「返事は卒業式の日に聞かせて。もしオーケーなら、スラックスを穿いてきてほしい」
それは、とても告白とは思えない告白だった。
明後日3月6日は卒業式。みんなにとって大事な日であるように、私にとっても特別な日だ。その日、私は18歳の誕生日を迎える。18歳、つまり成人になる日。名目上、大人として扱われるようになる。例年は楽しみな誕生日も、今年ばかりはあまり迎えたくないなと思う。
学校という小さな世界ですら他人に合わせてしまう私が、果たして本当に大人になれるのだろうか。
2月6日にカレンダーを見て「誕生日まで残り1か月かぁ……」と意識してからというもの、日に日に心残りが募っている。ちょっぴり憂鬱だ。
だけど、そんなカウントダウンを刻むような毎日を過ごし、もう残り2日まで差し迫った今日、青天の霹靂のような事件が起こった。
新聞に載りはしないけれど私にとっては大事件。卒業前最後の登校日の帰り道に有馬くんから告白されたのだ。しかも、本気と受け取っていいのか迷う曖昧な言い回しをされて。
有馬くんと別れた残りの帰り道、私の足取りはゆっくりだった。
学校から家までの通学路に商いを生業とする建物はほとんどない。コンビニが2軒あるくらい。パン屋さんやお弁当屋さんがあれば昼ご飯を買う楽しみが増えたのに、と何度思ったことか。本屋さんかあるいはオシャレなカフェがあれば通いつめたのに。
市に要請を出そうかと計画するくらい文句が1つや2つではまとまらないけれど、今となってはいい思い出だ。
途中で小学校の通学路と交わるから交通安全のおじさんと挨拶する仲になったり、秋になるとアーチのような銀杏の道が現れたり、クリスマスシーズンにはイルミネーションで彩られた家の前を通るようにしたり、些細なことほど大切にしたい思い出がたくさんある。
この3年間、歴史に名を刻めるような功績は残していないけれど、振り返ったときに苦しかったこともいい思い出にできるくらい充実した毎日だった。有馬くんは、そんな私の高校生活の中にいる。
思い出を噛みしめるようにアスファルトの道を踏み込みながら、私は有馬くんとはどういう人物かを思い返してみることにした。
*
有馬くんは、バスケットボール部に所属している同級生の男子。私が所属するバドミントン部の隣で練習をしていたから、彼とはクラスが違っても高1のときから知った仲だ。
校舎ですれ違えば挨拶を交わすし、部活後の片づけのタイミングが重なれば会話をする。友達と言うには甚だしいけれど、名前と顔が一致する程度の同級生に分類するには寂しい気もする。同級生以上、友達未満と言えばいいのだろうか。
ただ、そんな関係が長く続けば友達と呼んでもいい気がするので、高2になる頃には友達に昇格していたと思う。
有馬くんと最初に話したときのことは憶えていない。どんなきっかけで会話を交わす仲になったのかも憶えていない。たぶん、部活後に「お疲れ」と労ったのが始まりではないかと思っている。前に有馬くんに尋ねてみたら、彼も「憶えてない」と笑った。
なので、気が向いたら話す同級生という認識にいつの間にかなっていた。
有馬くんとは他愛もない話ばかりしていた。その中で1つ、強烈に憶えていることがある。
高校1年の10月。その日の部活は2年生が修学旅行中でいなく、バスケ部とバド部のどちらにもだらしない空気が流れていた。しかも、明日は部活が休み。言ってしまえば浮かれていたのだと思う。
「そっちも先輩がいなくて楽しそうだな」
部活中にもかかわらず有馬くんが話しかけてきたのは、そうした状況だったからだ。
「当たり前だよ。怒ってばかりでコートを占領する女王さまたちがいないんだもん」
体育館の真ん中に張られた心許ないネットを隔てて会話をする私たち。
「だよなぁ。しかも、顧問も2年の引率でいないし。練習つうか、もはや遊びの延長だよ」
「あはは。うちと一緒」
当時163センチと、女子の中では比較的身長が高い部類だった私でも見上げないといけないくらい有馬くんの目線は上にある。隣に並ぶといつも「高いな」と感心するけれど、高身長軍団のバスケ部内ではそこまで目立たない。
有馬くんが目立つといったら、容姿よりも中身のほう。友達と呼べるほど仲が良いわけではないのに、こうして会話を弾ませられるのはひとえに有馬くんの人柄の良さゆえだ。人を寄せつける快活な性格が彼を人気者たらしめている。
部活の光景を写真に撮って先輩たちに送ってやろうかと有馬くんが意地悪に話していると、足元にバスケットボールが転がってきた。彼がそれを拾い上げると、有馬くんと仲良しのバスケ部員、桐島くんが「有馬、パス!」と声をかけた。有馬くんはそれを結構強めに投げ返す。
「なにキレてんだよ」
「キレてねぇよ」
私は、桐島くんはボールを受け取るなりすぐにコートに引き返すだろうと思い見守っていた。しかし、彼は私の予想に反して一度こちらに向けた背を「あ、そうだ」と翻した。
「お話し中のところ悪いんだけど、有馬」
「悪いと思ってるなら話しかけるなよ。なに?」
文句を垂れつつもなんだかんだ話を聞いてあげる有馬くんは甘いなぁ、と笑みが零れそうになった。
「明日どっか遊びに行かね?」
「え、なに。そんなことのためにわざわざ話しかけたの? 後でいいじゃん」
「今言っておかねぇと忘れると思ったんだよ。実はさ……」
堂々と聞き耳を立ててはいけないと思い、私は落ちていた適当なシャトルをラケットで拾い上げポンポンと遊ばせる。けれど、潜ませるつもりがないのか普通の声量で話すものだから聞こえてしまった。
どうやら桐島くんは彼女と喧嘩したらしく、明日のデートの予定がパーになったのだとか。空いた予定を家に帰って埋めるのも嫌だったので有馬くんを誘った、というのがざっとした話の流れだった。
有馬くんが「わかったよ」とため息混じりに了承すると、桐島くんは歯を見せるようにして破顔した。
「サンキュー。どこに行きたいかは有馬が考えておいて」
そう告げて、さっさとコートに戻っていった。
「俺が考えるのかよ」
「毎度のことながら頼られてるね」
弄んでいたシャトルをキャッチして有馬くんの方に向き直る。有馬くんは心底面倒くさそうな顔をしていた。
「頼られてるっていうのかね、これは……。そういえば、椿って田井と同じクラスだったよな。仲良い?」
「田井ちゃん? うん、同じグループだよ」
田井ちゃんは同じクラスの女の子。出席番号が前後なので入学して最初に仲良くなった友達だ。教室にいるとき、教室を移動するとき、昼ご飯を食べるときなど多くの時間を共にしている。
