一週間後――。
♪コンコンコン
「はい」
ノック音に聖花が反応する。白姫は部屋にいない。愛梨と同じ大学に通い、愛梨を守護しているため、日中はほぼ不在なのだ。
「白様がお呼びです」
「はい。すぐ行きます」
智白の言葉に聖花は即答する。
その言葉通り聖花は鏡で身だしなみを整えてから、白の元に向かった。
聖花が部屋を出ると、白はいつものレザーチェアに悠然と腰掛けていた。座っているだけにも関わらず、その圧倒的オーラに息がつまりそうだ。
「貴方はそこに腰掛けなさい」
智白はふかふかしたクッションを、ベアロ調の深紅の生地が包んでいる三人掛けのアンティークソファの真ん中を指差す。
「はい」
聖花は智白に促されるまま、指示された場所に浅く腰を下ろし、硬直する。
美しいハンドメイドの長方形の猫脚コーヒーデスクを挟み、同じ種類の一人掛けソファが置かれてはいるが、そこは空席になっていた。
「碧海聖花、いつまでも怯える小動物さが抜けぬな。そんなに私が恐ろしいか?」
「ぇ? いや、恐ろしいというか……なんというか。世界が違いすぎて息が絶え絶えと言いますか……」
「ほぉ、では私は恐ろしくはないと?」
「‼」
聖花は意味深で妖美な笑みを浮かべる白に目を見開き、硬直する。まるで、メデューサに睨まれた獲物だ。
「さて、お遊びはこれくらいにしとおこう。碧海聖花に多く割いている時間はない」
「……お忙しいなら、遊ばへんといて下さいよ」
聖花は思わず、ぽそりと文句を垂れてしまう。
「何か言ったか?」
「! ぃ、いえ何も」
聖花は白の地獄耳に、慌てて首をぶんぶんと勢い良く左右に振った。
「新しい赤べこのようですね」
少し離れて二人の様子を見ていた智白は、聖花の姿を赤べことリンクさせ、ほくそ笑む。
白姫や白樹がいない今、聖花は二人の玩具とかしていた。
「さて、本題に入ろう」
白は遊びの時間は終わりだとばかりに、場の空気を変えた。
「はい」
聖花は姿勢を正す。
「碧海聖花。本日より、恭稲探偵事務所で働いてもらう」
「……私が?」
聖花は聞き間違いではないかと視線をさ迷わせ、再確認するためオウム返しをする。
「ずっと引き篭もっているつもりだったのか? 命尽きる日までずっと。だとしたら、何のために修行を重ねて来た?」
「いや、それは……。ずっと引き篭もっているつもりはないですけども……私に務まるわけがないと言いますか……」
聖花は視線をさ迷わしながら、歯切れ悪く答える。
「仕事の成果に期待などしていない。出来るか出来ないかではない。碧海聖花はもう戻ることも止まることも出来ぬ。自身の事を知り得るとき、そう覚悟したはずだ」
――どんな真実も受け入れる覚悟だ。人は一度知りえたコトを完全に消すことは出来ない。例え忘れようとしたとしても、けして忘れられぬだろう。その真実の衝撃が強ければ強いほどにな。
――……私はすでに大きな事実を知りました。知らなかったときの私には二度と戻れないと感じています。すでに戻れないのならば、進むしかない。教えて下さい。真実を。今起こっている全ての出来事を。
聖花の脳裏に過去の出来事がフラッシュバックする。
初めて恭稲探偵事務所に訪れ、自身のことについて知る時のことを。
「私に務まるか分かりませんが、最大限努めたいと思います」
「嗚呼。そこまで肩肘張ることはない。智白と白姫がサポートにつく」
「貴方の一挙手一投足が恭稲探偵事務所の信用に関わりますし、貴方自身が地獄を見ることがありますからね」
「こ、怖いこと言わないで下さいよ」
智白の脅かしに聖花は肝を冷やす。
「まぁ、嘘でも冗談でもない話だな」
白はフォローするどころか、更に肝を冷やさせる。
「……憂鬱さが増すのですが。私に務まるかもわかりませんし」
「いずれなれる。今は脳が勝手にそう思わせているだけだ。人やモノは変化を嫌う生き物だからな」
「脳が勝手に思わせているとは、どういうことですか?」
「心理的ホメオスタシスが要因だ」
「?」
「またお得意の間抜け顔か。成長せぬな」
白は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「一応、成長はしていると思うのですが……」
聖花はしょんぼりと肩を落とす。
「人は生きている限り、放っておいても成長する生き物だ。その成長の度合いはその者によるがな。いかにホメオスタシスに勝利してゆくかがポイントになってくる」
「ホメオスタシス。とは何なんですか?」
聖花は小首を傾げ問う。全く理解していないようだ。
「恒常性とも言われているものだ。簡潔に言うならば、ホメオスタシス=体内の状態を一定に保つことをさす。生きてゆく上で重要な性質のひとつではあるが、変化を求めるときには、足枷となることが多々ある。
ホメオスタシスには、環境の変化や対人的なストレスに十分適応するための能力が備わっている。だが、変化を求めて行動するで、そのバランスが崩れると、ストレスに対応できずに、心身に不調をもたらすことがある。
変化する為に一歩踏み出すまでは、あーだこーだと脳が変化させない為の理由を作り上げ、アクセルとブレーキを同時に踏む混む時間が続く。
いざ変化するためにアクセルを踏み込んだとて、脳は元の生活に戻そうと、様々なトラブルを起こさせる。
機嫌よく減量が出来ている思えば、甘い誘惑がかかったり、自分を甘やかす自分の声が脳裏で響き渡る。風邪など不調を起こし、やっぱり減量などするものではないのだと思わせ、元の生活に戻させることもあるだろう。ある種の好転反応とも言える。
変化することは命に関わることだと、脳が警告しているのだ。人間が持つ生存本能とも言える。生存本能と変化をしたい人間のエゴの戦いだ。
この心理的ホメオスタシスに勝利しなければ、本当に変わることは出来ぬだろう。人の習慣等は二十一日続ければ変化する。それまで強い意志で進むだけでいい」
