――夏休みが明け、登校初日。
色褪せたアスファルトを踏み締めて、僕は約一ヶ月ぶりの高校の門をくぐった。
「おはよー、蓮見!」
「あ、おはよ。高野」
僕は上履きを履きながら、隣に立った男子に挨拶を返す。
僕の名前は蓮見遠矢。西野山高校の一年生だ。
「なぁ蓮見〜。夏休みの課題ぜんぶ終わった?」
「まぁ、一応な」
「数学の範囲、めっちゃむずくなかった?」
「まぁ、たしかに簡単ではなかったけど」
でも、言うほどではなかったような。と、心のなかで思いつつ、僕は高野に目を向ける。
「高野は?」
「いやぁ、それが俺、ぜんぜん分かんなくてさぁ! マジで今日の実力テストヤバいかもって焦ったわ!」
と、どこかわざとらしく高野は言った。
その直後。
『……って言っておこ。テストの点数悪かったらかっこ悪いしな』
突然、どろりとした声が耳の奥に響いた。咄嗟に耳を押さえると、高野が不思議そうな顔をして僕を見た。
「どしたの?」
「あ……いや、なんでもない」
慌てて笑みを浮かべ、なんでもないふりをする。
「……まぁ、僕もあんまりやってないから実際焦ってるんだよね」
「だよなぁ。もう諦めだわ」
高野が大きなため息をついた直後、再び声が響いた。
『とはいえ蓮見よりはいい点取りたいな。こいつ、案外バカだし』
「…………」
あぁ、もうダメだ。息が苦しい。
「あー……そういえば僕、今朝先生に呼び出されてるんだった」
「え、そうなの?」
力任せにバタンと下駄箱を閉め、
「ごめん、先行くわ」と、言い終わる前に高野に背を向けた。
「お、おう……じゃあな」
「うん」
『……相変わらず掴みどころねぇやつ』
背中に高野の心の声を浴びながら、僕は逃げるように、小走りで教室とは反対側に向かった。
学生たちの喧騒が耳朶を叩く。その中には、ふつうなら聞こえるはずのない声も混ざっていた。
トイレに逃げ込み、鍵を閉めてから、僕はようやく息を吐く。頭がズキズキとして、思わずこめかみを押さえた。
「はぁ……朝から疲れる」
早く卒業したいなぁ。まだ、入学したばかりだけど。
***
僕には、だれにも話したことのない秘密がある。
それは――心の声を聞くことができるということ。
もちろんそれは、僕が自ら望んだことではない。中学二年くらいのとき、突然そういう体質になってしまったのだ。
教室にいても、電車の中でも、そして……家でも。必ずだれかの心の声が聞こえてくる。
それは大体気持ちのいいものではなくて、だれかの悪口だったり不満だったり、知りたくもない事実だったりする。
だれかの悪意を聞くというのは、思春期真っ只中の僕には耐え難いものだった。
親友だと思っていた友人の心の内。可愛いなと思っていたあの子の裏の顔。優しい先生の本音……。人を信用できなくなるには、十分過ぎるものだった。
簡単に言えば、絶望したのだ。人の醜さに。
僕は、この不思議な能力を手に入れてからというもの、ほとんどクラスメイトと接しなくなった。
中学生のときはこの能力に戸惑い、人間不信で不登校気味になっていた。
けれど、高校生になった今、少しは成長したのか、クラスからあぶれない程度にはクラスメイトたちとまともな関係を築けるようになった。
とはいえ、わざわざ深入りしようとは思わないので、基本的に学校外でのイベントの誘いは断るが。
誘いを断るときには相手が気を悪くしないように言葉に気を付けながら、それなりの理由を盾に謝罪をする。
……の、だけれど。
僕には今、気になっている人がいる。
クラスメイトの花野澄香……。
斜め前の席の彼女には、感情がない。……いや、というか、一度も声を聞いたことがないのだ。彼女自身の声も、心の声も、どちらも。
花野はクラスメイトと話をしないどころか、目もほとんど合わせない。
つまり、高校生になって半年が経つのに、彼女はこの学校生活の中で一度も心を動かしていないということだ。
***
――それは、夏休みが明けて一ヶ月が過ぎた頃、昼休みのことだった。
『だれか、私を殺して』
ふと、声が聞こえて顔を上げる。
「え……?」
聞いたことのない声だった。突然聞こえてきた物騒な言葉に、心臓がざわめいた。
教室を見まわす。みんな、楽しそうにお弁当を食べている。特別様子のおかしいのクラスメイトたちはいないが……。
カラフルな会話が飛び交う中、たったひとり、自席で本を読む彼女に目がいった。
……もしかして。
まるで、そこだけ教室から切り離されたように薄くしらじんだ空間。
彼女の黒髪は、特別にきれいだった。陽に当たるとかすかに青みがかって見えるのだ。まるで、髪の毛一本一本に、深海の水が混ざっているような。
それだけでなく、彼女は容姿も飛び抜けて美しい。
すっと通った鼻筋に、長いまつ毛。本に目を落とす横顔はさながら精巧な彫刻のようで、うっかり視界に入れると、息をするのも忘れてその横顔に魅入ってしまうことが多々あった。
今の声は、彼女のものだったのだろうか……。
しとしとと降る雨音のように穏やかで、それでいて流れ星のように儚い声だった。
初秋、夏の不快感丸出しの空気はどこかへ行って、少し落ち着いた色が街を包み始めた。
放課後、僕は街の図書館でテスト勉強をしたあと、図書館に隣接する公園を散策していた。
部活に入っていない僕は、放課後は基本自由だ。
舗装された小路を歩いていると、少し先の東屋に人影があることに気づいた。女性だ。
俯いているのか、顔はよく見えないけれど、耳にかけた髪がさらりと垂れた瞬間、あ、と思った。
彼女だ。花野澄香。
少し近付いてから、足を止める。
相変わらず美しい横顔。
公園の一角、この東屋だけが、騒がしい世間と切り離されたように神聖なもののように錯覚してしまいそうになる。
ぽつ、と頬に冷たい感触があった。
空を見ると、いつの間にか青空は分厚く重い雲に覆われている。と、思えば雨粒はあっという間に公園を薄墨色に染め始めた。