恋愛話が大好きな子という印象が強く、よく話を聞き出そうとしてくる。彼氏がいる子には普段どう過ごしているのかとか、好きな人がいない子にはどんな人がタイプなのかとか。
田井ちゃん自身も恋をしており、その相手がたった今、有馬くんに「彼女と喧嘩した」と言いに来た桐島くん。田井ちゃんと桐島くんは付き合っている。
喧嘩したエピソードを田井ちゃんの口から聞いたことがなかった私は、桐島くんの話した内容が寝耳に水だった。
「椿は明日何か予定ある?」
「うーん、特には」
「じゃあ明日、椿も一緒に遊ばない? 田井も誘って」
私は思わず吹き出してしまった。有馬くんが訝しげな目を向けてくるけれど、笑いが止まらない。
「なんだよ」
「いやぁ……なんか、相変わらず有馬くんだなと思って」
有馬くんが首を傾げる。
有馬くんのことを大して知っているわけではないけれど、それでも数か月の月日をかけて見てきて彼の人となりはわかっているつもりだ。
有馬くんはいつも誰かしらの仲介役をしている。男友達の喧嘩、先輩後輩のいざこざ、恋人たちのすれ違い。熱が入って視野が狭くなっている当事者の間に立って、問題を解決しようと動く。誰に頼まれるわけでもなく自ら進んで。
記憶に新しいのは、夏休み直前に起こった文芸部の崩壊危機。5月頃から部の方針を巡って分裂する文芸部の噂は小耳に挟んでいたけれど、誰も首を突っ込もうとはしなかった。唯一突っ込んでいったのが有馬くんで、夏休みが終わる頃には対立する勢力を宥めていた。
今回だってそうだ。喧嘩した桐島くんと田井ちゃんの仲を取り持とうとしている。桐島くんから強引に誘われる形で埋まった休みを、2人のために使おうとしている。
「いいよ。田井ちゃん誘ってみる」
有馬くんは良い奴だ。自分には関係ない誰かと誰かの関係が拗れそうになったとき、真っ先に動く。躊躇しない行動力がある。厄介事に巻き込まれるのではなく、自ら巻き込まれに行くスタイル。
人の喧嘩に首を突っ込むのは野暮だという意見もあるけれど、私は有馬くんのような友達を持てる人はすごく幸せ者だと思う。
翌日に約束どおり4人で出かけて、田井ちゃんと桐島くんは最初のほうこそ口を利かなかったけれど私たちのフォローもあって仲直りした。帰り際に有馬くんから「今度は2人で遊びたいな」と言われて、私はうんと頷いた。
良い奴だという抽象的な表現はあまり使いたくなかった。でも、有馬くんとは抽象的な表現がそのまま本人の印象になる人だ。
この出来事は、私の中に有馬という存在を刻み込む大きなきっかけの1つとなった。
*
有馬くんとは、2年間は部活の練習場所が隣の同級生という関係が続いた。みんなが彼を「有馬」と呼ぶ中、私はくん付けが抜けずに1人「有馬くん」と呼び続けたけれど、それでももっとも仲良しな異性と言えるほど気軽に話せる男友達だった。
残りの1年間はその説明の仕方では少々物足りない。3年生に進級したとき、私と有馬くんの関係に変化が訪れた。
それまでは別々のクラスだったけれど、3年生のクラス替えで同じクラスになったのだ。同級生という呼び方からクラスメイトに変わった瞬間だった。
もし同じクラスになれていなければ部活を引退したタイミングで接点がなくなっていた。同じクラスになれたことで友達の関係を続けられた。むしろ、毎日教室で会って話せる分、以前より距離は縮まったように思う。
高校3年の秋、文化祭で私たちのクラスは男女逆転映画を撮ることになった。女子が男役、男子が女役になって日常のひとコマを演じるというもの。
趣味丸出しの女教師を演じる男子がいれば、少女漫画に出てくるような学校一のイケメンを演じる女子もいて、各々が個性を発揮して好きな役になりきった。
役にこだわりがない人は生徒役に振り分けられ、私も有馬くんもこだわりがなかったので一般生徒を演じることになった。一般生徒役は男女で制服を交換する。私は有馬くんと制服を交換した。
まずは有馬くんがジャージに穿き替えて、彼から制服のスラックスを受け取る。衣替えの前だからブレザーはなく、シャツは入れ替えても代わり映えしないということで交換するのはスカートとスラックだけ。更衣室で有馬くんのスラックスを掲げてみて、「大きい」と感嘆が漏れた。
有馬くんは高2から高3にかけて身長がぐんっと伸びた。入学時に大きめでサイズ調整しているはずの制服はもはや彼には小さそうに見えたのに、こうして広げてみると全然大きい。足に沿って形作られているはずが、私が穿くとサルエルパンツになりそうだ。
ドキドキしながら足を通した。やっぱり大きい。ダボダボだからだらしないし、裾を引きずってしまう。歩きにくい。
けれど、スカートと違って風の通らないスラックスは穿いていて落ち着く。
「お、似合うじゃん」
着替え終わって有馬くんに見せると、軽い調子で感想を言われた。
「でも、やっぱダボダボだな。足の裾とかさぁ……」
有馬くんが屈んで足の裾を折ってくれる。
丁寧に折りたたまれるたびにドキドキが募っていく。ダボダボのスラックスが、ゆりかごみたいに私の心さえも包み込んでくれるように感じた。
「どうよ。似合う?」
スカートに穿き替えた有馬くんが更衣室から出てくる。しかも、似合うと訊きながらモデルポーズのおまけつき。
私は失笑してしまった。有馬くんがスカートを穿いていることよりも、自分のスカートを他人に穿かれている状況がおかしかった。
「似合う似合う。でも、スカートの丈が短くない?」
「そう? 女子ってみんなこんなものじゃん」
「そんなことないよ。ていうか、背が高い有馬くんがミニにするとかなり際どくて……目のやり場に困る」
「まあ、確かにキモいな」
有馬くんは我に返って、折り込んでいたウエストをもとに戻しはじめた。
私のスカートだから自然と丈が短くなってしまったのかと思えば、わざわざウエストを折り込んで丈を調節していたらしい。
どうしてそんな女子しか知らないような高度なテクニックを駆使したのだろう。
あまりにおかしくて笑いのツボにはまってしまった。
「なんでそんなに笑うんだよ。つうか、テンション高いな」
「いやうん、ごめん。なんか、嬉しくて」
「嬉しい? 俺がスカートを穿いてるのが?」
「じゃなくてね──」
笑いすぎて溢れ出た目尻の涙を拭い取って、口を開く。
「私、ずっと制服のスラックスに憧れていたんだ。スラックスを穿いて登校してみたかったの」
隠していた想いがすんなり声に乗った。誰にも話していない密かな憧れ。有馬くんのスラックスだとしても学校で穿けるのが嬉しくて、本音が口を衝いて出た。
