石川臨未に抱く感情は、おそらく恋愛に近いものだった。
人間関係を上手く構築できた試しのない自分に、色恋の理解はハードルが高かったが、彼を見ていると沸き上がる羨望と嫉妬は、恋愛感情なくしては説明がつかない。
「あっ、辻宮さん!」
平均よりも小柄で、華奢な青年がこちらに大きく手を振っている。さざ波と風の音に包まれた夜のなかで、自販機の光だけが彼を照らしていた。
「石川くんは?」
近寄りながら訊くと、青年はへらりと笑いながら頬を赤くする。
「辻宮さんと入れ違いになったら困るので、ビーチで待っててくれてます。何か温かいものでも買おうと思って」
「なるほどな」
「夕飯は、どうでした?」
「問題ないらしい。部屋が一室空いたんで、宿泊も勧められた」
「えっ、」
自販機に向けられていた顔が、こちらを向いてピシッと強張る。なんとも分かりやすい。
「俺が泊まるのは都合が悪いか」
訊けば、青年は視線を落として「いえ」と呟く。しかしすぐに「やっぱり、」と目を上げた。
「困ります。……臨未ちゃんはもう少し、辻宮さんと居たいかもしれないけど、」
「君は、正直だな」
「……いえ。辻宮さんが、格好いいから……僕の余裕がないだけです」
「格好いい?」
目を眇めると、木の葉の擦れる音が響いて、冷たい風が背中を押す。成人男性一人をふらつかせるほどの威力に、思わず肩を竦めた。
「格好いいですよ。見知らぬ女子高生を助けてしまうところも、臨未ちゃんのために、ここまで車を飛ばして来てしまうところも。……だから、辻宮さんが僕より先に臨未ちゃんに告白してたら、きっと、臨未ちゃんはあなたの事を——」
青年は、自販機の『あったかい』ラインナップを見据えながら、続きを呑んで息を溢す。もう随分体が冷えてしまったのか、彼の蒸気は透明だ。
その透き通った色が羨ましく思えるのは、自分の心が濁っているせいだろうか。体だけ大きくなった図体の内側では、まだ過去の傷痕が燻っている。
物心つく頃から、自分は人とは違うという認識があった。両親のおかげで育ちがよく、英才教育を施されていた事もあり、同世代のなかで教養のレベルは抜きん出ていた。だからこそ、周りに溶け込めないのは自分が特別だからだ、と傲っていた。
中学の頃は特にそれが顕著で、一時期、自分の陰口が教室中に蔓延していることもあった。
——辻宮くんって、一人で居るのが好きなの?
そんな状況下で、とある女子生徒に声を掛けられたことがある。名前は葉山 鈴子と言って、器量が良く、明るいクラスメートだった。
——嫌いではないが、好きで一人でいるわけではない。教室で一人で居ることに違和感を覚えない人間などいない。つまり、一人は好きだが孤立は嫌いだ。
一息にそう言うと、彼女は前の席に座って吹き出す。教室内の視線を気にすることなく、豪快に笑った。
——辻宮くん、めっちゃ面白いじゃん。
——そうか?
——うん。なんか思ってたより変っていうか。
——思っていたより?それなら、余計に君は離れるべきじゃないのか。
——えー、なんで?
——俺は“変”だから周りに避けられている。傍にいれば、君も同類だと思われるぞ。
特別とは、周りから浮いた人間に宛がわれるのではなく、周りよりも秀でた人間のことを言うのだ、と。その時にはもう悟っていた。
辻宮香吏は、特別ではない——恵まれた環境で育っただけの、欠陥品だ。
——こうして近づいてきた人間は大抵、次の日には窓際に戻って、数分にも満たない陰口を叩いて、日常に戻っていく。きっと君も、その一員だろうな。
——ふーん。どうして窓際?
——君のように明るく、人に馴染むことを好む人間は、窓際に固まる習性がある。まぁこれは、俺の経験から割り出した統計だが。
そう続けた欠陥品に、彼女はまた笑みを溢した。
——なら私は、辻宮くんに太陽の温かさを教えてあげよう。
叙情的なことを言う人だと思った。けれど、それは適当な励ましではなかった。
葉山は、休み時間の度に俺の席に訪れるようになり、廊下で友人たちと歩いているときも、俺を見つけて手を振ってきた。クラスの人間はその稀有な出来事に首を捻っていたが、葉山の配慮に称賛を送った。
違和感を覚えたのは、ショッピングモールで彼女を見かけたときだ。
——こんにちは。
すれ違いざま、私服姿の彼女に声を掛ける。見開いた瞳と視線が交わり、手を振った。彼女は、一人だった。
——……葉山?