「わっ……降ってきた!」
僕は慌てて東屋に逃げ込んだ。
髪についた雫を手で軽く払いながら、ちらりと花野を見る。花野は忙しなく東屋へ駆け込んだときだけ、僕をちらりと見たものの、すぐに視線を手元の本に戻して読書を再開していた。その後は僕のことにまったく関心を示す様子もなく、読書に勤しんでいる。
「…………」
僕は花野の読書の邪魔をしないよう、細心の注意を払って彼女の向かいに座った。
静かな空間。神聖な時間。
声をかけてみたいけれど、かけるのがはばかられる。沈黙が心地良いだなんて、不思議だ。
しとしと、ぽつぽつ。
雨が降っている。雨のせいか、いつもより緑が深く、花も鮮やかに見える。
僕はその日、彼女にひとことも声をかけられないまま、雨が止むのを待ち続けた。
――翌日。
学校に行くと、いつもどおり涼し気な顔をして、自席で読書をする花野がいた。
彼女は淡々と学校生活を終えると、ひとり学校を出ていく。
僕はひっそりとそのあとを追いかけた。
花野は図書館に入ると、本を一冊借りて隣接する公園に向かった。赤い椛の葉が揺れる公園の一角。花野は東屋に入ると、カバンから文庫本を取り出し、読み始めた。
どうやら、図書館で本を借りて、この公園で読書をするのが彼女の日課らしい。
僕は花野の読書の邪魔をしないように、なるべく静かに向かいに座った。僕は文庫本の代わりに日本史の教科書を取り出し、読むふりをしながら、たまにちら、と彼女を観察する。
長く濃いまつ毛。さらりとした青みがかった髪。なんの音も色もない、静かな心……。
まるで、永久の時に閉じ込められたかのように穏やかな時間が流れる。
誰かと一緒にいて、こんなに心が凪ぐのはいつぶりだろう……。
じっと見つめていると、花野がパッと顔を上げた。目が合い、慌てて目を逸らす。しばらくしてもう一度花野へ視線を向けると、彼女は既に視線を手元の本に戻していた。
どうやら花野は、僕が観察していることに気付いていたらしい。耳まで赤くなるのを感じた。
冷静に状況を考えれば、彼女が不審がるのも頷ける。僕と花野はクラスメイトだけれど、仲がいいわけではない。それになにより、彼女は、僕が心の声を聞くことができることを知らないのだから。
花野がカバンを漁り出す。もしかして、帰るつもりなのだろうか。僕のせいで、居心地が悪くなってしまったのかもしれない。
申し訳ないことをした、としょげていると、花野はカバンから一冊、文庫本を取り出す。そしてそれを、すっと僕に差し出した。
「え?」
戸惑いがちに花野を見ると、彼女は無言のまま、ずいっと本を差し出してくる。
「貸してくれるの?」
花野はこくりと頷いた。
「……ありがとう」
本を受け取り、表紙を見る。読んだことのない、青春小説だった。ぱらぱらとページをめくっていると、とある一文が目に入った。
「……これって」
『だれか、私を殺して』
孤独なヒロインの独白……のようだ。
そういえば、この声を聞いたとき彼女はこの本を読んでいたような気がする。
なるほど、あの心の声は、この本を心の中で朗読していた彼女の声だったのだ。
「……なんだ、そういうことか」
彼女自身が死を願っていたのではないと知り、ホッとする一方、彼女の心を動かしたこの本に興味を抱いた。
最初から読み始めると、花野がちらりと僕を見る気配があった。花野はひとりごとを呟いた僕を不思議そうに見つめながらも、すぐにまた本に視線を落とした。
僕も、花野に渡された本を読み始める。
花野が貸してくれた本はいわゆる現代の高校生が主役のSF恋愛もので、ヒロインの寿々がひょんなことから過去へ飛び、その時代の青年、健太郎と恋に落ちるというもの。健太郎は俺様気質で、最初こそ寿々に冷たく当たるものの、次第に孤独な寿々の心に寄り添っていく。
ありきたりではあるが、健太郎の不器用ながらもまっすぐな想いに寿々が救われるという内容だった。
ただ、最初の印象はこうだった。
「えっ、なにコイツめっちゃ性格悪!」
そのあと、
「なんだよ、健太郎……ただのツンデレかよ」
からの、
「コイツ……え、なに。めっちゃ良い奴じゃん。ヒロインのこと大好き過ぎだろ」
健太郎は、現実にいるわけないと思うほど良い奴で、寿々や登場人物のセリフにいちいちツッコミを入れていると、ふと微かな声が聞こえた気がした。
「ふっ……」
顔を上げると、花野が肩を揺らして笑っていた。
「あっ……ごめん、うるさかった?」
慌てて本を閉じて謝ると、花野は僕を見て、くすくすとさらに笑いながらも首を横に振った。
柔らかな笑みにホッとしつつ、僕は花野に話しかける。
「これ、面白いね。読み終わるまで借りててもいい?」
寿々がちゃんと現代に帰れるのか気になってしまった。あと、健太郎との恋の行方も。
そう言うと、花野は微笑みながら頷いた。
それから、僕たちは公園で一緒に読書をするようになった。花野は相変わらず本に夢中で、僕が東屋に顔を出しても、気にする素振りはない。
……ちょっと寂し……くはない。
だって、べつに約束してるわけじゃないし。僕が勝手に東屋に来てるだけ。分かってるから。
でも、ずっと読書だけしているのもなんだし……と思って話しかけてみる。
「ねぇ、花野って放課後はいつもここに来るの?」
花野は僕の問いかけにこくりと頷く。
「そうなんだ。ここ、僕もよく暇つぶしに来るんだけど、気持ちいいね」
花野はもう一度こくりと頷いて、再び視線を本に落とした。
「えっと……」
……どうしよう。ぜんぜん会話が広がらない。
いや、読書をしているのだから、会話は必要ないのかもしれないけれど。
「あの……」
もう一度声をかけようとしたとき、花野がすくっと立ち上がった。そのまま、東屋を出ていく。
「えっ、どこ行くの?」
不安になって訊ねると、花野は一度振り向き、手招きをした。
ついて行っていいっていうことなのかな……?