「いいじゃん、スラックス。そういや椿は、私服はパンツスタイルだもんな。穿けば? 俺のスラックス貸すよ」
私は首を振った。
「いい。持ってるし。それに、そんな簡単じゃない」
たった今まで柔らかかった頬が引きつっていくようだった。
穿きたくても穿けない。こればかりは有馬くんに言われたところでどうしようもない。
うちの高校の制服はボトムスがスラックスとスカートの2種類あって、ジェンダーフリーの取り組みに伴い男女共にどちらを穿いてもいい決まりとなっている。でも、まだ始まったばかりの取り組みで先生たちも試行錯誤している状況だ。
だから、男子はスラックスで女子はスカートという見えない校則に縛られている。
私は自分の性別に悩みを持っているわけではない。スカートを穿くことに抵抗もない。ただ、普段はパンツスタイルなのにどうして制服ではスカートを穿くのだろうと疑問を持っているだけ。
そうした疑問からスラックスを穿いてみたいという想いが生まれた。
けれど、穿いてみたいからといって穿いていけるわけではなかった。
スラックスを穿いて登校したとして、人の趣味を否定しないとの認識が広まっている昨今、みんなはきっと見て見ぬふりをするだろう。その代わり、陰で話題にするかもしれない。表立って言わなくても、私のいないところで会話の種にするかもしれない。
そんな悪い想像ばかりが頭に浮かんで、入学前にブレザーやスカートと共に買ったスラックスを未だ穿けずにいる。
好奇の目に晒されるのは嫌だ。でも、見て見ぬふりをされるのも気を使われるのも嫌。ならいっそ、みんなと同じようにしていればいい。みんなと同じ服を着て同じ行動を取って同じ思想を持っていれば、無駄に傷つかなくて済む。
だから、私は卒業するまでスカートでいることを選んだ。
すべては私の心の問題だ。人目を気にして同調圧力に屈した心の弱さが原因。わかっている。わかっているけれど、それで心が少しでも救われるなら間違った選択肢だろうとよかった。
有馬くんは何も訊かなかった。私の表情から言いにくいことなのだろうと察してくれたようで、気を使わせて心苦しくもあったけれど彼の心遣いに救われた。
*
こうして思い返すと有馬くんにはずっといい印象しかない。けれど、一度だけムカついたことがあった。
いつだったかの放課後、クラスの男子たちが教室で噂話をしている場面に遭遇した。その日は担任の先生に進路か何かの相談をして帰りが遅くなり、急ぎ足で戻ると教室から話し声がして足を止めた。
聞こえてきたのは、「島村の前後の席はやべぇ」というもの。
咄嗟に耳を塞いだ。聞きたくなかった。
島村さんはちょっときつい性格のクラスの女子。やばいだけだと良いのか悪いのかわからないけれど、本人がいないところで噂をしている。その状況が私にとって苦痛以外の何ものでもなかった。
そして、何よりショックだったのがその場に有馬くんがいたこと。発言はしていないようだけれど、適当に相槌を打ちながら話に参加している。
「よっ、椿」
教室の前でぼーっと突っ立っていると、突然、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、桐島くんがいた。
「どうした?」
「何でもない」
私は耳を塞いでいた手を下ろして、逃げるように立ち去った。
静まり返る放課後の廊下を走って走って、ひたすらに駆け抜けて。途中で掲示物が舞うように落ちてようやく足を止めた。落ちた画鋲を拾い、掲示物に突き刺す。
「椿!」
有馬くんが追いかけてきていた。
「何?」
自分でも驚くほど冷えきった声が出た。ショックなのと同時にイライラもしているのだと、自分の声で気づかされた。
「桐島から、椿が怒ってるみたいだったって聞いて」
あの数秒で怒っているとバレるくらい表情にも出ていたらしい。鏡がないから自分の表情がわからない。
私は有馬くんから目を逸らすように掲示物を見た。掲示物は図書委員による仕入れたい本をアピールする記事で、ぱっと目についたのがおかしなライトノベルのタイトルだった。バカらしくなるようなタイトルなのに笑う気になれない。
「怒ってる」
視線を落として答える。
「だよな……。話、聞いてた?」
首を横に振った。
「ちゃんとは聞いてない。でも、内容がどうこうじゃない。本人がいないところでその人の話をするのが許せない。あの場に有馬くんがいたことも嫌だった」
様子を窺うようにちらっと有馬くんに視線を寄せると、思いつめるようなひどく険しい表情を見せていた。初めて見る有馬くんの表情に私の心がずきんと痛む。
私は噂話が嫌いだ。悪口を言っていなかったとしても、たとえ褒めていようとも関係ない。本人のいない場でその人の噂をすること自体が嫌い。
「中学生のとき、さっきと似たような場面に出くわしたことがあるの。男女数人が集まって盛り上がっていて、そのときに話していたのが私のことだった」
ほとんど話した憶えがない子たちばかりだったけれど、普段教室で一緒にいる機会が多い友達も交じっていた。場所も時期も全然思い出せないのに、輪を作るように集まって甲高い笑い声を響かせるあの光景だけは目に焼きついている。
「別に悪口を言っていたわけじゃなかった。褒めてたわけでもなかったけど……。でも、陰でああやって噂されてるんだって知って、すごくショックだった」
次の日、その場にいた友達とどう接していいかわからなくなった。聞かなかったことにして何事もなかったかのように笑い合ったけれど、うまく笑えていた自信がない。
次の日だけではない。その次の日も、次の次の日も。結局、クラス替えをするまでの期間、友達に対してずっとモヤモヤを抱える羽目になった。
「前に私、スラックスを穿いて登校してみたいって言ったの憶えてる?」
記憶の彼方の話ではない。すぐに「うん」と短い返事が戻ってきた。
「穿きたいけど穿けないのは、陰でいろいろ言われるかもしれないって考えちゃうから。実際には言われていなくても、私の知らないところで何か噂されてるかもしれない。自意識過剰かもしれないけど、どうしてもそう考えちゃって怖いの」
無意識に自分の体を両手で抱きしめていた。
「私、勝手だけど……すごく勝手だけど、有馬くんはああいう場にいたとしても陰で噂話するのを止める人だと思ってた。だから、有馬くんがみんなと同じように聞いてたのがショックだった」
最後に「ごめん」と謝罪が零れ出た。
言っていて、本当に自分勝手だと思った。私が勝手に有馬くんは期待に応えてくれる良い人だと評価していただけなのに、失望したみたいな言い方をしてしまった。
