死にたい君の静かな天秤【完】


「でも、楽しかったのは本当。学校でも家でも、ドナーになってからは腫れ物扱いだったから。香吏くんは共通の友だちもいないから、話している間は全然別の世界に居られるみたいで、救われてた」

 そう告げれば、今度は「そうか」と照れ臭そうに視線を逸らす。その姿をしばらく眺めていると、左手がキュッと強く握られた。真冬の義手が、何かを訴えている。

「出来れば、僕がなりたかったな。その別の世界に」
「真冬は、ダメだよ」
「……なんで?」
「真冬は、私をこの世界に連れ戻してくれる人だから」

 握られた手が、少し緩まる。すると真冬まで、香吏と同じように視線を逸らした。この二人は雰囲気こそ違うものの、似た者同士なのかもしれない。

「だからね、今ね、礼実ちゃんが香吏くんの所に来たって聴いて、すごくビックリしてる」

 真冬の手を握り返し、持ち上がった香吏の視線を真っ直ぐ捉える。この二人が居てくれるのなら——私にはきっと、別の世界は要らない。

「それは当たり前だろう」

 香吏は言う。

「君に罪悪感を抱いていたとしても、大切な家族であることに、変わりはないのだから」

 私は、深く頷いた。

「礼実ちゃんに、嫌われたんだと思ってた。……向き合うのが、ずっと、きっと、怖かった。友達とも……家族とも」

 生暖かい粒が頬を伝う。右手には、礼実ちゃんの言葉が綴った手紙がある。

「伝えようよ。一度すれ違っても、終わらせるよりずっと良い」

 優しい声色で、強い意思の籠った言葉が流れ込む。

「……ありがと」

 そう言うと、真冬の左手がそっと涙を掬い上げた。

 *

 店を出て、車に向かうまでの間、鞭のように鋭い風に溶け込む梅の香に、私は一瞬酔いしれた。

「春が来るんだね」

 すっかり暗くなった道を走る車が、ブルンッと音を立てて静かになる。たしか、アイドリングストップと言うやつだ。

「急に叙情的になってどうしたんだ」

 香吏は、運転席からこちらを一瞥する。

「いいじゃない、たまには。梅の香りがしたから、そう感じただけよ」
「梅の香り……どんな香りだ」
「え、しなかった?たぶん、フラワーパークが近かったからだと思うけど。駐車場でさ」
「それは、答えになってないな」

 そう言われて、先ほど香りの残像を呼び起こそうとするけれど、上手くはいかない。それを言語化しろというのは、もっと無謀だ。

「どんなって、ちょっと上手く表現できないわ。それにもう、どんな香りか忘れちゃった」
「そうか。不思議なものだな」
「え?」
「その香りをしっかりと“春”に紐付けているのに、一瞬で忘れてしまうなんて」

 どこか切なげに、香吏は言う。

「……忘れても、きっと思い出せるよ」
「うん?」
「だって、春は必ず来るじゃない。一年経っても、しばらくその香りに出会えなくても——きっとまた思い出すわ」

 言いながら窓の外を見れば、木々の向こうで湖が揺れている。反射する白い月があまりに鮮明で、まるで湖に穴が開いているみたいだ。

「香吏くん」
「なんだ?」
「もっと近くで、湖が見たい」

 ——我が儘、聴いてくれる?
 運転席と後ろの席を交互に見ると、二人は同じように、眉を下げて笑みを溢した。


「俺は一度、車を宿に置いてくる。二人で先に行っててくれ」

 結局、民宿から歩いて行ける距離のサンビーチが良い、ということになり、私たちは香吏の車を見送った。宿に車を置くついでに、夕飯を一人分追加できないか、と女将さんに交渉するらしい。

「香吏くんがあんなに行動力あるなんて、知らなかった。あ、あっちだって」

 スマホのマップを頼りに、サンビーチの方向を指す。頷く真冬を振り返ると、彼は

「それは、臨未ちゃんのためだからだよ」

 と微笑んだ。

「今回に限っては、でしょう。きっと、本来は普通に行動力のある人なんだよ」
「本来は?」
「うん。香吏くんに、行動する根拠を与える友人とか、恋人がいないだけ」
「根拠……。臨未ちゃんも辻宮さんも、時々言葉選びが独特だよね」

 しばらく、サンビーチに沿って歩き、石段が見えてきたところで立ち止まる。ほんのり街灯にも照らされているし、ここなら香吏も見つけやすいだろう、と私たちは石段に腰を下ろした。

「あと、臨未ちゃんは、辻宮さんの前だと少し違う雰囲気があるよね」

 座った後も、真冬は続ける。ウィンドブレーカーの襟に口元を埋めながら、私は「雰囲気?」と復唱した。

「うん。口調が少し違うというか……、もしかして、辻宮さんと居るときの臨未ちゃんが、本当の臨未ちゃんなのかな、とか思ってしまって」

 真冬から溢れる息が、真冬の向こう側に攫われる。後ろから吹く風が、強く、冷たい。

「なにそれ。じゃあ、真冬と居るときの私は本物じゃないの?」
「えっ、いや、そういうわけじゃ……いや、そういう意味になる、よね」

 慌てふためく真冬に、窄めた唇を緩める。

「ウソ。ごめん、ちょっと仕返し」
「え?」
「偽物扱いされたから、怒ったフリした」

 そう言うと、彼は安堵したように息を吐く。

「嫌われてない?」
「嫌いじゃないし、偽物でもない」
「はい、すみません」

 向かいあった視線の隙間に、冷たい風が縫うように吹き込む。互いの鼻先を撫でられて、私たちは同じように肩を竦めた。

「嫉妬、した?」

 訊くと、真冬は素早く瞬きを繰り返す。

「それは、だって……辻宮さんの前にいる臨未ちゃんは、僕の知らない臨未ちゃんだし」
「うん。嬉しい」
「……嬉しい?」
「だって、真冬はもっと私を知りたくなった、ってことでしょ」

 違う?と首を傾げれば、彼の手が石段に置いた私の手にそっと重なる。

「知りたいよ。……臨未ちゃんの全てを知って、——あわよくば、君の居場所になりたい」

 湖を見たい、と出てきたはずなのに、目に映るのは真冬の瞳だけだと気づいて、なんとなく気恥ずかしい。思わず、湖へ視線を逸らそうとすると、彼の左手が視界を塞ぐ。そのまま、そっと頬を包まれて、唇にキスをされた。

「……強引」
「そうかな」
「真冬じゃないみたい」
「……うん。たまには、いいでしょ」

 うん、いいね。
 そう頷く間もなく、再び唇を掬われる。さざ波の音が、二人の静けさを引き立てていた。

「真冬と一緒に、ここに来られて良かった」
「それは、僕も」

 香吏がまだ来ていないことに安堵して、どちらからともなく湖へ向き直る。それでもまだ左手に触れている、布越しの右手が愛おしい。

「私、たぶんもう平気だよ」
「ん?」
「自分で、見るべきものが分かったから。ちゃんと、自分の揺るがない気持ちがあれば、天秤を傾ける必要なんてないんだって」
「天秤?」

 復唱する彼に、私は頷く。

「どちらが正しいとか、どちらの味方をしたらいいとか、傾けなきゃいけないことばかりじゃないから。……誰かが創造する弱さも、苦しみも、自分の秤に乗せる必要なんてないんだって、気づいたの」
「そっか……うん。確かに、そうだね」

