「さっむ!」
無事にワープを終え、外の世界に飛び出してきた聖花の第一声はそれだった。
季節は真冬。真冬のコートやマフラーを着用しているとはいえ、煖房のきいた心地良い部屋で過ごしてきた聖花にとっては、この気温や寒風は応えるだろう。
「聖花、大丈夫?」
白姫はカタカタと身体を震わせる聖花の手を握りしめたまま問う。
「だ、大丈夫。平気」
そう笑顔を浮かべる聖花だが、左手の指先で何度も両頬を交互に擦るという、可笑しな行動を繰り返していた。
「どうしたの? さっきから頬を擦っているようだけど。痛いの?」
白姫はそう問いながら、心配そうに聖花の顔を覗き込む。
「痛いというか、なんか、こそばゆいんよ」
聖花はそう答えながら白姫の手から自身の手を離し、両手で顔全体を撫でるように掻く。その姿はまるで小動物のようだった。
♪ジャリ。
小石を踏むような音が辺りに響く。
その場から一歩も動いていない聖花と白姫が出した音ではない。
「⁉」
ビクリと両肩を震わせる聖花は、勢いよく身体全体で振り向く。
聖花は音を鳴らした主が良く知る人物であることが分かると、ほっと胸を撫で下ろした。
「パパ、気配を殺して近づいてこないでよ。驚くじゃない」
音の正体に気づいていたような余裕を見せる白姫は、首を竦めながらそう言って、身体全体で振り向く。
「これくらいで驚いていては騎士失格です。背中にも目をつけなさい、と教えられてきたはずですよ」
「観えているわよ。しっかりと」
白姫は遠方の夜空を見上げる。白姫には何かが観え、何かを感じているようだった。
「それなら結構。で、貴方の方はどうですか? 三年振りの外の世界。何か感じ方が変わっていたりしますか? 些細な音に気がつくようにはなっているようですけど」
「はい。聴覚は恭稲探偵事務所で暮らすようになってから、どんどん敏感になって言っている気がしていました。それと、外に出てから肌がこそばゆいです」
「音に溢れた世界から数年ものあいだ離れていたからですね。事務所ではバイクや車一台走る音さへ届きませんし、BGMをかけているわけでもありません。貴方もスマートフォンを自由に使用できるわけではなかった。きっと交通音が今まで以上に大きく感じることでしょう。肌については、三年振りに外気の風に晒されたため、肌が驚いているのでしょう。他には何かありますか?」
智白は冷静な口調でそう言って、聖花の感覚を知るため、質問を続ける。
「……匂い」
聖花は左拳を口元に当ててしばらく考え、ぽそりと呟く。
「匂い?」
智白はより深い答えを求めるように問い返す。
「木々や土、風や水、三年前には感じきれていなかった自然の香りを色濃く感じるように思います」
聖花はどこか自身への関心が含まれる口調で答える。
「そうですか」
智白は一人納得したように頷き、それ以上は何も問うことはなかった。
「……ところで、ここは伏見稲荷大社内ですか?」
聖花が白姫に連れられた場所は、奥社奉拝所付近だった。右を向けば懐かしの千本鳥居の鳥居がいくつか見えている。
「えぇ。起き上がりの松の道です。ついて来て下さい。貴方に与えたい智恵があります」
そう言って、智白は道の先を歩む。
「ま、待って下さい」
聖花は慌ててついて行こうとするも、その足取りは何処か覚束ない。なんの障害物もない平坦な部屋をスリッパで過ごす日々の感覚と、重量感のある靴を履いた足を上下させて踏みしめるアスファルトや、砂利道や小石が転がる道の上を歩むのは、普段より勝手が違うのだろう。
今まで普通に過ごしていた日々を失った三年間の感覚を取り戻すのには、まだ少し時間がかかりそうだ。
聖花がこけそうになってもすぐに支えられるように、白姫が聖花の左横に寄り添って歩く。
†
ほどなくして、智白が能鷹社付近にある新池の前で足を止める。
「智白さん?」
聖花は足を止めた意味を求めるように、智白の名を呼ぶ。
「あの池を見て下さい」
智白は視線で目の前に広がる池を指し、自身は新池の前にあるフェンス柱に右腰を軽く預けた。