この謝罪は身勝手な言い分で嫌な態度を取ってごめんという意味。だけど、ショックな気持ちが抜けていなくて謝る声が小さくなった。
「椿、ごめん!」
有馬くんは、私の声を簡単にかき消せるほど大きな声で謝ってきた。しかも、頭を下げて丁寧に。
「俺、すぐ人の顔色を窺っちゃうから、ああいう場だと適当に聞いてたらいいやって思ってた。でも、そうだよな。知らないところで自分の話をされるのって気味が悪いよな」
知らなかった。有馬くんが人の顔色を窺ってしまうと初めて知った。立ち回りがうまくて周りをよく見ているなとは思っていたけれど、如才ない性格は私のように集団の中から生まれた性格だったんだ。
「ごめん。これからは気をつける」
再度、誠心誠意の謝罪をくれた彼の言葉や行動に疑いの余地はない。凝り固まっていた全身の力が抜けていく。
「ううん、私のほうこそごめん。こんな小さなことで……」
「小さくなんかないよ。許せないことがあるのは、それだけ自分を持ってるってことじゃん」
水彩絵の具がキャンバスに染み込んでいくように、有馬くんの言葉がじんわり心の中に溶ける。心が優しさで満たされていくみたいだった。
有馬くんは誠実だ。あの場にいただけで何も悪くないのに本気で謝ってくれて、悪口を言っているわけじゃないんだからそのくらいいいじゃん、と思ってもおかしくないのに私の気持ちを尊重してくれる。
そんな有馬くんだから嫌な態度を取ってしまうほどショックを受けた。何人も男子がいた中で有馬くんだけが私の心を揺さぶった。
私は有馬くんを、たぶん異性として意識しているのだと思う。桜の匂いのようなあやふやな感情だけど、彼が特別な存在であるのに嘘偽りはない。
もしこの先の人生に1人だけ巻き込めるとしたら、迷いなく有馬くんを選ぶだろう。卒業した後も有馬くんがそばにいてくれたら嬉しい。
*
卒業式を2日後に控えた3月4日。私は有馬くんから一緒に帰ろうと誘われた。今までも何度か帰路を共にしたけれど、こうして下校を共にできるのはもう最後かもしれない。二つ返事で誘いに乗った。
その途中だった、有馬くんから告白を受けたのは。
「もうすぐ卒業だな」
「そうだね」
「椿はやり残したことある?」
「……うん、あるかな。有馬くんは?」
「俺もある」
「へぇ。有馬くんにも心残りがあるんだ」
「俺、好きな人に告白できてないんだ」
「好きな人……。そうなんだ」
「だから、今してもいい?」
「え?」
顔を上げると、隣を歩いていたはずの有馬くんの姿がない。彼は1歩後ろで立ち止まっていた。ちょうど、4月に近づくとピンク色の花を咲かせる木の下で。
「俺、ずっと椿のことが好きだった」
時が止まったような錯覚に陥った。鳥が空を飛び、遠くの方では小学生らしき集団の笑い声が聞こえているというのに、私と有馬くんの周りだけ時間の流れから取り残されたような不思議な感覚だった。
有馬くんの表情は硬く、緊張しているのがひしひしと伝わってくる。らしくないなと思うと、こっちまで緊張してきた。
「この時期に言うのはずるいかもしれないけど、つ……付き合ってほしいって思ってる」
「え……あ、私……」
まさか告白されるとは思わなかったので、返事をしないといけないとの焦りから意味のない声が漏れる。
だけど、有馬くんは返事を今すぐ欲してはいなかった。
「待って! 返事は卒業式の日に聞かせて。明後日の朝、この木の下で待ってる。もしオーケーなら、スラックスを穿いてきてほしい。ダメなら来なくていいから」
どうしてスラックス?
からかっているのかと疑ってしまったけれど、一瞬でも疑った自分が恥ずかしくなるくらい有馬くんは人を傷つける冗談を言わない人だ。それは私が1番知っている。
だとしたら、どうして「スラックスを穿いてきてほしい」なんて言ったのだろう。
有馬くんとはどういう人なのかを振り返ったことで意図がわかった。
有馬くんは、私のスラックスに対する憧れを知っている唯一の人だ。そして、卒業が現実味を帯びている今、憧れが鉛玉のように心に鎮座していると気づかれた。心残りがスラックスだと、気づいていたんだ。
つまり有馬くんは、私がスラックスを穿けるきっかけをくれた。告白の返事をするついでにスラックスを穿いて登校できるように、きっかけを作ってくれた。
ダメならいつも通りの服装で来てほしいではなく「来なくていい」と言ったのも、穿く意思を私に委ねたから。
人のために動ける誠実な人。有馬くんとはそういう男の子だ。
帰る足取りを速くしながら、私は思った。
卒業したい。こんな自分から卒業してちゃんとした大人になりたい──と。
*
卒業式の朝なのに目覚めは悪かった。寝につくその瞬間まで告白のことを考えて、あまり寝られた気がしない。顔を洗って頭を叩き起こした後、ベッドの上にスカートとスラックスを並べた。この期に及んでまだどちらを穿くか決められずにいる。
有馬くんの告白に応えたい。でも、スラックスを穿いていくのは怖い。昨日からずっと結論を出せずに彷徨っている。
すると、思考を打ち止めるようにコンコンとノック音が聞こえた。おはようと、お父さんが部屋に入ってくる。
「誕生日と卒業おめでとう」
「ありがとう」
正月と誕生日を一緒に迎える人の気持ちが初めてわかった気がする。
「今日で高校最後かぁ。早いもんだな。友達と学校で会えるのは最後なんだし、今日くらい帰りが遅くなってもいいぞ」
私以上に卒業に思いを馳せるお父さんはグーと親指を立てて、親らしいことを言ってやったぞとでも言うかのように部屋を出ていった。何をしに来たんだと思いながら視線をベッドに戻して、スラックスとスカートを見つめる。
卒業式が3年間の高校生活にピリオドを打つ日だとわかっていても、お父さんに言われるまでどこか漠然としていた。他人事のように思っていたのかもしれない。だけど、他人から言われて思う。
そうだ、今日が最後なんだ。
友達とは連絡を取れば会えるけれど、連絡先の知らない同級生は明日から私の生活にいない。言ってしまえば1日限りの同級生だ。どう見られようと、どう思われようと、どんな噂を立てられようと、今日で終わる。
それなら残り1日の人目を気にするよりも、これから先の未来を前向いて歩いていくほうが大切だ。
18歳になった私。大人になった実感も高校を卒業する実感も今はまだ湧かないけれど、好きなものに誠実でいられるような人でありたい。
新品の匂いがするスラックスを穿いて、有馬くんのもとへ向かった。
「有馬くん!」
まだ花が咲いていない木の下で待つ有馬くんの微笑みが、私の卒業を祝う花となる。