 真冬は、優しい眼差しで覗き込む。
 その瞳の奥にもきっと、静かな天秤があるのだろう。彼が、自死を選んだお兄さんを「誰が何と言おうと尊い」と言ったように。

「傾けるだけじゃなくていいって思ったら、未来を、少しは楽しく待てる気がする」

 そう言って真冬を見つめると、彼は大きく息を吸い込む。そうして、しばらくの沈黙が過ぎ去った後で、

「未来を——」

 と、か細い声で反芻した。

「うん。そう。未来を、ね」
「……て、ことは、その——」
「一緒に、長生きしてくれる?」

 訊けば、彼の瞳が静かに揺れる。月明かりが湖に反射するよりも緩やかに、光が及ぶ。けれど、それは一瞬で消えてしまって、私は彼の腕に抱き締められていた。

「……長生き、しよう」

 鼓膜に流れ込む返事を聴きながら、プロポーズみたいだったかな、と今さら顔が熱くなる。

「ケーキセット、もし残しちゃったら、真冬が代わりに食べてくれる?」
「ケーキ?」

 体温が剥がれて、目の前に瞳が甦る。
「そう。もし選択を間違っても、真冬が補ってくれるなら——私はもう、怖くないから」

 これからも沢山間違えるかもしれない。逃げてしまいたいと思う瞬間がまた来るかもしれない。だけどその度に、私は不完全な私自身と向き合っていけるのだと思えた。だって、私はもう一人じゃないのだから。

「いくらでも食べるよ。僕、意外と大食いだから」

 真冬は得意気に笑う。

「いいよねぇ、どれだけ食べても太らない人は」
「臨未ちゃんだってそうでしょ。脚だって、折れそうなくらい細いし」
「見えてるところだけで判断しないでよ。中が大変なことになってるときだってあるんだから」
「確かに。見えてるところだけじゃ、真実は判らないよね」
「でしょ?」

 そう言って眉を持ち上げた直後、風がピュウッと吹いて、(うなじ)から全身へと体が冷えていく。あまりの冷たさに両手をポケットに突っ込むと、少し厚みのある紙の感触が指に伝った。——礼実ちゃんからの手紙だ。

「何か、温かい飲み物でも買ってこようか」
「え?」

 真冬の提案に、私は呆けた声を出す。手紙に気を取られていたせいだ。

「確か、さっき来た道の途中にココアが売ってたよ。自販機の」
「あー……いいね。買いに行こうか」
「いや、でも臨未ちゃんはここで待ってて。辻宮さんが来るかもしれない」

 来る道は同じじゃない?とは思ったけれど、身を縮めることに精一杯だった私は、真冬の言葉に甘えることにする。すんなり立ち上がって、軽々と遠ざかっていく背中を見据えながら、胸が締め付けられる。隣にあった彼の熱が、もう名残惜しかった。

「ハァ——……」

 白い息が舞う。真冬が遠ざかって、初めてしっかり湖を目に焼き付ける。月を呑むような黒い水面とは裏腹に、優しい波紋が薄く広がっている。
 しばらくじっと見つめていた私は、ポケットのなかに仕舞いこんでいた封筒を取り出す。悴んだ指で封を切ると、二枚綴りの便箋が入っていた。
 風に靡く便箋の上で、女性らしい温かみのある文字が整列している。じっくり見たことはなかったけれど、間違いなく礼実ちゃんの字だと判る。

「いつ、書いたんだろ……」

 再び二つ折りにして、目を上げる。そして、縮めていた背筋を伸ばす。先ほどまで規則的に揺れていた波が、不規則に、激しく揺れていたからだ。

「人……?」

 真冬が走っていった方とは逆の方向に目を向けると、人影と、光を反射する何かが見える。既視感を覚えたのは、昨日の夜、ベランダから見えた光とよく似ていたからだ。湖に呑まれない、屈折した鋭い光に——。
 私は手紙をポケットに仕舞い、重い腰を持ち上げる。気づけば、その人影と光に向かって走っていた。

「あの……っ」

 こんなとき、声を絞りきることが出来ないのだ、と実感する。それでもどうにか湖の際に立つ人影を呼び止めた。
 細く、小さなその体は、私のか細い呼び掛けに振り向いた。

「……なに?」

 こちらに向けられているはずなのに、空虚で、何も見ていないかのような瞳が私を刺す。街灯に照らされた青白い少女の顔が、セーラー服の上に乗せられていた。

「あの、……こんなところで、何をしようとしているんですか」

 自分よりも少し幼い彼女は、私の言葉にうっすら笑みを浮かべる。その不気味さに思わず視線を下げれば、細い手首の下に鈍色の凶器が映り込んだ。柄の細い、果物ナイフだ。

「何をしようと(・・・・)、って……おねいさん、分かって訊いてるでしょ」

 固い唾を呑み込む音が、鋭い風に紛れる。

「……ここに、昨日も居ましたか」

 際に近づきながら訊ねると、少女は寒空を突き刺すように笑う。彼女の足元は裸足で、すでに湖に晒されていた。

「居たけど、なに?」
「死にたいの?」
「……すごいね、アナタ。それふつう、オブラートに包むでしょ」

 凶器をプラプラ揺らす手首に、細い筋が浮かぶ。それを断絶するように、いくつもの傷痕が過っていた。いわゆる、リストカットというものだろう。
 それが決して少なくない数だと分かったのは、セーラー服の袖が五分丈で、彼女の腕が綺麗に晒されていたからだ。

「ねえ、寒くないの?その格好」

 夏仕様のセーラー服が、目に痛い。彼女はまるで、屋上に立っていた私のようだ。

「寒いのがね、いいんだよ」

 彼女は言う。

「死体って暖まるとよくないって言うから、腐敗しないように、この場所で、この服なの」
「……学校で、何かあったの?」
「どうして?」
「わざわざ、制服じゃなくてもいいのに」

 スニーカーの中で、細かい粒がジャリジャリと音を立てる。浜に飛び込んだせいで、砂が入ってしまったらしい。
 どうして私は、こんな赤の他人に関わってしまったんだろう。と、思わず目を眇めた。

「この制服が好きだから」
「……うん、可愛いもんね」
「おねいさん、訊いたくせにテキトーだね」

 アハハッ、と乾いた笑いが水面に落ちる。一瞬、足元を見据えた前下がりのボブが、莉亜夢のシルエットと重なった。

「私もセーラー服だから」
「へぇ……もしかして、高校生?」

 頷くと、少女は「いーなー」と水を蹴る。

「高校生なら、すぐに学校辞められるもんね」
「あなたは、中学生?」
「うん。アクマが通う中学校の、優等生」

 振り回している凶器のせいで、とても優等生には見えないけれど。

「アクマが通ってる中学の制服が好きなの?矛盾してない?」
「だって、アクマたちはこの制服を着ていないもの」
「え?」
「これは、私の元居た学校の制服。つまりね、転校生なワケよ。都会から田舎に越してきた、不遇な転校生なワケよ」
「……じゃあ、あなたは都会の、元居た学校に戻りたいんだ」
「んー、残念ハズレ」

 少女は笑う。不敵にも思えるその笑みから、感情は読み取れない。彼女の足元を撫でる湖も、同じ静けさを保っている。

「東京は好きだったけど、あそこはもう私の居場所じゃないもの」
「……居場所?」
「私が居なくたって、あの子達の世界はふつうに廻ってる。遊びに行くから、って言ってたのはぜーんぶ社交辞令だったし、私が消えても何の影響もない。終いには『いいよね、地方の学校って皆優しそうで』って、一番仲の良かった子に言われたの。さすがに笑っちゃった」

 一息に言い終えて、彼女は夜空を仰ぐ。

「優しいのは、この自然だけ。離れた東京の友達も、こっちの同級生も、みんな私のことを記号だと思ってる」

 記号——。その単語を吐く理由が、私には解るような気がする。

「シティーガールだ、とか。東京の子はやっぱりお洒落だよね、とか。自然に囲まれて穏やかな暮らしが出来ていいな、とか。……聞く度に吐き気がするの。勝手に記号化して、分類して——私の声が届く前に、私の存在は消されてた」

