「ぇ?」

 ベージュと白色の花で埋め尽くされた渋い深緑の古典。品の良い振袖に身を包む少女は、背後から与えられた衝撃に耐えきれず、ホーム下へと落ちてゆく。

 前下がりのミディアムボブは地に向い、眉を隠した右流しの前髪は倒れた影響により乱れる。

 その際髪の隙間から、少女の持つ独特の色をした瞳が垣間見える。濃いオレンジ色と赤黒い色を混ぜたような色。例えるならば、スぺサルタイトガーネット色をした、独特の美しさがある瞳だ。


「きよかーッ‼」

 少女が持つビー玉のような瞳は、目の前の視界に捉えた恐怖に涙が滲む。
 鎖骨下まで伸ばされた髪を三二mmのコテで巻き、ハーフアップにセットにした黒髪が寒風で乱れる。

 軽やかなミントカラーに、ミモザと立涌模様がバランスよく配置された着物が汚れることも厭わず、ホームに両膝と両手をつき、ホーム下を覗き込む。


「ッ!」

 今しがた転落した碧海(あおうみ)(きよ)()は痛みに顔を歪めた。


「聖花⁉ 大丈夫か? 生きてる? 聖花ッ」

 年齢より幼く見られがちの童顔を蒼白させた守里(もりざと)愛莉(あいり)は、うつ伏せで倒れ込んでいる聖花に声をかける。周りにいた大勢の人達が騒ぎ出し、聖花の安否を確認する。


「な、なんとか……」
 くぐもった声で答える聖花は両掌をついて上半身を起こす。
「聖花! 立てる? はよぅ逃げな電車が来てまうッ」
 愛莉の言葉通り、電車到着を告げるチャイムがホームに鳴り響く。
「!」
 隣のホームに走ろうとする聖花を引き止めるように、レールに振袖が引っかかる。引っ張っても簡単には取れない。
 昼過ぎとはいえ、帰省ラッシュが続いている。
 ホーム上にいる大勢の人達は右往左往して騒ぐ。その中で幾人かが非常停止ボタンを探し回っていた。


「お嬢ちゃん、今おっちゃんが助けに行ったるからな!」
 四人家族の父と思しき男性がホーム下に下りようとする。
 聖花が声の方に視線を向けた瞬間、寒風が聖花の前髪を仰がせ、聖花の両眼を露わにさせる。
 聖花の瞳を目にした者達は瞠目する。助けにしようとしていた男性は刹那息を飲む。
「僕が行きます」
 儚げなハイトーンボイスが男性の耳に響く。
 一瞬の躊躇が産まれてしまった男性の代わりに、二十代前半と思しき青年がダークミルクティー色をした髪を靡かせながら、ホーム下へ飛び降りた。



「君、怪我は?」
 まるで騎士のように着地した青年はすぐさま聖花に駆け寄り、心配そうに聖花の顔を覗き込みながら声をかける。
 どこか女性的な色香が入り混じる男性の声音でありながらも、儚げな透明感と可愛さを感じさせるハイトーンボイスをしていた。


「打ち身の痛みは感じますが、骨折したような強い痛みはありません」
「庇ったはずの両手も傷一つついてないね。洋服が肌を守ってくれたのかも」
 青年は滑らかな口調で言いながら、聖花を隣のホームにつれていこうとする青年だが、すぐに袖がレールに挟まっていることに気がつく。
「もしこの着物がどんなに大切な品物だとしても、僕は君の命を取るよ。君に拒否権はないから」
「ぇ?」
 戸惑う聖花に小型ナイフを向ける青年。そのナイフは聖花と青年の影に隠れ、他の者には見えない。
「⁉」
 瞠目する聖花の袖をナイフで切り裂き、持っていた小型ナイフを素早くコートの右ポケットにしまった。
「!」
 驚きで言葉も出ない聖花を余所に、青年は右手を聖花の両膝の裏に差し込み、左手を聖花の背中に当てて俵担ぎして、飛び去るように隣のホームへ移った。
 二人が移動したと同時に、電車は耳を塞ぎたくなるほどの甲高い音を上げながら急停車した。誰かが非常停止ボタンを押してくれたようだ。
 電車が緊急停止した場所は、先程二人がいた場所よりも畳一畳分の距離はあったものの、本当に間一髪であった。


