救いの存在が・・!」と、実に惜しく思ったのだけれど)
そうして天影様なしで二人だけで言葉を交すと、やはり始めは激しく衝突したものだけれど。時間を共に重ねる度に、少しずつ互いの事が分かってきて、少しずつ衝突も減っていった。
だが、私達の間の変化は、それだけではない。
二人の間の距離が、一番変わっていった。勿論、良い方向に。
始めは、私が彼を見上げていた形だったけれど。徐々にその形が緩やかに変わって行って、今では地に足がついた状態で、人二人分程空いた距離で、言葉を交す事が出来ているのだ。
でも・・まだ「心」の距離は遠いと思う。
未だに彼は私の事を千代と呼ばないし、その瞼裏に紫苑が居て、紫苑を見ているのが分かるもの。
いつだって、歩いて距離を縮めるのはこちら側。
彼は頑としてその場から動いていないから、これでは互いに距離が縮まっているとは言えないわよね・・。
「おい」
「ひゃっ?!」
後ろから聞こえたあり得ない声に、思わず素っ頓狂な声が飛び出してしまう。
私は飛び出した声に些かの忸怩を覚えながらも、パッとそちらを向いた。
すると再び、自分の口から素っ頓狂な声が飛び出す。
「い、いばな?!」
「騒ぐな」
平然と部屋に佇むいばなは顔を露骨に顰めると、「五月蠅い」と呻く様に言った。
私はその声にパッと口を押さえてから「ど、どうして」と声を潜めて訊ねる。
「・・丁度、そちらに出かけようとしていた所だから、良かったのかもしれないけれど。ここは人里よ、誰かに見られてしまえば大変な事になるわ」
「案ずるな、人間共に騒がれるのは慣れている」
・・そう言う話じゃないのだけれど。
私は憮然と突っ込んでしまいそうになったけれど、それが外の世界に出る事はなかった。いばなが「そんな事よりも」と言葉を継いだから。
「お前、もう出られるか?」
端的な投げかけに、私は目を軽く瞬いてから「えぇ」と首肯した。
彼はその答えに「よし」と答えてから、私の方にズンズンと歩み寄る。問答無用と言った真顔で近づいてくる彼に、私は戸惑ってしまった。
「何?何を・・ひゃっ?!」
ひょいと私の足が宙に浮き、くるんと身体が横に倒れる。
膝裏と背から伝わる力強い手、いつもより近くに見える端正な顔、ドクドクと力強く聞こえる彼の鼓動に、私はかーっと沸騰してしまう。
「お、下ろして!早く!」
真っ白な頭であわあわと訴えると、目の前の端正な顔が「は?」と思いきり不機嫌に歪んだ。
「俺が何の為に持ち上げたと思っているんだ、お前は」
「分からないけれど、取り敢えず下ろして欲しいの!」
狼狽したまま答える私に、いばなは「もう黙れ」とにべもなく返す。
「まぁ、舌を噛んでも良いと言うならば続けていろ」
ピシャリと渋面で告げられた言葉に、私は「えっ?」と眉根を寄せた。
「舌を噛むって」
どういう事?何をするつもりでいるの?と、訊ねようとしたが。私の言葉は不自然な所で止まり、続くはずの言葉が「わっ?!」と言う短い悲鳴に塗り替えられた。
彼が私を抱えたままズンズンと歩き出し、そして縁側からひょいと飛び上がる。
いつもの様にダンッと力強く踏みしめるのではなく、静かな飛翔。
そして近くの木の枝に着地すると、次々と高い木の枝にひょいひょいと飛び移って行く。
まるで花を次々と移る蝶の様に身軽だから、景色もどんどんと流れているのだろうけれど。私は、その流れゆく景色を楽しむ暇もなかった。
正面からびゅうびゅうと吹く風と、身体が上下する感覚でいっぱいいっぱい。ただ必死にしがみついて、零れそうになる悲鳴を奥歯でギュッと噛みしめていただけだった。
そして、ようやくその状態から解放され、地に足が着いた時の安堵と言ったら・・。
私はよろりよろりとたたらを踏みながら、地に足が着く幸を噛みしめていたが。それは目の前に広がる景色によって、すぐに興奮に塗り替えられた。
今まで我慢していた声もするりと「わぁぁ!」と飛び出す。
渓谷の中でドドドドッと流れる滝、その水の衝撃でゆらりゆらりと揺らぐ池の水面、その水面に輝く居待月。
そしてその優美を際立たせる様に、池の周りで雅に舞う無数の源氏蛍たち。
「凄い、凄いわ。とても素敵・・」
こんな美しい場所があったなんて。と、目の前の光景にうっとりと魅入られながら、感嘆を零す。
「天影曰く、今日は条件が揃っているからこうも美しく彩るらしい」
隣のいばなは憮然と言うと、「ここに座って見れば良かろう」と、池の前の岩石を指した。それはまるで岩石で出来た縁台の様で、明らかに誰かが運んで来た不自然さがある。
私はそれでピンと来てしまった。
何故いばなが私を迎えに来たのか、何故私をここに連れてきたのか。
「いばなはひどく不器用な奴ですからね」
頭の中の天影様が、私の見つけた答えを外に出させない様に、そしてその答えを確かなものにする様に、微苦笑混じりに答えた。
じわじわと喜びと嬉しさが込み上げ、顔がゆるゆると綻んでしまう。
「・・おい。なんだその面は」
分かり安い程ぶすっとした声で、つっけんどんに訊ねるいばな。
私はフフと小さく笑みを零してから「景色が素敵だからです」と、泰然と打ち返した。
そしてその岩石の方に進み、中央から左寄りに腰を下ろす。
いばなはむっとしかめっ面をして、口をまごつかせていたけれど。多分、良い返しが思いつかなかったのだろう。私が座ってから、数秒置いた後、自分も腰を下ろした。
私が手を伸ばしたら、その手に当たりそうな距離に。
今までで、一番近い距離・・。
ドドドドッと滝が強く打ってくれていて良かったと思うばかりだわ。
だって、今の私の心臓は、隣に居るいばなに聞こえてしまいそうな程にうるさいから。
心音なのか、滝の音なのか。どちらか分からない音を耳にしながら、私は楚々として眺める。
「げに美しい眺めだわ。こんなに美しい所があったなんて、私、全く知らなかったわ」
心からの感嘆を吐き出すと、隣から「俺には分からんな」と淡々と返された。
「ただの眺めだろう?何がそうも心を震わせるのか微塵も分からぬ。極上な肉を前にした方が、心が震え躍ると言うものだ」
この眺めや雰囲気、そして私の言葉を平然と破壊するいばな。
本人としては、悪意も悪気も何もないのでしょうけれど。純真な悪ほど嫌なものはないわね・・。
私は彼の無神経な言葉に苛立ちを覚え「こんなにも雅趣がある美しさなのに。何も分からないなんて・・」と、突っかかりに行ってしまいそうになった。
けれど、私がその皮肉を放つ前に、彼から言葉が発せられる。
「だが、お前が気に入ったのならば良い」
あまりにも柔らかな声音で、温かな言葉が紡がれた。
私の口から「えっ」と驚きが飛び出し、雅趣のある眺めから顔がパッといばなの方を向く。
いばなは景色を眺めたまま、優しい笑みを浮かべて満足げに「甲斐があると言うものだからな」と独りごちていた。
その笑みに、私は釘付けになってしまう。
いばなは私の視線に気がつくと、こちらを向くが。何も可笑しな事は言っていないとばかりに平然としていて「他にも似た様な場所がないか、天影に探させるか」と訊ねてきた。
「い、いい」
私は呆然としながら首を横に振る。
その答えに、いばなは「そうか」と言ってから「まぁ、お前が良いと言っても探させる腹づもりだが」と、天影様に対して暴君を発動させていた。
いばなの態度は何も変わらない。ドギマギとしているのは私だけ、か。
私はギュッと拳を作ってから、ふいと顔を景色の方に向けた。
悠々と好きに舞う螢が、なんだか虚しさを込み上げさせる。
私が口を噤んでしまうと、二人の間に沈黙が降りた。
だからと言って、辺りが寂寞とした訳ではない。空気の気まずさも意に介さない滝が前にいてくれるから。
滝があって良かったわ・・。と、ポツリと心の中で呟いた。
その時だ。
横から「おい」とぶっきらぼうに声をかけられる。
「天影の鬼火を出せ、今も持っているだろう?」
淡々と問いかけられる言葉でハッと我に帰り、私は「鬼火?」と首を少し傾げた。
「お前が俺達の元に来る時に使っている石だ」
ぶっきらぼうな返答に、私は「あぁ、それなら・・」と懐から紺碧の宝玉を取り出して見せる。
いばなは出された宝玉をサッと手にすると、素早く拳を作った。
すると、いばなの拳の中でパキンッと甲高い音が弾け、ぶわりと彼の指の間から封じ込められていた鬼火が逃げていく。
その様に、私は「ちょっと!」と甲高い悲鳴の様な非難を上げた。
「なんて事をするの?!」
「喧しいぞ。気に食わなかったから壊した、ただそれだけの事だろうが」
いばなは毅然と告げながら、パンパンッと手を払う。「嫌な物を触ってしまった」と言わんばかりの手つきで。
私は一切悪びれない姿に、「いばな!」と怒声を張り上げた。
いばなはその声に「なんだ」と、不機嫌に打ち返し、はぁと呆れたため息を吐き出す。
「そうも怒る事ではないだろうよ」
飄々とした一言に、私は「怒るわよ!」と、直ぐさま食ってかかった。
「今貴方が壊した物は、私の大切なものだったのよ!アレがあったから、百鬼軍の元に行けていたし、妖怪に襲われずに着けていたのに!壊してしまったら、もう私」
この生まれた激怒を須くぶつけたいはずなのに、徐々に語勢が弱まってしまう。
それは何故か・・この激怒の中に悲しみが混ざってしまったからだ。
頼りにしていた宝玉を壊すと言う事は、「もう二度と俺達の元に来るなよ」「もう二度と俺の前に現れるなよ」と言う、強い拒絶と相違ないから。
距離が縮まったなんて、私の思い上がりだったんだわ。
あぁ、そうか。今宵、こんな場所に連れて来たのは最後の別れと言う事だったのね。
じわじわと視界が嫌でも歪み、嗚咽が込み上げてきた。けれど・・
「だったら、これを大切にしておけ」
ぶっきらぼうに告げられると、ぷらんと顔の前で何かを見せられた。
歪む視界を明朗にさせて、その「何か」を見る。
いばなの手からぷらんと吊されていたのは、陰の勾玉だった。首から提げられる様に黒の紐が付けられ、勾玉では珍しい千草色の様な色をしている。
「・・これは・・?」
目の前の物に呆気に取られながら訊ねると、「代わりの物だ」とぶっきらぼうに答えられた。
「言っておくが、これは天影の物よりも断然質が良いぞ。なんせ、俺の鬼火で作っているのだからな」