白は淀みなく、流暢な口調で答える。
「進むだけでいいって……」
そんな簡単な、と思う言葉は飲み込む聖花だった。
「ならば、ずっとそこで一歩も動かず、一つも変化をしない生活を送り続けるか?」
「す、進みます。変わります」
「最善の選択だな」
白は小さく頷く。
「私はこれから、何をしてゆけばいいんですか?」
「まずは、その名前を捨ててもらう」
「ぇ?」
聖花は、どういうことですか? と、怪訝な顔をする。
「そもそも、碧海聖花は三年前、この世から消えた。にも拘わらず、同姓同名を突き通すのか?」
「それは……そうかもしれませんけど。だけど、他の名前なんてありません。芸能人でもないのに」
「なければ作ればいいだけのこと」
「作ればいい? そんな簡単に。そもそも偽名で生きることは犯罪です」
「存在しないものが犯罪もなにもない。それに、裏社会で生きていくということはそういうことだ。それとも、ここで動けなくなるほどの甘い覚悟で踏み込んできたのか? 戻るべき過去の居場所は存在せぬことを忘れるな」
「……」
聖花は自分の考えや覚悟は甘かったのかもしれないと、言葉を無くす。恐れと不安が聖花の心をざわつかせた。
それでも、時は止まってはくれないし、戻ってもくれない。
「碧海聖花。今後は、藍凪《あいなぎ》慶《けい》と名乗り、生きていてもらう。我々も、今このときより、藍凪慶として接する。それに伴い、新たなる契約書にサインを示してもらう。もちろん、答えは……理解しているな?」
「はい」
本当に後戻りも、立ち止まり続けることもできない所まで来てしまったのだと再実感した聖花の瞳に、戸惑いや不安の揺らぎはなかった。
「智白、あれを」
「はい」
智白は白の指示の元、聖花の机の前に、一台のパソコンとスマホを置いた。
「これは?」
「今後、これらが貴方の仕事道具となります。娯楽のために渡したのではないことを忘れぬように」
「は、はい」
早々に忠告を受けた聖花は、どもりながら返事をする。
「スマホを起動させ、トークアプリ、kutouを開いて下さい。スマホ起動パスワードは18591008です。トークアプリのパスワードは、トーク者によって変わりますので、追々説明してゆきます」
「そんなトークアプリ、聞いたこともないですけど」
聖花は恐る恐るスマホを手にする。自分専用のスマホを持つのは三年振りのことだった。
「当たり前です。kutouは白樹が製作したもので、恭稲探偵事務所の関係者以外のもの達は、存在すら知り得ません」
「白樹さんって、一体なにものなんですか? アプリ開発者、とか?」
「アプリ開発も行います」
「も?」
智白の言葉に引っ掛かりを感じた聖花は、さらに質問を返す。
「まぁ、おいおい知ることになるでしょうから、今は気にすることもないでしょう。今は、今の貴方が成すべきことに集中して下さい」
「はい」
聖花はそう頷き、スマホにパスコードを入力させて起動させる。
スマホ画面には基本機能アプリと、kutouのアプリしか入れらておらず、とてもシンプルで見やすい画面だった。
kutouのアプリには、すでに通知数一と表示されていた。
「一枚目の契約書にサイン後、改めて他の契約書が送信されます」
智白は聖花が質問する前にそう説明する。
「はい」
聖花は頷き、トークアプリを開いた。
そこにメッセージはなく、契約書のファイル画像だけが添付されていた。
聖花は一抹の不安を持ちながら、画像ファイルを開いた。
【恭稲探偵事務所が受け付けました碧海聖花との依頼は、藍凪慶に引き継がれます。
改めて、依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとする。
依頼者である碧海聖花改め、藍凪慶の命を狙う主犯が見つかり、安全に生活出来るまでのあいだ、藍凪慶と藍凪慶が大切に思う者達を守ろう。
それと並行して藍凪慶の本当の両親についての調査を行う。
その期間は、主犯が見つかり、根本を削除するまでの間とする。
また、この依頼に関する費用は不要とする。
※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んでもらう。それらに対する覚悟があるのなら、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信してもらおう。
一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。
二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。
三、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。
四、藍凪慶は契約終了までのあいだ、恭稲白の駒となる。
五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。
恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、藍凪慶は改めて承諾いたします。
依頼者 】
「……はい」
三年前に交わした契約内容を再確認することで、改めて聖花の覚悟が決まる。
全ては平穏に生きるため、大切な人達を守るためのことなのだと。今はまだ、光の中で生きるため、歩むために必要な暗いトンネルの中にいるだけであり、まだ道の途中なのだと思うことで、自身の心を前向きにさせた。
聖花はスマホの右横に装着されていたタッチペンを外し、ファイル画像にサインを記入し、送り主に送信する。
送り主である白からの既読マークは刹那でつき、二枚目の契約書ファイルデータ画像が送信される。
聖花は小さく息を吐き、恐る恐るデータ画像を開いた。