「この池が何か?」
聖花はより深い説明を求めながら、池に歩み寄った。
池の前方を囲むように生えている木々から枝垂れる草木達が、冬の風に踊らされている。
「ココをただの池だと思わぬことです」
「どういうことですか?」
聖花が智白の話に耳を傾けているあいだ、白姫は薙刀を握り直して戦闘態勢に入る。いついかなる時も、気は抜けないのだろう。
「この池は、探し物や探し人の居場所を教えてくれる。と言う謂《いわ》れがあります」
「そんな話し、初めて聞きましたけど」
「知っている人は知っています。貴方が知らないのは、貴方が今まで知ろうとしなかっただけ。調べればいくらでも知りえることです」
「……えっと、無知で面目ないです」
聖花は智白の言葉に、しょんぼりと身を縮こませる。
「無知なことは恥じることでも、申し訳なく思うことでもないと思いますけど」
「?」
「無知と言うのは、ある意味完璧な状態です。0は無限の数字であり、宇宙数。無知だからこそ、無敵になれることもあります。知らぬが仏と言うこともあります。この世の叡智を自身に取り込めるだけ取り込んだ後に、崩壊することもあります。自身に必要な知恵は、その者が本当に必要とするタイミングで知り得られるようになっています。貴方が自身のことを知った時のように。全ての事柄は、完璧なタイミングで動いているのですよ」
「……全てが、完璧なタイミングだったと?」
「えぇ。それに、貴方が無知で記憶力が乏しいことは皆(みな)が知っています。今さら恥じることではありません」
智白はそう言って微苦笑する。
聖花は智白の相も変わらずな失礼な物言いに対し、ムッとする。
「よいではありませんか。貴方には私がついているのです。必要な知識であるならば、私がいくらでも知恵を授け、覚え込ませてあげますよ」
智白はそう言って口元に弧を描く。
「えっと、ぁ、ありがとうございます」
聖花はその何処か戦々恐々を感じさせる智白の笑みに怯え、半歩後ずさりながらお礼を言った。
「さて、話を戻しましょう」
「はい」
聖花は智白の言葉に頷き、また耳を傾ける。
「新池は別名、谺(こだま)ケ(け)池(いけ)とも言われています。行方知らずになった人や物の居場所を探す際、谺ケ池の前で両手を重ね、その物や人を心に想いながら二回手を鳴らし、音(こだま)が返ってきた方角に手がかりや、その物や者がいる。という言い伝えがあります」
「だから、谺ケ池と言われているのでしょうか?」
「そうでしょうね。昔は警察警備もなかった時代です。神に縋るしか方法がなかったのでしょう。また、誰にも言えぬ物や者のことを問うたとしても、誰にも知られることがありません」
「ということは、あやかしにも?」
いい着眼点の元に問う聖花の瞳は好奇心で輝いていた。
「かもしれませんね」
「へぇ~。なんだか凄いですね。だけど、私にはもうそんな者も人もいません。両親の名前を教えてくれたらいいんですけど。こぉ~、池に文字が浮かび上がって衝撃的! みたいな感じ――ん?」
池を覗き込んだ聖花は言葉の途中で言葉を止める。
「どうされましたか? またおとぼけ顔を晒して」
「そんな顔晒していません~!」
聖花は智白の物言いにムッとし、子供のように言い返す。
「そうですか? ならどういう顔だったんですか?」
「……ふ、不思議な顔?」
小首を傾げながら答える聖花の顔は、やはりどこか抜けていた。
「何か不思議な事でも?」
「いや……なんか今、変な匂いしませんでしたか?」
「と、言いますと?」
「なんか獣ぽい」
「ぇ⁈ 私?」
今まで黙っていた白姫は、焦ったように自身の腕を左右交互に嗅ぐ。
「ぇ⁈ ち、ちゃうで! 白姫はいつもいい香りやもん」
聖花は慌ててフォローする。
「そう? ならいいんだけど。じゃあ、パパの年齢からくる例の……」
「違いますよ。失礼ですね」
急に鉾先を自身に向けられた智白は瞬時に否定した。
「智白さんでもあらへん」
「じゃぁ、どこから?」