「・・いばなの鬼火で?」
目をやや見開かせながら言うと、「そうだ」とふんと鼻を鳴らされる。
「ほとんどの妖怪はこれが放つ俺の妖気に負けて、お前に近寄る事も出来やせん。仮に妖気を越える事が出来た奴が居てもだ、お前に触れようとしたら弾かれる様になっている」
まぁ、この鬼火の主たる俺が大妖怪であるからな。妖気を越えられる奴は早々おらん。と、尊大に物の凄さを語っていた。
けれど、その部分は全く私の耳には入ってこなかった。「いばなが作ってくれた」と言う、嬉しい真実を噛みしめていたから。
渦巻いていた怒りや悲しみがサーッと消え、顔が幸せでゆるゆると綻ぶ。
そして愛しい物を包み込む様に、優しく強く勾玉を握りしめ「ありがとう」と囁いてから、いばなの方を向いた。
「本当に、本当に嬉しいわ。ありがとう、いばな。肌身離さず着けておくわね」
笑顔で礼を述べると、いばなは少々ポカンとしていたけれど。「ふんっ!」と大きく鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。リィンリィンと彼の右耳にぶら下がる鈴が、大きく荒ぶる。
私はそんな彼にフフッと笑みを零してから、首に貰った勾玉を早速着けた。
ひやりと首元に冷たい触感がすると、千種色が仄かに輝く。まるで封じ込められた鬼火が持ち主を認識したかの様だった。
私は勾玉をなぞる様に触ってから「ねぇ」と、そっぽを向いている彼に声をかける。
「これが陰の勾玉と言う事は、対になる陽の勾玉があるの?」
私の問いかけに、いばなは「・・ない」と憮然として答えた。
「天影から女が着ける勾玉は陰の形だと教わったから、そうした」
「あぁ、そうだったのね」
私は朗らかに答えるけれど。内心では「絶対に陽の勾玉があるわね」と、目を側めていた。
いや、絶対にあるはずだわ。訊ねた瞬間、ぎくりと小さく身を強張らせたし、今も答える時に目が微妙に泳いでいたし。それに陰だけが存在する勾玉なんて、聞いた事も見た事もないもの。
なんて心中ではぶつぶつと言葉を並べていたけれど、それを外に出す事はしなかった。
「陽の勾玉があるんでしょう?」
この問いかけは、きっといばなの羞恥を刺激してしまうものだから。
ふて腐れて、対になっているコレを壊されかねないものね。
私はキュッと陰の勾玉を握りしめてから「大切にするわね」と、もう一度伝えた。
隣のいばなはふんと鼻を鳴らしてから「当たり前だ」と、ぶっきらぼうに言っただけだった。
そして私達はゆるりとした時に身を置き、二人で同じ景色をただ静かに見つめていた。
しばらくは本当に一言も発さずに、静かに景色を眺めていただけだったけれど。どれほどか時間が流れてから、いばなが「なぁ」と降りていた沈黙を破った。
「今日は問答しないのか?」
私はおどおどとした問いかけに、目をやや見開いてから「しましょう」と微笑む。
その刹那、私の頭の中にピカッと雷が迸った。
今なら彼の内に飛び込めるかもしれない、と。
えぇ、そうよね。これは今まで訊けなかった事を訊ねる絶好の機会やもしれないわね。
あと一歩を踏み出すのよ。と、私は貰った勾玉をキュッと握りしめてから「じゃあ、私から訊くわ」と恐る恐る言葉を吐き出した。
「まだ私を紫苑だと見ているのか、どうなのか。教えて、欲しくて・・」
一歩分の勇気を奮い立たせて訊ねたはずなのに、徐々にひどく弱々しい語勢になっていき、奮い立たせた勇気も声を消え入っていく。
顔を見て訊いたはずなのに、今の私はジッと自分の足下を見つめるばかりだった。
じわじわと足下からせり上がる恐怖、「訊かねば良かった」と胸中を蠢動する後悔。
どうやら、私には踏み込む「覚悟」が圧倒的に足りていなかった。
それだから、こんなにも彼から明かされる答えが怖いんだわ・・。
ギュッと拳を袖の中で作り、砂利を少し足先で強く踏みしめた。
その時だった。
「なんだ、お前。まだそんな下らぬ事を気にしていたのか?」
彼からかけられた言葉は予想外にもあっけらかんとしていた、と言うか、気落ちする私を小馬鹿にする様な言葉だった。
それだから、私は「そんな下らぬ事って、何?」と剣呑に言葉を返してしまう。
「私は下らぬ事だなんて思った事はないわ!」
勢いだって立ち上がり、苛立ちをぶつけたが。
彼はいきり立った私を怪訝な眼差しで見据えながら「俺からすれば下らぬ事にしか思えん」と吐き捨てた。そればかりか「それに、何故そうかっかしているのだ?訳分からんぞ」と訊ねてくる始末。
私の怒りがパタパタと煽がれ、ぶわっと炎の勢いが強まった。
「私は、ずっと気がかりだったのよ!なんせ、貴方から一度も紫苑じゃないと言われた事はないし、まっすぐ私を見てくれた事だってないじゃない!」
ドドドッと言う滝の音をかき消す程の怒声が発せられ、静閑な森にやんわりと響き渡る。
けれど、まだ私の言葉《いかり》は止まらなかった。
「だから下らぬと一蹴するのでしょう?!私を見ているのならば、この胸の内にある葛藤に気づくはずですものね!心を覆い尽くさんばかりの苦しみと悲しみを慮って、そんな言葉を吐こうとすら思わぬでしょうとも!」
これで分かりました。と、激昂していた声を冷ややかに抑えて言葉を継ぐ。
「私が紫苑ではないと言う事は愚か、何一つも貴方は気がついていないのだと」
貴方の事で想い悩み続けていた私が愚かでした。と、私はくるりと背を向けて歩き出した。
「おい、止まれ。調子に乗るのもそこまでにしておけよ」
物々しい声が発せられ、手をパッと掴まれそうになったが。私は素早く結界を張った。故に、彼の伸びた手が聖なる結界によってバチッと弾かれ、私の手を掴む事が出来なかった。
「・・破邪結界」
後ろに居るいばなが唖然として呟く声が聞こえる。
私はその声にくるりと振り返り「えぇ、そうよ」と、毅然と告げた。
彼は弾かれて火傷をした手を押さえてから「そうよ、じゃねぇだろうが」と吐き捨てる。
「ふざけた結界張ってないで、さっさと解け」
「この怒りが収まるまで解くつもりはないし、貴方と会うつもりもないわ」
物々しい脅しを歯牙にもかけず「さようなら」と、淡々と打ち返してから、私は足を進ませた。
その瞬間。ドンッと後ろから爆発音がしたかと思えば、前から同じ音が上がる。
後ろから飛び上がり、ドスンと前に立ち塞がったいばなに、私は「退いて」と剣呑に言葉をぶつけた。
「一方的に怒鳴りつけて終われると思うな」
「私と、話す事なんて何もないでしょう」
彼の言葉をバッサリと遮り、冷たく言い捨てると。目の前の鬼の顔が激怒に染まっていく。
・・あぁ、本当に訊くべき事ではなかったわね。今まで通り、引かれた線の前で大人しく留まっておけば良かったのよ。
さすれば、こんな後悔と罪悪感に苛まれる事もなく、こんな風に彼とバチバチと睨み合う事もなかったでしょうから。
じくじくと心の内で綯い交ぜになっていく後悔と罪悪感に、痛みを覚えてしまうけれど。それを誤魔化す様に「私は悪くない」とギュッと唇を強く噛みしめてから、いばなに向かって「だから早く退いて」と剣呑にぶつけた。
いばなは私の言葉を聞くと、「お前は、誰に向かって物を言ってんだ?」と自らの怒りを空気中に迸らせる。
「調子に乗るのも大概にしろ!」
いばなは激怒に燃えながら唾棄すると、掴みかからんばかりの勢いで手を伸ばした。勿論、その手はバチッと大きな五芒星に弾かれて、再び火傷を負う。
すると彼は弾かれた手にチッと大きく舌を打ってから、自分を弾く五芒星を殴りつけ始めた。
何度も何度も殴りつけては火傷を負う姿を見て、私は彼の狙いを理解する。
「・・いばな、これは殴って壊せるものじゃないのよ」
「黙れ!」
いばなは、ガンガンと五芒星を殴りつけながら声を張り上げた。バチバチッと雷が幾度も迸り、彼の両方の拳が一方的に痛々しい姿になっていく。
「いつまでそうしているのか、分からないけれど。早く退いて」
貴方が怪我を負うだけだから。と、憐憫を向けながら言うと、いばなは「黙ってろと言ったはずだ!」と怒鳴った。
「全く、お前はいつもそうだな!ぐちゃぐちゃと一方的にまくし立てて、こっちの話をちっとも聞かない女だよなぁ!」
「・・何、私が全部悪いって言いたいの?!」
聞き捨てならない言葉ばかりを並べられ、私も憤激する。それと同時に「絶対に結界を解くものか!」と、言う意地も堅固になった。
すると目の前のいばなの口角がニヤリと上がり「ほらな、そう言う所だ!」と挑発的に告げる。
「いつも勝手な解釈をして先走る!とんだ阿呆だ、お前は!何も見えず、分からずの状態で走っている事も気づかんのだからな!」
「分かっていないのは、貴方だけよ!私は間違った解釈なんてしていない、全て正しく理解しているわ!だって、私だけがいつも貴方を見ているのだから!いつも私だけが」
「随分素っ頓狂な事を言うものだな!お前がいつも見ているのは、俺の虚像に過ぎんだろ!」
とんちんかんな返しに、私は「虚像?」と眉根を寄せて「何を言っているの」と嫌悪が滲む怪訝を見せつけた。
「紛う事なき真実だろ。お前は微塵も俺を見ちゃいねぇ、いや、見えてもいねぇじゃねぇか!」
「よっ、よくもそんな事を堂々と言えるわね!私を通して紫苑を見ている貴方になんか」
「お前を通して紫苑を見るなんざ出来る訳ねぇだろ!」
バッサリと遮られた怒声に、私は「え」と言葉に詰まってしまう。
勢いが止まった私の隙を突いて、いばなは「当たり前だ!」と怒鳴りながら口早に言葉を継いだ。
「紫苑はなぁ!お前みたいに勝ち気で強情で、やたらと喧しく突っかかる面倒な女じゃねぇんだよ!」
「私だって、勝ち気で強情で、やたらと喧しく突っかかる面倒な女じゃないわよ!」
思いがけない悪口に憤然として言い返すと、「どの口が言ってんだ!」と力強く突っ込まれる。
「勝ち気で強情で、やたらと喧しく突っかかる女がお前だろ!幾度拒絶してもめげず、立ち向かってきて、ぶつかってきて、俺にずかずか踏み込む図々しい女がお前だろ!千代!」
ガツッと荒々しい拳と共に飛んできた自分の名前に、私はハッとした。
今、千代って。いばなが私の事を「千代」って呼んでくれた・・?