【一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。
二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。
三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう。
四、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。
五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。
恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、碧海聖花改め、藍凪慶は了承いたしますことをここに示します。
依頼者名
また、私は今後生きていくことや、恭稲探偵事務所で働くことにおきまして、以下の契約を守ります。
一 私は今これより、碧海聖花としての命を終え、今後は[藍凪慶]として生きてゆきます。
二 それに伴い、私は金輪際、碧海聖花の名を名乗りません。
三 恭稲探偵事務所で依頼者と関わる時においては、藍凪慶の名を隠し通します。そして、[Kei]という名で活動いたします。
四 己はもちろんのこと、他者が碧海聖花の名を口にした場合、連隊責任として、藍凪慶とその者は腕立て五十回+スクワット五十回いたします。
五 恭稲探偵事務所の業務中、髪色と瞳の色を変更いたします。
以上のことを守らなかった場合、恭稲探偵事務所から出ていくことを誓います。
契約書名 】
聖花は言葉を失った。
聖花の心は、なんて横暴な契約書や約束事なのだろうと思う反面、何も言い返す言葉もないと思う気持ちが同居していた。
「サインは藍凪慶と書けばいいんですか?」
聖花はチェアに座り、聖花の様子を流し見ていた白に問う。
「嗚呼。今回だけでなく、今後のサインもな」
「……わかりました」
少しの間を起き答える聖花は一つ息を吐く。
「死して生まれ変わるのが自然の通り。崩壊の先には、構築するしかない。そしてその構築物は、破壊されたものより強度で立派なものとなる」
白は聖花の気持ちを汲み取るように、一歩踏み出すことを後押しさせるような言葉をかける。
「……はい」
スマホについているタッチペンを使い、碧海聖花改め、藍凪慶と署名して、画像を白に送信した。
こうして、碧海聖花の存在は本当に姿を消した。
碧海聖花は藍凪慶として生まれ変わったのだ。
「これで、全ての契約書への署名は終了した。仕事については、依頼が来ればこちらから連絡する。もう戻って構わない。ご苦労」
白は珍しく労いの言葉をかけ、己の業務に戻る。
「はい。ありがとうございました。失礼します」
慶はそう言って、今しがた渡された端末達を手に立ち上がる。
「お誕生日、おめでとうございます。藍凪慶」
智白はどこか慶に寄り添うように、そういって微笑む。
慶は智白の気持ちを汲み取るがまだ気持ちが落ち着かず、力のない微笑みを返すしか出来なかった。
なんとも言えぬ空気の中、「ただいまぁ」と気の抜ける声音と共に、一人の女性が現れる。
胸下辺りまで伸びたハニーブラウン色に染められた髪を太めのコテで内巻きにさせ、ナチュラルなギャル感を感じさせるカラーコンタクトをつけ、ほどよくメイクを施した女性は、「汝、我が姿を、本来の姿へと戻らせたし」と呪文を唱える。
女性は白光に包まれ、白姫の姿へと変身した。先程までの姿は、人間界で大学生として生活する白姫の姿だったのだ。
「お帰りなさい、白姫」
「ただいま~聖花。って、あれ? 聖花が端末を持ってるってことは、もう名前が変わってるの?」
白姫は事前に話を聞いていたのか、そう問うた。
「えぇ。以後、藍凪慶の呼び名には気を付けることです」
白姫の問いに智白が答える。
「はーい。ということは、もうあれを渡していいってことよね? 白様」
「嗚呼、自分達の部屋でやれ」
「はーい」
「その前に白姫、藍凪慶、腕立てとスクワット格一〇〇回ずつしてから戻れ」
間延びした返事をしてこの場から去って行こうとする白姫を、白が鬼のような言葉で引き止める。
「ぇ⁉︎ どういうこと?」
白姫は恐ろしい言葉に目を見開き、誰か説明してくれとばかりに、視線をさ迷わせる。
「そういう契約やねん」
慶は先程の契約書データーを白姫に見せる。
「な、なるほど」
「さっさとやれ」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」
白姫は白のデスクに両掌をついて、異論を申し立てようとする。
「なんだ?」
「いくらなんでも、女の子に厳しすぎるペナルティーだと思います」
「ほぉ。白姫がそんな甘いことをいうとは、珍しいこともあるものだ。そんなに甘い姫扱いをして欲しかったのか?」
細長い人差し指の爪で白姫の顎先を救い、鼻先が近づくほど顔を近づける。
「ひぃやー〜△×〇▼☆彡●♡」
白姫は言葉にならない叫びを発しながら飛び退き、のたうち回るように、地面に倒れる。その顔や耳は茹でタコのように赤い。
「し、白姫……だ、大丈夫? 芸人顔負けの飛び去りやったけど」
慶は苦笑い交じりにそう言いつつ、白姫の傍に歩み寄ってしゃがみ込む。
「は、鼻血出そう」
「ぇ⁈」
思わぬ言葉に慶は目を点にさせる。
「品性のない言動はお辞めなさい! 白様もおもちゃにするのはお控え下さい」
「ふっ」
白はどこか楽しむように短な笑いを溢し、智白は左手の指先を額に当てて、長い溜息と共に首を左右に振った。まとめ役の智白の苦労が耐えぬことが伺える。
「き……。け、慶。腕立てするわよ」
白姫は聖花と言いそうになるのをグッと堪えて、そう言った。耳はまだ赤いが、花字が出ていないだけ幸いであろう。
「う、うん」
本当に大丈夫だろうかと白姫を心配気にして見つつも、慶は頷く。