完
それは、とても告白とは思えない告白だった。
明後日3月6日は卒業式。みんなにとって大事な日であるように、私にとっても特別な日だ。その日、私は18歳の誕生日を迎える。18歳、つまり成人になる日。名目上、大人として扱われるようになる。例年は楽しみな誕生日も、今年ばかりはあまり迎えたくないなと思う。
学校という小さな世界ですら他人に合わせてしまう私が、果たして本当に大人になれるのだろうか。
2月6日にカレンダーを見て「誕生日まで残り1か月かぁ……」と意識してからというもの、日に日に心残りが募っている。ちょっぴり憂鬱だ。
だけど、そんなカウントダウンを刻むような毎日を過ごし、もう残り2日まで差し迫った今日、青天の霹靂のような事件が起こった。
新聞に載りはしないけれど私にとっては大事件。卒業前最後の登校日の帰り道に有馬くんから告白されたのだ。しかも、本気と受け取っていいのか迷う曖昧な言い回しをされて。
有馬くんと別れた残りの帰り道、私の足取りはゆっくりだった。
学校から家までの通学路に商いを生業とする建物はほとんどない。コンビニが2軒あるくらい。パン屋さんやお弁当屋さんがあれば昼ご飯を買う楽しみが増えたのに、と何度思ったことか。本屋さんかあるいはオシャレなカフェがあれば通いつめたのに。
市に要請を出そうかと計画するくらい文句が1つや2つではまとまらないけれど、今となってはいい思い出だ。
途中で小学校の通学路と交わるから交通安全のおじさんと挨拶する仲になったり、秋になるとアーチのような銀杏の道が現れたり、クリスマスシーズンにはイルミネーションで彩られた家の前を通るようにしたり、些細なことほど大切にしたい思い出がたくさんある。
この3年間、歴史に名を刻めるような功績は残していないけれど、振り返ったときに苦しかったこともいい思い出にできるくらい充実した毎日だった。有馬くんは、そんな私の高校生活の中にいる。
思い出を噛みしめるようにアスファルトの道を踏み込みながら、私は有馬くんとはどういう人物かを思い返してみることにした。
*
有馬くんは、バスケットボール部に所属している同級生の男子。私が所属するバドミントン部の隣で練習をしていたから、彼とはクラスが違っても高1のときから知った仲だ。
校舎ですれ違えば挨拶を交わすし、部活後の片づけのタイミングが重なれば会話をする。友達と言うには甚だしいけれど、名前と顔が一致する程度の同級生に分類するには寂しい気もする。同級生以上、友達未満と言えばいいのだろうか。
ただ、そんな関係が長く続けば友達と呼んでもいい気がするので、高2になる頃には友達に昇格していたと思う。
有馬くんと最初に話したときのことは憶えていない。どんなきっかけで会話を交わす仲になったのかも憶えていない。たぶん、部活後に「お疲れ」と労ったのが始まりではないかと思っている。前に有馬くんに尋ねてみたら、彼も「憶えてない」と笑った。
なので、気が向いたら話す同級生という認識にいつの間にかなっていた。
有馬くんとは他愛もない話ばかりしていた。その中で1つ、強烈に憶えていることがある。
高校1年の10月。その日の部活は2年生が修学旅行中でいなく、バスケ部とバド部のどちらにもだらしない空気が流れていた。しかも、明日は部活が休み。言ってしまえば浮かれていたのだと思う。
「そっちも先輩がいなくて楽しそうだな」
部活中にもかかわらず有馬くんが話しかけてきたのは、そうした状況だったからだ。
「当たり前だよ。怒ってばかりでコートを占領する女王さまたちがいないんだもん」
体育館の真ん中に張られた心許ないネットを隔てて会話をする私たち。
「だよなぁ。しかも、顧問も2年の引率でいないし。練習つうか、もはや遊びの延長だよ」
「あはは。うちと一緒」
当時163センチと、女子の中では比較的身長が高い部類だった私でも見上げないといけないくらい有馬くんの目線は上にある。隣に並ぶといつも「高いな」と感心するけれど、高身長軍団のバスケ部内ではそこまで目立たない。
有馬くんが目立つといったら、容姿よりも中身のほう。友達と呼べるほど仲が良いわけではないのに、こうして会話を弾ませられるのはひとえに有馬くんの人柄の良さゆえだ。人を寄せつける快活な性格が彼を人気者たらしめている。
部活の光景を写真に撮って先輩たちに送ってやろうかと有馬くんが意地悪に話していると、足元にバスケットボールが転がってきた。彼がそれを拾い上げると、有馬くんと仲良しのバスケ部員、桐島くんが「有馬、パス!」と声をかけた。有馬くんはそれを結構強めに投げ返す。
「なにキレてんだよ」
「キレてねぇよ」
私は、桐島くんはボールを受け取るなりすぐにコートに引き返すだろうと思い見守っていた。しかし、彼は私の予想に反して一度こちらに向けた背を「あ、そうだ」と翻した。
「お話し中のところ悪いんだけど、有馬」
「悪いと思ってるなら話しかけるなよ。なに?」
文句を垂れつつもなんだかんだ話を聞いてあげる有馬くんは甘いなぁ、と笑みが零れそうになった。
「明日どっか遊びに行かね?」
「え、なに。そんなことのためにわざわざ話しかけたの? 後でいいじゃん」
「今言っておかねぇと忘れると思ったんだよ。実はさ……」
堂々と聞き耳を立ててはいけないと思い、私は落ちていた適当なシャトルをラケットで拾い上げポンポンと遊ばせる。けれど、潜ませるつもりがないのか普通の声量で話すものだから聞こえてしまった。
どうやら桐島くんは彼女と喧嘩したらしく、明日のデートの予定がパーになったのだとか。空いた予定を家に帰って埋めるのも嫌だったので有馬くんを誘った、というのがざっとした話の流れだった。
有馬くんが「わかったよ」とため息混じりに了承すると、桐島くんは歯を見せるようにして破顔した。
「サンキュー。どこに行きたいかは有馬が考えておいて」
そう告げて、さっさとコートに戻っていった。
「俺が考えるのかよ」
「毎度のことながら頼られてるね」
弄んでいたシャトルをキャッチして有馬くんの方に向き直る。有馬くんは心底面倒くさそうな顔をしていた。
「頼られてるっていうのかね、これは……。そういえば、椿って田井と同じクラスだったよな。仲良い?」
「田井ちゃん? うん、同じグループだよ」
田井ちゃんは同じクラスの女の子。出席番号が前後なので入学して最初に仲良くなった友達だ。教室にいるとき、教室を移動するとき、昼ご飯を食べるときなど多くの時間を共にしている。