信じられない言葉に目を大きく見開き、自分の中で聞き間違いかどうか煩悶する。
私は呆然としてしまうけれど、いばなはガンガンと私達の間の壁を殴りながら言葉を続けた。
「そりゃあ始めの頃は紫苑だと思っていたが。俺はお前と接する様になったから理解した、お前を見ていたから分かった。俺の防壁をガンガンと壊して、目の前に現れたのは千代だ、と。俺の側に居る様になった女は千代だ、と」
だから俺はお前を紫苑だと思う事はなくなった、にも関わらずだ!と、いばなはハッと鼻で笑った。
「当の本人は紫苑に縛られ続けていると来た。剰え、俺がまだ紫苑を見ていると思い、とんちんかんな怒りを俺にぶつけてくる。これほど馬鹿げた事はねぇ!」
いばなはフッと自嘲を零すと、殴りつけるのを辞め、拳を五芒星に添える様に止めた。
バチバチッと白の火花が迸り、五芒星の結界が彼の手を容赦なく焼き続ける。
私はそんな彼にぎょっとして、「辞めて!」と叫びそうになったが。
射抜かれた彼の優しい目に、「全く、笑えるよな」と朗らかで柔らかい声音に、止められてしまった。
「俺もお前も、一方通行を歩いていたのだからな。そりゃあ当然正面から出会う訳がねぇ。まぁ、互いにこんな性格だ。俺達らしい事と言えばらしいのかもしれねぇが」
「・・いばな」
「けどな。もう一方通行はご免だ、無駄足を踏むのもご免だぞ。だからここから俺が、お前を正面から迎えに行ってやるよ」
グッと拳が五芒星を押しギチギチ、バチバチと拮抗する音が強くなる。
その音と血塗れになっていく五芒星によって、胸に込み上げる感動やら嬉しさやらが二の次の意識になってしまった。
「もう分かったから辞めて!今、解く」
「言ったはずだ」
いばなは私の焦燥を力強く遮ると、ニヤリと挑発的な笑みを見せる。
「俺がお前を迎えに行く、と」
いばなが朗々と言った刹那、五芒星にビキビキッと数多のヒビが入り込んだ。
そしてその追い打ちをかける様に、いばなの拳が大きく振り抜かれ、ズドンッと五芒星の中心を強く穿つ。
すると、バキンッと五芒星から甲高い悲鳴が発せられた。
五芒星は何とか自らを繋ぎ止めようと踏ん張っていたが。バキバキと伸びる破壊に耐えられず、白旗を揚げてしまった。
私の目の前で、まるで星の粒がパラパラと流れ落ちる様に崩れていく。血塗れで黒く焦げた拳だけが、その場に残り続けていた。
いばなは塵と化した五芒星を踏みつけながら、私の方にゆっくりと歩み寄る。その痛々しい手を伸ばしたままに。
「お前だけが壊せる訳ではない。当然、俺にも出来る事だ」
フッと勝ち誇った笑みを零すと、いばなはもたれかかる様に私を抱き寄せた。
「どうだ、千代。これで満足だろう」
「・・うん」
二の次だった意識が一気にぶわりと沸き立つと、己の中に満ちる。
「ありがとう、いばな・・。ごめんなさい、ごめんなさい」
「良い、もう何も言うな」
いばなは囁く様に告げてから、腕の中に閉じ込める力をギュッと優しく強めた。
私はふるふるとわななく唇を噛みしめてから、彼の背に手を回す。
出会ってから何月と言う長い時を経て、ようやく私達は千代といばなとして、互いの正面に立てた。
じわじわと歪む視界から、何度も何度も熱い雫が頬を駆け抜けていたけれど。それは幸せ以外の何ものでもなかった。
りぃんりぃんと緩やかに揺れる鈴の音も、ようやく出逢った私達を祝福している様に思えた。
それから、少し経った頃。私が薬草を採りに行こうとしていた時に、あの人がストンッと軽やかに私達の前に降り立った。
「五百年以上経って、ようやく岩に裂かれた水が逢いましたか」
「天影様!」「遅いぞ、阿呆め」
天影様は私にニコリと相好を崩してから、「場を見計らっていたのだよ」と飄々と答えた。
「私は君と違って、場も空気も、相手が欲しい言葉も読める男だからね」
いばなはそんな天影様に「四の五の言うな」とピシャリと言う。
そして「さっさと治せ」と、ずいとボロボロの両手を見せつけるが。
天影様はその拳を一瞥してから「人に物を頼む態度だとはとても思えないね」と、大仰にやれやれと肩を竦めた。
「まぁ、だからと言う訳ではないけれど。私は治さないよ」
柔らかな微笑を称えながら毅然と告げる天影様に、二つの声が飛ぶ。
一つは「あぁっ?!」と荒々しい怒声、もう一つは「えっ?!」と驚く声。
そして後者である私は、「どうかお願いします、天影様」と頼み込んだ。
「いばなの傷を治して下さいませんか。これはいばなのせいではなく、私のせいで」
「いいえ。その傷に起因するものは全て、他ならぬいばな自身にある。自業自得と言うものです、貴女のせいではありません」
天影様は私を宥める様に言ってから、「本人もよく分かっているでしょう」と冷めた眼差しをいばなに向ける。
「言葉にせずとも分かっているだろうと言う甘さで彼女を傷つけ、不器用だからと言う自分勝手な理由で誠実に向き合わなかったから、今の君はそうなっているのだよ。良い戒めが出来たものだね」
あぁ、それに私の鬼火を無下にした罰でもあるね。と、天影様は膨らんだ袖で口元を嫋やかに隠しながら、クックッと笑った。
その姿に、いばなの口からは「てめぇ・・」と苦々しげな声が発せられる。
「それが主な理由だろう?」
「私は君と違って、物事に私情を挟まないよ。なんせ、私は君と違って、怜悧だからね」
「余計な一言を足さねぇと物を言えねぇのか、てめぇは!」
いばなはゴウッと怒髪天を衝いたが。天影様は「君にだけだよ」と、依然変わらぬ態度で答えてから、私に向き直った。
「と、言う事ですから。今宵は私が人里の方に送りましょう。いばなの事は心配無用ですよ。我々は鬼です。殊にいばなは大妖怪の両親の血を継いでいますから、明後日には綺麗に治っていますよ。きっと傷跡すらもないでしょうね」
だから心配いりません。と、私に優しく微笑む天影様。
私は柔らかく紡がれた言葉にホッと胸をなで下ろし、「良かった」と安堵で満ちた言葉を呟いた。
天影様は「えぇ」と微笑んでから、「では」と颯爽と私の手を取る。
「明日も私が迎えに行きます。そしてまた明日の宵に、いばなと話をしてやってくださいね」
甘く、蠱惑的な微笑みにドキリとしながら「はい」と答えると。ふわっと身体が浮き、柔らかな風に包まれた。
天影様が「では、今宵はこれでお開きです」と言ってから、いばなに淡々と告げる。
「君はそこで待機だよ」
「おい!待て、天影!」
「さぁ、参りましょうか」
天影様はいばなの怒声を綺麗に無視して、私の手を優しく引きながら颯爽と空を歩んでいった。
離れていく地上から、ギャアギャアと喚くいばなの声が聞こえる。
天影様は「ほら。あんなに喚く元気があるので、大丈夫ですよ」と、微笑んだ。
「明日からは、何の遠慮も無く、思った言葉を素直にぶつけてあげて下さい。いばななら、もう大丈夫ですからね」
「はい」
私は優しく崩される相好を前に泰然と答えてから、柔らかな微笑を返した。
・・
翌日、宵が深まる酉の刻頃。私はいばなを前に「あのね」と意気込みながら切り出す。
「実は、私、ただの歩き巫女じゃないの。くノ一であり、武田家当主の太郎様に仕える間者なの」
「武田太郎?・・あぁ、甲斐の風雲児か。しかし風の噂で、病に伏せり先が長くないと聞いたが」
「病に伏せったと言うのは、残念ながら真の話なのだけれど。先が長くないと言うのは嘘よ。親方様は病なんぞには負けぬお方だから、直に以前の様に壮健なお姿になるわ」
いばなの言葉で信濃に居る親方様を思い出し、親方様の無事を祈りながら答えてしまうけれど。ハッと我に帰り「そうじゃなくて!」と、流れを本来あるべき正しい方向に戻した。
「大事なのはそこじゃないわ!間者なの、私は送り込まれた間者だったのよ?!」
愕然としながら訴えると、目の前のいばなは「そうか」と淡々と答える。私の勢いに押され気味になってはいるものの、彼は平然としていた。
驚かれるか、間者だったのかと怒鳴り散らされる事を予想し、怖々と構えていた私は、この飄々とした反応に呆気に取られてしまう。