「ん〜…私の気のせいかもしれん。可笑しなこと言ってごめん」
白姫から深く問われて自身の感覚に自信を無くした聖花は、すぐに自分の言葉を撤回した。
「貴方が感じた違和感を大切にしなさい。五感だけではなく、第六感、第七感と使えるようにしなさい。それと、自身が感じ取ったことを周りや左脳の言葉によって、直ぐに気のせいだと片付けないことです。今後は貴方の感覚が貴方の助けとなり、自身を救う力となるでしょうから」
「……はい」
聖花は自信なさげに頷く。
「さぁ、二人はもう帰りなさい」
「ぇ、もう?」
白姫は今来たばかりじゃない! とでも言いたげに目を見開く。
「いきなり長時間の外出はよろしくありませんし、時間も時間です。帰って早く寝なさい。今後は幾度となく外の世界に出られるのですから」
「分かりました」
聖花は素直に頷き、白姫は少し不服気に頷く。
「じゃあ聖花、今日のところは帰ろうか」
「うん」
聖花は差し出された白姫の手に、自身の右手をそっと添えた。
白姫は聖花の右手をぎゅっと握り、薙刀で宙に円を描き、呪文を唱える。
「汝、我が望みの地へと送り届けたし」
白姫が呪文を唱え終えた瞬間、二人は白の光に包まれ、その場から姿を消した。
一人その場に残った智白は、スーツの内ポケットから一枚の呪符を取り出す。口元に呪符を微かに当てながら、淀みなく呪文を唱える。
「汝、我らが残し痕跡を水に流し、葬りたし」
智白は想いを呪符に込めると、持っていた呪符を空高く飛ばす。
その後、人差し指と中指だけ宙に突き出した右手で“雨”という文字を走り書きするように描き、指を一つ鳴らす。
その音が合図のように、辺りに白光している浄化の雨が降り注ぐ。
「さて、と……。これから忙しくなりますね。私も早く帰って、ひと時の睡眠でも取るとしましょうか」
智白は溜息混じりにそう言って歩き出す。
智白は白姫のようにワープの力を多様しない。
本殿奥の鳥居前に稲荷の銅像が二体いる場所まで、自らの足で出向く。
その二体の銅像の左側。巻物を咥えるお稲荷様の巻物には願い人に対し、どんな願いも叶えるという稲荷の秘法や知恵が収められている。そしてその銅像は、智白の仕事場とも言えるだろう。
本殿奥の鳥居前にお稲荷様の銅像が二体いる場所までやってきた智白は、浄化の雨によってずぶ濡れだ。
雨に濡れて額に張り付くウィッグを鬱陶し気に右手で払う智白は、巻物を咥えるお稲荷様の前に立つ。
「我、ここの主人なり。我が身を今いるべき場所に戻らせたし」
智白がそう唱え終えた瞬間、銅像と智白は白光に包まれる。ほどなくして、智白は目の前の銅像に吸い込まれてしまった。
その後、浄化の雨は太陽が昇るまで振り続けるのであった。
†
「白様」
ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が、深夜三時の恭稲探偵事務所に響く。
本革と天然木が融合される高級感溢れるダークブラウン色のレザーチェアに、持て余すように長い足を組み、凛とした姿勢のままパソコンを操作していた二十代後半程の青年、恭稲白が顔を上げる。
真ん中分けセミロングにセットされた白髪、目尻や口元にほんのりと年齢を感じるも人間離れした整った顔立ちを持つ男性の姿を白の瞳が捉える。
浄化の雨によりずぶ濡れとなっていた智白だったが、一度シャワーを浴びて身なりを整え終えていたため、いつもの姿に戻っていた。
「二人は?」
「眠っています」
「そうか。碧海聖花に何か変化は?」
「三年間外の世界から遮断されていた分、ずいぶんと五感が発達したようですね。その分、筋力と体力の衰えを感じます」
智白は現在聖花が持つ身体機能を調べるために歩かせた、起き上がりの松の道での聖花の歩みを脳裏に浮かべ、そう答える。
「五感が発達しているならそれでいい。後者は後からどうとでもなる」
「白様の読み通り、碧海聖花はよく鼻が聞くようですね」
「だろうな。まだ未発達の状態から、例のチョコレートに混入されていた毒薬の匂いを嗅ぎ分けたのだから」