 止んだ笑みの代わりに、鋭い眼光が貫く。私は息を呑んで、慎重に唇を割った。

「だからって、諦めるの?」
「……は?」
「記号化して分類してるのは、あなたも同じじゃない」

 寒さのせいか、緊張のせいか、絞り出した声が震える。少女はこちらを見据えたまま、パシャパシャと湖を割って距離を詰める。ナイフを握る手は、小刻みに震えていた。

「なんなの?私が悪いって言いたいの?」
「あなただけじゃない。あなた()間違ってるってこと」

 瞬間、頭にキンッと鋭い痛みが走ったのは、彼女の眼光に貫かれたからかもしれない。私は眉を寄せて、彼女の華奢な肩を掴んだ。

「自分とそれ以外、って。一括りにしているじゃない。それ以外の人間は、皆自分を記号だと思ってるって、決めつけてるじゃない」

 少女の手が、私の手を振り払う。

「一緒にしないでよ!」
「……じゃあ、あなたも自分が完璧だと思わないで」
「はぁ?!なんなのアンタ!」

 激昂が鼓膜を刺す。先ほどよりも鋭い杭が、頭のなかで深く打たれた。
「あなたは、ここに来る前の私と同じだから」

 そう言うと、少女は思いきり眉を寄せる。

「ただ逃げたいだけ。完璧じゃない自分の弱さから、一人一人と向き合うことから逃げたいだけ。誰かと向き合って、傷つくかもしれない未来が怖いだけ」
「何を解った気で——」
「言ったでしょ。……解るって」

 少女の、痩せ細った冷たい腕に掌を沿う。その先で、ナイフの柄に触れる。
 昨日の夜もきっとここに来て、ナイフを翳して、未来に絶望して、迷って、自分の選択を疑って、未来を終わらせたくて、だけどまた疑って——本当は、連れ出してくれることを祈ってた。

「ううん……ごめんなさい。全部は解らない」

 屋上で、真冬に交渉を持ちかけた時のことを浮かべながら、首を振る。

「あなたのこと、何も知らないのに全部は解らない。だけど、私も同じだったって——、それだけは言っておきたくて」
「……なにそれ」

 少女は冷静に訊く。

「私に貼られているラベルだけを指して、決めつけられることが嫌だった。支えだったものを失って、もう立っているのも嫌になるくらい」

 だから——、と私は続ける。

「逃げたかった。私の未来なんて要らないと思ってた。だけど、もしあのとき踏み切ってたら——私は、これから一緒に居場所を探したいと思える人と、出会えなかった」

 メッシュフェンスを越えた先、屋上の、分厚い隔たりが思い浮かぶ。あれに立ち往生していなかったら、真冬が私を呼び止めるよりも前に、私は飛び越えていたかもしれない。

「あなたはラベルでも、記号でもない。私はそれを解ってるし、これから先、きっと出会えるわ」
「そんなの、綺麗事じゃん……」
「うん。だけど、死ぬことは美談じゃない。自分で未来を終わらせるなんて、本当に最低」
「っ……、そこまで言う?」

 少女は半分笑って、半分真顔で私を見上げた。よく見れば、丸く大きな瞳はとても愛らしく、ビー玉のように澄んでいる。

「言うよ。私の親、自殺したんだけど、置いてくなんて本当に最低——って、心のどこかで思ってた」
「うわ……よくもそんな、他人にそんなこと言えるよね」
「他人だからよ。あと、あなたが死のうとしているから、その無惨さを知らしめたいの」
「いい性格してる」
「たぶん、それはあなたと一緒」

 セーラー服のスカートが、冷たい夜風に靡いて揺れる。少女は白い息を吐きながら、「かもね」と頷いた。

「その親のこと、恨んでる?」

 微かに揺れた瞳が尋ねる。

「最低だけど、恨んでなんかない。いや、どうかな」
「なにそれ」
「だって、どうでもいいでしょ」
「え?」
「恨んでも、どんなに人に恨まれても、私にとってはずっと大切だし、……そう気づけたのは、私がいま生きてるおかげ」

 少女は視線を外して「ふーん」と湖の向こうを見る。あっちには太平洋があるのだと、香吏が言っていたっけ。

「だから、終わらせないでね」
「さぁ、それはどうかな」

 湖に顔を向けたまま、少女は片頬を持ち上げる。口調も態度も生意気だけど、最初に振り返った彼女よりも余程感情が浮き出て見える。

「嫌だったら、逃げればいい」

 そう言うと、彼女はこちらに視線を流す。

「生きろって言ったり、逃げろって言ったり、支離滅裂じゃん」
「死ぬことは逃げじゃない。終わらせることだもの」
「へりくつ~」

 語尾を伸ばしながら少女から漏れる笑みに、私はふっと頬を緩ませる。——その瞬間だった。

「いッ…………」
「え?」

 頭の真ん中に、再び杭を打ち込まれるような痛みが強く走る。これまでよりも強く、膨張した血管が裂けていくような鋭さ。薬の効力が切れてしまったとしても、こんな痛みは経験がない。

「ねえ、ちょっと、大丈夫?」

 名前も知らない少女が、心配そうに覗き込む。その瞳が、途端に色を失って瞠られる。肩に触れているのは、彼女の手……、だろうか。

「え…………?」

 耳元で、掠れた声が響いたそのとき、体内にスーッと何かが侵入する。頭痛で朦朧とした意識のなか、冷たいその感触に視線を落とす。

「ど……しよ…………」

 か細く、掠れた声が再び響く。頭痛など忘れてしまえるくらいに、体の中心が燃えるように熱い——彼女の持っていたナイフが、体に突き刺さっていたからだ——。
 そう悟ったときにはもう、目蓋の裏側と湖の境界線が判らなくなっていた。

 石川臨未に抱く感情は、おそらく恋愛に近いものだった。
 人間関係を上手く構築できた試しのない自分に、色恋の理解はハードルが高かったが、()を見ていると沸き上がる羨望と嫉妬は、恋愛感情なくしては説明がつかない。

「あっ、辻宮さん!」

 平均よりも小柄で、華奢な青年がこちらに大きく手を振っている。さざ波と風の音に包まれた夜のなかで、自販機の光だけが彼を照らしていた。

「石川くんは?」

 近寄りながら訊くと、青年はへらりと笑いながら頬を赤くする。

「辻宮さんと入れ違いになったら困るので、ビーチで待っててくれてます。何か温かいものでも買おうと思って」
「なるほどな」
「夕飯は、どうでした?」
「問題ないらしい。部屋が一室空いたんで、宿泊も勧められた」
「えっ、」

 自販機に向けられていた顔が、こちらを向いてピシッと強張る。なんとも分かりやすい。

「俺が泊まるのは都合が悪いか」

 訊けば、青年は視線を落として「いえ」と呟く。しかしすぐに「やっぱり、」と目を上げた。

「困ります。……臨未ちゃんはもう少し、辻宮さんと居たいかもしれないけど、」
「君は、正直だな」
「……いえ。辻宮さんが、格好いいから……僕の余裕がないだけです」
「格好いい?」

 目を眇めると、木の葉の擦れる音が響いて、冷たい風が背中を押す。成人男性一人をふらつかせるほどの威力に、思わず肩を竦めた。

「格好いいですよ。見知らぬ女子高生を助けてしまうところも、臨未ちゃんのために、ここまで車を飛ばして来てしまうところも。……だから、辻宮さんが僕より先に臨未ちゃんに告白してたら、きっと、臨未ちゃんはあなたの事を——」

 青年は、自販機の『あったかい』ラインナップを見据えながら、続きを呑んで息を溢す。もう随分体が冷えてしまったのか、彼の蒸気は透明だ。
 その透き通った色が羨ましく思えるのは、自分の心が濁っているせいだろうか。体だけ大きくなった図体の内側では、まだ過去の傷痕が燻っている。


 物心つく頃から、自分は人とは違うという認識があった。両親のおかげで育ちがよく、英才教育を施されていた事もあり、同世代のなかで教養のレベルは抜きん出ていた。だからこそ、周りに溶け込めないのは自分が特別だからだ、と(おご)っていた。
 中学の頃は特にそれが顕著で、一時期、自分の陰口が教室中に蔓延していることもあった。

 ——辻宮くんって、一人で居るのが好きなの?