私はぶんぶんと首を振ってから、「いばな」とずいと前屈みになって彼に近づいた。
「・・あの、間者って言うのはね」
「教えてもらわんでも分かるわ!」
馬鹿にしすぎだ!と、牙をむき出しにして怒鳴るいばなに、私は「ご、ごめんなさい」と素直に謝り、引き下がる。
いばなは「全くだ」と憤慨してから、「俺はそんなにも阿呆でうつけだと思われているのか」とか何とか、ブツブツと文句を垂れ流し始めた。
私は滔々と流れ出る呪怨じみた言葉を「あの」とバッサリと遮り、声をかける。
「怒らないの?間者だったのかって」
恐る恐る吐き出した問いかけに、いばなは怪訝に眉根を寄せてから「別に」と、堂々と答えた。
「間者として何も果たしていない者に、実は間者だと打ち明けられてもな。反応に困るだけだぞ」
はぁと嘆息すると、「いや、待て」と、治りかけている手で膝をパンと軽やかに打つ。
「お前の方こそ、間者と言う者が何たるか知っているのか?」
大真面目に訊かれる問いに、私は「当たり前でしょう!」と噛みつく様に答えた。
いばなは私の答えに、口角をくいっと意地悪く上げて「そうだったか」と引き下がる。
私は目の前で零される意地悪い笑みにムッとしてしまうが。己の猜疑心が、すぐに溜飲を下げさせ、彼に「本当に責め立てもしないの?」と弱々しく訊ねさせた。
「私は百鬼軍を探り、信濃への進軍を止めさせる為に送られた間者だったのよ。だから始めは」
「始めは、だろう?」
いばなは問答に半ば辟易しながら答えてから、私の目をまっすぐ射抜く。
「今のお前は違う」
その悪戯っ子の様な微笑みに、クックッと面白そうに告げる言葉に、そして柔らかくて温かな声音に、私の全てが己の役割を捨てて惚けてしまった。
そんな状態に陥っている事に気がついていなかったのか、敢えて触れない様に無視したのか。よく分からないけれど、いばなはまるで何もない様に言葉を続けた。
「しかし、お前が間者と言う立場であるならば、だ。何らかの手柄を持っておらんと主に顔向けも出来ぬし、帰郷する事も出来んだろう?」
「・・えぇ、まぁ、そうね」
急に振られた真剣な問いかけでハッと我に帰り、訥々と答えると。いばなは「よし」とパンッと力強く膝を打ち、ボッと手の平に鬼火を出した。
私の勾玉と同じ色である千種の鬼火はゆらりと揺れると、ヒューッと一人でに飛んで行ってしまった。
それから間も無くすると、微笑を称えた天影様が私達の前に颯爽と現れる。
「邪魔をするなと皆に厳命を下していた君が、邪魔者である私をわざわざ逢瀬の場に呼びつけるなんてね。一体、何事かな?」
逢瀬の場と言う単語に、私はカーッと羞恥に悶えてしまうが。隣のいばなは、一気呵成で「喧しい」と直ぐさま一蹴する。
「天影、今すぐ武田太郎の元に行け」
力強く言い切った命令に、私は「えっ?!」と素っ頓狂な声を張り上げてしまった。
けれど、鬼二人はそんな声を歯牙にもかけず、平然と言葉を交し続ける。
「それは別に構わないけれど。それなりの話がないと、太郎殿には会えないよ。彼はおいそれと会える人間じゃないからね」
「だから百鬼軍が武田領の守護に当たるとでも言え」
「あぁ、それならば彼に会えるね。分かった、そう伝えに行くよ」
「天影。お前の事だ、ぬかりはないと思うが。其方に送られた間者の手柄だと言い忘れるなよ」
「それは勿論、承知しているよ。そうしたら今から行ってくるけれど、天丸か空牙を連れて行っても良いかい?私の足よりも早いほうが良いだろう?」
「・・天丸を連れていけ。アレの方が人間を前にしても大人しいし、人間共にも喧しく騒ぎ立てられんだろう」
天影様は「分かった」と、にこやかに答えてから颯爽と消えてしまった。
あっという間に話が纏まってしまったけれど。私の理解はまだいばなが天影様に親方様の元に行けと、命じた所で止まっていた。
ちっとも前に進まない理解で、流暢に交された話をじっくりと飲み込んでいく。
そして何とかゴクリと全て飲み込めた時は、天影様が去ってから優に数分は経っていた。
「・・親方様の味方に付いてくれるの?」
「遅い」
淡々とした突っ込みがズバッと入る。
いばなは「やっと何か言うと思ったら、まだそこか」と嘆息してから、「そうだ」と力強く答えた。
「これでお前は堂々と戻れるし、身を案じている武田にも早く会えるだろう?」
フッと笑みを零されて告げられる言葉に、私の胸はじぃんと打たれて感極まってしまう。
感動が込み上げる胸に手を添えながら、わなわなと震える唇で「いばな」と彼の名を呼んだ。
そしてギュッと震える唇を噛みしめてから「本当に良いの?」と、いばなの目を不安げに見つめる。
「私としては言葉に出来ぬ程に嬉しい提案なのだけれど。一部の妖怪達は反対すると思うの。だから反旗を翻す、なんて言う事にもなりかねない気がして」
「その時はねじ伏せるまでだ、が。そもそも奴等には、俺に反駁する力も能もないからな。俺の命がなんであれ従う他ない」
暴君極まりない言葉を力強く言い切ったいばなに、私は思わず言葉に詰まってしまったが。「そ、そう」と弱々しく答えてから、いばなの横に移動して座り、そしてとんと頭を彼の肩に乗せた。
「ありがとう、いばな」
囁く様に告げると、いばなは言葉を返さずに、ふんと鼻を鳴らす。
・・全く。いばなは本当に素直じゃないし、本当に不器用な人だわ。そんな恩に着せる様な態度じゃなくて、優しい態度で「気にする事はないぞ」位言ってくれても良いのに。
なんて心中ではやれやれと呆れ、ツンとしていたけれど。それは全て本心じゃない様に聞こえた。
だって、今の私はこんなにもたまらない愛おしさに、ふわりと優しく包まれているのだから。
数月ぶりに、私は親方様がいらっしゃる躑躅ヶ崎館に戻って来た。遠く離れた越前から信濃と言う長い道のりにも関わらず、二刻にも満たない短さで。
山を幾つも越え、険しい道を歩かねばならないと言うのに、どうしてそんなに早く信濃に到着出来たのかと言うと・・空牙と呼ばれた双頭の蛇妖怪の背に乗り、うねうねと空を泳ぐ様に進んだからだ。
いばなの前に乗せられたおかげで、後ろからの安心感は大きかったけれど。空を進む心地には微塵も心が落ち着かなかった。あと、後ろから感じる百鬼軍の姿にも。
この光景には、私だけが怯えた訳ではないと思うのよね。下から泡を食う人々の声や、悲鳴じみた叫びが聞こえていたから・・。
まぁ、何はともあれ、そうして帰郷してきた訳だけれど。今は、いばなと共に親方様の元に向かっている。
親方様の御身が心配だから、早くお目通り出来たらと思うのだけれど。横のいばなを見てしまうと、別の不安と心配が襲ってきて気が気じゃないのよね・・。
私はいばなをチラと盗み見る。
いばなは親方様に会うと言う緊張にも、不安にも襲われていなかった。それどころか、我が物顔で廊下を踏みしめ、ドスドスといつもと変わらぬ歩調。
私はパッと視線を元に戻してから、はぁとため息を一つ零した。
心配だわ・・。いばなはまるで何も感じていないし、態度を改めようとする心すら見えないもの。この調子なら、絶対に親方様に無礼・非礼を働くのではないかしら・・。
初めて、私の大切な人達が同じ場に揃うのに。初めて、敬愛する親方様の前で自分が恋慕を抱く人を連れて行くのに。
場が最悪で終わる可能性が「大」だなんて、哀しすぎるわね・・。
はぁと、私はもう何度目かも分からないため息を吐き出した。
いばなは私が慕う大切な人だから、親方様にも好いて欲しいのだけれど。絶望的よね、きっと。
はぁ、ともう一つため息を零すと。横から「先程からため息を尽きすぎだ」と刺々しく声をかけられた。
「そうも横でため息ばかりを吐かれると、気が滅入る」
嗚呼、やはりいばなは分からないわよね。
かけられたぶっきらぼうな言葉でそう痛感してしまった私は、憮然としながら「ごめんなさい」と答えた。
するといばなから、わざとらしいため息が零され「案ずるな」と投げやりに告げられる。
「人間相手であろうが、俺は然るべき相手には礼節を弁える。故に、お前が思う様な事にはならん」
私は、その言葉にハッとした。
いばなは分かってくれている!