こうして二人は、課されたペナルティーをこなし、自室に戻るのだった。
*
「ふぇ~。白様きびちぃ」
白姫は自室に入るなり、嘆くようにそう言ってデスクチェアに深く腰を下ろす。
「大丈夫?」
「私は全然平気。私のせいでごめんね。今後は気を付ける」
「ううん。私も白姫にペナルティを連帯させてしまわんように気をつけるな」
「うん。お互い気をつけましょう。どうせならあの二人もペナルティを負えばいいのに」
「……それは、絶対にないと思う。特に恭稲さんがそんな凡ミスするわけあらへん」
「そりゃそうよね」
白姫はクスクス笑い、慶を手招きした。
「どないしたん?」
「慶に渡したいものがあるのよ」
白姫はにまにま笑顔を見せながら、ホワイトカラーのAラインコートの内ポケットから、指輪ケースを取り出した。
「慶、これを」
「ぇ⁉ な、何? ぷ、プロポーズ⁈」
「して欲しいの?」
白姫はくすくすと笑う。
「……か、からかわんといてよ」
「ごめんごめん。開けて見て」
「うん」
慶は指輪ケースを開けて、小さな歓声を上げる。だがすぐに疑問が浮かぶ。なぜこれを私に? と言うように小首を傾げる。
「これは、碧海夫妻が大切に持っていたものよ」
「どういうこと?」
慶は怪訝な顔で問うた。
白姫が慶に手渡した物は、カラー宝石が二つ埋め込まれたゴールドリングだった。
一つの宝石は、晴れ渡る青空に雲が泳いでいるようなグラデーションが美しい、セレスタイト。その左横には、古来から水の結晶と例えられてきた無色透明が美しいクォーツが埋め込まれている。そのカラットは約二mmほどの控え目ではあるが、他の細工や装飾が施されていないシンプルな細いリングということもあり、カラー石の存在感が感じられた。
「この指輪は、孤児院に預けられた貴方が首に下げていたものよ。施設の担当さん曰く、ここに子供を預ける親御さんは、どうしても子を側に置けぬ事情の元、泣きながら預ける人もいる。
そういう人は、もし何処かで出会った時や、迎えに来たときにすぐに気がつくようにとか、親子との途切れない縁を祈って、その象徴となる物を一緒に預けることがある。貴方の場合、それがその指輪ってことよ」
白姫は穏やかな口調でそう説明する。
「そうやったんや……。全然知らんかった。当たり前なんやろうけど、そないな話し、二人から聞いたこともあらへんかった。せやけど、なんでこれがここに?」
「この指輪は赤ん坊の貴方の指には大きすぎて、ネックレスとしてつけられていた。響子さんはそれを、貴方が人間で亡くなっていなくなるまで。ずっと大切に持っていたのよ。貴方が二十歳になったら全てのことを話し、これを渡そうと思っていたと」
「なんでそれを知ってるん?」
「碧海夫妻には申し訳ないんだけど、今は二人の命を守るために、碧海家のテレビに特別な隠しカメラをつけさせてもらっているのよ。それと、夫妻のスマホには特別なウイルスを仕込み、二人を監視させてもらいながら、命の安全を守っている状態なの。それら全ては白樹が行っているから、悪いようにはしないわ。夫妻が貴方の偽装お葬式の日、棺桶の中に入れるつもりにしていた。と、白樹に教えてもらったの」
「……偽装お葬式。もう、ほんまに私はいないんやね」
慶は心痛な面持ちで呟き、渇いた笑みを口端に浮かべた。
「慶……」
白姫は欠ける言葉が見つけられず、思いやることしか出来ない。
「話の腰を折ってごめんな。それで、なんでこれがここにあるん?」
白姫を困らないために、慶は少し声音を明るくさせて問うた。
「白樹の話を聞いた私は、このまま燃やされては大変だと、慌てて愛梨先輩の姿に変化して、碧海家に訪れたわ。快く出迎えてくれた夫妻を、二十四時間眠り続ける睡眠ガス玉で眠らせた。大丈夫よ。心身に害はないから安心してちょうだいね」
白姫は心配そうな顔をしていた慶に気がつき、すかさずフォローを入れる。
「良かった」
慶はほっと胸を撫で下ろす。
白姫はそんな慶に微笑み、話を続けた。
「夫妻が眠っている間に、その指輪と碧海の合鍵を持ち出し、白樹のアパートに行ったの」
「なんで白樹さんの元へ?」
「レプリカを作ってもらうためよ。レプリカがなければ、碧海夫妻が不思議に思うし、心を痛めさせてしまう」
「た、確かに。白樹さんはどうやってレプリカを?」
「3Dプリンターを使い物体を生み出し、宝石の色は繊細な補足配色をすることで、より精巧なレプリカを短時間で生み出した。私がそのレプリカの指輪と碧海家の鍵を元の場所に戻して、後からきたパパが、私扮する愛梨先輩が碧海家に訪れたことと、話した内容の記憶を、夫妻から削除したの。出してくれたコーヒーなど使用していた食器達も洗って元の場所に戻し、全ての痕跡を消したわ。もし本物の愛梨先輩とその指輪の話になった場合、双方の記憶が違うことによる矛盾が生まれてしまうから」
「……そっか」
「だからそれは、正真正銘の本物よ。安心してちょうだい。夫妻を騙して申し訳ないけれど、本来それは貴方の元にあるべきものだし、夫妻もそれを望んでいた。だから、それは貴方に持っていて欲しいの」
「……うん。ありがとう。大切に大切にする。記憶にはないけど、本当の母と繋がる唯一のものであり、お母さんとお父さんが私を思って大切に預かってくれていた二人の愛もこもっている。大切な人達との思い出や縁が繋がっているとわかる大切なもの」
慶は自身の左手、人差し指につけられた指輪を右手で包み込むように重ね、両手を胸元に当てる。
「ありがとう……。ありがとう、白姫。白樹さんにもお礼を言わなきゃ。……お父さん、お母さんツ……。名も知らぬ本当のお母さん……っ」
慶は溢れる想いが抑えきれず、ぽろぽろと涙を溢した。
「……慶」
白姫はとても優しい声音で慶の名を呼び、慶をそっと抱き寄せた。そして、赤子をあやすように優しく優しく、何度も背中をさすって、慶に寄り添い続けた――。