 そんな状況下で、とある女子生徒に声を掛けられたことがある。名前は葉山(はやま) 鈴子(りんこ)と言って、器量が良く、明るいクラスメートだった。

 ——嫌いではないが、好きで一人でいるわけではない。教室で一人で居ることに違和感を覚えない人間などいない。つまり、一人は好きだが孤立は嫌いだ。

 一息にそう言うと、彼女は前の席に座って吹き出す。教室内の視線を気にすることなく、豪快に笑った。

 ——辻宮くん、めっちゃ面白いじゃん。
 ——そうか?
 ——うん。なんか思ってたより変っていうか。
 ——思っていたより?それなら、余計に君は離れるべきじゃないのか。
 ——えー、なんで?
 ——俺は“変”だから周りに避けられている。傍にいれば、君も同類だと思われるぞ。

 特別とは、周りから浮いた人間に宛がわれるのではなく、周りよりも秀でた人間のことを言うのだ、と。その時にはもう悟っていた。
 辻宮香吏は、特別ではない——恵まれた環境で育っただけの、欠陥品だ。

 ——こうして近づいてきた人間は大抵、次の日には窓際に戻って、数分にも満たない陰口を叩いて、日常に戻っていく。きっと君も、その一員だろうな。
 ——ふーん。どうして窓際?
 ——君のように明るく、人に馴染むことを好む人間は、窓際に固まる習性がある。まぁこれは、俺の経験から割り出した統計だが。

 そう続けた欠陥品に、彼女はまた笑みを溢した。

 ——なら私は、辻宮くんに太陽の温かさを教えてあげよう。


 叙情的なことを言う人だと思った。けれど、それは適当な励ましではなかった。
 葉山は、休み時間の度に俺の席に訪れるようになり、廊下で友人たちと歩いているときも、俺を見つけて手を振ってきた。クラスの人間はその稀有な出来事に首を捻っていたが、葉山の配慮(・・)に称賛を送った。
 違和感を覚えたのは、ショッピングモールで彼女を見かけたときだ。

 ——こんにちは。

 すれ違いざま、私服姿の彼女に声を掛ける。見開いた瞳と視線が交わり、手を振った。彼女は、一人だった。

 ——……葉山?

 人の流れを塞き止めるように、立ち止まる。ほんの一瞬だったが、彼女の瞳に滲み出ていたものの正体に気がつく。そして案の定、彼女は逃げるようにその場を去った。

 ——辻宮くん、次の小テストさぁ~、

 翌日の教室で、葉山は何事もなかったように俺の席を訪れた。いつもの、太陽の光を思わせる明るさで、にこにことやって来る。
 しかし同時に、彼女に向けられた周りの視線が、俺に何かを知らしめた。

 ——葉山ちゃんは、やっぱり別格だよね。
 ——本当。あんな根暗なヘリクツ野郎と話せるなんて、良い子すぎ。
 ——辻宮さ、絶対葉山ちゃんに気あるよね。てゆーか、あんなん好きにならない方が可笑しいでしょ。
 ——でもダメだよー。葉山ちゃんさ、彼氏出来たばっかじゃん?

 孤立によって培われた地獄耳が、本領を発揮する。いいや、背中に聞く女子たちの会話は、きっと葉山本人にも届いていたはずだ。

 ——おーい。辻宮くん?

 覗き込む彼女に、俺は嘲笑を含めて言った。

 ——君の株上げパフォーマンスに、もう俺を巻き込むのはやめてくれないか。

 思えば、葉山が自分を構う場面には、必ずクラスメートや連れの目があった。“やらない偽善よりやる偽善”という言葉はあるが、彼女のパフォーマンスは俺にとって、何よりも鋭い凶器に思えた。
 結局、彼女も特別になりたかったのだろう。周りから一目置かれたい、という気持ちは決して否定できない。

 ——な、んで……そんな酷いこと……っ。

 けれど、自分の放った言葉で涙を流す彼女を見ても、良心の呵責は覚えなかった。そんな濁りきった心に覚えた呵責が、今でもたまに蘇る。

 葉山鈴子にとって、俺は『利用価値のある弱者』というラベルでしかなかったのだ——ということ、そして自分がその事実に傷ついていたことに気がついたのは、かなり最近のことだ。


「真冬くん。勝負をしようか」

 自販機の前で未だ悩んでいる青年に、そう切り出す。彼は瞠目して、こちらを振り向いた。

「えっ、勝負?ですか?」
「ああ。見たところ、君は石川くんに渡す飲み物を迷っているのだろう」

 大きな瞳が、ギョッと飛び出しそうになる。

「彼女がどちらを選ぶのか、勝負しないか。君が買ったものと、俺が買ったもの。もしも俺が買ったものを選んだら、宿に泊まることを許可してほしい」

 我ながら、らしくない。それほどに、石川臨未の存在は貴重なのだと思い知る。彼女と過ごす時間は、青春をやり直すよりもずっと価値がある——そんな言い方をしても、彼女は「当たり前でしょう」と得意気に笑うのだろう。過去の、濁り切った思い出を打ち明けても、ハッキリ物申してくるのだろう。
 思えば、俺はまだ彼女に、自分の過去をしっかり打ち明けたことがなかったな。

「……分かりました」
「ありがとう」

 勝負を受け入れた青年に感謝を述べて、先に硬貨を投入する。俺が選んだのはコンポタージュで、彼が選んだのはココアだった。

「意外ですね。辻宮さんは絶対、紅茶とかコーヒーを選ぶと思ってました」
「それはどうして?」
「だって、一緒にカフェに行ってたなら、その辺の趣味は分かるものかと」

 湖に沿って歩きながら、青年は彼女のココアと自分のミルクティーを器用に抱える。手袋に包まれている片方の手が、体温を感じられないということを、すっかり忘れてしまいそうだ。

「石川くんは甘党だが、先ほどケーキを食べたからな。甘いものを食べると塩気が欲しくなると、前に熱弁していた」
「わ……その情報は先に欲しかった」
「ところで、彼女はどの辺にいるんだ」
「確かもうすぐ、あっちの石段の方に——、」

 手袋に覆われた右手が、街灯に照らされたビーチを指す。しかしそこに人影はない。代わりに月明かりを反射する湖が、不自然に、パシャリと揺れる。

「あれ…………臨未ちゃん、と、」

 隣で、缶が地面に弾ける。落下の瞬間をただ呆然と眺めてから、彼が湖に向かって駆け出したことを悟る。
 その方向には、湖の際に立った二つの影が重なっていて、その内の一つは項垂れていた。

「……っ」

 状況を把握できないまま、地面を蹴って走り出す。砂浜に取られる足が煩わしい。

「たすけて…………早く、おねいさん、たすけて……っ」

 青年が立ち止まった先で、項垂れる一人の少女。それを支えているように見える、別の少女。彼女は季節を履き違えた格好で、腕を晒している。

「のぞみ、ちゃん…………?」

 呆然とする青年を押し退けて、湖に足を踏み入れる。少女を支える少女は、ただ夜空に向かって、先ほどと同じ言葉を唱えている。
 そして彼女の、晒された細い腕が月に照らされ、俺は息を呑んだ。