僕は急いでカバンを手に取り、彼女のあとに続いた。
花野の艶やかな黒髪を眺めながら、なんで彼女の心はこんなにも凪いでいるのだろう、と思った。
聞きたくもない声なら、毎日いくらでも聞けるのに……。
この日、僕は初めて彼女の心の声が分かればいいのに、と思った。
花野は、ゆったりと池の周りを歩いていく。一方僕は、数歩下がって花野の背中を追いかけた。
歩いては立ち止まり、立ち止まってはまた歩く。優しい陽だまりの中、のんびりとした時間が流れた。
花野がおもむろに足元に落ちていた椛の葉を拾って、太陽に透かせた。
隣に並ぶと、花野の嬉しそうな横顔が見えた。花野は真っ赤に染まった椛を見つめていた。……かと思えば、くるりと僕を見て、花野は椛の葉を僕に差し出す。
「えっ」
ぐいっと、差し出してくる。
「……くれるの?」
花野はほんのりと微笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「……ありがとう」
顔を上げると、鮮やかに変身した椛が風に揺れている。
風が騒ぐ音。木の葉の音。葉についた露が池に落ちる音……。
どれも、ちょっとした音にかき消されてしまいそうなほどに儚い。
まるで、彼女のようだと思った。
「僕、ここにはよく来てたのに……この公園って、こんなにきれいだったんだ……」
花野は相変わらず声を発することはない。
でも、言葉がなくてもいいのだ。彼女と一緒にいる時間は、花や空、風、小鳥のさえずり……自然の鮮やかな色彩と音で彩られているから。
***
パタンと本を閉じる音が聞こえ、僕は顔を上げた。見ると、さっきまで本を読んでいた花野が帰り支度を始めている。
「帰るの?」
訊ねると、花野はこくりと頷く。
最近は秋も濃くなり、花野は暗くなる前に帰るようになっていた。一緒にいる時間が少し減ってしまって、正直ちょっと物足りない。
空を見上げる。今日は曇りだったせいか、空は既に藍色の帳を下ろしていた。
「それならもう暗いし、送るよ」
読みかけの本に椛を挟みながら言うと、立ち上がった花野は動きを止め、戸惑うように目を泳がせた。
その表情に、しまったと思う。余計なお世話だっただろうか。彼女は人付き合いというものをまるでしないし、ひとりを好んでいる人だ。
「……あ、ごめん。迷惑だったよね」
すると、花野はぶんぶんと首を横に振った。ちょっと頬が紅潮している。
「えっと……送ってもいいってこと?」
訊くと、花野はこくこくと頷いた。
「じゃ、帰ろう」
僕は、うっかり綻びそうになる表情を必死に引き締めた。花野が僕の心の声を聞けなくてよかった、と心から思った。だって今、つい花野のことを可愛いだなんて思ってしまったから。
花野の家は、公園からそう離れていない住宅街だった。住宅街を十分ほど歩いた頃、とある一軒家の前で足を止めた。表札には、『宮本』とある。
花野じゃない……?
首を傾げながらも、迷った末に僕はなにも聞かずに、花野に「また明日ね」と告げる。花野は頷き、玄関の扉に手をかけた。
と、そのとき。宅配のお兄さんが、大きなダンボールの荷物を抱えて走ってきた。
「宮本さんにお届け物でーす」
花野が振り向く。
「宮本優里花さん宛なんですが、サインよろしいですか?」
宅配のお兄さんは花野からサインを受け取り、荷物を渡すと、軽く頭を下げて帰って行った。
一部始終を見ていた僕は、悶々と考えながら帰り道を歩いていた。
花野はあの家に住んでいるのだろうか。苗字も違かったし、それに、宮本優里花って……。
その名前を、僕は知っている。だって宮本優里花は、僕たちのクラスメイトだ。
姉妹? でも、ふたりはそんなに顔も似ていないし、苗字も違う。
「どういうことだろう……」
――今さらだけど、僕は花野のことをなにも知らないのだな。
ふと、風が吹いた。ひんやりとした秋風が、心に沁みた。
***
心の声が聞こえてしまう僕にとって、電車の中は地獄だ。
『あーぁ。今日からまた仕事か』
『あー眠い。仕事休みてぇ』
『今日ミシマさん休みなんだった。ラッキー』
『会社に行ったら、またあの人に顔を合わせるのか……いやだなぁ』
『あ、あのひと可愛い。大学生かな。電車降りたら声かけようかな』
『あーぁ。今日のテストなくならないかなぁ』
『会議ダル……』
会社員。老人。学生。主婦。
電車は、不特定多数のいろんな人の心の声で溢れている。
久しぶりに満員電車に乗ったけれど、ヤバい。ダメだ。頭ががんがんする。
「矢峰、矢峰です。お忘れもののないよう、お降り下さい」
電車が学校の最寄り駅に着いた瞬間、僕は口元を押さえて逃げるように電車から降りた。そのままトイレに駆け込む。
個室に入って、乱れた息を整える。
「……はぁ。最悪」
いつもなら、なるべく人が少ない早朝の電車に乗るのだが、今日はうっかり寝坊してしまったのだ。
深呼吸を繰り返しながら、便座に座り込んだ。
登校時間ギリギリの電車で、今日に限っては休んでいる時間なんてない。……けれど、またあの人波に巻き込まれる勇気はない。
もう遅刻してもいいや。人の波が引いてから行こう……。
登校を諦めて、僕はしばらくトイレで混雑をやり過ごすことにした。
しばらくして、動悸が落ち着いてからトイレを出ると、すぐ近くに人がいた。危うくぶつかりかけ、慌てて足を止める。
――と。
「……あ」
トイレの前に立っていたのは、花野だった。
「え、あれ、花野? なんで?」
花野は僕に気が付くと、ぺこりと小さく会釈をした。
ホッとしたような顔に、思わず心臓が跳ねる。
「あ……もしかして、花野も同じ電車にいたの?」
訊ねると、花野はこくこくと頷いて、スマホ画面に文字を打って見せてきた。
『顔色が悪かったから、気になった。大丈夫?』
彼女は時折、こうやって自分の意思を伝えてくれる。
「そっか。うん、でももう大丈夫。それより、もしかして心配して待っててくれたの?」
訊ねると、花野はこくんと頷いた。
「……ごめん。僕のせいで遅刻になっちゃったね」
ちらりと時計を見る。今からでは、走ったとしてもとてもホームルームには間に合わないだろう。
『大丈夫。事情を言えば、きっと先生も許してくれるよ』
彼女はまっすぐな視線を向けてくる。
「……そうだね」と、僕は曖昧な笑みを浮かべた。
……どうだろうな。うちの担任は心の声を聞くに、あまり生徒を信用していないようだから。
駅を出ると、僕たちと同じ制服を着た生徒の姿はなかった。僕と花野は、すっかり人気のなくなった通学路を歩いていた。
ちらりと花野を見る。
昨日から気になっていたことが、僕の脳裏をちらついていた。
「あのさ……花野。昨日のことなんだけど……」
宮本とはどういう関係なの?