♪コンコンコン
「はい」
ノック音に聖花が反応する。白姫は部屋にいない。愛梨と同じ大学に通い、愛梨を守護しているため、日中はほぼ不在なのだ。
「白様がお呼びです」
「はい。すぐ行きます」
智白の言葉に聖花は即答する。
その言葉通り聖花は鏡で身だしなみを整えてから、白の元に向かった。
聖花が部屋を出ると、白はいつものレザーチェアに悠然と腰掛けていた。座っているだけにも関わらず、その圧倒的オーラに息がつまりそうだ。
「貴方はそこに腰掛けなさい」
智白はふかふかしたクッションを、ベアロ調の深紅の生地が包んでいる三人掛けのアンティークソファの真ん中を指差す。
「はい」
聖花は智白に促されるまま、指示された場所に浅く腰を下ろし、硬直する。
美しいハンドメイドの長方形の猫脚コーヒーデスクを挟み、同じ種類の一人掛けソファが置かれてはいるが、そこは空席になっていた。
「碧海聖花、いつまでも怯える小動物さが抜けぬな。そんなに私が恐ろしいか?」
「ぇ? いや、恐ろしいというか……なんというか。世界が違いすぎて息が絶え絶えと言いますか……」
「ほぉ、では私は恐ろしくはないと?」
「‼」
聖花は意味深で妖美な笑みを浮かべる白に目を見開き、硬直する。まるで、メデューサに睨まれた獲物だ。
「さて、お遊びはこれくらいにしとおこう。碧海聖花に多く割いている時間はない」
「……お忙しいなら、遊ばへんといて下さいよ」
聖花は思わず、ぽそりと文句を垂れてしまう。
「何か言ったか?」
「! ぃ、いえ何も」
聖花は白の地獄耳に、慌てて首をぶんぶんと勢い良く左右に振った。
「新しい赤べこのようですね」
少し離れて二人の様子を見ていた智白は、聖花の姿を赤べことリンクさせ、ほくそ笑む。
白姫や白樹がいない今、聖花は二人の玩具とかしていた。
「さて、本題に入ろう」
白は遊びの時間は終わりだとばかりに、場の空気を変えた。
「はい」
聖花は姿勢を正す。
「碧海聖花。本日より、恭稲探偵事務所で働いてもらう」
「……私が?」
聖花は聞き間違いではないかと視線をさ迷わせ、再確認するためオウム返しをする。
「ずっと引き篭もっているつもりだったのか? 命尽きる日までずっと。だとしたら、何のために修行を重ねて来た?」
「いや、それは……。ずっと引き篭もっているつもりはないですけども……私に務まるわけがないと言いますか……」
聖花は視線をさ迷わしながら、歯切れ悪く答える。
「仕事の成果に期待などしていない。出来るか出来ないかではない。碧海聖花はもう戻ることも止まることも出来ぬ。自身の事を知り得るとき、そう覚悟したはずだ」
――どんな真実も受け入れる覚悟だ。人は一度知りえたコトを完全に消すことは出来ない。例え忘れようとしたとしても、けして忘れられぬだろう。その真実の衝撃が強ければ強いほどにな。
――……私はすでに大きな事実を知りました。知らなかったときの私には二度と戻れないと感じています。すでに戻れないのならば、進むしかない。教えて下さい。真実を。今起こっている全ての出来事を。
聖花の脳裏に過去の出来事がフラッシュバックする。
初めて恭稲探偵事務所に訪れ、自身のことについて知る時のことを。
「私に務まるか分かりませんが、最大限努めたいと思います」
「嗚呼。そこまで肩肘張ることはない。智白と白姫がサポートにつく」
「貴方の一挙手一投足が恭稲探偵事務所の信用に関わりますし、貴方自身が地獄を見ることがありますからね」
「こ、怖いこと言わないで下さいよ」
智白の脅かしに聖花は肝を冷やす。
「まぁ、嘘でも冗談でもない話だな」
白はフォローするどころか、更に肝を冷やさせる。
「……憂鬱さが増すのですが。私に務まるかもわかりませんし」
「いずれなれる。今は脳が勝手にそう思わせているだけだ。人やモノは変化を嫌う生き物だからな」
「脳が勝手に思わせているとは、どういうことですか?」
「心理的ホメオスタシスが要因だ」
「?」
「またお得意の間抜け顔か。成長せぬな」
白は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「一応、成長はしていると思うのですが……」
聖花はしょんぼりと肩を落とす。
「人は生きている限り、放っておいても成長する生き物だ。その成長の度合いはその者によるがな。いかにホメオスタシスに勝利してゆくかがポイントになってくる」
「ホメオスタシス。とは何なんですか?」
聖花は小首を傾げ問う。全く理解していないようだ。
「恒常性とも言われているものだ。簡潔に言うならば、ホメオスタシス=体内の状態を一定に保つことをさす。生きてゆく上で重要な性質のひとつではあるが、変化を求めるときには、足枷となることが多々ある。
ホメオスタシスには、環境の変化や対人的なストレスに十分適応するための能力が備わっている。だが、変化を求めて行動するで、そのバランスが崩れると、ストレスに対応できずに、心身に不調をもたらすことがある。
変化する為に一歩踏み出すまでは、あーだこーだと脳が変化させない為の理由を作り上げ、アクセルとブレーキを同時に踏む混む時間が続く。
いざ変化するためにアクセルを踏み込んだとて、脳は元の生活に戻そうと、様々なトラブルを起こさせる。
機嫌よく減量が出来ている思えば、甘い誘惑がかかったり、自分を甘やかす自分の声が脳裏で響き渡る。風邪など不調を起こし、やっぱり減量などするものではないのだと思わせ、元の生活に戻させることもあるだろう。ある種の好転反応とも言える。
変化することは命に関わることだと、脳が警告しているのだ。人間が持つ生存本能とも言える。生存本能と変化をしたい人間のエゴの戦いだ。
この心理的ホメオスタシスに勝利しなければ、本当に変わることは出来ぬだろう。人の習慣等は二十一日続ければ変化する。それまで強い意志で進むだけでいい」