「……真冬くん。救急車だ」

 血に染まる腕から、項垂れた少女の体を引き受け、仰向けに寝かせる。その体の中心を貫いたナイフの柄が、真っ直ぐと立っている。

「救急車だ——!」

 俺は叫んだ。青年はようやく我に返り、スマホを光らせる。その横で倒れ込む小柄な少女を捉えながら、額を抱える。

「まだ………何も、伝えていないんだ……」

 荒んだ吐息は、ただ、さざ波の上に溶けていくだけだった。

 *

 臨未ちゃんへ

 こんにちは。体調は変わりないですか?
 いきなりだけど少しだけ、私の話に付き合ってください。

 旅行に行くと聞いて、保護者として止めるべきか、本当は迷っていました。
 ドナーになったと聞いてから、臨未ちゃんを気に掛けていたつもりだったけど、私は何も見えていなかったような気がしています。ずっと、貴方や歩睦くんを正しく導かなければと、そんなことばかりを考えて、心に触れることを避けていました。
 臨未ちゃんがこの家に来てから、長い間留守にするのは初めてだったので、実は今もすごく焦っています。こんなときになっても、貴方の両親の顔が一番に浮かんでしまうのは、まだ私が保護者として未熟な証拠だと思います。

 高校生の貴方に、沢山のものを背負わせてしまった。その分、自由にさせてあげたいと思っていたけれど、それは、罪悪感を消すための建前だったのかもしれません。家族なのに、話を聞くことも、話をすることも出来なかったことが、一番悔やまれます。
 だけどもし、この家出が臨未ちゃんの小さな反抗なのだとしたら、私は嬉しく思います。貴方と向き合う機会と、自分自身に向き合う機会をくれたから。

 帰ってきたら、話をしましょう。話しにくいのなら、手紙でも大丈夫です。ボーイフレンドの話でも、もちろん。
 アップルパイを焼いて、貴方の帰りを待っています。

 礼実


 ————……。

 目蓋を持ち上げると、磨りガラスのようにボヤけた景色が視界を占める。それもしばらく時間が経てばクリアになって、真っ白な空間に包まれていることを理解した。
 辛うじて横目に映っているのは、点滴だろう。私は、病室に寝かされている患者のようだ。だけど、隣で聴こえる音はなんだろう。シャリ、シャリ、と響く音が、捉えきれない視界の端にある。
 私は体を起こそうと、ぐっとお腹に力を入れた。

「いぃっ……つ……」

 すると、鋭い痛みが走って、声が漏れる。

「えっ……臨未ちゃん?!」

 お腹を押さえて縮まる私を、誰かが覗き込む。その声を聴いて、私はまだ(・・)民宿にいるのかと錯覚した。視界に映ったのは、女将さんの顔だったからだ。

「意識、戻ったのね。良かったわ……」

 女将さんは私の肩を支えながら、安堵の息を吐いて言う。どうやら、しばらく意識を失っていたらしい。

「あの……ここって……」
「病院よ。ちょっと待ってね、いまナースコールを押すから」

 痛みが収まってきたところで、私は再び仰向けになる。シャリ、シャリと響いていたのは、女将さんがリンゴを切ってくれていた音のようだ。
 小さなまな板に寝かされた、果物ナイフが白い照明を反射する。無意識に目を眇めると、女将さんは何かに気付かされたように、ハッと息を呑み込んだ。

「ごめんなさい……、これは仕舞っておくわね」

 そう言うと、ナイフを急いでタオルに包む。その行動の意味を理解したのは、看護師さんから寝込んだ事情を聞いた後だった。


「——石川さんを刺してしまった子は、今別室で寝てるんです。ちょっと精神状態が普通じゃなくて、会うことは出来ないけど、石川さんが生きていると知ったらきっと、安心すると思いますよ」

 看護師さんの言葉を反芻しながら、湖での出来事を思い出す。あの子は、しっかりすべて(・・・)を伝えられたのだろうか。故意ではなく、誤って刺してしまったのだ——と。

「臨未ちゃん。叔母さんにも連絡させてもらうけど、大丈夫ね?」

 リンゴを小さな皿に盛った後、女将さんは言う。 
 寝込んでから、まだ二日しか経っていないと聴いたけれど、私が身元を偽っていたことはすでにバレてしまっているのだろう。
 罰が悪いまま私は頷き、スマホを耳に病室を出ていく女将さんと、窓の外を交互に眺めた。
 昼下がりの空を、電車が一直線に通過する。その高架線を囲うように建物が並んでいるので、ここは浜名湖の周辺ではなく、街中の病院なのだと判った。

「叔母さん、今日のうちには来られるって。すごく安心してたわよ」
「……そう、ですか」

 電話を終えた女将さんが、カーテンを丁寧に閉じて隣に座る。

「ここ、浜松駅の近くでね。叔母さん、仕事を早退して来てくれるって」

 なんとなく、胸が騒ぐ。同時に、夢の中で巡っていた手紙のことを思い出して、私は上着を探した。たしか、あのポケットに入れていたはずだ。
 女将さんに訊いてみると、上着はベッド横のクロークに入れてあったらしく、ポケットには思っていた通り手紙が入っていた。

「それ、叔母さんから?」

 女将さんは、優しく目を細めて訊ねる。

「はい。……一応、中は見たんですけど、あまり内容を覚えていなくて」
「無理もないわ。大変だったもの」

 手紙を握った手で、刺されたところをゆっくり擦る。刺し処が違っていたら、刃渡りの大きいナイフだったら、救急車の到着が遅れていたら——この命はいま、無かったかもしれないのだと、看護師さんは言っていた。

「そういえば、その……」

 目を上げて切り出したものの、私はすぐに口籠る。すると、女将さんは何かを察したように優しく微笑んだ。

「真冬くんと、辻宮さんのことね」
「え……」
「大丈夫よ。真冬くんとは兄弟ではないってことも、事情があったことも、二人からちゃんと聴いているから」

 二人のことだから、きっと深いところまで話してはいないのだろう。それでも女将さんは「大丈夫よ」と何度も頷いて、私の罪悪感を和らげてくれた。

「ごめんなさい。嘘をついて」
「いいのよ。私も、臨未ちゃんと話せてすごく楽しかったもの。それとね、あの二人とも色々話したのよ」
「え?」
「臨未ちゃんが一命を取り留めたって聞くまで、二人ともずっと手術室の前から離れなかったんだけど……どうにか、って聞いて安心したのか、モリモリご飯食べてたわ」
「モリモリ……」
「さすがは食べ盛りね。そのときね、真冬くんが言っていたの。臨未ちゃんは、一度家族でうちに来てくれたことがある、って」

 そういえば、そんな話をしていたっけ。数日前のことなのに、遥か昔のことのように感じられる。

「臨未ちゃんは、あのときの(・・・・・)臨未ちゃんだったのね」

 その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。女将さんのなかに、幼い頃の自分と今の自分が同時に映されているような、不思議な気持ちになった。

「お味噌汁、一人で作れるようになっていたのね。ずっと、覚えていてくれたのね」

 女将さんの、目尻に刻まれた皺が深くなる。こちらこそ、と言えば、彼女は笑みを溢しながら真冬と香吏の話を続けた。

「出来る限り傍に居たいって、二人とも宿に残ろうとしてたのよ。本当にもう、愛が深くて」

 楽しそうに、女将さんは言う。

「だけど、叔母さんとバトンタッチ出来ることになってね。二人とも学校があるっていうし、辻宮さんの車で一昨日、帰ったところ」
「そうだったんですね」

 礼実ちゃんは仕事を抜けて病室を訪れ、時間の許す限り、私の手を握ってくれていたらしい。

「だけど、今日はどうしても外せない仕事があるって、私に相談してくれたの。私も二人の代わりに、って言ったらなんだけど、毎日来させてもらってたから」
「えっ……でも、民宿は?」
「大丈夫よ。私にも、ちゃんと頼れる人がいるから」