そう訊ねようとして、けれど言葉は途中で詰まって出てこない。
黙り込んでいると、花野がスマホをいじり出した。花野は文字を打ち終わると、僕にスマホをかざした。
『お母さんが死んでから、お母さんの姉の宮本家にお世話になってるの。優里花は従姉妹』
“お母さんが死んでから”
「…………」
言葉が出なかった。
『みんないい人なんだけど、私、突然喋れなくなっちゃったから、コミュニケーションとるのが難しくて……上手く馴染めなくて。今も、どう接していいか分からない。だからいつも、公園で時間潰してる』
寂しげな横顔に、ハッとした。
「……もしかして、声が出せないのって」
『お母さんが死んでから。病院の先生に診てもらったら、喉には特に異常はなくて、心因性だって。そのうち治るだろうって言われてる』
「そう……だったんだ」
やっぱり、軽々しく聞くようなことではなかったと思って反省する。
「ごめん……言いたくないこと言わせて」
小さく謝ると、花野は首を振り、微笑んだ。
『体調はもう平気?』
「……うん」
花野はスマホをカバンにしまうと、歩き出した。その背中を見つめたまま、僕はぼんやりと立ち尽くしていた。
花野は、どんな思いでこのことを僕に打ち明けてくれたのだろう。きっと言いたくなかったはずだ。お母さんの死についても、それがきっかけで声を失ってしまったことも。
悪意のない興味や好奇心は、ときに残酷な形で本人の心を抉る。
……それでも、花野は答えてくれた。僕が、知りたがったから……。
「花野。ありがとう……話してくれて」
僕の声に気が付いた花野が、不思議そうな顔をして振り返った。
僕がまだ立ち止まったままでいることに気が付くと、花野は慌てて僕の傍らに戻ってきた。
「……あのさ、花野。……僕、心の声が聞こえるんだ」
気が付くと、僕は花野にそう漏らしていた。
「中学のとき、突然そうなったんだ。それからちょっと人間不信になりかけて……友達とかも作らなくなった。裏の顔っていうか……みんなの本心に怖くなって」
でも、と、僕は花野を見つめる。
「花野の心の声だけは、聞こえなくて。だからどうしてか気になってて……」
言いながら、彼女の戸惑うような表情に気付いてハッとした。
冷水を浴びせられたように、頭の中が一瞬でクリアになる。
「な、なんて、ごめん。今のは冗談だから……」
忘れて、と言おうとしたとき、花野が僕の手を取った。
「……?」
花野はじっと僕を見つめたまま、動かない。
「……信じてくれるの?」
おずおずと訊ねると、花野は一度だけ頷き、手を離した。もう一度カバンからスマホを取り出し、文字を打ち始める。
『私も、蓮見くんのこと、いつも不思議なひとって思ってた。みんなに好かれる人気者なのに、どこかちょっと、距離を置いた感じがしてたから』
「人気者って……そんなことないよ。僕はただ、嫌われるのが怖くて当たり障りなく接してるだけ。ただの臆病者だよ」
そう返すと、花野は一度瞬きをした。
『心の声、怖い?』
「……少し。心の中は、みんな容赦がないから。だから……だれかと仲良くなるのが怖いんだ」
……心の声は残酷だ。家族ですら、信じられなくなる。
『分かるよ。私も、お母さんが死んじゃってから、大切なだれかを作るのが怖くなったから』
「……そっか」
彼女もまた、孤独なのだ。家庭に居場所を見つけられなくて、ひとりぼっち。だけどだれにも頼れなくて、ひとりで彷徨っている。
「……ねぇ。僕も、あそこを居場所にしてもいいかな」
花野は僕を見上げ、首を傾げる。
「あの東屋。すごく落ち着くんだ。あそこは自然の音しかしないし……だれかの声に怯えなくて済む」
すると、花野は嬉しそうに微笑んだ。
***
その後、僕たちは遅刻して登校した。
職員室に寄って先生に気分が悪くなって遅れたことを伝えると、案の定どうせサボりだろうという心の声が聞こえた。
「とにかく、早く教室に行きなさい」
まぁ、予想していた通りの反応だし、体調不良は目に見えないものだから、仕方ない。
……嘘じゃないんだけどなぁ……。
表情を曇らせた僕を見て、花野はなにかを察したのかスマホになにかを打ち込み、画面を先生に見せた。
すると、先生の顔色が変わった。
「蓮見、電車の中で吐いたって本当か!? もう大丈夫なのか!?」
「へ……?」
きょとんとした顔を向けると、花野が画面をこちらに向けた。そこには、こう書かれていた。
『蓮見くんは、電車の中で吐いてしばらく駅員室で休んでたんです。私は目撃者だったけど、喋れないから彼の病状の説明に時間がかかってしまいました。遅れちゃってすみませんでした』
「花野……」
花野は涼しい顔をして、とんでもない嘘を先生に言っていた。普段真面目な彼女が言うと、まったく疑われないから不思議なものである。
さすがに言い過ぎでは? と若干思わなくもないけれど、庇ってくれたことが嬉しいので黙っていると、
『いかんいかん。頭から疑うのはダメだよな……こういうところ、反省しないとな』
という先生の心の声が聞こえた。
「え…………」
……ちょっと意外だった。
「悪かったな、蓮見。実はちょっとサボりじゃないかと疑ってしまったんだ。でも、お前はそんなことする生徒じゃないよな。体調はどうだ? 少し保健室で休むか?」
バツの悪そうな顔でそう言ったあと、先生は頭を下げた。
「え……あ、いえ」
呆然としていると、先生に心配そうな顔で覗き込まれ、ハッとした。
「……もう大丈夫です。連絡もしないで遅れて、すみませんでした」
「いや、無事ならいいんだ。今ちょうど現国でディスカッションの授業をしてるから、君たちも参加しなさい」
「はい」
教室に戻りながら、僕は花野に礼を言う。
「……さっきはありがとう。庇ってくれて、嬉しかった。花野が嘘つくとは思わなくて……ちょっと、びっくりしたけど」
花野はちょっと悪戯な笑みを浮かべていた。
教室に入る直前、花野がくるりと振り向いた。
そして――。
『どういたしまして』
「えっ……」
口パクでおそらく、そう言った。僕は思わず足を止めた。
「えぇ……不意打ち過ぎるでしょ……」
どくどくと心臓が暴れ出す。
しばらく、花野の横顔が残像のように脳裏に焼き付いたまま離れなかった。
***
現国のディスカッションは、自分が一番好きな本をそれぞれPRして、グループの中でどれかひとつを選び、最終的にクラス発表をするというものだった。
初日の今日は、それぞれ持ち寄った本をPRして、だれの本を発表するか決める。
僕と花野はべつのグループだ。
ちらりと花野のグループを見てみると、宮本がいた。宮本は花野になにかを語りかけている。表情を見るに、遅刻したことを心配したのだろう。しかし、花野の表情は固かった。
宮本とは従姉妹で、いい人だと言っていたけれど……仲良くはないのだろうか。
僕には、ふたりはとても従姉妹とは思えないほどよそよそしく感じた。
と、そのとき肩をとんと叩かれた。
「遠矢ー? 次お前の番だぞ」
「あっ! ごめん。えっと……なんだっけ」
「なんだっけって、おまえなぁ。本の紹介だろ! ほれ」
「あぁ、うん。えっと、じゃあ……」
僕は、花野に貸してもらったSF恋愛本を紹介した。