恋愛話が大好きな子という印象が強く、よく話を聞き出そうとしてくる。彼氏がいる子には普段どう過ごしているのかとか、好きな人がいない子にはどんな人がタイプなのかとか。
田井ちゃん自身も恋をしており、その相手がたった今、有馬くんに「彼女と喧嘩した」と言いに来た桐島くん。田井ちゃんと桐島くんは付き合っている。
喧嘩したエピソードを田井ちゃんの口から聞いたことがなかった私は、桐島くんの話した内容が寝耳に水だった。
「椿は明日何か予定ある?」
「うーん、特には」
「じゃあ明日、椿も一緒に遊ばない? 田井も誘って」
私は思わず吹き出してしまった。有馬くんが訝しげな目を向けてくるけれど、笑いが止まらない。
「なんだよ」
「いやぁ……なんか、相変わらず有馬くんだなと思って」
有馬くんが首を傾げる。
有馬くんのことを大して知っているわけではないけれど、それでも数か月の月日をかけて見てきて彼の人となりはわかっているつもりだ。
有馬くんはいつも誰かしらの仲介役をしている。男友達の喧嘩、先輩後輩のいざこざ、恋人たちのすれ違い。熱が入って視野が狭くなっている当事者の間に立って、問題を解決しようと動く。誰に頼まれるわけでもなく自ら進んで。
記憶に新しいのは、夏休み直前に起こった文芸部の崩壊危機。5月頃から部の方針を巡って分裂する文芸部の噂は小耳に挟んでいたけれど、誰も首を突っ込もうとはしなかった。唯一突っ込んでいったのが有馬くんで、夏休みが終わる頃には対立する勢力を宥めていた。
今回だってそうだ。喧嘩した桐島くんと田井ちゃんの仲を取り持とうとしている。桐島くんから強引に誘われる形で埋まった休みを、2人のために使おうとしている。
「いいよ。田井ちゃん誘ってみる」
有馬くんは良い奴だ。自分には関係ない誰かと誰かの関係が拗れそうになったとき、真っ先に動く。躊躇しない行動力がある。厄介事に巻き込まれるのではなく、自ら巻き込まれに行くスタイル。
人の喧嘩に首を突っ込むのは野暮だという意見もあるけれど、私は有馬くんのような友達を持てる人はすごく幸せ者だと思う。
翌日に約束どおり4人で出かけて、田井ちゃんと桐島くんは最初のほうこそ口を利かなかったけれど私たちのフォローもあって仲直りした。帰り際に有馬くんから「今度は2人で遊びたいな」と言われて、私はうんと頷いた。
良い奴だという抽象的な表現はあまり使いたくなかった。でも、有馬くんとは抽象的な表現がそのまま本人の印象になる人だ。
この出来事は、私の中に有馬という存在を刻み込む大きなきっかけの1つとなった。
*
有馬くんとは、2年間は部活の練習場所が隣の同級生という関係が続いた。みんなが彼を「有馬」と呼ぶ中、私はくん付けが抜けずに1人「有馬くん」と呼び続けたけれど、それでももっとも仲良しな異性と言えるほど気軽に話せる男友達だった。
残りの1年間はその説明の仕方では少々物足りない。3年生に進級したとき、私と有馬くんの関係に変化が訪れた。
それまでは別々のクラスだったけれど、3年生のクラス替えで同じクラスになったのだ。同級生という呼び方からクラスメイトに変わった瞬間だった。
もし同じクラスになれていなければ部活を引退したタイミングで接点がなくなっていた。同じクラスになれたことで友達の関係を続けられた。むしろ、毎日教室で会って話せる分、以前より距離は縮まったように思う。
高校3年の秋、文化祭で私たちのクラスは男女逆転映画を撮ることになった。女子が男役、男子が女役になって日常のひとコマを演じるというもの。
趣味丸出しの女教師を演じる男子がいれば、少女漫画に出てくるような学校一のイケメンを演じる女子もいて、各々が個性を発揮して好きな役になりきった。
役にこだわりがない人は生徒役に振り分けられ、私も有馬くんもこだわりがなかったので一般生徒を演じることになった。一般生徒役は男女で制服を交換する。私は有馬くんと制服を交換した。
まずは有馬くんがジャージに穿き替えて、彼から制服のスラックスを受け取る。衣替えの前だからブレザーはなく、シャツは入れ替えても代わり映えしないということで交換するのはスカートとスラックだけ。更衣室で有馬くんのスラックスを掲げてみて、「大きい」と感嘆が漏れた。
有馬くんは高2から高3にかけて身長がぐんっと伸びた。入学時に大きめでサイズ調整しているはずの制服はもはや彼には小さそうに見えたのに、こうして広げてみると全然大きい。足に沿って形作られているはずが、私が穿くとサルエルパンツになりそうだ。
ドキドキしながら足を通した。やっぱり大きい。ダボダボだからだらしないし、裾を引きずってしまう。歩きにくい。
けれど、スカートと違って風の通らないスラックスは穿いていて落ち着く。
「お、似合うじゃん」
着替え終わって有馬くんに見せると、軽い調子で感想を言われた。
「でも、やっぱダボダボだな。足の裾とかさぁ……」
有馬くんが屈んで足の裾を折ってくれる。
丁寧に折りたたまれるたびにドキドキが募っていく。ダボダボのスラックスが、ゆりかごみたいに私の心さえも包み込んでくれるように感じた。
「どうよ。似合う?」
スカートに穿き替えた有馬くんが更衣室から出てくる。しかも、似合うと訊きながらモデルポーズのおまけつき。
私は失笑してしまった。有馬くんがスカートを穿いていることよりも、自分のスカートを他人に穿かれている状況がおかしかった。
「似合う似合う。でも、スカートの丈が短くない?」
「そう? 女子ってみんなこんなものじゃん」
「そんなことないよ。ていうか、背が高い有馬くんがミニにするとかなり際どくて……目のやり場に困る」
「まあ、確かにキモいな」
有馬くんは我に返って、折り込んでいたウエストをもとに戻しはじめた。
私のスカートだから自然と丈が短くなってしまったのかと思えば、わざわざウエストを折り込んで丈を調節していたらしい。
どうしてそんな女子しか知らないような高度なテクニックを駆使したのだろう。
あまりにおかしくて笑いのツボにはまってしまった。
「なんでそんなに笑うんだよ。つうか、テンション高いな」
「いやうん、ごめん。なんか、嬉しくて」
「嬉しい? 俺がスカートを穿いてるのが?」
「じゃなくてね──」
笑いすぎて溢れ出た目尻の涙を拭い取って、口を開く。
「私、ずっと制服のスラックスに憧れていたんだ。スラックスを穿いて登校してみたかったの」
隠していた想いがすんなり声に乗った。誰にも話していない密かな憧れ。有馬くんのスラックスだとしても学校で穿けるのが嬉しくて、本音が口を衝いて出た。