人の流れを塞き止めるように、立ち止まる。ほんの一瞬だったが、彼女の瞳に滲み出ていたものの正体に気がつく。そして案の定、彼女は逃げるようにその場を去った。
——辻宮くん、次の小テストさぁ~、
翌日の教室で、葉山は何事もなかったように俺の席を訪れた。いつもの、太陽の光を思わせる明るさで、にこにことやって来る。
しかし同時に、彼女に向けられた周りの視線が、俺に何かを知らしめた。
——葉山ちゃんは、やっぱり別格だよね。
——本当。あんな根暗なヘリクツ野郎と話せるなんて、良い子すぎ。
——辻宮さ、絶対葉山ちゃんに気あるよね。てゆーか、あんなん好きにならない方が可笑しいでしょ。
——でもダメだよー。葉山ちゃんさ、彼氏出来たばっかじゃん?
孤立によって培われた地獄耳が、本領を発揮する。いいや、背中に聞く女子たちの会話は、きっと葉山本人にも届いていたはずだ。
——おーい。辻宮くん?
覗き込む彼女に、俺は嘲笑を含めて言った。
——君の株上げパフォーマンスに、もう俺を巻き込むのはやめてくれないか。
思えば、葉山が自分を構う場面には、必ずクラスメートや連れの目があった。“やらない偽善よりやる偽善”という言葉はあるが、彼女のパフォーマンスは俺にとって、何よりも鋭い凶器に思えた。
結局、彼女も特別になりたかったのだろう。周りから一目置かれたい、という気持ちは決して否定できない。
——な、んで……そんな酷いこと……っ。
けれど、自分の放った言葉で涙を流す彼女を見ても、良心の呵責は覚えなかった。そんな濁りきった心に覚えた呵責が、今でもたまに蘇る。
葉山鈴子にとって、俺は『利用価値のある弱者』というラベルでしかなかったのだ——ということ、そして自分がその事実に傷ついていたことに気がついたのは、かなり最近のことだ。
「真冬くん。勝負をしようか」
自販機の前で未だ悩んでいる青年に、そう切り出す。彼は瞠目して、こちらを振り向いた。
「えっ、勝負?ですか?」
「ああ。見たところ、君は石川くんに渡す飲み物を迷っているのだろう」
大きな瞳が、ギョッと飛び出しそうになる。
「彼女がどちらを選ぶのか、勝負しないか。君が買ったものと、俺が買ったもの。もしも俺が買ったものを選んだら、宿に泊まることを許可してほしい」
我ながら、らしくない。それほどに、石川臨未の存在は貴重なのだと思い知る。彼女と過ごす時間は、青春をやり直すよりもずっと価値がある——そんな言い方をしても、彼女は「当たり前でしょう」と得意気に笑うのだろう。過去の、濁り切った思い出を打ち明けても、ハッキリ物申してくるのだろう。
思えば、俺はまだ彼女に、自分の過去をしっかり打ち明けたことがなかったな。
「……分かりました」
「ありがとう」
勝負を受け入れた青年に感謝を述べて、先に硬貨を投入する。俺が選んだのはコンポタージュで、彼が選んだのはココアだった。
「意外ですね。辻宮さんは絶対、紅茶とかコーヒーを選ぶと思ってました」
「それはどうして?」
「だって、一緒にカフェに行ってたなら、その辺の趣味は分かるものかと」
湖に沿って歩きながら、青年は彼女のココアと自分のミルクティーを器用に抱える。手袋に包まれている片方の手が、体温を感じられないということを、すっかり忘れてしまいそうだ。
「石川くんは甘党だが、先ほどケーキを食べたからな。甘いものを食べると塩気が欲しくなると、前に熱弁していた」
「わ……その情報は先に欲しかった」
「ところで、彼女はどの辺にいるんだ」
「確かもうすぐ、あっちの石段の方に——、」
手袋に覆われた右手が、街灯に照らされたビーチを指す。しかしそこに人影はない。代わりに月明かりを反射する湖が、不自然に、パシャリと揺れる。
「あれ…………臨未ちゃん、と、」
隣で、缶が地面に弾ける。落下の瞬間をただ呆然と眺めてから、彼が湖に向かって駆け出したことを悟る。
その方向には、湖の際に立った二つの影が重なっていて、その内の一つは項垂れていた。
「……っ」
状況を把握できないまま、地面を蹴って走り出す。砂浜に取られる足が煩わしい。
「たすけて…………早く、おねいさん、たすけて……っ」
青年が立ち止まった先で、項垂れる一人の少女。それを支えているように見える、別の少女。彼女は季節を履き違えた格好で、腕を晒している。
「のぞみ、ちゃん…………?」
呆然とする青年を押し退けて、湖に足を踏み入れる。少女を支える少女は、ただ夜空に向かって、先ほどと同じ言葉を唱えている。
そして彼女の、晒された細い腕が月に照らされ、俺は息を呑んだ。
「……真冬くん。救急車だ」
血に染まる腕から、項垂れた少女の体を引き受け、仰向けに寝かせる。その体の中心を貫いたナイフの柄が、真っ直ぐと立っている。
「救急車だ——!」
俺は叫んだ。青年はようやく我に返り、スマホを光らせる。その横で倒れ込む小柄な少女を捉えながら、額を抱える。
「まだ………何も、伝えていないんだ……」
荒んだ吐息は、ただ、さざ波の上に溶けていくだけだった。