「へぇ〜。蓮見くん意外に恋愛ものとか読むんだ〜」
と、声をかけてきたのは、同じグループになった、一見派手なタイプの女子。心の中でよく一緒にいる子の悪口を言っている子だ。正直苦手だからあんまり関わりたくないところだけど、こういう子に嫌われたらかえって面倒そうだし、僕も愛想のいいクラスメイトの仮面を被る。
「面白かったよ。文体も読みやすかったし。初心者向けかも」
「へぇ、そうなんだ!」
相変わらず作ったような明るい相槌が返ってくる。
「図書館にあるくらいだから、この学校の図書室にもあるんじゃないかな」
本なんて興味ないくせに、と思いながら顔を上げて彼女を見ると、
「そっかあ。私、普段本とか読まないけど、これなら読みやすそうだし借りてみようかな〜」
彼女は、とてもきらきらした瞳で僕が紹介した本の題名をメモしていた。
「…………」
直後、心の声が聞こえた。
『昼休みにでも図書室行ってみよっ』
「えっ」
語尾が跳ねるような心の声が聞こえて、僕は少しだけ拍子抜けした。
「ん? どうかした?」
じっと見つめていると、彼女は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「あっ、いや……なんでもない。ぜひ、読んでみて。面白いから」
「うん!」
どうしてだろう。先生のときも思ったけれど、いつもならこんなポジティブな言葉が聞こえてくることはなかったのに。
……もしかして、と思う。
今までネガティブな心の声しか聞こえてこなかったのは、僕の心が曇っていたから……?
こころなしか、花野と知り合ってから、目に映る景色が鮮やかになった気がする。
ちらりと花野を見ると、花野は僕を見て小さく微笑んでいた。
***
それは、ディスカッションの授業三限目のことだった。
「――いい加減にしてよ!」
それぞれグループになってどの作品をPRするか決めていると、突然、教室内に女子生徒の怒鳴り声が響いた。
「あんたの番だって言ってるでしょ!」
驚いて顔を向けると、そこには険しい顔で花野を見下ろす宮本の姿があった。
なにごとだろう、と宮本を見つめていると、宮本は吐き捨てるように花野に言った。
「いつもいつも暗い顔して……少しはこっちの気持ちも考えたらどうなの!? こっちだって気を遣ってやってんのに!」
「ちょ、ちょっと優里花、落ち着いてよ。そんなこと言ったって、花野さんは喋れないんだから仕方ないじゃん」
どうやら、花野は本の紹介を喋れないからと拒否したらしい。しかし、宮本は納得できないようだ。
周囲の女子が止めに入るが、宮本が引く様子はない。
「話せないからって、まるっきり伝えられないわけじゃないじゃん! 話せないなら書いて言えばいいでしょ! これは授業なの! ひとりだけやらないとかなしだから!」
花野は俯いたまま、静かに宮本の罵声に耐えている。
「……いつもそうやってだんまりして。なにか言い返したらどうなのよ!」
「ちょっと優里花……」
「こっちはいつも大変なの! 突然親がいなくなったあんたを引き取らなきゃいけなくなって、ママもパパもめちゃくちゃ気を遣ってるんだから! うちの家族はみんなあんたに気を遣ってるのに、あんたはずっとひとりぼっち不幸です、みたいな顔して、学校でも周りに気を遣わせて!」
宮本は一度言葉を切り、はぁーと息を吐いた。そして、言った。
「……私、あんたの母親が自殺した理由、分かる気がする。あんたといると、気分が沈むのよね。あんたのそういうところにうんざりしてたんじゃないの」
宮本の言葉に、花野がハッと顔を上げる。その目は次第に潤んでいく。
「優里花、やめなよ」
教室中がざわついた。
「うん、ちょっと、言い過ぎだよね」
「さすがに……ねぇ?」
クラス中がざわめき出す。花野は凍り付いたように動かない。
「というか、ふたりが従姉妹っていうのは知ってたけど……」
『ふたり、一緒に住んでるの?』
「え、嘘。花野のお母さんって自殺したんだ」
『でもなんで自殺?』
『花野さん可哀想……』
『というか、自殺ってヤバ』
ひそひそとした声だけでなく、心の声もざわつき始める。
花野は小さな身体をさらに小さくして、俯いている。そんな彼女に、宮本はさらに続けた。
「……あんたって、いつもそう。ずっと受け身で、根暗で。一緒にいるだけでうんざりするのよ。部活もやってないのに、毎日これみよがしに遅く帰ってきて、ママやパパを心配させてさぁ。挙句、遅刻ってなによ? 理由もなにも言わないし。いい加減、可哀想な子ぶるのやめてくれない? どうしてこっちがいちいちあんたに気を遣わなきゃいけないのよ。うちってそんなに居心地悪い? 気に入らないなら、出ていけばいいじゃない! クラスメイトたちもうちら家族も、あんたにはめちゃくちゃ迷惑してるの! あんたがいなくなったらせいせいするんだから!」
「おいおいどうしたんだ? うるさいぞー」
席を空けていた先生が、異変に気付き慌てて戻ってきた。
「なんだ、宮本。なにがあった」
「……べつに」
先生がため息をつく。
「ほら、全員発表に戻りなさい」
生徒たちは渋々授業に戻る。宮本も大人しく座った。
「あ……でも次、花野さんだよね」
気まずそうにひとりの女子生徒が言う。すると、宮本は鼻で笑いながら言った。
「飛ばしていいんじゃない。どうせこの子、なんにも言わないんだから」
吐き捨てるように宮本が言うと、とうとう花野の大きな瞳から、涙がぽっと落ちた。
これにはさすがに頭にきた。
ひとこと物申してやろうとして席を立った瞬間に、僕より早く先生が怒鳴った。
「宮本! いい加減にしろ! 花野に謝れ!」
宮本はふんっと顔を逸らした。
「宮本、おまえな……」
先生がさらに説教を始めようとする前に、花野が教室から飛び出した。
「あっ……」
宮本が声を漏らす。
『違うのに……本当はこんなことを言いたかったわけじゃないのに……』
ざわざわと、宮本の心が揺れる声が聞こえた。きっと、花野の顔を見て瞬時に後悔したのだろう。
しかし、その直後のことだった。廊下からバタン、となにかが倒れる音がした。嫌な予感がして、僕は慌てて扉を開けて廊下に出た。
「花野っ!」
見ると、花野が倒れていた。
倒れた花野に駆け寄り、その身体を抱き起こすと、布越しでもかなりの熱を感じた。
「花野! しっかりして!」
必死で声をかける。
と、そのときだった。花野の心の声が荒波のように僕を襲った。
『もうやだ』
『私、なんで生きてるんだろう』
『うるさい、うるさい、うるさい』
『ひとりにして。もう、私にかまわないで』
『みんな、きらい』
『どうせだれも、私のことなんて分からないくせに』
「花野……」
その日、初めて聞いた花野の心の声は、絶望に満ちていた。
『――もう、死にたい』
***
母が死んだのは、私が中学二年生のときだった。
鬱病を患っていた母は、ある日家に帰ると玄関で首を吊って死んでいた。
自殺した母は遺書を残しておらず、私へのメッセージはなにもなかった。母との最後の会話は、前日の夜の『おやすみ』というありきたり過ぎるものだった。
私は、母にとってなんだったのだろう……。
『可哀想に』
可哀想? だれが? 私が?