例のチョコレートというのは、碧海雅博のいとこである津田に扮するモノが、碧海家へのお土産として渡したチョコレートのことだろう。
但し、そのチョコレートの正体は美味しいモノではなく、恐怖の対象でしかなかった。ほとんどの人間が気がつくことが出来ない、青酸カリが含まれていたのだから。
聖花がそのアーモンド臭に気がつくことがなければ、碧海家は全員毒殺されていたことだろう。
「それで、これからどうするおつもりですか?」
智白は少し煌めきが薄れたパープルスピネルを彷彿とさせる瞳で、白の考えを汲み取るようにじっと見つめる。
「碧海聖花で誘き寄せろ」
「餌に使えと?」
智白は白の言葉に、右眉尻をピクリと上げる。
「あちらを動かすには格好の餌となるからな。それと、白姫に碧海聖花の戦闘能力をつけさせておけ。どういった家系であったとしても、黒妖狐の血が流れている以上はある程度の戦闘能力があるはずだろうからな。必要とあらば、智慧を授けろ。いつまでも温室に咲く蘭状態で過ごしていては、この先生きては行けない」
「承知いたしました。では、その様に手配してまいります」
智白は白の言葉に動揺することもなく、白の指示を飲む。
「嗚呼」
白は一つ頷き、パソコンモニターに視線を戻した。
恭稲探偵事務所へ誘導する例の動画を送るため、新たなる依頼者を吟味しているのだろう。
そんな白の様子を暫し見つめていた智白は、高さ174cm、横幅95cm、奥行き50cmほどの英国クラシックなブックシェルフの前に歩み寄る。
必要な物を取り出すため、スーツの左ポケットから鍵を取り出し、ガラス引き戸書庫を開ける。
下段には、ワインレッド色のシステム手帳が十冊収納されており、上段には、牛革で作られたA五サイズのほどの白色が印象的なシステム手帳が三冊収納されていた。
智白はそこから三冊目にあたる手帳を手に取り、またガラス引き戸書庫に鍵をかけ、その場を後にした。
一人残された白は、引き続き、新たなる依頼者を吟味し続けるのであった。
無事にワープを終え、外の世界に飛び出してきた聖花の第一声はそれだった。
季節は真冬。真冬のコートやマフラーを着用しているとはいえ、煖房のきいた心地良い部屋で過ごしてきた聖花にとっては、この気温や寒風は応えるだろう。
「聖花、大丈夫?」
白姫はカタカタと身体を震わせる聖花の手を握りしめたまま問う。
「だ、大丈夫。平気」
そう笑顔を浮かべる聖花だが、左手の指先で何度も両頬を交互に擦るという、可笑しな行動を繰り返していた。
「どうしたの? さっきから頬を擦っているようだけど。痛いの?」
白姫はそう問いながら、心配そうに聖花の顔を覗き込む。
「痛いというか、なんか、こそばゆいんよ」
聖花はそう答えながら白姫の手から自身の手を離し、両手で顔全体を撫でるように掻く。その姿はまるで小動物のようだった。
♪ジャリ。
小石を踏むような音が辺りに響く。
その場から一歩も動いていない聖花と白姫が出した音ではない。
「⁉」
ビクリと両肩を震わせる聖花は、勢いよく身体全体で振り向く。
聖花は音を鳴らした主が良く知る人物であることが分かると、ほっと胸を撫で下ろした。
「パパ、気配を殺して近づいてこないでよ。驚くじゃない」
音の正体に気づいていたような余裕を見せる白姫は、首を竦めながらそう言って、身体全体で振り向く。
「これくらいで驚いていては騎士失格です。背中にも目をつけなさい、と教えられてきたはずですよ」
「観えているわよ。しっかりと」
白姫は遠方の夜空を見上げる。白姫には何かが観え、何かを感じているようだった。
「それなら結構。で、貴方の方はどうですか? 三年振りの外の世界。何か感じ方が変わっていたりしますか? 些細な音に気がつくようにはなっているようですけど」
「はい。聴覚は恭稲探偵事務所で暮らすようになってから、どんどん敏感になって言っている気がしていました。それと、外に出てから肌がこそばゆいです」