「いいじゃん、スラックス。そういや椿は、私服はパンツスタイルだもんな。穿けば? 俺のスラックス貸すよ」
私は首を振った。
「いい。持ってるし。それに、そんな簡単じゃない」
たった今まで柔らかかった頬が引きつっていくようだった。
穿きたくても穿けない。こればかりは有馬くんに言われたところでどうしようもない。
うちの高校の制服はボトムスがスラックスとスカートの2種類あって、ジェンダーフリーの取り組みに伴い男女共にどちらを穿いてもいい決まりとなっている。でも、まだ始まったばかりの取り組みで先生たちも試行錯誤している状況だ。
だから、男子はスラックスで女子はスカートという見えない校則に縛られている。
私は自分の性別に悩みを持っているわけではない。スカートを穿くことに抵抗もない。ただ、普段はパンツスタイルなのにどうして制服ではスカートを穿くのだろうと疑問を持っているだけ。
そうした疑問からスラックスを穿いてみたいという想いが生まれた。
けれど、穿いてみたいからといって穿いていけるわけではなかった。
スラックスを穿いて登校したとして、人の趣味を否定しないとの認識が広まっている昨今、みんなはきっと見て見ぬふりをするだろう。その代わり、陰で話題にするかもしれない。表立って言わなくても、私のいないところで会話の種にするかもしれない。
そんな悪い想像ばかりが頭に浮かんで、入学前にブレザーやスカートと共に買ったスラックスを未だ穿けずにいる。
好奇の目に晒されるのは嫌だ。でも、見て見ぬふりをされるのも気を使われるのも嫌。ならいっそ、みんなと同じようにしていればいい。みんなと同じ服を着て同じ行動を取って同じ思想を持っていれば、無駄に傷つかなくて済む。
だから、私は卒業するまでスカートでいることを選んだ。
すべては私の心の問題だ。人目を気にして同調圧力に屈した心の弱さが原因。わかっている。わかっているけれど、それで心が少しでも救われるなら間違った選択肢だろうとよかった。
有馬くんは何も訊かなかった。私の表情から言いにくいことなのだろうと察してくれたようで、気を使わせて心苦しくもあったけれど彼の心遣いに救われた。
*
こうして思い返すと有馬くんにはずっといい印象しかない。けれど、一度だけムカついたことがあった。
いつだったかの放課後、クラスの男子たちが教室で噂話をしている場面に遭遇した。その日は担任の先生に進路か何かの相談をして帰りが遅くなり、急ぎ足で戻ると教室から話し声がして足を止めた。
聞こえてきたのは、「島村の前後の席はやべぇ」というもの。
咄嗟に耳を塞いだ。聞きたくなかった。
島村さんはちょっときつい性格のクラスの女子。やばいだけだと良いのか悪いのかわからないけれど、本人がいないところで噂をしている。その状況が私にとって苦痛以外の何ものでもなかった。
そして、何よりショックだったのがその場に有馬くんがいたこと。発言はしていないようだけれど、適当に相槌を打ちながら話に参加している。
「よっ、椿」
教室の前でぼーっと突っ立っていると、突然、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、桐島くんがいた。
「どうした?」
「何でもない」
私は耳を塞いでいた手を下ろして、逃げるように立ち去った。
静まり返る放課後の廊下を走って走って、ひたすらに駆け抜けて。途中で掲示物が舞うように落ちてようやく足を止めた。落ちた画鋲を拾い、掲示物に突き刺す。
「椿!」
有馬くんが追いかけてきていた。
「何?」
自分でも驚くほど冷えきった声が出た。ショックなのと同時にイライラもしているのだと、自分の声で気づかされた。
「桐島から、椿が怒ってるみたいだったって聞いて」
あの数秒で怒っているとバレるくらい表情にも出ていたらしい。鏡がないから自分の表情がわからない。
私は有馬くんから目を逸らすように掲示物を見た。掲示物は図書委員による仕入れたい本をアピールする記事で、ぱっと目についたのがおかしなライトノベルのタイトルだった。バカらしくなるようなタイトルなのに笑う気になれない。
「怒ってる」
視線を落として答える。
「だよな……。話、聞いてた?」
首を横に振った。
「ちゃんとは聞いてない。でも、内容がどうこうじゃない。本人がいないところでその人の話をするのが許せない。あの場に有馬くんがいたことも嫌だった」
様子を窺うようにちらっと有馬くんに視線を寄せると、思いつめるようなひどく険しい表情を見せていた。初めて見る有馬くんの表情に私の心がずきんと痛む。
私は噂話が嫌いだ。悪口を言っていなかったとしても、たとえ褒めていようとも関係ない。本人のいない場でその人の噂をすること自体が嫌い。
「中学生のとき、さっきと似たような場面に出くわしたことがあるの。男女数人が集まって盛り上がっていて、そのときに話していたのが私のことだった」
ほとんど話した憶えがない子たちばかりだったけれど、普段教室で一緒にいる機会が多い友達も交じっていた。場所も時期も全然思い出せないのに、輪を作るように集まって甲高い笑い声を響かせるあの光景だけは目に焼きついている。
「別に悪口を言っていたわけじゃなかった。褒めてたわけでもなかったけど……。でも、陰でああやって噂されてるんだって知って、すごくショックだった」
次の日、その場にいた友達とどう接していいかわからなくなった。聞かなかったことにして何事もなかったかのように笑い合ったけれど、うまく笑えていた自信がない。
次の日だけではない。その次の日も、次の次の日も。結局、クラス替えをするまでの期間、友達に対してずっとモヤモヤを抱える羽目になった。
「前に私、スラックスを穿いて登校してみたいって言ったの憶えてる?」
記憶の彼方の話ではない。すぐに「うん」と短い返事が戻ってきた。
「穿きたいけど穿けないのは、陰でいろいろ言われるかもしれないって考えちゃうから。実際には言われていなくても、私の知らないところで何か噂されてるかもしれない。自意識過剰かもしれないけど、どうしてもそう考えちゃって怖いの」
無意識に自分の体を両手で抱きしめていた。
「私、勝手だけど……すごく勝手だけど、有馬くんはああいう場にいたとしても陰で噂話するのを止める人だと思ってた。だから、有馬くんがみんなと同じように聞いてたのがショックだった」
最後に「ごめん」と謝罪が零れ出た。
言っていて、本当に自分勝手だと思った。私が勝手に有馬くんは期待に応えてくれる良い人だと評価していただけなのに、失望したみたいな言い方をしてしまった。
