男の名は#斉藤__さいとう__#といった。

 年齢はやはり四十代で、親から継いだ商店を一人で営んでいるらしい。
 既婚者だが子どもはなく、十年前に妻が通り魔に殺されてからは、ずっと独りで暮らしているという。

「十年前、当時の首相がテロで亡くなる事件があったでしょう。警察の方ならご存知だとは思いますが、あのすぐ後から、この辺りでも無差別に人を襲うような事件が増えたんです。きっと模倣犯でしょうね。私の妻を襲ったのもそういう人間でした。犯人は捕まりましたが、似たような輩は今でもそこらじゅうに存在します。何の罪もない人に危害を加えるような、生きる価値もない最低の人間……そういう輩を見ると、ついカッとなって、思わず手が出てしまいそうになることがあるんです」

 妻を殺された悲しみと、自分勝手な犯人への怒り。
 そこが原点となって湧き起こる、度を超えた正義感。
 先ほどの鉄板焼きの店での一件も、おそらくはそれの延長線上だろう。

 まさかそんな過去があったとは知らず、斉藤の話を聞いていた栗丘も、段々と彼のことが気の毒になってきた。

「お気持ち、お察しします……。ですが、やはり手を出してしまっては傷害になりますから、そこは感情を抑えていただかないと」

「そこなんです。私だって、本当は揉め事なんて起こしたくない。でも、抑制が効かないんです。本当に……まるで誰かに操られているような気がして」

 精神科医でもない栗丘にとって、斉藤の悩みを解消させる術はなかった。
 やがて西の空は夕焼けに染まり、斉藤は「そろそろ飼い猫の御飯の時間なので」と席を立つ。

 結局、数時間かけて彼の悩みを聞いただけで、特に何の収穫も成果もない午後を過ごしてしまった。
 何の助けにもなれなかった自分の不甲斐なさを思いながら、栗丘は帰路につく斉藤の背中を交番の前まで送り出す。

 と、彼らが外に出た瞬間、目の前の道を全速力で走ってきた人物が栗丘の右肩にぶつかった。

「うおッ!?」

「きゃっ!」

 栗丘とほぼ同時に、短い悲鳴が上がる。
 その甲高い声から察するに、ぶつかってきたのは若い女性だった。

「やーん、ごめんなさぁい!」

 衝撃で前のめりになった栗丘の脇を、甘い声がすり抜ける。
 栗丘が見ると、その正体は十代半ばほどの少女だった。

 一瞬だけ目を合わせたその顔は、小ぶりな八重歯が印象的な美少女だった。
 ハーフツインに結われた長い髪は所々にピンクのメッシュが入っており、服装は黒を基調としたパンク系ファッションだ。
 ぺろりと舌を出した小悪魔っぽい笑顔に一瞬で魅了された栗丘は、ただただ見惚れて言葉を失い、そのまま走り去っていく少女の背中を呆然と見送る。

 だが、

「……ひったくりだ!!」

 一部始終を隣で静観していた斎藤が、突如として大声で叫んだ。