『あんな形で母親を亡くすだなんて』
あんな形って? もしかして、自殺のこと?
『きっと、子育ての限界だったのよ。ひとりで働きながら、澄香ちゃんを育てなきゃならなかったんだもの』
――あぁ、そっか。お母さんが死んだのは、私のせいなんだ。
お母さんの心を殺したのは、私。
私は人殺し。
ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
私がいなければ、お母さんは――。
叫びたくても、もう声は出なかった。
――パッと目を開けたら、斑模様の天井が見えた。何度か瞬きをして、その天井が保健室のものだと気付く。
そっか。授業中、倒れたんだ、私。
……悪夢を見ていた気がする。わずかに乱れた呼吸を整えながら、私はよろよろと身を起こした。
白く清潔なカーテンが揺れている。
小さく息を吐きながら、目障りな前髪を耳にかけた。カーテンの隙間から見える時計は、十一時を指している。
まだ四限目の途中。目が覚めてしまったから、もう戻らないとダメだろうか。
……いやだなぁ。戻りたくない。いっそ、あのまま目が覚めなかったらよかったのに。
カーテンの隙間から零れた陽の光が、シーツを照らした。
「…………」
私は、そっと学校を抜け出した。
こっそりと向かったのは、あの公園。東屋に入り、小さく息をつく。
……落ち着く。ようやく、息が吐けたような気がした。
日陰が落ちた東屋の中は、少しだけ寒い。紅葉を過ぎ、色褪せた公園はどこか物悲しい空気を漂わせている。
まるで、私の心みたい。
小さくため息を着いたときだった。
「花野?」
ふと、風の囁きのようなひそやかな声が聞こえた。見ると、東屋の入口に蓮見くんが立っていた。
驚いていると、蓮見くんは小さく微笑み、東屋に入ってくる。
「突然倒れたから驚いたよ。それに、保健室覗いたらいないし……まぁ、なんとなくここかなって思ったから、先生に言って僕が迎えに来たんだけど。いてよかったよ」
蓮見くんは怒ることもなく、穏やかな口調でそう言いながら、私のとなりに腰を下ろした。
「身体はどう? 学校を抜け出す元気があるなら、大丈夫そうだけど」
熱? ……そうか。朝からなんとなく身体が重いと思っていたのは、熱があったからか。
と、思っていると、蓮見くんが制服のジャケットを脱いだ。私の視線に気付いた蓮見くんが、笑う。
「走ってきたから、暑くて」
よく見れば、蓮見くんは額に汗を滲ませていた。
『ごめん、迷惑かけて』
私はスマホを見せながら、蓮見くんに頭を下げた。
「いいよいいよ。気にしないで!」
「…………」
私はもう一度、ぺこりと頭を下げた。
……さっき、倒れる直前につい思ってしまったこと……彼は聞いただろうか。
俯いたままでいると、蓮見くんがぽつりと言った。
「死にたいって思うとき、僕もあるよ」
顔を上げると、蓮見くんは悲しそうに笑って、私を見ていた。
「好きだった人の心の声を聞いちゃったときとか。……この力があると、どうしたって見たくなかった部分まで見えちゃうからね。だから、僕は一生、人を好きになることはできないんだろうなって思ってた」
「…………」
彼は、心の声を聞くことができるという。たぶんそれは、嘘ではない……のだと思う。
まれに変な態度をとることがあったし、クラスであぶれている感じはないのに、クラスメイトと距離を取っているようなところがあったから。
それに――私も、ある日突然自分の声を失った。だから、突然なにか不思議な力を授かることも、あるのだと思う。
「でも、花野に出会って気付いたことがあるんだ。……僕は今まで、いったいだれを好きだったんだろうって」
顔を上げると、蓮見くんは優しく微笑んだ。
「僕たちは、相手のほんの一面しか知らない。それなのに勝手に心の声に絶望して、イメージと違ったって悲観してたのは僕。相手はなにも悪くないのにね」
結局、相手をちゃんと見ていなかったのは自分のほうだった。そう言う蓮見くんの横顔は、とても寂しそうだった。
きっと、彼はこれまでたくさん悲しい思いをしてきたのだろう。私では想像もつかないくらいの想いをしてきたはずなのに。それでも、蓮見くんは、そんなふうに思えるのか……。
……すごいなぁ。私とは、大違いだ。
私は目を伏せた。
スマホに文字を打つ。
『お母さんのこと、聞こえたよね?』
訊ねると、蓮見くんは少しだけ戸惑うような態度を見せた。
「……うん。自殺だったって」
『私が中学生のとき、お母さんは自殺した。お母さんが死んだのは、私のせい。私がお母さんの心を壊して、殺した』
「……さっき、宮本から聞いたよ。花野のお母さんは鬱病を患ってたって」
『お母さんが病気になったのは私のせい。私の子育てがしんどかったから。私がお母さんに負担をかけたの』
「だとしても、花野に責任はない。お母さんが亡くなったことは、花野が責任を感じることじゃないでしょ」
それは違う、と私は首を振る。
『私は、だれにも必要とされてないの。お母さんじゃなくて、私が死ぬべきだった』
蓮見くんが息を呑んだような音がした。
『私は勉強も運動も得意じゃないし、人にも好かれない。……なんの価値もない人間』
「そんなことない!」
そんなことある。
「私なんて、生きてたって意味がないの!」
強く叫んだ。
すると、蓮見くんは私の声に一瞬驚いた顔をして、息を呑んだ。
しかし、すぐに私をまっすぐに見つめ、
「そんなことないよ!」
と強く言った。
蓮見くんが私の肩をぐっと掴む。
「僕は花野に救われたよ。だれかの本心に臆病になって、人間不信になってた僕がもう一度人に興味を持てたのは、花野がいたからだ。……それだけじゃない。花野といると、僕は音を聞くことが怖くないんだ。どんな音にもずっとびくびくしてたのに……それなのに今は、花野の心の声が聞こえたらいいのに、って思っちゃうくらいで……」
ハッとして顔を上げる。