白は淀みなく、流暢な口調で答える。
「進むだけでいいって……」
そんな簡単な、と思う言葉は飲み込む聖花だった。
「ならば、ずっとそこで一歩も動かず、一つも変化をしない生活を送り続けるか?」
「す、進みます。変わります」
「最善の選択だな」
白は小さく頷く。
「私はこれから、何をしてゆけばいいんですか?」
「まずは、その名前を捨ててもらう」
「ぇ?」
聖花は、どういうことですか? と、怪訝な顔をする。
「そもそも、碧海聖花は三年前、この世から消えた。にも拘わらず、同姓同名を突き通すのか?」
「それは……そうかもしれませんけど。だけど、他の名前なんてありません。芸能人でもないのに」
「なければ作ればいいだけのこと」
「作ればいい? そんな簡単に。そもそも偽名で生きることは犯罪です」
「存在しないものが犯罪もなにもない。それに、裏社会で生きていくということはそういうことだ。それとも、ここで動けなくなるほどの甘い覚悟で踏み込んできたのか? 戻るべき過去の居場所は存在せぬことを忘れるな」
「……」
聖花は自分の考えや覚悟は甘かったのかもしれないと、言葉を無くす。恐れと不安が聖花の心をざわつかせた。
それでも、時は止まってはくれないし、戻ってもくれない。
「碧海聖花。今後は、藍凪《あいなぎ》慶《けい》と名乗り、生きていてもらう。我々も、今このときより、藍凪慶として接する。それに伴い、新たなる契約書にサインを示してもらう。もちろん、答えは……理解しているな?」
「はい」
本当に後戻りも、立ち止まり続けることもできない所まで来てしまったのだと再実感した聖花の瞳に、戸惑いや不安の揺らぎはなかった。
「智白、あれを」
「はい」
智白は白の指示の元、聖花の机の前に、一台のパソコンとスマホを置いた。
「これは?」
「今後、これらが貴方の仕事道具となります。娯楽のために渡したのではないことを忘れぬように」
「は、はい」
早々に忠告を受けた聖花は、どもりながら返事をする。
「スマホを起動させ、トークアプリ、kutouを開いて下さい。スマホ起動パスワードは18591008です。トークアプリのパスワードは、トーク者によって変わりますので、追々説明してゆきます」
「そんなトークアプリ、聞いたこともないですけど」
聖花は恐る恐るスマホを手にする。自分専用のスマホを持つのは三年振りのことだった。
「当たり前です。kutouは白樹が製作したもので、恭稲探偵事務所の関係者以外のもの達は、存在すら知り得ません」
「白樹さんって、一体なにものなんですか? アプリ開発者、とか?」
「アプリ開発も行います」
「も?」
智白の言葉に引っ掛かりを感じた聖花は、さらに質問を返す。
「まぁ、おいおい知ることになるでしょうから、今は気にすることもないでしょう。今は、今の貴方が成すべきことに集中して下さい」
「はい」
聖花はそう頷き、スマホにパスコードを入力させて起動させる。
スマホ画面には基本機能アプリと、kutouのアプリしか入れらておらず、とてもシンプルで見やすい画面だった。
kutouのアプリには、すでに通知数一と表示されていた。
「一枚目の契約書にサイン後、改めて他の契約書が送信されます」
智白は聖花が質問する前にそう説明する。
「はい」
聖花は頷き、トークアプリを開いた。
そこにメッセージはなく、契約書のファイル画像だけが添付されていた。
聖花は一抹の不安を持ちながら、画像ファイルを開いた。
【恭稲探偵事務所が受け付けました碧海聖花との依頼は、藍凪慶に引き継がれます。
改めて、依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとする。
依頼者である碧海聖花改め、藍凪慶の命を狙う主犯が見つかり、安全に生活出来るまでのあいだ、藍凪慶と藍凪慶が大切に思う者達を守ろう。
それと並行して藍凪慶の本当の両親についての調査を行う。
その期間は、主犯が見つかり、根本を削除するまでの間とする。
また、この依頼に関する費用は不要とする。
※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んでもらう。それらに対する覚悟があるのなら、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信してもらおう。
一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。
二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。
三、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。
四、藍凪慶は契約終了までのあいだ、恭稲白の駒となる。
五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。
恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、藍凪慶は改めて承諾いたします。
依頼者 】
「……はい」
三年前に交わした契約内容を再確認することで、改めて聖花の覚悟が決まる。
全ては平穏に生きるため、大切な人達を守るためのことなのだと。今はまだ、光の中で生きるため、歩むために必要な暗いトンネルの中にいるだけであり、まだ道の途中なのだと思うことで、自身の心を前向きにさせた。
聖花はスマホの右横に装着されていたタッチペンを外し、ファイル画像にサインを記入し、送り主に送信する。
送り主である白からの既読マークは刹那でつき、二枚目の契約書ファイルデータ画像が送信される。
聖花は小さく息を吐き、恐る恐るデータ画像を開いた。