あぁ、いばなは分かってくれていたのね。また、私が勝手に決めつけて先走ってしまっていただけなのね。
自分の愚かな間違いに気がつくと共に、広がっていた不安や絶望が杞憂に塗り替えられていく。
私はギュッと勾玉を握りしめてから「そうよね。ごめんなさい」と、いばなに微笑みを見せた。
いばなはその笑みを見ると、ふんと鼻を鳴らす。
「まぁ、任せておけ」
と言われて、「うん」と嬉々として返した私。
きっといばななら大丈夫だ。いつもの傲岸不遜な態度を取らず、丁寧な姿勢で親方様と会ってくれるわ!なんて、いばなを信じて疑わなかったけれど・・。
いざ親方様と対面となった瞬間。
「ほぉ、お前が武田太郎か。噂通りの男だな」
開口一番にお前呼ばわり且つ堂々と無礼な口を叩くいばなに、私は「申し訳ありません!」とその場で深々と叩頭し、「どうかお許し下さい!」と悲痛に訴える。
「親方様に無礼を働くつもりはございません!彼は尊大な性格でして、この様にしか物が言えないのでございます!」
私が切羽詰まって言葉を述べた瞬間、横から「何をふざけた事を抜かしているんだ、お前は!」と怒声が飛んだ。
けれど、私はそんな怒りを歯牙にもかけなかった、否、気にも止めていなかった。ただ、親方様に阿る事だけに必死だったから。
「親方様!どうか、どうかお許しを!決して親方様を侮蔑している訳ではないのです!」
「良い良い、千代。面を上げよ」
親方様の安穏な言葉が耳に入ると、私は恐る恐る顔を上げた。
見れば、親方様はいつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべていらっしゃり、「良いのだ」とおおらかに言った。
「千代よ。今はワシに阿るより、隣におわす百鬼軍頭目殿に礼を尽くさねばならぬぞ」
親方様は私を窘めると、いばなの方に視線を移し「遠路はるばるよう参って下さった、百鬼軍頭目殿」とにこやかに告げる。
「本来であれば、こちらが赴かねばならぬ所。まこと申し訳ない」
「構わん。二、三言葉を交すだけだ。場がどこであれ関係なかろう」
いばなは親方様に対し、尊大に物を言うと。ずかずかと前に進み出て、どっかりと親方様の正面に腰を下ろした。
私はその傲岸不遜な姿に「いばなあぁぁっ!」と内心で怒り狂い、悲鳴をあげる。
けれど、いばなはそんな私に気がつきもせず「天影から話を聞いているな?」と、言葉を続けていた。
親方様はその言葉に「ええ、耳を疑いましたぞ」と首肯する。
「我らに味方して下さるとの事でしたが、頭目殿は本気でそうお考えなのか?」
「あぁ、我ら百鬼軍がお前の力になろう。領土の守護や、戦時には兵として其方に加わる事を約束する」
いばなが毅然と言い切ると。親方様は「なんと心強い」と喜色を浮かべて、パチンと大きく膝を打った。
けれどすぐに「だが」と言葉が続き、その声が陰る。
「それでは、こちらに利が偏りすぎていやしないだろうか。頭目殿は、いかほどの見返りをお望みなのか分からぬが」
「見返りや報酬は求めん」
いばなは親方様の言葉を遮り、きっぱりと宣誓した。
「普段であれば、こんな事は絶対に言わんが。俺にこう言わせてしまう者がいるのだ。全く、お前は実に優秀な間者を持っているものだな」
突飛な言葉に、親方様は少々面食らう。ヒヤヒヤとしながら話に耳を傾けていた私も面食らってしまい、唖然とその背を見つめてしまった。
すると親方様がにこやかに相互を崩し、「その様ですな」と答えてから「千代」と私を見据える。
呆然としていた私は、その呼びかけにすぐには答えられず、数秒置いた後「ハイッ!」と慌てて答えた。
「席を外してくれ。頭目殿と二人で話をしたい」
おおらかに告げられた命に、私は「えっ?!」と愕然としてしまう。
親方様は警戒心がお強く、基本的には自分が気を許した忠臣以外とは二人きりにならない人だ。
それなのに、未だ信用どころか誠意も何も見せていない、いばなと二人だけで話をしたいと仰るなんて・・。
私はおずおずと「よろしいのですか、親方様」と、問いかける。
すると親方様は「分かっておるとも」と窘める様に告げてから、私に「下がれ」と言った。
その柔らかな眼差しと、緩やかに綻ぶ口元を見てしまうと。私は素直に「では、失礼仕りまする」と立ち上がり、楚々とその場を退出した。
家臣の一人としては、親方様の命に食い下がるべき所だったであろうに。私は千代として、自分の想いを優先してしまった。
「噂以上の男だな、武田太郎」
俺は部屋を出て行く千代を見送ってから、武田に賞賛を送る。
「精神の面にしろ、身体の面にしろ、見事な胆力だと舌を巻く他ない。忠臣の手前であったからであろうが、よくもそんな風に毅然と振る舞えるものだ」
「・・己の好処がそれだけ故」
武田は小さく肩を竦めてから、ゴホッと咳を一つ零した。
武田太郎、会ってすぐに噂以上の鬼才だと分かったが。もう先が長くないと言うのは噂通りらしい。この男の身体は、病に冒され尽くしている。千代には悪いが、余命幾ばくも無いであろう。
もって、あと半月と言った所か・・。
俺は奴の心臓部から目を逸らし、精悍が削られつつある顔を見据えた。
「天影ならば、その病、何とかなるかもしれぬぞ。奴には不治の病でも治せる手がある」
「昨日天影殿にも同じことを申された。何ともありがたき話になるが、辞退仕る」
予想外の断りに、俺は「何だと?」と、やや目を見開いてしまう。
「もう生きたくないとでも言うのか?いや、我らの事が信じられぬからか?」
飲み込みきれなかった衝撃と怪訝を露わに訊ねると、武田は「いやいや」と崩した相好の前で軽く手を振った。
「心根を申せば、そのありがたき手を取りたいところ。しかし、尽きる命を無理に繋ぎ止め長らえるのは、天命に背くと思いましてな。余命幾ばくもなかろうと、これが己の天命であったと受け入れる方が大往生と言うものでありましょう」
「・・成程。大した人間だ」
幾年と生きてきたが、お前ほどの者はおらぬな。と、俺は独り言つ様に告げる。
武田は俺の言葉を聞くと、「ちと大仰が過ぎるお言葉ですな」とカラカラと笑った。
その太い笑みで、俺は「やはり大した人間だ」と感服する。
そして「武田」と自分が久方ぶりに認めた男の名を呼び、ニヤリと口角を上げた。
「もう諂って物を言う必要は無い。俺とお前は対等だ」
武田は目を大きく見開いてから「かたじけない」と、喜色を浮かべながらパンと膝を打った。
「先の短い命であるやもしれぬが、何卒よろしく頼む」
深々と下がる頭に、俺は堅く頷いたが。すぐに「あと」と、武田の口から言葉が続いた。
「千代の事も、どうかよろしく頼みたい」
「・・どういう事だ?」
少々言葉に詰まりながら訊ねると、武田は弱々しい笑みを浮かべる。
「千代には、そろそろ自由を返したいと思っていた所だったのだ。アレはワシが幼少の時に見込み、間者として育ててきたせいで、未だに浮いた話の一つもなくてな。十八と花盛りの年頃にも関わらず、日々間者として危険な橋を渡るばかりよ」
物憂げに紡がれる言葉に「成程、そういう話か」と、冷静に達観する自分も居たが。
大半の自分は「あの青狸め、余計な事を吹き込みやがったな」と、天影に対して激しい怒りと憎悪を抱いていた。
しかし今は千代の主君であり、大切に想っている者の手前であるから、いつもの様に振る舞う訳にはいかない。
俺は苦虫を噛み潰した様な面持ちで「いや、分かっているとも」と、滔々と続く言葉に耳を傾けていた。
「他ならぬワシ自身がその道を千代に強いて、千代の幸せを奪い続けていると。しかしワシは千代の事を大切に、それこそ娘の様に思うているのだ。故に、千代には多幸であって欲しい。その為にワシが出来る事があれば、どんな事でも力を尽くす所存なのだ」
武田の口調に熱が籠もり始め「故に、頭目殿」と、熱い想いが乗せられたまっすぐな眼差しで射抜かれるが。
俺は先の言葉を言われる前に、スッと片手を挙げて武田を制した。
そして口を半開きにして固まった武田を見据えながら、「案ずるな」と口ごもりながら告げる。
「・・俺は、そのつもりでいる」
重たい口で明かした未来に、目の前の武田は唖然としていたが。じわじわと驚きが瓦解し、ゆるゆると顔が綻び始めた。