「音に溢れた世界から数年ものあいだ離れていたからですね。事務所ではバイクや車一台走る音さへ届きませんし、BGMをかけているわけでもありません。貴方もスマートフォンを自由に使用できるわけではなかった。きっと交通音が今まで以上に大きく感じることでしょう。肌については、三年振りに外気の風に晒されたため、肌が驚いているのでしょう。他には何かありますか?」
智白は冷静な口調でそう言って、聖花の感覚を知るため、質問を続ける。
「……匂い」
聖花は左拳を口元に当ててしばらく考え、ぽそりと呟く。
「匂い?」
智白はより深い答えを求めるように問い返す。
「木々や土、風や水、三年前には感じきれていなかった自然の香りを色濃く感じるように思います」
聖花はどこか自身への関心が含まれる口調で答える。
「そうですか」
智白は一人納得したように頷き、それ以上は何も問うことはなかった。
「……ところで、ここは伏見稲荷大社内ですか?」
聖花が白姫に連れられた場所は、奥社奉拝所付近だった。右を向けば懐かしの千本鳥居の鳥居がいくつか見えている。
「えぇ。起き上がりの松の道です。ついて来て下さい。貴方に与えたい智恵があります」
そう言って、智白は道の先を歩む。
「ま、待って下さい」
聖花は慌ててついて行こうとするも、その足取りは何処か覚束ない。なんの障害物もない平坦な部屋をスリッパで過ごす日々の感覚と、重量感のある靴を履いた足を上下させて踏みしめるアスファルトや、砂利道や小石が転がる道の上を歩むのは、普段より勝手が違うのだろう。
今まで普通に過ごしていた日々を失った三年間の感覚を取り戻すのには、まだ少し時間がかかりそうだ。
聖花がこけそうになってもすぐに支えられるように、白姫が聖花の左横に寄り添って歩く。
†
ほどなくして、智白が能鷹社付近にある新池の前で足を止める。
「智白さん?」
聖花は足を止めた意味を求めるように、智白の名を呼ぶ。
「あの池を見て下さい」
智白は視線で目の前に広がる池を指し、自身は新池の前にあるフェンス柱に右腰を軽く預けた。
「この池が何か?」
聖花はより深い説明を求めながら、池に歩み寄った。
池の前方を囲むように生えている木々から枝垂れる草木達が、冬の風に踊らされている。
「ココをただの池だと思わぬことです」
「どういうことですか?」
聖花が智白の話に耳を傾けているあいだ、白姫は薙刀を握り直して戦闘態勢に入る。いついかなる時も、気は抜けないのだろう。
「この池は、探し物や探し人の居場所を教えてくれる。と言う謂《いわ》れがあります」
「そんな話し、初めて聞きましたけど」
「知っている人は知っています。貴方が知らないのは、貴方が今まで知ろうとしなかっただけ。調べればいくらでも知りえることです」
「……えっと、無知で面目ないです」
聖花は智白の言葉に、しょんぼりと身を縮こませる。
「無知なことは恥じることでも、申し訳なく思うことでもないと思いますけど」
「?」
「無知と言うのは、ある意味完璧な状態です。0は無限の数字であり、宇宙数。無知だからこそ、無敵になれることもあります。知らぬが仏と言うこともあります。この世の叡智を自身に取り込めるだけ取り込んだ後に、崩壊することもあります。自身に必要な知恵は、その者が本当に必要とするタイミングで知り得られるようになっています。貴方が自身のことを知った時のように。全ての事柄は、完璧なタイミングで動いているのですよ」
「……全てが、完璧なタイミングだったと?」
「えぇ。それに、貴方が無知で記憶力が乏しいことは皆(みな)が知っています。今さら恥じることではありません」
智白はそう言って微苦笑する。
聖花は智白の相も変わらずな失礼な物言いに対し、ムッとする。
「よいではありませんか。貴方には私がついているのです。必要な知識であるならば、私がいくらでも知恵を授け、覚え込ませてあげますよ」
智白はそう言って口元に弧を描く。
「えっと、ぁ、ありがとうございます」
聖花はその何処か戦々恐々を感じさせる智白の笑みに怯え、半歩後ずさりながらお礼を言った。