【一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。
二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。
三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう。
四、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。
五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。
恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、碧海聖花改め、藍凪慶は了承いたしますことをここに示します。
依頼者名
また、私は今後生きていくことや、恭稲探偵事務所で働くことにおきまして、以下の契約を守ります。
一 私は今これより、碧海聖花としての命を終え、今後は[藍凪慶]として生きてゆきます。
二 それに伴い、私は金輪際、碧海聖花の名を名乗りません。
三 恭稲探偵事務所で依頼者と関わる時においては、藍凪慶の名を隠し通します。そして、[Kei]という名で活動いたします。
四 己はもちろんのこと、他者が碧海聖花の名を口にした場合、連隊責任として、藍凪慶とその者は腕立て五十回+スクワット五十回いたします。
五 恭稲探偵事務所の業務中、髪色と瞳の色を変更いたします。
以上のことを守らなかった場合、恭稲探偵事務所から出ていくことを誓います。
契約書名 】
聖花は言葉を失った。
聖花の心は、なんて横暴な契約書や約束事なのだろうと思う反面、何も言い返す言葉もないと思う気持ちが同居していた。
「サインは藍凪慶と書けばいいんですか?」
聖花はチェアに座り、聖花の様子を流し見ていた白に問う。
「嗚呼。今回だけでなく、今後のサインもな」
「……わかりました」
少しの間を起き答える聖花は一つ息を吐く。
「死して生まれ変わるのが自然の通り。崩壊の先には、構築するしかない。そしてその構築物は、破壊されたものより強度で立派なものとなる」
白は聖花の気持ちを汲み取るように、一歩踏み出すことを後押しさせるような言葉をかける。
「……はい」
スマホについているタッチペンを使い、碧海聖花改め、藍凪慶と署名して、画像を白に送信した。
こうして、碧海聖花の存在は本当に姿を消した。
碧海聖花は藍凪慶として生まれ変わったのだ。
「これで、全ての契約書への署名は終了した。仕事については、依頼が来ればこちらから連絡する。もう戻って構わない。ご苦労」
白は珍しく労いの言葉をかけ、己の業務に戻る。
「はい。ありがとうございました。失礼します」
慶はそう言って、今しがた渡された端末達を手に立ち上がる。
「お誕生日、おめでとうございます。藍凪慶」
智白はどこか慶に寄り添うように、そういって微笑む。
慶は智白の気持ちを汲み取るがまだ気持ちが落ち着かず、力のない微笑みを返すしか出来なかった。
なんとも言えぬ空気の中、「ただいまぁ」と気の抜ける声音と共に、一人の女性が現れる。
胸下辺りまで伸びたハニーブラウン色に染められた髪を太めのコテで内巻きにさせ、ナチュラルなギャル感を感じさせるカラーコンタクトをつけ、ほどよくメイクを施した女性は、「汝、我が姿を、本来の姿へと戻らせたし」と呪文を唱える。
女性は白光に包まれ、白姫の姿へと変身した。先程までの姿は、人間界で大学生として生活する白姫の姿だったのだ。
「お帰りなさい、白姫」
「ただいま~聖花。って、あれ? 聖花が端末を持ってるってことは、もう名前が変わってるの?」
白姫は事前に話を聞いていたのか、そう問うた。
「えぇ。以後、藍凪慶の呼び名には気を付けることです」
白姫の問いに智白が答える。
「はーい。ということは、もうあれを渡していいってことよね? 白様」
「嗚呼、自分達の部屋でやれ」
「はーい」
「その前に白姫、藍凪慶、腕立てとスクワット格一〇〇回ずつしてから戻れ」
間延びした返事をしてこの場から去って行こうとする白姫を、白が鬼のような言葉で引き止める。
「ぇ⁉︎ どういうこと?」
白姫は恐ろしい言葉に目を見開き、誰か説明してくれとばかりに、視線をさ迷わせる。
「そういう契約やねん」
慶は先程の契約書データーを白姫に見せる。
「な、なるほど」
「さっさとやれ」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」
白姫は白のデスクに両掌をついて、異論を申し立てようとする。
「なんだ?」
「いくらなんでも、女の子に厳しすぎるペナルティーだと思います」
「ほぉ。白姫がそんな甘いことをいうとは、珍しいこともあるものだ。そんなに甘い姫扱いをして欲しかったのか?」
細長い人差し指の爪で白姫の顎先を救い、鼻先が近づくほど顔を近づける。
「ひぃやー〜△×〇▼☆彡●♡」
白姫は言葉にならない叫びを発しながら飛び退き、のたうち回るように、地面に倒れる。その顔や耳は茹でタコのように赤い。
「し、白姫……だ、大丈夫? 芸人顔負けの飛び去りやったけど」
慶は苦笑い交じりにそう言いつつ、白姫の傍に歩み寄ってしゃがみ込む。
「は、鼻血出そう」
「ぇ⁈」
思わぬ言葉に慶は目を点にさせる。
「品性のない言動はお辞めなさい! 白様もおもちゃにするのはお控え下さい」
「ふっ」
白はどこか楽しむように短な笑いを溢し、智白は左手の指先を額に当てて、長い溜息と共に首を左右に振った。まとめ役の智白の苦労が耐えぬことが伺える。
「き……。け、慶。腕立てするわよ」
白姫は聖花と言いそうになるのをグッと堪えて、そう言った。耳はまだ赤いが、花字が出ていないだけ幸いであろう。
「う、うん」
本当に大丈夫だろうかと白姫を心配気にして見つつも、慶は頷く。