 その言葉に、私は安堵の息を吐く。そして、再び手紙に視線を落とした。

「ここに来て、私も気付きました。ちゃんと、頼ることの出来る人は傍に居たんだって」

 女将さんは深く頷き、ふんわりとした小さな手を私の手に重ねる。その温度に、不安が溶けていくような気がした。


 礼実ちゃんが病室を訪れたのは、午後四時を回る頃。西日が眩しくて、カーテンを半分閉めたところだった。

「良かった……、本当に」

 礼実ちゃんはグレーのスーツ姿で、隣の椅子に腰を下ろす。久しぶりに交わる視線が、心臓の鼓動を速めた。

「ごめんね、心配掛けて」

 唇から漏れる声が、少し裏返る。礼実ちゃんはふっくらとした唇を緩めて、ペットボトルを差し出した。そういえば、声も少しガサついている。

「心配だったよ、ずっと。家出なんて、初めてだったから」

 家出——。気恥ずかしそうに、だけど真っ直ぐこちらを見据える礼実ちゃんの言葉に、手紙の文字が起こされる。

「礼実ちゃん。手紙にも書いてあったけど、私、家出だなんて言ってないよ」
「そうだけど、家出っていうのは家を出られた人がそう感じたら、もう立派な家出だよ」
「え、何それ。どんな定義?」
「あなたのお母さんが、そう言ってたの。むかーし、私が彼氏と駆け落ちしようとしたときにね」

 そんなことがあったのか。おっとりとした礼実ちゃんでも、駆け落ちしようなんて思うのか。と、私は思わず身を乗り出す。
 だけど、その反動でまたお腹が痛んで、軽く身を縮めた。

「ダメよ、無理に動いたら」
「うん……ごめん、つい忘れちゃって」

 礼実ちゃんに支えられながら、再びベッドに横たわる。そのときに感じた礼実ちゃんの衣服の香りが、昔の些細な出来事を思い起こした。

「礼実ちゃんにさ、昔、看病してもらったことあるよね」
「え?」

 私が切り出すと、礼実ちゃんは眉を持ち上げる。

「お母さんたちが死んじゃった後、すぐにインフルエンザに罹っちゃって、礼実ちゃんが看病してくれたの。すりリンゴが美味しいって言ったら、大量にすってくれて」

 女将さんが切り分けてくれたリンゴを、礼実ちゃんはそっと見据える。女将さんは、私の好物だから、と礼実ちゃんから言付かっていたそうだ。

「うん。私も覚えてる。臨未ちゃんが、初めて甘えてくれたと思ったから」
「……私は、ちょっとだけ居心地が悪かった。来たばかりの家で、迷惑を掛けてることが居たたまれなくて」

 リンゴだって、本当はそこまで好きじゃなかったのに「美味しい、美味しい」と嘘を吐いた。礼実ちゃんの衣服から漂う知らない香りに、心はずっと落ち着かなかった。

「うん。知ってたよ」

 礼実ちゃんはゆっくりと、一つ瞬きをする。あのとき、私を看病してくれていたときから、礼実ちゃんは随分と痩せていた。

「臨未ちゃんと歩睦くんがどうやったら心を開いてくれるかって、考えても考えても空回りで。でも、二人は良い子だから、ちゃんと家族でいようとしてくれて——」
「良い子なんかじゃないよ。……私は、ずっと避けてた。ずっと、お父さんとお母さんの影ばかりを追って、新しい生活に馴染むことを拒んでた」

 初めて打ち明けた本音に、礼実ちゃんは口を結ぶ。泣くのを必死に堪えている表情だった。

「だから、早く大人になりたくて、二人の手を離れたくて、ドナーになったの。礼実ちゃんが、私たちのために無理して働いているのが苦しくて、少しでも離れなきゃって……」

 刺された傷痕から、じわりと熱が込み上げる。絡まった糸を解くために、布団のなかに忍ばせた手紙を、お守りのように握りしめる。

「だけど、本当は寂しかった。……勝手だと思うけど、私は何かに寄り掛かりたくて——寄り掛かって、ほしかった」
「臨未ちゃん……」

 溜めていた涙が頬を伝うと、礼実ちゃんの腕が私を軽く抱き締める。こんなに細い腕で、私たち家族を守ろうとしてくれていたのかと、また涙が溢れ出した。

「ありがとう。話してくれて、ありがとう」

 礼実ちゃんの、鼻をすする音が傍で響く。

「私はダメだな……。臨未ちゃんの方がよっぽど、勇気がある」
「え……?」
「全部、先に言われちゃった。さすが、お姉ちゃんの娘」

 礼実ちゃんは私の頭を撫でた後、呼吸をそっと一つ置く。

「それとね……、臨未ちゃんが寝ている間に、判ったことがあるの」

 と、体を解放しながら言う瞳は、強い意志を含んでいる。私は頷いて、先を待った。

「臨未ちゃんを刺してしまった女の子が、意識を失う前に言っていたの……貴方が、倒れたところを支えたって」

 湖に浸った、季節にそぐわない格好の少女を浮かべる。そういえば、ナイフが突き刺さったと理解する寸前、猛烈な頭痛が襲ってきていた。あの少女は、そんな私に手を差し伸べる過程で刺してしまったのだ。

「それでね。検査をしたら、脳脊髄液が減少して頭痛を引き起こしているって、判ったの」
「脳脊髄液……」

 その単語は聞き覚えがある。ドナーとして才能を移植するために、吸引する液体のことだと、手術の前に説明を受けた。
 礼実ちゃんは反芻する私の横で

「才能移植の後遺症——、そう診断されたの」

 と、慎重に告げる。

「後遺症……?」
「そう。放っておけば、大事に至ることもあるって」

 実直な瞳が、唖然とする私を貫く。

「お腹の傷が完治したら、後遺症の治療を受けてほしいの」

 と、ハッキリとした口調で告げた。私に迷う余地を与えないと言うように、目を逸らさなかった。

「だけど……それって、治療にはまたお金が——」
「なんのために、私が働いてると思ってるの」

 礼美ちゃんは、私の反応を予測していたかのように被せると、すぐに頬を緩めた。

「家族より大切なものなんて、私にはないの。だから大丈夫。それに……ずっと、考えていたことがあるから」

 ——私たち、ちゃんと話をしよう。

 手紙に綴られた言葉をなぞるように、礼実ちゃんは言う。向けられた笑顔は、陽だまりのように優しい温度で、私の隙間を埋めてくれたような気がした。

 *

 窓際の席からは、駿河港がよく見える。三年になってからは教室のフロアも一段上がったので、眺めは最高だ。
 退院から約一ヶ月が経った春の日、船の出航の合図が真昼の空を貫くように、ポーッと響いた。

「臨未ー、今日お弁当?」
「ううん。これから購買行くとこ」

 昼休みに入り、美世に訊かれて答えると

「じゃあ私も」

 と、莉亜夢も傍にやって来る。幸いにも、二人とは三年になっても同じクラスだった。

「でも珍しいよね。臨未がお弁当じゃないの」

 賑わう廊下を歩きながら、莉亜夢が言う。彼女は三年になってから、ボブへアを一つに結うようになっていた。

「確かに。いつも美味しそうだよねぇ~、臨未のおべんと」

 同意する美世は、反対によく髪を下ろすようになった。
 彼女の想い人である吉川が「ストレートロングが好みだ」と聞き付けたからだと言う。私の元彼だということは打ち明けてられていないけど、最近楽しそうな美世を見ていると、素直に嬉しかった。

「いま引っ越しで忙しくて。うちの礼実ちゃん、キャリアウーマンだからさ」

 私がそう言うと、二人は「ああ」と納得する。

「マンションだっけ?次」
「うん。ちょっと手狭になるから、歩睦と部屋は共同なんだけど」
「わっ、それ、歩睦くん嫌がるんじゃなーい?」
「大丈夫だよ。歩睦はお姉ちゃん子だし、いざとなったら仕切りも作るし」