「さて、話を戻しましょう」
「はい」
聖花は智白の言葉に頷き、また耳を傾ける。
「新池は別名、谺(こだま)ケ(け)池(いけ)とも言われています。行方知らずになった人や物の居場所を探す際、谺ケ池の前で両手を重ね、その物や人を心に想いながら二回手を鳴らし、音(こだま)が返ってきた方角に手がかりや、その物や者がいる。という言い伝えがあります」
「だから、谺ケ池と言われているのでしょうか?」
「そうでしょうね。昔は警察警備もなかった時代です。神に縋るしか方法がなかったのでしょう。また、誰にも言えぬ物や者のことを問うたとしても、誰にも知られることがありません」
「ということは、あやかしにも?」
いい着眼点の元に問う聖花の瞳は好奇心で輝いていた。
「かもしれませんね」
「へぇ~。なんだか凄いですね。だけど、私にはもうそんな者も人もいません。両親の名前を教えてくれたらいいんですけど。こぉ~、池に文字が浮かび上がって衝撃的! みたいな感じ――ん?」
池を覗き込んだ聖花は言葉の途中で言葉を止める。
「どうされましたか? またおとぼけ顔を晒して」
「そんな顔晒していません~!」
聖花は智白の物言いにムッとし、子供のように言い返す。
「そうですか? ならどういう顔だったんですか?」
「……ふ、不思議な顔?」
小首を傾げながら答える聖花の顔は、やはりどこか抜けていた。
「何か不思議な事でも?」
「いや……なんか今、変な匂いしませんでしたか?」
「と、言いますと?」
「なんか獣ぽい」
「ぇ⁈ 私?」
今まで黙っていた白姫は、焦ったように自身の腕を左右交互に嗅ぐ。
「ぇ⁈ ち、ちゃうで! 白姫はいつもいい香りやもん」
聖花は慌ててフォローする。
「そう? ならいいんだけど。じゃあ、パパの年齢からくる例の……」
「違いますよ。失礼ですね」
急に鉾先を自身に向けられた智白は瞬時に否定した。
「智白さんでもあらへん」
「じゃぁ、どこから?」
「ん〜…私の気のせいかもしれん。可笑しなこと言ってごめん」
白姫から深く問われて自身の感覚に自信を無くした聖花は、すぐに自分の言葉を撤回した。
「貴方が感じた違和感を大切にしなさい。五感だけではなく、第六感、第七感と使えるようにしなさい。それと、自身が感じ取ったことを周りや左脳の言葉によって、直ぐに気のせいだと片付けないことです。今後は貴方の感覚が貴方の助けとなり、自身を救う力となるでしょうから」
「……はい」
聖花は自信なさげに頷く。
「さぁ、二人はもう帰りなさい」
「ぇ、もう?」
白姫は今来たばかりじゃない! とでも言いたげに目を見開く。
「いきなり長時間の外出はよろしくありませんし、時間も時間です。帰って早く寝なさい。今後は幾度となく外の世界に出られるのですから」
「分かりました」
聖花は素直に頷き、白姫は少し不服気に頷く。
「じゃあ聖花、今日のところは帰ろうか」
「うん」
聖花は差し出された白姫の手に、自身の右手をそっと添えた。
白姫は聖花の右手をぎゅっと握り、薙刀で宙に円を描き、呪文を唱える。
「汝、我が望みの地へと送り届けたし」
白姫が呪文を唱え終えた瞬間、二人は白の光に包まれ、その場から姿を消した。
一人その場に残った智白は、スーツの内ポケットから一枚の呪符を取り出す。口元に呪符を微かに当てながら、淀みなく呪文を唱える。
「汝、我らが残し痕跡を水に流し、葬りたし」
智白は想いを呪符に込めると、持っていた呪符を空高く飛ばす。
その後、人差し指と中指だけ宙に突き出した右手で“雨”という文字を走り書きするように描き、指を一つ鳴らす。
その音が合図のように、辺りに白光している浄化の雨が降り注ぐ。
「さて、と……。これから忙しくなりますね。私も早く帰って、ひと時の睡眠でも取るとしましょうか」
智白は溜息混じりにそう言って歩き出す。
智白は白姫のようにワープの力を多様しない。
本殿奥の鳥居前に稲荷の銅像が二体いる場所まで、自らの足で出向く。