こうして二人は、課されたペナルティーをこなし、自室に戻るのだった。
*
「ふぇ~。白様きびちぃ」
白姫は自室に入るなり、嘆くようにそう言ってデスクチェアに深く腰を下ろす。
「大丈夫?」
「私は全然平気。私のせいでごめんね。今後は気を付ける」
「ううん。私も白姫にペナルティを連帯させてしまわんように気をつけるな」
「うん。お互い気をつけましょう。どうせならあの二人もペナルティを負えばいいのに」
「……それは、絶対にないと思う。特に恭稲さんがそんな凡ミスするわけあらへん」
「そりゃそうよね」
白姫はクスクス笑い、慶を手招きした。
「どないしたん?」
「慶に渡したいものがあるのよ」
白姫はにまにま笑顔を見せながら、ホワイトカラーのAラインコートの内ポケットから、指輪ケースを取り出した。
「慶、これを」
「ぇ⁉ な、何? ぷ、プロポーズ⁈」
「して欲しいの?」
白姫はくすくすと笑う。
「……か、からかわんといてよ」
「ごめんごめん。開けて見て」
「うん」
慶は指輪ケースを開けて、小さな歓声を上げる。だがすぐに疑問が浮かぶ。なぜこれを私に? と言うように小首を傾げる。
「これは、碧海夫妻が大切に持っていたものよ」
「どういうこと?」
慶は怪訝な顔で問うた。
白姫が慶に手渡した物は、カラー宝石が二つ埋め込まれたゴールドリングだった。
一つの宝石は、晴れ渡る青空に雲が泳いでいるようなグラデーションが美しい、セレスタイト。その左横には、古来から水の結晶と例えられてきた無色透明が美しいクォーツが埋め込まれている。そのカラットは約二mmほどの控え目ではあるが、他の細工や装飾が施されていないシンプルな細いリングということもあり、カラー石の存在感が感じられた。
「この指輪は、孤児院に預けられた貴方が首に下げていたものよ。施設の担当さん曰く、ここに子供を預ける親御さんは、どうしても子を側に置けぬ事情の元、泣きながら預ける人もいる。
そういう人は、もし何処かで出会った時や、迎えに来たときにすぐに気がつくようにとか、親子との途切れない縁を祈って、その象徴となる物を一緒に預けることがある。貴方の場合、それがその指輪ってことよ」
白姫は穏やかな口調でそう説明する。
「そうやったんや……。全然知らんかった。当たり前なんやろうけど、そないな話し、二人から聞いたこともあらへんかった。せやけど、なんでこれがここに?」
「この指輪は赤ん坊の貴方の指には大きすぎて、ネックレスとしてつけられていた。響子さんはそれを、貴方が人間で亡くなっていなくなるまで。ずっと大切に持っていたのよ。貴方が二十歳になったら全てのことを話し、これを渡そうと思っていたと」
「なんでそれを知ってるん?」
「碧海夫妻には申し訳ないんだけど、今は二人の命を守るために、碧海家のテレビに特別な隠しカメラをつけさせてもらっているのよ。それと、夫妻のスマホには特別なウイルスを仕込み、二人を監視させてもらいながら、命の安全を守っている状態なの。それら全ては白樹が行っているから、悪いようにはしないわ。夫妻が貴方の偽装お葬式の日、棺桶の中に入れるつもりにしていた。と、白樹に教えてもらったの」
「……偽装お葬式。もう、ほんまに私はいないんやね」
慶は心痛な面持ちで呟き、渇いた笑みを口端に浮かべた。
「慶……」
白姫は欠ける言葉が見つけられず、思いやることしか出来ない。
「話の腰を折ってごめんな。それで、なんでこれがここにあるん?」
白姫を困らないために、慶は少し声音を明るくさせて問うた。
「白樹の話を聞いた私は、このまま燃やされては大変だと、慌てて愛梨先輩の姿に変化して、碧海家に訪れたわ。快く出迎えてくれた夫妻を、二十四時間眠り続ける睡眠ガス玉で眠らせた。大丈夫よ。心身に害はないから安心してちょうだいね」
白姫は心配そうな顔をしていた慶に気がつき、すかさずフォローを入れる。
「良かった」
慶はほっと胸を撫で下ろす。
白姫はそんな慶に微笑み、話を続けた。
「夫妻が眠っている間に、その指輪と碧海の合鍵を持ち出し、白樹のアパートに行ったの」
「なんで白樹さんの元へ?」
「レプリカを作ってもらうためよ。レプリカがなければ、碧海夫妻が不思議に思うし、心を痛めさせてしまう」
「た、確かに。白樹さんはどうやってレプリカを?」
「3Dプリンターを使い物体を生み出し、宝石の色は繊細な補足配色をすることで、より精巧なレプリカを短時間で生み出した。私がそのレプリカの指輪と碧海家の鍵を元の場所に戻して、後からきたパパが、私扮する愛梨先輩が碧海家に訪れたことと、話した内容の記憶を、夫妻から削除したの。出してくれたコーヒーなど使用していた食器達も洗って元の場所に戻し、全ての痕跡を消したわ。もし本物の愛梨先輩とその指輪の話になった場合、双方の記憶が違うことによる矛盾が生まれてしまうから」
「……そっか」
「だからそれは、正真正銘の本物よ。安心してちょうだい。夫妻を騙して申し訳ないけれど、本来それは貴方の元にあるべきものだし、夫妻もそれを望んでいた。だから、それは貴方に持っていて欲しいの」
「……うん。ありがとう。大切に大切にする。記憶にはないけど、本当の母と繋がる唯一のものであり、お母さんとお父さんが私を思って大切に預かってくれていた二人の愛もこもっている。大切な人達との思い出や縁が繋がっているとわかる大切なもの」
慶は自身の左手、人差し指につけられた指輪を右手で包み込むように重ね、両手を胸元に当てる。
「ありがとう……。ありがとう、白姫。白樹さんにもお礼を言わなきゃ。……お父さん、お母さんツ……。名も知らぬ本当のお母さん……っ」
慶は溢れる想いが抑えきれず、ぽろぽろと涙を溢した。
「……慶」
白姫はとても優しい声音で慶の名を呼び、慶をそっと抱き寄せた。そして、赤子をあやすように優しく優しく、何度も背中をさすって、慶に寄り添い続けた――。