この謝罪は身勝手な言い分で嫌な態度を取ってごめんという意味。だけど、ショックな気持ちが抜けていなくて謝る声が小さくなった。
「椿、ごめん!」
有馬くんは、私の声を簡単にかき消せるほど大きな声で謝ってきた。しかも、頭を下げて丁寧に。
「俺、すぐ人の顔色を窺っちゃうから、ああいう場だと適当に聞いてたらいいやって思ってた。でも、そうだよな。知らないところで自分の話をされるのって気味が悪いよな」
知らなかった。有馬くんが人の顔色を窺ってしまうと初めて知った。立ち回りがうまくて周りをよく見ているなとは思っていたけれど、如才ない性格は私のように集団の中から生まれた性格だったんだ。
「ごめん。これからは気をつける」
再度、誠心誠意の謝罪をくれた彼の言葉や行動に疑いの余地はない。凝り固まっていた全身の力が抜けていく。
「ううん、私のほうこそごめん。こんな小さなことで……」
「小さくなんかないよ。許せないことがあるのは、それだけ自分を持ってるってことじゃん」
水彩絵の具がキャンバスに染み込んでいくように、有馬くんの言葉がじんわり心の中に溶ける。心が優しさで満たされていくみたいだった。
有馬くんは誠実だ。あの場にいただけで何も悪くないのに本気で謝ってくれて、悪口を言っているわけじゃないんだからそのくらいいいじゃん、と思ってもおかしくないのに私の気持ちを尊重してくれる。
そんな有馬くんだから嫌な態度を取ってしまうほどショックを受けた。何人も男子がいた中で有馬くんだけが私の心を揺さぶった。
私は有馬くんを、たぶん異性として意識しているのだと思う。桜の匂いのようなあやふやな感情だけど、彼が特別な存在であるのに嘘偽りはない。
もしこの先の人生に1人だけ巻き込めるとしたら、迷いなく有馬くんを選ぶだろう。卒業した後も有馬くんがそばにいてくれたら嬉しい。
*
卒業式を2日後に控えた3月4日。私は有馬くんから一緒に帰ろうと誘われた。今までも何度か帰路を共にしたけれど、こうして下校を共にできるのはもう最後かもしれない。二つ返事で誘いに乗った。
その途中だった、有馬くんから告白を受けたのは。
「もうすぐ卒業だな」
「そうだね」
「椿はやり残したことある?」
「……うん、あるかな。有馬くんは?」
「俺もある」
「へぇ。有馬くんにも心残りがあるんだ」
「俺、好きな人に告白できてないんだ」
「好きな人……。そうなんだ」
「だから、今してもいい?」
「え?」
顔を上げると、隣を歩いていたはずの有馬くんの姿がない。彼は1歩後ろで立ち止まっていた。ちょうど、4月に近づくとピンク色の花を咲かせる木の下で。
「俺、ずっと椿のことが好きだった」
時が止まったような錯覚に陥った。鳥が空を飛び、遠くの方では小学生らしき集団の笑い声が聞こえているというのに、私と有馬くんの周りだけ時間の流れから取り残されたような不思議な感覚だった。
有馬くんの表情は硬く、緊張しているのがひしひしと伝わってくる。らしくないなと思うと、こっちまで緊張してきた。
「この時期に言うのはずるいかもしれないけど、つ……付き合ってほしいって思ってる」
「え……あ、私……」
まさか告白されるとは思わなかったので、返事をしないといけないとの焦りから意味のない声が漏れる。
だけど、有馬くんは返事を今すぐ欲してはいなかった。
「待って! 返事は卒業式の日に聞かせて。明後日の朝、この木の下で待ってる。もしオーケーなら、スラックスを穿いてきてほしい。ダメなら来なくていいから」
どうしてスラックス?
からかっているのかと疑ってしまったけれど、一瞬でも疑った自分が恥ずかしくなるくらい有馬くんは人を傷つける冗談を言わない人だ。それは私が1番知っている。
だとしたら、どうして「スラックスを穿いてきてほしい」なんて言ったのだろう。
有馬くんとはどういう人なのかを振り返ったことで意図がわかった。
有馬くんは、私のスラックスに対する憧れを知っている唯一の人だ。そして、卒業が現実味を帯びている今、憧れが鉛玉のように心に鎮座していると気づかれた。心残りがスラックスだと、気づいていたんだ。
つまり有馬くんは、私がスラックスを穿けるきっかけをくれた。告白の返事をするついでにスラックスを穿いて登校できるように、きっかけを作ってくれた。
ダメならいつも通りの服装で来てほしいではなく「来なくていい」と言ったのも、穿く意思を私に委ねたから。
人のために動ける誠実な人。有馬くんとはそういう男の子だ。
帰る足取りを速くしながら、私は思った。
卒業したい。こんな自分から卒業してちゃんとした大人になりたい──と。
*
卒業式の朝なのに目覚めは悪かった。寝につくその瞬間まで告白のことを考えて、あまり寝られた気がしない。顔を洗って頭を叩き起こした後、ベッドの上にスカートとスラックスを並べた。この期に及んでまだどちらを穿くか決められずにいる。
有馬くんの告白に応えたい。でも、スラックスを穿いていくのは怖い。昨日からずっと結論を出せずに彷徨っている。
すると、思考を打ち止めるようにコンコンとノック音が聞こえた。おはようと、お父さんが部屋に入ってくる。
「誕生日と卒業おめでとう」
「ありがとう」
正月と誕生日を一緒に迎える人の気持ちが初めてわかった気がする。
「今日で高校最後かぁ。早いもんだな。友達と学校で会えるのは最後なんだし、今日くらい帰りが遅くなってもいいぞ」
私以上に卒業に思いを馳せるお父さんはグーと親指を立てて、親らしいことを言ってやったぞとでも言うかのように部屋を出ていった。何をしに来たんだと思いながら視線をベッドに戻して、スラックスとスカートを見つめる。
卒業式が3年間の高校生活にピリオドを打つ日だとわかっていても、お父さんに言われるまでどこか漠然としていた。他人事のように思っていたのかもしれない。だけど、他人から言われて思う。
そうだ、今日が最後なんだ。
友達とは連絡を取れば会えるけれど、連絡先の知らない同級生は明日から私の生活にいない。言ってしまえば1日限りの同級生だ。どう見られようと、どう思われようと、どんな噂を立てられようと、今日で終わる。
それなら残り1日の人目を気にするよりも、これから先の未来を前向いて歩いていくほうが大切だ。
18歳になった私。大人になった実感も高校を卒業する実感も今はまだ湧かないけれど、好きなものに誠実でいられるような人でありたい。
新品の匂いがするスラックスを穿いて、有馬くんのもとへ向かった。
「有馬くん!」
まだ花が咲いていない木の下で待つ有馬くんの微笑みが、私の卒業を祝う花となる。
完