「ッ」
 青年に命を救われた聖花は、死の恐怖でゾッとしたように息を飲む。
「立てそう?」
 青年は穏やかな口調で問いながら俵担ぎの状態を下にずらし、小さい子を片手で抱っこするような体制に変える。
 重たい印象を与える前髪のマッシュウルフヘアーが風揺らぐ。
「!」
 青年と至近距離にいた聖花は刹那、驚愕する。
 青年の瞳の色が一般的と言われる色と違ったからだ。


「はい。立てます」
 刹那の驚きで留めた聖花は、声を裏返らせることも表情を強張らせることもなく答えた。
 もしここで青年を恐れてしまっては、過去に自分が受けていた痛みを青年に伴わせることになってしまう。それだけはあってはならないと、瞬時に冷静さを取り戻したのだ。
「感電もしていなさそうだね」
 青年はホッとしたように胸を撫で下ろし、聖花を下ろす。
 地面に両足を下ろした聖花は痛みに顔をしかめることもなく、自身の両足でしっかりと立った。
「助けて下さりありがとうございました」
 聖花は深々と頭を下げてお礼を述べる。
「君が無事でよかったよ」
 全体的に薄くありながらも桜色の富士山型の上唇が印象的な口元から、透明感のある柔らかなハイトーンボイスが発せられる。青年の柔らかな声音は、恐怖で固まっていた聖花の筋肉を緩ませた。



「貴方のおかげです。お名前をお伺いしても?」
「僕だけのおかげじゃないよ。後、名前は今聞かなくともいずれ知ることになる……気がするよ」
「ぇ?」
 怪訝な顔で首を傾げる聖花に対し青年は何も答えず、形の良い唇を上げる。前髪で目元が隠れており表情がハッキリと受け取れないが、柔らかな雰囲気を感じさせた。とても敵という感じはしない。


「きよか~! 大丈夫―⁉」
 ホームの上から愛莉がお腹いっぱい叫ぶ。
「だいじょ~ぶ」
 聖花は頭上で両手を大きく手を振り、大きな声で自身の無事を伝えた。


「君達、大丈夫か?」
「怪我あらへんか?」
 大慌てで電車から降りてきた運転手や駅員達は慌てて聖花達の元へ駆け寄ってくる。
 青年はその大人達を軽くあしらうように交わし、颯爽とその場から姿を消した。



 その後。
 二人は愛車で迎えに来てくれた碧海雅博の車に乗り込み、それぞれの自宅へと帰宅するのだった。



  †


『ぁ、兄さん。言われた通り遂行しましたけど……』

 人混みに紛れた先程の青年は、灰色と茶色が混じった明るいブラウンカラーのシュリンクレザーケースをつけたスマホを、左耳に当てて話す。


『――あぁ。助かる。引き続き頼む』
『了解です』
 青年は一言二言話し、通話を終えた。


 帰省ラッシュで混雑するなか、青年は軽い足取りでその場を後にした。


 二十××年 一月 三日 午後十時。
 京都府京都市深草平。


 閑静な住宅街に建てられた白を基調とした二階建て一軒家。
 モノクロを基調としたシックなインテリアで揃えられた五帖の洋室の(あるじ)が部屋に入る。


「ふぅ」
 お風呂をすました碧海聖花は小さな息を溢す。
 高めのベッドボートが印象的なシングルベッドに腰を下ろした聖花は、ワインレッドを袖にポイント使いしている上下黒のふわもこルームウェアの触り心地で遊ぶ。
 何かを撫でながら物思いに耽ることが最近の癖となっていた。