「左様か、左様であったか」
噛みしめる様に独りごちながら、俺を柔らかく、そして温かな眼差しで見つめる。
それが堪らなく己の羞恥を刺激した。そればかりか、ぶわりと全身の血が沸騰する様な心地に陥る。
ギュッと拳を堅く作り、押し寄せる荒波を痛みで紛らわせてから「良いのか」と、ぶっきらぼうに打ち返した。
「俺は人間では無い、鬼だ。妖怪なのだぞ。そんな奴の元に、娘同然に思っている女を寄越して良いのか」
「無論だ、アレもそれが望みだからなぁ。大いに喜びながら其方の元に参るぞ」
目に浮かぶわ。と、武田は顎に手を当てながら満足げに独り言つ。
「随分と強く言い切るものだな。向こうの心はどうだか分からんと言うのに」
俺が憮然として答えると、武田は「分かるとも」と先程よりも力強く言い切った。
「主君として、父として、ワシは千代を長く見て来たのだから。他ならぬ其方でないと、千代は幸せになれぬ・・そう、分かるとも」
己の羞恥が痛みを軽々と越え、ザパアッと押し寄せてくる。
何とか「そうか」と吐き出したものの、内側の俺は縦横無尽に転げ回りながら「うがあぁぁっ!なんだ、この居たたまれなさは!」と発狂していた。
だが、「頭目殿」と呼ばれる声で、のたうつ内心からハッと我に帰る。
「千代をよろしく頼む」
武田は毅然と告げると、深々と叩頭した。
その姿が、誰かとピタリと重なる。
二つに重なった姿に、俺は「もう一人は、誰だ?」とキュッと眉根を寄せてしまいそうになったが。ゆっくりと閉ざした瞼裏に映る姿で思い出した。
あぁ、そうか。アイツだ、晴明だ・・。
懐かしい束帯姿を目にし、もう遙か昔となってしまった「かつての記憶」がまざまざと蘇る。
思い出してみれば「紫苑を頼むよ、いばな」と晴明に頭を下げられていた事があったな。
そして俺は奴に誓いを立てたのだ。必ず紫苑を幸せにする、と。
・・だが、俺はその誓いを守る事が出来なかった。それも、誓いを立てた翌日に破ってしまった。いや、破らされた・・のか。
俺は蘇る苦い記憶をもう一度閉ざしてから、畳に付いた己の拳に目を落とした。
今再び、好く女が慕う人間から「頼む」と言われているが。ここで誓いを立てても良いのだろうか。
誓いを立てた所で、また破る事にならないだろうか。
今度こそ引き裂かれる事なく、隣を歩み続けられるだろうか。
不安が生命を宿して、身体中をもぞもぞと気持ち悪く蠢動する。
ギュッと指を更に丸め込み、俺は手の平に深々と爪を突き刺した。
千代は紫苑ではない。
だから今度こそは守れるであろう。
俺は、蠢く不安を噛み潰してから「武田」と、名を呼んだ。
そして面があがった武田の目をまっすぐ見据えてから「約束しよう」と毅然と告げる。
「死が分かつまで共にある、と」
俺の誓いを聞いた武田は独り言つ様に言った。
「頼む」と、ただその一言だけを。満足げに、どこか少し哀しげに告げた。
私は適当に相づちを打ちながら、右からくどくどと流れる言葉を左に流していた。
こんな雑な対応をしたくはないけれど。始めから今まで延々と似た様な事ばかりを繰り返されているのだから、辟易してしまうのも無理はないわよね。
横にいる徳にぃ様には分からぬ内心で、私は文句とため息を吐き出した。
辞去を命じられ、途端に手持ち無沙汰になってしまった私は「天影様の元に行こうかしら」と考えていたのだけれど。幾ばくも経たぬうちに、私は右隣に居る徳にぃ様に捕まったのだ。
始めは「無事で良かった」と言う話だったから良かったけれど。段々と「妖怪と共に戻るとは」と言う説教じみた言葉になり、今は「妖怪の肩を持つな、危険極まりない輩なのだぞ」と言う、妖怪非難になっているのだ。
確かに、自らの命の危機を感じる妖怪は居るけれど。人に寄り添う優しい妖怪達も、同じくらい沢山居る事を知っている身としては、今の徳にぃ様の話はうんざりする。
「これ。聞いておるのか、千代」
唐突にかかる物々しい声に、私は内側の世界から外の世界に意識をパッと戻した。
そして「勿論です」と肩を小さく竦め「幾度も申しておりますが」と、少々の皮肉を口にする。
すると徳にぃ様からはぁと呆れたため息が零れ「千代」と、私を窘めた。
「いい加減、妖怪の肩を持つのを辞めろ。奴等は危険なのだ」
「・・ですから、危険ではない者も」
「口で言うのは容易いものだ。だが、危険ではないと見せろと言われたら無理であろう。それが妖怪だ、我ら人間とは相容れない悍ましい存在なのだ」
こちらの言い分を一切聞かず、頑として曲げぬ自分の意思をぶつける徳にぃ様。
私は堪らずに「あぁ、もう」と、内心で憤懣としてしまう。
「奴等は平気で裏切り、平気で人を殺す。そんな輩の肩など持っていたら、従犯としてお前も罰せられると言う事になるやもしれぬぞ。それでも良いのか、千代」
「その様な事にはなりませぬ。良いですか、徳にぃ様。私は百鬼軍の面々と親交を深めて参りましたのよ。これが人を襲わず、裏切らず、人に寄り添う妖怪達も居ると言う証明です。彼等が私達に仇なす事はございませぬ!」
声を張り上げて訴えると、徳にぃ様は厳しい面持ちで「いい加減にしろ」と唾棄した。
「千代。奴等はお主の良心を利用し、弄んでいるだけぞ」
「彼等は嘘偽りなく、真心で接してくれています」
「口先だけの言葉では、何の信用にもならん。千代、今の主は己を見失っているのだ」
「そんな事ありませぬ!しかと見えています!己も現実も真実も見えているからこそ、私はこうして徳にぃ様のおかしな言い分に反駁しているのです!」
大きく見開いたままの目頭を指でぐいと押さえ、「見えている」と言う事をわざとらしく強調しながら、私は食い下がり続ける。
そして飛んで来るであろう反論を躱す様に、素早く言葉を継いだ。
「私は知っていますのよ、徳にぃ様。この目で見て、この耳で聞いて、この口で彼等と言葉を交しましたからね。人間にも善人と悪人が存在する様に、妖怪だって須く悪ではないのです。きちんと善がある。分かりますか、人間も妖怪も同じなのですよ」
「馬鹿な事を申すな。妖怪と我らが同じ訳あるまい。現に、あの連中は人里を幾つも襲い、人を喰らっているではないか」
徳にぃ様は唾棄する様に告げ、核を突いたと言わんばかりの顔をする。
けれど、私にとってはこんな指摘は何でも無かった。
私は「それは昔の話です」と、落ち着いて答える。
「今の彼等は違います。彼等が慕う頭目殿が、人を食うなと命じたから人を襲う事をしなくなったのですよ。故に、これからも彼等が人に牙を向ける事はありませぬ」
毅然と言い返すと、目の前の徳にぃ様は納得がいかない顔で「あり得ぬ」と口ごもる。
私はその隙をついて「そう命じられてから、百鬼軍の面々が人を食った姿を見た事がありませぬ」と、追い打ちをかけた。
「人を前にしても耐える様になったのですよ」
「・・お主の見ていない所で惨たらしく人間を喰っておるのだ。千代、お主は妖怪を信じ過ぎだ」
徳にぃ様は憮然と食い下がるが。私の言い分の綻びを広げるには至らなかった。
当然の事であろう。彼等を噂で判断する徳にぃ様よりも、彼等と直に付き合い続けてきた私の方が強いに決まっている。
私はふぅとため息を吐き出してから「徳にぃ様のお気持ちも分かりますけれど」と、宥める様に言った。
「頭ごなしに決めつけるのではなく、まずは彼等を知ってみて下さいませ。それが徳にぃ様の利にもなり、互いが寄り添う一歩になりましょうから」
「・・妖怪と分かり合うつもりはないし、分かり合える事もないのだ。千代、お主は夢」
「千代」
徳にぃ様の声に重なる様に背後から飛んできた声に、私はパッと後ろを向く。
そこに立っている人を見たら、うんざりと陰っていた顔がパーッと明るくなっていくのが自分でも分かった。
私は「徳にぃ様、彼が百鬼軍の頭目殿ですよ!」と嬉々として紹介してから、歩み寄ってきたいばなに「こちらは親方様の忠臣の一人、兵部殿よ」と軽く紹介する。
いばなは威圧的に腕を組み、「そうか」とぶっきらぼうに答えた。一方の徳にぃ様も、警戒心や敵愾心を剥き出しにして睨むだけ。
互いにバチバチと殺気が迸り、この周辺の空気だけが異様に殺伐とし始めた。
あぁ、このまま一触即発の事態が続くのは良くないわ。こんな所でこの二人が争ったら大変な事になるもの!