 得意気に言うと、二人は笑う。その笑顔に囲まれて、私もつられるように微笑んだ。


 ——ずっと、考えていたことがあるから。
 あの日の病室で、礼実ちゃんは今後のことを話してくれた。

 ——あの家を売って、手頃な中古マンションへ引っ越そうと思っているの。

 と聴いた時には驚いたけど、礼実ちゃんはもう心を決めていた。

 ——マイホームは夢だったけど、私がいま大切にしたいのは私の夢じゃない。私たち家族の未来なの。……だからね、臨未ちゃん。迷惑を掛けてるだなんて、絶対に思わないでね。

 これまですれ違っていたはずなのに、私たちが大切にしたいものは同じだった。咎めるでもなく、諭すでもなく、ただ実直に決意を述べる礼実ちゃんに、私は深く頷いた。

 “脳脊椎液減少症”という診断を正式に受けて数日間、私は治療のためにしばらく浜松の病院で過ごすことになる。
 病室に来てくれた歩睦が、震えた声で

 ——こわかった。

 と溢した。ずっと、何があっても『怖い』と口にすることを我慢していた弟の手が、私の手を力一杯に握りしめた。胸が、同じように強く締め付けられた。

 ——お姉ちゃんが……いなくなっちゃうのが、怖かった。
 ——ごめんね……ごめんね、歩睦。

 まだ小さな体を抱きしめながら、死を選ぼうとしていた自分自身に私は怯えた。小さな体温に触れて、歩睦を守ることが出来る今の自分に、生きていて良かった、と素直に思えた。

 美世と莉亜夢がお見舞いに来てくれたのは、治療が終わった後のこと。もう一つの絡まった糸を解くように、これまでの事を沢山話した。
 真冬との事を打ち明けたときには、二人とも身を乗り出して

 ——臨未に彼氏?!

 と、病室に響き渡るほどの声を上げていた。全てではなくても、二人に知ってもらいたいことは沢山あったのだと、楽しそうな二人を見て気がついた。
 身勝手に下ろしていた緞帳が、ゆっくりと開いていく——そのことを、早く真冬にも伝えたかった。


「えっ、二人きりじゃないの?」

 購買で買い込んだパンを机に並べた後、美世は席に着くなり目を瞠る。莉亜夢もその反応に同意するように頷いた。

「うん。香吏くんも時間が合うって言うから、一緒に会おうって」

 放課後の予定を伝えると、二人は複雑そうに顔を歪める。大学生になった真冬と、院二年生になった香吏とカフェに集合、というのが、どうにも解せないようだった。

「だってさ、真冬先輩と会うの久々なんでしょ?!」
「うん。お見舞いに来てもらって以来かな」
「それなら尚更、二人で会いたいんじゃない?」

 美世と莉亜夢はパンを頬張ることも忘れて、私に詰め寄る。
 先月退院してから、私は引っ越しの準備で、真冬は入学準備でなかなか時間が合わず、確かに今日は久々の再会だった。けれど——だからこそ、二人きりではない方がいい。

「だって……二人だと、なんか気まずくて」

 ポツリと落として、メロンパンを一口齧る。目を上げれば、二人は顔を見合わせて笑っていた。

「なんでよ、付き合ってるんでしょ?」
「いや……実はその辺も、ちゃんと付き合うってお互いに合意した訳じゃないし」
「合意って!」

 再び顔を見合わせて吹き出す二人。私は少しむくれながら「だって」と続けた。

「病院で会った時も、電話で話した時も、そんな話一度もしてないし」
「いや、でも好き同士なんでしょ?」
「……そう、だと思うけど、」
「よしっ。もう今日訊く!中途半端なその状況、かなりヤバいから!」

 美世は脅すように言い放つ。

「確かに、真冬さんイケメンだもんね。大学じゃモテてるんじゃないかなー」

 と、莉亜夢までそれに乗っかる。打ち解けてからの二人は、なぜかたまに意地が悪い。

「……それは……困る」

 私は口を窄めたまま、小さくそう呟いた。

 *

 待ち合わせ場所は、香吏との行きつけだったカフェではなく、私が新たに発掘した公園沿いのカフェだった。商店街を抜けると、街路樹からカフェの看板がこちらを覗く。

「臨未ちゃん……?」

 声を掛けられたのは、カフェに行き着く寸前の横断歩道で、信号待ちをしていたときだ。私は隣に並ぶ彼を見上げて、ぎこちなく笑った。

「……久しぶり。真冬」
「うん、久しぶり」

 白のインナーに、ベージュのカーディガンを合わせたコーディネートが、童顔な彼を大人びて見せる。思わず見入っていると、真冬は口元を手で覆った。

「そんなに見られると、恥ずかしい」
「え?あ……うん、ごめん」
「いや、いいんだけど……」

 耳を赤くする反応が、こちらにも伝染する。会っていない間に身長も伸びたのか、見上げる角度にも違和感を覚えた。なんだか、調子が狂う。

「臨未ちゃん、体は大丈夫?」

 青信号に変わって、同時に歩き出す。

「うん。しばらくは定期検診に行かなきゃだけど」
「そっか。それなら良かった」
「……なんか、見ない間に大人っぽくなったよね」

 横目に見上げながら呟くと、真冬は「ほんと?」と嬉しそうに眉を持ち上げる。

「大学生が板についてる感じ。……あそこで見てた私服姿と、全然違う」
「あそこって、浜名湖?」
「うん。そう」

 何故か面白くなくて、ぶっきら棒な受け答えになってしまう。その事に気付かない真冬は、また嬉しそうに頬を緩めた。

 ——大学じゃモテてるんじゃないかなー。

 昼休みに聴いた言葉が、こんなタイミングで蘇る。

「真冬」

 カフェに着く寸前で立ち止まると、真冬は首を傾げて振り返る。制服姿の自分が、途端に幼く思えて仕方がない。

「私は——真冬のことが好き」

 唇が、静かに震える。どうして今、涙が溢れそうになるのだろう。あのとき、一緒に湖を眺めた事が、ひどく儚い夢のように感じられたからだろうか。
 けれどその夢を覆うように、突然体が締め付けられる。真冬に抱き締められているのだと悟ったとき、耳に彼の吐息が掠めた。

「ずっと、会いたかった。早く会いたかった。臨未ちゃんの顔を、ずっと見たかった」

 やっと会えた——。そう呟く声は、今にも消え入りそうなほど儚い。けれど、肩に伝う義手の感触が、現実だと教えてくれる。

「ずるいよね……辻宮さんは、臨未ちゃんにすぐ会えるんだから」
「それは、嫉妬?」
「うん。悪い?」
「ううん。……でも、妬く必要はないと思う」
「ん?」
「それより、真冬——」

 肩をゆっくり剥がして、彼の大きな瞳を見上げる。子犬のようなその瞳は、前からずっと変わらない。

「私たち、どういう関係?」
「え?」

 寝耳に水、とでも言いたげな表情で、真冬は呆ける。私は軽く眉を顰めた。

「そこ、ちゃんとしてくれないと、不安なんだけど」
「それは、僕の方こそ——、」

 真冬は半端に言い留まった後、私の手を握って息を吐く。一度下がって、もう一度私を捉えるその双眸に、なぜかドキリと脈が沈んだ。

「あの湖が海に繋がっているって聴いて、安心したんだよ」

 真冬は、優しい口調で切り出す。私は「安心?」と復唱した。

「うん。あの場所で臨未ちゃんと過ごした時間が、あのとき限りの事じゃなくて、ちゃんと今に繋がるんだって思えたから」

 湖は、切り離されている訳じゃない——。そう続けた真冬は、手を一層強く握りしめる。

「臨未ちゃんが血を流しているのを見たとき、本当にいなくなってしまうって思ったら、頭が真っ白になった。臨未ちゃんが、今ここに戻って来られてなかったら——僕はきっと、あの場に取り残されたままだった」
「……うん」