その二体の銅像の左側。巻物を咥えるお稲荷様の巻物には願い人に対し、どんな願いも叶えるという稲荷の秘法や知恵が収められている。そしてその銅像は、智白の仕事場とも言えるだろう。
本殿奥の鳥居前にお稲荷様の銅像が二体いる場所までやってきた智白は、浄化の雨によってずぶ濡れだ。
雨に濡れて額に張り付くウィッグを鬱陶し気に右手で払う智白は、巻物を咥えるお稲荷様の前に立つ。
「我、ここの主人なり。我が身を今いるべき場所に戻らせたし」
智白がそう唱え終えた瞬間、銅像と智白は白光に包まれる。ほどなくして、智白は目の前の銅像に吸い込まれてしまった。
その後、浄化の雨は太陽が昇るまで振り続けるのであった。
†
「白様」
ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が、深夜三時の恭稲探偵事務所に響く。
本革と天然木が融合される高級感溢れるダークブラウン色のレザーチェアに、持て余すように長い足を組み、凛とした姿勢のままパソコンを操作していた二十代後半程の青年、恭稲白が顔を上げる。
真ん中分けセミロングにセットされた白髪、目尻や口元にほんのりと年齢を感じるも人間離れした整った顔立ちを持つ男性の姿を白の瞳が捉える。
浄化の雨によりずぶ濡れとなっていた智白だったが、一度シャワーを浴びて身なりを整え終えていたため、いつもの姿に戻っていた。
「二人は?」
「眠っています」
「そうか。碧海聖花に何か変化は?」
「三年間外の世界から遮断されていた分、ずいぶんと五感が発達したようですね。その分、筋力と体力の衰えを感じます」
智白は現在聖花が持つ身体機能を調べるために歩かせた、起き上がりの松の道での聖花の歩みを脳裏に浮かべ、そう答える。
「五感が発達しているならそれでいい。後者は後からどうとでもなる」
「白様の読み通り、碧海聖花はよく鼻が聞くようですね」
「だろうな。まだ未発達の状態から、例のチョコレートに混入されていた毒薬の匂いを嗅ぎ分けたのだから」
例のチョコレートというのは、碧海雅博のいとこである津田に扮するモノが、碧海家へのお土産として渡したチョコレートのことだろう。
但し、そのチョコレートの正体は美味しいモノではなく、恐怖の対象でしかなかった。ほとんどの人間が気がつくことが出来ない、青酸カリが含まれていたのだから。
聖花がそのアーモンド臭に気がつくことがなければ、碧海家は全員毒殺されていたことだろう。
「それで、これからどうするおつもりですか?」
智白は少し煌めきが薄れたパープルスピネルを彷彿とさせる瞳で、白の考えを汲み取るようにじっと見つめる。
「碧海聖花で誘き寄せろ」
「餌に使えと?」
智白は白の言葉に、右眉尻をピクリと上げる。
「あちらを動かすには格好の餌となるからな。それと、白姫に碧海聖花の戦闘能力をつけさせておけ。どういった家系であったとしても、黒妖狐の血が流れている以上はある程度の戦闘能力があるはずだろうからな。必要とあらば、智慧を授けろ。いつまでも温室に咲く蘭状態で過ごしていては、この先生きては行けない」
「承知いたしました。では、その様に手配してまいります」
智白は白の言葉に動揺することもなく、白の指示を飲む。
「嗚呼」
白は一つ頷き、パソコンモニターに視線を戻した。
恭稲探偵事務所へ誘導する例の動画を送るため、新たなる依頼者を吟味しているのだろう。
そんな白の様子を暫し見つめていた智白は、高さ174cm、横幅95cm、奥行き50cmほどの英国クラシックなブックシェルフの前に歩み寄る。
必要な物を取り出すため、スーツの左ポケットから鍵を取り出し、ガラス引き戸書庫を開ける。
下段には、ワインレッド色のシステム手帳が十冊収納されており、上段には、牛革で作られたA五サイズのほどの白色が印象的なシステム手帳が三冊収納されていた。
智白はそこから三冊目にあたる手帳を手に取り、またガラス引き戸書庫に鍵をかけ、その場を後にした。
一人残された白は、引き続き、新たなる依頼者を吟味し続けるのであった。