「僕はきっと、花野に会えていなかったら、今もみんなを拒絶したまま、人に興味を持てずにいたと思う。ずっと耳を塞いでた僕の手を取ってくれたのは、花野だよ」
「……私が?」
「花野といると不思議なんだ。花野のとなりは、言葉はないのにいつも音やカラフルな景色で溢れてる。この公園も」
そう言って、蓮見くんは公園を見渡した。
「ここ、近所だし行き慣れた場所だったのに、花野と一緒だと音も色も匂いも、流れる時間自体ももうぜんぜん違うんだ。……僕、花野のおかげで少しだけ前向きになれた。心の声も、ちょっとずつ違うニュアンスの声が聞こえるようになって……ぜんぶ、花野のおかげ。だから、ありがとう」
「蓮見くん……」
蓮見くんはにこりと微笑んで、言った。
「それにしても花野の声、初めて聞いた」
「あっ……」
そういえば、と喉を押さえる。いつの間にか、声が出ていた。母を失った日に失ったはずの声が。
蓮見くんが、私の手を優しく握る。
「ずっと、花野の声を聞いてみたかったんだ。花野の声で、本音を聞いてみたかった」
胸がきゅっと潰れそうになった。
「……ねぇ、ずっと言いたかったこと、あるでしょ。言いたくて言えなくて、呑み込んでたこと。……話してよ。聞くから」
その言葉に勇気をもらい、私はぽつぽつと想いを零す。
「私……ずっとお母さんに聞きたかったんだ。なんで死んじゃったのか。なんで私を置いていったのか。私はいらない子だった? 私がお母さんを追い詰めた? お母さんは私を憎んでいたの……?」
今さら訴えたところで、もちろん答えなんて返ってこない。だって、私のお母さんはこの世にはもう存在しないから。
……言ったって、仕方ないと思っていた。零れそうになる悲しみも苦しみも、疑問もぜんぶ呑み込んで、心の奥にしまいこんで。そうしていたら、いつの間にか私は声を失っていた。
「ずっと、ひとりで抱えてたんだね。ずっと……辛かったね」
蓮見くんが、私をふわりと抱き締めた。あたたかい。あたたかくて、涙が出そうになる。
ぐっと奥歯を噛んで、考えてみる。
私はお母さんのなにを知っていただろう。
物心ついた頃にはお母さんはもう心を患っていて、いつも泣いたり叫んだり、時には打たれたりした。お母さんの笑顔なんて思い出せないし、優しい声も知らない。死ぬそのときまで、私はお母さんに愛してると言ってくれなかった。
……それでも私は、お母さんを愛していた。お母さんが死んだとき、声を失うくらい悲しかった。
「ねぇ……花野。花野は、お母さんがいなくなってからずっとひとりで生きてきたって思ってるかもしれないけど、それは違うんじゃないかな。花野には宮本たちがいるでしょ」
顔を上げ、蓮見くんを見る。
「……宮本、花野のことすごく心配してたよ。さっきは……ちょっと言い方はきつかったかもしれないけど、花野が宮本の気持ちに気付いてくれないから、怒っただけだと思う。だって宮本、さっきものすごく泣いてたよ。心の中もぐちゃぐちゃだったから」
「え……嘘。優里花が?」
優里花は勝気で、家族をとても大切にする女の子。学校ではリーダーシップをとるようなタイプで、自分の意見もはっきり言う。
「私、優里花にはずっときらわれてると思ってた……」
そのときだった。
「――そんなわけない!」
いつからいたのか、優里花が東屋に入ってきた。優里花は私の顔を見るなり、泣きそうな顔をして駆け寄ってくる。
「優里花!? なんでここに……」
優里花は私の問いには答えずに、勢いよく私を抱き締めた。
「きらいなわけないでしょ! そもそもきらいだったら澄香のことなんて放っておくわよ! ……私はただ……悔しかったの。叔母さんが死んでから、澄香ぜんぜん笑わなくなって、喋らなくなって、私にもよそよそしくなった。昔はあんなに仲良しだったのに……だから、寂しかったの。……でも、さっきは言い過ぎた」
ごめんなさい、と謝る優里花に、私も慌てて、
「私こそ、ごめんなさい。優里花にも幸子さんにも勲さんにも、すごく感謝してる」
でも、私は他人だから、優里花の家族の邪魔をしちゃいけない。甘え過ぎたら、またお母さんのときみたいになってしまうかもしれない。そう思ったら、足がすくんだ。
「優里花たちに気を遣わせてるのは分かってた。でも、また失うかもしれないって思ったら怖かったの。だから……だれとも接しないで、ひとりで生きるっていう選択をした」
そう言いながら、私はぼんやりと自分の足元を見つめる。
「……バカ。私たちは、家族だよ」
「……でも、私は」
身を引こうとする私の肩を、優里花が優しく掴む。
「あのね、澄香の苗字を変えないままなのは、本当のお母さんのことを忘れてほしくないからって、うちのママが言ってた。叔母さん、澄香のこと本当に愛してたからって」
「……そんなの、ただ私に気を遣っただけで……」
きっとそう。だってママは、私を愛せなかったから死んだのだ。
「そんなことないよ。だって、うちのママと叔母さんは姉妹なんだよ? 私たちが小さかったときのことも、うちのママはぜんぶ見てるんだから。澄香も私も、自分が生まれたときのこと知らないけどさ、知ってる人は今もちゃんといるんだよ。だから……今はまだ、叔母さんとの記憶は辛い思い出しかないかもしれないけど……もう少し、澄香の心が元気になったら、ぜんぜんそれだけじゃないってことを教えてあげたいって、ママ言ってたよ」
涙で視界が滲んだ。
……そうだ。私は、私が生まれたときのことを知らない。お母さんがどんなに苦労して私を産んだのかも、どんな顔で育ててくれていたのかも……。
「病気になる前のお母さん……」
「ねぇ澄香。死んじゃった人に口はないから、死ぬ直前に澄香のお母さんがどう思ってたかは分からないけどさ。でも、病気になると人は変わるって、ママが言ってた。特に、心の病気はね」
……そうなのだろうか。
本当に、自分の娘のことまで考えられなくなるほど、分からなくなってしまうの? 自分でお腹を痛めて産んだ子なのに?