私は「もう、そこまでにして」と言う圧を込めていばなを見やり、いばなを少々たじろがせてから「では、徳にぃ様!」と朗らかに声を上げて向き直った。
「彼が軍の方に戻るそうなので、お見送りをして参ります!」
徳にぃ様は思いがけない急展開に唖然としていたが。私はその好機を逃さず「さ、参りましょう!」と、ぐいっといばなを押した。
いばなは私の圧に負けて、「あぁ」と弱々しく頷きながら徳にぃ様から背を向ける。
私もその後をついて行こうとしたが、後ろからパシッと手首を掴まれた。
思いがけない手首の力に、私は驚きを露わにして振り返ってしまう。
「行くな」
物々しい声音ながらも、そう告げる表情には私の身を案じるが故の不安と心配が現れていた。
初めて見る様な痛切な表情を見てしまうと、苛立ちを覚えていた私がスッと大人しくなる。故に、「いい加減にして下さい」と出かけていた文句も、サラサラと奥の方に流れていった。
私は朗らかに笑みを浮かべながら「大丈夫ですよ」と言う。
「何も心配はいりませぬ」
「・・そうではない。そうではない、千代。私は、私はただ・・主の事が、心配なのだ」
もごもごと重たい口で返す徳にぃ様。
私は「充分承知しております」と答えてから、徳にぃ様の手をゆっくりと包み込んで一つ一つ解いていく。
「千代の身をこれほどまでに案じて下さるのは徳にぃ様だけですもの。千代はまこと幸せ者です。ですが、もうそこまで心配なさらなくても大丈夫ですよ。千代はもう、徳にぃ様に迷惑ばかりをかける童ではありませぬ」
憮然とする徳にぃ様にいつもの笑顔を見せてから、最後の指を解いた。
「徳にぃ様、千代はもう大丈夫ですよ」
キュッと掴んでいた手を柔らかく包み込んでから、私は「では」とゆっくりとその手を離し、少し先で待ついばなの元に駆けて行った。
いばなは何やら神妙な面持ちをしていたけれど。私が駆け寄ると手を伸ばして、少し表情を崩した。
私はその表情にニコリと顔を綻ばせてから、差し伸べられた手に自分の手を乗せた。
しっかりと手が受け止められると。いばなはぐいと私を引き寄せてから颯爽と横抱きし、天高く飛び上がった。
私はいばなの首にしがみつく様に掴まり、完璧に彼に身を預ける。
不思議。なんだか、いつもより面映ゆい感じがしないわ。
徳にぃ様に、寄り添えないとか相容れないとか言われていたからかしら。「こんな近くの距離に居られる」と言う嬉しさが込み上げてくるし、いばなの存在の大切さが改めて心に深く刻まれる。
私は緩む口角からフフッと喜びを零してから、ギュウッと手の力を強めて首に顔を埋めた。
「・・どうかしたのか?」
「別に何でもないわ。ただ、幸せを噛みしめているだけ」
いばなは、私の言葉に「そうか」とぶっきらぼうに返す。
そのぶっきらぼうさに、私と同じ想いが込められている事には、勿論気がついていた。
・・・
「懐かしの我が家―!」
私は家の中に向かって声を張り上げたが、すぐに何とも言えない心地に陥る。
蜘蛛の巣が好き放題に張られ、木板にもうっすらと埃が積もっているからだ。壁にも穴が空き、ちゅうちゅうと鼠の親子が私の目の前で駆け抜ける。
・・まぁ、こんな状態になるのも詮方なき事と言うものよね。私は幾日も帰らないし、手入れをする機会なんて滅多にないものね。
まるで空き家の様な我が家に、私はがっくりと肩を落としてから振り返った。
「申し訳ないのだけれど、予想以上に中が惨状だったの。だからこっちで良い?」
ビシッと我が家の前に立つ、松の木を指して頼み込む。
いばなは「構わん」と返してから、私を再び横抱きしてから颯爽と枝に飛び移り、安全な幹の方に私を下ろした。
私がその場に腰を下ろすと、いばなもスッと隣に腰を下ろす。
「ねぇ」「なぁ」
二人並んで座るや否やで、お互いの声が重なった。そしてまた「何?」「何だ?」と言う声が重なる。
二度重なった声に、私は小さく吹き出してから「どうぞ」と、いばなに先を譲った。
いばなはふんと鼻を鳴らしてから「大した事ではないが」と、前置きしてから話し出す。
「先の男は、お前の何だ?随分と親しげであったが」
やや不機嫌気味の問いかけに、私は「徳にぃ様の事?」と首を軽く傾げてから「血が繋がっていない兄君みたいなものよ」と朗らかに答えた。
「・・兄?」
「えぇ、そうよ。幼少の頃から共に親方様に仕えていたから、自然と兄妹みたいになったの。あちらも私を妹の一人にしか見ていないわ」
だから過剰なまでにお節介を焼いてくれるの。と、小さく肩を竦める。
いばなは「兄、か」と独りごちてから「あの目は、とても妹を心配している兄の目だとは思えなかったがな」と、憮然と腕を組んだ。
私はその呟きに「え?」と返すが、いばなは「気にするな」と言ってから「お前は?」と話を先に進める。
なんだかはぐらかされた様な気がするのだけれど・・。と思ったものの、聞き返した所で、もう一度「気にするな」と言われてしまうのが目に見えている。
私は内心で「まぁ、良いか」と肩を竦めてから、「親方様との事よ」と答えた。
「何を話されていたの?かなり長い事話していたでしょう?」
いばなは私の問いに、「まぁ色々だが」と始めはぶっきらぼうに答えたが。「久方ぶりに、人間に感服したものだ」と、泰然と言葉を継いだ。
「言葉を交していると、成程日の本に名を轟かす将だと思ったな。あんな人間は久方ぶりに見た、稀有な男だ」
人間なのがげに惜しい所よ。と、いばなは感嘆しながら言う。
私は滔々と並んだ主君の褒め言葉に、「そうでしょう!」と食い気味に反応してしまった。その勢いが強く、あわや転落しかけたが。いばなが素早く止めてくれたので、無事だった。
まぁ、「全く、気をつけろ」と言う物々しい諫言は付いてきてしまったけれど。
私は「ごめんなさい」と謝ってから「そうでしょう?」と、もう一度力強く言った。
「親方様は実に素晴らしいお方なのよ。いずれ必ずこの国の天下を獲るお方だと思うわ」
「・・それは、大いにあり得るだろう」
「そうでしょう?」
自分の事を言われた訳ではないのに、私はふふんと鼻高に答える。
「親方様が天下を獲る為に私に出来る事があれば、何でも尽力するつもりなの」
胸をドンと打ちながら告げると、いばなは神妙な面持ちで「そうか」と頷いた。
その微妙な反応に、目を少々側めて「なに?」と訊くと。いばなは「何でも無い」と、小さく肩を竦めてから、私が何か言う前に「お前の厚い忠義は分かった」と言葉を継いだ。
「では、その武田が死んだ後、お前はどうするのだ?」
「・・親方様がご逝去された話なんてしたくないわ」
縁起でもないもの。と、憮然として答えると、いばなは「遅かれ早かれそうなる話だろう」と容赦なく言う。
「俺は、お前のその後を訊きたいのだ」
真剣な口調で訊ねられると、「縁起でもない」と少し憤っていた私が大人しくなった。
それは、今までその事を「縁起でもない」と片付け、真剣に考えていなかったと気づかされたから・・だと思う。
親方様に尽くす。ただそれだけを考え、まっすぐに生き続けてきた。
だから今まで逃げてきた質問を真っ向からぶつけられ、私は初めて「自分のその後」を真剣に考えだす。
そして自分の中で広がる数本の道をあれこれと吟味し、一番行きたい道を選んだ。
私は「親方様がご逝去なさるなんて、少しも考えたくないけれど」と弱々しく前置きしてから、「もしそうなれば」と答えを明かす。
「私は・・いばなと共に生きていけたら良いなと思うわ」
いばなの顔を見つめ、まっすぐ伝えた。
初めて真剣に考えた「その後」の隣に居て欲しいのは、貴方だと。
けれど、目の前のいばなは無反応だった。無反応と言うか、ただ私を見つめながら唖然としているだけ。
羞恥をぐっと飲み込み、真剣に伝えたというのに!何故、まるで聞いていなかった様な薄い反応をされているの?!
抑えていた羞恥といばなの無反応で生まれた混乱が、ぶわりと己を飲み込んだ。
かーっと体温が沸々と上がり、頭がぐちゃぐちゃと混乱して回り出す。
そして生まれる「言うんじゃなかった」と言う、凄まじい後悔・・!
私は内心で激しく身悶えしながら、「あ、ああぁの!」と素っ頓狂な声を張り上げた。
「別に、そうしろと言う訳じゃないのよ!?ただ、そうなれたら良いなって思うだけ!そう、そう言うだけ!それだけ!それだけの事なの!」
言葉がめったやたらに飛び出す。
もう、自分でも何を言っているのか分かっていなかった。
しかしそれが更に羞恥やら何やらを大きくし、どんどんと「己」を見えなくさせていく。
何を言っているの、私は!と、思っているはずなのに口が全く止まらない!どうすれば良いの?!