 ぎゅっと握られた手を、同じように握り返す。目を上げて交わった瞳は、湖の波紋のように、緩やかに揺れていた。

「——臨未ちゃん。僕と、付き合ってください」


 約束していたカフェの戸を引くと、見通した先に香吏はいない。まだ来ていないのか、と店員さんに声を掛けようとすると、横で

「石川くん、こっちだ」

 と、席についた香吏が手を上げていた。いつもは座らないはずの窓際に、彼と一人の少女(・・・・・)が同じ方向に座っている。

「えっ、臨未ちゃん、あの子って——」

 真冬が、その少女を視界に捉えて言う。私はそれに頷き、二人の正面の椅子を引いた。向かいに座る私服の大学院生と制服女子の組み合わせは、なんだか異質だ。これまでの私と香吏も、そう見えていたのかもしれない。

「待たせてごめんね。注文は?」
「俺たちもこれからだ」
「ん、分かった」

 私はメニューを四人の真ん中に広げる。各々注文を済ませてから、少女は真冬と私を交互に見てにやついた。

「ふうん。おねーさんってこういうタイプが好きなんだぁ」

 頬杖を突くその姿には、最年少ゆえの花がある。新品のブレザーはよく似合っているし、ウルフカットに映える彫りの深い顔立ちは、周りの目を惹き付けるくらい美しい。
 手首までしっかり伸びたブレザーを着る彼女は、湖で会話をした少女だった。

「臨未ちゃん、この子って、」

 真冬は先ほどと同じ言葉で、私に耳打ちする。それが聴こえたのか、

矢吹(やぶき) 伊桜(いお)っていうの。伊豆の伊に、桜ね」

 と、少女は淡々と名乗った。

「初めまして。朝倉真冬です。真実の真に、冬で真冬」
「へぇー、寒そうな名前」
「ああ……、よく言われるよ」

 真冬は苦笑を貼り付けて、テーブルに置かれたカプチーノを啜る。どう説明しようかと迷っていると、香吏が先に唇を割った。

「矢吹くんと、石川くんと三人で、最近はお茶をすることが定例だったんだ。まあ、ここ二週間くらいの話だが」
「うん。そう。伊桜ちゃんの意識が戻った後、私が何度か会いに行ってたの。同じ病院内だったし」

 香吏の説明に付け加えると、真冬は

「なるほど……」

 と言いながら首を傾げる。私が刺されたときのことは、不慮の事故であると彼も知っているけれど、私と伊桜の関係については理解が追い付いていないのだろう。

「おねーさんたち(・・)には借りがあるからね」

 と、伊桜はクリームソーダのクリームを頬張る。

「私が“ふきそ”になったのも、おねーさんと香吏くんが色々証言してくれたおかげだし。うちの親にも警察にも、話してくれたの」

 伊桜の病室を、初めて訪れたときのことを思い出す。気力を失っていた彼女は、両親に付き添われながら、体格の良い警察官から取り調べのようなものを受けていた。
 ちょうど香吏が見舞いに来てくれていた時だったのは、幸いだったと思う。彼もその場に同行してくれた。

 ——石川臨未を刺してしまった後、彼女は駆け寄った僕たちに助けを求めました。故意でないことは明確であり、石川臨未にも倒れた原因があったことも、警察の方ならすでにご存知でしょうが。
 ——それに、ナイフを持参していた理由は、彼女の手首の傷痕を見れば分かると思います。まずは、心身のケアが第一じゃないですか。

 私の台詞は加勢に過ぎないけれど、あのときの伊桜には神のようにさえ思えたのだと言う。
 その後、両親から「転校」を提案された、と私の病室を訪れた彼女は、随分と血色も良くなっていた。

「おねーさんにすぐ会えるとこがいいって言ったら、浜松駅の近くに越してくれたの。転校も許してくれた。まぁ、ここまで電車で一時間以上かかるのは怠いけどね~」

 伊桜は、先週切ったばかりの髪を指先で摘まむ。すると今度は両手で頬杖を突きながら、黒い瞳で私を見つめた。

「受験するなら、おねーさんと同じ高校にする」
「え……でも私、来年から大学生だよ?」
「え、ここ離れんの?てか、どこの大学行くの教えてー」

 伊桜がテーブルに放った私の手を包む。私は隣を一瞥して

「真冬と、同じとこ」

 と、俯き加減で告げた。目の前で、二人の双眸が見開いている。

「志望理由、めちゃくちゃ不純じゃない?」
「だな」

 と、二人は顔を見合わせる。それを言ったら、伊桜だって同じだと思う。

「てゆーか、それまでに別れたら——」
「別れないよ」

 静かに、真冬が伊桜の言葉に重ねる。真っ直ぐと二人を見据える瞳に、揺らぎは一つもない。

「僕はけっこう独占欲が強いみたいだから、傍に居てくれないと困るんだよね」

 そんなことまで言わなくていい、と止める前に、真冬は香吏に視線を向けた。顔が燃えるように火照っている。

「僕が臨未ちゃんに会えない間……辻宮さんと、二人で会っていたわけじゃないんですね」

 大人びた彼は、どこか感情が剥き出しで、だけどそれも悪くない。香吏も少し目を丸くして、息を落とした。

「ああ。どうやら彼女は、ココアが好きなようだしな」

 と、香吏は私のカップを見据える。そこには飲みかけのココアが、照明を反射していた。

「まあ、ここにコンポタージュはありませんから」
「では、まだ判らないな」
「……そうとは言ってませんよ」

 しばらく続きそうな二人の会話を横に、ココアを啜る。少し温くなった甘さが、舌にねっとりと溶けていく。

「意外と仲良いんだなぁ」

 伊桜が、まだ会話を続ける二人を見て、神妙に言う。

「意外と?」

 訊けば、彼女は「鈍感」と笑みを溢した。

 カフェの窓から木漏れ日が差し込んで来た頃、真冬が鞄から何かを取り出す。オレンジと深い緑が交錯した模様は、よく目にしたことのあるデザインだ。

「スケッチブック……?」

 尋ねると、彼は頷いて表紙を捲る。右手に鉛筆を持つと、私を見て頬を緩めた。

「約束、ずっと果たせてなかったから」

 でも、それは——と、声に出す前に彼は言う。

「臨未ちゃんが好きだって言ってくれる絵を、僕は描きたい。巧くはいかないかもしれないけど……完璧じゃなくても、君が好きだって言ってくれる絵を描きたい」

 手袋に覆われた右手が、鉛筆を握ったまま小刻みに震える。私はその手を両手で包み、頷いた。
 初めて出会ったとき、自分を殺めてもらうために——と願った彼の意思が、今は私を導くように光を灯す。海底に沈んでいた私は、もう手を伸ばす方法を知ってる。

「うん。描いて」

 そう笑えば、彼は鏡のように私の表情を反射する。
 しばらく見つめあっていると、正面から

「マジもん初めて見たよ、バカップル」
「やはり俺は邪魔者か」

 と、苦笑を含んだヤジが飛ぶ。私たちは繋いだ手を剥がし、眉を下げて笑い合った。


「臨未ちゃん、ちょっとそのまま」
「こう?」
「うん。そう」

 シャッ、シャッ、と不規則にスケッチブックを擦る音。たまに苦しそうに、たまに楽しそうに、義手を動かす表情、仕草。カフェに流れる、私の好きな歌——。

「いい表情」

 そうして私を見つめる両目は、やわらかな静寂を纏っていた。


 ——End.

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