私には、分からない。……分からない。お母さんがどう思っていたのか……。知りたいのに。
「大丈夫。今だって、澄香はひとりじゃない。叔母さんのこと、これから知ることだってできるんだよ」
堪え切れず、ぽろぽろと涙があふれた。泣き出した私を、優里花が優しく抱き締めてくれる。
「……ずっと我慢してたんだね。気付いてあげられなくてごめんね」
私は口を結んだまま、ぶんぶんと首を振る。
「……私こそ……今までごめん。……ありがとう」
久しぶりに聞いた自分の声にはまだ慣れないけれど、少しづつ身体に馴染んでいくような気がした。
***
――花野が倒れたとき、クラスメイトたちの心の中は、花野への同情と好奇心で溢れていた。真実を知りもしない彼らは、心の中で好き勝手言っていた。
そんな教室から、僕は逃げるように抜け出して、花野の様子を見に保健室へ行った。しかし、保健室で休んでいたはずの花野は、忽然と姿を消していた。
慌てて教室に戻ってみたが、姿はない。
一瞬焦ったものの、行き場所はすぐに検討が着いた。
あの公園だ。
僕は急いで先生に事情を説明して、公園へ向かった。そこへたまたま居合わせて、事態を知った宮本が私も連れて行けときかなくて、渋々一緒にやってきたというわけである。まぁ、公園までの道中、宮本の本心を垣間見れて、ホッとしたけれど。
予想通り、花野は公園の東屋にいた。母親の自死をクラスメイトである僕たちに知られてしまったことがショックだったのか、かなりしょげているようだった。
まっすぐに花野の元へ行こうとする宮本を止め、僕は少しの間だけでいいから話をさせてほしいと頼んだ。
きっと、今宮本と会ったら、ふたりはまた喧嘩になってしまうだろう。花野は今、絶望の中にいる。そんな彼女をさらに追い詰めるようなことだけはしたくなかった。
ずっと心の内に閉じ込めていた思いを打ち明けた花野は、声を取り戻していた。そんな彼女に、僕は道中聞いた宮本の本音を少しだけバラした。
するとすぐに隠れていた宮本が花野を抱き締めた。花野の本音に、宮本は涙を流していた。その後ふたりは本音をぶつけ合って、ちゃんと仲直りをした。
彼女の居場所が見つかって、心からよかったと思った。……けれど少しだけ、寂しさも感じた。
学校への帰り道、花野は僕に言った。
「今日はありがとう。いろいろ迷惑かけて、ごめんね」
「……僕はなにも」
まだ慣れない、花野の澄んだ水のような声に、僕は答える。
「私、蓮見くんには心を覗かれていたからかな……。だれにも言えないことも話せる気がするんだ」
「え……」
どきりとした。僕は、どういう言葉を返したらいいのか戸惑い、言葉を詰まらせる。すると、花野も困ったように眉を下げて、僕を見た。
「……でもね、私気付いたんだ。私、これまでずっと、心の中で思ってたことを我慢してた。優里花はそれを言ってほしかったって言ったけど……やっぱり言うべきじゃないこともあると思うんだ。心の中でとどめておくべき言葉も」
「…………」
「お母さん、心の病気だったから、私結構いろいろ言われたんだ。酷い言葉も、傷付く言葉も言われた」
お前なんて産まなきゃ良かったとか、私の前に現れないで、とか。思い出せばキリがない、と、花野は呟く。
「……本音と建前ってよく聞く言葉でしょ? 建前っていうと少し悪い印象に聞こえるかもしれないけど……でもそれって、言い換えると、思いやりってことなんだと思う」
「思いやり……?」
「どれだけ仲が良くても、友達同士でも……家族だとしても。言っちゃいけない言葉ってあると思うの。だからね、みんな、たしかに心の声とは裏腹の言葉を言っていたかもしれないけど……それは、相手を傷付けないようにっていう意図もあるんだと思う」
もちろん、心の声ぜんぶがそうではないと思うけど、と、花野は続ける。
花野のそのひとことは、僕の心の深いところにすうっと落ちた。
……あぁ、そうか。
クラスメイトたちは、心の中と口先ではいつも違う言葉を発していた。
もし、彼らが心の中の言葉をすべて本人へ直接言っていたら、揉めていたかもしれない。大きな諍いが起きて、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
彼らの嘘は、『嘲り』ではなく、『思いやり』だったのだ。
「そっかぁ……思いやりかぁ」
君は、心の声をそう解釈するんだ。すごいな、そんなふうに思ったこと、一度もなかった。
「……蓮見くん?」
花野がそっと、僕を呼ぶ。僕は顔を上げ、花野に情けない泣き顔をさらした。
「……ありがとう。花野のおかげで、大切なことに気が付いた」
花野がにこりと微笑む。
その微笑みは、相変わらず息を呑むほど美しくて。この笑顔を、僕はこれからもずっと見ていたいと思った。
「……ねぇ、花野」
「ん?」
「これから花野のこと……澄香って、呼んでもいい?」
「……じゃあ、私も遠矢くんって呼びたい。いい?」
「うん」
僕たちは、再び並んで歩き出した。
――心には、表と裏がある。
それは、だれしも例外なく。
笑顔の裏。涙の裏。言葉の裏……。
この、僕たちが隠している『裏』を、ちょっとした『秘密』だと捉えたら、僕たちのこの日常も、とてもわくわくするような物語になるような気がした。
「……ありがとう、澄香」
『こちらこそ、遠矢くん』と、花野の心の声が聞こえた。
このときの花野の『こちらこそ』を最後に、僕はそれから、だれかの心の声を聞くことはなくなった。