ちっぽけな私がわたわたと泡を食いながら「だから、そう、いばなは気にしないで!」と、表の私が声を張り上げた。
その次の瞬間だった。
「それは無理だ」
「・・えっ?」
いばなの冷静な声と言うか、威圧的な声がバチンと慌てふためく私を止める。
「全く。一方的にまくし立てるだけまくし立てて、俺の話を聞かないで終わらせようとするな」
はぁと半ば呆れ半ば苛立ちを込めた息を吐き出されると、私はゆるゆると平静に戻らされた。あれだけ見えていなかった己も、じわじわと鮮明に見えだす。
私は「ごめんなさい」と小さく謝ってから、「どういう事?」と首を少々傾げた。
するといばなは「どうもこうもない」と、やや重たい口で言葉を紡ぐ。
「俺もお前と同じ心を持っている、故に気にしないと言う事は出来ぬ・・それで分かるだろう」
今度は私が呆然とする番だった。
脳内でぶっきらぼうにかけられた言葉を反芻し、真意を刮ぐ。そしてその真意を手に取り、抱き寄せると、ようやく表の私が言葉を発した。
「・・嘘」
「遅い」
いつぞやの様に淡々と突っ込まれるが。そんな突っ込みは、未だに夢見心地の私には入ってこなかった。
故に、唖然としたまま「信じられない」と、言葉を継いでしまう。
「私が言った時、無反応だった、のに」
「それは、あれだ。次代に仕えるとか、他の奴の女になるとか言うと思っていたからな。予想外だったのだ。だから驚き固まった、ただそれだけだ」
歯がみしながら憎々しげに告げると、いばなはふんと尊大に鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
立てた片膝に頬杖を突いて、ぶすっと分かり安い程にふて腐れる。
けれど、その横顔には彼の髪と同じ様な朱色がほんのりと差されていた。
私の胸がキュッと締め付けられ、ドクンと心臓が大きく跳ねる。
私は胸にピタリと付いた勾玉をキュッと握りしめ、そんな自分の存在を紛らわせた。
そして「私が忠誠を誓ったのは、親方様だけよ」と、愛おしい横顔に向かって言う。
「だから若様が当主をお継ぎになられても、他の者が立っても、私は誰にも仕えないわ。それに、私が他の奴の女になるなんて言う訳ないでしょう」
私は艶然として言うと、空いた左手にソッと手を乗せた。
「これからも、遠い先の未来でも、いばなの側に居る。それでも構わない?」
いばなは「無論だ、下らぬ事を聞くな」と唾棄してから、こちらに顔を向けてキュッと私の手を握りしめる。
「それに、お前が側に居ないと話にならぬ。俺は、お前の人生を貰い受けるつもりなのだからな」
信じられない言葉を聞いた気がして、私は「えっ」と愕然としてしまうが。私を射抜く真剣な眼差しと、嘘偽り無いと切に感じる熱い言葉が、その驚きを緩やかに喜びや嬉しさに変えていった。
じわじわと大きく開かれた視界が歪み、半開きになっていた口がわなわなと顫動しながら「それって、つまり」と、弱々しく言葉を吐き出す。
「いばな・・私を」
「娶る」
いばなは私の言葉を先取って力強く告げると「悪いか」と、刺々しく言った。
私はすぐにぶんぶんと首を横に振り、涙が潤む目のままいばなを見つめる。
「悪くないわ、何も悪くない!私は喜んでいばなの妻になる・・ううん、なりたいわ!」
勢い込んで前のめりに言うと、目の前のいばなは少し呆気に取られたが。すぐにふんと鼻を鳴らして「良いだろう」と尊大に告げた。
「誓ったからにはその約束、必ず守ってもらうからな。千代」
私は相好を崩して「ええ、勿論」と力強く頷くが。「でも」と、言葉を続ける。
「親方様がご逝去なさるまでは出来ないわよ」
「・・不承不承ではあるが、それ位の時は待つ」
今すぐと言いたい所ではあるがな。と、いばなは苦々しく答えた。
私はその微笑ましい顔を見つめながら「ありがとう」と言うと、彼の肩にとんと頭を乗せる。
「今からその時が楽しみだわ。いばなとであれば、幸せな未来しか思い描けないもの」
独り言つ様に囁いた。
すると、いばなが「クソ」と恨みがましく唾棄する。
「・・武田を先にくたばらせるか」
「ちょっと!とんでもない事を言わないで!」
横から聞こえた悍ましい言葉に絶叫して、バッと離れると。ゴンッと私の頭がいばなの顎を打ち、私の肘が彼のみぞおちに深々と入ってしまった。
いばなから「うぐっ」と苦しげな呻きが漏れるが。いばなに降りかかった悲劇は、それだけで終わらなかった。
力強い衝撃のせいで、いばなの身体はぐらりと後ろに崩れる。
私が「あっ!」と声を上げた時には、いばなの身体は虚空に放り投げ出されていた。
私は慌てて手を伸ばし、落ちるいばなの手を掴もうとしたが。私の手はいばなの指を掠る事もなかった。
目の前で、いばなの身体が地面に近づいていく。
だが、自分が思う惨事にはならなかった。いばなはくるんっと宙で後転し、ストンッと足から軽やかに着地する。
いばなは着地するや否やで「急に何をするんだ!」と、怒髪天を衝いた。
けれど、ホッと安堵する私の耳に怒声は何一つ入らない。
いばなは鬼だから、人間以上の身体能力がある。これくらい何ともなかったんだわ。
良かった。と、着地したいばなに胸をなで下ろすが。安堵したのも束の間、今度は私の身体が虚空に飛び出していた。手を伸ばした際に、身体をきちんと元に戻していなかったのだ。
あっ!と思う時には、もう遅い。
私の身体は、ひゅーっと落下していた。まるで果実が木から落ちる様に。
落下の恐怖がビタビタッと張り付き、果実がぐちゃりと潰れる場面が瞼裏に思い起こされる。
そのせいで、私の全身はガチガチに強張ってしまうが。「手を広げていろ!」と下から聞こえた怒声に、私はハッとする。
そして思いきりバッと手を広げた刹那。私はドンッと強く受け止められてから、ぶんっと振り回される様に一回転させられてから、ストンッと足から着地した。
急展開と急回転に軽く目を回しながら、私は受け止めてくれたいばなに顔を向ける。
「あ、ありがと」
「全くとんでもない阿呆だな、お前は!」
いばなは私の礼を遮って怒声を浴びせた。
「冗談を真に受け突き飛ばしただけにあらず」
「冗談でも言って欲しくない事だったからよ!それにわざと突き飛ばした訳ではないわ!」
今度は私がいばなの言葉を遮って憤慨し、バチバチと火花を散らす。
「わざとであって堪るか!俺でなかったら、お前も突き飛ばされた奴も死んでいたからな!」
「それは素直に謝るわ!けれど、親方様を殺すだなんて二度と言わないで!」
「お前が大切に思う人間を殺す訳がないだろう!俺は何の利にもならん事なぞせん!それくらい分かれ!」
「分かっているけれど、口に出さないで!そんな悍ましい事を!」
いつもの様にバチバチと火花を散らし、互いの怒りをぶつけ続ける私達。
バリバリと迸る火花が、甘く惚ける雰囲気を粉々に壊していった。
つい先程婚約の誓いを交し合ったと言うのに。今の私達は、そんな愛おしい雰囲気を共に紡いでいたとは、とても思えない。
そんな風に思ってしまうと、私の口から思わず笑みが零れてしまう。
なんて私達らしいのだろう、と。
すると目の前のいばなからも、フッと同じ笑みが零れた。きっと彼も、同じ思いに駆られたからだろう。
私達は互いの笑みに気がつくと、互いに牙をゆるゆると収め始めた。
いばなは「やめだ、馬鹿馬鹿しい」と肩を竦めて唾棄し、私は「そうね」と首肯してからふうと残っている怒りを外に吐き出した。
その時だった。
「すぐ仲直りが出来る様になったのは、げに素晴らしい事ですよ」
突然柔らかな声が聞こえ、私達は慌ててその声の方を向く。
するとそこには、微笑を称えた天影様が立っていた。
いつの間に現れ、いつから見られていたのか。まるで分からない。
私は「て、天影様!?」と、驚きと羞恥が入り混じった声で呼んでしまったが。いばなの方は、憎しみと怒りを込めた声で「天影」と呼んだ。
「色々、お前には言いたい事がある」
険悪に言葉をぶつけると、天影様は微笑を崩す事なく「一体、何の事だろうね」と飄々と答える。
その姿に、いばなの怒りが瞬く間に沸き、一触即発の事態になるかと思ったが。
「いばな、君は何故私が皆を置いて、ここに現れたと思っているのかな?今は癇癪を起こしている場合ではないと、いい加減気がついて欲しいのだけれどね」
天影様の鋭い問いかけが、噴き出さんばかりの怒りをガツンと堰き止める。
いばなはキュッと眉根を寄せるが、すぐにハッと何かを悟った様な顔になった。
「確か、か?」
「私が間違う訳がないよ」
二人の鬼の間で交される言葉は、何一つ分からなかったが。彼等の表情を見れば、何か並々ならぬ事態が起きたと言う事は分かった。
・・一体、何が起こったのかしら。
二人の後ろ暗い表情で、私の心にも暗いものが広がった。
それを拭って欲しくて、別の物に塗り替えて欲しくて「いばな?」と彼を窺う。
いばなは私の視線に気がつくや否や、キュッと唇を堅く結んでから「悪い」と独りごちる様に言った。
「すまん。また後で・・酉の刻頃に会おう」
いばなはぶっきらぼうに告げてから、天影様を一瞥し「行くぞ」と声をかける。
天影様が首肯すると、いばなはダンッと力強く大地を踏みしめ、高く飛び上がった。
天影様も私に「申し訳ありません」と謝してから、パッと軽やかにいばなの後を追う。
私はと言うと、豆粒みたいになる赤と青の背中を呆然と見つめる事しか出来なかった。
拭って欲しかった物は、消える事も変えられる事もなく、しっかりと内に残されたまま。
私は遠くなっていく背をジッと見つめながら、胸元の勾玉を強く握りしめた。