 昨年の十二月十三日。
 碧海聖花に突如届いた脅迫状。
 警察に助けを求めていては手遅れになると、苦悩していた聖花の前に突如として現れた一本の動画。
 それは、人あらざるものが営むと言われる、恭稲探偵事務所の扉へと続く幻の動画だった。


 動画に秘められた謎を解いた聖花は、藁にも縋る想いで恭稲探偵事務所を訪れ、()(とう)(つぐも)に助けを求めた。
 命をかけた契約を交わした聖花に、白の右腕である()(はく)はいくつかのアイテムを与えた。白はアイテムを駆使しながら、聖花と聖花の大切な人達の命を救った。それと同時に、聖花の心も強くさせていった。



 白に平穏を取り戻してもらっている今も、アイテムの一つは聖花の両耳につけられている。



 大振りのスワロフスキーがゴールドの丸い枠に埋め込まれている貼るピアスは、ただのアクセサリーではない。
 左耳のピアスは、白と連絡が取れるトランシーバーの役割を果たし、右耳のピアスは監視カメラ+人の体温が目視できるサーモグラフィ機能がついていた。
 契約終了時間。十二月 二十日 深夜二時四十三分以降そのアイテムが活用されることもなく、平穏な日々を過ごしていた。



 年を越し、二〇××年一月三日。
 心友である愛莉と共に初詣を終え、三が日限定セールショッピングを楽しむために、帰省ラッシュのなかホームにいた。そのコースは聖花と愛莉の年初めの恒例だった。


 本年も二人で福袋を楽しむはずだったのだが、故意か事故か聖花はホームに落ちてしまった。



「単なる不運な事故やったんやろか?」
 聖花は不安げに呟く。

 両親である碧海雅博と碧海響子に相談することは出来ない。
 二人が持っていた、聖花に脅迫状が届いた十二月十三日の早朝から、事件が一件落着した十二月二十日の二十時までの記憶は全て、智白が抹消している。
 愛莉の記憶も同じく、智白の記憶操作によってその期間の記憶が綺麗さっぱりない。



 “無い”と言うには少し語弊がある。記憶が全てないというより、記憶操作によってその期間起きた真実の記憶を消去し、いつもと変わらぬ平穏な日常の記憶へと書き換えた。という表現が正しいだろう。

 よって今では、聖花が命を狙われていたことも、黒崎(くろさき)玄音(げんと)が百合泉乃中高等学園に赴任されたことも、黒崎玄音が起こした事件のことも聖花の記憶にしかない。
 智白から事件のことは余計なことを話さぬように釘を刺されているし、自ら言うつもりもない。
 それにより現状、今の聖花が事件性のあることがらについて相談する者はいない。いるとするならば、恭稲白と智白だけだろう。



「……(かい)
 聖花は独り言のように呟く。その声音はいつもよりも暗い。
 本来ならば、左耳のピアスは恭稲白と連絡を取り合えるトランシーバー代わりとなっている。
 依頼者側から話しかけたい場合は、「開」と唱えることにより、白との回線が繋がる――はずなのだが、今は微かな機械音すらない。



「私はもう依頼者じゃないからあかんってこと?」

 無反応に両肩を落とす聖花は、倒れ込むようにベッドに寝転んだ。



「……どうかこのまま、このまま平穏な日々が続きますように」

 聖花は精神的苦痛に顔を歪ませながら祈り続ける。


 大切な人達が経験した危うくも悲しい記憶が消えているとはいえ、もう二度と誰かを傷つけることも危険に晒すことも起きて欲しくない。それに、命を狙われながら過ごす日々は生きた心地がしない。聖花はただただ、平穏な日々を大切に過ごしていたいだけなのだ。


 その聖花の願いを引き裂くように、水面下でことが動き始めていた。だがそのことを今の聖花が知る由もない――。